寄稿 Contribution

主は水辺に立った −トリエント典礼について−

増田  洋

 

7. むすび

トリエント・ミサは現在の公会議後のミサを排除するものではありません。ただ、時にトリエント・ミサを実現させて見ようと具体的に考えるとき、いろいろな困難に出会います。それを「だから、できない」という理由に利用するのではなく、「どうすれば、できるか」を考えて行くときに、ある概念に行き着きます。現在の第二ヴァチカン公会議後のミサをよくするために、「わかる、わからない。」、「見える、見えない。」、「聞こえる、聞こえない。」、「皆が歌える、歌えない。」、「参加意識をもたせる、もたせない。」等々が最大の関心事となっていますが、そのことが、本当にミサに最も大切な要件であるのかを立ち止まって考えさせてくれます。それも大切なことですが、そのことだけに、こだわるばかりに、ミサの本質が忘れられたり、言語や聖歌に制限を加えて、頭で考える以外の、五官から感じ取るミサの豊かさを損なったりしていないかと言う反省です。

トリエント・ミサを今すぐにささげようとする前に、「バタ臭い」、「横文字」、「金髪」といった西洋蔑視の言葉が日常に使われていた40年以上前の日本や日本人のフィーリングをベースにして前衛的思想のもとに、学者や専門家によってアレンジされ、構築された日本の第二ヴァチカン公会議後の典礼を見直す必要があります。言語や聖歌の制限をはずして、信徒がラテン語やグレゴリオ聖歌を五官で体験して、その良さを知ることもできる機会を努めて増やすとともに、日本だけでしか通用しないローカルなルールを取り除いて、ローマ・ミサ典礼書 規範版に忠実な、21世紀の国際社会に通用するミサに脱皮させることが第一歩かと思われます。

「沖にのり出して、あみをおろして漁をしなさい」と主イエズスがおおせになったとき、「先生、私たちは夜じゅう働いて、何一つ取れなかったのです。けれども、おことばですから、あみを降ろしてみましょう」と答えたペトロのことばを模範とすべき時期が来ているようにも感じます。 (2008629日 聖ペトロ・聖パウロ両使徒の祭日に)

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