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死ぬかと思った3

20年以上前になるが、交通事故で死にかけたことがある。
11/23秋分の日、家内との結婚を決意して、両親に報告に行こうと単身旭川から札幌への道すがら。いつ雪が降り始めてもおかしくない時期だった。研修医時代で仕事が忙しく、タイヤの交換もするにも、お店が開いている時間に病院から出ることもままならなかった。急に雪が降りだすことも考え、やむなく出発時に、タイヤを車に積み込んで出発した。不安が的中し、出発時の雨が、途中で雪に変わってきた。また雨に変わってくれればという淡い期待はあっさりと裏切られ、ワイパーの早回しでも視界が遮られるような本降りになってきた。こうなるとタイヤを交換しなければブレーキを踏んでいても滑ってしまう。この時期は初雪もまだで、夏タイヤの車が多かった。このような急変時は雪に慣れている北海道のDriverでも大混乱で、道路は忽ち大渋滞。郡山では5cm程度の雪でも大混乱になるが。
タイヤの交換のためにガソリンスタンドを探すが、なかなか見つからない。たとえ見つかってもいつ対応してくれるかわからないだろう。止む無く車よけのある場所を探して、自身でタイヤの交換をすることとした。雪は止みそうにもなく、ポンチョを着て、ギャッジアップ。レンチを握りタイヤ交換を開始した。FFなので、前輪の運転席側のタイヤの交換は背中を直進方向の札幌方面に向け、旭川方面を向いて作業をする。交換用のタイヤを眼前に据え、かじかむ手を温めながら、うつむき加減で作業を進めていた。
そのときフッと眼前のタイヤが見えなくなった。めまい?一瞬意識が遠のいた感じだった。いつ倒れたのだろう?目をあけると眼前にあったタイヤが見えない。手に持っていたレンチもない。フラフラと起き上がると、誰かがこちらに走ってくるようだ。でも僕は事情がよく飲み込めない。どこか知らないところへテレポーションしたような気分だった。タイヤはどこだ?レンチはどこだ?僕のPreludeはどこだ?走ってくるひとが僕に用事があるということも理解できていない。何か話しかけてくるが、耳には入っても頭に入らない。僕が返答できた最初のことばは「僕の車とタイヤはどこにいったのでしょうか?」自分でも見も知らぬ人に何を言っているのだろうと思いながらも、それはたぶん、夢でないことの存在確認をしたかったのだと思う。
その方は「大丈夫ですか?」何度もそう繰り返し語りかけてきた。頭部打撲による意識障害を心配したのかもしれない。旭川方面を見やると僕の紺のPreludeが小さく見えた。ゆうに20mは離れている。「どうして?」混乱した頭で直近の記憶を反芻すると、グルングルンと回転していたような記憶が蘇る。夕闇で視認しにくい状態ではあったが、新雪の上にも直線の圧雪痕がある。
「すいませんでした」その方の車がスリップして僕の車にぶつかったのだった。正確にいうとタイヤと僕にだ。あとで確認すると車には擦り傷しかなかった。滑ってきた車は最初に僕の目の前にあったタイヤにぶつかり、同時に車のフロントグリルに僕がぶつかった。その弾みで僕は札幌方面に後転しながら飛ばされた。幸い車のスピードが遅く衝撃が少なく済んだことと、僕がポンチョを着ていたために跳ぶというより滑りながら回転していったために体へのダメージも少なくて済んだようだ。また後転だったため頚への打撲捻挫などの影響も少なかったのだろう。ただ、直接ぶつかった左足は打撲の影響でズキズキ疼いていた。ようやく状況を把握し、体をさすりながら、自身の体へのダメージはあまり大きくないことも確認した。
すると当初の目的を思い出した。やはりタイヤがないことに気付き、「タイヤはどこでしょう?」と。よーく見まわすとさらに札幌寄りに20-30m先にタイヤがあった。タイヤは転がったのでより遠くへ飛ばされたようだ。でもタイヤに最初にあたらなかったら、僕へのダメージはもっと大きかっただろう。
この状態ではもはや自身でのタイヤ交換は無理で、当然札幌への行程もcancelせざるを得ない。夏タイヤでは旭川に戻ることもできないし。「どうしようかな」一人で思案していた。パニックになっていたわけではないのだけれど、僕は自身で対処しなければいけないと考えていたのだ。何か話しかけられてはいたのかもしれないが、なぜか自分の頭でしか考えられないようだった。軽い脳震盪をおこしていたのかもしれない。
「救急車を呼びます。まずは病院へ行きましょう」と言われ、それほどたいそうな状況ではないと思っていたので救急要請は幾分抵抗はあった。救急車に同乗して患者さんを搬送することは数多くあったが、自分が運ばれることには躊躇いとある種の恥じらいがあった。しかし、事故直後の診断は必要だと考え、時間はかかるだろうが救急車を待つことにした。
当時は携帯も持ち合わせていなかったので、どのように救急隊へ連絡したのかはわからない。僕の車はその方が、あとで旭川へ届けてくれることになった。もちろんタイヤ交換もして。たぶん警察への連絡なども滞りなくしてくれたのだろう。
僕はちょっと離れた一番近くの病院へ搬送され、診察を受けた。当直の医師は若い眼科医であったため「よくわからないんですけど」と弁解がましく話しかけてくる。僕よりは年上の医者のようだが、専門分野が違うから仕方がない。眼科でも当直をしなければいけないんだなどと考えながら、自分でX線を診て、骨折がないことを確認した。診察?が終わって、待合で座っていると、その方の部下という方が病院へ迎えに来てくれて、僕を旭川まで送り届けてくれた。
このような場合、打撲ではあっても痛みは後から強くなるようだ。夜半になって痛みが強くなり、旭川の病院で整形外科の救急で診てもらった。幸い打撲ではあるがGibsを巻いた方がいいだろうということになった。その後、しばらくは松葉杖生活を余儀なくされることになった。
結局は親も心配して旭川に見舞しに来た折に、かみさんのことを伝え、了承してもらい当初の目的は達せられた。
かみさんも心配して旭川まで見舞に来てくれて、僕としては丸く収まった感じではあった。
このようにあとで振り返ると「命がけの行程」ということにはなるのだけれど。もしかしたら、自分の人生がそこで終わっていたのかもしれないわけだから。
でも、その時は意外に大けがじゃなくてよかった程度にしか考えていなかった。

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