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択捉島訪問報告(月刊地域医学に掲載予定です。ちょこっとだけ肉付けしてあります)

はじめに

平成12年9月1日(金)から4日(月)まで、北方四島のビザなし訪問団の同行医師として択捉島を訪問しました。
 訪問団の同行は市立根室病院の勤務医にとってノルマです。自治医科大学卒業生では5年前に梯彰弘先生(1983年卒業)が当院勤務時に初めて訪問して以来、私が二人目です。世界を股に掛けて活躍されている同期の國井君(1987年卒業)もまだ行かれていないそうです。
 北方四島は北海道の人間にとっても近くて遠い存在です。しかし、根室では眼前に見える島はいやでも身近に感じざるを得なくなります。街のあちこちに四島返還の看板が立ち並び、また病院にもロシア人の患者さんが来るのです。
 でも、いざ択捉島に訪問してみると、今までの「領土」のイメージとは全く違う存在であり、「返還」そのものの意義に疑問を抱かざるをえなくなりました。
 今回択捉島を訪問し、見聞きし、感じたことを資料を参考に報告します。

訪問の意義

 北方四島へのビザなし訪問は、ゴルバチョフ大統領の訪日の時に提案され1992年から開始されました。目的は領土問題を含む日露間の平和条約締結問題が解決されるまでの間、相互理解の増進を図り、もってそのような問題の解決に寄与するためです。
 将来、相互自由訪問ができる(返還される?)ことを想定したシミュレーションと捉えるのが一番理にかなっています。昨年までの8年間で、日本側からの訪問(総務庁事業)が3380人、北方四島側からの受入(外務省事業)は3117人、合計6497人の交流実績があります。

交流の様式

①自由訪問:四島訪問とホームステイで、4島のうち単独もしくは複数の訪問の組み合わせがあります。
②墓参:旧墓地への墓参です。現在は荒れ地となっており、長靴でなければ歩けないところで、ほとんど探検に近いそうです。もちろん熊が出没するので、ロシア人のハンターが同行します。ロシア人と接触するのはこのハンターだけです。
③受け入れ:ロシア人を日本へ招待するために迎えに行くものです。彼らには旅行に使える船便の足がないのです。
 訪問の他にも住民支援をしており、小学校や診療所、緊急避難所兼宿泊施設、ディーゼル発電施設などの建設および医療機器、学用品などを供与しています。
 訪問事業の主催は、全国会議、北海道推進委員会、北海道、千島連盟などですが、元をただすとすべて国が費用を拠出しているようです。
 旅程は3日から6日まで。個人負担はありませんが、一回の渡航費用は船のチャーター料などに全参加者で500万円くらいかかるそうです。
 方法はパスポート、ビザは所持しないが身分確認のための特別の身分証明書、挿入紙を所持します。
 今回私は北海道推進委員会(北海道の出先機関)の主催の択捉島へのビザなし訪問に参加しました。

訪問対象者

 対象者は元島民およびその子、孫並びにそれらの配偶者、返還運動要求関係者などで、希望者の名簿から選ばれます。その他に報道関係者、学術、文化、社会等の専門家、北海道および国の関係者、通訳、医師などです。一回の訪問団は44人から90人です。

旅程

9/1<9:30>根室港出港<14:00>国後島古釜布到着、入域手続き、<16:00>出発<船中泊>
9/2<4:30>択捉島到着、内岡沖錨泊<7:00>事務打ち合わせ<8:00>上陸、地区行政府表敬訪問、日本人墓地訪問、サケマス孵化場視察、昼食、家庭訪問、ホームステイ
9/3ホームステイ、昼食、<13:00>対話集会<16:00>帰船<17:00>出港<船中泊>
9/4<5:30>古釜布沖錨泊<7:00>事務打ち合わせ<8:00>出港<12:30>帰港
実際の択捉島の滞在は32時間でした。

北方四島の地理

 北方四島と日本位置関係です。択捉島:面積3184Km2、沖縄本島(1199Km2)の約3倍、鳥取県(3507Km2)に近い面積。島の全長は約230Km。根室からは直線距離で140Km、入港できる内岡(なよか)港までは約240Km(八丈島より遠い)、根室から船では入域審査を含め約20時間。人口は約8300人。ホームステイは紗那(しゃな)と、別飛(べっとぶ)。島の中央にそびえる秀峰散布山(1587m)は、利尻岳によく似てとてもきれいです。

沖合いに停泊中の船から初夏の散布山を望む(市立根室病院放射線技師長栗田昌輝さん撮影)

国後島:面積は1499Km2で、沖縄本島とほぼ同じ、奄美大島の約二倍。人口は約3900人。
古釜布(ふるかまっぷ)に行政府があり、ここの沖で入域手続きが行われます。
色丹島:面積は253Km2で、徳之島とほぼ同じ。人口は約2300人。
歯舞群島:水晶島、秋勇留島、勇留島、志発島、多楽島、海馬島、貝殻島からなります。面積は合わせて100Km2で、小笠原諸島とほぼ同じ。
ロシアでは択捉島をはじめ四島は、サハリン州に属します。

歴史的背景

 第二次世界大戦の終戦時、日本が降伏を表明した1945年8月14日以降の、8月28日から旧ソ連が北方四島に侵攻してきました。歴史的には1855年日露通好条約では国境線は択捉島までであり、旧ソ連の占領は国際法上も違法である。・・・というのが、日本の見解です。歴史的な流れをみるともっともだと思います。
 終戦後北方四島からの引揚者は3124世帯、人口17291人と推定されています。当時の住民のほとんどがサケマス漁業や昆布等海藻の採取を生業として、裕福な生活を送っていたそうです。
 因みに択捉島までは気候や植生も北海道とほぼ同じだそうです。

訪問地紗那の状況

 現在、四島にはロシア人しか在住しておらず、建物や看板など見えるものに日本を感じさせるものは一切ありません。
 内岡港から車で5分くらいのところに紗那という大きなまちがあります。ここには日本が資金を出して建設した小学校(択捉島で一番新しく大きな建物)とディーゼル発電施設がありました。その他に地域行政府やサケ収穫場などがあります。ロシアでも一般人がサケマスを捕獲することは禁止されていました。

択捉島の経済事情

 主な産業は漁業と水産加工業です。最近は「ギドロストロイ」という水産加工会社の業績が順調で、サハリン州で納税額が最多の超優良企業に成長しているそうです。
 行政府議会の女性議長は、今年は「本国の援助なしでも」、住民の福祉、医療、教育なども自前の予算で充実させている・・・と胸を張っていました。

ロシア人の生活

 ほとんどが集合住宅に住んでいますが、建物は木造で老朽化しています。小さいところは2家族、大きいところは8家族入れます。個人住宅の建設は立ち遅れています。戦前の日本の家屋はほとんどありません。
 住民の中でもかなり貧富の差があるようです。食生活は択捉島でほぼ自給自足できるそうですが、土壌が痩せている上に、気候が厳しくあまり農産物の収穫は良くないようです。ほとんどが郊外に自分の菜園で野菜類を栽培し、早朝散歩がてらに食べる分だけ採ってきます。鶏や鵞鳥を飼って、卵や肉を食べている方もいました。
 ホームステイ先では御馳走が振る舞われましたが、普段は質素な食事だそうです。食事のメニューは、ボルシチ、ピロシキ、サケのパイ包み焼き、ジャガイモの炒め物、イクラの塩漬け、水餃子、ケーキなどを御馳走になりました。食材はサケマスが中心です。そういえば、アイヌの方々は「主食」がサケなのだそうです。パンはほとんどの家庭で自家製でした。料理は全体に素材を生かしたものが多く、塩っ気が多い気がしました。またケーキはかなり甘く、市販のチョコレートも甘かったです。
 冷蔵庫、オーブンなどの電気製品はほとんどの家庭にありますが、いずれもかなり古いものでしたが、テレビやビデオ、CDカセットは、いずれも新品の日本製が多かったです。
 上下水道も整備されており、便所は水洗でした。

ごみ事情

 島のあちこちに鉄くずや廃車などのさびた粗大ごみが、散在していました。住宅街から離れたところには、粗大ごみの廃棄場がありました。廃屋も壊さずそのままにしてあったり、壊しても廃材を放置しているところが多くありました。
 また海岸には多くの廃船がありましたが、一部は防波ブロックの役目もしているようでした。内岡港の防波堤は真っ二つに折れたタンカーでした。
 因みに居住区の集合ごみ捨て場の中身は、ほとんどが生ゴミでした。

お店(キヨスク)

 お店はプレハブ住宅で窓には鉄格子という造りで、一つの集落に4~5軒あります。陳列してある品物の種類は限られ、お店が変ってもほとんど同じ商品でした。ラベルは赤、青、黄色、緑などの原色系のものが多かったです。酒(ウオッカ、シャンパン、ワインなど)、ジュース(ペプシ、ファンタなど)、お菓子、チーズ、牛肉、ソーセージ、アイスなどが売られていました。
 価格(1ルーブル=4円)はウオッカ:60-100ルーブル、タバコ:10-30ルーブル、シャンパン:100ルーブル、ワイン:100ルーブル、チョコレート:25ルーブル、バナナ(5-6本):50ルーブル(高級品だそうで、あまりおいていません)。かつては日本でもバナナが一本単位で売られていた時代がありましたよね。
 ロシアではビールが2リットルのペットボトルで売られていました。5ー6年前ぐらいからようやくロシアでも「飲めるビール」が売られるようになったそうです。ビザなし訪問の最初の頃に日本のビールを持参したら、世の中にこんなにうまい飲み物があるのかと驚かれたそうです。
 スーパーマーケットのような形態のお店はなく、日本を訪問したロシア人がコンビニを見て、品数の多様さと終日営業ということにたいそう驚いたそうです。

ロシア人の家

 ホームステイはボランティアによるもので、すでに数回の受け入れをしており、一家族二名を受け入れてくれます。裏を返すと受け入れができる家庭は限られるのだそうです。そのかわり、これらの家庭は日本訪問(日本の招待)が優先的に割りあてられるそうです。
 偶然かもしれませんが、私が回った家庭は奥さんが仕切っており、ご主人は黙って飲んでいるだけでした。9月1日はちょうど学校の年度の始業日のため、子供はみんな着飾っていて可愛かったです。20歳代くらいまでの女性はみなきれいで、プロポーションもとてもよいのですが、おばさんになるとほとんどの方が肥満でした。それでも、ほとんどの女性が着飾っていたのが印象的でした。

生活習慣と余暇の過ごし方

 ロシア人は勤勉な読書家だそうです。居間には40-50冊くらいの愛読書を並べられていました。
 休日の過ごし方は「休んでいる」という返答でした。通訳の方が言っていましたが、もっとも平日でも仕事は2ー3時に終わって、男性はそのあとは飲んでることが多いのだそうです。週末は家族で菜園を手入れをすることが多いそうです。
 別飛での対話集会の会場は普段はダンスホールと図書館を兼ねた施設でした。

島の物流

 ほとんどの家庭には冷蔵庫、洗濯機、テレビ、ビデオなどの電気製品が備えられている一方、それを販売しているお店は島には見あたりませんでした。歩き回れる場所は限られているので、他の場所にあったかもしれません。でも、彼らはテレビやCDプレーヤーなどの電気製品はサハリンや海外から購入してくることが多いと言っていました。択捉からサハリンまでは飛行機で約一時間、料金は片道約5000円とのことでした。中流以上の家庭では「それほど負担にならない金額」だそうです。やはり日本製に人気があるようです。サハリンが択捉の文化圏であるというのは驚きでした。また家具などはご主人の手作りが多いそうです。
 船での物流はあまり活発ではないようです。少なくとも人の移動に船は活用されていないようでした。

交通事情

 島内の道路はすべて、未舗装です。幹線通りはたまにブルドーザーで整地するようです。
町にはボンネット型の乗合バスが走っていました。自家用車は贅沢品のようです。島内の乗用車の約9割が日本車でしたが、左右両方のハンドル車が混在していました。ほとんどの車が故障車で、日本なら車検が通らないような車ばかりです。ランプがつかない、ワイパーがない、フロントガラスにひびが入っているなどです。電気系、駆動系もよく故障するようですが、簡単な故障は自分で直すようです。ロシアでもトヨタのRV車は人気があるようでした。

ロシア人の移住経緯

 旧ソ連の侵攻当時、北方四島は旧ソ連でも一般人の立ち入りは制限されていたそうです。移住の時期は1970年代という方が多く、年齢は40-50歳ぐらいの方で、思ったより最近であることに驚きました。当時は北方四島での収入が優遇されていて、移住に魅力があったそうですが、「現在では・・・」と言葉をにごしていました。
 終戦当時からいらっしゃるような高齢者の方とは直接お話をすることはできなかったのは多少残念でした。

私のロシア語入門

 私はまったくの素人で、仕事の多忙さもあり、勉強する余裕がなく、ぶっつけ本番で訪問しました。
 ロシア語はアクセントが強く、会話は怒っているように聞こえます。我々には会話集のカタカナを読むだけで舌を噛みそうになるのに、通訳の方はすらすらと会話をするのを見て、非常に驚きました。
 家庭訪問では通訳の方について行きましたので、いろいろなことを聞くことができました。自分で言えたのはこんにちは、さようなら、ありがとう、おいしい、きれい、はい、いいえぐらいなものでしょうか。
 ホームステイ先では通訳なしで置いてけぼりにされます。幸いなことに、片言の英語を話せるモトウェイくんとナターシャさんがロシア語を英語に通訳してくれたので、何とか意志の疎通はできました。

ホームステイのジナイダさん宅にて(右端が筆者)

ロシア人の住民感情

 北方四島は自分たちの故郷で、先代が亡くなり、守るべきお墓があり、また自分の子供が生まれて育った土地である。愛着を持って住み、これからも住み続けたい。決して日本の旧島民の故郷を否定するつもりはないので、もし今後日本人が来て、住みたいと言うのなら、一緒に生活しましょう。
 法的な問題はあくまでもロシア本国と日本の交渉によるものであり、自分たちには直接関係ないので、四島住民としてはいつでも相互交流、日本人の移住受け入れはできると。

日本人の旧住民感情

 先祖代々受け継いできた土地で、先代以前の先祖のお墓もある。その故郷を着の身着のままで強制的に退去させられた。50年以上も経過しているが、できれば、また島に戻りたい。ロシア人と一緒でもいいから住みたいと。
 元居住民者へのアンケート(昭和33年の総理府調査)では返還後は82%の世帯がすぐに島に戻りたいと答えていたようですが、最近のデータはありません。

住民交流会

 日本人とロシア人の参加により、北方四島の未来について討論会がありました。しかし上記のような感情論の応酬に終始し、はじめから結論が見えているおざなりなものでした。あまり突っ込めない事情もあるのでしょうが、交流会といっても、内容は毎度同じような社交辞令だけのようです。ロシアの若い男性が、単なる相互訪問や文化交流だけでなく、日露の国際結婚の既成事実の先取りが問題の解決を早めるという意見を出していましたが、ある意味では一理あるのかなと思いました。
 私が考える一番現実的な交流は人道的医療支援すなわち、重症患者の受け入れだと思っています。実際、根室には労働者を含め多くのロシア人が来ているのですが、ある時来院した患者を急性虫垂炎と診断し手術が必要と話すと日本ではお金が払えないので、北方四島に帰って、治療を受けるというのです。このような救急症例では、人道的支援として医療費を援助してあげるべきと考えています。
 因みに最近、覚醒剤所持で逮捕されたロシア人が肝炎だということで、拘留中の警察から手錠をかけたまま当院を受診しました。その際の医療費は検査や投薬も含めすべて国(日本)の負担で行ったそうです。矛盾を感じませんか?

ロシア人の印象

 「ロシア人」と「北方四島に住むロシア人」は幾分か違うかもしれませんが、概してお役人は見栄っ張りで、本音と建て前を使い分けることが得意という印象を受けました。一方、ホームステイを受け入れてくれた方々は、友好的で優しく社交的に接してくれました。
 北方四島の生活基盤を住宅、道路、経済、物流、食生活、ごみ処理など総合的に考慮すると私が5歳頃(35年程前)の田舎町の生活風景に近いように思いました。

ロシアの医療事情

 残念ながら医療施設の見学はありませんでしたが、総務庁の資料では施設や医療機器はあまり充実はしておらず、医師数も不足しているようです。
 択捉島には70床の病院が一つと診療所が三つあるそうですが、施設は老朽化し、実際に診療が行われているのは付属の診療所(日本の人道支援によるプレハブ診療所や仮設レントゲン室が建設されています)だけだそうです。慢性的にスタッフが不足し、薬品、医療器具も極端に不足してるそうです。
 疾患としては高血圧とそれに伴う脳出血、悪性腫瘍が多いようですが、州の医師は小児の結核感染、インフルエンザ流行は先進国の10倍に達するとが言っているそうです。
 昨年、専門職交流として日本の医師団が、四島を訪問したときに、ある医師が四島に残り診療してもいいと申し出たそうですが、現実的にはかなり難しいようです。条件として月給は50ドルと決まっていて、もしそれを本人が了承しても、外務省の許可が必要など様々な障害があるのだそうです。

島の過疎化と老後の生活

 四島の老人の生活問題に関して、女性の村長が二世代で住むことが多く、核家族化はあまり問題ではないと説明していました。また若者が都会指向で島を出ることもあまりないとのことでした。
 しかし実際には、北方四島に大学がないために、若者もサハリンや本国の方に出ることは少なくないようです。また老人が島を出ることが多いとも言っていましたが、これは医療事情の問題と関係があるのかも知れません。

通訳の方の感想

 通訳の方は5人中3人が女性で、10回以上も訪問している方が多く、訪問先(毎回同じだそうです)を案内をしてくれました。またロシア人のよいところも教えて頂きました。彼女らもロシアとロシア人のことが好きで、通訳を生業としているのです。
 もしかしたらロシア人の悪い印象というのは日本人の接し方そのものがそうさせてしまったのかも知れない、と最後にボソッと語っていたのが印象的でした。

北方四島訪問の感想

 最初は僕もこの訪問にはあまり関心がありませんでした。新任の市立根室病院の診療が多忙で、訪問により診療に穴を空けたくなかったからです。でも、先に訪問した医師から勧められ、生涯で唯一の機会かもしれないと思い、内科の後輩を説き伏せ週末に設定された旅程を選び参加しました。
 私が訪問したところは北方四島のうち択捉島のごく限られた地域だけでした。それでも直接ロシアの人々と交流を持てたことは、自分にとって有意義な体験でした。それとともに訪問して、はじめて理解した四島の事情や問題点、考えさせられたことを、多くの人に伝える義務があるように思い至り、このような報告書を執筆した次第です。
 今回の報告内容については多くが限られたロシア人からの聞き取りですし、客観的な情報も少なく、決して普遍性があるものではないかも知れません。しかし後日、北海道や国の方、通訳の方、すでに四島を訪問した方など多くの方々からの情報を補足のうえ総合し、可能な限り客観性を持たせたつもりです。
 訪問で一番考えさせられたことは四島の返還の意義です。すでに高齢者となられた方々が望郷の念と感情論だけで、本当に再びこの地に戻るのだろうかと。現実的に考えて高齢者にとって切実な問題である医療を含め、生活の基盤が日本と著しく異なるこの地に戻ることは難しいように思いました。返還が実現してもつまるところ漁業権の拡大に利用されるだけなのではないかと。それに伴い返還後にかつての日本の旧島民同様にロシア人の去就も考えてしまいます。彼らが住人であるという既成事実と「歴史」がすでに出来上がり、彼らにとってはそこはすでに「地元」なのです。漠然と捉えていた四島の返還の現実的な解決プロセスには彼らの生活基盤の変化が要求されるのです。まだ先の話しでしょうが、唯一の解決策は「共住共栄」しかないのではと考えさせられてしまいました。訪問によってこのような、ロシア人に対する感情移入が生じるのは僕だけではなかったようです。
 今後の日本人と北方四島の住民との交流を考えると(現在のところ関係者しか交流はありません)、「北方四島」の財産、すなわち日本にはすでにない手つかずの自然、これが交流の架け橋になればと思います。択捉島の方々もこの自然は非常に大切に考えているようですし、事実これは、サハリン州のクリル諸島社会経済発展計画のひとつにも盛り込まれています。ここの雄大な自然やすばらしい景観を享受したいという方は日本人にも結構多いのではないでしょうか。かけがいのない自然を大切にしながら、登山やトレッキング、バードワッチングなどの観光産業を発展させることにより、北方四島に多くの投資をせずに第三次産業が成り立つと思います。宿泊もホームステイ形式で受け入れれば、相互交流にもなるはずです。そのような訪問が可能になれば、またもう一度訪問してみたいと思いました。 

来年以降の訪問事業について

 北方四島交流事業は毎年回数が増えており、来年以降も継続して行われる予定です。
 同行医師は東京方面からも参加していますので、自治医科大学卒業生でも可能だろうということでした。もし参加を希望される方がいらっしゃれば、ご連絡下さい。因みに本州からの交通費込みの日当が支給されます。
 北方四島については北方領土対策協会(03-3263-7691)に照会して頂くとより詳細な情報の入手が可能です。

参考資料

「われらの北方領土」      2000年版   外務省国内広報課
「北方地域総合実態調査」    平成12年度版 総務庁北方対策本部
「私たちの北方領土」      平成12年   財団法人日本経済センター
「日本の領土北方領土」     平成10年版  根室市 北方四島交流北海道推進委員会
「北方四島の概況」       平成10年度版 総務庁北方対策本部
「北方四島交流ロシア語会話集」 平成12年版