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死ぬかと思った8

『居眠り運転』
Coming out:したことあります。
郡山に赴任する前に一年半単身赴任していた。
一年は札幌。札幌は旭川から120Km。JRの特急で1時間半。当直がなければ週末は帰ることができた。
その後半年は根室。根室までは旭川から400Km以上。広い北海道を実感するに足る距離だ。
三人目の長女が生まれたばかりで、家内も大変な時期であった。根室の赴任の打診があった時、正直受けるべきかどうか迷った。妻と子供たちのこともあるし、何しろ半年後には郡山へ転居することがすでに決まっていたから。
根室市立病院は‘ある大学’がすべての医師を派遣していたが、前任の医師たちが一遍に辞職することになった。そのかわりに旭川医大の主だった医局から数名づつ、医師を派遣し、肩代わりすることになった。十数名の医師が一度にやめて、一遍に入れ換わるという異常事態であった。しかも申し送りはまったくない。
これに先立って僕は医局から派遣を打診された。僕にとってはfrontier spiritを掻き立てられるような思いであった。しかし、当科の医局の派遣医は外科と同じく3名で一番多い。大学を代表するという立場の医局の派遣のtopで赴任する医師(僕)が半年で交代するのでは大学や医局に泥を塗ることになりかねない。迷惑をかけてしまうのではないかと心配した。僕自身は赴任してみたいという気持ちはあったが、対外的な立場を考えずに赴任するわけにはいかなかった。そのことを医局長に伝えた。医局長は僕の意向をもう一度医局に持ち帰り、検討すると言った。翌週、再度医局長から連絡があった。医局では教授も含め「医局の中で出せるというより、最初の赴任が務まるのはお前しかいないということで一致した。半年で離任することも承知する。それに対して対外的な批判は医局がすべて責任を持って対処する。だから行ってくれ」
北海道の中でも根室は市であってもかなりのへき地。好き好んでいきたいという医師はめったにいるものではなかったようだ。ましてやpositive motivationを持って赴任できる医師を探すのは至難の業。医局からすれば半年でもいいから、後続に道を作ってほしいとのことだったのだろう。
それが大人のlip serviceであることは重々承知の上で、光栄なことですと仮の承諾をした。もちろん、自分一人では決められない。妻の了承を得なければ決定できない。それは妻に余計に負担をかけることにもなるのだから。まずは妻に移動の打診があったことを伝えた。経緯も伝えた。「どうしたらいい?」「あなたが私に相談するというより、すでにこころの中では決めていることなのでしょう?私が行かないでと言ったら、やめられることなの?」「そう言われると・・・」「あなたは行きたいのでしょう?私も大変だけど、地域医療に貢献したいと思っているのでしょう?行ってらっしゃい」「ありがとう」
そうして根室の赴任が決まった。
しかし、実際の根室私立病院の前任者からの引き継ぎはまったくなく、0からの開始というより、minusからの出直しと言った方がよかった。そのことはまた別な機会に語りましょう。
内科の二人の後輩にあとを託して二週間に一度休みをもらって、車で旭川に戻った。
北海道の道がいくら広くて、交通量も信号が少ないとはいえ、片道4時間(100Km/hで、ですが)以上はかかる。しかもその途中の根釧台地は360度地平線より上には空以外何も見えないようなところもある。途中人家どころか街灯すらないところもある。車のhead lightを消すと漆黒の闇だ。その暗さに眼が慣れてくると仄かな星明かりが道路を照らすのがわかるようになる。でも、あまり長くは続けられない。もちろん危険だからだ。
金曜の仕事が終わってから、根室を出発し夜中に旭川に到着。土日を家族と過ごし、月曜の夜中に出発し、朝に根室に到着、そのまま仕事を開始した。
旭川医大から派遣された医師は皆熱心に診療し、忙しく過ごした。二ヵ月目で過去の診療報酬の記録を更新した。
そんな中、旭川から根室に向かう途中、根釧台地の見渡す限り地平線が見えるようになった朝方、いつの間にか睡魔が忍び寄っていた。ふっと気付くと、ハンドルが左に流れていた。道路は低い堤防の上を走るようなところだった。あやうく道路から落ちてしまうところだった。走行スピードと道路からの落差を考慮すると、落ちれば即死だったろうなと思い、冷や汗をかいた。心臓は高鳴り、アドレナリンが多く分泌されるのがわかる。命拾いしたと思った。すっかり眠気も覚めた。あと一時間もしないで根室までつけるだろう。これだけ空も明るくなったら大丈夫だろう。
しかしそれが逆に油断になったのかもしれない。また・・・ふっと気付いた時は左の車幅線をあやうくまたぐところであった。すんでのところで道路から落ちずに済んだ。ハンドルを右に切り、ブレーキを踏んだ。対向車線にはみ出したが、対向車はなく事故にならずに済んだ。北海道の道路は冬に雪が降ることを前提に作られているので、本州と比較しても相当車幅が広く、それが幸いしたのかもしれない。車を左に寄せて、しばらく放心状態で、気持ちを落ち着けた。缶コーヒーでもあれば落ち着けるところだが、見渡す限り人家すらない。当然、コンビニどころか自動販売機すら探せない。誰かに助けを求めても返事は当分の間聞くことができないであろう。まさに映画『エイリアン』のcatch copyのような状態であった。「宇宙では、あなたの悲鳴は誰にも聞こえない」
気持ちを落ち着けて、‘安全運転’でようやく根室に到着した。九死に‘二生’の思いであった。それ以来、旭川に戻る時、車を使うことはやめた。
代替交通手段としての根室-旭川の直通便はない。札幌経由でなければ旭川へ戻れない。その距離はたぶん、700Km以上。東京―大阪くらいの距離だろうか。新幹線なら3時間というところだが・・・。
まずは根室―札幌の都市間バスを使う。金曜の22:00に根室発、翌6:30に札幌着。そしてJRの特急で7:00に札幌発、8:30に旭川着。土日曜は旭川で家族と過ごし、日曜のJR特急で8:00に旭川発、9:30に札幌着、都市間バスで10:00に札幌発、翌7:00に根室着という行程であった。3泊4日のうち二泊が車中泊という強行軍であった。
妻と子供たちに会いにゆくというだけでなく、妻が無理をしすぎていないかを確認するための帰宅でもあった。家族の絆を確かめるために、自分以上に妻もがんばっているのだと思い、旭川に通った。そのかわり月曜の夜は当直をはずしてもらって、9時には宿舎に戻り早々に寝ていた。
今、福島の多くの家族が、原発事故の影響で家族離れ離れに暮らしている。彼らもきっと同じような思いをしながら、家族に会いに行っているのではないだろうか。先日、NEWSでいわきで働いている方が週末に家族のいる東京に通っていたが、その途中で交通事故を起こしたとの報道があった。車は大破したが、命に別条はなかったとのこと。でも、事故のせいで、その後も手のしびれなどがあり体調はすぐれないと報道されていた。4月から高速料金の無料化が終了する。経済的な負担が増すので、そうなると家族に会いにゆくことも難しくなる。何らかの改善策を望みたいと結んでいた。
その報道を見て、しばらく記憶の底に眠っていた「死ぬかと思った」記憶を思い出した。あのとき、そのまま道路から落ちていたら、自分が旅立ったこともわからなかっただろう。そう思うと今ある自分の命が生かされているような気持ちになる。なくなっていてもおかしくないこの命を、もう一度使ってもよいと言われたこの命を、神様に感謝をしながら、それをどのように恩返ししてゆくべきかと考えている。自分ができる仕事に対して、惜しみなく向かえる気持ちはそのような‘臨死体験’も影響しているのかもしれない。
今、福島の医療が危機的な状況にある。多くの派遣の医師が戻ってしまうからだ。危機的状況から逃げ出すことは簡単だ。しかし、風評被害と闘いながらも福島を愛し、福島にこれからも住み続けたいという方々がたくさんいる。僕の外来にも。そんな方々をみすてるわけにはいかない。たとえ、その困難が如何なるものであろうとも、自分の気力と体力が続く限り、福島の人たちの命を見守り続けたい。

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