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死ぬかと思った5

瀕死の溺水者の蘇生に関ったことがある。

医師1年目の夏の週末に、同僚の医師と看護婦で留萌に海水浴に行った。北海道の七月は海水浴に適している気温ではなかったかもしれない。

かなづちの私は日光浴をしていた。ふと気づくと波打ち際が騒がしい。
「まさか溺れたんじゃないだろうね」「テレビじゃあるまいし」皆で軽口を言っていた。
しかし、事態は思った以上に深刻だった。砂浜で「心肺蘇生」が始まったのだ。間違いなく溺水だった。
「どうしよう。手伝おうか。」僕が言った。「(医師になりたて3ヶ月で」何ができるかな」「でもこのまま見ているわけにはいかないよね」我々はそう言いながら走り出していた。大学のときから医師を目指そうとしているなら、医師でなくとも救命する機会があれば、必ずその処置に参画するようにと教わってきた。そんな場面が来てほしくないと思っていたが・・・。

ようやく点滴ができるようになっただけの駆け出しの新米医師に、当然救命の経験などあろうはずがない。しかし、実際には目の前に「死にそうな人」がいる。「かっちゃん!」仲間が呼び掛けるが応えはない。その蘇生を手がけているのはまったくの「素人」なのはすぐに理解できた。青年は脱力していて、息もしていない。溺水=死。そう考えざるを得ない状況だった。どれくらいの時間溺れていたのかもわからなかった。でも超急性期。若い男性であった。蘇生をあきらめる理由はみあたらない。

「(どこまでできるかわからないけど・・・)僕たちが代わります」
まずは体位の変換。頭は砂浜の上にあった。脳への血流を確保するために、頭を海の方に向けた。心臓マッサージの手が震えていた。意を決して胸骨を圧迫すると、口から海水が出てきた。肺の中はほとんど海水で詰まっていたのだ。心臓マッサージを続けても、このままでは酸素化はできない。まずは肺の中の海水を出すのが先決。肺に空気が入るように、肺を押し海水を出す。押すたびに海水が排出される。僕はその状況を皆に伝えながら、蘇生を続けた。それを見てまわりの野次馬が「そうじゃあないだろう」「押し方が違うんじゃないのか」。素人がいい加減なことを言ってほしくないものだと思っていた。すると看護師の一人が「この人たちは医者です」と大声で彼らの声を制したのだ。言ってくれるじゃあないか。こころでそう思いながら、手は休めない。

周りの人垣の中から「私も看護婦です。何かお手伝いできますか?」と言ってくれる方がいた。医師は4人、看護師も4人ほどいたので、「大丈夫です」と答えたが、その後もその方はすぐそばで待機していてくれた。斜位に体位変換をしながら、肺の海水の喀出を心がけた。心臓マッサージも続けた。
看護師に手足を上げてもらって、バスタオルで付け根を縛ってもらった。頭への血流循環を優先させるために、末梢への送血を遮断するのだ。学生のときに習ったことがある。「いざというとき」手足を一本縛るだけで、点滴一本分(500ml)ぐらいの効果はある。

我々はかわるがわる黙々と蘇生を続けた。それからしばらくして、青年から「ふー」ため息が出た。「助かるかもしれない!」初めて顔を上げるとまわりは黒山の人だかりになっていた。「救急車を呼んで下さい!」 それまで誰も救急車を呼ぶ手配をしていなかったのだ。慌てていたせいか「110番に電話して下さい」と言ってしまった。「119番ですよね」「・・・お願いします」
その当時は携帯電話などなかったので、誰かが近くの民家まで走ってくれたようだった。

後で振り返れば、最初から救急車を呼べばよかったのにとか最初から手足を縛ればなどと思いつくのだが、いざその時は頭が真っ白になっていて、無我夢中であった。

間もなく救急隊が来てくれた。すぐに対応してくれるのかと思いきや、その当時は救急隊はあまり手際がよくなかった。結局我々で青年を担架に収容し、救急車へ乗せることになった。成り行きで僕も救急車に同乗し、救急病院へ同行。

病院についてもなぜか救急の当直医は出てこない。まずは自分で点滴を先に施行。真黒い濃厚な血液が引けてきた。それでも医師はまだ来ないので、挿管までした。すると残りの海水もかなり排出したが、その頃には自発呼吸もできるようになり、暴れてすぐに自己抜去されてしまった。
そのあとようやく当直医がのそのそとやってきた。「あとは変わります。自発呼吸はあるようなので、挿管はしなくてもよさそうですね」
あなたが来る前までは・・・喉まででかかった言葉を飲み込んで、「よろしくお願い致します」と引き継いで、退室した。

救急室から出ると、そこには警察が待ち構えていた。
「何も悪いことはしていませんよ!」
「たぶんそうでしょう。疑っているわけではありませんが、一応状況を伺いたいのです。」
事情説明をしたあと最後に住所と名前、連絡先を書かせられたが、そのあと丁寧に海水浴場までパトカーで送ってもらった。確かに海パン一丁だったし、病院から出るのは恥ずかしい恰好だった。

海水浴場には仲間が待っていた。皆ぐったりしていた。
「ふー、とんだ海水浴だったね」「もう帰ろうか」「そうだね」お昼過ぎで帰る予定の時間ではなかったが、もう海水浴場に残る理由はなかった。

また、いつもの忙しい毎日が始まった。

秋になって大学病院に見知らぬ人が尋ねて来た。
「その節はお世話になりました」
話を聞くと元気になった「かっちゃん」だった。見覚えなどあろうはずもない。
重症の肺炎で治療は大変だったようだが、脳機能の後遺症もなく回復したということだった。
どうして我々のことがわかったのか不思議に思って聞いてみると、警察から情報を確認したということだった。いまなら個人情報で教えてもらえないかもしれないが・・・。

でも、我々の初期治療が効を奏したということだろう。最初のとおり素人集団の手当てであれば、救命すらできていなかったかもしれないし、もしできても脳機能に障害が残ったかもしれない。
お礼にとウイスキーを頂いた。医師として当然のことをしたまでと、頂くことに気が引けたが、わざわざそのために来てくれたのだから、無碍に断るわけにもいかない。
「もしかしたら、すでになかったかもしれない命、大切にして下さい」と伝えて、見送った。隣には「かっちゃん」と叫んでいた・・・と思われる女性も一緒だった。

そのあと、蘇生チームの医師と看護師でそのウイスキーを開けて、その苦労を労った。

 大学での駆け出し医師の主な仕事は、指導医について金魚の糞になっていろいろな医療現場に立ち会い見せてもらったり、体験させてもらうこと。カルテに記載すること。そんな中で、自らの手で一人の青年の命を救えた。医師としての使命を実感した最初の出来事でもあった。

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