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死ぬかと思った6

父危篤・・・。

 小学6年生のとき、交通事故で重体の父を見舞いに旭川へ向かった。僕が向かったのはすでに事故から1-2週経過して、病態は落ち着いた頃であった。

 父は腹部大動脈損傷による出血多量で、瀕死の重傷を負い、旭川日赤病院に搬送され、手厚い治療をして頂いた。生還したのは奇跡に近いと聞かされていた。母はすぐに旭川に向かったが、僕は親戚の家に預けられた。面会できないぐらいの状況であったのだろう。子供に生死の境をさまよう父の状態を見せたくないということであったのだと思う。

 当時の状況がどのようなものであったかは定かでない。でも、CTが普及する前の時期なはずなので、たぶん旭川日赤病院でもCTは設備されていなかったのではないかと思う。そのような状況で腹部大動脈損傷の治療ができたことは、今考えてもやはり、奇跡に近かったのだろう。

 父は兄と兄の友人を乗せて札幌から大雪山へスキー旅行に行く途中だった。まもなく旭川につくというカムイコタンで交通事故にあったのだ。トラックが雪道でスリップしてセンターラインをはみ出してきたのだが、左は崖、その下は川で逃げようがなく、ブレーキを踏んでも間に合うはずもなく、結局トラックに正面衝突されたのだった。

 あとで父から聞いたが、一瞬崖に・・・と思ったそうだが、そうすれば兄と友人は助かるはずはない。正面衝突なら自分は死ぬことになっても、二人は助かると判断し、ハンドルを切らなかったというのである。フロントガラスは粉々に砕け(当時は割れるようなものであった)、握りしめたハンドルは折れ曲がり、それが腹部にめり込み大動脈損傷となったようである。

 病院に搬入時腹腔内出血のため、お腹は膨満し、緊急手術を受けた。父はおなかが張り裂けそうで「おなかを切ってくれ」と言っていたそうである。回復後に大動脈損傷がわかったとのことであった。出血量(輸血量?)は4000mlに及んだそうである。幸い手厚い治療を受け一命をとりとめた。輸血用の血液のストックが十分であったのも幸いしたそうだ。(奇跡的に輸血後35年を経過して、いまだに肝機能障害は正常であり、現在までHCVも陰性である)

 僕はというと、実はその旅行に同行するはずで、楽しみにしていた。しかし、その前日、発熱と耳痛、耳鳴をおこし、急性中耳炎と判明し、急遽スキー旅行はは中止、留守番をすることになってしまったのだ。もし僕が車に乗っていたなら、当時はシートベルトの装着の習慣もなかったので、助手席に座るはずであった僕の命はなかったはずである。きっと衝突の瞬間、私は車外に放り出されて意識もない状態で即死となっていたはずだ。
 楽しみにしていたスキー旅行に行けず、がっかりしていたが、中耳炎のおかげで一命を取り留めたことになる。なんとも不思議な縁だと思う。

 兄は瀕死の父を救急車が来るまで、必死で介抱(止血)したそうである。張り裂けんばかりの声で雪の中で「救急車を呼んでくれ」と叫んでいたそうである。父は薄れゆく記憶の中でその声が頭の中をこだましていたとあとになって言っていた。

 このような経験をした兄は医師となる決意をした。兄は自分の体験を通して志を持ったが、僕の医師になるための動機は・・・と言えば、確固たるものがあった訳ではなく、兄に近づきたいと思っただけかもしれない。

 本来「死」は非日常的なはずなのに、でも実は「死」は「生」の背中合わせなのかもしれない。もしかしたら、僕は中耳炎になっていなければ、自分の命はすでになかったかもしれない。同じような状況で旅立つ人もいるかもしれない。単に幸運・不運という言葉では説明できない、この命は生かされている命なのかもしれない。漠然とそう考えるようになった。ならばその使命を全うすべき道を探そう。

 今自分は医師を天職と考え、生涯を捧げようと思っている。

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