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死ぬかと思った9

『ガス爆発』
1988年8月19日、夜の11時過ぎに自宅の電話が鳴った。
電話機はNECの異麗夢(デザインはルイジ・コラーニLuigi Colani)、が軽やかに鳴った。当時、携帯電話は個人で持つようなものではなかった。医師二年目なのでPocket Bellを持たされるほど、責任のある仕事をしていたわけでもなかった。当時は家にいれば連絡は家電だったし、外にいれば連絡はつかないのが当たり前だった。
「こんばんは。西野くん、今ひまかい?」
当時は旭川厚生病院の麻酔科・ICUを研修中で、部長の斎藤先生からの電話だった。
いつもにこやかでやさしい先生だった。てっきり飲み会のお誘いかなとちょっと期待した。
「はい大丈夫ですが、何か?」
「ちょっと大変な患者がいるんだけど、一緒に診てもらえるかな?」
「はい、もちろん!」
「ちょっと前に市内でガス爆発があって、当院に二名搬送されたんだ。二人とも80%以上の熱傷なので、僕一人で患者二人を診るのは大変なので、先生に患者さんの一人の主治医になってもらいたいんだ」
「え!?僕でいいんですか?」
「大丈夫、ちゃんと指導するから!重症の熱傷患者はあらゆる合併症を起こす可能性のある疾患だ。救急で最も勉強になる疾患だ。しっかり勉強してくれたまえ!」
「わかりました。すぐ向かいます」
当時は麻酔科の医師は他にもいたが、ICUの患者は診たくないと言って、麻酔科の専門医だった。僕の直属の上司が部長職の斎藤先生という間柄だったのだ。

この日20:15、旭川市内でガス爆発があった。
火災を起こし、消防がかけつけ、救急隊が患者を収容、救急搬送された。
死傷者数2名、負傷者数3名。これは下記のようなreportになっている。
http://www.sozogaku.com/fkd/cf/CC0000180.html
この事故では五名が受傷し、四名が救急病院に搬送された。一名はそれほど重症ではなかったのか、他の病院へ搬送された。二名は他の救急病院へ搬送された。熱傷は70%以下だったようだが、1-2週間ほどで二人とも亡くなられたようだった。
この事故のreportでは死亡は二名。負傷者三名となっている。

僕が麻酔科をまわり始めたのは、八月から。ようやく麻酔科の仕事に慣れてきた頃に逢ったこの症例の治療のために、この日を境に僕はほとんど毎日ICUで寝泊まりすることになった。一週間に数回風呂と着替えに帰るような生活がこのあと二ヶ月半続いた。

ICUに到着すると受傷者二人がベッドに寝ていた。二人ともすでに挿管されていた。
僕への電話の前に斎藤先生がすでに処置を開始していたのだ。
二人とも見たことがない程、体はパンパンに張っていた。熱傷とそれに伴う浮腫。熱傷の程度は服を着ていたこともあり、大部分はII度。でも顔面も含め体の約80%に熱傷が及んでいた。のちに考慮される皮膚自家移植の採取できる場所がないぐらいに。
上肢も下肢も倍くらいにむくんでおり、compartment syndromeの恐れがある。
主治医groupにはすでに形成外科の先生も参加してくれていて、すぐに減張切開が始まった。Bedsideで切開と電気メスで止血。
「輸液は一日10Lを目指すぞ。輸液の管理が大切なので、Swan-Ganz catheterも一緒に入れるぞ」
一人目は斎藤先生がdemonstrationしてくれた。
「俺はIVHを入れることに関しては、たぶん北海道一うまい!この前の麻酔科の地方会でIVHを入れるのに、エコーを使って位置確認してから入れるという演題の発表があったけど、どうしてそんなことが必要になるのか俺にはわからんよ!」
二例目も斎藤先生が右鎖骨下からapproachした。肩のあたりもかなりむくんでいて、針はかなり深くまで刺入しなければ届きそうにない。
「これは厄介だな。うーん、なかなか探せない・・・」
「静脈切開(cut down)にするか・・・」
「先生、僕にやらせてもらえませんか?」
「お前がか?いいよ」
数回の穿刺の後、血液のback flow!
「師匠!僕の腕は北海道で二番目でしょうか!」
「ん?そうだな」
その日から、斉藤先生が最初に言った通り、ありとあらゆる合併症との戦いが始まった。しかもx2!!
ショック、血圧低下、循環不全、脱水、低タンパク血症、播種性血管内凝固症候群(DIC:disseminated intravascular coagulation)、細菌感染症、真菌感染症、敗血症、貧血。
ありとあらゆる血液製剤と輸血製剤を投与した。
動脈lineの確保、一日数回の血ガス測定、S-Gによる心拍出量測定。Fightingに伴う人工呼吸器の設定変更。

数日後、二人のbedは見たことのない大きな無圧ベッド(water bedだったかもしれない)に変わった。
朝は二人分の全身の消毒と包帯・ガーゼ交換が日課になった。ゲーベン、アズゲン軟膏は100g単位であっという間になくなっていった。
一週間は朝と昼の区別がなく、経過・Vitalの確認と処置に明け暮れた。

その後Vitalが安定してきて、形成外科の先生が植皮をすることになった。
もちろん、麻酔は僕が担当させて頂いた。麻酔をしながら、植皮の実際も見学させて頂いた。わずかに残った皮膚を剥ぎ取り、機械でmeshをかけて、伸展しstaplerで壊死した皮膚をはがして植皮をしてゆく。でも早々に使える皮膚がなくなり、豚の皮膚を同じように使って、植皮を進める。一度にすべての皮膚を被覆できないので、数回に分けて植皮手術を行った。
「先生もやりたいかい?」形成外科の先生が声をかけてくれた。
「お手伝いさせて頂いていいですか?」
「ああいいよ。やりたいってほっぺたに書いてあるからね。その間僕が麻酔を変わるから、A先生を手伝ってあげてよ」
すぐに手洗いをして、K先生と麻酔を変わってもらって、処置を手伝わさせて頂いた。

あるとき手術中に麻酔中に麻酔器のalarmが鳴った!
どうしたのだろう?
わけがわからず、Bagを押した。・・・硬い!?どうして?
「斉藤生を呼んで!」
「どうした?貸してみろ!」
「なんだこれは?Iron lungだ!bronchospasmsだ!Bosmin!steroid!!手術は中止!ICUにもどるぞ!」
一早い斉藤先生の処置で一命を取り留めた。
「めったに起きることじゃない。俺も数回しか経験がない。原因はわからないが、bronchospasmsだ。Recoveryできてよかった」
僕は何が起きたかすら認識できないでいた。
いろいろな意味で、ICUで起きうるあらゆることを経験させて頂いたように思う。

その後少しづつ、二人の患者さんの回復は進み、リハビリは進んだ。
酸素濃度の漸減。人工呼吸器からの離脱。
ガーゼ交換の量も日毎に減っていった。離床から車椅子での移動。リハビリ。
二人とも経過は非常に順調だった。

10月。僕の三カ月の麻酔科・ICUの研修が終わりに近づいた。
「西野くん、お疲れさまでした。おかげでTさんもすっかりよくなったね。麻酔科研修も終わるから、Tさんのこと先生に預けるから、連れて行ってもいいよ」
「先生、そんなこと言われても困っちゃいますよ」
「冗談だよ。でもよくなったのは本当だ。もうICUにいる必要はない。リハビリ病院に転院してもらおう」

血液製剤メーカー(すでにこの会社は存在しないが)の担当者は、二人分の濃厚な集中治療治療により、多くの血液製剤を使われたため、当時売上で日本で三本の指に入った。そのおかげで会社から表彰されたそうだ。
そのメーカーからは血液製剤の治療効果の一例報告を書いてほしいと依頼があったが、僕はまだまとめ方もわからない時期だったので、結局そのreportは斎藤先生が作成し報告した。
その後、僕が担当した患者さんはリハビリ病院に転院し、順調に回復し、自力歩行ができるまでになった。しかし、一ヵ月もしないうちにベッドから転倒し、脳内出血を起こし、亡くなったそうだ。
三カ月に及ぶ治療の上に死線を乗り越えてきただけに、なんとか長生きしてほしかったものだ。
僕が‘救急のすべて’を学んだと言ってもいいような医師二年目の長い長い麻酔科・ICU研修が終わった。僕の医師としての基盤を作ってくれたといっても過言ではないくらい充実した研修であった。
最初に患者さんに面会した時には「死ぬかと思った」ほどの状態だった。それでも集中治療によって麻酔科研修期間中になんとか回復した。これほどの瀕死の重傷の患者さんでも医療が命を救えることを目の当たりにした。でも、それは助けようという明確な意思がなければなしえなかったことだと思う。その当時は当たりまえと思っていたが、無償の労働力という換算できない条件なしには救えなかったに違いない。今では救急は誰か一人が自己犠牲の上に成り立つものではなく、再現可能なsystemの上で行われるべきものだと考える。医師がsystemの歯車になっては仕方がない。でも、昔も今も医療は医師の自己犠牲の上でしか成り立ちえないのかもしれない。
先のこの事故の正式な報告書では死亡は二名となっているのは他の病院に搬送されて1-2週間で亡くなった二名のことで、僕が主治医で治療した患者さんは三カ月後に亡くなっており、事故による死亡とは判断されていない。

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