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死ぬかと思った7

『僕の長い311』
その日は診療応援のために仙台市の南に位置する岩沼の総合南東北病院へ行っていた。診療が早く終わり、帰路へ。
14:29岩沼からJR東北本線の電車に乗車。
電車の中で携帯から仙台駅地下のポンパドールでパンを買ってから郡山に戻ろうと思いたって、電話で「お芋パン」を10個取り置きしておいてもらうようお願いした。
そのあと5月にChicagoのDDWでの発表に備え、iPodで英会話を聞いているときだった。
14:46。
ガタンゴトン、キーッ。
仙台の南に位置する長町駅を電車が出発して間もなく。
実際にはその揺れを感じるよりも先に電車が急停車し、それがどうしてかを理解できないでいた。しかし、電車は停車してからも‘揺れている’!?走行の揺れとは明らかに違う!
突き上げるような揺れ。座っていながらも、何かに捕まらずにはいられないような揺れ。ようやくそれが‘地震’であることが理解できた。
電車は高架線上なので、揺れは余計に強く感じたのかもしれない。しかし、緩やかな余震に加えて断続的にまたつき上げるような大きな揺れが続いた。揺れはなかなかおさまらない。揺れが強いことに加え、持続時間が長い。電車の左隣には新幹線の高架があり、その電柱も大きく揺れている。在来線の高架の方が低いので、新幹線の高架が倒れてくるのではないかと思うほどであった。阪神大震災の高速道路の支柱の倒壊が頭をかすめる。しかし、JRは阪神大震災後に新幹線をはじめ、高架は補強しているので、倒れることはないだろうと自分自身に言い聞かせてもいた。
反対の街並みは電柱と電線が揺れている。マンションの窓ガラスがたわんでいるのが遠目でも確認できる。ガラスはゆがんでもすぐに割れるわけではないのだと感心しながら、眺めていた。車は止まり、人は右往左往している。
断続的な強い揺れは下から突き上げるだけでおさまらず、電車をはね上げて高架下に投げ出してしまうのではないかと思うくらいの強い力に感じた。もし電車が投げ出され、逆さに落ちたら・・・を想定して、網棚と手すりにつかまって耐衝撃姿勢をとって・・・などと対応を考えていた。それでも車体が潰れてしまったら、一巻の終わり。覚悟はしておいた方がいいかもしれない。
大きな揺れの度に社内の乗客は悲鳴を上げている人もいた。通勤通学の帰路にはまだ早い時間帯。電車には20-30人ぐらいがいただろうか。とくに女性は恐怖を口にせずにはいられないのかもしれない。一人で座っていた中年の女性は、揺れの度に「キャー、キャー」と叫んでいた。しかし恐ろしさに耐えかねて、ついに向かいに座っている三人の男性のところに一緒に座らせてほしいと申し出た。
ビジネスマンらしい、その三人はそれぞれが携帯からテレビやInternetから最新のニュースを探し出して、状況の把握をして、語り合っていた。それを聞いて僕も、これがかつてないほどの大きな地震であることが分かった。残念ながら、僕の携帯は4年以上前の電話とmail機能しかなく、最新の情報を入手することはできなかった。
電車内はすぐに停電になり、その後状況の説明はしばらくなかった。大きな揺れと余震が続く中、電車内には不安まじりの語り合う声と時折の悲鳴が響いていた。
何度か妻にmailを出すが、なかなかつながらない。携帯のbatteryは半分程。充電器を持ち歩いているので、いつでも充電できると安心していた。しかし、電源がなければ充電もできない。このような緊急時事態を想定はしていなかった。
時折、車掌から現在、本部?と問合わせ中とのむなしい報告があった。
ようやく電車を降りることが車掌から提案されたのは地震発生後約1時間が経過した15:50分頃。もしこの電車が沿岸を走っていたのなら、とっくに津波に押し流されていた時間であっただろうこともあとで知った。
電車から降りるとすぐに最寄りの長町駅のホームが見えた。我々の電車は発車して間もなくだったため駅から北に100m程のところであった。もし新幹線に乗車中であれば駅でないところで地上に降りるにしてもかなり歩かなければならなかっただろうし、適切な誘導がなければ高架なので降りることもままならなかっただろう。降りてからも最寄りの駅までの移動に苦労しなければならなかったはずだ。
お年寄り、子供、女性が降りた後に男性が下りた。下車の誘導にも特段混乱はなかった。降りる際、車掌さんがかばんを一時持ってくれて、降りてから手渡された。電車から降りるのがプラットーホームではなく、線路に降りてみると、電車の床は意外に高い位置にあることがわかった。
長町駅のホームには天井から落ちてきた部品で散乱していた。階段はタイルの破片が散乱していた。駅から出ると周りは停電していて、信号さえついていなかった。それでも車は多くはないものの、走っていた。交通整理の警官は出ていなかったが、車は譲り合いながら交差点をゆっくり進んでいた。
長町駅から仙台までは約3.5Km。電車では7分程度だが、歩くと意外に時間はかかる。
昼は晴れていたのに、空は徐々に曇ってきていた。どんよりした曇り空は余計に不安をかき立てる。駅から歩き始めると、すごく寒くなってきた。あっという間に雪が降りはじめ、またたく間に北からの吹きつけるような横殴りの吹雪に変わった。風が強く前向きに倒れるように歩かなければならない程であった。天候の変化は地震のなせる技なのだろうか。仙台駅方面の北へ向かう僕の体の前面は樹氷のように真っ白になった。背中はまったくdryなのに。
自衛隊の松島基地の航空機やヘリが飛べず、航空機が残骸だらけになり、非難救助に参加できなかったのは地震前後から急に天候が悪化して視界が悪くなったせいなのだと、あとで知った。もちろん彼らに非があったわけでもなく、責めることもできない。彼ら自身がヘリを使って救助できなかったことを一番に悔いていたはずだから。
歩道は両側とも人であふれかえっていた。南に歩く人が多かった。車の量よりも人の方が多いというのも一種異様な光景であった。
結果的に電車にいた我々には‘空白の一時間’があったために電車から出てからが‘0’時間なのだったが、ほとんどの方々にとっては地震後すでに一時間以上が経過していたのだ。まるで浦島太郎のような気分であった。何が起きていたのか‘一時間遅れ’で知ることになったのだから。多くの方は仕事場を離れ、自宅に向かっていたようだ。歩道沿いの建物は窓ガラスが割れていたり、ドアが外れていたり、壁が崩れたりひびが入っていたり、水道管が破裂していたり、あらためて地震のすさまじさを実感していた。割れたショーウィンドーのガラスの破片は大方すでに掃き集められていた。
仙台駅に近づくと、建物の壁が崩れ落ちていたり、その崩れ落ちた壁を多くの人が見上げていた。もしこの壁の下を歩いている方がいれば間違いなく即死だったはずだ。まわりに血が滴っていないので、たぶん犠牲者はいなかったのであろう。すぐそばの屋根付きのバス停は落ちてきた壁の一部でペシャンコに潰れていた。壁の一部と言っても大きさは畳二枚分ぐらいの厚さ15cm程のコンクリートの塊である。重さは1トンはありそう。そのダメージははかりしれない。
仙台駅に到着する頃にはすでに地震から二時間ほどが経過していた。雪は上がったが、空は厚い雪雲に日の光はさえぎられていた。時刻も夕方5時になると暗くなってきていた。それでも街のネオンや街灯に灯はともらない。一部ついている電球は太陽電池を使っているのだろうか?
これから郡山に帰れるのだろうか?それはここで数日を過ごさなければならないことを否定したいという気持ちの裏返しの期待であった。でも、駅前にデモで集まったような人の波が交通機関を頼らずに自宅へ戻っていると考えれば、それは無理な考えであることは明白であった。
まずは今晩を過ごす場所を考えなければ。でも、とにかく寒い。外にいれば凍え死にそうなくらいだ。春に向かい暖かくなってきていた日ではあり、郡山を出るときは薄手のセーターとジャケットにしようと悩んでいたが、結局暑いかもしれないが冬用の革のジャンパーとマフラーをしてきたのが正解だった。
街中は停電していた。暖を取れるような店を探したが、ことごとく閉め切っていた。せめて仙台駅の構内には入れれば、寒さをしのげるのではという期待もあっけなく裏切られた。仙台駅は地震による被害のせいで、すべて閉め切っていたのだ。仙台駅構内の状況は天井が崩落し、停車していた新幹線が脱線したなどの状況は後にならなければわからないのだが。もちろん、地下商店街も閉鎖されていたので、ポンパドールも閉まっていたはずだ。予約したパンの料金を払えなくて申し訳ないなと思って電話したが、通じるわけもない。別に予約した分がどうこうという状況ではないのだろう。お店の方からあとで文句をいわれるようなこともないだろう。取り置きの件は忘れることにした。
でも、もしかしたら、仙台から郡山に帰る交通手段がJR以外でもあることにかすかな期待を寄せていたが、それは微塵もなく砕かれた。駅前のMotor poolはbusもTaxiももぬけの空だったのだ。
次第に夜は暮れてゆく。さてどうする?
長距離バスはどうだろう?
バス会社に行ってみる。待合所は多くの人でごった返していた。事務所からは運行状況の説明があったが、「運航の予定はたたない」を繰り返すばかりだった。もしかしたら臨時便が運航されるかもしれないと淡い期待を抱かせるような説明であった。しかし実際には、高速道もかなり被害を受けていて、応急処置をしなければ走れない状況だったので、最初から高速道は閉鎖と言って頂いた方がよかったのに・・・というのもあとでわかることだ。待合所内は立錐の余地もないぐらいの人であふれていた。待合所内のトイレに行くにも人を掻き分けドアにたどりつくまでに5メートルくらいの距離を一分以上かかるような状況であった。ビルの一階の待合所の入口は停電でガラス扉はあいているのだが、閉めると地震によりドアが開かなくなる恐れがあるということで解放状態にしていた。すなわち風はしのげるが寒さは外気のままで、寒さをしのげる状態ではなかった。立ちっぱなしで、寒さのために足の先がしびれてくるような状態だった。立っている状態でeconomy class syndromeになってしまうことが懸念されるような状況であった。
このままでは凍え死んでしまうかもしれない。普段は健康な若い?僕でもその状況の中では『死』を意識せざるをえないような状況だった。死ねない。家族のためにも、なんとか生きて戻らなくてはならない。
なんとか僕は一夜をしのぐことはできたが、実際にはここで一晩過ごした方もいらしただろうし、別な場所でビルの屋上で風をしのぐこともできない状況で一晩を明かした方々もいたはずだ。もしかしたら朝を迎えることができなかった方もいたかもしれない。普段なら家の中にいて暖をとればなんてことのない‘ふつうに寒い夜’だったはずだ。でも、春に向かっていた時期なのに、この日は特段に冷え込む夜だった。寒さに慣れている東北の我々にとってさえも。
待合所では多くの方の語り合う話の中で情報が理解できた。「店はどこもやっていない」「ホテルではcheck in は受け付けていない」などの会話が漏れ聞こえてくる。何も頼ることができない。なんとか自分で夜を明かす以外にない。でも、ここではない。もちろん外でhomelessのような一夜を明かすわけにはいかない。命の保証がないから。
ベッドも風呂もいらない。でも雨風雪がしのげる場所を探さなくてはならない。暖は取れなくても、寒さから逃れる場所を探さなければ。仙台で連絡のつく方に電話をしようと思っても、年賀状のやり取りはあっても、携帯電話に番号のある方はほとんどいない。
でもどう考えても、待合所で一夜は明かせない。場所を変えよう。一夜を明かせるかもしれない場所を探そう。
ホテルに泊まれなくてもロビーで一晩あかせないだろうか?
仙台駅に到着するまでに仙台駅の南にホテルメトロポリタンの前を通った。停電のために、宿泊者はみんなロビーや玄関前に出て来ていて待機していた。部屋から毛布を持ち出してくるまっている方が多くいた。すでに、外はすでに暗くなっていたので、建物の中は非常用電源だけで、外とほとんど違いはなかった。ホテルに入ってフロントに行くと、宿泊者以外でもロビーでよければいてもらって結構ですと言われ、言葉に甘えることにした。なんとかこれで明日の朝までは寒さをしのげる。宿泊者は部屋から毛布を持ち出して、横たわっていた。このときで20:00頃。
あちこちで、仲間同士で地震の状況の分析や来ている方は自己紹介などが語り合われていた。僕の傍には出張から戻ってきたという方と東北大学の実験室で被災したという方がいた。
一時間もしないうちにまたロビーは騒然としだした。ホテルの従業員の方がロビーからの退出を促しているのだ。水漏れのために、これ以上ロビーでの滞在はできないというのだ。ロビーからどこへ?
ホテルメトロポリタンはJR系の宿泊施設。JRが管轄する地下の商店街を開放するので、そちらで夜を明かしてほしいというのだ。高齢者、子供・女性から地下へ案内された。
地下へ入ると段ボールを一枚渡された。それを敷いて休むようにとのことだった。要はここでhomelessのような一晩を過ごさなければならないということだった。あとで知ることになるが、それはとても恵まれた状況であったことがわかるのだが、そのときは無我夢中で自分の境遇を嘆いても始まらないので受け入れるしかないのだと自分に言い聞かせるしかなかった。
二本の地下街の通路には100m程の両脇にわたり、少なくとも400-500名程の方々が泊まっていたと思う。多くの方が段ボールを拡げた半畳以下のspaceに膝をかかえたり、丸くなって横になったりして休んでいた。
22時頃になって、ホテルの非常用の食事が配給された。これだけの方々にお渡しできる配給は一度きりだと伝えられた。パンとクッキー、おにぎりとpet bottleのお茶が配られた。
さしあたり、雨風はしのげるものの、段ボールを敷いても寒さは骨身に染みた。床の冷たさも段ボールを通して体の体温を奪っていった。
途中、トイレに行くと、男性用は少し待てば入れたが、水が出ないので流せない。小の方が多く並んでいたので、大きい方に並んだ。トイレに入ると浮かんでいるものもそのまま。紙は入れないで、屑籠に出すようにしていた。女性の場合はトイレの前に長蛇の列になっていた。このような時は男性用のトイレを女性用にも開放してあげることも考慮すべきなのかもしれない。Life lineの水は‘飲む’だけでなく、‘流す’ためにも必要であることをあらためて知らされたように思った。一晩だけの寄せ集めの避難者集団では、とりたてて問題になったわけではないし、不平を言う方もいなかったが、このような生活が長期になると、生活のruleづくりや役割分担、leaderの存在も必要になってくるのだろうと思った。
なんとか、一晩を明かせそうな状況で、また家族に連絡をとろうと思ったがやはり電話は通じなかった。Mailならと思い、送信をしたが、それでも送信ができず、何度も繰り返してようやく送信を確認することができた。帰ってきたmailでは家族は避難所の体育館で過ごしていること。家の中はグチャグチャになっているが手をつけれらないと添えられていた。ガラスや食器が割れて散乱しているので、危ないからということのようだった。
ここでなんとか一晩明かして、明日できることをあらためて考えよう。
普通の人なら、なかなか寝られるような状況ではないのだろうが、僕はどこでも横になれば眠りに落ちるまでに5分は必要ない。このときも精神的に疲れていたせいか、気付くと朝になっていた。
朝は朝刊の号外の配布で起こされた。震災の状況の‘一部’が報道されていた。南三陸町が町ごとなくなってしまったことも。二万人以上の被災者が出そうなことも。発表されている死亡者数は確定数であって、今後膨大な被害者にのぼるだろうことも理解できた。
7時過ぎになってホテルの従業員の方から、非常用電源のための重油がそろそろ尽きかけており、非常用電源もまもなく切れることが報告された。その前にこの場所を退去するようにと促された。そして出口で非難場所の案内と地図を手渡され、一晩限りの避難所は解散となった。
朝は前日とはうってかわって、快晴。でも、放射冷却現象のため寒さ余計に厳しく感じた。
まずは仙台駅へ。やはり運航再開のめどは立っていない。長距離バスもやはり運航の再開の目途は立たない。駅のtaxiやbusも一切運航されていない。
さてどうする?
そういえば仙台に転勤したMRさんがいたことに気づき電話してみる。郡山勤務の時はまじめで信頼できる方だったので、携帯に番号が記録されていた。何度かのcallで通じた!
彼も被災はしていたが、無事であった。まずは彼の車でpick upしてもらうことにした。
彼のmansionも被災していた。彼は昨晩は駐車場の車で過ごしたのだそうだ。
今後どうするか?
まずは郡山へ戻ることを目標としたいが、新幹線、高速道も閉鎖されているようなので、戻ることは簡単ではなさそうであることが段々理解できていた。そこで昨日まで診療応援に行っていた岩沼の病院まで連れて行ってもらうことにした。仙台からの距離は約16.5Km。電車なら30分程度。車でも40分程度で行ける。病院まで行けば、なんとかなると思った。
病院につくと、友人に御礼を言って、別れた。10時少し前頃。
病院では事務長に会うと、「先生は郡山に戻りたいのですか?」と。
ええ、でもすぐには戻れないと思うので、しばらく病院に厄介にならせてもらってもいいでしょうか?すると院長はお手伝いしてくれるなら、いつまでいてもいいですよと。
さいわい岩沼の病院は地震の影響はほとんどなかったようだが、沿岸から比較的近いため、病院敷地のすぐそばまで津波が来ていたようだ。昨日は津波で体が冷やされた低体温の患者さんが多く搬入されたとのことだった。
事務長は「実はこれから郡山に車で行く人がいるのです。もう出発しちゃったかな?」
実は前日に郡山から外科医も診療応援に来ていて、どうしてもこの日に帰りたいので、病院の車を借りて、戻る用意をしているとのことだった。探してみるとまだ出発前で、一緒に乗せてもらえると。病院への到着が5-10分遅れてずれていれば、すでに車は出発していたかもしれない。ギリギリ間に合ったというところ。
10時半ごろに岩沼を出発し、途中福島を経由し、郡山に向かった。上りはすんなり通れたものの、下り車線は何キロもの渋滞が続いていた。途中、病院に連絡を入れた。なんとか無事であること。本日土曜の午前中は外来勤務だが、勤務には戻れそうにないことを伝えた。さいわい?地震の影響で現状復帰が最優先で、当日は救急以外は休診にすると聞いて、まずは一安心。郡山には12:20頃に無事到着した。運転は結局最後まで外科の先生にして頂くことになった。
病院に到着して、これが終わりではなく、まだ始まりであることもよく理解はしていたが。

死ぬかと思った。 地震でも津波でもなく、その寒さに下手をすると凍え死ぬかもしれないと思った。Homelessの一晩がつらかったわけでもない。 自分が電車の中で、揺られていたまさにそのとき、大きな津波が実に多くの命を奪い、家や財産や想い出までを奪い去り、東北の沿岸とここに住んでいた多くの人の心に傷跡を残していったこと。たいへんだと思って過ごしていた寒い夜に、もっと寒くつらい状況で耐えなければならなかった方が大勢いたこと。そして僕はそのとき何も手伝うことができなかったことが、今でもこころの贖罪のように奥に淀んで重くのしかかっている。たぶん、これは被災した方でなければ共有できない感情なのかもしれない。わかってほしいと思っているわけでもない。しかし、処し難い重い感情を払拭することができないでもいた。でも、一被災者として何らかの形で記録に残さなくてはならないと思っていた。それでもこころの重しがパソコンのkey boardに手をかけることに躊躇させていた。勇気を持って前に歩きだすためにもこれは乗り越えなければならない試練なのだと思い、一年、ようやく一年経ってこころの襞を記すことができるようになった。 それでも、僕の経験や感情などは他の多くの被災者の方々の経験を眼にし、耳にするたびに、それに比べれば他愛のないものなのだと思う。彼らのこころの深淵を慮ると、まるで自分のことのように悲しみと無念さでこころが押しつぶされそうになる。 我々にとってはそれは過去の経験ではない。一年経った今も現在進行形なのだ。 (2012.05.01)
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