蝦夷地と言われていた北海道に本州からの和人の進出は、14世紀頃からの事らしく、14世紀半ばの 頃の古い記録には「蝦夷に千島」の住人が描かれている。 鎌倉時代の後期から南北朝時代にかけての時期(1312年)これ以後、北海道に進出した和人はアイヌとの 交易を支配していたのは津軽、十三湊に拠点を持つ安東盛季氏であった。 東北地方の戦乱によって安東氏は やがて北に逃れ道南地方に勢力を張ることになる。十五世紀にかけて室町時代には安東氏に関
係の
ある多くの豪族が道南地方に館を築いた。道南地方の館は、和人の勢力争いの拠点だっただけでなく、
北海道の先住民族であるアイヌとの闘争
の拠点でもあった。
1457年コシャマインの蜂起が記録に残る著名な事件で、道南十二
館と言われる諸館のほとんどが攻め落とされた。北海道への和人の進出とアイヌの人々の抑制・搾取への
反撃を象徴する事件で、これ以後
アイヌと和人の対立は数十年にわたって続いた。
アイヌの人々と争ったこの後、豪族の中から主導権を握るものが生まれた。(1593年豊臣秀吉、蛎崎慶広・
後に松前に改名に朱印状を与え、蝦夷地の支配権を公認)上ノ国を拠点とした蛎崎氏はやがて大館(松前)
に移り住み蝦夷地の支配者の地位を獲得した。
蛎崎氏は、秀吉や家康の承認を受ける事で、蝦夷島のただ一つの公認権力となり、幕藩体制に組み込まれ
て松前藩となり蝦夷地を支配した。1868年(明治元年)榎本武揚ら旧幕府軍が五稜郭
において最後の戦いに敗れる。