松前藩は松前を本拠として道南の和人地を支配し蝦夷地のアイヌとの交易を独占した。
幕藩制の中では一万〜三万石程度の外様の小藩である。大名には、国主・准国主・城主・
准城主・無城などの格式があり、松前は城を持つ身分ではなく、福山(現松前)のとりでも、
館とか陣屋と
呼ばれてきたのだが、幕末に周辺防備にために福山城を築いたときに初めて 城主格となった。1849年(嘉永二年)沿岸に出没する外国船に備えて、国境要害の地 と言う事で、九州五島列島の福江藩と共に築城を命じられた。近世の北海道では唯一土着の 封建権力で全島に及ぼした力は大きかった。 蝦夷地各地に商場を藩士に割わたしてアイヌ交易にあたらせ、松前・江差・箱館の三港に沖 の口番所を置いて出入りする商船や商人を管理し、また鷹や砂金などの
特産物からも収益を 得た。松前藩はやがて各地の商場を「場所」と称して商人に請け負わせ、一定の運上金を取り 立てるようになった。場所請負商人たちは、運上家を設けて支配人や番人を置い て支配し、 また漁夫を使用して直接サケ漁やニシン漁などを営むようになり 場所に居住しるアイヌもその統制と使役を受けた。松前藩は二百年余りにわたって松前を 本拠とする支配を続けた。
[下ヨイチ運上家]場所請負人、藤野喜兵衛が文化年間に建て、次ぎの請負人林長左衛門
が嘉永六年(1853年)改築。ペリーの来航した年である。
改築時の図面を元に復元した(余市町モイレ海岸)
明治にかけて発達した鰊番屋・鰊御殿の原型をなすと言われている。
1855年(安政二年)幕府は箱館を開港。 箱館港に出入りする欧米各国の動向を警戒し、 特にロシアとの緊張は続いていたが、樺太での勢力争いが主要な問題だった。 樺太を 含む蝦夷地の警備が最大の問題で、松前藩の他に仙台・南部・津軽・秋田の四藩の蝦
夷地の警備を命じた。 一方開港場となった箱館には津軽・南部などの諸藩の陣屋を設けさせ
、また幕府みずから五稜郭や弁天岬台場を築いて列強の圧力に対抗しょうとした。
幕末安政以降の蝦夷地警備の特徴は、大砲や軍艦で装備した列強に対抗するために、洋式の
兵備が取り入られ、これが引き金となって築城や造船・鉱山の開発など箱館は西洋的
技術の導入の拠点となった。
北方問題の緊迫と箱館開港と言う事情が、それまで松前藩とアイヌと商人だけの世界だった 蝦夷地に幕府の力を導き入れる事になった。 こうした事情がなかったら、北の厳しい 風土に不慣れな武士たちがこの地にやって来る事は無かったであるう。 そこには多くの ドラマや悲劇がうまれた。 寒冷な気候や栄養失調のために倒れていった武士たちの物語は 各地に残っている。そして最後には、幕府の蝦夷地経営の最大の遺産である五稜郭を一つの 舞台とした、維新内乱の幕がおろされることになった。
五稜郭が戦争に役立ったのは、皮肉な事に対外交防衛ではなく、維新の内線においてである。
箱館戦争の戦火や被害をこうむったのは、五稜郭だけでなく、福山城も館城も、また諸藩の陣屋
の幾つかもそうであった。
五稜郭は十八世紀以来のヨーロッパの要塞や城塞都市の構造にならったものであるが、明治に
入って見ればそれはもう時代遅れであった。
箱館戦争は維新内戦の最後の一幕で、
榎本武揚率いる旧幕府軍が北海道に依拠しようとした事の中には、箱館がすでに貿易港で、国際 関係を利用して列強の承認のもとに自立をはかる事も不可能ではなかろうと言う期待があっ た。 榎本らの企ては失敗に終わったが、北海道が国際的に注目される地域だった事は確かである。 榎本ら旧幕府軍を、明治の歴史書は賊軍と呼んでいる。官軍の死者だけが招魂社や護国神社に 祭られていく中で、賊軍の戦死者を葬った碑がひっそりと残されたのは心を打つ。
旧幕府もこの地域にとっては侵入者であり、それでもこの碑が建てられたのは函館市民の義心の あらわれであり、また榎本や大鳥圭介のような人々が後に開拓史の官史として活躍する時期があっ たからでもある。 明治に続く・・・・・