松浦武四郎

その後の松浦武四郎は、松前の池浦地左衛門をたよって松前に行き、山田三川らとも交わる。
11月渡海して津軽鰺ヶ沢に至る。 (五月から六月にかけて東蝦夷地シツナイ・ミツイシ方面 疱瘡流行、死者多数) 1846年(弘化3年)1月2日 武四郎、樺太に渡るため江戸出発。福山・ 江差に到り。4月11日松前藩樺太詰、西川春庵の僕として同行5月小樽朝里沖で「高島おばけ」
(蜃気楼の中でも珍しい上位型で普段の風景が細長く伸びて見える、下位型は宙に浮いて見える) を見る。中旬宗谷到着。それより 樺太白主に渡り、九春古丹に到り、これより東西に分かれ巡回。武四郎は長江某とともにチヘシャニ の方よりトウブツトウを経てトンナイチャトウに到る。これより東岸ヲ見分してマーヌイより 山越して
西岸クシュンナイに出、ノタシャンより白 主に出て九春古丹に戻る。7月7日白主に出て 7月19日宗谷に到着。7月20日蝦夷人一人を召し連れ知床へ向けて出発。8月13日宗谷に 帰着。それより石狩に出、川船にて千歳に出、9月上旬江差に帰着。
(5月11日・・米国捕鯨船ローレンス号の乗組員7人エトロフ島に漂着、翌年長崎に護送。 6月2日外国船一隻松前沖に来航。7月13日徳川斉昭、書を老中阿部正弘に致し、外国船掃壌・ 軍艦製造及び琉球・松前の防備等に関する意見数条を述ぶ)

松前藩士、下東七朗、藩命により江戸佐久間象山の塾で蘭学・砲術・築城等を学ぶ。
  1849年(嘉永2年)1月21日松浦武四郎クナシリ・エトロフの2島見分のため江戸を出発。クナシリ請負人 柏屋喜兵衛の長者丸に乗込みクナシリ島トマリに到る。西海岸を回りアトイヤより渡海してエトロフ島ヘ ロタベに渡りナイホよりフレベツに到る。それよりシベトラ・ラキベツに到って8月 箱館帰着(三航蝦夷日誌)この時の調査による。

4月15日、目付大久保彦左衛門松前に来る。松前昌広病気につき退隠の血誓を点検 閏4月16日松前昌広、 家督を祟広(22歳)に譲る。 5月12日、目付大久保彦左衛門帰府)

6月9日松前昌広(松前家16世)の隠居・祟広の襲封をゆるす。7月1日松前祟広、将軍家慶に拝謁、 昆布・巣鷹・鷲尾・熊皮・黄金を献上、松前監物広林・蠣崎四郎左衛門吉包が陪従。 幕府、松前に築城を命じる。藩は築城につき領内町人百姓に分限に応じて献金を命じ、献金の者を 従士・足軽に旨達す。7月9日箱館大津屋茂吉、築城費として2200金両を献金、松前家より問屋株を 免許される。 1850年2月松浦武四郎(32歳)「蝦夷日誌」の草稿にかかる。 全道和人戸数1万3301、人口5万9554人。 △1851年 シーボルト「大日本陸海図張」を出版し、間宮林蔵が最上徳内のカラフト図を公刊。 1852年5月ぺりー浦賀へ来航 1853年 松浦武四郎「三航蝦夷日誌」35冊を平野正太郎を通じて水戸斉昭に献上。 1854年(安政元年)3月日米和親条約締結。 武四郎、樺太の国境について幕府に建白する。6月蝦夷・樺太・千島 の地図を作成し、幕府に献上

1859年九月浦賀奉行・坂井正輝養女とふ、と祝言を上げる。
武四郎(41歳)12月病気に付き、御雇御免願を差し出す。
1860年(安政6年)桜田門外の変・・
1866年(慶応2年)2月、大友亀太郎、蝦夷地全国永年開墾見込書を箱館奉行に提出ついで蝦夷地開墾掛け を命じられる。
4月、藩主松前祟広(松前17世)病没(4月26日38歳)
内田九一、横浜馬車通りに写真場を開設

1867年・・大政奉還・・・・・王政復古の大号令発令
木津幸吉と田本研造、松前に赴き福山城を写真撮影
1868年(慶応4年・・明治元年) 松浦武四郎(50歳)箱館府権判事に任じられる。 (従五位下)
江戸開城、江戸を東京と改称。
戊辰戦争はじまる(鳥羽・伏見の戦い)
12月榎本武揚ら旧幕府軍、軍艦8隻を率いて脱走し、箱館に本営を設置(五稜郭)
1869年(明治2年5月)榎本武揚ら旧幕府軍、政府軍に降伏、戊辰戦争終結。 開拓使を設置、鍋島直正開拓長官に就任
松浦武四郎、国郡名の選定にあたり、蝦夷を北海道と改称。

九月、開拓使判官辞職願を提出、自適の生活に入る。(52歳)


1879年(明治12年、61歳)3月妻と東海道を経て伊勢、京都、吉野を漫遊
1887年 (明治20年、69歳)三十ヶ国遍歴のために江戸を発つ
江戸・播磨・淡路・阿波・伊予・備後・長門・豊前・筑前・備前・紀伊・伊勢・江戸
1888年(明治21年2月10日) 脳溢血のため死去、享年70歳



山川出版社発行
北海道歴史教育研究会著
「北海道の歴史散歩」を引用させて頂きました。
北海道出版企画センター発行
榊原正文氏著 武四郎千島日誌を引用させて頂きました。
写真は「目で見る函館のうつりかわり」著(函館市)から引用させて頂きました。