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My Merry Maybe Short Story 
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My Merry Maybe Short Story

── タイトル未定 ──


※注意※

 このページは、KIDの「My Merry Maybe」──正確には、そのムック本「My Merry Maybe マテリアルコレクション」に掲載されている、 ゲームの後日談の最後の台詞を見て浮かんだ話を記述したものです。
 同作品のネタばれが含まれていますので、同作品を未プレイの方は見ない方が幸せです。多分。それに、未プレイの方が読んでも訳が判らないだけかもしれません。

 まあ、話と言っても、「こんな場面が浮かんだ」というだけで、あまり物語としては纏まっていないと思いますが。 話は、上記のように、「マテリアルコレクション」掲載の後日談の、更に後日談という事で、ゲームの「ライカAエンド」のルートが前提となっています。 ただ、都合により、他のシナリオでしか出てこない台詞や状況を利用する場合もありますが、できるだけ齟齬が出ない範囲に止めるつもりですので、ご容赦下さい。 その点で言うと、時系列的に重なる物語が、「with be」収録の「Epilogue〜五月の終わり〜」と、「マテリアルコレクション」掲載のものとの両方がある訳ですが、 基本的には、舞台背景は前者を、それ以外は後者を採用しています。 前者の世界の中に、後者でのキャラの台詞や経験を当てはめた、ぐらいに思っていただけるとよろしいかと。
 また、作品世界の設定については、ゲーム本編で描かれたもの+「マテリアルコレクション」掲載のものに準拠しています。できるだけ。 ただ、細かい点(例えば、穂乃香の部屋が何畳敷きなのか、作中で記述があったかどうか、設定があるのかどうか、といった事)は、確認せずに書いてたりします。


(2005/08/19 とりあえずページを公開)
(2005/08/20 “Scene 01”を公開)
(2005/08/24 “Scene 02”・“Scene 03”を公開)
(2005/08/28 “Scene 04”を公開)
(2005/09/08 “Scene 05”を公開)
(2005/09/12 “Scene 06”を公開・何となく「第n章」を“Scene xx”に変更・未定ながらタイトル追加)
(2007/02/08 行高さのスタイルシートの設定を外部ファイルに抽出した)



Scene 01

Scene 02

Scene 03

Scene 04

Scene 05

Scene 06

Scene 07

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─ Scene 01 ─

「私、浩人くんの赤ちゃんが欲しいの」

 真夏の日差しが容赦なくコンクリートの岸壁と砂浜とを焼く、8月の中旬のことだった。
 清天町唯一の医療施設である玉村診療所。 その居間・兼食堂・兼玉村診療所の看護師にして診療所所長の玉村先生の一人娘・玉村穂乃香さんの私室である6畳間で、 その穂乃香さん手ずから注いでもらった麦茶で乾いた喉を潤していた面々は、いきなりの「彼女」のその言葉に、一様に驚いた表情で発言の主を見、そのまま固まった。

(うーん、何て予想通りの反応。にしても、ここまで揃って同じ反応とは、面白い)

 その様子を見て、「彼女」の隣に座っているオレ──岸森浩人は、心の中で思った。 もちろん、あらかじめ「彼女」がこの話を切り出すことを承知していたオレは、驚いたりしない。 この話を聞いて、皆がどんな反応を示すか──オレにとっては、それだけが問題だった。
 ただ、驚きが数瞬の内に通り過ぎた後の反応には、それぞれの個性が如実に表われていたが。

「また、何を言い出すかと思えば…」
 呆れたようにそう呟きながら、頭痛そーに目を閉じて眉間に皺を寄せ、その上、これ見よがしに額に右手の人指し指と中指とを揃えて当てているのは、水上鏡さん。 清天町の保健所の職員であり、独学でレプリスに関する知識を修得した才女であり、硬質な印象を与える美女。 あの五月に初めて出会った時は、オレもその程度の印象しか持たなかったが、今では、その硬い表情の間にほの見える豊かな感情の揺らぎが読み取れるようになった。 オレの水上さんに対する理解が深まった事と、あの出来事が水上さん自身も変えた事。その両方の為だろう。 今の、この(水上さんにしては)やや大袈裟な仕草にしても、あの頃の水上さんなら決してしなかったと思う。

「それは素敵ですね」
 水上さんとは対照的に、柔らかな笑顔を浮かべ、瞳を輝かせて、組んだ両手を顔の前に掲げてしまったりしているのは、この部屋の主である玉村穂乃香さん。 その言葉や表情には、ややうっとりとした印象が感じられる。
 人当たりが良く、誰にでも親切で、優秀な看護師。 そんな穂乃香さんは、レプリスだ。オレがその事を知ったのは、あの出来事が終わってからしばらくしての事だった。 別に秘密でも何でもなく、清天町の住人なら誰でも知っている事だ。 ただ、当時、教育実習生として清天町に来たばかりだったオレが知らなかっただけ。
 穂乃香さんは、日本の結城コーポレーションという、レプリスのトップメーカーの一つが製造・販売をしている「TYPE-C」と呼ばれる型のレプリスだ。 だが、一般の「TYPE-C」から受けるという、やや無機的な印象は、穂乃香さんには無い。 それが、玉村先生が与えた「心」の為である、という事を知ったのもまた、あの出来事の後の事である。

 その穂乃香さんが、まるで「私も欲しいです」とでも言いたげな、期待のこもった眼差しで、隣に座っている初老の男性を見た。
「………」
 穂乃香さんの視線を、無言のまま、しかめっ面で受け止めた男性が、この診療所所長の玉村先生である。 その右手が、白衣の内ポケットを探っている。きっと、無意識のうちに煙草を吸おうとしているのだろう。 穂乃香さんの見ている所では決して吸わない筈なのだが、内心の驚きが動作に出てしまったようだ。 それに気が付いたのか、先生は、右手を内ポケットから出して、まだ半分以上残っている麦茶のコップを握った。
「清天町で、唯一にして最高の名医」とは、町の人達が口を揃えて言う台詞だ。 今では、人間相手の医者をしているが、かつては、レプリス研究の第一人者であった、らしい。 先生は、あまり自分の過去の事を話さないし、オレも特に聞き出そうとは思わない為、詳しくは知らない。 しかし、そうでもなければ、強固なセキュリティに守られたレプリスのシステムを改造し、穂乃香さんに「心」を与える事など、到底不可能だろう。
 先生は、穂乃香さんと並んで、あの出来事と、それ以降の生活の中で、オレが最もお世話になっている人物だ。 清天町で、オレが最も信頼している人物の一人でもある。 穂乃香さんにとっては、単なるレプリスのマスターを超えた、父親のような存在である。 実際、穂乃香さんも、仕事の場以外では、「先生」ではなく「お父さん」と呼ぶ。
 先生が命令したんじゃないんです。私がそう呼びたいんです──何時だったか、穂乃香さんはそう言っていた。

「いいじゃない! ね、産まれたら真っ先に抱かせてね。そーだ、未来と友達にしようよ。男の子だったら、将来結婚させるのもいいわよね。ね?」
 …激しく先走った事を大喜びで言いながら、「彼女」の手を取って上下にぶんぶん振り回しているのが、篠片由真さん。 振り回しているのと逆の腕には、すやすやと眠る赤ちゃんが抱かれている。 片手で人の腕を振り回しながら、片手に抱いた赤ちゃんを落っことすどころか起こしもしないのを見て、オレは、妙な所で器用なものだ、と感心した。
 篠片さんに会うのは、あの出来事以来、今日が初めてだった。 電話やメールのやり取りは時折していたが、直接顔を合わせるのは、実に一年以上のご無沙汰である。
 篠片さんは、三週間の教育実習を共に履修した友人であり、その間生活を共にした同居人であり、そして、「彼女」を一緒に見守った「家族」だった。 もしかしたら、「彼女」に対する愛情は、オレよりも深く、大きかったかもしれない。 今では、その愛情の大部分は、その腕で眠る愛娘──未来(みく)ちゃんに向けられているようだが、「彼女」を見る篠片さんの眼差しには、 今でもあの頃と変わらない温かさが溢れていた。

 そして、篠片さんに腕を振り回されながら、少し困ったような、それでいて嬉しそうな笑みを浮かべているのが、発言の主である「彼女」──レゥちゃんである。
 レゥちゃんについては──やめておこう。話したい事が多過ぎる。
 ただ、話したい事を端的に表わすなら簡単だ。

 オレにとって、この世界でただ一人の、かけがえのない女性。

 これが、今日、玉村診療所に集まった一同の顔触れである。



─ Scene 02 ─

 きっかけは、十日程前に、篠片さんから掛かってきた電話だった。

「もしもし、岸森くん? 私。実はさ、九月から仕事始めることになってね。でね、忙しくなる前に一度そっちに行きたいんだけど。いい?」

 篠片さんからの電話は、いつもこんな調子だ。 前の電話からいくら日が空いていようと、挨拶もそこそこに本題に入る。この時も、前回の電話から一ヶ月は経っていた筈だ。そして、本題以外の事は殆ど話さずに切る。 例外は、出産直後にもらったものだけだ。 あの時は、「赤ちゃんがいかに自分に似て可愛いか」という話を延々と聞かされた。 しかも、こちらが適当に聞いていると怒る。迂闊に生返事でもしようものなら、もう一度始めから繰り返す。たまったものではない。 もっとも、篠片さんは、後で看護師さんに、出産直後なんだからいい加減にして下さい、と怒られたらしいが。

「こっちに来るって、赤ちゃんの顔見せ?」
「もちろん。私も、お世話になった人には会いたいし」
「と言うと、オレとレゥちゃんと…」
「どうして、そこで岸森くんが先頭なのよ」
「事実だからだろ? で、玉村先生に、穂乃香さんに」
 篠片さんのツッコミは置いておいて、オレは、名前を挙げながら指折り数える。
「校長先生に、みのんとサブ! あと、水上さんもね」
「そんなところか。それで、来るのっていつ?」
「来週のどこかが良いんだけど。再来週以降は、何かと忙しくなりそうだし」
「それだと、校長先生は無理」
「どうして?」
「来週いっぱい研修らしいよ。よく判らないけど、何か、中学校の校長先生が参加するやつらしい」
「そっか…残念だわ。まあ、あの人は町から離れそうにないし、またの機会にするか」
「だな。校長先生には、一応話はしておくけど」
「お願いするわ。具体的な日時は、そちらの都合に合わせるから、岸森くん、調整してくれる?」
「判った。と言っても、調整の必要があるのは、水上さんぐらいだろうけどね」
「忙しいの?」
「と言うか、水上さん以外の人が暇なんだよ」
「…納得。じゃあ、よろしくお願いね」
「待って。どのぐらいこっちに居るの? 二、三日ぐらい?」
「まさか。日帰りよ」
「日帰りは大変じゃないか? せめて、一泊ぐらいはしていきなよ。一日で一往復するより、二日で一往復する方が、体の負担も少ないだろうし」
「あら、嬉しい事言うじゃない。私の体のこと、心配してくれてるんだ?」
「心配なのは、赤ちゃんのほう。ただでさえ、暑い時期なんだから、あんまり連れ回したら可哀想だろう?」
「何か引っ掛かる言い方ね。でも、まあ、それは確かに」
「それに、こっちのバスの本数の少なさ、知ってるだろ? 日帰りだとあまり居られる時間が無いし、大体、帰る時間を気にしてたら、積もる話もできない」
「そんな事言ったって、そっちに泊まれる所なんて無いじゃない」
「そりゃ、ホテルや旅館は無いけどさ。玉村先生の所とか、水上さんの所とか、草津さんの所でも。泊まれる所はあるよ」
「そんなの、悪いわよ」
「気兼ねする、って言うんなら、うちに泊まればいい」
「…嫌よ、そんなの」
「どうして?」
「だって、それって、新婚夫婦の寝室にお邪魔するようなものじゃない。それこそ気兼ねするわよ」
「あのね…。とにかく、うちは気兼ねしなくて良いよ。レゥちゃんも、その方が喜ぶと思うし。久し振りに、レゥちゃんと一緒に寝たくない?」
「う…。それは、そう、かも」
「じゃ、決まり」
「…判ったわよ。岸森くんがそこまで言うなら、一晩だけお世話になります」
「おっけー。じゃあ、皆の予定を確認して、また明日の晩にでもこちらから電話するから。それでいい?」
「いいわ。よろしくお願いね。あ、あと…」
「何?」
「レゥちゃんは、元気?」
 これが、篠片さんが、電話をしてきた時に話す、「本題以外」の唯一の事だ。電話の最後に、必ずこう聞く。
 そして、それに対するオレの返答も、いつも同じだ。
「元気だよ。大丈夫」
 ただ、今回は、もう少し言葉を加えた。
「来週会えるんだから。心配しなくても大丈夫」
「…そうよね。じゃあ、また」
 篠片さんは、少しほっとしたような声でそう言うと、電話を切った。

 買い物から帰って来たレゥちゃんにこの話を伝えると、案の定、大喜びだった。 篠片さんの、「ふわふわでもこもこ」な赤ちゃんを抱かせてもらえるのを、ずっと心待ちにしていたからだ。 ただ、篠片さんが一晩うちに泊まる、と聞いた時だけ、少し…ほんの少しだけ、それまで見せていた心からの笑顔が翳ったように見えた。 だが、すぐにその翳りは消えて、「楽しみだね、浩人くん」と、レゥちゃんは言った。だから、オレも、それを見なかったふりをした。

 ──レゥちゃんは、それに気が付いたのだろうか?



─ Scene 03 ─

 次の日、オレは、篠片さんの来訪の話と、予定の確認をする為に、電話をかけまくる事になった。

 篠片さんとの電話でも言ったように、一番都合のつかなさそうなのが、保健所に勤める水上さんだ。 特に今の季節は、食中毒だの何だので他の季節より忙しい筈。 そう思っていたのだが、水上さんは、あっさりと「来週ならいつでもいいわよ」と言った。
「いつでもいいんですか?」
「そう言わなかったかしら」
「いや、まあ…。でも、今の季節って、忙しくて休みとか取れないんじゃないかと思ってたものですから」
「休みは取れないわね。でも、来週は行事やイベントの類が無いから、一、二時間都合をつけて外出するぐらいの余裕は、いつでもある。そういうこと」
「…勤務時間内にいいんですか? それ…」
「やるべき事をきちんとやっていれば、誰も文句は言わないわ」
「そんなものですか」
 まあ、水上さんがそう言うのなら、そうなんだろう。
「でも、それだと、あまり話はできないかもしれませんね」
「いいのよ。私は、彼女とそれ程面識があるわけではないし」
「…そんなこと…」
 抑えたつもりだったが、少し、オレが感じた不愉快さが声に出てしまったらしい。水上さんは、すぐに謝罪した。
「ごめんなさい。気に障る言い方だったかもしれないわね」
「いえ…オレこそ、すみません。でも、それならどうして…」
「仕事を抜けてまで会いに行くのか、かしら」
「はい」
「そうね…」
 そこまで言って、水上さんは少し言葉を探すかのように間を空けた。
「縁を、大切にしたいと…。そう、思ったからかしら…ね」
「縁、ですか」
「そう。あの五月に出会った君達との」
「…ありがとうございます」
「何故?」
「いえ、何となく」
「…そう」
 それは、今までに聞いた水上さんの言葉の中で、最も優しく響いた言葉だったように思う。水上さんもまた、あの五月の出来事を共有した人だった。
 とりあえず、オレは、他の人も大丈夫ならですけど、と前置きしてから、仮の日にちを決めた。
「確定したら、また電話します」
「楽しみにしてるわね」

「いつでも構いませんよ。どうせ診療所はいつも暇ですから」
 可笑しさを堪えているような調子で、穂乃香さんは明るく言った。それは、オレの予想通りの答だった。 尤も、「診療所はいつも暇ですから」という台詞は、穂乃香さんの決まり文句になっているのだが。
「先生も、楽しみにしてるんですよ。篠片さんの赤ちゃんのこと」
「そうなんですか?」
「ええ、それはもう。以前、赤ちゃんが無事に産まれた、って聞いた時も、凄く喜んでましたし」
「あの先生が、ですか?」
「はい。あの先生が、です」
 そう言って、穂乃香さんは、今度は堪えずにくすくすと笑った。
 これも、穂乃香さんの、と言うより、オレと穂乃香さんとの間での、決まり文句になっていた。 初めて会った頃、玉村先生に対するオレの印象は、決して良いものでは無かった。 それが、穂乃香さんから、玉村先生の意外な一面を知らされる度に、オレは「あの先生が?」と聞き返し、穂乃香さんは「あの先生が、です」と可笑しそうに答えた。 誰もが知り合いのようなこの町で、オレのような人間は珍しかっただろうし、知らない人に先生の──穂乃香さんが父のように慕う人の本当の姿を知ってもらうのが、 嬉しくて堪らないような感じに見えた。
 そして、玉村先生の人となりをよく知るようになった今でも、何かにつけてこのやり取りは続けられていた。 こんな他愛もない言葉の遊びでも、穂乃香さんにとっては、とても楽しい事のようだった。
「もちろん、先生は、そんな事はおくびにも出していないつもり…なんですけど」
「穂乃香さんには判っちゃう?」
「ええ」
 そう言って、またくすくすと笑う。
「ところで、岸森さん。よかったら、皆さん、うちにおいでになりませんか?」
 ひとしきり笑うと、穂乃香さんは、そう提案してきた。 間抜けな話だったが、オレは、「何処に集まるのか」という事をちゃんと決めていなかった。 漠然と、商店街の定食屋の座敷部屋とか、さもなければ、オレの部屋でいいだろう、と思っていたのだが。
「でも、こう言っては何なんですが、岸森さんのお部屋に大勢集まると、他の部屋の方にご迷惑になりませんか?」
 穂乃香さんは、レゥちゃんがベッドを出て、一人で動けるようになるまで、何くれとなく身の回りの世話をしてくれた。 そのため、オレの住んでいるアパートについても、よく知っている。 例えば、壁が薄くて、隣室の声がよく聞こえてしまう、とか。
「それは、そうですが…」
「うちなら、気兼ねなく騒げますよ。お店みたいに、時間を気にする必要もありませんし」
「いや、別に宴会をする訳では」
「赤ちゃんがいるんですから、嫌でも賑やかになりますよ」
「でも、悪いですよ。そんな」
「今さら遠慮なんて、おかしいですよ、岸森さん」
 穂乃香さんの声音には、少し怒ったような響きが感じられた。いや、穂乃香さんが怒るなんて…あり得るのか?
 でも、確かに、穂乃香さんの言う通りかもしれない。 オレは、この町で暮らす間に、つまらない遠慮などする必要のない人達を得る事ができたのではなかったのだろうか。 今になって、その好意を断る理由など、何処にあるだろう。 だいたい、篠片さんにはあんな調子の良い事を言っておいて、今さら遠慮も何も無いものだ。
「すみません。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
「はい。ご馳走作って、お出迎えしましょうね」
 その声は、オレが先の声音に感じた響きなど幻覚だと思えるほど、喜びに溢れていた。



─ Scene 04 ─

「ええぇ──っ! 来週ぅ──っ! どおしてぇ──っ!」
 受話器から出たその声が、耳元で爆発したような気がして、オレは思わず受話器を放り出しそうになった──が、すんでのところで、 腕が伸びる限界まで遠ざけるのに止める。
(おかしいな…今、音が割れていたような気がするが…)
 オレは、まだ何か喚き声が漏れ聞こえてくる受話器を見ながら思った。
 有線音声電話のシステムは、数年前に全国的に更新された。未だに、携帯電話が通じないこの清天町も例外ではない。
 ──恋人が耳元で囁くような明瞭な音質。母親の気遣いも感じ取れる原音に忠実な再現性。如何なる大きさの声も聞き易くする音量変換機能── 新システムの謳い文句は、確かこんなのだった。 携帯電話にシェアを奪われつつも、辛うじてコンピュータ・ネットワークのインフラとして(そして、この町のように携帯電話が使えない地域の為に) 生き残っている有線電話回線は、どうしても音声の圧縮変換が必要な無線電話に対して、音質を重視する事で対抗しようとしているらしい。 最後の音量変換機能というのは、要するに、小さ過ぎる音は大きめに、大き過ぎる音は小さめにして声を聞き取り易くするもので、 話者の音声をリアルタイムに解析して音量を調整し、受話側に送り出しているそうだ。 だから、理論上、音割れ──すなわち、受話側の再生限界を越えた音量の音声が入力される事により、再生時に音声が歪む事──などは起こり得ない筈なのだが…。
(うーむ、現役女子中学生のパワーは、最新技術の限界をも凌駕するものなのか)
 オレが、そんな埒も無い事を考えていると、受話器からオレを呼ぶ声が聞こえてきた。慌てて、受話器を耳に当て直す。
「せんせーい! 岸森せんせーい! もしもーし、聞いてますかぁ?」
「ああ、聞いてる、聞いてる。ごめん、ちょっと考え事をしていて」
「もぉー、電話をかけてきたのは先生でしょお? しっかりして下さいよぉ。どうせ、何か変な事考えてたんでしょ」
 そう言って、電話の相手──草津みのりさんは、いひひと笑った。
 草津さんは、現在、清天中学校の二年生。オレが、同校を教育実習生として訪れた時からの教え子だ。 年齢より子供っぽい所はあるが、クラスのムードメーカーでもあり、男女問わず人気は高い。 同級生達をはじめ、仲の良い人達──例えば篠片さんなど──は、彼女の事を「みのん」と呼ぶ。
 実習期間中は、宿舎になっていた公民館に風呂が無かった事もあって、篠片さんやレゥちゃんと一緒に、よく彼女の家に風呂を借りに行っていた。 そのせいか、他の生徒達に比べると、やや親しいというか、気安い関係ではある。もちろん、それで成績に手心を加えるような事はしないが。
「そんな訳ないだろ。それより、来週だと都合でも悪いのか?」
「悪いんですぅ。うち、来週は家族旅行なんだから」
「へぇ、良いじゃないか。何処に行くんだ?」
「北海道。五泊六日で」
「それはまた豪勢じゃないか」
「そんな事ないですよぉ。篠片せんせいの赤ちゃんの方が、よっぽど良いです!」
「おいおい、そんな事言ったらバチが当たるぞ。お父さん、せっかく漁を休んで連れてってくれるんだろう?」
「だぁってぇ、バカのブッチンも一緒に行くんですよぉ」
「…へ?」
「だからぁ、うちの家族と、バカのブッチンの家族で一緒に行く事になっちゃったんですよぉ!」
「バカのブッチン」というのは、草津さんの幼馴染みのサブの事だ。もちろん、清天中学校の生徒で、オレの教え子でもある。 草津さんとは、いつも口喧嘩が絶えないが、それが、この年頃の子供達によくある照れ隠しである事はバレバレである。
「どうしてまた?」
「知りませんよぉ。お父さん達が、何時の間にか勝手に決めてきちゃったんだから。もぉ最悪!」
 電話の向こうの草津さんは、本気で腹を立てているようだ。一応、彼女を教える立場のオレとしては、ここは何とか宥めなければならない。
「まあまあ、そんなに怒る事ないだろ? せっかくの旅行なんだからさ、日頃のあれやこれやは忘れてさ、楽しんでおいでよ」
「そんな事言われたってぇ…。そぉだ、先生が一緒なら、楽しくなるんだけどなぁ」
 草津さんの声が、一転して、甘えるような猫撫で声に変わる。更新された電話回線は、その声に含まれる、からかう様なニュアンスも忠実に再現する。 そこには、確かに「女」としての「芽」のようなモノが感じられるものの、幼さの方が先に立ってしまっていて、とても男を誘惑するには足りない。
「はいはい、ありがとな。来年、修学旅行があるから一緒に行けるぞ」
「あぁーっ、また子供扱いしたぁー!」
「子供扱いされたくなかったら、ちゃんと分別を持って、旅行を楽しむこと」
「うぅー、先生、ずるいぃー」
「そうそう、大人は狡いものなの。よく覚えとけよ」
「そんな事言ったってぇ、バカのブッチンと一緒で楽しめる訳無いですよぉ」
「そうとは限らないかもよ? 日頃見慣れた奴も、旅先の違う環境で見れば、また新鮮な発見があるもんだ」
「無い無い! あのバカに限ってそれは無い! あたし、断言しちゃうもん」
「そうか? サブの奴、この頃結構男らしくなってきてるぞ。身長も伸びてきてるし、声変わりだってしてきてるしな」
「それは、そうかもしれないけどぉ…。でも、言ってる事とやってる事は全然ですよぉ」
 草津さんの声が、少し自信無さ気になってきた。よし、もう一息。
「だからさ、環境が変われば、そういう事も変わるもんなんだって」
「うぅー、そーかなぁ…」
「そうそう。それに、せっかくの二度と無い中二の夏休みなんだからさ、喧嘩して過ごすより楽しく過ごした方がお得ってもんだし」
「うん…そうか。そうだよね。あたしが楽しくしてないと、じっちゃんも心配するよね」
 草津さんのその言葉で、オレは、と胸を衝かれた。あの五月に逝ってしまった、彼女の最愛の祖父。そして、今際の際に、レゥちゃんに生きる道を示してくれた人。 今は亡き、その草津かつきさんは、彼女の中に生きているのだ。
「草津さん…」
「判った。先生、あたし、旅行、目いっぱい楽しんでくるよ」
「…ああ。そうしておいで」
「うん。篠片先生の赤ちゃんは、またいつか会えるよね。あたし、楽しみにしてるからって、先生から伝えておいてね」
「もちろん」
「じゃあ、またね、先生。お土産、楽しみにしててね」
 明るい声でそう言って、草津さんは電話を切った。その声には、さっきの作った猫撫で声には無い、本当の大人の気配が漂っている様に思えた。
 受話器を置いたオレは、結局、彼女を今もって支えているのは、あの豪胆で優しい海の男なのだ、と再認識させられていた。 オレは、まだあの人の足元にも及ばない。その認識は、やはり今はもういない筈の、もう一人の「彼」に対するものとどこか共通する、苦い感覚を伴っていた。



─ Scene 05 ─

 見渡す限り、雲一つない青空が広がっている。今日も暑い。
 八月の午後の太陽は、既に西に傾き始めていたが、それでも、強烈に照りつけている。 土がむき出しの農道は、都会のアスファルトの地面ほどではないが、強い照り返しで下からも肌を焼く。
 僅かに潮気を含む空気がまとわりつく中、オレは、滲む汗を拭いながら、清天中学校への道を歩いていた。 少し前を、強い陽射しも、人間の体温ぐらいはある空気の熱さも気にならないかのように、弾むような足取りでレゥちゃんが歩いている。 長く艶やかな髪が、その律動的な動きにあわせて揺れる度、太陽の光を受けてキラキラと輝く。 青と緑と茶の単調な色彩の景色の中で、その輝きはひときわ美しく映え、オレは、しばし暑さを忘れた。
 と、その歩みが突然止まり、レゥちゃんが振り向いた。
「ほら、浩人くん。あそこ、校長先生だよ、きっと」
 そう言いながら、レゥちゃんは、いつの間にか目の前に迫っていた、清天中学校の校庭を指さした。 その先、校庭の片隅には、ささやかな菜園がある。その緑の間に、麦わら帽子を被った人影が見え隠れしていた。
「やっぱりここだったのか」
「ね、私の言った通りだったでしょ。さ、早く行こうよ」
 得意満面。その言葉の見本のような表情を浮かべて、レゥちゃんは、オレの腕を取ると、さっさと菜園の方に歩きだした。 オレも、レゥちゃんに引きずられるようにして、校庭に足を踏み入れる。
「あー、岸森先生がデートしてるぅー!」
「先生、あっつーいぃ!」
「いいなぁー、ひゅうひゅう!」
 途端に、黄色い声が飛んできた。 声のした方を見ると、校舎の前にある常緑樹の木陰に、十人ぐらいの生徒達が屯していた。 全員女生徒で、体操服を着ている。側に、グローブやバットが置かれているところを見ると、どうやら、ソフトボール部の連中のようだ。 オレとレゥちゃんとが連れ立って入ってきたのを、目ざとく見つけて、冷やかしているのだ。
「こら、お前ら! ちゃんと真面目に練習してるのか!?」
 オレは、多少照れくさかった事もあり、思わず大声を上げてしまった。だが、その程度で大人しくなるような子達ではない。
「ちゃあんとしてますよぉ! 今はぁ、休憩中なんでぇす!」
「先生こそ、レゥさんといちゃいちゃしてばっかりいちゃ、だめですよぉ、だ!」
 ダメだ。下手に言い返すと、倍、言い返される。
「レゥさぁん、今度の土曜日、紅白戦やるんです! よかったら、また助っ人お願いできますかぁ?」
「いいよー!」
 レゥちゃんが、冷やかしの声も全く気にしない様子で、屈託ない笑顔で女生徒達の方に手を振っている。 この頃、レゥちゃんは、時々、ソフトボール部の練習に参加していた。 部員どころか生徒でもない為、さすがに対外試合などには参加できないが、内部での紅白戦を行なう時など、部員だけでは人数が足りないような場合に、 助っ人として呼ばれる事があるのだ。 元々は、レゥちゃんの体の機能回復の為に、という事で始めたのだが、部員達とすっかり仲良くなった今では、半ばレゥちゃんの趣味と化している。 それは、娯楽の少ないこの町での貴重な時間であり、また、レゥちゃんが「学校」というものを体験できる、数少ない機会でもあった。

 そうこうしている内に、随分菜園に近付いていた。麦わら帽子の人影が、オレ達に気付いてこちらに手を振っている。間違いなく、校長先生だ。
「こんにちは、校長先生」
「こんにちは」
 オレ達は、小走りに傍まで行って挨拶した。
「やあ、岸森君にレゥちゃん。今日も暑いねぇ」
 校長先生も、にこやかに挨拶を返す。暑いと言いながらも、あまり汗をかいたりしていないのは、ここの気候に慣れきっているからなのだろう。 ここで暮らし始めて一年程度のオレでは、まだまだ、冷房の効いた部屋の中での暮らしが抜けきれないようだ。
「やっぱりこちらにいらしたんですね」
「ああ、こう暑いとね、毎日きちんと見てやらないと、すぐに駄目になってしまうからね。こうやって、日に一度は手入れに来ているんだよ」
「なるほど」
「ところで、君達、いつも仲が良いねぇ。全く、若い人は羨ましいよ」
「はあ、恐れ入ります」
「でも、岸森君。仮にも教師という立場なんだから、あまり生徒達に見せつけるのはどうかと思うよ」
 校長先生の口調が、少し厳しくなる。どうやら、校庭に入ってからの生徒達とのやり取りも、全部見られてしまっていたらしい。 オレは、しまった、という風に、横目でレゥちゃんの方を見た。 レゥちゃんも、オレと目が合うと、「やば」といった感じで慌ててオレの腕から手を離す。 そのまま、手を背中に隠すように回すと、悪戯を見つけられた子供のように、ちらと可愛い舌を覗かせた。少し俯いた顔が、みるみる赤く染まっていく。 友達の女生徒達に冷やかされるのには慣れていても、遥かに年上の人間に、真正面から指摘されるのはまだまだ恥ずかしいらしい。
 その様子を見た校長先生は、一転して相好を崩した。
「はっはっはっ、そんなに慌てて畏まらんでも良いよ。仲よき事は美しき哉。ただ、子供達の前では、節度を守ってくれさえすればいいんだから」
「はい、すみません。気をつけます」
「ははは、まあ、適当に頼むよ。それより、二人して今日はどうしたんだい? こんな所に、デートでもないんだろう?」
 校長先生にそう水を向けられて、オレは、来週の、篠片さんの来訪の話を切り出した。
「そうか、来週かね。それは残念だなぁ。来週は、あいにく研修でずっといないからねぇ、私は」
「それで、ご連絡だけでもと思って電話したんですが。でも、自宅にも職員室にもいらっしゃらなかったもので…」
 その為、オレがまた夜にでもかけ直そうかと思っていたところ、レゥちゃんが、「校長先生なら、多分菜園にいるんじゃないかなぁ」と言い出したのだ。 名義上、園芸部のものであるこの菜園は、現在の所、園芸部員が一人もいない為、実際には、顧問である校長先生の個人的な菜園と言っていい。 栽培されているのも、茄子やら胡瓜やらトマトやらといった、要するに「酒の肴」になりそうな野菜類が主だ。 だから、校長先生は、いつも熱心に菜園の手入れをしている。特に遊ぶ所も無いこの町だ。菜園にいる可能性は高かった。 ただ、この炎天下を、わざわざ学校まで歩いて行くのは遠慮したかった。 そんなオレを、レゥちゃんは、半ば無理矢理連れ出したのだった。
「晩御飯のお買い物だってしたいし、それに…」
「それに?」
「…最近、あんまり、二人で出かけたりしてないもの」
 レゥちゃんに、少し拗ねたような上目遣いでそう言われると、とても否とは言えない。
 そういう事情もあって、こうして学校までやって来た、という訳だった。

「そうかい、そうかい。それはわざわざ済まなかったねぇ。しかし、本当に残念だなぁ。研修なんかより、篠片君の赤ちゃんを見る方が余程楽しいだろうに」
 …校長先生、それでは草津さんと同レベルです。そう言いたいのをぐっと堪える。
「でも、重要な研修なんじゃないんですか?」
「どうだろうねぇ。結局の所、校長先生というのは、先生と言っても実際は学校を運営し、教職員を纏める管理職のようなものなんだ。 だから、研修と言ったって、どう子供達を指導するか、という事より、どう学校を管理・運営するか、という方に比重が置かれるんだよ」
「そういうものですか」
「そういうものなんだよ。参加する校長達にしたって、今では半分以上が、民間会社の管理職だの、役員だのの出身者だからね。 研修の内容も、企業の管理職研修なんかとさして変わらないよ。うちの様な、規模の小さな学校には、縁遠い内容ばかりなんだ」
「それでも、参加しない訳にはいかない、と?」
「そうなんだよ。欠席なんかしたら、後から教育委員会に何を言われるか。下手をしたら、これだからね、コレ」
 校長先生は、そう言いながら喉元に手を当てて、首を切る仕草をして見せる。
「浩人くん、コレって何?」
 レゥちゃんが、校長先生の真似をして、手を喉元に当てながらオレに聞いた。
「首になるって事」
「くび?」
「要するに、学校を辞めさせられる、って事だよ」
「え、校長先生、辞めさせられちゃうんですか!?」
 早とちりしたレゥちゃんが、心配そうな顔で校長先生に向き直る。その顔を見た校長先生は、愉快そうに笑った。
「いやいや、そうならないように、ちゃんと研修に行こう、という話だよ。そんなに心配そうな顔をしなくていいからね」
 校長先生が、レゥちゃんの頭を軽く撫でる。自分の早とちりだと気が付いて、またレゥちゃんが顔を赤くした。
「こんな可愛い子を心配させる上に、時間の無駄。全く、罪な研修だよ。他に、有意義な時間の使い方は、いくらでもあるのにねえ」
 何か、話が愚痴っぽい方向に進みそうな気配がしてきた。そろそろ、退散した方がいいかもしれない。
「と、とにかく、研修頑張ってきてください。篠片さんには、よろしくと伝えておきますから」
「そうかい? くれぐれもよろしく伝えておいてくれよ」
「はい、それはもう。それじゃあ、失礼します」
 何とかそう言って、レゥちゃん共々お辞儀をして立ち去ろうとしたが、校長先生に呼び止められた。
「ああ、待ちたまえ。せっかくだから、少し持っていきなさい」
 そう言いながら、校長先生は、さっき収穫したばかりと思しき野菜を、スーパーで貰うレジ袋に詰め込んでオレに差し出した。
「そんな、せっかく校長先生が育てたものを、いただけませんよ」
「なに、遠慮しなくて良いんだよ。手間賃を前払いするだけなんだから」
「…はい?」
 言われた事の意味が判らず、オレは聞き返した。
「何を驚いてるんだね? 私がいない間は、この菜園は君に手入れしてもらうんだから、その手間賃を払うのは当然だろう」
「え? いや、その、オレがここの手入れを、ですか?」
「決まってるじゃないか。他に誰がいるんだい? 君はまだ教師としては見習いとは言え、この学校の正式な事務員兼用務員なんだから」
「それは、確かにそうなんですが…」
「なぁに、難しい事は何も無いから。水やりと、雑草を抜いたりするぐらいだよ。一応、簡単に要領を纏めて書いておいたから。ほら、その袋の中の紙にね」
 そう言って、校長先生は、野菜とその紙の入った袋をオレの手に押し付けた。思わず受け取ってしまう。 そんな書き物まで既に用意していた、という事は、これは校長先生の中では、決定済みの事なのだろう。オレに選択の余地は無さそうだ。
 渋々ながら承諾するしかないな、と思っていると、横から思わぬ声が上がった。
「何か楽しそう。ね、浩人くん、私も一緒にやりたい!」
 レゥちゃんだった。大きな瞳をきらきらさせて、期待のこもった眼差しでオレを見ていた。
「おお、それはナイスアイデアだよ。二人で仲良くやってくれたまえ。頼んだよ、岸森君、レゥちゃん!」
 そう言いながら、校長先生がオレ達の肩をぱんぱんと叩く。レゥちゃんは、肩を叩かれながらも、校長先生のお許しが出たとあって、満面の笑みを浮かべていた。
「はい、私、一生懸命やります!」
「うんうん、レゥちゃんは良い子だ。でも、校内で仲良くするのは程々に頼むよ。くれぐれも、子供達を刺激しないようにね」
「は、はい…」
 小声で返事をしたレゥちゃんが、俯いた顔をまた赤く染めながら、ちらりとオレの方を見た。その視線に、オレは、できるだけ安心させるように微笑んでやる。
「判りました。校長先生のご不在の間、しっかりお世話させていただきます。任せて下さい」
 オレは、校長先生に向かってそう言った。隣で、レゥちゃんが嬉しそうな表情を浮かべているのが判る。 そんなオレ達二人を、校長先生は、微笑ましげに見やると、「じゃ、頼んだよ」と言った。 オレ達は、野菜の御礼を言って、今度こそ校長先生の前から立ち去った。

 二人して校門に向かって歩いていると、練習を再開していたソフトボール部の生徒達が、また声を掛けてきた。 オレは、またそれに言い返し(そしてやはり倍言い返され)、レゥちゃんは、元気に手を振って応える。 レゥちゃんは、明らかに上機嫌だった。
「随分ご機嫌だね」
 校門を出た辺りで、少し前を歩いているレゥちゃんに声をかける。
「だって、楽しみなんだもの」
「菜園の手入れをするのが?」
 尤もらしい(いや、実際尤もなのだが)理由を付けられてはいたが、結局、校長先生に上手い具合に使われている感は否めない。 普段はのほほんとしているが、押さえるべき所はきっちり押さえている人だ。それは、去年の教育実習の時以来、身に沁みて理解している。 その上、今回は、レゥちゃんまで乗せられた事になる。 仕方がないとは思うが、とても、心浮き立つ、という程楽しくはなれない。だから、レゥちゃんの今の様子が不思議だった。
 オレの問い掛けを聞いて、レゥちゃんが足を止める。
「違うよ」
「何が?」
「菜園のお世話をする事が、じゃないの。ううん、それも楽しみなんだけど、本当に楽しみなのは、浩人くんと一緒に何かをする事が、だよ」
 くるりと体ごとこちらに向いて、レゥちゃんが言う。真っ直ぐな瞳が、オレを見つめていた。 その、何かを訴えかけるような瞳に、思わずどきりとさせられる。 オレがレゥちゃんと知り合って一年以上、一緒に暮らすようになってからでも三ヶ月以上が過ぎたが、彼女は、まだまだオレの知らない表情を持っていた。
「そっか」
「うん、そう」
 オレは、空いている方の手で、レゥちゃんの手を握った。レゥちゃんの手は、小さくて、柔らかくて、少し冷たい。その手の感触が、オレは大好きだった。 レゥちゃんも、きゅっと握り返してくれる。その頬が、少し赤く染まっていた。
「じゃ、次、行こうか」
「次って?」
「晩御飯の買い物。行きたかったんだろ?」
「うん! 行こ、浩人くん」
 商店街に向かって歩き出したオレの横に、レゥちゃんが並ぶ。蜩の鳴く声が、辺りに響き始めていた。



─ Scene 06 ─

 水平線に巨大な積乱雲が湧いていた。既に大きく傾いた日の光が、雲の表面に複雑な陰影を描いている。 時々、雲の中に稲光が走って、太陽が作る陰を一瞬だけ消し去っては消えていく。あの雲の下は、きっと土砂降りだろう。 だが、頭上の空には相変わらず染み一つ無く、涼を呼ぶ夕立は望めそうも無い。 それでも、日中に比べて優しくなった太陽の光と、夕凪の時間も過ぎて吹き始めた風が心地好かった。
 晩御飯の買い物──今夜の献立は、校長先生に貰った野菜を使った、夏野菜カレーとなった。 安易だが、何と言ってもカレーはレゥちゃんの得意料理だ──を済ませたオレ達は、真っ直ぐにアパートに帰らずに、遠回りになるこの海沿いの道を歩いていた。 「真っ直ぐ帰るなんてつまんないよ」という、レゥちゃんの鶴の一声で決まった事だが、このちょっとしたデートを、オレも楽しんでいないと言えば嘘になる。 手を繋いで、長く伸びた影を踏むように歩きながら、他愛もない事を話す。 これではまるで中学生のデートみたいだ(いや、今時の中学生ならもっと進んでるだろう)、と思わないでもないが、レゥちゃんの笑顔を見ていると、 それもどうでもよくなる。
「結局、みのんとサブくんは来れないんだね」
「ああ。家族旅行ならしょうがないな。にしても、どうして一緒に行く事になったりしたんだか」
「旅先でまた喧嘩しないかな?」
「案外、無茶苦茶仲良くなって帰ってくるかもよ?」
「えぇー、そんなの、全然想像できないよ」
「酷い事言うなあ」
「じゃあ、浩人くんは想像できるの?」
 そう言われて、頭の中に描いてみる。ちょうど今のオレ達のように手を繋いだりして、仲良くお喋りしている草津さんとサブ…。
「…できないな」
「ほら」
 それ見なさい、と言わんばかりの表情で、レゥちゃんがオレを見る。オレもその顔を見つめ…、そして、どちらからともなく吹き出した。 そのまま、二人して大笑いする。あの二人には悪いが、やっぱり口喧嘩をしている図しか思い浮かばない。 それも、仲が良い事の裏返しだと知っているから、オレ達も笑い話にできる訳だが。
 ひとしきり笑ったあと、オレは話題を変えた。
「それはそうと、レゥちゃん」
「何?」
「昼間、学校で言ってたけど、またソフトボール部の紅白戦に出るの?」
「もちろん。私が入っても、まだ人数足りないんだもの。それに、ボールを打ったり、走ったりするの、凄く楽しいの」
「そっか」
「浩人くんも、見に来てくれるでしょ?」
「そうだな…。前の時は行けなかったから、今度は行ってみるか」
「絶対だよ」
「ああ、しっかり応援させてもらうよ」
「浩人くんも、一緒にやれば良いのに」
「冗談。とても、現役の中学生にはついていけないよ」
「浩人くん、それって、何だかおじいさんみたいだよ」
「言うなよ」
「由真ちゃんなんか、ソフトボール部のコーチまでしてたのに。由真ちゃんって、浩人くんと同い年だよね?」
「それはそうだけど…。篠片さんって、何か元気が有り余ってたような感じだったからなあ」
「浩人くんは、元気が余ってないの?」
「まあね」
「やっぱり、おじいさんみたい」
「言うなって。それに、レゥちゃんだって、まだ体が完全じゃないんだから。あまり、無理しちゃ駄目だよ」
「そんなことないよ。私、もう全然問題無いんだから。ほら!」
 そう言うと、レゥちゃんは、繋いでいた手を離してゆっくりと駆けだした。そのまま、軽く地面を蹴って宙返りを決めて見せた。 片手に持った買い物袋も、全く気にしていない。 オレは、その見事な動きに感心もしたが、それよりも、レゥちゃんの体を心配する気持ちの方が勝った。
「レゥちゃん、駄目だって! 急にそんな事したら!」
「大丈夫だよぉ。浩人くん、心配し過ぎ。ほら見て、こんな事だってできるよ!」
 レゥちゃんは、今度は、ちょうど走り高跳びの選手が助走をするように、緩いカーブを描きながら堤防に向かって走り出した。 オレは、レゥちゃんが何をしようとしているのかを悟って、彼女を止めようとした。
「駄目だ!」
「大丈夫! えい!」
 掛け声と共に、レゥちゃんが、強く地面を蹴った。重さが無いかのような軽々とした動きで、一気に自分の身長より高い堤防の、更に上まで飛び上がる。 そのまま放物線を描いて、羽根の様に軽やかに、堤防の上に着地した。体操選手のフィニッシュの様に、両足を綺麗に揃えて、両手を高々と掲げている。 少し遅れて、長い髪が流れる様に落ちかかる様が美しく、手に持ったままの買い物袋がその姿に対して全くそぐわない印象がした。
 その姿を見て、オレは、とりあえずほっとした。幸い、何とも無かったようだ。
 だが、安心するのは早過ぎた。
「ほら、何とも無かったでしょ?」
 そう言いながら、レゥちゃんがオレの方を振り向いた──その途端。
「あ、あれ?」
 レゥちゃんがよろけた。上体が大きく傾いた。堤防の端に立っていたのが災いした。片足を踏み外した。
「危ない!」
 叫んだのと、レゥちゃんを目掛けて飛び出したのと、どちらが早かったのか。とにかく、オレは間に合ったらしい。
 最初は腕に、続いて胸に強い衝撃を感じて、オレは、背中から地面に打ちつけられた。そこが、雑草に覆われた土の地面だった事が幸いして、それほど痛くはなかった。 もし、下がコンクリートだったら、背骨を痛めていたかもしれない。ただ、そんな事よりも、今はレゥちゃんの方が心配だった。
 レゥちゃんは、オレの体の上に居た。ちょうど、落ちるレゥちゃんを、オレが正面から抱きとめるような形になったらしい。 レゥちゃんは、顔をオレの胸に埋めるようにして、ぴくりとも動かない。
「レゥちゃん、大丈夫? 怪我は無い?」
 静かに声を掛けてみる。その声に、レゥちゃんが反応した。ゆっくりと上体を起こして、オレの顔を見る。 その表情が、何となくぼんやりしているような気がして、オレは、もう一度声を掛けた。
「レゥちゃん? 大丈夫か?」
 しかし、レゥちゃんはまだぼんやりしている。目の焦点が合っていない。何か様子がおかしい。
「レゥちゃん!」
 オレは、今度は少し強く呼びかけながら、レゥちゃんの頬を掌で優しく叩いた。これは効いたようだ。レゥちゃんの目が、不意にオレの顔に焦点を結んだ。
「浩人くん…」
「よかった…。ぼうっとしてたから、どこか痛めたのかと思ったよ」
 そう言って、オレも上半身を起こした。レゥちゃんも、オレの動きに合わせて体を起こし、ぺたんと地面に座り込んだ。 見たところ、脚や服に土埃が付いているものの、どこにも怪我はしていないようだ。
「…私…どうしたの…?」
「堤防の上から落ちたんだよ。振り返ったはずみで、バランスを崩して足を踏み外したんだ。何とか受け止める事ができて、良かった」
「受け止めた…浩人くんが、私を…」
「そうだよ…本当に、大丈夫?」
 レゥちゃんの言葉は、まだどこか頼りない。もしかして、落ちた時の衝撃のせいで頭が混乱していて、今一つ状況が把握できていないのだろうか?
 だが、次の瞬間、レゥちゃんの顔に理解の色が広がった。その目が、大きく見開かれる。
「浩人くん! 浩人くんは!? どこも怪我とかしてない!?」
 そう言いながら、異常が無いかどうか確かめるように、両手でぱたぱたとオレの体を触ってくる。
「大丈夫だよ。どこも怪我してないし、痛くもない。レゥちゃん、軽いから」
 そう冗談めかして言ってみたが、レゥちゃんには聞こえていないようで、オレの体を一生懸命調べている。 やがて、本当にどこにも異常が無い事を納得したのか、体を離してまた座り込んだ。
「良かった…。どこも怪我してない…。良かった…」
 レゥちゃんは、心底ほっとしたような表情を浮かべた。その顔を見て、オレもようやく安心する。
 しかし、レゥちゃんの目に、みるみる涙が浮かんできた。半開きになった唇が細かく震えだす。その震えは、すぐに彼女の体全体に広がった。
「レゥちゃん?」
 そのオレの声を合図にしたかのように、レゥちゃんは、いきなり大声をあげて泣きだした。そのまま、オレの胸にしがみついてくる。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 浩人くん! ごめんなさい!」
 小さな子供のように激しく泣きじゃくりながら、ひたすらその言葉だけを繰り返している。オレは、そのあまりの豹変振りに慌てた。 そこには、さっきまでのはしゃいだ雰囲気は微塵も無い。
「ど、どうしたの、レゥちゃん? オレなら、ほら、何とも無いから。泣く事なんて、何も無いんだから、ね?」
 宥めながら、レゥちゃんの肩を掴んで体を離させようとしたが、レゥちゃんは、両手でオレの服を掴んで、全然離れようとしない。 いやいやをするように頭を振って、むしろ、よりオレの胸に顔を埋めてくる。多分レゥちゃんの涙だろう、胸元が濡れてきたのが判る。 オレは、レゥちゃんを引き離すのを諦め、頭と背中をなるべく優しく撫でてやった。
「ほら、大丈夫だから。泣き止んで。ね?」
 子供をあやすように声を掛けてみたが、レゥちゃんは、ただ「ごめんなさい」と繰り返すばかりで、一向に泣き止む気配が無かった。
(仕方無いな…これは、落ち着くまで待つしかないか…)
 そう思ったオレは、レゥちゃんを抱き締めるような姿勢のまま、茜色に染まり始めた空を見上げた。 過疎の進むこの町では、夕方のこの位の時間になると、こんな道を通る人はまずいなくなる。 こんな所で、泣きじゃくる女の子を抱き締めているのを見られたら、次の日には、どんな噂が広がる事になるか知れない。 その心配をしなくていいのが救いだな──美しく染まる空を見ながら、オレは、ぼんやりとそんな事を考えていた。

 どのぐらいの間、そうしていただろう。随分長い間だったように感じるが、影の動きから見ると、多分、10分かそこらだったらしい。
 レゥちゃんは、ようやく落ち着いてきた。泣き声が次第に小さくなり、やがてすすり泣きに変わった。 それも治まってきて、今では、少ししゃくり上げるだけになっている。
「落ち着いた?」
「ん…」
 オレが声を掛けると、レゥちゃんは小さく肯き、自分から体を離した。顔を伏せたまま、手の甲で涙を拭っている。 オレは、ハンカチを取り出すと、レゥちゃんのおとがいに指を掛けて、顔を上げさせた。 レゥちゃんの顔は、涙と鼻水と、あと土で汚れた手で拭った痕が付いていて、お世辞にも綺麗とは言えない。
「ほら、綺麗な顔が台無しだ」
 言いながら、なるべく丁寧にハンカチで拭いてやる。
「やだ、見ないで。自分で拭く」
 レゥちゃんは、耳朶まで真っ赤にして、オレの手からハンカチを取り上げると、また顔を伏せてしまった。やや乱暴な手つきで顔を拭き、小さく鼻をかむ。 レゥちゃんが完全に落ち着いたのを見計らって、オレは、先に立ち上がった。服に付いた土埃を軽く払って、手をレゥちゃんに差し出す。
「ほら、立てる?」
「うん」
 レゥちゃんが、オレの手を握る。その手に、しっかりと力が入っている事を確かめて、オレは、レゥちゃんを引っ張って立たせてあげた。 レゥちゃんは、まだ少し頼りない感じがあるものの、脚はしっかりしているようだ。体も震えていないし、ふらつきもしていない。 オレは、しゃがみこんで、レゥちゃんの服と脚に付いた土埃を払ってあげた。
「い、いいよ、浩人くん。自分でやるから…」
「いいから、じっとして。綺麗な脚が汚れてるのは見ていられないんだ」
「浩人くん、何か、それって少しやらしいよ」
「そうか?」
 惚けたように言いながら、オレは、手を動かし続けた。土埃を払いながら、怪我をしている所は無いか、痣ができたりしていないかを調べる。 レゥちゃんも、何だかんだ言いつつも、動かずにされるがままに任せていた。
 一通り、目立つ汚れが無くなった所で、オレは立ち上がった。半歩下がって、美術館で彫刻か何かを鑑賞するように、レゥちゃんの体を見る。
「よし、とりあえずこんなもんか。やっぱり、脚は綺麗な方が良い」
「だから、それ、やらしいって」
 レゥちゃんが、少し怒ったようにオレを睨む。だが、すぐに表情が和らいで、僅かに微笑を浮かべた。
「…ありがと」
「どういたしまして。やっと笑ったね」
 オレは破顔する。レゥちゃんは、それを見て初めて自分が笑った事に気が付いたように、目を丸くしていた。 ただ、オレとしては、これで終わらせる訳にはいかなかった。どうしても、レゥちゃんに言っておかなければならない事があったからだ。
「あのね、レゥちゃん」
 オレは、顔を引き締めると、レゥちゃんの頬を両掌で挟むようにして、真っ直ぐオレの顔を見させた。 レゥちゃんも、オレの雰囲気に気が付いて、顔から微笑みを消す。
「レゥちゃん、今後二度とあんな無茶な事はしないでくれ。さっきは、たまたま運が良かったけど、下手をしたら大怪我をしていたかもしれないんだ。 確かに、君の体は大分良くなってる。筋力や、瞬発力だけなら、殆ど完全だ。しかも、オリンピックの選手にだって負けないぐらいの力がある。
 でもね、平衡感覚とかの、微妙な調整が必要な所は、治りが遅い。ベッドは、ある程度まで機能を回復させるだけだ。 完全に治すには、日常生活の中で学習を積み重ねていかないと駄目なんだ。 普段は何とも無いように思えても、さっきみたいに、急に大きな運動をしたら、バランスを崩す事もある。 玉村先生や、水上さんにも、そう注意をされてただろう?」
 オレは、そこまで一気に言うと、レゥちゃんの反応を見た。レゥちゃんは、真剣に聞いてくれている。
「うん…」
「それに、今、君の体のナノマシンは、活動が弱くなってる。怪我をしても、以前のようにすぐには治らない。人間と同じぐらいの回復力しか無いんだ。 だから、約束してほしい。二度と、さっきみたいな事はしない、って。無茶な事はしない、って。約束してくれるかい?」
「うん…」
 レゥちゃんは、そう言いながらも、自信無さそうに目を伏せた。オレは、レゥちゃんの頬を挟んだ手に少し力を入れて、繰り返す。
「ちゃんとオレの目を見て! 約束して。もう無茶な事はしない」
 レゥちゃんの目が、真っ直ぐオレの目を捉えた。その目が、また少し潤んできたが、レゥちゃんは、しっかりした口調で言った。
「うん、約束する。もうあんな事はしない。絶対に」
 良かった。レゥちゃんがこう言ったら、絶対に信用できる。オレは、ほっとすると同時に、レゥちゃんの眦に少し涙が溜まっているのに気が付いた。 少しきつく言い過ぎたかな、と後悔しながら、親指でその涙を拭ってやる。
「じゃあ、指切りだ」
 オレは、努めて明るい声で言うと、右手の小指を立ててレゥちゃんの前に差し出した。レゥちゃんも、おずおずとしながらも右手を出して、小指を絡める。
「ゆーびきーりげんまん、うーそついたら針千本のーます! 指切った!」
 お約束の掛け声と共に、勢いよく指を離す。レゥちゃんは、離した小指を左手で包み込むようにして、胸元に当てた。

 オレは、一息ついて周りを見回した。少し離れた所に、オレが持っていたのと、レゥちゃんが持っていたのと、二つの買い物袋が転がっている。 中身が、その周りに散乱していた。幸い、野菜だのカレールーのパックだのが殆どで、地面に落ちたぐらいで駄目になるようなものは無い。 校長先生に貰ったトマトが幾つか潰れてしまったのは申し訳ない気がするが、全滅ではないし、晩御飯には支障は無いだろう。
「さて、荷物を集めないとね」
 オレが、手近な所から拾っていこうとすると、レゥちゃんが、その腕を掴んで引き止めた。
「私がやるから。浩人くんは、一休みしてて」
「いいよ。二人でやった方が早いし」
「駄目! 私にやらせて。お願い」
 レゥちゃんが、オレの腕を掴んだ手に力を込めた。そこから、彼女の必死さが伝わってくるようだ。懇願するようにオレを見上げる表情が、すぐそこにある。 ここは、レゥちゃんの気の済むようにさせてあげた方が良さそうだった。
「判った。荷物は任せる。オレは、その間に、何か飲み物でも買ってくるよ。ここで一休みしていこう」
「それも私が…」
 そう言いかけた唇に、オレは指を当てて制した。それから、腕を掴んでいる手を、なるべく優しく離させる。
「いいから。レゥちゃんは、荷物を集めてて。すぐ戻るから」
「あ…」
 オレは、レゥちゃんがまた口を開く前に、近くの自動販売機に向かって小走りに駆けだした。 レゥちゃんは、必要以上に自分を責めているような気がした。今、何か言わせたら、それがどんどん加速していくように思えた。 いつかの夜、自分の駄目な所を探し続けていたように。あんな姿は、もう見たくなかった。
 自動販売機まで半分ぐらいまで来た所で、一度振り返ってみた。レゥちゃんは、大人しく散らばった物を拾い集めていた。 オレは、安心もしたが、同時に不安にもかられて足を速めた。レゥちゃんの姿は、やけに小さく、寂しそうに見えた。 例え、目の届く場所に居ても、彼女の側から離れてはいけない。そんな気がしていた。

 急ぎながらも、オレには、どうしても気になる事が二つあった。
 一つは、レゥちゃんが「大丈夫」と言っていたこと。そう言ったにも関わらず、実際には、レゥちゃんはちょっとしたはずみでバランスを崩した。 明らかに、まだ平衡感覚が完全ではなかった。
「レプリスは、自分の体については、完璧に把握しているものなの。 レプリスが、『私は大丈夫です』と言ったら絶対に異常は無いし、逆に『何かおかしい』と言ったら必ずどこかに異常が起きている。 人間のように、自覚症状の無いまま異常が進行したり、本当はどこも悪くないのに体調が悪いように感じたり、といった事はあり得ないのよ」
 いつか、水上さんがそんな事を言っていたのを思い出す。 確かに、レゥちゃんは普通のレプリスとは違う。その精神は、「ヒト」と変わらない。しかし、肉体は、あくまでもレプリスのものだ。 肉体の異常を自分で感知できない、という事自体が異常な事なのだ。これは、そのままにしておく訳にはいかない問題だった。
 もう一つは、さっき、子供のように大泣きした事だ。あんな事は、レゥちゃんがベッドを出てからは一度も無かった。 外見の年齢相応に、十代後半の女性として相応しい振舞いをしてきた。 たまに子供っぽい所を見せる事はあるが、それは、楽しい時や嬉しい時に限っての事で、今回のような、言わば「負」の感情を見せる事は無かった。 あれは、まるで初めてレゥちゃんと出会った頃を思い出させる。幼い子供のように舌足らずな言葉を喋り、泣き虫で、天真爛漫だった頃の彼女を。
 そして、大好きな「おにいちゃん」が迎えに来てくれるのを、ひたすら待ち続けていた頃の彼女を。
「馬鹿馬鹿しい。何を今さら…」
 自分に言い聞かせるように呟いて、オレは、頭に浮かんだその考えを振り払った。 レゥちゃんが、またあの頃に戻ってしまうなんて。オレよりも、「おにいちゃん」の方を求めていた彼女に戻ってしまうなんて、そんな事ある訳が無い。
 オレは、考えるのを止めた。一人で考えていても、答なんか見つからない。答は、レゥちゃんの中にある。とにかく、レゥちゃんと話すことだ。 ようやく自動販売機に辿り着いたオレは、レゥちゃんの為にオレンジジュースを、自分の為には、少し迷った挙げ句、ビールを買った。 踵を返して、レゥちゃんの所へ向かう。話をするのに、アルコールの助けを必要とするのは少し情けない気がしたが、それでも、何も話せなくなるよりはマシだと、思った。



─ Scene 07 ─