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My Merry May Short Story 
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My Merry May Short Story

── 青 空 ──



※注意※

このページは、KIDの「My Merry May」をプレイして浮かんだ話を記述したものです。
同作品のネタばれが含まれていますので、同作品を未プレイの方は見ない方が幸せです。多分。それに、未プレイの方が読んでも訳が判らないだけかもしれません。

この話は、「My Merry May」ひとえAエンドの後日談として浮かんだもので、当然ながら、ひとえAルートのシナリオが前提になっています。

また、一部に性的な表現が含まれています。18禁と思っていただいてもいいかもしれません。
ゲーム本編のキャラ、特に榛名ひとえに思い入れのある方や、その手の表現に嫌悪感がある方は、見ない事をお勧めします。
ご覧になる場合は、あくまでご自分の責任と判断において、ご覧ください。



(2005/09/25 ページを公開)
(2005/09/26 "Scene 01"を少し修正)
(2005/09/28 タイトル・シーンタイトルを決定)
(2005/10/29 "Scene 01"を少し修正)
(2005/11/04 "Scene 08"を少し修正)
(2005/11/06 "Scene 09"を少し修正)
(2006/02/02 "Scene 06","Scene 08","Scene 10"を少し修正。ついでに細かい表現・言い回し・文字の使い方等で気に入らなかった所を色々修正)
(2007/02/08 行高さのスタイルシートの設定を外部ファイルに抽出した)



Scene 01 : 楽園にて 〜過ぐる日々〜

Scene 02 : 二人の寂寞

Scene 03 : 二人の邂逅

Scene 04 : 二人の夜

Scene 05 : 二人の朝

Scene 06 : 二人の孤独

Scene 07 : 二人の再会

Scene 08 : 二人の暴露

Scene 09 : 二人の決心

Scene 10 : 二人の笑顔

Scene 11 : 二人の飛翔

Scene 12 : 青空 〜来る日々〜

後書き

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─ Scene 01 : 楽園にて 〜過ぐる日々〜 ─

「ひとえちゃん、ちょっと、いい…かな」
 阿見寮の食堂で朝食を済ませて、自室に戻ろうとしていた私を、たえさんが呼び止めた。
 たえさん──杵築たえさんは、現役の女子大生で、この津久見高校付属の阿見寮の寮母代理だ。 寮母さんが腰を痛めてしまって仕事をする事ができなくなった為、その娘さんであるたえさんが、住み込みで寮母代理を務めている。 本人は、半分趣味で楽しみでやっている、等と嘯いているが、気さくで明るく、面倒見の良いお姉さんとして、寮生達からは絶大な人気を誇っている。 ただ一点、酒癖が悪い、という悪癖を除いては。
「何ですか?」
 振り返った私の顔を見て、たえさんは、少し驚いたようだった。
「…どうしたの? 何か、機嫌が悪そうだけど…」
 しまった。顔に出ちゃってたのか。
 たえさんの言葉を聞いて、私は、慌てて作り笑いを浮かべた。
「え、そ、そうですか? 別に、何でもないですよ」
 我ながら、引きつった顔をしてるんだろうな、と思いながら、あははは、と誤魔化すように笑う。 たえさんは、そんな私の様子を見て、ますます変な表情を浮かべている。駄目だ。思いっきり不自然だ。
 私は、誤魔化すのを止めて、素直に白状する事にした。
「はい…、その通りです」
「原因は、その…もしかして、恭介、かしら?」
 たえさんが、おずおずと、といった感じで聞く。普段、ざっくばらんなたえさんにしては、珍しい口調だ。 ただ、私は、その事の意外さよりも、図星を衝かれた事の驚きの方が大きくて、思わず声を上げてしまった。
「な! 何で判るんですか!?」
 私の大声を聞いて、今度は、たえさんが驚いたようだった。その上、何かうろたえるように視線を泳がせている。 そのたえさんの態度に、私は少し違和感を覚える。驚いたのはともかく、その後のこのうろたえようは何なんだろう?
「あの、その、あれよ」
 言ってる事も何か変だ。どうしたのかな?
「あ、そうそう、さっき食堂でね、あなた達の事が目に入っちゃってね」
「私達…?」
「そう。ひとえちゃんと、恭介と、レゥちゃんと、三人で朝御飯食べてたでしょう?」
「ええ…」
 そうだ。私は、さっきまでその二人と一緒に、朝食をとっていた。 夏休みに入って、寮生の大半が帰省してしまい、阿見寮は閑散としている。自然と、一緒に食事をする面子も毎日決まってくる。 休みになってからこっち、私が寮で食事をする時は、ほぼその二人と、という事になっていた。
「それでね、初めは三人で楽しそうにしてたのに、途中から、何か、その、ぎこちないというか、ちょっと暗い雰囲気になっちゃってたでしょ?  その後、恭介とレゥちゃんの二人だけが、先に席を立っちゃって、あなただけ残ってたから…」
 たえさんが、少し言い難そうに話す。
 ああ、それで、と私は納得した。あの場面を見ていたのなら、私が不機嫌になっている原因が恭介だ、という推測もできるだろう。 実際、それは正しいのだから。
 ただ、たえさんが、その事を気に留めていた、という事が不思議だった。 たえさんは、男子と女子とが理由も無く二人きりで居る事には厳しいけど、それ以外は、大抵の事には寛大で、寮生達のプライバシーにも干渉しない。 「自分達の事は自分達で解決する」、それが、この阿見寮の伝統だったから、何かトラブルが起きていても、余程の事が無い限りは、 たえさんの方から口出しする事は無かった。 こんな風に、ちょっと食事時の雰囲気が悪かった、ぐらいの事で、わざわざ寮生に声を掛ける、などというのは聞いた事が無い。 もちろん、「来る者は拒まず」のたえさんだから、自分達だけで手に負えなくなった時に、寮生が相談に来る事を拒否した事も無い。 寛容で、不干渉で、でも頼りがいがある──それが、たえさんという人だ。
 ただ、今、私の目の前にいるたえさんは、そういういつもの印象とは、少し違うように見えた。
「だからね、ちょっとワタシの部屋で、お茶でも飲んでいかない?」
「はい?」
 どうしてそういう話になるんだろう? と言うか、その「だからね」は、どこから繋がっているのか判らない。
「ワタシで良ければ、話ぐらいは聞くわよ。もちろん、あなたが良ければ、だけど…」
 うーん、そういう事か。さっきの私達の様子は、たえさんには「自分達で手に負えない」ぐらいの事態に思えたのだろうか。 だから、先手を打って、自分に相談してみろ、と言っているのだろうか。
 でも、さっきの事は、あまり人には話したくない類の事だ。正確には、トラブルでさえない。ただ、ちょっと…そう、ほんのちょっと、不愉快な事があっただけ。 そんな事で、たえさんの手を煩わせるのもどうかと思う。
 でもでも、声を掛けてくれたのは、たえさんの方だ。せっかくだし、お言葉に甘えて、少しぐらい愚痴を聞いてもらうのもいいかもしれない。 そう、世間話をする程度の、気楽な感じで。どうせ、今日予定していた事は、全部キャンセルになってしまったのだ。
「じゃあ、少しだけ…」
 私は、たえさんの部屋にお邪魔する事にした。

 たえさんが淹れてくれたお茶は、美味しかった。冷たいアイスティーが、私の乾いた喉を潤してくれる。一息ついたところで、たえさんが私に言った。
「で、一体どうしたの?」
「それがですね…」
 私は、ぽつぽつと、朝食の席であった事を話し始めた。

 そもそもの発端は、昨晩の事だった。
 恭介が、映画に誘ってくれたのだ。昼前から出かけて、どこかでお昼を食べて、午後の上映を観る。その後は、その場のノリでその辺で遊んでから帰る。 二人でそんな予定を立てていた。
 なのに、今朝になって、その予定が白紙になった。朝食の席で、恭介が申し訳なさそうに謝ってきた。 どうやら、今日、レゥちゃんと洋服を買いに行く約束をしていたのを、すっかり失念していたらしい。要するに、ダブル・ブッキング、という奴だ。
 恭介も、レゥちゃんも、私も一緒に行こう、と誘ってくれたんだけど、私も一緒に行きたい、と思ったりもしたんだけど、 その時は、私の心の中にある何かがブレーキをかけた。
 私は、洗濯物が溜まってるから、とか、夏休みの課題もやりたいし、とか、するつもりもない用事を理由にして、その誘いを断ってしまったのだ。
 で、結局、恭介はレゥちゃんと出かけてしまった。

「はあ…、恭介ったら、自分から誘っておいて、しょうがないわねぇ…」
「別に良いんですよ。約束したのは私の方が後だった訳だし、映画なんていつだって行けますし」
「その割には、随分不機嫌なように見えるけど…」
「それは、理屈では判ってても…」
「そうよねぇ。恋人の自分より、従妹の方を大事にするのか、って気になるわよね」
「そうなんで…って、ええ!?」
 私は、驚いてたえさんを見た。私は、余程の間抜け面をしていたのだろう。たえさんは、私の表情を見て、にやにや笑いを浮かべている。
「やっぱり、そうだったか」
 その、たえさんの顔を見、言葉を聞いて、私は、たえさんに乗せられた事に気付いた。
「たえさん、もしかして、その、今の、鎌を掛けました…?」
「さあ、どうかしら?」
 たえさんは、妙に楽しそうにしている。それを見て、私は確信した。
「あの、何時から気付いてたんですか…?」
「うーん、中間テストが終わった後、ぐらいかしらねぇ」
 うぐぐ。私は、心の中で呻きながら、たえさんに白旗を掲げた。この人は、もしかして超能力者か何かなのかしら?  それとも、秘密の情報網でも持っていて、寮生の事は全てお見通しなのかも?
「ご明察です…。でも、どうして…?」
「何て言うのかなあ…。あなたと恭介って、元々凄く仲は良かったじゃない? 幼馴染みなんだし、一緒にいるのが自然、て感じで。 でも、中間テストの後ぐらいから、こう、雰囲気がね、少し変わったような気がしてたのよ」
「変わったって、どういう風にですか?」
「言葉にし難いんだけど、一緒にいるのが自然、というのから、一緒にいたいから一緒にいる、そんな風にね、思えたの」
「そんなにあからさまでした?」
「ううん、そんな事無いわよ。ほんの、微妙な変化だから。実際、気付いてる人は殆ど居ないみたいだし。亮ぐらいじゃないかしら、気付いてるのは」
 確かに、亮ならあり得る。高校入学以来の恭介の親友で、私と三人でつるんで遊んだ事も多い。恭介が、亮にだけは話した、という事も考えられる。
「ね、もし良かったら、馴れ初めとか聞かせてくれない?」
「何か楽しそうですね…」
「それはそうよ。人の恋の話を聞くのは、楽しいものよ」
「うう…」
 私は、何となく脱力してうなだれてしまった。その様子を見て、たえさんが慌てる。
「あ、そんな、無理に聞きたい、って訳じゃ無いのよ。話したくなければ、これ以上聞かないから」
「いえ、別に話せない、って訳じゃ無いんですけど…」
 そう、そんな事は無い。むしろ、たえさんのような人には聞いて欲しいし、今の、私の心の中にある曇りが晴れるような、良い助言が貰えたら、とかも思う。
 でも…でも、いざ話すとなると、物凄く…恥ずかしい。きっと、今、私は、耳朶まで真っ赤になっているに違いない。
「あの…ひとえちゃん?」
 たえさんが、私の名前を呼ぶ。その声音に、確かな気遣いと優しさとが含まれているのを感じて、私は、顔を上げた。たえさんの目を真っ直ぐに見る。
「聞いて…貰えますか?」
 私の視線を受けて、たえさんは、少し身動ぎしたが、すぐに優しい微笑みを浮かべて言った。
「ええ、もちろんよ」

 私は、色々な事を話した。話し始めると私の口は止まらなくて、思いつくまま、順番も何もなく話した。 その私の要領の悪い話を、たえさんは、時には真面目に、時には微笑みを浮かべて、辛抱強く聞いてくれた。

 私と、恭介と、そして、子供の頃からいつも私達を見守ってくれていた、恭介のお兄さん──恭平兄さんのこと。
 私が、その恭平兄さんに恋をしていたこと。
 あの五月に、突然、恭平兄さんが帰国してきたこと。
 私が、恭平兄さんに告白して──そして、振られたこと。
 その時、私を不器用にフォローしてくれた恭介のこと。
 恭介が、私のことを「好きだ」と言ってくれたこと。
 恭介の事をもっと知りたいと思ったこと。
 恭介の事をゆっくりとスキになっていきたい──中間テストの後、そう恭介に答えたこと。

「なるほどねぇ…。何か、あなた達らしい話ねぇ」
「そう思います?」
「ええ。お互いに男と女として意識しだしても、小さい頃から一緒に過ごしてきた時間の積み重ね、っていうのがあるから、そうそうすぐには変われない、というのって、 あると思う」
「はい…」
「でも、今もそうなの?」
「え?」
「今も、その時のまま、まだ気持ちは動いていないのか、ってこと」
「いえ、そんな事は…」
「じゃあ、今は、恭介の事が好き? その、幼馴染みとして、じゃなく」
「はい、好きです」
 私は、はっきりと答えた。物凄く恥ずかしくて、照れくさくて、それでも、曖昧にぼかす必要なんてないぐらい、自信のある事だったから。 あの日、夕陽に染まる河原で、恭介にキスをしたあの時から、私は、ずっと恭介だけを見てきた。 恭介も、私に、今まで見せてくれなかった自分を、たくさん見せてくれるようになった。 お互いに、幼友達として一緒にいた時には判らなかった所がたくさんあった。 何もかも知り尽くしていると思っていた幼友達に、まだこんなにも知らない所があったなんて、思いもよらなかった。
 でも、そんな所を知っていく度に、私は、恭介の事が好きになっていった。この人と、ずっと一緒にいたいと思った。 だから、私も恭介に言った。それは、何度も二人でデートを重ねた後で、何か今更な感じもあったけど…。 それでも、恭介がはっきり「好きだ」と言ってくれたのに、私だけいつまでも曖昧にしておく事はできなかった。 それに、私もちゃんと伝えたかった。私の、今の、本当の気持ちを。
 あの時と同じ河原で、私が「恭介の事が好きよ」って言った時、恭介は、少し驚いて、それから私を抱き締めてくれた。 それはとても気持ちが良くて、私は、自分の気持ちが間違いじゃない事を実感した。 その後交わした二度目のキスは、初めての時のような私からの一方的なものではなく、お互いに求め合ってしたものだった。
 それからしばらく経つ。 私達は、人前では、今まで通り、他愛もない事で口喧嘩をしたり、ふざけ合ったりして「幼友達」をしていたけど、二人きりの時は、もう「恋人」だった。

「ふう、熱いわねぇ。何かもう、ごちそうさまって感じだわ」
「たえさん!」
「あはは、ごめん、ごめん。でも、そんなに好き合ってるのに、うまくいかない日っていうのはあるものね」
「はい…」
 そうなのだ。今日がその典型的な日だ。そして、こんな日は、一日中心がざわつく。
「でも、どうして二人と一緒に行かなかったの? 誘われたんでしょ?」
 たえさんが訊く。でも、その簡単な筈の質問に、私は答えられない。自分でも、何故行かなかったのか判らない。判らないつもりだった。
「どうして、って…ただ、何となく気が乗らない、って言うか…」
「レゥちゃんの事が気になる?」
 たえさんが、さりげなく言った言葉は、しかし、見えない針となって、私の心にあった曇りを真っ直ぐに貫いた。私は、はっとしてたえさんを見る。 たえさんは、優しい──すごく優しい表情で、私を見ていた。
「そ、そんな事は、無いです…」
 私は、そんなたえさんの視線に耐えられなくて、俯いてしまった。言葉も小さく、しどろもどろだ。こんなんじゃ、たえさんの言葉を認めたのと同じ──。
「無理しなくてもいいのよ。それは、仕方がない事だし、当たり前の事でもあるんだから」
 たえさんの言葉は、やっぱり優しい。そうなんだろうか。この、自分でも目を背けたくなるような心の曇りが、そんな風に正当化できるものなのだろうか。
「で、でも、レゥちゃんは、こっちに身寄りも居ないし、住む所だってここしか無いし、恭介しか頼れる人がいないんです。 恭介だって、それが判ってるから、レゥちゃんの事を大事にしてるんだし、それに、レゥちゃんは恭介の従妹なんだし、私にとっても妹みたいなものだし、それに…」
「でも、一人の女の子でもあるわね」
「それはそうですけど、でも!」
 私は、必死で言葉を探した。たえさんが放つ針を退ける為の言葉を。
 でも、そんなものは見つからなかった。自分でも判っていたから。自分の、この心の曇りの中に、どんな感情が隠れているのかを。 それでも、私は、まだ抗おうとした。たえさんの言葉を認めたら、私は──。
「でも、私、レゥちゃんの事も好きなんです! レゥちゃんは、可愛いし、素直だし、少し我が侭な所もあるけど、それもまた可愛いし、それに、それに…」
 何だか、もう無茶苦茶だ。訳がわからない。いつの間にか、膝の上で手を固く握り締めていた。その手の甲に、ぽたりと滴が落ちた。
 私は、泣いていた。
 どうしてなんだろう。恭介と両想いになって、恭介と一緒に居られて、私は幸せな筈なのに、どうして私は泣いているんだろう。
「ひとえちゃん…」
 たえさんが、私のすぐ横に来て、肩を抱いてくれた。たえさんが差し出してくれたハンカチで、私は涙を拭った。鼻水が垂れそうになるのをすすり上げる。 まったく、涙だけなら綺麗なのに、どうして、泣くと鼻水なんてものまで出てくるんだろう。不粋な事この上ない。
「ごめんなさい。ちょっと、追い詰め過ぎちゃったわね」
「いえ…」
 たえさんは悪くない。悪いのは私だ。自分に正直になれない私。自分の、暗くて、陰湿で、醜い感情に向き合えなかった私。
 私は、こんなに嫉妬深い女だったのだろうか。こんなに独占欲が強い女だったのだろうか。
「ひとえちゃん、あのね」
 私が、少し落ち着くのを待って、たえさんが口を開いた。
「それは、誰かを好きになった以上、しょうがない事なの。好きな人に、自分だけを見て欲しい、自分以外の女の子なんか構わないで欲しい、と思うのは」
「でも…」
「例え、それがレゥちゃんのような、決して嫌いになれないような女の子でもね。レゥちゃんが恭介の従妹だとか、ひとえちゃんの大事な友達だとか、そんな事も関係ない」
「でも…」
「そもそも、従兄妹どうしっていうのは、結婚だってできるんだから。恋敵になっても不思議じゃないのよ」
 その言葉に、私は硬直した。そうだった。そんな当たり前の事も、私は失念していたのだ。
 固まってしまった私を見て、たえさんが可笑しそうに笑った。その笑顔を見ていると、何だか、今まで張りつめていたものが、全部緩んでいってしまうように思えた。
「その様子だと、今まで忘れていたみたいね?」
「はい…。レゥちゃんって、恭介のこと『おにいちゃん』って呼んでるじゃないですか。だから、何か従妹って言うより、本当の兄妹って感じがしてて…」
「そうね。本当に仲が良いもの、あの二人…」
「ええ…」
「だからね、あなたも遠慮することなんかないの」
「はい?」
 まただ。だから、その「だからね」は、いったいどこから繋がるんでしょうか…?
「はっきり言ってやればいいのよ。恭介にね。『今日、約束を破った落とし前、どうつけてくれるんだ』ってね」
「落とし前、ですか…」
「そう。脅しても殴ってもいいから、とにかく言う事をきかせるの。そして、映画でも、買い物でも、食事でも、何でも奢らせればいいの!」
「はあ…」
「だってそうでしょ? 自分から『好きだ』なんて言っておいて、その恋人を放ったらかしにして他の女の子と遊びに行くような奴なんだから。そのぐらいさせて当然!」
「あのう、たえさん…?」
「そおよ! そんな男に遠慮なんてする必要なし! 判った?」
 たえさんは、私の両肩をがしっと掴んで、妙に力の入った口調と表情で迫ってくる。 その様子を見ていたら、何か、今まであれこれと悩んで、苦悩して、もやもやとしていたものが、全部くだらない、小さな事のように思えてきて──。
 私は、思わず吹き出してしまった。そして、文字通り、お腹を抱えて笑った。笑い過ぎて、さっきのとは別の意味で涙が出てきた。
 そんな私を見て、たえさんも笑った。二人して顔を見合わせて、また笑う。私を悩ませていた全ての事を笑い飛ばせるような、そんな気分だった。

「ありがとうございました。話、聞いていただいて」
 ひとしきり笑って、ようやく笑いが治まってから。私は、たえさんにお礼を言った。たえさんは、やっぱり、優しい表情で私を見ていた。
「どういたしまして。少しは気が晴れたかしら?」
「はい、もうすっかり。恭介が帰って来たら、もうぎったんぎったんにしてやります」
 私は、腕を曲げて、できもしない力こぶを作って見せる。
 そうだ、一人でうじうじしているなんて、私らしくない。 今まで、恭介には何でも言ってきたんだから、これからだってそうすれば良いんだ。 私は、きっと、恭介に嫌われる事を恐れて、どこか萎縮していたのかもしれない。それが、恋をしたせいだとしたら──私は、まだまだ修行が足りない。 そんな事ぐらいで、私も、そしてきっと恭介も、互いを嫌いになったりはしない。そう信じなきゃ。
 たえさんが、また優しく微笑む。私は、その表情を、素敵だな、と思った。そして、いつか、こんな表情のできる女になりたい、と願った。
「その意気よ。でも、少しは手加減してあげなさいね?」
「はい! 本当にありがとうございました。じゃあ、私はこれで」
 そう言って、たえさんの部屋を出ようとして、私は、不意に、聞きたい事があったのを思い出した。
「たえさん、あの…」
「何?」
「どうして、私に声を掛けてくれたんですか? その…普段なら、余程の事が無いと、たえさんの方からは口を出さないのに」
 それを聞いた時、たえさんの表情が、少しだけ曇ったように見えた。それは、寂しそうな、あるいは、何かを諦めたような、そんな感じだった。 でも、そんな感じに見えたのは一瞬だけだった。私の気のせいだったのかもしれない。
「ん? 別に、ただの気まぐれよ。迷惑だった?」
「とんでもないです。本当に、嬉しかったんですから」
「そう、それなら良かった。私はね、ただ、あなた達に、幸せに、楽しく高校生活を送ってほしいだけ」
「それは…私と恭介に、って事ですか? それとも、寮生全員に、って?」
「…私は、寮母代理よ。答は、自明じゃないかしら」
 その時、私の心に、何かが引っ掛かった。たえさんは、わざと答を曖昧にした──そんな気がする。でも、何故?
 その理由を聞くのは、何故か憚られた。だから、私は、もう一度お礼を言って、たえさんの部屋を後にした。

 女子棟の自分の部屋に向かって歩きながら、私は、考えていた。たえさんの、最後の言葉の意味と理由を。
 そして、自分の部屋の前まで来た時、突然判ったのだ。何の理由もない。何の根拠もない。ただ、いきなり閃いたその考えを、私は、何故か正しいと確信していた。

 どうして、たえさんが、私と恭介との関係の変化に気付いたのか。それも、あんなに早い時期に。
 どうして、たえさんが、私達の事であんなに親身になってくれたのか。
 どうして、たえさんが、今朝の私達の様子にすぐ気付いたのか。
 どうして、たえさんが、私に声を掛けた時、あんなに普段と違う様子だったのか。

 たえさんは──ううん、たえさんも、きっと、恭介の事が──。

 気付かなければ良かったのかもしれない。何も知らなければ、私は、自分の罪に知らん顔をしていられただろう。でも、一度気付いてしまったからには、もう遅い。 それは、もうどうしようもない事なのだ。もしかしたら、罪などではないのかもしれない。それでも、私が幸せを掴んだ事で、悲しんだ人がいる事は確かだ。 そうであっても、私は、前に進むしかない。もう、何も知らないだけの子供には戻れない。戻りたくない。
「私、頑張ります」
 そう言って、私は、たえさんの部屋の方に向けて、深く頭を下げた。

 部屋に入って、私は、ベッドに仰向けに寝転がった。手足を思いっきり伸ばして、体の力を抜く。
「莫迦恭介。帰って来たら、タダじゃおかないんだから」
 この場にいない人に向かって悪態をついてみる。
 そもそも、恭介は、私がどうして夏休みに入っても寮に居残っているのか、判っているのだろうか。
 夏休みに入る前、「今年はずっと寮で過ごすから」と実家に電話したら、うるさく理由を聞かれ、はぐらかすと、とにかくすぐに帰ってこい、と言われた。 それを、なだめすかし、適当な理由をでっちあげて、何とかお盆の時期だけ帰る事で妥協してもらったのだ。
 それもこれも、恭介と少しでも長く一緒にいたかったからなのに。
 恭介には、帰る実家なんてない。父親の恭一さんは、恭介が小さい頃から海外に行きっぱなしで、全然帰って来ない。 お兄さんの恭平さんも、恭介が高校に進学し、寮生活を始める事が決まると、恭一さんの仕事を手伝う、とか言って、さっさと日本からいなくなってしまった。 母親は、恭介が幼い頃に亡くなっているし、他に兄弟姉妹や親戚もいない。だから、恭介が、夏休みをずっと寮で過ごす事は判っていた。
 また、私には、少し不埒な考えもあった。 私と恭介との関係は、実はまだそんなに進んでいない。 いや、お互いの心は、日々着実に近付いていると思うし、結び付きは強くなっていっていると思う。 今日は、昨日よりももっと恭介の事が好きになっているし、明日は更に好きになっているだろう。それは、恭介だって同じだ。 ただ、体の方の関係はというと、未だにキス止まりだったりする。 別に焦っているわけではないし、そういう関係になる前に、プラトニックな恋愛をしっかり堪能したいとも思う。 何より、今は、二人でいる事そのものが楽しくて、幸せだった。それで充分満足しているつもりだ。 でも、時々…本当に時々だけど、もの足りなくなる時がある。 それは、腕を組んだり、手を繋いだりしている時だったり、肩を抱いてくれている時だったり、デートの終わりにキスをしている時だったり…、 とにかく、そんな、体が触れ合っている時に、時々感じるのだ。

 もっと触れて欲しい。
 もっと強く抱き締めて欲しい。
 もっと激しくキスして欲しい──。

 でも、お互い寮生活の身だ。プライバシーはあってなきが如しだし、親の臑噛りの高校生では、人目を気にしなくて済むような遠くに遊びに行く事もできない。 幾らなんでも、ラブホテルに行く、なんていうのは、考えただけでも不可能だ。だいたい、何とか条例に違反しているような気がする。 娘が、いくら好き合っている相手とはいえ、ラブホテルに男と二人で居る所を補導でもされた日には、うちの両親はどんな思いをするか。 想像すると、とても申し訳なくてできる訳がない。 仮に、そういう事の全てに目を瞑ったとしても、あの奥手の恭介に、そんな事ができるとは思えない。私だって恥ずかしい。
 だから、多くは望まないから、せめて、少しでも長く、他人の目を気にする事無く、二人きりになれる場所と時間が欲しかった。 帰省する寮生が殆どで、人口密度が極端に低くなる夏休みの阿見寮は、その条件に相応しいように思えた。 上手くいけば、上手く雰囲気が盛り上がっちゃったりすれば、もう少し進展ができるかも、何て事を考えたりもしていたのだ。

 しかし、誤算があった。レゥちゃんの存在だ。
 レゥちゃんは、阿見寮に来た初めの頃程では無くなったにしろ、未だに恭介にべったりだ。 夏休みに入って、恭介が一日中寮にいるようになると、余計にその傾向が強くなったような気がする。 五月の頃、ちょうど、あの大騒ぎした三本勝負のあとのしばらくは、たえさんの知り合いの女の子──確か、結城みさおとか言った筈──と、結構仲良くやっていたのだが、 ある頃を境に、その子はふっつりと寮に顔を見せなくなってしまった。
 理由はよく知らない。
 ただ、レゥちゃんは、結構落ち込んでいたようだったから、喧嘩でもしてしまったのかもしれない。
 その後、レゥちゃんは立ち直ったが、新しい友達を外で作るような事も無かった。 それに、仲の良かった友達がいなくなったせいか、恭介への依存が強くなったように見える。 一時期、恭平兄さんと一緒に来日した、リースという妹──これも信じ難い話で、見た目はそっくりでも、言動から何から、リースの方が遥かに年上に思えた──を見て、 「お姉さん」としてしっかりしよう、と張り切っていたものだが、あまり長続きしなかったように思う。
 それでも、レゥちゃんが恭介に懐いている事自体は、私も仕方のない事だと思っている。 たえさんにも言った通り、レゥちゃんには、恭介しかいないのだ。 むしろ、それが当然なのだ。
 でも、それでも、やっぱり割り切れないものが残る。
 レゥちゃんは、言動こそ幼いが、スタイルは私なんかより遥かに良い。 脚だって長いし、出るべき所は出ているし、締まるべき所は締まっているしで、実に劣等感を刺激してくれる。 おまけに、肌は透き通るように白くて肌理が細かい。寮で一緒にお風呂に入っていると、同性の私や友人達でさえ、思わず溜息をついてしまうほどだ。 真っ直ぐで長い髪は、色素が薄い事もあって、光の当たり具合によって繊細な銀の糸のようにも艶やかな絹糸のようにも見えるし、陽に透けると硝子のように美しく煌めく。 あんな綺麗な髪は、女優にだって見た事がない。 あどけない表情に隠されて見逃しがちになるが、目鼻立ちだって整っている。日本人では無さそうだが、かと言って、その髪の色から連想されるような北欧とかの血が混じっているような顔立ちにも見えない。 そもそも、「レゥ」という名前自体が、どこの国の名前なのか、正式な名前なのか愛称なのかもよく判らないときている。 その辺りを恭介に訊いても、いつもの調子でのらりくらりとはぐらかされる為、いつか誰も訊かなくなってしまった。
 尤も、そういった国籍やら人種やらといった事はどうでもいい、と思わせるだけの魅力がレゥちゃんにあるのは確かだ。 むしろ、そんな謎めいたところが、彼女の魅力をいや増している、と言えるかもしれない。 実際、阿見寮の男共には、レゥちゃんとお近づきになりたいと思っている連中も少なくない。 言動があまりにも幼く見えるのと、恭介に対して見せる明け透けな好意とが無ければ、彼女の周りは、逆ハーレムと言ってもいい状態になっていた事だろう。 本当に不思議な子だ。
 そんな女の子が、恭介に四六時中くっついているのだから、寮内で二人きりになる事なんて不可能だ。 夜中なら大丈夫だろうが、それはそれで、たえさんの厳しい目が光っている。 いくら、たえさんの公認を取り付けた、とは言っても、寮の規則を軽んじるような事をすれば、たえさんも容赦してはくれないだろう。

 そういう訳で、私は、些か悶々としていたのかもしれない。 それが、今朝のダブル・ブッキングを期に吹き出してしまった。 今思い返すと、随分と身勝手で、しかもいやらしい事で悩んでいただけのような気がする。
 まったく、明朗快活が売りだった榛名ひとえは、いったいどうしてしまったんだろう。これが、恋に身を焦がすという事なんだろうか。 もしこれが恋だというなら、恭平兄さんに抱いていたあの想いは、一体何だったんだか。私は、本当に子供だったのだ。
 私は、えいやと掛け声をかけてベッドから飛び起きると、お昼ご飯を一緒に食べに行こうと、寮に残る数少ない友人達に声を掛けに行った。
 とにかく食べて、何でもいいから体を動かして、それから考えよう。

 結局、恭介がレゥちゃんとの買い物を済ませて帰って来たのは、日も暮れてからだった。
 恭介は、すぐに私に逢いに来てくれた。男女がお互いの棟に行き来できる制限時間──夏休み中も、いつも通り夜の九時だ──が迫っていた事もあったが、 恭介が私に逢いたがっていたのが一目で判って、それが何より嬉しかった。
 しかし、ここは、敢えて心を鬼にしなければならない。
 私は、ともすれば緩みそうになる表情を引き締めて、恭介をさんざんやり込めてやった。 弱みのある恭介がそれに逆らえる筈もなく、彼は、翌日の映画と食事と、さらにショッピングまで付き合う事を確約した。 今度こそ、ダブル・ブッキングしていない事をしっかりと確認させ、ようやく、私は彼を解放してやった。 恭介は、去り際に物欲しそうな表情をしていた。 実のところ、私も、お休みのキスぐらいはしたかったのだが、今そんな事をしたら、何もかも許してしまいそうで、何とか踏み止まった。 名残惜しそうに自室に戻っていく恭介の背中を見送ると、私は、ドアを閉めて、そこに背中を預けてもたれかかった。 一つ大きな溜息をつく。
 そう言えば、溜息を一つつく度に、幸せが一つずつ逃げていくんだったっけ──そんな事を考えていると、ふと思い当たった。 恭介は、今日もレゥちゃんの洋服を買いに行ってたんだった。 しかも、朝から出掛けて、こんな時間まで帰って来なかった、という事は、それだけでは済まなかったのだろう。 昼食も夕食も、恭介の財布から出ている筈だ。 いくら父親からの仕送りがあるといっても、また、レゥちゃんの生活費の分を別に送ってもらっているといっても、自由になる金額には限度がある。 その辺の懐具合は、私だって把握している。今月は、結構苦しい筈だ。
「食事ぐらいは、ワリカンにしてやるか」
 私は、何となく楽しくなってきて、鼻歌を歌いながら、お風呂に行く準備を始めた。
 なんてったって、明日はデートなんだ。レゥちゃんには見劣りする体かもしれないけど、ちゃんと磨き込んでおかなくては。

 翌日のデートは、楽しかった。 昨日の事もあってか、恭介は、いつもより私に気を遣ってくれたし、優しかった。 何より、帰り道はわざわざ河原まで遠回りして、少しでも私と二人でいる時間を長く伸ばそうとしてくれた。 帰り際に交わしたキスも、いつもより優しくて、甘くて、重ねた唇から、体が蕩けてしまいそうになった。
 いつまでもそうしていたかったけど、そうもいかない。 私達は、どちらからともなく体を離すと、手をしっかり繋いで帰路についた。恭介の、大きくて少し熱い手が、私の手を包み込んでくれている。 私は、それだけの事に、この上なく幸福感を覚えていた。

 結局、そういう所がいけなかったのかもしれない。
 私達は、それから、さほど関係を進展させないまま、高校の卒業を迎えてしまった。 二年近い間、一体何をしていたのかと、私達の関係を知っている友人達──さすがに、親しい友人達にはバレずには済まなかったのだ──に、卒業パーティで問い詰められたが、 私としては、それで充分幸せだったのだから仕方が無かった。
 たえさんは、この春に大学を卒業して、結局、そのまま阿見寮の寮母代理のまま居座る事にしたらしい。 パーティの席で、私を会場の隅に呼び寄せて、小声で耳打ちした。
「寮を出たら自由なんだから、上手くやりなさいよ」
 私が、耳朶まで真っ赤にするのを見て、たえさんは、可笑しそうに笑い、そして、あの時と同じ、優しい微笑みを浮かべてくれた。
 私は、この人には、一生頭が上がらないのかも知れない。そう思いながら、私は、恭介の姿を探した。
 恭介は、亮と何やら楽しげに話していた。恭介の隣には、相変わらず、レゥちゃんがくっついている。 少しだけむかあときて、私は、恭介の反対側にくっついてやった。それを見ても、レゥちゃんは、私にも屈託ない笑顔を向けてくる。 まったく、この子とは、真面目に張り合う気さえ起きない。 亮が、「両手に花かよ」と恭介をからかい、それに顔を赤くした恭介が言い返す。 私とレゥちゃんは、恭介の左右から顔を見合わせて破顔する。私の心は、既に、四月からの新生活に飛んでいた。
 とにかく、私と恭介とは、学科こそ違え、同じ大学、同じ学部に無事合格する事ができたのだ。これで、また最低四年間は、恭介と一緒にいられる。 亮や、彼の元彼女の吾妻もとみ、その他、親しかった友人達は、皆別々の道に進んで行った。 それは寂しかったけど、でも、恭介は、私の傍にいるのだ。
 今は、とりあえずそれで良かった。



─ Scene 02 : 二人の寂寞 ─

 津久見高校を卒業した私達は、当然の事ながら、阿見寮を出なければならなかった。 私達の通う大学には、あいにく学生寮が無かったので、私も恭介も、それぞれ、大学にほど近い賃貸マンションに部屋を借りる事になった。 できれば、同じマンションに部屋を借りたかったのだが、部屋探しに動き出すのが遅れてしまい、目ぼしい所は殆ど残っていなかった。 ただでさえ、転居の多い時期だけに、僅かな遅れが命取りになってしまったのだ。 仕方無く、私達は、別々のマンションに住む事になった。そうは言っても、歩いて往復できるぐらいの距離でしかなかったのだが。
 本音を言えば、私は、恭介と一緒に住みたいと思っていた。恭介だって、そのつもりはあったようだが、お互いに言い出せなかった。 やはり、いきなり同棲というのも気恥ずかしいし、もし、不意に私の両親が訪ねてきたりしたら、説明に難儀しそうだ。 また、お互い、完全に自立した暮らしというのは初めてなので、初めのうちは、自分の事だけで手一杯になるだろう。大学の講義に慣れるのも大変そうだ。 そんな時に、些細な事でいがみ合ったりして、それが元で私達の間に亀裂が入ってしまったら──私には、そんな怯えもあった。 せっかく勇気付けてくれたたえさんには申し訳ない気もするけど、私はまだまだ、たえさん程には「大人」になれそうもない。
 それに、悪い事ばかりじゃなかった。
 朝、大学までの道の途中で待ち合わせる。私を待っている恭介の顔が、私の姿を認めた途端、笑顔になる。 私の方が先に来て待っている時は、恭介が遠くからでも走ってくる姿を見る。
 夕方、一日の講義が終わって、喫茶室で二人でお茶を飲みながら、お互いに今日あった事を話す。 同じ学部の一年生だから、まだまだ同じ講義を受ける事が多い。 それでも、週に何コマかは、違う講義になってしまう事もあり、一日中一緒にいる訳にもいかないからだ。
 そうやって、辺りが暗くなるような、喫茶室が閉まる時間までお喋りをしてから帰る。 二人で、帰り道にあるスーパーで晩御飯の買い物をして、朝の待ち合わせの場所まで来たら、人目を気にしながらも軽く口づけを交わして別れる。
 この、ささやかな一日の繰り返しが、私には、とても幸せに思えたのだ。 恭介は、私の姿が見えなくなるまで、いつもその場所に立って見送ってくれる。私が時々振り返ると、笑顔で手を振ってくれる。 私は、恭介に手を振り返しながら、幸せな気分に浸って帰るのだ。 一緒に暮らしていたら、あるいは、恭介が私の部屋まで送ってくれたら。そう思わない事もないが、一日の終わりに来るこの幸福感は、何ものにも代え難い。 それは、少しは寂しいと思う事もあるけど、それがまた、明日も逢いたい、という想いを募らせる。
 そう、これは隠し味ってやつよ。お菓子にだって、ちょびっと塩を入れたりすると、甘さがかえって引き立つもの。それと同じ。
 そんな風に思いながら、マンションの階段を上って、自分の部屋の前に立つ。 カバンから鍵を取り出して、ドアに差し込んで鍵を開け、頑丈なスチール製のドアを開く。
「ただいま」とは言わない。言っても、誰も「おかえり」とは答えてはくれないから。 少し肌寒い部屋に入って、明かりとエアコンのスイッチを入れ、買ってきた食材を冷蔵庫にきちんと仕舞う。 それから、上着を脱いでハンガーに掛け、私はベッドに倒れ込んだ。シーツの冷たい感触が染み通ってくる。一日の幸福感も、ここまでだった。 誰もいない部屋で、寂寥感だけが募ってくる。隠し味なんて嘘だ。それは、毒のように、じわじわと私の心を冒していく。 あの卒業前の日々に感じていた新生活への期待も、恭介と一緒に大学生活を送れる事への喜びも、いつの間にか、綺麗さっぱり消え去っていた。
 もし、恭介も、私と同じように独りの部屋に帰るのであれば。彼も、私と同じように孤独に耐えているのであれば。私は、こんなにも辛くはなかっただろう。
 しかし、そうではなかった。恭介の部屋には、彼の帰りを待っている人が、彼に「おかえり」と言ってあげられる人が──レゥちゃんが、いるのだ。

 そもそも、レゥちゃんが阿見寮に住んでいた事自体が、異例な措置だった。
 あの喧騒に満ちた五月は、レゥちゃんが、恭介の部屋に隠れるように住んでいた所を、私や亮に見つかった事から始まったのだ。
 海外に住む親戚の所から、いきなり一人でやって来て、しばらく預かって欲しい、と頼まれた。いつまで預からなければならないのか、自分にもさっぱり判らない。 親戚にも連絡が取れないし、他に行く所も無い。何とか匿って欲しい──そう言い訳をする恭介に、私達は協力を約束した。 しかし、たえさんの目を誤魔化す事はできずに、レゥちゃんの事は、あっと言う間に公になってしまった。 事情を聞いたたえさんは、自分の住む管理人室の一部屋を、レゥちゃんに提供してくれたのだ。 本来、まったくの部外者であるレゥちゃんに対して、そこまでする必要は何処にも無い。 言わば、たえさんの温情と、寮母代理という絶大な権限とでもって、レゥちゃんの阿見寮滞在が、半ば既成事実として公認されてしまった形だった。
 数週間後、恭平兄さんが突然帰国してきた時は、てっきり、レゥちゃんを連れ帰る為に来たものだと思っていた。 しかし、恭平兄さんは、しばらく滞在しただけ──と言っても、その間に私の告白を断わり、それに伴って、私と恭介との関係を決定的に変えてしまったのだが──で、 結局、来た時と同様、リースという、秘書兼助手兼メイドさんみたいな人だけを連れて、また海外に戻って行ってしまった。
 その後も、私も知らない「海外に住む親戚」とやらからの連絡も無いまま、レゥちゃんは、恭介が阿見寮を出る日まで、寮の一員として住み続けていた。 その間に、レゥちゃんは、すっかり寮に馴染んでしまった。たえさんの代理としての役割も板につき、たえさんがいない時でも、一人で立派に仕事をこなすようになった。 年度が改まって、新入生が入寮してきた時など、オリエンテーションの進行役まで務めたりもした。 新入生達は、レゥちゃんの美貌と、言葉遣いの幼さとのギャップに、男女を問わず堪らない魅力を感じたようだったが、 次の瞬間には、様子を見に来た恭介に抱きつく彼女を見て、一斉に落胆した。 その様子が可笑し過ぎて、後で見ていたたえさんや私達上級生は、大笑いしていたものだ。
 そんな感じで、あまりにも楽しく、幸せな高校生活を送っていたものだから、私は、恭介がレゥちゃんと一緒に住む、と言った時も、楽観的だった。
 後で聞いた話だが、たえさんは、レゥちゃん本人さえ良ければ、このまま阿見寮に住んでもらっても構わない、と提案してくれたそうだ。 しかし、レゥちゃんには、いかにたえさんの事が好きでも、恭介から離れて暮らす、などという選択肢は初めから無かったらしい。そして、それは恭介も同様だったようだ。
「レゥがここに住んでいたのは、オレしか頼る人間がいなかったからです。 そのオレがいなくなった後まで、部外者であるレゥがここに住み続けるのは、筋が通りません」
 恭介は、たえさんにそう言ったという。それはまったくの正論だったので、たえさんも、それ以上は何も言わなかった。
 一方、私はと言えば、二人が同じ部屋で暮らす事について、それほど心配していなかった。 高校時代は、二人の仲むつまじい様子に、多少嫉妬めいた感情がよぎる事もあったが、 レゥちゃんは、私と恭介との仲をちゃんと理解して、あまり我が侭も言わなくなっていたし、 恭介も、レゥちゃんに対して「兄」としての明確な一線を引いた態度を崩さなかったからだ。 恭介は、相変わらず、過保護なぐらいレゥちゃんを大事にしている事に変わりは無かったが、それは、約束をした事は必ず守る、とかいう程度の、 言わば当たり前のレベルの事だった。ちょうど、あのダブル・ブッキングの時のように。 恭介は、それ以外の時は、躊躇なく私を優先してくれていた。私かレゥちゃんか選ばなければならないような場面では、いつも私を選んでくれた。 時には、レゥちゃんが愚図るような事もあったが、そういう場合でも、恭介は、時には宥め、時には毅然とした態度を取り、理を尽くして、レゥちゃんを説得した。 決して頭ごなしにはしない恭介のその態度を、私は好ましく思っていたし、それだからこそ、レゥちゃんとの約束を守らなければならない場合は、私も聞き分けた。 レゥちゃんも、私を優先しながらも、決して自分を蔑ろにしない恭介のその態度を、きちんと理解しているようだった。私の事も、友達として慕ってくれていた。
 だから、私は、楽観していたのだ。他の誰よりも恭介に愛されている、という自信があったから。 その自信にヒビが入ったのは、新しい生活を始めてすぐの事だった。

 それは、私達がそれぞれのマンションに引っ越した後、私が初めて恭介の部屋を訪れた時の事だった。 引っ越し完了と、新生活の開始とを祝う為に、三人でちょっとしたパーティをする──それが、訪問の目的だった。 私は、ちょっとだけイメージ・チェンジした髪型をして、パーティ用の料理を持って、恭介の部屋の呼び鈴を押した。
 楽しみにしていた筈のパーティは、だが、出だしからいきなり躓いた。
 呼び鈴に応えて玄関のドアを開けたのが、恭介ではなく、レゥちゃんだったから。
 ここは、恭介の部屋であると同時に、レゥちゃんの部屋でもある。満面の笑みで私を迎えてくれたレゥちゃんの顔を見ながら、私は、その事を嫌でも実感させられていた。 一瞬、胸に、針で刺すような痛みが走る。レゥちゃんの後に、数日振りに会う恭介の顔を認めて、その痛みはすぐに消えてしまったが、傷跡は、確実に残っていたのだ。

 その後、私達三人は、パーティを楽しんだ。
 恭介の借りた部屋は、所謂ミングル──二人の同居人が、同じ部屋にある別々の一室に関してそれぞれ賃貸契約を結び、居室以外を共同で使用する形態の賃貸集合住宅── 形式で、恭介とレゥちゃんの居室は完全に分けられていて、それぞれのプライバシーがきちんと守られるようになっていた。 それは、言わば阿見寮の縮小版ともいうような部屋だった。 恭介が、レゥちゃんの保護と、私への配慮と、両方を考えて選んでくれた事が窺えて、私は嬉しかった。
 また、恭介は、パーティの間中、私を「お客様」扱いしなかった。 私を座らせておいて、レゥちゃんと二人で料理をするとか、そんな事は一切しなかった。 配膳やら料理やら給仕やら後片付けやらに、遠慮なく私をこき使ってくれた。 私も、口ではぶつぶつ文句を言いながら、その実、恭介のその態度が嬉しくて、忙しく動き回った。
 やがて、パーティもお開きとなり、後片付けもあらかた終わって、私が帰ると言うと、恭介は、躊躇いなく私を部屋まで送ると言った。 玄関先で、私達を見送るレゥちゃんの姿を見て、また胸に痛みが走ったような気がしたが、恭介が手を握ってくれたので、それもすぐに忘れてしまった。 私の住むマンションまで、普通に歩いた時の倍くらいの時間をかけて、私達はゆっくりと歩いた。 私の部屋に着いた時、私は、思い切って「お茶でも飲んでいかない?」と誘ってみたが、恭介は、まだ荷物の片付けもあるし、明日も早いから、と言って断った。 私は、余程残念そうな表情をしていたに違いない。恭介は、優しく笑うと、私を抱き締めて、何日か振りのキスをしてくれた。 私は、その感触に酔いながらも、心の中に、ほんの僅かに醒めている部分がある事に気づき始めていた。 それは、恭介の姿が見えなくなるまで見送って、独りで部屋に戻った時から、確実に私の意識に上るようになっていた。

 恭介は、あの部屋に帰るんだ。あの、レゥちゃんが待っている部屋に。

 それは、一度意識し出すと、なかなか引っ込んではくれなかった。 私は、着ているものを全部乱暴に脱ぎ捨てると、思いっきりシャワーを浴びた。 熱い湯と冷たい水とを交互に浴びて、少しだけすっきりして出てくると、携帯にメールが届いていた。
『明日の入学式、遅刻するなよ。
 あと、髪、似合ってたぞ。言えなくてごめんな』
 恭介からだった。その短いメールを見て、私は、泣きたくなった。恭介は、こんなにも私の事を想ってくれているのに、私は──!
 涙で滲んでくる視界に手古摺りながら、私は、何とか返信を打った。
『遅刻はあんたが常習犯でしょ。遅れたら容赦なく見捨てるからね。
 それと、ありがと。』
 送信ボタンを押して、電波がちゃんとメッセージを運んでくれた事を確認する。「送信完了」の文字が消えた携帯の画面を見て、私は、文字には涙声が乗らない事に感謝した。 それから、こみ上げてきた衝動のまま、くしゃみをする。よく考えたら、シャワーを浴びたあと、まだ服を着ていなかった。 湯冷めして風邪を引いて、入学式早々欠席なんかしたら、恭介に思いっきりバカにされるだろう。 私は、念の為もう一度暖かいシャワーを浴び直し、今度こそちゃんと下着と寝間着にしているTシャツとを着た。 入学式の実施要項に目を通して、準備に怠りない事を確認する。 目覚ましを早めにセットして、私は、さっさとベッドに潜り込んだ。明日からしばらく忙しくなる。

 次の日から、私と恭介は、様々な行事に忙殺された。 入学式、新入生オリエンテーション、履修申請、教科書やら何やらの購入等々、覚えなければいけない事と、やらなければいけない事とが多過ぎた。 特に履修申請は、今までは時間割と言えば先生が決めるもの、というのが当たり前だった私達には、なかなかの難問だった。 必修科目は決まっているからまだ良いとしても、選択科目をどうするかとか、一年で修得しなければならない単位数とか、 二年次以降の科目を履修する為に先に修得しておかなければならない科目とか、まるでパズルのようだ。 オリエンテーションで、学科の先輩から、効率的な履修要領などを聞いてはいたものの、私達の場合は、更に二人の受講する講義を最大限合わせる、という条件が付く。 こればっかりは、先輩に聞く訳にもいかず、私達は、喫茶室のテーブルに陣取って、ああでもない、こうでもない、と頭を悩ませた。 結局、満足のいく履修計画が出来たのは、申請期限ぎりぎりだった。 無事に申請が受理されて、ほっとしたのも束の間、すぐに前期の講義が始まった。 1コマが90分もある大学の講義は、集中力を持続させるのが辛い。私はまだ持ち堪えたが、恭介は、いきなり居眠りを始めたりして、先が思いやられる。 私が一緒に受けていない講義で、どんな醜態を晒しているかと思うと、頭が痛くなる。 講義が終わったら、次の講義が行なわれる教室までてくてく歩く。 私達の大学は、キャンパスが広い事でも有名で、校舎と校舎との間も結構空いている。 短い休み時間は、移動と、これまた大きな校舎の中を、目的の教室を探して回る事に費やされ、休む暇なんて無い。
 こうして、一日目を疲労困憊して終え、二人で喫茶室にへたり込んでいると、あっと言う間に閉店時間が来てしまう。 それでも、二人で帰り道を歩いているうちに、いつの間にか、疲れも忘れていた。 こんな毎日が、一週間、二週間と過ぎるうちに、大分大学生活にも慣れてきて、余裕を持って過ごせるようになってきた。

 その一方で、あのパーティの日に私の心に刻まれた傷は、少しずつ開き始め、そこから、一度は笑い飛ばした筈の感情を滲ませ続けていた。 生活に余裕が出てきたせいで、余計な事を考える時間が増えてしまったのが、その拡大に拍車をかけた。 夏の青空に突然湧き起こる積乱雲のように、いったん生まれたそれは、急速に私の心の中に広がっていった。 まだ雨は降り出していなかったが、このままでは、それも時間の問題のように思えた。

 もう一度、たえさんに相談してみようか──携帯を手に、何度、阿見寮の管理人室の電話番号を押そうと思った事か。
 でも、できなかった。
 卒業してまで、たえさんに頼るのも情けない気がした。
 一度目は手を貸してもらったのだから、今度こそ自分で何とかしたい、という気持ちもあった。
 これは、私と、恭介との問題なのだから、という遠慮もあった。
 今思えば、たえさんが、恭介の卒業後もレゥちゃんを阿見寮で預かる、と提案したのは、私が、遅かれ早かれこうなる事を予測しての事だったのかもしれない。 その考えは、たえさんの事を過大評価しているだけかもしれなかったが、私にとっては、信じるに値する考えだった。 だとしたら、私は、たえさんの二度目の救いの手を無視した事になる。 仮に、私がその時にたえさんの提案に賛成していたとしても、恭介とレゥちゃんが結局同意しなかっただろう、という事は関係ない。 私が、たえさんの気遣いに気が付かなかった事が問題なのだ。そう思うと、なおさらたえさんにすがる事はできなかった。

 かつてのように、恭介に、私の思いを遠慮なくぶつけてみれば良いのだろうか。 しかし、何て言えば良いのだろう? 私の心に渦巻く負の感情を取り除くには、結局、恭介とレゥちゃんとを引き離すしかないのだ。そんな事、言える訳がない。 それを言うには、私は、もう「大人」になり過ぎていた。
 私が、レゥちゃんを家族として──私と恭介との「妹」として、受け入れる事が出来れば、あるいは、全ては丸く収まったのかもしれなかった。 でも、それをするには、その時の私は、まだ「子供」過ぎた。
 中途半端な私は、結局、何をする事も出来なかったのだ。

 そうして、恭介に触れる度に感じる刹那的な幸福感に浸りながら、その一方で、独りで煩悶する日々は続いた。 だが、それは、意外なほど早く、そして想像もしていなかった形で、突如として終わりを告げた。



─ Scene 03 : 二人の邂逅 ─

 それは、四月の最終週に行なわれた、学部の新人歓迎コンパの日の事だった。
「コンパ」という言葉に対して、私は、あまり良い印象を持っていない。

 その理由の半分は、たえさんのせいだ。 たえさんは、しょっちゅう「合コン」に出掛けては、へべれけになって帰って来た。 酒に酔うと、目に付いた寮生を、誰彼構わず捕まえて絡むのは、美点多きこの寮母代理において、唯一かつ最大の汚点だった。 それが、何時の頃からかは判らないが、絡む相手が恭介一人に集中するようになった。 正確には、夜遅く──殆どは日付が変わって何時間もしてから──に帰って来ては、恭介の部屋に入り込むようになったのだ。 恭介の部屋が、管理人室の真下にあった事が災いしたらしい。 恭介も、また律義にたえさんの愚痴やら何やらを聞いた挙げ句、たえさんをおぶって管理人室まで運んでいく、という事を繰り返していた。 恭介や亮からその話を聞く度に、私は、そんな醜態を晒すぐらいなら、絶対「合コン」とやらには参加するまい、と心に誓っていた。
 ただ、今思えば、それは、たえさんなりの方法で、恭介にアプローチをしていたのではないか、という気がする。 と言うのも、私と恭介との仲がたえさんに気付かれた、という時期を境に、たえさんの深夜の訪問は、ぷっつりと途絶えたらしいからだ。 恭介に特定の恋人が──つまりは私の事だけど──できた事を知って、たえさんは、黙って身を引いたのかもしれなかった。
 その事を考える度に、私は、たえさんに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになる。 別に、私は、たえさんの為に恭介と恋人になった訳じゃないんだけど、それでも、今の自分の無様さを省みると、こんな私より、 たえさんの方が恭介には相応しかったんじゃないか、とまで思ってしまう。 それは、物凄く思い上がった考えで、たえさんにも、恭介にも失礼極まりない事だ、っていうのも判ってる。 判ってるけど、ついそう思ってしまうのだった。

 理由のもう半分は、この時期になると、まるで季節の便りのように連日ニュースで取り上げられる、 「新歓コンパで一気飲みの若者、急性アルコール中毒で死亡」などという類の事件のせいだ。 「一気飲み」、あるいは「一気飲ませ」が、「アルコール・ハラスメント」として広く認識され、法律で明確に犯罪とされてから数十年も経つというのに、未だに無くならない。 私は、お酒と言えば、お正月に御神酒をちょっと飲んだりとか、帰省した折にお父さんの晩酌に付き合ってビールをコップに一杯とか、その程度の経験しかない。 自分の適正な酒量も、限界も把握できていない、しかもまだ未成年のこの時期に、無理矢理お酒を飲まされて死ぬ、なんて絶対に嫌だ。
 でも、私は一応女だし、それほど無理に飲まされたりはしないだろう、とは思っていた。女を酔い潰して、その隙に何かしようと思っているケダモノなら別だが。
 心配なのは、恭介の方だった。やはり、その手の被害に遭うのは、男の方が多いだろう。 さすがの私も、恭介の酒量の限界までは、まだ知らなかった。 それに、恭介は、決して体が丈夫な方ではない。ごくたまにだけど、いきなり意識不明になって倒れた事だってあるのだ。 確か、二年前に恭平兄さんが帰国して来た日にも、一度倒れた筈だ。 居合わせたたえさんの話では、恭平兄さんが、「渡良瀬家特有の持病みたいなもの」と言っていたらしい。 正確なところは、恭平兄さんも把握していないようだった、とたえさんは言っていた。 だとしたら、お酒を飲んだのをきっかけにして、また発症しないとも限らない。 日常生活に支障がある程ではないものの、やはり気になる。

 そんな訳で、私は、あまり気乗りがしなかったのだけど、結局、恭介に誘われるまま参加してしまっていた。
 しかし、そんな私の心配は、全て杞憂に終わった。
 学生会館の大ホールを使い、様々な料理が並べられたテーブルを囲んで、立食形式で行なわれたそれは、私の「コンパ」という言葉に持つ印象からはほど遠く、 どちらかと言うと、「パーティ」に近かった。 参加したのは、学部生、修士・博士課程の学生、及び教職員を合わせて300名以上。これでも、まだ学部全体から見れば半数を少し越える程度の人数だ。 学部長の乾杯の音頭で始まったコンパは、ちょっとしたゲームや抽選会、バンド演奏等を挿みながら、終始和やかな雰囲気で進んでいった。 お酒を勧められる事はあったが、あまり飲めない、と言えば、決して無理強いされる事は無かったし、下心丸出しで迫ってくるような人もいない。 全体的に、飲食よりも、学生同士の親睦を深める事に重点を置いているようで、私も、いつの間にか、先輩や教授達も混じった談笑の輪に加わっていた。 現在の研究テーマから、学内の他愛もない噂話まで、だいたい先輩達がリードしてくれる話題は尽きる事は無かったが、それでも、時々ふっと会話が途切れる事がある。 そんな「間」を見つけて、私は、「ちょっと飲み物を」とか何とか言って、話の輪から抜け出した。 空いたグラスを置いて、飲み物が並べられたテーブルで、できるだけアルコール度数が低そうな飲み物を探す。 それまでは、乾杯の時のビール以外は、ノンアルコール飲料ばかり選んでいた。 でも、ここでは、無理に飲ませられる事は無さそうだし、ちょうど良い機会だから、自分がどの程度飲めるのか、確かめておこうという気になっていた。 本当は未成年なんだから、飲む事自体良くないんだろうけど。 それに、適度に酔って帰れば、いつものような寂しさに苛まれる事もなく、気持ちよく眠れるかもしれない、なんて事も考えていた。 これはこれで、たえさんの悪い所を真似するようで、ちょっと嫌だったけど。
 と、思ってテーブルを見回してみたが、実際の所、私はお酒の種類なんかよく判ってなくて、どれがどのぐらいの強さなのか、さっぱりだった。 お父さんは、ビールか日本酒しか飲まなかったし、お母さんもビールぐらいしか飲んでいる所を見た事がない。 じゃあ、とりあえず量が少ないのから、という事で、オレンジ色のフルーツワインを手に取った。 一口飲んでみて、それほど強いお酒じゃない事を確認する。それから、恭介はどこかな、と思って、会場を見渡した。
 恭介は、中央に置かれた、一番大きなテーブルの側にいた。さっきまでの私と同じように、先輩らしき人達の混じった輪の中にいて、何やら楽しそうに話をしている。 その様子を見て、私は、とりあえず安心した。特に、体調が悪くなったりはしていないようだ。 私は、壁にもたれて、フルーツワインをちびちび飲みながら、しばらく恭介の事を見ていた。彼が、こっちに気付いて、傍に来てくれないかな、なんて思いながら。 以前の私なら、自分から傍に寄って行って、話をしようとしただろう。私は、何時からこんなに受け身になってしまったのか、自分でもよく判らなかった。

「楽しんでる?」
 不意に、横から声を掛けられた。いつの間にか、隣には、私と同じように壁にもたれて、一人の女の人が立っていた。 多分、いや間違いなく先輩だろう。肩まで伸ばした、真っ直ぐで艶やかな黒髪が印象的な人だ。「烏の濡羽色の髪」というのは、こういうのを言うのかもしれない。 その黒髪に包まれた色白の顔の中で、唇だけが鮮やかな紅色に染まっている。お化粧も服装も、私よりずっと決まっていて、動作も優雅な感じだ。 レゥちゃんとはまた違う意味で、劣等感を刺激してくれるタイプ。 でも、イヤな感じはしなかった。
「はい、思ってたよりずっと良い雰囲気なので」
「どんな風に思ってたの?」
 その人は、自然な流れで聞いてくる。うーん、あまりそこは突っ込まれたくない気がする。私が返答に迷っていると、先回りしてその人が言った。
「一気飲みを無理矢理やらせるとか、そんな感じを想像してたのかな?」
「ええ、まあ、そんな所です」
 私が曖昧に同意すると、その人は、微笑を浮かべた。この表情は、どこかで見た事があるような気がする。
「そうねぇ、『コンパ』って言っちゃうと、そんなイメージがあるかもしれないけど、うちのは、どちらかって言うと『パーティ』って感じかな」
「そうですね」
「だから、今年は名前を変えろ、って言ったのよ。なのに、費用は皆で出し合うんだから、これはあくまでも『コンパ』だ、って言って聞かなくて」
「誰がですか?」
「この会の幹事をしている奴。ほら、一番最初、乾杯の音頭の前に、前に出て、間抜けな挨拶してた莫迦がいたでしょ?」
 そう言われれば、そんな人がいたっけ。何か、明るいと言うか、軽いと言うか、そんな感じの男の人だった。
「まあ、この会を仕切っているのはあいつなんだから、好きなようにすれば良いんだけどね。 でも、名前なんて何でも良いんだから、どうせならイメージの良い方にしておけばいいのに。どうでもいい事に拘るのよ、あいつは。莫迦だと思うでしょ?」
 そんな事に同意を求められても困るんですけど。私がそう思ったのを感じたのか、その人は、少し笑って話題を変えた。
「ねえ、『コンパ』って、どういう意味だか知ってる?」
「いえ…」
「元は、英語の“company”から来てるの。『会社』って意味よね。そこから、学生なんかが費用を出し合って行なう懇親会の事を、『コンパ』って呼ぶんだって」
「知りませんでした」
「ふふ、実は、私のもあいつの受け売りなの。何か、物知りっぽい感じ、するでしょ?」
「はあ、まあ…。じゃあ、ここの費用は、先輩達が出しているんですか?」
「そうよ。先生方も幾らかは出してくれてるけど、予算の殆どは上級生達の出資。あなた達も、来年以降集められるから、覚悟しといてね?  出席は任意だけど、出資は義務だから」
 そう言って、くすくすと笑う様が、何か可愛い人だった。私も、つられて笑う。
「ところでさぁ…」
 手に持った赤ワインを一口飲むと、その人は、急に私に顔を寄せて、声を潜めた。薄く付けた香水の匂いが薫る。
「何ですか?」
「あそこにいる男の子って、あなたの恋人?」
 いきなり聞かれて、私は、飲もうとしていたフルーツワインに噎せてしまった。その人が指さした先にいるのは、確かに恭介だった。
「あなた、面白いわねぇ。今の、何かマンガみたいなリアクションだったわよ?」
 そんな事を言いながら、その人は、楽しそうに笑っている。何、この人は? どうしてそんな事が判るわけ?
「どうして判ったの、っていう顔してる」
「は、はい…。どうしてなんですか?」
「ん、別に。ただ、あなたがさっきからじぃっとあの子の事を見てるもんだから、もしかしてそうなのかなぁ、って思ったの。違った?」
「いえ…、違いませんけど…」
 隠す気も無かったから、私は、素直に認めた。 そもそも、私と恭介とは、学内では大抵一緒に行動していたので、同じ学部の一年の学生の間では、私達の仲を知らない人は殆どいない。
「そ、良かった。ねえ、どうして、彼の所に行かないの?」
「別に…特に理由がある訳じゃ…」
「彼の方から来てくれないかなぁ、とか思ってた?」
 …まただ。この人は、どうしてこう、他人の心を次々と当ててしまえるんだろう?
「図星、ね。あなた、本当に判り易いわぁ。全部、顔に出ちゃってるんだもの」
「う…」
 私って、そんなに判り易いのかなぁ。私は、何か恥ずかしくなって、それを隠そうとして、グラスに残ったフルーツワインを、一気に飲み干した。
「おぉ、いい飲みっぷり。でも、あなた、まだ未成年でしょ? 無理しちゃ駄目」
「はい…」
「ねえ、もし何か悩んでいるんだったら、お姉さんに話してみない? 今なら、タダで聞いてあげるわよ。もちろん、秘密厳守」
 思わぬ申し出をしてきたその人を、私は、まじまじと見つめた。その人は、「どうしたの?」という感じの表情で、私を見ている。
 確かに、私は、誰かに話を聞いて欲しかった。聞いてもらってどうなるものでも無かったけど、それでも、誰かに聞いて欲しかったのだ。
 でも、幾らなんでも、今日会ったばかりの、それも、同じ学部の先輩とはいえ、まだ名前も知らない人に…。
「ああ、そうね。幾らなんでも、名前も知らない相手には相談できないか」
「…だから、心を読むのは止めてください」
「顔に出てるんだってば。あなた、その明け透けな所は何とかしないと、恋の駆け引きだってできないわよ」
 私は、小さく呻く。恋の駆け引きとやらはともかく、そんなに考えている事が表に出るようだと、この先の人生が思いやられる。
「まあ、それが可愛いんだけどね。彼も、あなたのそんな所が好きなんじゃない?」
「知りません!」
 からかわれてるような気がして、私は、やや語気を荒くしてしまった。その人は、そんな私を可笑しそうな表情で見ている。 その余裕に満ちたような姿が、また憎らしくて、でも、少し羨ましかった。
「怒らないでよ。あなたがあんまり可愛らしいから、ちょっとからかってみたくなっただけなんだから」
 本当にからかわれてたんだ。なんて人なんだろう。
 でも、あっけらかんとした態度で言われると、怒る気力も萎えてしまう。この人は、どこか憎めないところがあった。
「それはそうと、名前の話だったわね。私は、ゆかり。院生よ。修士一年。人間科学科第一研究室、通称『一研』所属」
「…榛名ひとえです。人間科学科一年」
「知ってるわ。新入生名簿で見たから。改めて、よろしくね、ひとえちゃん…で、いいかな?」
「はい」
 気さくな態度でそう言うと、その人は、右手を差し出した。私も、右手を出して握手する。細くてしなやかな指が、私の手を握った。
「あの…先輩? その…」
「ゆかり、でいいわよ。何?」
「ゆかり…さん、その、名字は何ておっしゃるんですか?」
 私がそう聞くと、ゆかりさんは顔を顰めた。そんな表情まで綺麗な人だ。
「嫌いなのよ、名字。だから、ゆかり、だけでお願い。友達は、皆それで呼んでるから」
 それじゃあ、私も友達って事なんだろうか。それはそれで、ちょっとくすぐったくて、嬉しい気がするけど。 でも、自分の名字が嫌い、なんて、どんな理由があるんだろう?
「それで、どうする?」
「はい?」
「お姉さんに打ち明けてみる? 言っておくけど、無料相談は今日だけよ。明日以降は、お金取るから」
 冗談っぽく言って、ゆかりさんは話を戻した。私は、まだ少し躊躇ったけど、もう殆ど話す気になっていた。 この人になら話しても構わない、と、理由も無いまま、そう思っていた。
「聞いて…いただけますか…?」
 おそるおそる言ってみる。
「お代わり、要る?」
「はい?」
 なのに、私が、折角話そうと思ったのに、ゆかりさんは、いきなり外してきた。
「それ。空っぽよ」
 そう言って、ゆかりさんは、私が持ったままの空のグラスを指さす。それで、私は、ゆかりさんの意図が判った。
 もう少しお酒が入った方が話し易いんじゃない?
 ゆかりさんは、そう言っているのだ。
「はい、そうですね…」
「じゃ、取ってくるから。ちょっと待ってて。同じのでいいわよね」
「あ、そんな、自分で…」
 私がそう言いかけた時には、ゆかりさんは、既に飲み物のテーブルの方に歩きだしていた。 右手を、「任せなさい」と言うようにひらひらと振って、さっさと行ってしまう。
 私は、小さな溜息を一つついて、また壁にもたれかかった。恭介は、まださっきの輪の中に居る。あんなに楽しそうにして、いったいどんな事を話しているんだろう。
「お待たせ。はい」
 ゆかりさんが戻ってきて、オレンジ色のフルーツワインが入ったグラスを私に差し出した。 別の手には、自分用に赤ワインのグラスを持っている。
「すみません」
「違うでしょ」
 ゆかりさんは、差し出したグラスを引いた。受け取ろうと出した私の手が、空振りする。私は、自分が言葉の使い方を間違えた事に、指摘されて気が付く。
「…ありがとうございます」
「どういたしまして」
 ゆかりさんは、にっこりと笑って、改めてグラスを差し出した。今度は、ちゃんと受け取る。
「ここはね、あなた達を歓迎する場なんだから。私が、あなたに親切にするのは当たり前なの。 それを感謝してくれるなら、あなたは、私にその気持ちをちょっとだけ言葉にしてくれれば、それでいいの。 あなたは、また来年、新入生達にそれをしてあげればいい。すまながる必要なんて、何もないのよ」
 ゆかりさんの言葉が、私の心に染み通ってくる。それは、決して押しつけがましくない。ただ、それが単なる事実だ、と言うかのように。
「はい…」
「そんなに縮こまらないで。全然大した事じゃないんだから。それより、乾杯しましょ」
 ゆかりさんが、グラスを掲げた。私も、自分のグラスを顔の前に持ってくる。硝子の触れ合う、澄んだ硬い音が小さく響いた。
「じゃ、聞きましょうか?」
「はい」
 フルーツワインを一口飲み込んでから、私は、話し始めた。

「なるほどねぇ…」
 相変わらず要領が悪い私の話を、時々ワインに口をつけながら、黙って聞いていてくれたゆかりさんは、私が話を終えると、そう呟いた。
「私…、どうすればいいんでしょうか…」
「どうもこうも…。聞く限りだと、結局、問題はあなたの心の持ちようだけに思えるんだけどな」
 ゆかりさんは、少し呆れたような口調で言った。もしかして、私の悩みって、他人から見たら呆れるような、くだらない事なんだろうか?
「だって、そうじゃない? 彼は、あなたの事だけを愛してくれている」
 要点を一つずつ確認するように、ゆかりさんが言う。私は、小さく肯く。
「彼は、彼のその可愛い従妹に対しては、すごく大事にはしているけど、あくまでも兄としての立場を守り続けている」
 私は、また肯く。
「その従妹も、別にあなたから彼を奪おうとかしている訳ではない。あなたと彼との関係を認めているし、彼の妹的な立場で満足している。あなたの事も慕っている」
 また肯定。
「じゃあ、問題は何も無いじゃない? あなたは、安心して彼と付き合えばいい」
「それは、理屈ではそうかもしれませんけど。でも、そんな風に割り切れないから、悩んでるんです」
「まあ、気持ちは判らなくもないけど…。要するに、彼とその従妹とが、同じ部屋に住んでいるのが不安なんでしょ? 別々に暮らしてもらう訳にはいかないの?」
「それは…多分、駄目です。その子、独り暮らしをするには何か幼くて、危なっかしいんです。だいたい、恭介が承知しません」
「それじゃあ、あなたも一緒に暮らしたら? 彼が、常にあなたの目の届く所に居れば、安心できるんじゃない?」
「それは…私も考えたんですけど。でも、それもちょっと…」
「何か問題あるの?」
「やっぱり、その…恥ずかしいって言うか…」
「…難儀な子ねぇ」
 ゆかりさんは、今度こそ本気で呆れている。そんな事を言われたって、恥ずかしいものは恥ずかしいのだからしょうがない。
「ねえ、もしかして、あなた達って、まだ、なの?」
 ゆかりさんが、私の耳元で囁くように言った。「まだ」の後に省略された言葉を正確に理解して、私は、顔が熱くなるのを感じる。
「そっか。じゃあ、無理も無いかな」
 ゆかりさんは、一人で納得していた。そんな風に言われると、また顔の温度が上昇したような気がする。私は、残り僅かになっていたフルーツワインを飲み干した。
「そういう事を、あまり特別視しない方が良いと思うわよ。それは、お互いの愛情を確かめあう手段の一つに過ぎないんだから。 もちろん、いい加減な気持ちでするのは私も感心しないけど、でも、それだからこそ、そうでない場合は、必要以上に特別だと思わない方がいい」
「…そういうものなんですか?」
「これは、私の考え。あなたの価値観までとやかく言う気は無いわ。でも、あなたが現状を変えたいと望むのなら、それも一つの方法だ、という事よ」
 私は、戸惑っていた。恭介とそういう関係になる事を、想像しなかった訳じゃない。望んでいないと言えば嘘になる。 でも、それは、現実という地平線の遥か先にあって、まだ私には手が届かないものだと思っていた。 二年近くも付き合いを続けていて、未だにそういう関係にならないのは、私達にはまだ縁が無いものだからなのだと、もっと未来の話なんだからだと思っていた。 それ程までに、私も、そして恭介も、ウブだった。
 なのに、この人は、そんな事はないと言っている。私にも手に入れられる、現実なのだと。
 黙り込んでしまった私を見て、ゆかりさんは、話を続けた。
「まあ、決めるのはあなたと彼だから。よく考えてみなさい。とにかく、あなたは、もっと自分に自信を持たないとね」
「…それができたら、苦労しません」
「そう? あなた、結構人気あるみたいよ。うちの男共にだって、あなたの事を気にしてる連中が割といるし」
「嘘…」
「本当よ。例えば、あいつとか」
 そう言って、ゆかりさんは、会場の一角を指さした。その先にいた男の人が、慌てたように明後日の方向を向く。
「ほら。判り易い奴」
 ゆかりさんは、愉快そうに笑った。それを見ても、私にはまだ信じられない。
「あれは、ゆかりさんを見てたんじゃないんですか?」
「そんな事ないわよ。あいつ、さっき私に言ってたもの。あのショートの新入生、結構可愛い、って。同じような事を言ってる奴、他にも何人かいたわよ」
 そんな事ってあるんだろうか。自慢じゃないけど、私は、今まで異性にもてた経験なんか無い。 それどころか、高一の冬には、他の子と間違えられてラブレターを貰った、何て笑い話まである。 思い出すと、何だか、あの時の怒りが甦ってきて、頭に血が上ってくらくらするけど…。
 でも、そうだ。あの時も、私を不器用にフォローしてくれたのは、恭介だった。 私の言うままに、亮と一緒に、甘いものを奢ってくれたっけ。
「しかし、あの連中が、あなたにもう恋人がいる、って知ったら、さぞがっかりするでしょうねぇ」
 ゆかりさんの楽しそうな声で、私は、思い出から現実に引き戻された。
「でも、そんな風に声を掛けてくる人、一人もいませんでしたよ」
「当然よ。この場でそんな下品な事をする奴は、明日から学部の女性全員を敵に回す事になるんだから。うちは、女の方が強いんだからね。覚えときなさい」
「はあ…」
 私は、少しぼうっとした頭で、ゆかりさんの話を聞いていた。何だろう、ちょっと足元が覚束ないような気がする。
「とにかく、彼を失いたくないと思うんなら、もっと足掻いてみなさい。みっともなくても、我が侭に見えてもいいから。 幼馴染みなんでしょ? 今更、何も遠慮することなんかないと思う。 彼が、あなたが言う通りの人なら、絶対にあなたの事を嫌いになったりはしない。そう信じて、ぶつかってみるしかないんじゃないかな。 今、お姉さんからできる助言は、このぐらいよ」
「でも、それで、もし失敗しちゃったら…?」
「その時は、また私の所にでも来なさいな。泣き言ぐらい聞いてあげるから。ただし、有料だけどね」
 ゆかりさんは、優しい微笑みを浮かべていた。まただ。この表情を、私は見た事がある。今日初めて会った人なのに、どこで…?
 それに、さっきの言葉にも聞き覚えがあった。 「遠慮することなんかない」って、他の誰かにも言われた事があるような気がする。でも、いったい何時、誰に言われたのか思い出せない。 思い出そうと一生懸命考えれば考えるほど、私の頭はぼんやりしてきて、そして…。
「ちょっと、ひとえちゃん? 大丈夫?」
 ゆかりさんの顔から微笑みが消えて、心配そうな表情が取って代わった。その顔も、何だかよく見えなくなってくる。
 そして、不意に、ゆかりさんの顔が、遥か上の方に遠のいた。
「あ! この子ったら酔っぱらってる! こら、よりによって、私の前で倒れるんじゃない! しっかりしなさいってば!」
 上の方から、ゆかりさんの声が聞こえる。そうか、私、酔っぱらっちゃたのか。限界が判ったし、これで、次からはもう少し上手にお酒が飲めればいいな。
「もしもーし、ひとえちゃーん! 死ぬんじゃないぞー!」
 あ、そうか。これで死んだら、私、ニュースになっちゃうのかな。名前は出ないよね。まだ未成年だし。 でも、ゆかりさんにも、この「コンパ」を開いてくれた先輩達にも、迷惑かけちゃうな。
「おーい、ひとえちゃーん! おーい!」
「どうしたんですか、いったい!」
 私を呼ぶゆかりさんの声に、男の人の声が続く。これは、恭介の声だ。恭介が来てくれたんだ。私の、大好きな、恭介…。
「おい、ひとえ! しっかりしろ!」
「君、駄目だって、揺さぶっちゃ! 余計アルコールが回るから! とりあえず外のソファに寝かせて!」
「はい!」
 体が浮く感覚がある。私は、運ばれているらしい。誰だろう。恭介かな。やがて、どこか柔らかい所に乗せられた。
「君、自分の恋人なんでしょ? もうちょっと、丁寧に扱いなさい」
「すみません、慣れてないもんで…」
 恭介の声が聞こえる。本当に申し訳なさそう。
 莫迦恭介…もっと優しくしてよね…ほんと、莫迦なんだから…。あ、違うか…。恭介は、いつも優しいよね。莫迦なのは、私の方…。
「私に謝ってどうするのよ、もう。謝るなら、この子に、でしょう?」
 ゆかりさんが、また呆れたように言っているのが聞こえる。
 ゆかりさん、そんなに恭介を叱らないでください…。恭介は、本当に、優しいんですから…。
「あなた達って、なんか、似たもの同士って感じよねぇ…。まあ、いいわ。冷たいタオル、貰ってくるから。君は、ここで彼女を見ていて」
 ハイヒールの硬い靴音が遠ざかっていった。
 すみません、ゆかりさん、迷惑かけちゃって。そして、ありがとうございます…。

 その思考を最後に、私の意識は、途切れた。



─ Scene 04 : 二人の夜 ─

 私の体が、規則正しく揺れている。
 右に…。
 左に…。
 上に…。
 下に…。
 絶える事無く繰り返されるその動きに揺り起こされるように、私は、少しずつ覚醒した。
 見覚えのある街並みが、ゆっくりと後に流れていく。周りは暗い。街灯の明かりが通り過ぎる。ここは、何処?
 頬を、微かな風が撫でる。少し冷たい。でも、反対側の頬は、暖かい。目の前に、誰かの背中がある。私は、この背中を知っている。
「恭介…?」
「起きたか。もうすぐ、ひとえの部屋だから。そのままにしてていいぞ」
「うん…」
 私は、恭介の背中に体を預ける。今の状況が、自分でも驚くくらい、容易に把握できた。 私は、パーティの途中で酔い潰れてしまって、こうして恭介に背負われて、自分の部屋に向かっている。 記憶は、倒れた時の分まできちんと残っていた。 それにしても、たったあれだけの量を飲んだだけで酔い潰れてしまうなんて、私は、そんなにお酒に弱かったのか。
「寒くないか?」
 恭介が、聞いてくれる。四月も終わりに近づいたこの時期は、日のあるうちこそ汗ばむような陽気に恵まれるが、日が落ちるとまだ少し冷える。
「ううん…」
「そっか。良かった」
 寒いわけ無いじゃない。恭介が、こんなにも近くにいるんだから。
「でも、驚いたよ。急に、端の方が騒がしくなったと思ったら、ひとえが倒れてるのが見えてさ。何があったのかと思ったよ」
「心配した?」
「全然。おまえは、殺しても死なないだろ」
「むかあ。何よそれ」
「久し振りに聞いた、それ」
「どれ?」
「むかあ、て言うの。最近、あまり言わなかったろ?」
「そうだったっけ…」
「そうだよ」
「ふうん…」
「…嘘だからな」
「何が?」
「本当は、無茶苦茶心配した。このまま、目を覚まさなかったらどうしようかと思った」
「…ごめん…」
「いいって。どうせ、すぐに、ただ寝てるだけだって判ったからな」
「…ふん」
「とにかく、側に居た人が、落ち着いた人だったから、助かったよ」
「…ゆかりさんのこと?」
「ああ、ゆかりさんっていうんだ? 名前を聞く隙も無かったから、知らなかったよ」
「院生なんだって。綺麗な人でしょ」
「まあな。でも、怖い人だった」
「どうして?」
「オレ、怒られたよ。ひとえのこと、もっと丁寧に扱え、って」
 それ、私も聞いてたよ。そう言いたくて、私は口を開こうとしたけど。
「でも、その後で謝られた」
 恭介が、意外な事を言った。どうして、ゆかりさんが恭介に謝るの?
「なんて?」
「私がお酒を勧めたから、ひとえが酔い潰れちゃったって。まさか、こんなに弱いとは思わなかった、でも、もっと気をつけるべきだった、って。 何か、物凄く平謝りでさ、こっちの方が申し訳ない気になったよ」
「そんな…」
 そんな事ないのに。確かに勧めたのはゆかりさんだけど、でも、お酒を飲む事を選んだのは、私。私が、自分で決めた事なんだから。 ゆかりさんが責任を感じる事なんて、何も無い。
「未成年に勧めるべき事じゃなかった、ってさ」
 う…。何か、遠回しに、私が子供だって言われているような気もする。
「まあ、確かにそうかもしれないけど、それで言ったら、あそこに居た人の殆どが有罪だよな」
 そう言って、恭介は笑った。私も、可笑しくなって少し笑う。確かに、大抵の人が、一度はお酒を勧めていたのだから。
「ひとえ、おまえ、どれだけ飲んだんだ?」
「乾杯のビールを一杯と、あとは、フルーツワインを二杯。お酒はそれだけよ」
「そっか…。ひとえって、本当に弱かったんだな」
「そう言う恭介は?」
「オレは、ビールニ、三杯と、ウイスキーの水割りを一杯、ってところかな」
「大丈夫なの?」
「現に、こうしてひとえを背負って歩いてる」
「そうだね…」
 私は、恭介の首に回した腕に、しっかりと力を込め直す。ふと、大事な事を思い出した。
「レゥちゃんは? 連絡した?」
「ああ、大学を出る前に。ひとえが酔い潰れて死にそうだから、部屋まで送ってから帰る、って」
「死にそうだなんて、いい加減なこと言わないでよ」
「あいつ、慌ててたぞ。ひとえちゃん、しんじゃうの? とか言って」
「莫迦。レゥちゃんは素直なんだから、適当な事言うんじゃないわよ」
 そう、レゥちゃんは素直そのものだ。彼女の肖像画を描いた画家は、きっと、その画に「素直」っていう題を付けるだろう。 そのぐらい、レゥちゃんには曇りが無い。それに比べて、私は…。
 駄目だ。また暗くなる。こんな事じゃいけないのに。
「こんな事してると、何か、阿見寮に居た頃を思い出すよ」
「阿見寮?」
「ああ。たえさんが、合コンから帰って来て、オレの部屋で管巻いてさ。オレが背負って、二階の部屋まで運ぶはめになるんだ」
「ふうん…」
「ほんと、あれさえ無ければ申し分無い人なんだけどな」
 やっぱり、恭介は全然気付いていないんだ。こんな朴念仁を好きになるなんて、たえさんも変な趣味だよね。人の事は言えないけど。
「恭介、女心が判ってないよ」
「どういう意味?」
「いいの。何でもない」
「変な奴」
 そう言って、恭介は、黙々と歩き続けた。
 その背中で、私は考える。
 たえさんも、今の私みたいな気持ちになったんだろうか。
 恭介を誰よりも近くに感じて。恭介を独り占めにできる幸福に浸って。阿見寮の、恭介の部屋からたえさんの部屋までの、ほんの僅かな距離の間だけ、 それだけで満足だったんだろうか。自分の想いが通じなくても、良かったんだろうか。たった、それだけの見返りの為に、酔って醜態まで晒して。
 でも、結局、私も恭介に醜態を晒してるんだよね。 そう考えた時、唐突に閃いた。ゆかりさんの、あの表情、あの言葉。何時か、どこかで見た、聞いた覚えがあるもの。
「たえさんだ…」
「何か言ったか?」
「ううん、何でもない」
 恭介の背中で、私は、恥ずかしいのと情けないのとで、消えてしまいたくなった。 ゆかりさんのあの表情は、二年前の夏にたえさんに恭介の事を相談した時に、たえさんが見せてくれた表情と同じだ。そして、あの言葉も。 私は、たえさんに相談する事ができずに独りで抱え込んでいた事を、結局、またたえさんのような人に聞いてもらっていたのだ。 私は、この二年間で、少しも成長していないんだろうか。

「ほら、着いたぞ」
 いつの間にか、私の部屋の前まで来ていた。私は、恭介の背中から降りて、ドアの横の壁に寄り掛かる。
「鍵は?」
 恭介が私に聞く。かぎ? ああ、私の部屋の鍵か。
「カバンの中にキーホルダーが…」
 今気付いたが、恭介は、私のと自分のと、二つのカバンを肩から下げていた。その上、私を背負って大学から歩いてきたんだ。
「カバンの中ね…」
 恭介が、私のカバンの中を探る。あれ、でも確か…。
「私、恭介に私の部屋の合い鍵、渡したよね?」
「ああ。でも、部屋に忘れてきた」
 まったく、この男は、しれっとした顔してとんでもない事を言ってくれる。私は、恭介に貰った彼の部屋の合い鍵を、肌身離さず持っているというのに。
「あった」
 恭介は、見つけた鍵を使ってドアを開けると、そのドアを全開の位置で押さえた。
「ほら、ドア押さえてるから、先に入って」
 恭介に促されるまま、私は、中に入った。まだ足元がふらつくような気がして、壁伝いにそろそろと歩く。 何とか靴を脱いでみたものの、やっぱり脚に力が入らなくて、その場に座り込んでしまった。
「まだ駄目か…」
 恭介が玄関に入ってきた。ドアを閉めて、玄関の明かりを点ける。
「ほら、肩貸すから、立って」
 恭介が、私の腕を取って、自分の肩に回す。私は、そのまま恭介に引きずられるようにしてベッドまで連れて行かれた。 ベッドに座らされて一息つくと、今度は、喉が酷く乾いている事に気付いた。
「喉、乾いた」
 私の言い方は、親におもちゃをねだる子供のようだったかもしれない。恭介は、苦笑すると、小さなキッチンの方に行った。
「冷蔵庫、開けるぞ」
「うん」
 答えてから、いちいちそんな事断らなくてもいいのに、と思う。
 そして、気が付いた。恭介がこの部屋に入るのは、初めてだった。恭介が、私の部屋に居る──今更ながら、その事実に気付いて、私の体温が上昇する。 こまめに掃除をしておいて良かった。そう思って部屋を見回して、とんでもない事に気が付いた。窓際に、干しっぱなしの下着がある!
「お茶でいいか?」
 恭介が、ペットボトルとコップを持って戻ってきた。私は、思わず下を向く。頭に血が上ってくる。恭介は、気付いていないみたい。 でも、あんなに堂々とぶら下がっているものに、気付かないなんて事がある? 気付いているけど、気付かない振りをしているの? 私に気を遣って?  まさか、若くて健康な男が、あれを見て何も感じない、なんて事は無いよね? それともそれとも、健康な男は、ああいう物にはむしろ何も感じないものなの?  ただの布切れにしか見えてないの? 他ならぬこの私の物でも?
 色々な事が頭の中で渦巻いて、またくらくらしてきた。恭介が、コップにお茶を注いで私の手に握らせてくれる。私は、それを一息に飲み干した。
「大丈夫か? 顔が真っ赤だぞ」
 恭介が、下から私の顔を覗き込む。心配そうな恭介の顔を間近に見て、私は、慌てて肯いた。
「だ、大丈夫、大丈夫! ちょ、ちょっと暑いだけよ」
「そうか?」
 恭介が、もう一つのコップにお茶を注ぎ、やはり一息に飲み干した。息を一つつくと、立ち上がる。
「ごちそうさん。じゃあ、オレ、そろそろ帰るから。風邪引くなよ」
 …私は、恭介が何を言ったのか、一瞬判らなかった。帰る、って言ったの?
「…帰るの?」
 何とか、ひりつくような喉から、声を振り絞った。ただでさえハスキー気味な私の声が、輪をかけて掠れる。
「ああ。ひとえを送ってから帰る、ってレゥにも言ってあるし。そろそろ帰らないと、あいつも心配するだろうからな」
「レゥ」という名前が、私の頭の中に響いた。頭が、かあっと灼けるように熱くなる。
 ちょっと待ってよ。何、それが当たり前のような顔をして言ってるの? 恋人の私を置いて、この部屋に独りで置いて、恭介は帰るって言うの?  レゥちゃんが待ってるあの部屋に?
 そんなの、嫌だ!
「帰らないでよ!」
 気が付いたら、私は、大声で叫んでいた。そのまま、勢いよく立ち上がって、恭介を引き止めた──止めようとした、その前に、何かに後から引っ張られるような感覚がして、 私は、ベッドに倒れ込んでしまった。
「おい、ひとえ!」
 暗転した視界。遠くから響く恭介の声。再び遠くなる意識の中で、私は、自分に何が起こったのか冷静に観察していた。
 ああ、立ちくらみかな。酔って、興奮して、そこにいきなり立ち上がったりしたもんだから、一気に血が引いちゃったのかも。私、朝も弱いもんね。
 ねえ、恭介。お願いだから、帰らないでよ…。傍に、いてよ…。

 人の話声がしたような気がして、私は、目を覚ました。
 暗い部屋。僅かな明かりに浮かび上がった見慣れた家具。紛れもなく、私の部屋だ。
 明かりは、テレビの画面から広がっていた。深夜によくやっている、長時間の討論番組だ。音量がかなり低く絞られていて、何を話しているのかは判らない。
 テレビの前に、恭介が座っていた。テレビの光が、その顔に陰影をつけている。光と影は、刻々と変化して、恭介の表情がよく見えない。
「恭介…」
「起きたか」
 恭介が、私を見る。穏やかな表情。目が優しい。
「うん…。今、何時…?」
「午前二時。丑三つ時、って奴だな」
「そう…」
 二、三時間は眠っていた事になる。恭介は、ずっと傍にいてくれたんだ。
「帰らなかったの?」
 私は、聞かなくてもいい事を聞いてしまう。恭介が、私の方に身を乗り出した。鼓動が高鳴る──。
「痛っ!」
 いきなり、恭介は、思いっきり私の額を指で弾いた。「でこピン」というやつだ。盛り上がった私の期待は、粉々に砕け散った。
「何すんのよ!」
 私は、勢いよく上半身を起こした。幸い、今度は立ちくらみはない。額を押さえて、思いっきり喚く。
「それはこっちの台詞だ。ひとえが『帰るな』って言うから、帰らなかったんだろうが。自分が何言ったのか覚えてないぐらい、酔ってたのか?」
 言葉の内容とは裏腹に、恭介の口調は、とても優しかった。それを聞いて、私は、熱いものがこみ上げてくるのを感じていた。
「ひとえ?」
 恭介の手が伸びてきて、私の頬を撫でる。私は、その手に自分の手を重ねて、しっかりと顔に押し付けた。
「…嫌だったの」
「何が?」
「独りになるのが。恭介が、私を置いていってしまうのが。私を独りにして、レゥちゃんの待ってる部屋に帰ってしまうのが」
 言った。とうとう言ってしまった。こんな事を言えば、恭介を困らせるのが判ってるのに。私が、どんなに嫉妬深くて、いやらしい女か、恭介に知られてしまうのに。
 でも、恭介は、少し驚いたような表情をしただけだった。そして、すぐにまた、優しい表情を浮かべて、私を抱き締めた。
「恭介…?」
「莫迦。そんな事で悩んでたのか?」
「『そんな事』じゃないよ。私にとっては、『そんな事』じゃない!」
 私の声は、震えていた。涙が流れて、止まらなかった。涙と一緒に、私の中の黒い感情も、全部流れていって欲しかった。
「そうか…そうだよな。『そんな事』で済めば、悩んだりしないか…」
「そうだよ…」
 恭介が、体を離して、私の顔を正面から見つめた。私も、恭介を見つめ返す。
「オレさ、ひとえが、いつも凄く楽しそうにしてるから、幸せそうな顔をしてるから、これで良いんだと思ってた。 ひとえは、この部屋に独りで居る時も、きっと幸せにしてるんだと、思い込んでたんだ」
「そんなの、恭介に会っている時だけよ! 私、ここに独りで居る時、寂しかった!  今頃、あなたは、レゥちゃんと二人でご飯食べたり、お喋りしてるんだと思ったら、寂しくて、悲しくて、どうしようもなく辛かったの!
 それに、それだけじゃない! もしかして、二人で一緒にお風呂に入ったりしてないかとか、一緒に眠ったりしてるんじゃないかとか、 ううん、ひょっとしたら、あなたとレゥちゃんはもう寝たんじゃないか、そんな事まで考えてた! そんな、すごくいやらしい事を考えてたの、私!
 私、恭介を信じられなかった。レゥちゃんを信じられなかった。でも、そんな事考えてる私自身が、一番信じられなかったの!
 こんな私を、あなたに知られるのが怖かった。どうしようもなく怖かったのよ!」
 私は、もう何も隠さなかった。言ってしまわずにはいられなかった。それで恭介に嫌われたら、それは、もう仕方がないとまで思っていた。 このまま、恭介の前で仮面をかぶり続けて暮らすより、その方がマシだ、とさえ思った。
 でも、恭介は、そんな私を、もう一度抱き締めてくれた。
「ごめん。気付けなくて。本当にごめん」
 恭介は、何度も、何度も謝った。その度に、私の目には、涙が溢れてきた。

「オレ、ゆかりさんに、もう一つ怒られた事があるんだよ」
 恭介が、私の耳元で囁いた。私が泣き止むまで、恭介は、じっと私を抱き締めてくれていた。
「何?」
 恭介が、再び体を離して、私の目を見つめた。さっきよりもずっと近い。
「君は、この子の事をちゃんと見ているのか、って。今、この子が何に悩んでいるのか、何を求めているのか、ちゃんと判っているのか、それでも恋人か、って」
 …ゆかりさん、秘密厳守、って言ったのに。
「オレ、知らない人からあんなに怒られたの、初めてだよ。そんなの、貴女に言われる筋合い無い、って言い返したら、私にはある、って。 この子は、私の弟子だから、って。訳判らなかった」
 …私も訳判りません、ゆかりさん。私、いつの間に、あの人に弟子入りしたんだろう。
「訳判らない人だけど、でも、なんか、いい人だな、あの人。ひとえの事、真剣に心配してくれてるのが、よく判った」
 恭介が笑う。私の大好きな、恭介の笑顔。
「だからさ、オレ、もっとよくひとえの事を見るから。今までより、もっと、ずっとよく見るから。 だから、ひとえも、オレの事、よく見てくれよ。そして、悪い所があったら、遠慮なくどんどん言ってくれ」
「恭介…」
 恭介の言葉が、私の胸を満たしていく。私は、この人が、どうしようもなく、好きなんだ。
「愛してる」
 甘い言葉が耳をくすぐる。だめだ、もう我慢できない。我慢したくない。
「私も…愛してる」
 恭介の唇が、私のそれに重なる。そのまま、恭介が体重をかけてきて、私は、ベッドに押し倒された。
 今までした事の無い、激しいキス。恭介の舌先が、私の唇を弄る。私が唇を緩めると、恭介の舌が私の中に入ってきて、私の舌を捕らえる。 舌を絡み合わせる濃密なキスが、私の頭を痺れさせていく。お腹の下の方が熱くなってきて、何かが私の中から溢れだすのが判る。
 …やだ…。私…、濡れてきてる…。
 そう思った途端、頭の中で何かが弾けて、もう何がどうしたのか、判らなくなった。

 気が付いたら、私も、恭介も、何も身に着けていなかった。視界の隅に、脱ぎ散らかされた二人の服や下着が散乱しているのが見える。 でも、それを自分で脱いだのか、恭介に脱がされたのか、それすら私には判らなかった。ただ、私の体に触れる、恭介の手や唇の感触だけがあった。
 恭介の手が、私の胸を弄る。反対側の乳房を、恭介が口で愛撫する。恭介の手や舌が動く度、私は喘ぐ。
 やがて、恭介の手が、下に降りていく。背中、腰、お尻と、恭介が触れた所から、次々と快感が拡がり、私の口から声が漏れる。恥ずかしい声。 でも、その声が、益々私の理性を溶かしていく。
 そして、恭介の手が、太腿の内側を遡って、私の体の中心に到達する。初めての愉悦に、私は、ひときわ大きな喘ぎ声をあげた。
「濡れてる…」
 恭介が少し驚いたように呟く。莫迦、そんなこと、いちいち言わないでよ。当たり前じゃない。こんなに…こんなに、気持ち良いんだから。
 恭介の指が、私の敏感な所に触れる度、私は、しゃくり上げるように小さく悲鳴を上げる。もう、どうなってもいい。
 と、恭介の指が離れた。代わりに、私の立てた両膝の間に、恭介が体を入れる。
「いくよ。いい?」
 だから、いちいち訊かないで。ここまできて、今更よくない訳ないでしょ。そう言ってやりたかったけど、私の口は、もうまともな言葉なんて吐けない。 代わりに、小さく肯く。
 恭介が腰を進めると、お腹の下の方に小さく痛みが走った。それは、少しずつ大きくなって、私の体の奥に広がっていく。 でも、想像していた程には、その痛みは大きくならなくて、その代わり、満たされていく充実感がじわじわと高まっていった。
 やがて、恭介の律動的な動きが、私の体を下から突き上げる。私は、恭介の背中にしっかりと手を回してしがみついていた。 恭介の胸板で私の胸がこすられ、乳房が二人の体の間で押しつぶされる。二人の唇が、貪欲に互いの唇を貪るように吸う。 恭介の動きがどんどん激しくなっていって、そして、私の中に何かが迸った。同時に、昇りつめた私の体が、何度か、痙攣をするように小さく震えた。
 恭介も、私も、荒く、熱い息を吐いた。私は、恭介の体に回した腕に、思い切り力を込める。
 私は、満たされていた。

 恭介の手が、私の髪を撫でている。その感触が心地良い。
 そう言えば、恭介が初めて私の髪を撫でてくれたのは、あの五月の事だったように思う。 恭介が、私が購買部で買ってあげた変な味のパンを喉に詰まらせて、それを、私は、自分の飲みかけの牛乳を飲ませて、助けてあげた。 それが、間接キスになった事に気が付いて、二人とも真っ赤になってしまった。
 その後、恭介は、「ありがとな」と言って、私の頭を撫でてくれた。 何だか子供扱いされたみたいだったし、周りにはクラスメイト達もいて恥ずかしかったけど、その手の感触が気持ちよくて、私は、されるがままになっていた。 恭介の言った感謝の言葉は、単に喉の詰まりを助けてあげた事に対してだけじゃなくて、その時どこか元気のなかった恭介を励ましてあげたかった、 私の気持ちに気付いてくれたものでもあったから。
 でも、その後恭介は、私を引っ掛けて、私にもその変な味のパンを食べさせた。そのあまりに酷い味にむせ返った私を見て、恭介は大笑いしていた。 お陰で、せっかくの良い雰囲気がぶち壊しになってしまったのだ。
「余計な事まで思い出しちゃった…」
 私は、懐かしい思い出にくすくす笑った。あれは、たった二年前の事なんだ。
「何?」
「なんでもない」
 私は、そう言って恭介に体を擦り寄せた。あの頃の私に、今の私達の姿を見せたら、どんな顔をするのだろう。きっと、こんなの私じゃない、とか言って怒るだろうな。 でもね、私は、やっぱり私なんだよ。
 そして、こうなってしまった以上、私には、どうしても恭介に聞いておきたい事があった。
「ねえ…」
「何?」
「その、さ、中に、出しちゃったよね」
 恭介の手が止まる。
「危険日だった?」
 恭介が聞く。いきなりそれか。結構冷静だったりするのね。だいたい、「危険日」なんて言葉が気に入らない。 そう思いながらも、私は、自分の周期からざっと計算してみる。
「多分、違うと思うけど…」
「そっか…」
 あ、今、露骨に安心しなかった? 何か、少し苛めたくなってきたわよ。
「でも、絶対に妊娠しない日、なんてのは無いし、判らないよ。もし、赤ちゃんができたら、どうする?」
「ひとえは、どうしたい?」
「質問に、質問で返すの禁止。ちゃんと答えて」
 恭介は、少し考えてから言った。
「判らない」
「…それだけ?」
「だってそうだろ? まだ妊娠したって決まった訳じゃないし、仮定の話に対して覚悟なんてできないよ。それに…」
「それに?」
「子供の事を考えながら、ひとえを抱いた訳じゃない」
「じゃあ、どうして私を抱いたの?」
「そんなの、決まってる。ただ、ひとえが欲しかったから。ひとえの事を愛してるから、全部欲しくなった。それじゃ駄目か?」
「何かずるいよ。そんな風に言われたら、もう何も言えなくなっちゃう」
「でも、それが真実なんだ。それで、ひとえはどうなんだ?」
「え?」
「赤ちゃん。もし、赤ちゃんができて、オレが産んでほしい、って言ったら、ひとえはどうする?」
「…判らない」
「あのな…」
「だって、私も同じだもん。恭介の事を愛していて、恭介が欲しかったから。それだけだったから」
「…オレの真似だろ、それじゃ。何か、ひとえの方がずるい気がするけど」
 恭介が拗ねたように言う。それが何処か可愛くて、私はくすくす笑った。
「そうかもね。でもね、もし赤ちゃんができたら、それもやっぱり恭介の一部を貰った事になると思うの。だから、私は後悔しない。それだけは確かよ」
「…ひとえは、強いな」
「強くなんかないよ。恭介がいるから、強くなれるだけ。あなたがいなくなったら、私なんか、すぐボロボロになっちゃうよ」
「そうか…」
 その時の恭介は、何かすごく複雑な表情をしていた。強いて言うなら、深い哀しみを湛えたような、そんな表情。
「恭介…?」
 私が呼びかけると、その表情は消えた。まるで、幻のように。
「もう寝よう。明日も、朝から講義があるし」
 恭介が、また私の髪を撫でながら言った。
「それに、先回りしてさんざん考えて、結局子供ができなかったら、オレ達、大間抜けだし」
「まあ、それは、そうかも」
 何か、恭介に上手くはぐらかされた気もするけど、恭介の言う事にも一理あるように思えた。現に、私もはっきりとした答を持っていない。 今日のところは、問題提起をした事で良しとするか。
「おやすみ、ひとえ」
「おやすみ、恭介」
 私は、目を閉じた。心地好い疲れが、私をすぐに眠りの世界に引き込んでいった。



─ Scene 05 : 二人の朝 ─

 瞼を通して射し込む陽の光を感じて、私は目を覚ました。窓を覆う乳白色のブラインドが、朝の光を柔らかく透過させている。 枕元の目覚まし時計は、今が、いつも起床する時刻からはまだかなり早い事を示していた。結局、また数時間しか眠らなかった事になる。
 私は、視線を隣で寝息を立てている恭介に移した。授業中に居眠りしている時とは全然違う、恭介の寝顔。何か、可愛い。
 ほっぺたを突ついてやろうかしら、とか思ったけど、考え直して止めた。
 恭介は、昨夜、酔い潰れた私を背負って、大学からこの部屋まで運んでくれた。
「帰らないで」という私の我が侭を聞いて、勝手に立ちくらみを起こして眠りこけてた私の傍に、ずっと付いていてくれた。
 一コマ目の講義が始まるまでには、まだまだ時間がある。ぎりぎりまで寝かせておいてあげないといけないよね。
 私は、恭介を起こさないように、できるだけ静かに起き上がって、ベッドの端に座った。下腹部に鈍い痺れと、股間にべとつくような感触とを感じて視線を移す。 そこにこびりついた赤いものは、私に、否応無く一つの事実を突きつける。

 私は、もう、処女じゃない。

 自分でも意外な程に、喪失感は感じなかった。むしろ、充実感だけがあった。きっと、それは相手が恭介だったからに違いない。
 そして、下腹部に手を当ててみる。ここには、もう彼の子供が、新しい命が、宿っているのだろうか。
 私は、今度こそ立ちくらみを起こさないよう、ゆっくりと立ち上がって、バスルームに入った。スポンジにボディソープを付けて、体を隅々まで洗う。 特に、股間の汚れは、丁寧に、念入りに洗い流した。
 初めてなのにこんなになるなんて、自分でも驚いた。私は、ほんの何時間か前までは、「オルガスムス」なんて言葉でしか知らなかったのに。 今まで、ごくたまにそういう気分になった時も、怖くなって途中で止めてしまっていたのに。それも、きっと恭介だったからだ。
 そう言えば、恭介は男の人なんだから、女の私よりも、自分でする事はずっと多いだろう。 恭介は、別に聖人君子でも、禁欲主義者でもない。男の人の生理については、私にだってそのぐらいの認識はある。 その時、恭介は何を考えていたのだろう。月並みに、その手の本やらビデオやらなんだろうか。それとも、もしかして、私を思ってした事もあるんだろうか。 だとしたら、恭介の想像の中の私は、その時、どんな媚態を彼に見せていたんだろう…。
 …何を考えてるんだ、私は。
 思考が、あらぬ方向に進み始めた事に気が付いて、私は、思い切り力を込めて体を擦った。
 今さら、かまととぶったりするつもりも無いけれど、幾らなんでも、朝っぱらから考えるような事じゃない。 昨夜、あれだけ恭介と愛し合って、充分満たされた気分を味わったばかりだというのに。これじゃ、ただの淫乱女じゃないの。
 シャワーを浴びて洗剤をすっかり洗い流し、タオルで肌の水気を拭う。大きめのバスタオルをしっかり体に巻いて、バスルームを出る。 恭介がまだ起きる気配が無いのを確かめてから、鏡台の前に座って、恭介を起こさないように、なるべく静かにドライヤーで髪の湿気を乾かした。
 こういう時、髪が短いと楽でいい。高校に入学する前に、それまで長く伸ばしていた髪をばっさり切ってしまって、恭介を驚かせたっけ。 別に、髪を切ったのは実用性を重視したという訳じゃなかったし、ましてや、恭介を驚かす為でもなかったけど、今では切って良かったと思う。 それに、私にはこの方が似合ってる。
 ブラシで髪を梳いて整えると、もう一度恭介が眠っているのを確認して、体に巻いたバスタオルを外し、全身を鏡に映してみた。 体を重ねた後とは言え、明るい所で恭介に裸を見られるのは、やっぱりまだ恥ずかしい。
 鏡に映った私は、昨日までの私と違わないように見えた。これなら、他人には何も判らないだろう、と思って、少し安堵した。
「よし」
 小さな声で自分に気合を入れ直して、私は動き出す。 結局恭介は気付いてたのかな、とか思いながら、干してあった下着類を畳んでタンスに仕舞い、代わりに、新しい下着を取り出して身に着けた。 クローゼットに並んだ服をざっと見比べて、春物の、衿元が締まった長袖のワンピースを着る。
 どこにでも、そういう事に目敏い人は居るものだ。 あまり肌の見える服にしては、気が付かない所に残っていたキスマークなんかを見つけられたりするかもしれない。 少し自意識過剰な気がしないでもないけど、油断しないに越したことは無いだろう。 別に、恭介との仲を秘密にするつもりは無いけれど、と言うか、それ自体は既に周知の事だけれど、かと言って、こんな事まで知らせてやる必要も無い。
 もう一度鏡に全身を映してみた。うん、これでいい。
 それから、脱ぎ散らかされたものを集める。
 自分の下着は洗濯槽に、衣服は軽く皺を伸ばしてからハンガーに。 恭介の服を丁寧に畳んでベッドの脇に重ねて置く。最後に残った彼の下着を見て、これも洗濯した方がいいのかな、と思ったが、よく考えたら替えが無い。 結局、それも畳んで、他の服と重ねて置いた。恭介もシャワーを使うだろうから、新しいタオルも何枚か一緒に重ねておく。
 これからは、恭介の着替えもこの部屋に用意しておかないといけないな、と思って、ふと、昨日のゆかりさんの言葉を思い出した。
『そういう事を、あまり特別視しない方が良いと思うわよ』
 確かに、行為そのものはとても素敵で、特別な事だった。私にとっては、そしてきっと恭介にとっても、初めての事だったんだから当たり前だ。 けど、終わってみれば、彼の下着の替え、なんていう、あまりにも日常的な物の事なんか考えている私が居る。
 ほんと、特別でも何でもない、当たり前の事なんだなぁ。
 そう思うと、何だか可笑しくて笑ってしまいそう。その時、もう一つ、用意しておかないといけない物がある事を思いついた。
 高校の時でも、早熟な女子の中には、自分の手提げポーチや、時にはお財布の隅などに、避妊具やピルを忍ばせている人は居た。 「避妊や性感染症の予防を真剣に考えるなら、男任せにしていてはいけない」というのが彼女達に共通した見解で、私もそれ自体は賛成だったけど、まさか、 こんなに早く自分が彼女達と同じ事をしなければならない事になるとは、思ってもみなかった。
 私達の場合は、今から準備しても無駄になるかもしれなかったが、それが判るのは何週間も先の話だ。 それまでの間に、私がまた恭介を求めたくならないとはとても言えなかったし、恭介も同じだろう。 昨夜は恭介にあんな大きな事を言ってはみたが、あれは、既成事実に対する見解であって、これから、という事になるとまた話は違う。 一昔前に声高に叫ばれた「少子化危機」のお陰と言っていいのか、当時とは違って、今は子供を育てる環境や社会制度は大きく改善されているものの、 未成年の学生のカップルが子供を産んで育てる、というのは今でも大きな苦労が伴う。 やはり、妊娠の確率をできるだけ低くする為の準備は必要だろう。
 ただ、それを実行するには、少し抵抗がある。自分が、男物の下着や避妊具を買っている所を想像しただけで、顔から火が出そうになる。
 そんな事を考えていたら、また昔の事を思い出してしまった。
 まだ、レゥちゃんの事を恭介が私達にも隠していた頃、レゥちゃんの為に女物の下着や衣服を買いに来た恭介と出くわした事がある。 あの時の恭介の慌てようったらなかった。その上、現場を亮にも目撃されていた為、一時、阿見寮では「渡良瀬恭介女装趣味疑惑」なんてものが広まったりもした。 私は誰にも話していなかったのに、恭介は、私が疑惑を広めた張本人だと誤解して、私の部屋まで怒鳴り込んできたりもした。 まあ、恭介は亮に目撃されていた事に気付いていなかったから無理も無いけど、私だって言っていい事と悪い事との区別ぐらい付くのに。 もっと幼馴染みを信用しなさいよ、ってその時は思ったものだ。
 結局は、レゥちゃんの存在が公になって疑惑は自然消滅し、それはただの笑い話で済んだんだけど、いざ自分が恭介の立場になると思うと、とても笑っていられない。
 しょうがない、恭介が買える物は、恭介に買ってきてもらおう。 それを恭介に頼むのは、ある意味、「また抱いて欲しい」と言うようなものだから、それもまた恥ずかしいと言えば恥ずかしいけど、背に腹は換えられない、とも言うし。 どっちが背中でどっちがお腹かは知らないけど。
 そんな事を思いながら恭介を見る。私がこれだけ部屋の中を動き回っているのに、恭介は、まだ平然と眠っていた。
 余程疲れていたのかな。いや、あれが激しかったから、という意味じゃなくてね。そういう意味じゃないんだからね。
 自分に、しなくてもいい言い訳をしながら、私は、あと残っている物は無いかと部屋を見回す。と、隅っこに、二人のカバンが転がっていた。
 昨日は、これも、二つとも恭介が運んでくれたんだったな。
 私は、恭介に感謝しながら、カバンを拾って机に並べて置く。 時計を見て、まだかなり余裕がある事を確かめると、私は、先に今日の講義の準備をしておこう、と思って、自分のカバンから携帯を取り出した。 記憶させてある履修計画表を見ようとして、画面に「留守電預り中」の表示がある事に気付く。
 誰からだろう、と登録情報を表示させた時、私は、それまでの浮かれた気分が全部吹き飛ぶのを感じた。
 発信者の欄には、「レゥ」と表示されていた。

 阿見寮を出るにあたって、恭介がレゥちゃんに新しく買ってあげた物の中に、携帯があった。 恭介がいない間はたえさんの保護を受ける事ができたそれまでと違い、一人で過ごす時間が増えるレゥちゃんにとって、それは必要な物だったからだ。 やたらと多機能化が進んで、もはや誰も「携帯『電話』」なんて呼ばなくなって久しいそれを、レゥちゃんは、あっという間に使えるようになってしまった。
 レゥちゃんの、物覚えの早さ、記憶力の凄さは、以前から抜群だった。 トランプの神経衰弱をやらせれば、レゥちゃんに勝てる人は阿見寮にはいなかったし、 たえさんの仕込みで覚えた料理のレパートリーの多さと味の良さは、誰もが認める所だった。尤も、レパートリーも味付けも、少し恭介の好みに偏っている節はあったが。 また、その恐るべき記憶力に目をつけた誰かが、円周率πの値を暗記させてギネスブックの記録に挑戦しよう、なんて言い出して、レゥちゃんも面白がって ── 一説には、小数点以下の数字百桁を覚える度にお子さまランチを奢る、という餌に釣られた、という話もある──やり始めた、 それを恭介が慌てて止めさせたが、その時既に小数点以下数十万桁まで諳じていた、などという、どこまで信用して良いのかよく判らない噂まであった。 亮あたりが創作したのかもしれないが、レゥちゃんならあり得る、という点では、寮生全員が一致していた。
 とにかく、何年も携帯を使っている私や恭介が、未だに、日常的に使う機能以外はマニュアルと首っ引きになるのとは対照的に、レゥちゃんは、 たったの数日のうちに、携帯の全機能を把握してしまった。 私が、「あの機能はどう操作するんだったっけ?」と聞くと、ぱっと答えてしまう。「マニュアル人間」ならぬ、まさに「人間マニュアル」だった。
 ただ、レゥちゃんの場合、把握した機能を「正しく使いこなす」という能力に、決定的に欠けていた。
 一週間も経たないうちに、レゥちゃんの携帯が動作しなくなってしまったのだ。 泣きそうな顔で見守るレゥちゃんを前に、恭介と私とで、週末を潰してマニュアルを二日がかりで調べ、色々と試してみたが、その小さな機械は、 意味の判らない映像を表示したまま、操作する事はおろか、電源を切る事もリセットする事もできなくなってしまっていた。 仕方無く、週明けの朝一番でサービス店に持ち込んで調べてもらったが、それは数日後に、新品に交換されて戻ってきた。 恭介が詳細を問い合わせたところでは、サービス店ではどうしようもなく、メーカー送りになったものの、「修理不能」と判断されたらしい。 対応した技術者の台詞をそのまま言うと、
「携帯のシステムが、まるきり出鱈目に書き換えられていた。 メーカーメンテナンス用の、ユーザーには明かされていない特殊な操作を行ない、更に、開発者しかやり方を知らない筈の特権モードへの設定を行なった上で、 搭載されているアプリケーションどころか、携帯を制御しているOSのカーネル部分にまで手が加えられていた。 どうやったらこんな事が一介のユーザーにできたのか、さっぱり判らない。 故意に行なったにしては出鱈目過ぎるので、想定されていない何らかの操作が行なわれた、としか思えない。 見落とされている不具合が顕在化した可能性もある。現物は解析の為に開発チームに回し、同型機の新品交換とする事でご了承いただきたい」
 という事だった。
 私には、何を言っているのかさっぱりだったけど、恭介は一応理解できたらしい。 その後、恭介は、新しい携帯の機能のうち、電話とメール以外の部分を使えないようにロックしてしまい、以後、通話とメールの送受信以外に使わないよう、 レゥちゃんに厳に言い渡した。 初めからそうしておけば良かったのだろうが、まさか、レゥちゃんが開発者も想定していないような操作をして携帯を壊してしまう、などと思う筈もなかったから仕方がない。 レゥちゃんは、初めは不満そうだったが、そのうち、それだけでも日常の使用には問題無い事が判ると、また嬉々として使うようになった。
 これは、そのレゥちゃんの携帯から登録されたメッセージだった。

 メッセージの内容は想像がつく。朝になっても戻らない恭介の事が心配で、私にも連絡を付けようとしたに違いない。
 昨日、確か恭介は、「大学を出る前に、ひとえが酔い潰れて死にそうだから、部屋まで送ってから帰る」と連絡した、と言っていた。
 メッセージの登録時刻は、今日の午前三時過ぎ。つまりは、「あの」後、私達が眠ってしまった頃だ。 常日頃の癖でマナーモードに設定していた為、電話が掛かってきた事に気付かなかったんだと思う。多分、恭介も同様だろう。
 すると、恭介は、立ちくらみを起こした私が目覚めるまでの間に、レゥちゃんに改めて連絡をしておかなかったのかもしれない。 するまでもない、と思ったのか、するのを忘れていたのかは本人に訊かないと判らないけど、とにかく、その原因を作ったのは私だ。
 胸が痛むのを感じながら、私は、登録されたメッセージを聞いた。

「もしもし、ひとえちゃんですか? レゥです。あの、おにいちゃんをしりませんか。ひとえちゃんのおへやによってからかえる、っていったまま、まだもどりません。 おにいちゃんにでんわしてもでないし、しんぱいしてます。しってたらおでんわください。ずっとまってます。おねがいします」

「ずっとまってます」──その一言が、私の胸に鋭く突き刺さる。
 レゥちゃんは、あの部屋で、独りで待っていたんだ。私が、恭介を独り占めしていた間、ずっと、じっと待っていたんだ。 私が、我が侭を言い、悦楽に耽っている間も、他に頼る人もいない、懐かしい阿見寮からも遠く離れた、この街のマンションの一室で。 普段は、私や恭介に対しては決して使わない丁寧な言葉遣いが、レゥちゃんが今置かれている状況の深刻さを物語っているようだった。

 私は、いったい、なんて酷い仕打ちをあの子にしていたんだろう。
 レゥちゃんが置かれた状況は、そのまま、私の置かれていた状況の裏返しなのに。
 恭介とレゥちゃんとが二人で居る時、私が独りで居るように、私と恭介とが二人で居る時は、レゥちゃんだって独りきりだったのに。
 そんな、簡単な事さえ、私は忘れていたんだ。 子供っぽくて、心の狭い私は、私が恭介の恋人で、レゥちゃんはそうではない、という、ただそれだけの理由で、あの子からたった一人の「家族」を奪っていたんだ。

 とにかくすぐに、恭介はここにいるから、何も心配しなくていいから、と連絡しないと。
 急いで、携帯の電話帳からレゥちゃんの携帯の番号を選択し、発信ボタンを押そうとして──私は、躊躇った。
 恭介は、ここに、この私の部屋にいる──それが何を意味するのか、レゥちゃんは理解するだろうか?
 理解しなければそれでいい。「おにいちゃんが、おともだちのところでおとまりしてきた」──それだけの事だ。
 でも、理解してしまったら──私が、恭介とそういう関係になった、という事を理解したら、レゥちゃんはどう思うんだろう?
 正直言って、レゥちゃんの「その方面」の理解度がどの程度あるのか、私にはさっぱりだった。 それを測るには、レゥちゃんの言動は幼な過ぎた。人前で、平気で恭介に抱きついたりするが、そこに性的な衝動は感じられない。 あれは、まさに、年端のいかない妹が、兄にするようなものだ。あるいは、娘が父に。私にはそう見える。
 だからと言って、何も知らない、とは限らない。
 私にとっては、大切な愛情の交歓になるあの行為も、彼女にとっては、汚らわしい、不潔なものと見えるかもしれない。 あるいは、「最愛の兄を奪った女」として、私の事を見るようになるかもしれない。 そうなったら、彼女が今現在私に寄せてくれている親愛の情を失う事になるかもしれない。
 成熟した女性の肢体を持ちながら、精神的な、そして性的な成熟度はまったく不明──その辺りの曖昧さが、レゥちゃんに対する私の不安感の源泉でもあったのだ。
 ええい、ままよ──私は、思い切ってボタンを押した。そうなったらそうなった時の事だ。今は、とにかくレゥちゃんを安心させる事が先決なんだ。
 回線が繋がり、呼び出し音が鳴る。その音が、一回鳴り終えるかどうかのうちに、相手が出た。
「はい…」
 レゥちゃんの声。いつもの、明るく弾けるような響きが何処にも無い、暗い声。
「もしもし、レゥちゃん? 私、ひとえよ」
「あ、ひとえちゃん…おはよう」
 電話してきたのが私だと判ったからか、声に少し張りが戻った。それでも、まだ全然足りない。
「留守電、聞いた。ごめんね、連絡するのが遅くなって。元気無さそうだけど、大丈夫?」
 その元気を奪ったのは、私。
「うん、だいじょうぶだよ。ちょっと、あんまりねてないから、おおきなこえがでないだけ」
 あんまり、何かじゃない。きっと、全然眠っていないんだ。
「そう…。あのね、恭介なんだけど」
「おにいちゃん、どうしたの? かえる、っていってたのにかえってこないから、しんぱいなの」
 その答を私が言ったら、レゥちゃんはどう思うだろう? この期に及んで、私はまた躊躇った。
 でも、どうせ何時かは判ることなんだ。早いか遅いか、今か近い将来か、だけなんだ。結果は同じよ。
「恭介ね、ここにいるの。昨夜、私を部屋まで送ってくれて、そのままここに泊まったの」
 一気にそれだけ言った。電話の向こうで、レゥちゃんが息を呑む気配がした。
 ──レゥちゃんは、理解しているんだ。この子は、見かけの言動ほどには「子供」じゃない。
「…そう。それならいいの。でも、どうして、おにいちゃんは、そうするってでんわしてくれなかったの?」
 それは、単に聞いてみただけ、だったかもしれない。でも、私は、そこに非難するような響きが含まれているような気がして、たじろいだ。 非難されているのは、私? それとも、恭介?
「それは、私が悪いの。私が酔っぱらっちゃって、恭介に迷惑かけちゃったから。きっと、そのせいでうっかりしてたんだと思う」
 嘘じゃない。嘘は言っていない。けど、全部を話した訳でもない。
「…それで、いま、おにいちゃんは?」
「恭介、まだ寝てるの。起こそうか?」
「ううん、それならいい。おにいちゃんに、がっこうにいくまえに、いっぺんもどってきて、ってつたえてくれる?」
「うん、判った。ちゃんと伝えるね」
「ありがと…つっ!」
 急に、レゥちゃんが、呻いた。何? 今のは?
「ちょっと、今の何? どうしたの?」
「あ、ううん、なんでもない。ちょっと、うでがいたかっただけ。もうなんともないよ」
「…そう? だったらいいけど…」
「うん。じゃあ、ひとえちゃん、またね」
「あ、うん。またね」
 電話が切れた。私は、天井を見上げて、大きく息を吐いた。口の中が、からからに乾いていた。

「ひとえ?」
 私は、少し放心していたのかもしれない。いきなり後から呼ばれて、心臓が跳ね上がった。振り向くと、恭介が半身を起こして私を見ていた。
「恭介!」
「…いきなり大声出すなよ。今、誰かと話してたか?」
「莫迦! そんな事どうでもいい!」
 いや、全然どうでもよくなかったけど、私は、その時自分の言葉がおかしい事にも気付かないほど慌てていた。 私は、恭介の傍に駆け寄って、その肩を掴んで激しく揺さぶった。
「今頃起きて何言ってるのよ! 早く起きなさいよ!」
「ひとえ、落ち着け。起きたから。一体どうした?」
「どうしたもこうしたも無い! 恭介、すぐ起きて、服着て! それから、すぐ帰ってあげて! レゥちゃんが!」
「…あいつが、どうした?」
 私が、レゥちゃんの名前を出した途端、恭介の顔つきが変わった。それまでの、半分寝ぼけたような顔の表情が、いきなり険しくなった。
 私は、ついさっきまでの、レゥちゃんとの通話の内容をかいつまんで話した。 恭介は、真面目な顔で聞いていたが、私が、レゥちゃんが「うでがいたい」と言った、と話した時だけ、一瞬顔色が変わった。
「あいつは、『うでがいたい』って言ってたんだな? でも、すぐになんともなくなった、と」
「う、うん、そうだけど…」
 私は、どうして恭介がその点に拘るのか、判らなかった。そんな事よりも、一刻も早く、レゥちゃんの所に行くべきなんじゃないの?
「判った…ひとえ、シャワー、借りていいか?」
「な…!」
 私は、慌てるどころか、むしろのんびりした口調で言う恭介に、腹が立って喚いた。
「何を言ってるの、シャワーなんか浴びてる場合じゃないでしょ!」
「そうは言っても、このままじゃ汗で気持ち悪いんだ。昨夜は、ちょっと、その、思ってたより激しかったからな」
 頭に血が上った。何よそれ、冗談のつもり!? 全然面白くなんかないわよ!
「恭介!」
 思わず手を振り上げた。思いっきり殴りつけてやろうとして、恭介の顔面目掛けて振り下ろしたその手は、しかし、寸前で恭介に止められてしまった。
「落ち着け。ごめん、今のはオレが悪かった。謝る。ちょっとふざけ過ぎた。でも、ひとえも少し落ち着いてくれ。頼むから」
「落ち着ける訳ないでしょ! レゥちゃんが、あの子に何かあったら、私のせいなんだから!」
「ちょっと待って。どうして、ひとえのせいになるんだよ?」
「だってそうじゃない! 私が、私があの時、『帰らないで』なんて言ったから、だから!」
「違う。オレが、ちゃんと忘れずに、あいつに連絡しておけばよかったんだよ。ひとえのせいじゃない」
「でも、私が、恭介を独り占めしようとしたから! レゥちゃんだって、恭介がいなきゃ独りぼっちなのは同じなのに!」
「それも違う。オレが、ひとえの傍に居たかったから、そうしただけだ。独り占めとか、そんなんじゃない。今までだって、何度もそういう事はあっただろ?  今日のは、ちょっと間が悪かっただけだよ」
「でも…私が…」
「まだ納得しないのか。じゃあ、オレは何だ? ひとえが、『オレを独り占めしたい』と思っただけでそうできるようなモノなのか? オレの意思は関係ないのか?  ひとえは、オレの事を、そんな風に思ってるのか?」
「そんな事…思ってる訳…無いじゃない…」
 いつになく鋭い恭介の言葉。でも、怒ってる訳じゃない。ただ、ひどく哀しい眼をしていた。私は、その眼から逃げるように顔を背けた。
「ごめん、ちょっと言い過ぎた。ひとえがそんなやつじゃない、っていうのは、オレが一番よく知ってるのにな。
 でも、これだけは忘れないで欲しいんだ。みんな自分で選んだ事なんだ。オレも、ひとえも、そしてレゥも、な。今の生活とか、今の関係とか、全部をな。
 そこには、いいも悪いも無いと思うんだ。ただ、完全なモノなんて無いからさ、時々上手くいかなくなる事ぐらいある。それだけなんだよ、きっと」
 この言い方、何かいつもの恭介と違う。そう、これは、むしろ恭平兄さんみたいだ。
 恭介、あなた、いつの間にこんな話し方をするようになったの?
 腕の力が抜けていく。自分を責めていた心の舵が、恭介の言葉で、別の方向に向きが変えられていくような感じがした。
「オレも、ちょっと油断してたんだ。ここんとこ、あいつも割としっかりしてたから。オレ、最近ちょっと舞い上がってたんだよ。ひとえと、一緒にいられるからさ。 あいつの事、少しだけ蔑ろにしてしまってたのかもしれない。あいつが一番弱いのにな」
 私の腕を掴んでいた手を、恭介が離した。代わりに、私の手を包み込むように両手で握る。
「とにかく、あいつの事なら大丈夫だから。急いだ方が良いのは確かだけど、少なくとも、一分一秒を争う、っていう程じゃない」
「…本当?」
「ああ、本当だ。だから、シャワーを貸してくれるか?」
 恭介の言葉には、妙に確信めいたものがあった。
 恭介、あなた、何か知ってるのね? 今、レゥちゃんに何が起きているのか、判ってるのね? だから、そんなに落ち着いていられるんだ。
 私は、それを知りたかった。けど、そんな事は後でもできる。今は、恭介がしたいようにさせるしかない。
「…判った。とにかく、急いで」
 私は、体を引いた。でも、恭介は、まだ何か躊躇ってる。
「…何、してるの?」
「…悪い、向こう、向いててくれないかな」
 恭介が、顔を赤くして言った。私は、一瞬きょとんとして、それから、すぐにその意味を理解した。私の顔にも血が上る。恭介は、まだ裸だったんだ。
「ば、莫迦! いいから、早く行きなさいよ!」
 私は、回れ右をして後を向くと、バスルームの方を指さして喚いた。何か、今朝は喚いてばかりいるような気がする。
「さんきゅ。ここのタオル、使っていいんだな?」
「いいから! さっさと行く!」
「はいはい」
「『はい』は一度!」
「へーい」
 私の後で、恭介が立ち上がる気配がする。重ねてあった服やタオルを取り上げる音がして、足音がバスルームの方に向かった。 バスルームのドアが開いて、また閉まる。シャワーの音がし出したのを聞いて、私は、へなへなとその場に座り込んでしまった。
 恐る恐る振り向いて、ベッドを見る。寝乱れたシーツの真ん中辺りに、赤く染みが付いていた。私と、恭介が結ばれた証。
 私は、立ち上がって、ベッドの下に置いてある衣装ケースから新しいシーツを取り出すと、汚れたシーツを剥がして、新しいのに敷き直した。 汚れたシーツを、染みが見えなくなるようにしてできるだけ小さく丸める。 一瞬、記念にとっておこうかな、とか思ったけど、すぐに馬鹿馬鹿しくなって、ごみ袋に押し込んだ。 それからベッドの所に戻ると、その端に座り込んで、私は、また一つ、大きく息を吐いた。

「ひとえは、先に大学に行っててくれ。レゥの様子次第だけど、多分遅れるから」
 玄関で、靴を履きながら恭介が言う。
「やっぱり、私も一緒に行った方が良くない?」
「いや、多分、オレ一人で何とかなると思う。一コマ目って、確か二人とも『心理学1』だったろ?」
「うん」
「あれ、遅刻すると出席にならないからさ。ひとえだけでもちゃんと出て、オレの分まで成績上げといてもらわないと。二人とも玉砕する事、ないだろ」
「何か、変な理屈」
「ノートも、よろしく頼むから」
「言われなくたって、ちゃんとやるわよ。自分の事でもあるんだから」
「さすが、ひとえ様」
「…莫迦」
 靴を履き終えて、恭介が立ち上がった。私は、持っていた恭介のカバンを差し出す。
「レゥちゃんの事、よろしくお願いね」
「ああ。心配するな…って言っても無理か。心配し過ぎるな、にしとこう。後で連絡入れるから」
「ん」
 恭介が、私の手からカバンを受け取って、肩にかけた。私の顔を見て、少し身を屈める。私も、少しだけ背伸びして、顔を近づける。触れ合うだけの、軽いキス。 それでも、昨夜の濃密なキスと変わらないだけの満足感がある。
「じゃあ、また後で」
「あんまり慌てないでよ。事故にでも遭ったら困るから」
「急げって言ったり、急ぐなって言ったり、どっちなんだよ」
「私は、慌てるな、って言ったの。慌てず、急いで、正確に、よ」
「何だそれ」
「いいから、行きなさい」
「ああ」
 恭介が、玄関のノブに手をかけた。回そうとして、動きを止める。
「…どうしたの?」
「なあ、ひとえ」
「何?」
「オレ達、やっぱり一緒に暮らさないか? オレと、ひとえと、レゥの三人で住める部屋、探してさ」
 恭介が、私を見つめて言う。いきなり何を言い出すのよ。でも、恭介の顔は、真剣そのものだ。
「…何よ、こんな時に」
「こんな時、だからさ。オレ達が別々に暮らしている限り、多分、また同じような事が起きる。 オレ、もう、起きた途端にひとえに怒鳴られたり、殴られそうになるの、嫌なんだよ」
「…それも冗談のつもりなの?」
「ごめん、面白くないな。でも、一緒に暮らそう、っていうのは冗談じゃないから」
「そんな事、急に言われても…」
「別に、今すぐって訳じゃない。でも、近い将来の選択肢の一つとして、真剣に考えておいてほしいんだ。今はそれだけ」
「…判った。考えとく」
「頼むよ。じゃあ、行くから」
「車に気をつけなさいよ」
 恭介は、片手を上げると、足早に行ってしまった。私は、恭介の姿が見えなくなるまで見送ると、ドアを閉めて部屋に戻った。
 やりかけだった講義の準備をしながら、私は、さっきの恭介の言葉を頭の中で反芻していた。

『一緒に暮らそう』

 …これって、やっぱり、プロポーズなのかな。
 でも、恭介は、「二人で暮らそう」とは言わなかった。私達の間には、常にレゥちゃんが居る。私には、レゥちゃん抜きで恭介の事を考える事は、許されないらしい。

 恭介とレゥちゃんとは、分けて考えちゃいけないんだ。
 いや、違う。
 分ける事ができないんだ。

 その理由はまだ判らない。それは、恭介が知っている筈だ。恭介は、私にまだ何か言っていない事があるんだ。
 多分、それは、私が知る必要が無かった事なんだろう。今までは。だから、恭介は私に話さなかったんだ。
 でも、今、私は、それを知らなければならない所まで来てしまった。

 そう悟った今、私の心は、何故か穏やかだった。昨夜、あれ程感じていたレゥちゃんへの嫉妬心も、恭介への苛立ちも、綺麗に無くなってしまっていた。



─ Scene 06 : 二人の孤独 ─

 私は、一コマ目の講義の開始時刻ぎりぎりに教室に滑り込み、何とか遅刻を免れた。 空いている席に座ると、前の席に居た同じ学科の人に小声で話し掛けられた。
「今日は一人? 彼氏はどうしたの?」
「うん、ちょっと、用事があって」
 私は、曖昧に誤魔化した。彼女は、さらに何か訊こうとしていたが、ちょうど講師の先生が入ってきたので、私は、それ以上の追及を免れた。
 いつもは恭介と二人で受けていた講義を一人で聞き、ノートをとる為に忙しく手を動かしながら、私は、レゥちゃんの事を考えていた。
 電話越しに聞いた、レゥちゃんの弱々しい、暗い声。恭介が私の部屋に泊まった、と聞いた時の、あの息を呑む気配。呻き声を上げ、「うでがいたい」と言っていた事。 何度思い返しても、不安を掻き立てる要素しか思い浮かばなかった。
 今頃は、もうとっくに恭介は部屋に帰って、レゥちゃんの様子を確かめている筈だ。恭介は、「あいつは大丈夫」と言った。私は、その言葉を信じるしか無かった。
 とにかく、今私にできる事をやるしかない。私は、私自身と恭介の為に、ノートをとり続けた。

 結局、恭介は、一コマ目の講義に姿を見せなかった。電話も、メールも来なかった。
 私は、講義が終わると、すぐに恭介に電話を掛けてみたが、恭介は出なかった。それどころか、電話は繋がりさえしなかった。 何度掛け直しても、恭介の携帯が通信圏外にあるか、あるいは電源が入っていない事を知らせる、人工的な音声が流れるだけだった。
 いったい、どういう事よ、これは。恭介は、何処にいるの? 何してるの?
 念の為、レゥちゃんの携帯にも掛けてみたが、結果は同じだった。あの二人は、いったい何処にいるんだろう?
 そうこうしているうちに、短い休み時間は終わってしまった。二コマ目の講義は、私の所属する学科のみの専門科目だったので、元々恭介は現れる筈がない。 私は、焦燥感に苛まれながら、講義が終わるのを待ち続けた。

 昼休みに入っても、状況は全く改善しなかった。恭介の部屋に行ってみようか、とも思ったが、二人があそこに居るのであれば、電話が繋がらない筈は無い。 こんな時に、恭介が携帯の電源を切ったりする筈は無い。あの二人は、携帯の電波が届かないような場所に居るとしか思えなかった。
 仕方無く、私は、食堂で昼食を摂る事にした。よく考えたら、今朝から何も食べていなかった。
 空腹感はあったが、喉に何かが詰まっているような感じがして、どうにも食欲が湧かない。私は、素うどんを注文すると、端の方の席を選んで腰を下ろした。
 少しずつ麺を啜っていると、向かい側の席に顔見知りの男子学生がやって来た。恭介と同じ学科の人だ。
「ここ、いいかな?」
 私が顔を上げると、彼は、私の前の席を示して言った。食堂は、今が一番混む時間帯だ。空いている席は少なく、特に断る理由も無い。
「どうぞ」
「では」
 私が肯くと、彼は、少し笑みを浮かべて腰を下ろし、食事を始めた。
「榛名さん、今日は一人? 渡良瀬はどうしたの? 二コマ目の講義にも居なかったみたいなんだけど」
 …またか。どうしてこう、私が一人でいるだけで、誰も彼もが同じ事を訊いてくるのよ。
 一コマ目の講義が始まる前のを皮切りにして、半日も経たないうちに、いったい何人の知り合いに同じ質問をされたことか。 それは、要するに、いかに私と恭介とが一緒に居る時間が長かったかを表わしていたのだが、今の私は、その事を嬉しがっている気分ではなかった。
 しかし、彼の言葉からすると、やはり恭介は大学には来ていないようだ。
「今日はちょっと用事があって…」
「そうなんだ。僕は、また風邪でも引いて休んでるのかと思ったよ」
「いえ、そういう訳じゃないんだけど」
「ふうん…」
 彼は、さして興味があった訳でも無さそうに、それ以上は何も訊かずに食事を続けた。
 私も、黙々と食事を続けていたが、ふと思いついて、彼に訊いてみた。
「ねえ、携帯の繋がらないような場所って、どんな所だか知ってる?」
 いきなりの質問に、彼は少し驚いたみたいだったけど、少し考えるようにしてから答えた。
「そうだなぁ…。映画館とか劇場、コンサートホールなんかの、携帯の呼び出し音が鳴ったら迷惑な所。電波が遮断されてるから、まず繋がらないね」
 まさか、そんな所にあの二人はいないだろうな。でも、昨日までの私なら、二人が私に内緒でデートに出掛けている、などという下品な想像をしたかもしれない。 そんな自分を思い出して恥ずかしくなる。
「他には?」
「ど田舎。山間の盆地とか、周りを山に囲まれた海辺の村とか、そんな地形の影響で携帯の電波が届かない所が、今でも幾つもあるみたいだよ」
「ふうん…」
 それも違うだろうなあ。
「あとは?」
「あと、ねぇ…。電車とか飛行機とかの乗り物は、今ではまず大丈夫な筈だし…。まあ、一般的な所では、病院ぐらいかな、あとは」
「病院…」
 そうか、そこがあった。恭介が、レゥちゃんを連れて病院に行っている、というのは考えられる。と言うか、何故今まで思いつかなかったんだ、私は。
 でも、という事は、彼女の状態は、医者が必要なぐらい悪いのだろうか。それはそれで、また不安の種になる。
「でも、それがどうかしたの? 渡良瀬の奴に携帯が繋がらない、とか?」
「あ、うん、まあ、そんなとこ。どうもありがと」
 私は、食べ終わった食器を手に、席を立った。近くの病院については、幾つか携帯に登録してある。電話をして、渡良瀬恭介かレゥという人が来ていないか訊いてみよう。 病室や治療室には繋がらなくても、受付には掛けられる。
「どういたしまして。ちゃんと講義に出るように、渡良瀬に言っといて」
「ええ」
 そう言って席を離れようとして…私は、彼の言葉に気になる単語があった事に気付いた。
「ねえ、さっき、『一般的な所では』って言ったでしょ? そうでない所、っていうのは何処なの?」
 既に食事を再開していた彼が、また顔を上げた。
「え? ああ、要するに特殊な所」
「だから、具体的には、どんな所なの?」
「例えば、原発の炉心部とか、自衛隊の地下施設とか、そんな所だよ」
 それは、確かに特殊だ。でも、あの二人がそんな所にいない事は確かだ。
「それか、研究所とか、かな」
「研究所?」
「そう。例えば、当の携帯自体を開発している所なんかには、外からの電波も内からの電波も通さない、全く電波を反射しない壁で覆われた部屋があったりするし」
「へえ…」
「電波暗室、って言ってね。その中に開発中の携帯を置いて、テストしたりするらしいよ。余計な電波の干渉が無いようにする為らしいけど。 まあ、そこまで徹底してなくても、外壁に電波を通しにくい塗装をしたり、そういう建材を壁や天井に埋め込んだりして、 建物の内部には携帯が通じないようにしてある所も多いらしいし。秘密保持の為にね。研究所の中なんて、企業秘密や何やらの宝庫だから」
 うーん、でも、やっぱりそんな所にもいないだろうなあ。
「いろいろありがと。ごめんね、食事中に変な事訊いて」
「いや、気にしないでよ」
「じゃあ」
 私は、今度こそ彼に挨拶をして席を離れた。いつもは、恭介が居るポジションに座っている彼は、もう私の事など忘れたように、黙々と食事を続けていた。

 昼休みの間に、携帯の電話帳に登録してあった病院に一通り確かめてみたが、恭介もレゥちゃんも、どの病院にも現われてはいなかった。 二人の携帯にも相変わらず繋がらない状態で、私は、何も状況を掴めずに、午後の講義に出席する事になった。
 そして、こちらから全く連絡が取れないまま、恭介は、その日は遂に大学に姿を見せる事は無かった。

 その日の最後の講義が終わるのも早々に、私は、恭介の部屋に向かった。 いつものように喫茶室で待っていてみようか、とも思ったが、あの二人が今何処に居るにしろ、必ず部屋に帰ってくる。なら、彼の部屋で待っている方がまだマシだ。
 結局、二人の携帯には一度も繋がらなかった。同じメッセージを機械的に繰り返すだけの自分の携帯を、思わず地面に叩きつけてしまいそうな衝動にかられる。
 まったく、なぁにが、あとで連絡する、よ! あの莫迦! あと、っていつの事なのよ!
 恭介に対する怒りが沸き上がってくる。でも、それは、不安の裏返しである事にも気付いていた。あの恭介が、こんな時に私への連絡を忘れる、なんて普通じゃない。 連絡を忘れるぐらい普通じゃない事が起こっているか、あるいは、連絡をしたくてもできないような状態に置かれているか。いずれにしても、これは何か異常な事なんだ。 募る一方の不安にせき立てられるように、私は、足早に彼の部屋を目指した。
 恭介の部屋の前に立った私は、呼び鈴を鳴らした。何度鳴らしても誰も出てこない。 仕方無く、カバンからキーホルダーを取り出し、恭介の部屋の合い鍵を選んで、玄関の鍵を開けた。
 この合い鍵を使うの、初めてだな。
 そんな事を思いながら、ドアを開ける。中は暗かった。人が居る気配は無い。
「恭介、居ないの!? レゥちゃん!?」
 玄関先で声を掛けてみるが、やはり誰もいない。私は、ドアを閉めると、靴を脱いで部屋に上がり込んだ。 入ってすぐにある、トイレやバスルーム、洗面所なんかをいちいち開けて、中を見てみる。 そんな所に居る筈は無かったけど、何か二人の行き先が判るような物が、私への書き置きでも、私の知らない病院の名前が書かれたメモでも、 何でも良い、とにかくそういう類の物が無いか、私は必死に探した。
 ダイニング・キッチンまで来ても、手がかりは何も無かった。小さな流し台は綺麗に片付けられていて、水気も残っていない。今日は使われていないように見えた。
 恭介の部屋を覗いてみる。昨夜から使われていない筈のその部屋は、少し寒かった。部屋を見回すと、机の上に、恭介のカバンが置かれていた。 今朝、私が手渡した彼のカバン。少なくとも、恭介は一度はこの部屋に戻ってきている。
 私は、そのカバンを手に取ると、胸元に抱き締めた。まったく、何処行っちゃったのよ、恭介…。
 思わず涙が出そうになるのを、深呼吸して何とか堪える。今は泣いてる場合じゃない。泣いても何にもならない。
 私は、恭介のカバンをそっと机に置いて、もう一度彼の部屋を見回した。
 パソコンが置かれた机、一人用のベッド、殆ど埋まっていない本棚。物があまり多くないその部屋は、きちんと片付けられ、埃一つ無いぐらい綺麗に掃除されていた。 阿見寮に居た頃から、恭介は、男の人にしてはまめに掃除をする方だったけど、それでも、そんなに綺麗好き、と言うほどでもなかった。 毎日掃除をするくらいでないと、こんなに綺麗にはなっていないだろう。それができるのは、一人しかいない。
 レゥちゃんは、きっと、毎日この部屋を掃除しているんだろうな。
 その光景を想像しようとしてみたが、駄目だった。 レゥちゃんは、楽しそうに掃除をしているのか、それとも寂しげにしているのか、ただ黙々としているのか、それさえ私には思い浮かばなかった。
 阿見寮で、たえさんの手伝いで掃除をしていたレゥちゃんは、いつも楽しそうだった。 ちょうど恭平兄さんが帰国してきていた時に、たえさんの号令で、阿見寮の大掃除が行なわれた事があった。 何故年末でもないのにそんな事が始まったのか、確かたえさんの私的な問題が理由だったような気がするが、よく覚えていない。 その時、レゥちゃんは、自分の持ち場だった玄関先の掃除をさっさと終わらせると、屋根瓦を掃除していた恭介の所に行ってしまった。 恭介の手伝いをするのかと思いきや、突然屋根の上を走り出したりして、恭介を困らせていた。 結局、庭を掃除していたリース──その時、恭平兄さんとリースは、阿見寮に滞在していたので、大掃除にも駆り出されていたのだ──に呼ばれて、 そちらの手伝いに加わって、騒ぎは収まった。
 レゥちゃんは、何をするのでも、いつも楽しそうだった。
 溜息を一つつくと、私は、恭介の部屋を出た。ドアを閉める。ここにも手がかりは無い。
 隣にあるレゥちゃんの部屋の前に立つ。無断で入るのには少し抵抗感はあったけど、今は非常時なんだから。ちょっと見るだけだから。ごめんなさい。
 私は、心の中でレゥちゃんに謝りながら、足を踏み入れた。そこは、恭介の部屋よりも、更に物が少なかった。
 ベッドと小さなテーブル、小さなテレビ、そしてやはり小さな化粧台。作り付けのクローゼットを除けば、それで全てだった。 縫いぐるみとか、少女マンガとか、そういった女の子の部屋にありがちな物は、全く無かった。
 レゥちゃんは、元々自分で物を買ったりする事が殆どなかった。 物を所有する、という事に対する執着が殆ど無い、とかいう以前に、自分の為に自分で物を買う、という事そのものに興味が無いかのようだった。 レゥちゃんの持ち物の殆どが、恭介に買ってもらったものだった。洋服や靴、バッグに携帯。みんなそうだ。 下着でさえ、恭介やたえさんに言われて、初めて買いにいくような調子だった。 レゥちゃんが自分で買うのは、せいぜい、夕飯の買い物帰りに、余ったお金でアイスを買い食いする、とかいった程度のものだった。
 その一方で、恭介に買ってもらったものは、何でも大切にしていた。洋服が破れたので繕ってほしい、と頼まれた事も何度かある。 一度、普通の女の子はもう着ないだろう、というような状態になった服を着ていた事があって、私が恭介に「もっとちゃんとお洒落させてやれ」と怒った事もあった。 それ以降は、恭介もレゥちゃんの服装には気をつけるようになったが、それぐらい、恭介に貰ったものは、完全に使えなくなるまで大事にしていたものだった。
 レゥちゃんは、別にお洒落に興味が無い、という事はない。綺麗な洋服や可愛いアクセサリーを買ってもらうと喜ぶ。それが似合っている、と人に誉められるともっと喜ぶ。 自分の身を飾る事に喜びを見出す、ごく普通の女の子だ。
 ただ、人とは優先順位が違うだけだった。レゥちゃんにとっては、そんな事よりも、恭介に貰ったものを大事にする事の方が大切だった。
 私は、レゥちゃんの部屋を見回して、壁に絵が一枚貼ってあるのに気付いた。スケッチブックから外したような紙に、色鉛筆で描かれた絵。
 この絵は、確か見た事がある。
 あれは、やはりあの五月の事だ。大騒ぎした三本勝負も終わり、また暇そうにしていた恭介と亮を誘って、近くの神社で開かれたお祭に行った。 私達三人に、レゥちゃんと、その時はまだ亮と付き合っていた吾妻もとみとが加わって、五人で祭の縁日に繰り出したのだ。 たえさんに着付けて貰った浴衣を着て、ちょっと目を離すと面白そうな屋台を見つけてすっ飛んでいくレゥちゃんに、恭介は手を焼いていたものだ。
 しばらく五人で回ったところで、亮が、籤でペアを組んで回ろう、と言い出した。 縁日の人込みが酷かったので、ばらばらになるとまたちゃんと集合できるかどうか判らなかったし、何より、もとみが亮と離れるのを嫌がるんじゃないか、と思ったけど、 意外と当のもとみ自身は乗り気だった。と言うか、始めから亮とペアになる籤を引く気でいっぱいだった。 恭介はと言えば、こちらも始めからレゥちゃんの面倒をみるつもりでいたみたいで、正直言って籖引きをする意味があるのだろうか、とも思ったが、 亮はこれで何とかレゥちゃんと二人きりになるのを狙っていたようだし、そのレゥちゃんも、これも縁日の楽しみの一つと思ったらしく、やる気満々だった。 私も、一応もとみに亮の浮気性を警告してみたものの、当のもとみがやる気だったし、亮が本気で浮気するなどと考えていた訳でもなかった。 容姿や言動から、一見遊び人風に見られる事が多い亮だったが、内実は、義理堅くて、人情味に溢れる男だった。 もとみという歴とした彼女が居る時に、亮が、親友である恭介が大事にしているレゥちゃんに、いい加減な気持ちで言い寄る筈は無い。 とは言っても、亮の思い通りに事が進むのも、後で話がややこしい事になりかねない。
 とにかくその場は、私が、亮が何時間も掛けて作ってきた、と言う「ペア御籤」なるもの──私には、五分もあればできそうな物に見えたのだが──を念入りに調べ、 不正が無い事を保証する、という事で収まった。私達は五人いたのだから、誰かは一人で回る事になるのだが、それもまた一興、という事でみんな納得した。
 籖引きの結果、当の亮自身が一人あぶれる事になり、レゥちゃんともとみ、そして私と恭介とがペアを組む事になったのだった。 最も明確な形で亮の公正さが証明された訳だけど、そのあまりと言えばあまりな結果に、亮は涙目になっていじけていたが、それは、自業自得の良い見本というものだった。
 一時間後に同じ場所に集合する、とだけ決めて解散し、私と恭介は夜店を回った。 その時の私は、自分でもよく判らない理由で、妙にはしゃいでいたように思う。 別に、恭介と二人だったから、という訳じゃない。 その頃は、私は、まだ恭介の事を、幼馴染みという目でしか見ていなかったし、二人で出歩くのが初めてという訳でもなかった。 むしろ、しょっちゅう二人で買い物に行ったり遊びに行ったりと、端から見れば、おそらくデートに見えるような事をしていた方だったのだ。 私達にとっては、それが当たり前の事だったけど、その日は少し違っていた。 多分、滅多に無い、お祭という非日常的な空間が、私をそうさせていたのだと思う。
 とにかく私は、あまり気乗りしていなさそうな恭介を引きずり回して夜店を片っ端から覗き込み、美味しそうなものがあるのを見つけては、恭介に奢らせた。 そんな私の我が侭に、恭介は、何だかんだ言いつつ付き合ってくれた。 どうして、その時、恭介が私にそんなに優しくしてくれたのかは、よく判らない。ただの気まぐれだったのかもしれないが、私は、彼のその優しさに甘えきっていた。
 やがて、屋台の並びの終わりに差し掛かった所で、様々な狐の面を売っている屋台に出会った。 さんざん奢って貰ったお礼に、お面を一つ買ってあげる、と言うと、恭介は、真剣な顔をして面を選び始めた。 微妙にデザインが異なる、沢山の面が並ぶ屋台の前で、恭介は、なかなか、これ、というのを選べないでいた。文字通り、狐疑逡巡していたのだ。 その様子に、いい加減痺れを切らした私は、さっさと一つを選んで買ってしまった。 案の定、恭介は文句を言ったが、お面一つを選ぶのにそんなに時間をかけている方が悪い。私は、返事の代わりに、買ったばかりのお面を恭介の顔に被せてやった。 が、その姿があまりにも似合わな過ぎて、私は、お腹を抱えて笑い転げた。憮然とする恭介から、私はお面を取り上げると、自分の頭に引っ掛けた。 恭介は、私を見て、渋々「似合ってる」なんて言ってくれた。
 それから、集合場所に戻る途中で、私達は不思議なものを見た。
 しとしとと降り始めた雨の中に浮かび上がった、狐の面を付けた人達の行列。行列の中央には、輿に乗せられた花嫁の姿。文字通りの「狐の嫁入り」。
 その、幻想的で、この世のものとは思えないような光景を、私は、吸い付けられるように眺めていた。 恭介に声を掛けられて、ぼんやりとしていた私は、我に返った。恭介も、その光景を見た、と言う。 とすれば、あれは、私の幻覚などではなく、お祭の出し物の一つだったのだろう。
 そう思っていたのだが、集合場所に居た他の三人は、そんなものは見ていない、と言った。 三人の意外な言葉に、私も恭介も唖然として顔を見合わせたが、その事を追及している暇は無かった。 降り出した雨が本降りとなり、私達は、急いで阿見寮へと帰った。
 私達が見たものが何だったのかは、結局判らなかった。もしかしたら、本当に狐に化かされていたのかもしれない。 そして、あの光景は、私と恭介だけの、二人だけの思い出になった。
 寮に戻って、お風呂で雨に冷やされた体を温め、今日はもう寝ようと思っていた所に、恭介からメールが届いた。 「前衛芸術だ。ありがたく見ろ」などとふざけた事が書いてあったそのメールには、一枚の画像ファイルが添付されていた。 それは、確かに前衛芸術と言っていいような絵だったが、大抵の人は「子供の落書き」で済ませてしまうだろう。 そこには、五つの、人間らしきものが描かれていたが、頭の下からいきなり脚が生えていたりと、なかなかシュールなものだった。 明らかに、それは、レゥちゃんが今日の縁日に来た五人を描いたものだった。
 私は、しばらくその絵を見つめていたが、そのうち、何となく楽しい気分になってきた。 その絵には、今日、レゥちゃんが感じた気持ちが、ありありと表われていた。
 私は、そのファイルを保存すると、恭介に返信を打った。
『ばーか、確かに良い絵だけど、描いたのはレゥちゃんでしょ。あんたが威張るんじゃないわよ』
 それだけ書いて送信すると、私は、さっさと布団に潜り込んでしまった。楽しい思い出が、夢にも現われてくれる事を願いながら。

 今、目の前にあるのは、その時の絵の実物だった。
 私は、そこに描かれた人間らしきものを、一つ一つなぞるように見ていった。かなり本人とはかけ離れた姿をしているが、髪と服装とで、何となくどれが誰の絵なのかが判る。 亮、もとみ、私、そして恭介とレゥちゃん。そこで、私は奇妙な事に気が付いた。
 恭介とレゥちゃんの目が、赤い色で描かれていた。他の三人の目が、普通に黒く描かれている中で、それは、一種異様な雰囲気を醸しだしていた。 もちろん、実際の二人の目は、赤くなんかない。恭介は漆黒の、レゥちゃんはやや灰色がかった、やはり黒い瞳をしている。
 前に画像ファイルで見た時は、そんな事には気が付かなかった。多分、解像度が低すぎて、そこまで判別する事ができなかったのだろう。
 レゥちゃんが色を間違えた、という事は無かった。現に、他の三人の目は本人同様に黒い色をしていたし、髪や服の色も、当時の本人がしていたそのままのものだった。 姿形の捉え方はともかく、レゥちゃんの色彩感覚には、全く問題が無いように見えた。 恭介とレゥちゃんについてもそれは同様で、恭介についてはもちろん、レゥちゃん自身についても、その色素の薄い髪や、たえさんに着付けて貰った浴衣の、 紫陽花のような淡い紫色まで、きちんと再現されていた。
 にも関わらず、この二人の目だけが、本人のものとはかけ離れた、深い赤に染まっていた。

 恭介とレゥちゃんとは、分ける事ができない。

 私は、今朝唐突に悟ったその考えの、理由の一端を見たような気がしていた。
 レゥちゃんが、意味も無くそのような色使いをした、とは考える事ができなかった。必ず、何か意味がある筈だ。 しかし、その答を持っている筈の二人は、何処にも居なかった。

 私は、壁の絵から目を離すと、他に何か無いだろうか、と、部屋の中に視線を彷徨わせた。その視線が、ベッドの枕元に止まる。 そこには、小物を置く事ができるように、小さな棚が作り込まれていた。そこに、目覚まし時計と一緒に、私も知っている一葉の写真が飾られていた。 シンプルなデザインの写真立てに入れられたそれを、私は、手に取って眺めた。
 阿見寮の玄関前で撮影した、ちょっとした集合写真。

 Vサインなんか出して莫迦みたいに格好を付けている亮。
 当時可愛がっていた黒猫を胸元に抱いたたえさん。
 ちょっと気取った表情をした恭介。
 その肩に手を置いて、もう一方の手を額に翳している私。
 そして、恭介の腕に自分の腕を絡ませて、満面の笑みを浮かべているレゥちゃん。

 ほんの、二年前の初夏に撮影したその写真は、しかし、もう何十年も昔の事のように見えた。私は、その写真を、長い間見つめていた。

 やがて、私は、写真を元の場所に戻し、きちんと元通りの角度になるようにした。一つ溜息をつく。

 冗談じゃないわよ。私は、これからもずっと、恭介やレゥちゃんと一緒の時を過ごしていくんだ。こんなに早く、思い出になんてされてたまるもんか。

 やがて、陽が西に沈んで、夜の帳が街を覆っても、相変わらず恭介からの連絡は来なかった。もちろん、こちらからも連絡が取れないままだ。
 私は、近くのコンビニで買ってきたパンをぼそぼそと食べながら、恭介の部屋で待ち続けていた。もうすぐ、日付が変わる。
 恭介の部屋は、二人で住む事を前提に造られている分、私の部屋より広かった。 それだけに、そこに独りで居る時の寂寥感は、私の部屋に独りで居る時とは比べ物にならないくらい大きかった。
 レゥちゃんは、昨夜はここにずっと独りでいたんだ。
 そう思うと、私は、自分のした事の重大さに打ちのめされる気分だった。今朝恭介に言われたように、確かに、それは私だけが悪い、というものではない。 でも、私に悪い所が無い訳でもなかった。私に責任が無い訳ではなかった。
 私は、ダイニング・キッチンに置かれているテーブルに着いていた。三、四人用の丸いテーブル。それは、二人用のこのダイニング・キッチンに置くには、少し大き過ぎた。 あの、新生活を祝う為のパーティの時、私は、あまり空間に余裕の無いこの場所で、しょっちゅうテーブルの天板に体をぶつけてしまった。 もう少し小さいテーブルにしておけば良かったのに、と文句を言う私に、恭介は、オレが気に入ったんだからいいだろ、と拗ねたように反論した。
 今は、何故恭介がこのテーブルを選んだのかが判る。恭介は、ちゃんと私の場所を用意してくれていたんだ。 何時でもこの部屋に私が来れるように、恭介の傍に私の居場所を作ってくれていた。このテーブルは、それを表わすメッセージだったんだ。
 言葉にしていてくれたら、とも思う。でも、これが、照れ屋で、奥手の恭介ができる、最大限のメッセージだった。私が好きになった人は、そういう人だった。
 なのに、私は、そのメッセージに、私の心が曇ってさえいなければ簡単に判った筈のメッセージだったのに、全く気が付かなかった。 この部屋は、恭介とレゥちゃんとの二人の部屋だ、と思い込んで、入り込むのを拒んでいた。 そして、自分から動かずに、恭介が私の部屋に来てくれる事ばかりを望んでいた。
 そして、やっと自分から入り込もう、入り込みたいと思えるようになった途端、今度は、私がこの部屋に独りで取り残されている。二人の居場所も判らないまま。 何ていう皮肉。
 それとも、これは罰なんだろうか。神さまか誰かが、私に、そこでお前もレゥちゃんと同じ気持ちを味わってみろ、と罰を与えているんだろうか。
 例えそうだとしても、これが罰なんだとしても、そして、それを与えたのが神さまだったとしても、私には、そんなものを黙って受ける気は毛頭無い。 自分でやった事の後始末ぐらい、自分でつける。つけてやるんだから。
 その誰かに向かって、私は、心の中で叫んだ。
 誰だか知らないけど、もういい加減にしてよ。これ以上、私に何をさせようって言うのよ。これは、私と、恭介と、レゥちゃんとの問題なんだから。 関係ない人は口を出さないで。

 そう思った途端、携帯の着信音が鳴った。今度こそ取り逃さないように、テーブルの上の、すぐ目の前に置いておいた、私の携帯。
 飛びつくように取り上げた携帯の、その画面に表示された発信者の名前は──「渡良瀬恭介」。
「恭介! あんた、いったい何処で何やってるの!」
 受話ボタンを押すと同時に、私は、思いっきり怒鳴りつけていた。
「…びっくりしたぁ」
 首をすくめているのが目に見えるよう。それは、確かに恭介の声だった。
「びっくりしてるんじゃない! 恭介、あとで連絡する、って、いったい何時間経ってると思ってるのよ!?」
「今だって、あとはあと、だろうが。違うのか?」
「違うわよ! もう日付が変わっちゃったじゃない! こういうのは、『明日』って言うの!」
「そんなに怒鳴るなよ。聞こえてるから。悪かったよ。色々あってな、連絡するのが遅くなった。ごめんな」
「…もういいわよ。それで? 今、何処にいるの?」
「病院だよ。レゥが倒れたから運び込んだ」
 やっぱり病院に居たのか。それなら、携帯が繋がらないのも無理はない。私が連絡した所とは、また違う病院なんだろう。
 それにしても、少しぐらい外に出て、私に連絡しようとは思わなかったの、この男は…って、え? 今、何を言ったの? レゥちゃんがどうしたって?
「倒れた…?」
「ああ。今朝、オレが部屋に戻った時は、既に倒れてたんだ。だから、すぐ病院に運んだ。今まで、ずっと検査やら治療やらに立ち会ってたから、連絡できなかったんだ。 やっと落ち着いたから、こうやって連絡してる」
 恭介は、私に聞き返す隙も与えずに、一息に話した。恭介は、「レゥちゃんが倒れた」と聞いて、私がパニックを起こす前に、最も重要な事を伝えてくれた。
 私は、恭介の配慮に感謝しながら、深呼吸して気持ちを落ち着けた。
「落ち着いた、っていう事は、今は平気なの? もう心配する事は無いの?」
「ああ。今は眠ってる。とりあえず、心配する事は無い」
 とりあえず、か。まだ、終わったわけじゃない、という事なんだ。恭介、あなた、私が訊かない限り、何も話さないつもりね。
「原因は何なの? やっぱり、昨夜の事が…」
「…まあ、確かに、あれも原因の一つには違いない。ただ、あれは、何て言うか、最後の一押し、みたいなものだったんだ。本当の原因は、別にある」
「それは、何なの?」
「持病、みたいなものかな。あいつには、もともと、そういう脆い所があるんだよ」
「持病なんて…レゥちゃんがそんなのを持ってる、なんて話、聞いた事ないわよ」
「話してなかったからな」
「そんな…」
 私は、絶句した。そんな大事な事を私に話していなかったというのに、恭介は、それが当然、みたいな言い方をしている。
 また頭に血が上りかけて、私は、不意にある事を思い出した。
「ひとえ?」
「ねえ、恭介。その持病って、渡良瀬の家に特有なものなの?」
 電話の向こうで、恭介が、一瞬息を呑むのが判った。
「…どうして、それを知ってるんだ?」
「聞いたの。昔、たえさんに。恭平兄さんが、そんな事を言っていた、って」
「アニキが?」
「そう。ほら、二年前の五月に、恭平兄さんがいきなり帰国してきた事があったでしょ? その時の話」
「…あれか」
「思い出した? あの時、恭介も倒れたわよね。たえさんから、その時の様子を聞いてたのよ」
「そうか…」
「ええ。あの時、恭介もいきなり倒れた。そして、今度はレゥちゃんが倒れた。同じものなのね」
「…そうだ。いや、オレにもまだ確証は無いけど、多分、似たようなものだろうな」
「そう…。それで、これからどうなるの? レゥちゃんは、すぐ出てこれるの?」
「まだ判らない。多分、そんなに長くはかからないとは思うけど、具体的に、いつ、とは言えない」
「恭介は? いったん、こちらに戻るの?」
「いや。もう少し、あいつが安定するまでは戻れない」
「じゃあ、私、お見舞いに行くわ。どこの病院なの?」
「…ごめん。それは、言えないんだ」
「どうして!」
「ごめん、それも言えない。言ったら、何処か、というのも判っちゃうからな」
「何よ、それ…。じゃあ、せめて、こちらから恭介に連絡する方法は?」
「オレの携帯に掛けるしかないけど、何時でも好きな時に、という事なら、それは無理だ。ここは、電波が入り難いんだ」
「そんな! じゃあ、私は、待ってる事しかできないっていう訳!?」
「オレとレゥに関して言うなら、そうなる。でも、ひとえには、自分の為にやる事もあるだろう? それをやって、待ってて欲しい。頼む」
「恭介!」
「ごめん、もう行かないといけないんだ。また連絡する」
「ちょっと、待ちなさいよ!」
 電話は、向こうから切れた。私は、すぐにコールバックしたが、既に、恭介の携帯には繋がらなかった。私は、呆然として自分の携帯を見つめた。
 こんな、一方的な話がある? 恭介、いったい私に何を黙ってるのよ。そんなに、私が信用できない、って言うの?

 でも、私には判っていた。どんなに信用していても、どんなに好きでも、それでも話す事ができない事はある、っていう事が。 昨日の夜、私が、恭介に打ち明けたような事が。
 あの時、恭介は、それでも私を愛してくれた。私を求めてくれた。恭介は、本当に優しいんだ。
 そんなに優しい恭介が、意味も無く、私にこんな事をする筈がない。必ず、意味がある事なんだ。
 私が抱え込んでいたように、恭介も、何かを抱え込んでる。そして、それを私に話す事ができなくて、苦しんでる。 苦しんでる姿を、私に見せたくないから、見られたくないから、一方的に電話を切ったんだ。

 じゃあ、あなたはどうするのよ。榛名ひとえ、あなたは、恭介の為に、レゥちゃんの為に、何ができるの? かけがえのない、あの二人に。

 自分で自分に問い掛ける。私は、ひたすら、その答を考え続けていた。一晩中、外が明るくなっても、私は考え続けていた。
 恭介からの連絡は、無かった。



─ Scene 07 : 二人の再会 ─

 私は、徹夜明けの眠い眼を擦りながら、何とか講義を受けていた。寝不足…と言うか、寝ていない頭が重い。
 徹夜してまで考え続けていたが、結局、私には何の答も見つける事ができなかった。何しろ、情報量が少なすぎる。 「渡良瀬家特有の持病みたいなもの」だけでは、どんな病気なのか、どんな事に注意しなければならないのか、さっぱりだった。 今までの経緯から、精神的なものが深く関わっていそう、ぐらいの見当はつくけど、それだけでは漠然とし過ぎていて、具体的に何をどうすれば良いのか判らない。
 無力感だけを抱えて、私は、明け方に恭介の部屋を後にした。ただただ、あの子の事だけが心配だった。
 足を引きずるようにして自分の部屋に帰ると、シャワーを浴びて、服装を整えた。携帯で今日の履修予定を確認し、必要な教科書や副読本を揃えると、大学に向かう。 昨日と同じように、知り合いに会う度に繰り返される質問に、適当に返事をしながら、私は、黙々と講義を受け続けた。

『ひとえには、自分の為にやる事もあるだろう? それをやって、待ってて欲しい』

 そう、私にはやる事がある。私が、恭介やレゥちゃんの事を言い訳にして、自分の為にやるべき事さえ放棄してしまったら、恭介に合わせる顔が無い。 恭介だって、今、自分のやるべき事をやっているんだ。
「待ってて欲しい」という彼の言葉だけを支えにして、私は、表面上はいつも通りに、何事もなくその日を過ごしていた。

 何とか、一日の講義を終了した私は、喫茶室で果てていた。
 徹夜の上に、一日分・四コマフルタイムの講義をこなすのは、想像以上にきつかった。 できれば、すぐにでも恭介の部屋に行って待っていたかったけど、このままでは、そこに辿り着く前に行き倒れになるか、赤信号を見落として車に轢かれるか、 何にせよロクな結果にならないだろう。私は、少しでも体力を回復させようと、甘いチョコレート・ドリンクを飲みながら、体を休めていた。
 恭介がいなければ、私なんかすぐにボロボロになっちゃうよ──あの夜、彼に言ったあの言葉は、本当だった。 たった一日と半、彼に会えないだけで、私は、ボロボロになっていた。

「ひとえちゃん? どうしたの?」
 聞き覚えのある声が私を呼んだ。いつの間にかテーブルに突っ伏していた私は、のろのろと顔を上げる。驚いたようなゆかりさんの顔がそこにあった。
「あ、ゆかりさん…。こんにちは」
「こんにちは、じゃないわ。どうしたの、一体? 酷い顔よ」
 それは、私は決して美人じゃありませんけど、そんな言い方って無いと思います──惚けた頭は、ゆかりさんの言葉をまともに解釈できない。
「いえ…ちょっと、その、眠れなくて」
「何かあったの? もしかして、彼が眠らせてくれなかった、とか?」
 からかうように言うゆかりさんに、少し苛立つ。今は、そんな気分じゃないのに。
「私、今、その手の冗談に付き合う気、ありませんから」
 思わず言葉にトゲが立った。 私の相談に乗ってくれた、そして、酔い潰れた私を介抱してくれた人に対して、それはとても失礼な事だったけど、その時の私には、全く余裕が無かった。 もう、何もかもが限界に近付いていた。
 私の様子を察したのか、お気楽な雰囲気が横溢していたゆかりさんの顔が、真面目になった。私の向かい側の席に腰を下ろす。 私の了解も何も確認しない行為だけど、それを非難する気にもなれなかった。
 ゆかりさんは、素早く寄ってきたウエイトレスにアイスコーヒーを注文すると、私に向き直った。
「ねえ、本当に、一体何があったの? 良かったら話してみてよ。私で良ければ、できるだけ力になるから」
 ゆかりさんが、穏やかな口調で話し掛ける。私は、その色の白い、綺麗な顔を見つめた。真っ直ぐに私を見つめている黒い瞳。
 どうして、この人は、こんな事を私に言うんだろう? ほんの数日前に会ったばかりの、何十人もいる後輩のうちのたった一人に過ぎない、こんな私に。
「どうして…」
「ん?」
「どうして、そんなに私に親切にしてくれるんですか? 私、この間会ったばかりなのに」
「放っとけないのよ。私の弟子が、こんな酷い状態にあるのを」
 まただ。一体、これはどういう意味なんだろう?
「それ、恭介にも聞きました。どうして、私が、ゆかりさんの弟子なんですか?」
「そんな事、今はどうでもいいわ。どうするの? 無理に、とは言わないわ。あなたが嫌がるなら、私は何もしないから」
 私は、迷っていた。事が、恭介やレゥちゃんの個人的な問題なだけに、私の勝手な判断で他の人を引き込んで良いものなのかどうか、躊躇いがあった。
 でも、もう独りで居るのは辛過ぎた。差し伸べられた手を、拒絶する事はできそうにない。
「タダでいいのなら…」
 それでも、私は踏ん切りがつかなくて、ついそんな事を言ってしまう。でも、ゆかりさんは、席を立ったり、怒ったりはしなかった。愉快そうに笑みを浮かべた。
「お、あなたも言うわね。そういう事が言えるようなら、まだ大丈夫。でも、それはダメよ。言ったでしょ? 次からは有料だ、って」
「はい…」
 確かに、そんなような事を言われた気がする。でも、私、そんなにお金は持ってないし…。
「あの、幾らぐらいで…?」
 恐る恐る聞いてみる。幾らぐらいなら払えるだろう。まさか、体で払え、なんて事は無いよね。
 ゆかりさんは、私の言葉を聞くと、少し驚いたような顔をしたけど、すぐに真面目くさった表情になって言った。
「そおねえ…じゃあ、それを半分ほど貰おうかしら」
 ゆかりさんが指さした先には、まだ中身が殆ど残ったままの、私のチョコレート・ドリンクのグラスがあった。これを半分?
「これ、ですか?」
「ええ。私も、それ、大好きなの。今回は、それで手を打ちましょう」
 ゆかりさんは、にっこりと微笑んだ。その表情を見て、私は、自分が莫迦な返答をしてしまっていた事に気付いた。 ゆかりさんが、本気でお金をとる、何て考える訳ないのに。私は、本当に余裕が無い。
 あまりの恥ずかしさに、耳朶まで真っ赤にして俯いてしまった私は、黙って小さく肯くと、チョコレート・ドリンクのグラスをゆかりさんの方に押しやった。
「よし、商談成立、と。じゃ、聞きましょうか?」
 あの新歓コンパの時と同じ台詞。私は、嬉しくて溢れそうになる涙を何とか堪えながら、レゥちゃんの留守電に始まる、今日までの出来事を話し始めた。

「なるほどねぇ…」
 自分のアイスコーヒーと、約束通り私のチョコレート・ドリンクを半分ほど飲み込みながら私の話を聞き終えたゆかりさんは、やはりあの時と同じ台詞を呟いた。
 幾らゆかりさんにであっても、恭介とのあの夜の事や、「渡良瀬家特有の持病みたいなもの」の事までは話す事はできない。 一応、隠すべき所は隠し、ぼかすべき所はぼかして話したつもりだった。 けど、何しろ徹夜明けの惚けた頭のする事だったから、正直言って上手くいったという自信は無い。
 恭介の従妹の様子がおかしかった事、昨日の朝からあの二人の居場所も判らずこちらからの連絡も出来ない事、昨夜恭介からあった連絡の一方的な事── その辺りをかいつまんで話した。
「とりあえず、その従妹の子の病気の事は置いておきましょう。とりあえずにせよ、今は大丈夫だっていうんだし、寸秒を争うという事もなさそうよね」
 ゆかりさんは、また要点を確認するように話す。
「はい」
「問題は、二人が何処に居るか、という事よね。彼と連絡が取れないんじゃ、本当に何も判らない」
「はい」
「あなたに心当たりはもう無いのね?」
「はい。こちらに来た時に、お互いのマンションの近くの、目ぼしい病院をリストアップしておいたんです。何かあった時に連絡し易いように、って。 そこにはもう全部確認しました」
「結構、用意周到なのね。そこまでしているのにあなたが知らないとなると、普通の病院じゃないのかもしれないわね」
「普通じゃない、って…」
「例えば、地図に『病院』として載っていないような、ごく私的な伝のある所か、あるいは、医療関係の研究所みたいな所なのかも」
「研究所…」
 その単語を聞いて、昨日の昼休みに聞いた話を思い出す。

『研究所とか。建物の内部には携帯が通じないようにしてある所も多いらしいし。秘密保持の為にね』

 何となく…、何となくだけど、昨夜の恭介の話から連想するイメージと重なるような気がする。
「だとしたら、彼があなたにも詳しく話をしない理由も辻褄が合うわ。秘密の保持を理由に、話す事を禁じられているのかもしれない」
 ゆかりさんの言葉を聞いて、私は呆然とした。そんな、テレビドラマみたいな話、あるんだろうか? 一介の大学生とその従妹に、いったいどんな秘密があるっていうの?
 でも、私は、一つの事実に気が付いた。アメリカに居る、恭介のお父さんの会社の名前。確か、「タイレル・バイオ・コーポレーション」だった。 「バイオ」と付いているからには、生物工学とか、そんな方面の会社の筈。普段大ボケの恭介を見ていると忘れそうになるけど、彼は、その会社の社長の息子なんだ。 そして、レゥちゃんも、恭介の従妹であるからには、その一族に連なる人間に違いない。
 生物工学を生業とする企業の、社長の一族。その家に特有の病気。それは、確かに秘密にするに値するものなのかもしれない。
 私は、今さらながら、生まれた時から一緒に居た自分の恋人と、妹みたいに思ってきたその従妹との背後に、途轍も無く巨大な何かがある事に気付いた。 私は、ひょっとしたら、とんでもない人の事を好きになってしまったんじゃないんだろうか。

「とにかく、もう一度、彼の部屋に行ってみましょう」
 ゆかりさんの言葉で、思考の淵に沈みかけていた私は、我に返った。
「彼の部屋に行って、居場所が判るようなものが無いか、もう一度探してみましょう。今できる事は、それぐらいじゃないかしら」
 そうだ。多分、それしかない。徒労に終わるかもしれないけど、何もしないで待っているだけ、なんて、もう耐えられない。
「はい」
 自分でも驚くぐらい、張りのある声が出た。さっきまで萎えていた体に、力が戻ってきたような気がする。 それは、所謂「ハイ」な状態になっているだけで、体の疲労は全く取れてはいなかったと思うけど、それでも、さっきよりは何倍もマシだった。
「元気出てきたわね。それじゃ、行きましょうか」
 ゆかりさんは、それが当たり前のように言って、レシートを取った。席を立って、さっさと行こうとしている。
「あの、ゆかりさんも、行くんですか?」
 また、恐る恐る聞いてみる。ゆかりさんには、話を聞いてもらって、すごい助言をして貰った。私は、ゆかりさんに頼るのは、ここまでだと思っていたのだ。
「当たり前でしょ。二つの目で探すより、四つの目で探す方が、何かが見つかる確率は高くなるわ。あなたとは違う視点で見る事ができるから」
「でも…」
 それは、さすがに躊躇われた。いくら親切にして貰った人であっても、それは私が、であって、恭介やレゥちゃんから見れば、ゆかりさんは、言葉は悪いけど赤の他人だ。 私の部屋に入れる、というのならともかく、勝手に彼の部屋にゆかりさんを入れるのは、許されないように思う。 だいいち、そこまでして貰うほど、私はまだゆかりさんとは親しい訳では無い。
「私を彼の部屋に入れるのは不味い、って思ってる顔ね」
 また読まれた。そんなに私は思っている事が顔に出るのか。でも、これははっきり言うべき事だと思う。
「はい。ゆかりさんは、やっぱり私の知り合いで、彼の知り合いというのとは違うと思います。 だから、私が勝手に、ゆかりさんを彼の部屋に入れるのは、良くないと思うんです。 ゆかりさんは、私にとっては、とても親切で、恩義のある人ですけど、でも彼にとってはそうじゃない。それとこれとは、やっぱり別の話なんだと思うんです」
 一気に言った。できるだけ、言葉を選んだつもりだったけど、それでもゆかりさんには不愉快に聞こえるかもしれない。それでも、曖昧にしていい話ではないと思った。
 でも、ゆかりさんは、怒りも不愉快そうにもしなかった。ただ、優しい表情で私を見ていた。あの、たえさんに重なる表情。
「あなた、本当にいい子ね。すごく真っ当に、真っ直ぐに育ってきたのが判るわ。あなたの言っている事は、どこも間違っていないと思う」
 真っ当で真っ直ぐ──人から、そんな風に正面切って言われた事なんて初めてだった。背筋がこそばゆくなってくる。
「そんな、私は、ただ…」
「約束するわ。あなたの恋人と、その従妹の子のプライバシーは最大限尊重する。 常にあなたと共に行動して、あなたが見るな、と言う所は絶対に見ないし、開けるな、と言う所は絶対に開けない。それでも駄目かしら」
 ゆかりさんの表情は、真剣そのものだった。言葉にも真心が溢れていた。この人を、この言葉を信用しなくて、何を信用するのか、と思った。 それでも、私は、まだ迷っていた。
「それに、私はあなたの事も心配なのよ」
 黙っている私に、ゆかりさんは言葉を続けた。
「今のあなたは、気分が高ぶってるから一見元気そうだけど、昨日からずっと起きっぱなしで眠っていないんでしょう?  そんなんじゃ、気持ちだけが先走って、体が付いていかない。 彼のマンションまでどのぐらいかかるのかは知らないけど、あなたを一人で送り出して、途中で事故にでも遭われたら、私も寝覚めが悪いわ。 だから、私は、あなたと一緒に行く。これは、私の為でもあるの。そういう風に、考えて貰えないかしら」
 それは、問題のすり替えのような気がした。それに、それなら、私を恭介の部屋の前まで送るだけで良い筈。中に入る必要までは無い。
「それに、ただ待つにしたって、一人より二人よ。あなた一人だと、ずっと起きていないといけないけど、二人なら交代で眠る事だってできるわ。 連絡があったら起こせば良いんだから。もし、このままあなたがまた徹夜でもして、体を壊したら、彼はどう思う?  従妹が倒れて、今また自分のせいで恋人まで倒れてしまったら、彼はどう思うかしら。それも、考えてみて」
 ゆかりさんの言葉は、痛い所を突いた。
 確かに、もし私まで倒れたら、恭介は自分を責めるだろう。例え、私が勝手に徹夜して、勝手にぶっ倒れたのだとしても。私が、そうしたかっただけだったとしても。 恭介は、自分の責任だと思うだろう。昨夜の私がそうだったように。
 それでも、まだ私には、ゆかりさんの言葉に肯く事はできなかった。殆ど開きかかっている扉の、最後の抵抗。
「でも、そこまでゆかりさんにして貰って、そんなに手間を取らせてしまって、良いんですか? ゆかりさんにだって、用事があるのに」
 私がそう言うと、ゆかりさんは、思いっきり呆れたような口調になった。
「あなた、やっぱり寝ぼけてるわね。良いに決まってるから、こんな話をしてるんでしょう。 私が、自分の事を犠牲にしてまで人のお節介を焼くような、そんな自己犠牲の精神を持ち合わせてると思うの?」
 そんな、自慢するように言うような事じゃ無いと思うんですけど。それに、私が、そこまでゆかりさんの事を知っている訳、無いじゃないですか。
 でも、ゆかりさんの言葉は、私の心を軽くしてくれた。最後の最後で引っ掛かっていた扉が、全開になるような感じがする。
「まあ、と言っても、一晩中付き合う、っていう訳じゃ無いけど。夜中から実験が入ってるから、そこまでね。その間、あなたは寝ていれば良い。私が帰る時に起こすから」
「実験? そんな、夜中からですか?」
「ええ、そう。時間がかかる実験でね、何人かで交代でやるの。私の担当は、午前一時ぐらいからね。それまでは自由時間よ」
「…何の実験なんですか? それ」
「秘密。論文の発表前には明かせないわ。あなたが、三年後に一研に来て私の手伝いをしてくれる、って確約してくれるなら別だけどね」
「はあ…」
 私の所属する学科では、四年次に、全部で五つある研究室のどれかに所属して、卒業研究などをする事になっている。ただ、どこにするかを決めるのは、まだ先の話だ。 だいたい、私は、どの研究室でどんな研究をしているのかさえ、まだ把握していない。
「さあ、決めて。行くならすぐ行かないと。あなたが眠る時間が無くなっちゃうわ」
 ゆかりさんが催促した。私の返答は、決まった。
「じゃあ、お言葉に甘えます。ありがとうございます、ゆかりさん」
「どういたしまして」
 ゆかりさんは、満面の笑みを浮かべた。その笑顔が、私には、とても嬉しかった。

 私は、ゆかりさんの車で、恭介のマンションまで送ってもらった。家が遠い上、時間が不規則な研究の為に、車は必需品なのだそうだ。 恭介のマンションは、大学から歩いて行ける距離にあるけど、ゆかりさんは、私の体力を気遣ってくれた。 途中で行き倒れになられたらかなわない、と冗談半分にゆかりさんは言ったけど、私は、感謝した。
 私は、ゆかりさんの車の助手席に身を落ち着けると、携帯を取り出して、登録してある恭介のマンションの住所をカーナビに転送した。 大学からマンションまでの最適経路が表示され、ゆかりさんは、それに従って車を走らせる。 車の免許も持っていない、しかも道案内にも不慣れな私が行き先を指示するより、この方が遥かに確実だった。
 すぐ、見慣れたマンションが見えてきた。さすがに早い。でも、恭介の住むマンションには、来客用の駐車場が無い。やむを得ず、正面の道に路上駐車する。
「もし違反を取られたら、反則金は弁償しますから…」
 申し訳なさそうな私の提案に、ゆかりさんは、それぐらいは出してもらっても罰は当たらないわね、と笑った。

 昨日と同じように恭介の部屋の前に立ち、呼び鈴を鳴らす。返事が無いのも昨日と同じ。二人は、まだ帰って来ていない。
 私は、また合い鍵で玄関を開けると、先に立って中に入った。ゆかりさんが続く。
「お邪魔しまぁす…」
 誰にともなく小声で呼びかけるゆかりさんの声を背中に聞きながら、私は、部屋の中を見回した。 今朝、私が出た時と何も変わっていないように見える。
 私は、また、昨日と同じように、玄関に近い所から順に見ていった。昨日と違うのは、私の後から同じように見て回るゆかりさんの視線だけだ。
 共有スペースには、全く変わりは無かった。私が出て行ってから今までの間に、二人のどちらかでも、一度でも戻ってきた形跡はない。
「何も無いわねぇ」
 ゆかりさんが呟く。同意見の私は、次に、恭介の部屋にゆかりさんを案内した。正直言って、彼の部屋に別の若い女性を入れる事には抵抗があったが、この際仕方がない。 それに、ゆかりさんは、二人のプライバシーは守る、と約束してくれた。
 恭介の部屋も、今朝から全く変わっていなかった。ゆかりさんは、目に見える範囲のものを一つ一つ確認していく。 さすがに、机の引き出しや、クローゼット等、開けなければ見えないような所は控えてもらった。私だって、そういう所は見るのを憚られる。
 ゆかりさんは、他に特に目ぼしいものが無い事を確認すると、本棚に並んでいる本の背表紙を端から見ていった。
「何か、難しそうな本があるわね」
 ゆかりさんが、棚の下の方にある、大判の本を指さした。黒い背表紙に、銀箔でタイトルと著者名が押されている、大きくて分厚くて重そうで、高価そうな本。
 私もそれは知っていた。読んだ事は無かったけど。と言うか、正確には、一度見せてもらったけど、内容がさっぱり理解できなかった。 何せ、全部英語で書かれていたのだ。やたら文章量が多い上に、高校までの英語では習っていない単語ばかりが並んでいて、一頁も読む事ができなかった。
「ああ、それ、恭介のお父さんが書いた本なんです。何かの論文みたいなものらしいんですけど」
「へえ、凄いのねえ、あなたの彼氏。論文を書くような人がお父さんだなんて」
「ええ、まあ…」
 適当な相槌を打って、愛想笑いを浮かべる。私も、ついさっきまでは、恭介がそういう人だという事を、完全に忘れていた訳だし。
 ゆかりさんが、背表紙に押された著者名を読む。驚きの声が上がる。
「“Kyoichi Watarase”、って、もしかして、あの渡良瀬恭一なの? タイレル・バイオ・コーポレーションの最高責任者の?」
「ええ、確かそうです。ご存じなんですか?」
 私は、ゆかりさんが知っていた事が意外だった。確かに、大きな会社らしいけど、会社名だけでなく、最高責任者の名前まで知れ渡っているぐらい有名だったのか。
「ご存じも何も…。タイレル・バイオって言ったら、生物工学と遺伝子工学の分野では、世界一の企業じゃない。欧米八カ国が出資してる、超巨大企業よ。 知らなかったの?」
「はあ、まあ。アメリカの大きな会社だ、っていうくらいしか」
 …知らなかった。と言うか、「あの」恭介から、そんな想像がつく訳がなかった。少なくとも、私にとっては。
 ゆかりさんが、呆れ果てたように言う。
「呑気ねえ。あなた、物凄い立場になるかもしれない人と付き合ってるのよ。自覚無かった?」
「はい。私にとっては、彼は、生まれた時からの幼馴染みで、ずっと一緒にやってきた、っていうだけの、それだけの人なんです。 彼も、そういう類の事は何も言いませんし。本人にも自覚があるかどうか」
 そう。私にとっては、それが全てだった。それ以外の事は、どうでもよかった。恭介は、私の大好きな人。それだけだった。
「それに、彼にはお兄さんがいるんです。その人は、もうアメリカに行って、恭介のお父さんの仕事を手伝ってるんです。 だから、もし跡を継ぐとしたらその人で、多分、恭介は何もしないんじゃないか、と思いますし」
 アメリカに行ってしまった、恭平兄さん。私の、初恋の人。その思い出はとても大切なものだけれど、でも、今私が本当に好きなのはあの人じゃない。
 ゆかりさんは、私の顔を見て、それから、少し微笑んだ。
「ま、そういう事もあるかもね。さて、あとは、と」
 ゆかりさんは、その話題はこれで打ち切り、という感じで言うと、部屋の中をもう一度見回した。私に一言断ってから、ベッドの下を覗き込む。 確かに、そこは昨日は見なかった。 ゆかりさんに許可を出した後で、もし、変な本やビデオを隠していたらどうしよう、と思ったが、何も無かったようだ。 よく考えたら、毎日のようにレゥちゃんが念入りに掃除をしている筈なのに、そんな目に見える所にそういう物を隠している筈も無い。 あるとしたら、机の引き出しとかの、鍵の掛けられる所だろう。もちろん、そんな所は見るつもりは無い。
 結局、恭介の部屋では新しい収穫はなくて、私達は、最後にレゥちゃんの部屋に移った。

「シンプルな部屋ねえ。本当に、十代の女の子の部屋?」
 昨日のように、心の中でレゥちゃんに謝りながら部屋に入った。続いて入ったゆかりさんが、部屋の中を一瞥しての第一印象がこれだった。まあ、概ね同意するけど。
 物が少ないだけに、見るべき所も少ない。恭介の部屋と同じように一通り見回して、ゆかりさんが目を止めたのは、やはり壁に貼られたあの絵だった。
「これ、その子が描いたの?」
「はい。二年ぐらい前に、皆で祭の縁日に遊びに行った後で」
「じゃあ、この、その、何というか、人間っぽいものは、あなた達なの?」
 ゆかりさんが、珍しく表現に困っている。無理も無い。
 私は、描かれている一つ一つの「人間っぽいもの」を説明した。亮に、もとみに、私。そして、恭介とレゥちゃん。
 昨日、私も目に留めた、二人の赤い眼を、ゆかりさんも興味深そうに見ていた。
「どういう意味があるのかしら。彼氏の眼は赤くなかったし。別に、その子の瞳が赤い、っていう事はないわよね」
「はい。写真がありますよ」
 私はそう言って、ベッドの枕元に置かれていたあの写真を取って、ゆかりさんに渡した。懐かしい、二年前の私達がいる写真。
「真ん中で、恭介の腕に抱きついてる子がそうです」
 私は、横から写真を指さして、ゆかりさんにレゥちゃんを教えてあげた。明るい笑顔の、幸せそうな女の子。この子は、今、何処でどうしているんだろう。
 そんな事を考えていた私は、ゆかりさんが妙な表情をしている事に気が付いた。 妙──と言うか、物凄く真剣な表情。目を細めるようにして、食い入るように、と言ってもいいような感じで、写真を見つめている。
「タイレル・バイオのトップの息子に、色素の薄い髪の女の子、ねえ…」
 おまけに、何かぶつぶつ呟いている。
「ゆかりさん? その写真がどうかしました?」
 私が呼びかけると、ゆかりさんは、はっとしたように顔を上げた。
「いえ、ちょっと顔が小さかったから、この子の瞳が何色なのかな、ってよく見ようとしただけ。別に赤くないわよね」
 ゆかりさんは、特に何でもない、という風に言ったけど、それにしては、顔つきが真剣そのものだった。 そんな、小さなものを見ようとしている、何ていうレベルじゃないような。でも、ゆかりさんがそう言うのならそうなんだろう。
「絵を見た時は、もしかしたら、アルビノなのかな、と思ったんだけど」
「アルビノ? 色素が生まれつき無い、っていう、あれですか?」
「そう。色素が無いから、肌も髪も白くなるし、眼は眼底の血管が直接見えるから赤くなる。この子、髪の色素も薄いし、肌も白いし、もしかしたら、と思ったの。 それに、それなら瞳が赤くてもおかしくないわ」
 考えた事も無かった。確かに、レゥちゃんは、白い肌に色素の薄い髪をしているが、私は、それを、とても綺麗だな、ぐらいにしか思った事が無かった。
「カラーコンタクトを嵌めている、という事は無いのかしら」
 ゆかりさんが、また思ってもみなかった事を言う。私は、少し考えてみた。レゥちゃんに初めて会った時からの、二年間の時間。
「いえ、それは無いと思いますよ。 彼女とは、一緒にお風呂に入ったり、たまに一緒に寝たりした事もありましたけど、コンタクトを着け外ししている所なんて、一度も見た事がありませんし。 たえさんからも、そんな話は聞いた事がありません」
「たえさん?」
「高校の、寮の寮母代理の人です。寮母さんが腰を痛めて、それで娘さんのたえさんが代理で来てて。 彼女は、普段はそのたえさんの部屋で寝起きしてたんです。昼間は、たえさんの手伝いをしていましたから、彼女と一番長く居たのは、多分たえさんです。 コンタクトをしているとしたら、必ず気付いたと思うんです。まさか、コンタクトを二年間も着けっぱなしにしている、何て事はありませんし」
「なるほどねぇ…。たえさん、ね」
 また、何か私の頭に引っ掛かった。ゆかりさんが「たえさん」と言う時のニュアンスが、ほんの少し変な感じに聞こえた。何なんだろう?
「ゆかりさん?」
「彼氏もそうなのね?」
 ゆかりさんは、細かい点まで曖昧なままにはしない。私は、それもない、と言った。恭介が、カラーコンタクトを常備している、何て聞いた事も無い。 それに、恭介は髪も白くないし。
「眼だけアルビノになる事もあるから」
 ゆかりさんは、妙にその点に拘っているように見えた。
「あの、アルビノが何か今回の事に関係あるんでしょうか?」
「え? いえ、その子の体調不良の原因が、アルビノにあるのかな、と思ったから。アルビノの子は、やっぱり、少し弱い所があったりするそうだし」
 そのゆかりさんの言葉に、私は少し考え込んだ。確かに、アルビノは遺伝的なものだ、と聞いた事がある。 だとしたら、「渡良瀬家特有の」という話や、「あいつには脆い所がある」と言った恭介の言葉とも、辻褄が合うような気がする。 でも、二人の眼は赤くないんだし、でもこの絵の眼は赤いし…何だか混乱してきた。
 考え込んでしまった私を見て、ゆかりさんが明るく声を掛けた。
「まあ、推測だけであれこれ言っても仕方が無いわ。本人に聞かないと判らないような事は、置いておきましょう」
 その言葉で、私も考えるのを止めた。寝不足の頭で考えても、何も判らない。
「それにしても、可愛い子よね」
 ゆかりさんが、写真のレゥちゃんを見てしみじみと言う。本当にそうだ。
「はい、本当に可愛いんです。素直だし、明るいし、いつも元気だし。だから、今度の事は凄く心配で…」
「もう、この子に対する不安感は無さそうね」
 そう言われて、私は、ゆかりさんの顔を見た。あの、優しい、限りなく優しい表情が、私を見つめている。
「はい、自分でも不思議なんですけど、今は全然。ほんの何日か前までの事が嘘みたいです」
「それは、彼に優しくしてもらえたから、かしら?」
 さりげなく言われたその言葉の意味に気付いて、私は、顔から火が出そうになった。やっぱり、私は、上手く隠せなかったんだ。
 恥ずかしくて、俯いてしまった私に、ゆかりさんは、返答を求めなかった。ただ、私の頭に手を置いて、優しく髪を撫でてくれた。
 子供扱いされたような気がしたけど、それは、とても気持ちが良かった。

 結局、新しい手掛かりを何も掴めなかった私達は、ゆかりさんの提案通りにする事にした。
 つまり、まず私が夜中まで睡眠を取って、その間はゆかりさんが電話番をしてくれる。その間に恭介から連絡が入ったら、まずゆかりさんが用件を聞いて、 私を起こす必要があれば起こす。そうでなければ、後は恭介の言う事に従う。日付が変わる頃に私が起きて、ゆかりさんは大学に戻る。
 これでは、ゆかりさんが眠る時間が無いような気がするが、ゆかりさんは、徹夜の二、三日もこなせないと研究者はやってられない、と当たり前のように言った。
 その言葉の真偽はともかく、私は、ゆかりさんの好意に甘えて、少し眠らせてもらう事にした。
「見るかどうか判りませんけど、恭介には、一応メールを打っておきました。それなら、今は届かなくても、恭介の携帯が受信圏内になり次第、届きますし。 ゆかりさんにお世話になってる事を伝えてありますから、私の携帯にゆかりさんが出ても、多分何も問題無いと思います」
「用意周到で助かるわ。まあ、とにかくあなたはお休みなさい。少しでも眠れば、大分違うから。で、どちらで寝るつもり?」
 最後に、悪戯っぽく訊かれて、私は、また顔が熱くなった。要するに、恭介のベッドで寝るか、レゥちゃんのベッドで寝るか、という事なんだけど…。
 私は、少し考えて、レゥちゃんの方で寝かせてもらう事にした。
「私の事は気にしなくていいのよ」
 しれっとした顔でゆかりさんは言うけど、気にしない訳にはいかない。それに、本当の理由は、単に恥ずかしいから、とかじゃなかった。
「いえ、そうじゃないんです。彼のベッドだと、多分、眠れないような気がして…」
 ベッドに残る彼の匂いが、否応なく、私に彼が今ここに居ない事を思い出させる。それでは、神経が高ぶって眠れなくなりそうだった。 ここに居ない、という点ではレゥちゃんも同じだけど、やはり同性同士だし、それに、レゥちゃんの匂いには、何か私を安心させてくれるものがあるような気がしたのだ。 それは、お母さんの匂い、と言うと子供っぽいけど、それが一番的確な表現のように思えた。
「まあ、お好きに、としか言えないわね」
「あの、冷蔵庫の飲み物とか、好きに飲んでもらって構いませんから。後で、私からちゃんと言っておきますので」
「心遣い、ありがとう。大丈夫よ。あなたは、早くお休みなさい」
 ゆかりさんの穏やかな言葉。その言葉は、私の心を静めてくれる。私は、ゆかりさんに感謝しながら、レゥちゃんのベッドに横たわった。 ミルクのような甘い香りが、私を包み込んでくれる。高ぶっていた気持ちが、急速に静まっていく。
 私は、恭介の部屋に鍵を掛けなかった。ドアは閉めたが、簡単に入る事ができる。もし、ゆかりさんが恭介の部屋に入って家捜しをしても、私には判らない。 でも、ゆかりさんがそんな事をするのはあり得ない、と、私は思っていた。それが当然だ、という風に。
 私は、安心しきって眠りに落ちていった。

 体が揺さぶられている。私を呼ぶ声がする。
「ひとえちゃん、ひとえちゃん、起きて。交代の時間よ」
 ゆかりさんだ。交代の時間? そうだ、起きないと。
 私は、目を開いた。目の前に、ゆかりさんの顔がある。
「起きたわね。悪いけど、私、もう行かないといけないの。後は任せるわ」
 私がちゃんと目覚めたのを確認して、ゆかりさんが立ち上がる。私も、体を起こしてベッドに座る。頭は、まだ少しぼんやりしているけど、かなり軽くなっていた。 横になったのはついさっきの事のような気がするけど、時間はしっかり経過していたらしい。それだけ、深く眠る事ができたんだろう。
 ゆっくりと立ち上がって、立ちくらみとかにならない事を確かめると、私はレゥちゃんの部屋を出た。
「結局、連絡は何も無かったわ。残念だけど」
「そうですか…」
 ゆかりさんが手渡してくれた自分の携帯を見る。着信履歴も、メールの受信フォルダも、空のままだった。今の時刻は、ほぼ真夜中。
「ここからは、あなた一人よ。大丈夫ね?」
 ゆかりさんが訊いてくれる。私は、なるべく元気に見えるように、笑顔を作った。大丈夫。今の私は、独りじゃない。
「はい、大丈夫です。本当に、ありがとうございました」
 ゆかりさんは、私の顔を眺めて、まだ少し心配そうな顔をしていた。でも、これ以上は、ゆかりさん自身の事に支障がある。甘えられるのも、ここまでだった。
 と、ゆかりさんは、何かを思いついたような顔をした。
「メモ用紙か何か持ってる? それと、何か書く物と」
 私は、テーブルに置きっぱなしにしていた自分のカバンから、四角い付箋紙と、ボールペンとを取り出して、ゆかりさんに渡した。
「これで良いですか?」
「ありがとう」
 ゆかりさんは、受け取った付箋紙に、ペンで素早く何かを書き込んで、私に返した。そこには、「ゆかり」という名前と、十数桁の数字とが書き込まれていた。
「これ…携帯の番号ですか?」
「そう。私のね。何かあったら、いつでもそこに電話してちょうだい。実験中は出る事ができないかもしれないけど、最低限、留守電には登録できるから。いいわね」
 私は、ありがたくて涙が出そうになった。ゆかりさんは、この上、まだ自分を頼って良い、と言ってくれている。まるで、それが当たり前であるかのように。 本来、そんな義理など無い筈なのに。私は、ゆかりさんに感謝してもしきれない。
「ありがとうございます」
「そんな顔しないの。これは、まだ料金内よ」
 ゆかりさんが、指で私の頬を突つきながら笑う。私も笑った。無理に作らなくても、笑えた。

 でも、私は、それ以上ゆかりさんに頼らなくても済みそうだった。
 ゆかりさんが玄関のドアを開けた時、外には、ちょうどドアに手をかけようとした姿勢で固まっている人影があった。恭介だった。

「恭介!」
「ひとえ、おまえ、ここに居たのか」
 何、間抜けな事を言ってんのよ。そう文句を言ってやろうと、私は、先に廊下に出たゆかりさんに続いて部屋を出た。恭介の隣には、レゥちゃんも居た。
「レゥちゃん! 良かった、あなた、大丈夫なの? もう、出てきても良いのね?」
「うん。ひとえちゃん、しんぱいかけてごめんなさい」
 レゥちゃんが、ぺこりと頭を下げる。そんな事はどうでもいい。とにかく、レゥちゃんの無事な姿を見て、私は、安堵すると同時に、一気に足腰の力が抜けるのを感じた。
「おっと」
 恭介が、素早く私の体を支えてくれたお陰で、私は、廊下の床に倒れ込まなくても済んだ。恭介が、私の腕を自分の肩に回して、私を立たせてくれた。
「大丈夫か?」
「ああ、大丈夫、大丈夫。ちょっと、その、安心したら腰が抜けちゃったみたい…」
 あはは、と照れ笑いを浮かべながら、恭介を見る。恭介は、心配そうな顔をしながらも、少し安堵したような表情を浮かべた。 それから、一部始終を面白そうに眺めていた、ゆかりさんの方に顔を向ける。
「ありがとうございました。何か、ひとえがお世話になったみたいで。本当に、助かりました」
 恭介は、私を抱えたまま、そう言って軽く頭を下げた。良かった、私の打ったメールを見てくれたんだ。 恭介は、この状況を、ゆかりさんがここに居る訳を、ちゃんと理解していた。
「いいのよ、ちょっとした気まぐれだから」
 お気楽そうな雰囲気に戻って、ゆかりさんはそう恭介に言うと、今度は、レゥちゃんに向き直った。レゥちゃんは、知らない人が居るせいか、少し緊張している。
「あなたが、彼の従妹さんね。はじめまして。私はゆかり。あなたのお友達の、ひとえちゃんの友達よ。よろしくね」
 そう言って、ゆかりさんは握手を求めるように、右手を差し出した。レゥちゃんは、まだ少し警戒している。しかし、挨拶を忘れないぐらいの余裕はあるようだった。
「はじめまして、レゥです。あの、ひとえちゃんの、おともだち…?」
「そう。ひとえちゃんの、大学のね」
 ゆかりさんは、あの優しい微笑を浮かべながら、レゥちゃんの方から手を伸ばすのを待っていた。レゥちゃんが、おずおずと手を伸ばす。
「がっこうの…?」
「そう」
 ゆかりさんは、表情を崩さず、差し出した手も動かさず、ただレゥちゃんが手を伸ばすのを待っている。 レゥちゃんは、まだ少し怯えた感じだったが、それでも、ようやくゆかりさんの手を握った。ゆかりさんも握り返し、軽く上下に振る。 レゥちゃんの緊張が、明らかに緩んだ。
 手を離した後も、ゆかりさんは、レゥちゃんの顔を見つめていた。優しい顔で。
「写真で見た時も可愛いと思ったけど、本人はもっと可愛いわねぇ。確かに、これは心配もするわ」
「写真?」
「ほら、恭介、レゥちゃんのベッドの所に飾ってある写真。あれ、私がゆかりさんに見せたの」
 恭介が疑問に思ったのを、私がすかさず説明する。恭介は、ああ、と納得したようだ。良かった、勝手に見せた事は何とも思っていないみたい。 でも、ゆかりさんの言った、「心配」の意味が、私には二通りある事に、恭介は気付いただろうか。その内の一つは、もう私の中からは消えて無くなってしまったけど。
 ゆかりさんは、じっとレゥちゃんを見つめ続けていた。さすがに、レゥちゃんももじもじし始める。 すると、ゆかりさんは、片手をレゥちゃんの頬にゆっくりと伸ばした。レゥちゃんが怯えないように、彼女の反応を確かめながら、ゆっくり、ゆっくりと。
 思わず、前に出ようとした恭介を、私は、肩に回された手に力を込めて押さえた。恭介が私を見る。私も、恭介の眼をじっと見つめた。
 大丈夫。ゆかりさんは、大丈夫だから。
 私がそう言いたいのを悟ってくれたのか、恭介は、体の力を抜いた。
 ゆかりさんは、ゆっくりと掌をレゥちゃんの頬に添えた。 ゆかりさんの手が触れた瞬間、レゥちゃんは体を少し震わせたが、ゆかりさんには自分を傷つけるつもりが無い、という事は判っているようだった。 大人しく、頬を撫でられるのに任せている。
「レゥちゃん。運命なんかに負けちゃ駄目よ」
 レゥちゃんの瞳を真っ直ぐに見つめながら、ゆかりさんが、急に変な事を言い出した。いきなり何?
「この世に生まれたものはね、それがどんなものでも、必ず最後まで生き抜く義務があるの。神さまが、もう休んで良いよ、って言うまでね。
 でもね、同時に、皆生きる権利もあるのよ。どんなものにもね。誰も、あなたが、生きたい、生きよう、とする事を邪魔する事はできないの。
 だからね、何があっても、諦めちゃ駄目よ。あなたは、今生きている。生きている事自体に意味があるの。生きる事を諦めちゃ駄目。
 あなたには、あなたを必要としてくれている人が、必ず居るから。ここに居る、あなたのお兄ちゃんと、お姉ちゃんのようにね。
 他にも、阿見寮のたえさんのような人が居る。あなたは、独りじゃないから。絶対に、独りにはならないから。だから、諦めないで、絶対に」
 ゆかりさんが何を言っているのか、私には、よく判らなかった。何故、レゥちゃんにそんな事を言うのか、その理由も判らなかった。 ただ、ゆかりさんの言葉には、とても大事な事が含まれている事だけは、理解できた。
 レゥちゃんも、初めはきょとんとした顔で聞いていたが、ゆかりさんの言葉を聞いている内に、だんだん理解の色が広がっていった。 レゥちゃんは、ゆかりさんの言葉に、何か自分にとって大切な事が含まれているのを理解したようだった。
 ただ、恭介だけは違った。私は、恭介がゆかりさんを見る目が、どんどん鋭くなっていくのが判った。恭介は、明らかにゆかりさんを警戒していた。
「恭介…?」
 小さな声で呼びかけてみても、恭介は気付かなかった。
 何、いったいどうしたの? ゆかりさんは大丈夫だよ。そんなに警戒しなくて大丈夫だよ。

 やがて、ゆかりさんがレゥちゃんから手を離した。レゥちゃんは、両手を胸の前で組み合わせて、ゆかりさんを見つめていた。その顔には、緊張も怯えも無い。
 ゆかりさんは、それから恭介の方を振り向いた。自分に鋭い警戒の視線を注ぎ続ける恭介の眼を、真っ直ぐに受け止める。 そのまま、二人は少しお互いの眼を見つめ合っていたが、やがて、ゆかりさんの表情が緩んだ。少し微笑みを浮かべる。
「そんなに怖い顔をしないで。彼女達が怯えるわ」
 その言葉を聞いて、恭介は、我に返ったかのようだった。確かに、私もレゥちゃんも、恭介のその表情に、少し怯えていたかもしれない。 彼が、そんな表情で人を睨む所を、私は、初めて見た。
「…貴女は、誰なんです?」
 恭介が、ゆかりさんに訊ねる。警戒と、不審と、そして、少し恐れが混じったような声。
「言わなかったかしら。私は、ゆかり。貴方のひとえちゃんの先輩であり、友達であり、ついでに恩人…かもね」
 ゆかりさんは、飄々とした態度を崩さない。恭介の視線を、軽く受け流すような、余裕に満ちた姿勢。
「そんな事は訊いていません。貴女は、何を知っているんですか?」
 恭介は、尚も追及する。恭介も、何を言っているのか判らない。一体、ゆかりさんが何を知っている、って言うのよ。
「今は説明している時間は無いわ。私が遅れると、他の人に迷惑が掛かっちゃうから。
 でも、少し誤解があるようだから言っておくけど、私は、貴方達の味方よ。少なくとも、貴方の大事な従妹や、恋人を泣かせるような事は、絶対にしないわ」
 ゆかりさんの返答も、謎だらけだ。味方って何? どこかに、敵が居るとでも言うの? それに、私やレゥちゃんを泣かせるような事、ってどんな事?
 でも、私は、まず恭介を落ち着かせなければならなかった。彼の肩に回された手に、また力を込める。
「恭介!」
 私の声で、恭介は、ようやくゆかりさんから視線を外して、私を見た。私は、彼の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「恭介、お願いだから、そんな目でゆかりさんを見ないで。ゆかりさんは、大丈夫なんだから。私が、凄くお世話になった人なんだから。だから…」
「…判った…」
 恭介は、やっと体の力を抜いた。一つ深呼吸をして、ゆかりさんに振り返る。
「すみませんでした。ひとえがお世話になった人に、失礼な事をしてしまって」
 頭を少し下げてゆかりさんに謝罪する。ゆかりさんは、全然気にしていないようだった。
「いいのよ。気にしてないから。それじゃ、私はそろそろ行くわ。じゃあね、ひとえちゃん」
 ゆかりさんが、私に軽く手を振って歩き出した。私は、慌ててその背中に声を掛ける。
「あの、ゆかりさん、ありがとうございました!」
 私の声に答えて、ゆかりさんは、片手を上げてひらひらと振ると、振り返らずに行ってしまった。
 ゆかりさんの姿が見えなくなるまで見送って、私は、ふと気付いた。
 さっき、ゆかりさんは、レゥちゃんに「阿見寮のたえさんのような人」と言っていた。 でも、私、寮に住んでいた事は言ったかもしれないけど、「阿見寮」という名前を、ゆかりさんの前で出した事があっただろうか?
 その疑問は、しかし、すぐにどうでもよくなった。この数日間というもの、色々な事があり過ぎた。誰に何を言ったのか、細かい所まで覚えてはいない。
 私は、まだ私を支えたままの恭介の横顔を見た。
 ゆかりさんが歩いて行った方向を、恭介は、まだ少し警戒感の含まれている目で見つめていた。私は、彼の服の裾を引っ張って、中に入ろう、と促した。 恭介は、私と、まだ少し怯えた表情で自分を見ているレゥちゃんとを交互に眺めていた。
「そうだな。中に入って休もう。みんな、疲れただろ」
 その声を合図に、私達は動き出した。やっと、三人揃ったんだ。私は、それがとにかく嬉しかった。



─ Scene 08 : 二人の暴露 ─

 私と恭介は、何より、まずレゥちゃんを休ませようとした。
 私には、この二日間、レゥちゃんがどういう所に居たのかは判らない。でも、そこが彼女にとって慣れない環境であった事は想像がつくし、そこで丸二日を過ごした事は、 彼女にとっては、かなりの精神的な疲労を伴った筈。
 しかし、レゥちゃんは、なかなか私達の言う事を聞いてくれなかった。恭介の傍を離れたくない、というよりも、何か、この私に話したい事があるような感じだった。
「レゥちゃんは病み上がりなんだから。もう遅いし、とにかく今夜の所はお休みなさい。あ、さっき、仮眠するのにレゥちゃんのベッド借りちゃったの。ごめんね」
「ううん、そんなのはいいの。ただね、レゥは、ひとえちゃんに…」
 尚も言い募ろうとするレゥちゃんを、恭介が遮った。
「いいから、レゥは寝てろ。ひとえには、オレから話しておくから。おまえは、自分の事だけ心配していれば良いから」
 何だろう。二人とも、私に何か話がある、と言っている。この二日間の事を話す、っていう事なんだろうか。
 とにかく、私達は、何とか宥めすかして、レゥちゃんを納得させた。
「じゃあ、おやすみなさい、おにいちゃん、ひとえちゃん」
「ああ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 扉の向こうにレゥちゃんが消える。私と恭介は、揃って溜息をつくと、お互いの顔を見合わせて少し笑った。何だか、随分久し振りに見たような気がする、彼の笑顔。
「何か、飲む?」
 私は、まずは一息つこうと提案した。足腰には、まだ少し怠さが残っていたけど、普通に動くにはもう大丈夫。
「ああ、頼むよ。冷蔵庫に、冷たいお茶か何かあったと思うから」
 疲れた声で恭介が言う。私は、ゆかりさんは結局何も飲んでないのかな、私が何か出しておけば良かった、と思いながら、冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出し、 流しに置いてあったグラスを2つ取った。
 流しには、同じグラスがもう一つある。ここにも、恭介のメッセージがあった。綺麗に並べられた、三人分のグラス。
 軽く頭を振る。もう、その事は考えるな。過ぎた事を悔やんでばかりいても、何にもならない。
 私は、麦茶を注いだグラスを恭介に差し出す。
「お疲れ」
「さんきゅ」
 恭介は、それを一息に飲み干した。テーブルに置かれたグラスに、私は、もう一度麦茶を注ぐ。 それから、自分の分のグラスにも麦茶を満たして、私は、椅子に座った。麦茶を一口飲んで、口を開く。
「帰って来る前に、連絡、くれなかったね」
「ごめん、あいつの事で最後までごたごたしててな、する隙が無かった。それに、ひとえのメールは見てたし、ゆかりさんが付いててくれるなら大丈夫だろう、と思ってた。 ここに居る、なんて思わなかったしな」
「私のメールは見ていたのに?」
「だって、ひとえ、何処に居るか、なんて一言も書いてなかったじゃないか」
「そうだったっけ?」
「そうだよ。だから、てっきり、自分の部屋に居るのかと思ってた」
 それで、帰って来た時の第一声があれだったのか。私の方こそ、間が抜けてたのかも。でも、それじゃあ、やっぱり…。
「ゆかりさんを勝手にこの部屋に入れた事、怒ってるんじゃないの?」
「どうして? ひとえが、入れても良い、って思った人なら良いよ。怒ったりしてない」
「だって、さっき、あんな目でゆかりさんを睨んだりして…」
「あれは、それとは関係ない」
「じゃあ、何なの?」
 恭介は、訳を話す気は無い、とでも言うかのように、グラスを口に付けた。仕方無く、私は、話を変えた。
「この二日間、何処に居たの?」
「昨夜も言っただろ? それは話せないんだ」
「どうして話せないのか、っていうのも言えないのね」
「ああ。言えない」
「じゃあ、レゥちゃんは? あの子は、これからどうなるの? その、持病が元でどうにかなったりはしないの? 私は、どんな事に気をつけなければいけないの?」
「そんなに、一度に色々聞くなよ」
「そんな事言ったって、私は何も知らないのよ。しょうがないでしょ、恭介が話してくれないんだから、私から聞くしかないじゃない」
「聞かないでくれ、っていうのは無しなのか?」
「無しよ。そんなの、当たり前でしょ」
 恭介は、また無言。少し言い過ぎたかな。恭介だって、この二日間、大変な思いをして疲れている。
「ねえ、別に、今すぐじゃなくてもいいわ。今夜は、恭介だって疲れてるだろうし。今夜はもう眠って、また改めて、って事にしない?」
「…そうできればいいんだが、そうする時間が無いんだ」
「どういう事?」
 私は、恭介の物言いに、例えようも無い不安を感じた。また、この人は、何かとんでもない事を言い出すつもりだ。
 恭介は、しばらく無言で考え込んでいたが、意を決したように顔を上げた。真っ直ぐ私を見る。
「判った、全部話す。話すけど、その前に、一つ約束してほしい」
「何よ」
「オレの話が終わるまで、絶対に出て行ったり、帰ったりしないで欲しい。必ず、最後まで聞いてくれ。いいか?」
 何よ、それは。私に話をするのに、いちいちそんな約束が必要なの?
「それは、要するに、私が途中で出て行ったり、帰ったりしてしまいたくなるような話をする、っていう事なの?」
「質問で質問に返すのは禁止、なんだろ」
「それは、そうだけど…」
 あの夜の事を少し思い出す。それは、あの時、私が恭介に言った台詞。
「まあいい。正直言って、オレも、話を聞いてひとえがどういう反応をするのか、よく判らないんだ。 怒るか、泣くか、それとも平然としているか。笑う…って事は、まあ無いかな」
「何よ、それ。あまり、楽しい話じゃない、っていうのは確かそうだけど」
「それは確かだな。楽しい話、って訳じゃない」
「だいたい、これだけ長い間一緒に居たのに、私が、どんな話をしたらどんな反応をするか、ぐらい判らないの?」
「今までした事が無い類の話なんだよ」
「ふうん…」
 私は、少し怖くなってきた。恭介が、どんな話をするのか、が。でも、今さら後へは引けなかった。
「で、どうなんだ? 最後まで聞く、って約束してくれるか?」
「…いいわ。約束する。でも、私からも、一つ条件を出させてもらうわよ」
「…何だよ。怖いな」
「簡単な事よ。私は、恭介が全部話してくれるまで帰らないから。絶対に、帰らないから。それだけ」
「…オレの出した条件と同じような気がするけど」
「違うわよ。恭介が、言いたい事を全部話したつもりになっても、私が納得しなければ駄目。 私が、まだ話してもらってない、って思うような事が一つでもあったら駄目。いい?」
「無茶な条件のような気もするけどな。見解の相違、という事もある」
「それが、見解の相違だ、って私が納得すれば、それはそれでいいわよ。そうでない場合は駄目」
「…難しい条件に思えるけどな、それ」
「とにかく、話してみなさいよ。少なくとも、恭介が、まだ話は終わってない、って言う場合は、絶対に帰ったりしないから」
「…判った」
 恭介は、まだ納得していないみたいだったけど、これ以上は埒があかない、と思ったようだ。麦茶を飲み干すと、私に向き直った。 私も、恭介のグラスに麦茶を注ぎ足してあげてから、姿勢を正す。
「結論から言うぞ。オレは、レゥを連れて、明日の午後の便でアメリカに行く事にした」
「…恭平兄さんの所に行くのね?」
「ああ、そうだ。驚かないのか?」
 私は、肯いた。ここまでは、予想の範囲内だった。
 恭介のお父さんの会社、タイレル・バイオ。渡良瀬家特有の病気。私にも秘密にしなければならない病院。レゥちゃんの容体。 そういったような事を重ね合わせると、最終的には、恭介が恭平兄さんを頼るのは、ある程度予測がつく。 二年前は、恭平兄さんの方からやって来たけど、今度は、こちらから出向かなければならないぐらい、大変な事なんだろう。 明日の午後、というのは確かに急な話だけど。
 私がその事を話すと、恭介は、感心したような顔で肯いた。
「その通りだよ。こっちが驚いた。それ、全部ひとえ一人の頭から出た事なのか?」
「何よ、人を莫迦みたいに言わないでよ。って、本当なら言いたいんだけど、違うわ。半分は、ゆかりさんのお陰」
 そう、ゆかりさんが、「特別な病院」の話をしてくれなければ。恭介の部屋であの本を見つけ、タイレル・バイオの話をしてくれなければ。 私一人では、少なくとも、こんなに早く気が付く事は無かった。
「…本当に、訳判らない人だな、あの人。何者なんだ?」
「いい人よ。それより、話の続きは? レゥちゃんの病気をちゃんと治す為に行くんでしょ?」
「ああ、そうだ。この二日間、アニキとも連絡を取って、色々と話をしたんだよ。 詳しい経過は省くけど、結論として、レゥをこのまま此処に置いておくのは良くない、っていう事になった。いずれ、また同じ事を繰り返す、ってな。 確かに、それで命まで落とす事には早々ならない。 しかし、絶対ならない、という保証は無いし、第一、こんな事を繰り返すような生活は、あいつの為にもならないからな」
「原因は何? ううん、持病だ、っていうのは判ったから、その、症状が出るきっかけは何なの?」
「精神的なものだよ。一言で言えば、ストレスだな。緊張感、絶望感、失望感、そして孤独感。 まあ色々だけど、そういった、強い精神的なストレスに襲われると、あいつは、体に変調を来すんだ」
 そう言われて思い出す。あの朝の電話で、レゥちゃんが呻いた事。
「じゃあ、あの『うでがいたい』っていうのがそうなの?」
「そう。あいつの場合、まず関節に来るんだ。理由は判らないけど、とにかく、まず肘とかが痛くなる」
 それを聞いて、私は、胸が痛んだ。あの電話は、あの時私が話した事は、レゥちゃんにとっては、そんなに絶望や失望をするような事だったんだ。 そんな、あの行為がどうとか、私に対する嫉妬がどうとか、そんなレベルの話じゃなかったんだ。もっと、切実な事だったんだ。
 そんな事を考えて私が沈み込んでいるのを、恭介は気付いたみたいだった。声が優しい響きを帯びる。
「あの朝、あいつと話した事を気に病んでるんなら、それは違うぞ。昨夜も話したけど、あれは、最後の一押し、だっただけだ。 以前から、あいつには、ストレスが溜まってたんだよ。それが、あの電話をきっかけにして表面化した。そういう事だ。 ひとえが、そんなに気に病む必要はないんだよ」
「そんな事言ったって、気にしない訳にはいかないよ。だって、私が、あんな事言ったから、それで、レゥちゃんはショックを受けたんでしょ?」
「あんな事、って、その、あれか? オレが、ひとえの部屋に泊まった、っていう…」
「そう。あれで、レゥちゃんは、私と恭介が、その、そういう関係になった、って悟ったから、それがショックで…」
 私がそう言うと、恭介は、突然吹き出した。肩を震わせて、必死に声を押し殺して笑っている。その姿を見て、私は、逆上しかけた。
 何がそんなに可笑しいって言うのよ! そんなに笑うような話じゃないでしょ!
 思わずそう怒鳴りつけそうになったけど、すぐそこの部屋でレゥちゃんが眠っているのを思い出して、何とか声を抑えた。
「何を笑ってんのよ! 真面目にしなさいよ」
「いや、ごめん。何か可笑しくてさ」
「何が!」
「まあ、確かにな。ひとえが言う事も、あながち間違っちゃいない。けど、あいつの場合は、もっと、こう、何て言うか…」
「何よ。はっきり言いなさいよ」
「つまりだ。あいつは、確かに子供っぽい奴だけど、そういう事についてもちゃんと判ってる。その、子供を作るにはどうすればいいか、とかな。
 ただ、あいつは、純粋なんだよ。とんでもなくな」
「どういう事よ」
「まず、あいつは、そういう事は、きちんと結婚した夫婦がする事だ、と思ってる。子供を作る為にな」
 問題無いじゃない。確かに、それ以外の目的もあるけど、さ。
 そう考えて、少し顔が熱くなる。恭介が、それを目敏く見つけた。
「どうした? 顔が赤いぞ」
「うるさいわね。余計な事を言ってないで、先を続けなさいよ」
 まったく、この男は。こういう時は、見て見ぬふりをするものでしょうが。ホント、デリカシーってもんに欠けるんだから。
 にやついていた恭介は、肩をすくめて話を戻した。
「それでだ、あいつは、オレとひとえが恋人だ、っていう事も、恋人同士が一般的にどういう事をするのか、という事も理解してるから、 オレ達が二人きりで夜を過ごしたらそういう事をする、という事もだいたい判ってる」
 そ、そこまで決めつける事はないんじゃないか、と思うけど…。それに、「夫婦がする事」っていうのと矛盾してるんじゃないの?
「だから、オレ達がそういう事をしたから、オレ達は夫婦になったんだ、と理解した」
 は? それは、幾らなんでも気が早すぎる。と言うか、話が逆のような気がする。大体、それは理解とは言わない。誤解と言うんだ。
「さて、あいつには、夫婦になったばかりの二人は、大抵二人きりで生活するものだ、という知識があった」
 それは、まあ、そうかもしれないけど。
「と、いう事はだ、オレ達は夫婦になったんだから、これからは、二人きりで暮らすんだ、と思い込んだ」
 ちょ、ちょっと待ってよ。
「で、あいつは、自分がこれから独りで暮らしていかなきゃならなくなった、と思い込んで、孤独感に襲われた」
 そんな出鱈目な!
「更に、オレが、『帰る』って言ったのに帰らず、ひとえの所に泊まる事もあいつに教えなかった。 まあ、オレが忘れてただけなんだけど、そのせいで、あいつは、オレにとってあいつはもう必要ない、って思ってしまったんだ。 自分は、オレにとってその程度の存在なんだ、ってな。オレにはもう、ひとえだけしか要らない、レゥはもう要らないんだ、って思い込んでしまった。
 その結果、体調を崩して倒れちまった」
 私は、唖然としてしまった。
「そんな、無茶苦茶な話、あるの? 極端過ぎるわよ!」
「まあな。でも、論理の展開には納得できるものがあると思わないか? あの時、あいつの頭の中では、一瞬にしてこういう論理が展開されたんだよ」
「納得できる訳ないじゃない! まるっきりの誤解なんだから!」
「まあ、平たく言えばそうなんだけどさ。中途半端な知識の上に、思い込みと早とちりとが重なって、完璧な誤解が生まれたんだ」
「そんな…笑い話とは違うんだから…」
「確かに、端から見れば笑っちゃうような話なんだけど、でも、可愛いだろ? あいつらしくてさ。本当に、純粋なんだよ、あいつは」
 恭介の顔がにやけている。何か、親馬鹿の父親が、娘を自慢する時みたい。私のお父さんも、時々こんな顔をしていた事がある。
 でも、これは、笑い話として済ませられるようなものではなかった。
「でも、そんな事で倒れるなんて…」
「そう、問題はそこなんだ。そんな、普通なら笑っちゃうような話、で片づく所が、あいつの場合は、下手をしたら命に関わるかもしれない。それが問題なんだよ」
「じゃ、どうすればいいの?」
「一つは、ストレスの原因を取り除く事だ。さっきも言った通り、あの電話の以前から、あいつにはストレスが溜まっていた。 それが無かったら、例えあの電話の話を聞いても、今回のような事にはならなかったと思う」
「何なの? その、溜まっていたストレスって」
 恭介は、黙ってしまった。かなり言い難そうだ。ただ、「全部話す」という約束がある。やがて、恭介は、口を開いた。
「独りだった事だ」
「…どういう意味?」
「言葉通りの意味だよ。あいつは、阿見寮を出て今の生活を始めてから、独りで居る事が多くなった。オレが大学に行っている間は、そうなるからな。 阿見寮に居た頃は良かったんだよ。オレが居ない時でも、たえさんが居たし、ひとえや、亮や、もとみちゃんや、皆も居たからな。 あいつは、寮の皆から可愛がられてたから、全然寂しい思いなんかしなくて済んでたんだ。
 でも、ここにはそれが無い。オレ達の他には、あいつには誰も居ないんだ」
「そんな…そんな素振り、全然無かったじゃない」
「あいつは、無理をしてたんだよ。オレ達の前ではな。自分が寂しがると、オレ達が心配すると思ってな。だから、ずっと我慢してたんだ」
 私は、頭を殴られたような気がした。
 レゥちゃんも、私と同じだったんだ。 私が、恭介の前でだけは楽しく幸せそうな顔をしていたように、あの子も、私達の前では、精一杯明るく振る舞っていたんだ。 私が、恭介と少しでも長く二人で居たいと思って、講義が終わって喫茶室でお喋りしている時も、あの子は、独りで寂しいのをずっと我慢してたんだ。
「そんな顔をするな。ひとえだけのせいじゃない。オレも、ちゃんとあいつの事を見てやれてなかった。オレは、ひとえの事も、あいつの事も、ちゃんと見れてなかったんだ。 不甲斐ない話だと思うよ。ゆかりさんに怒られるのも当たり前だ。
 でもな、過ぎた事を悔やんでばかりいてもしょうがない。反省して、これからどうするかを考えないといけないんだ。幸い、まだ取り返しはつく。充分な」
 私は、泣きそうな顔をしていたのかもしれない。恭介は、穏やかに、でも力強く私に言い聞かせるように話した。
 そう、それは私も判ってる。これからどうするかを考えなければいけない。でも、どうすればいい?
「学校に通わせたりする事はできないの? と言うか、レゥちゃんって、どうして今まで学校に通わないままなの?」
「…あいつは、あくまで一時的に預ってるだけだからな。こちらの学校には通う事ができないんだよ」
「それじゃ、何か習い事に通わせたり、スポーツクラブとか、何でもいいわ。とにかく、私達の他に、友達ができるような事をさせてあげたら?」
 私がそう言うと、恭介は、また黙り込んでしまった。さっきよりも、もっと苦しそう。やがて、呟くように言った。
「…あいつは、多分、友達は作らない。いや、作れないんだ」
「そんな! どうしてよ。レゥちゃんは、それは、少し人見知りするタイプかもしれないけど、人付き合いが出来ない訳じゃないじゃない。 現に、阿見寮に居る時は、皆と仲良くやってたわよ」
「あそこは、一種の閉じた世界だからな。あそこに居る限りは、必ずオレやたえさんが守ってやれるし、顔触れもそんなにしょっちゅう入れ替わる訳じゃない。 当然、皆身元のはっきりした人間ばかりだし、あいつに悪い事をしようとする人間もいない。
 でも、一旦あそこを出ればそうはいかなくなる。どんな奴が居るか判らないからな。そんな所に、あいつのような奴が出ていったらどうなるか判らない」
「そんな事言ってたら、ずっとあの子は独りのままじゃない! それに、そう、阿見寮に居た時だって、外に友達、作ってたわよ。あの、たえさんの知り合いの」
「…みさおちゃんの事か?」
「そう、その子! あの子はどうなの? あんな風に、私達が友達を紹介してあげればいいじゃない」
「その、みさおちゃんの事も、あいつが友達を作れない原因の一つなんだよ。 いや、むしろ、みさおちゃんとの事があったから、あいつは、新しい友達を作る事ができなくなってしまったんだ」
「…どうして」
「詳しい成り行きは判らない。ともかく、あいつは、みさおちゃんと酷い仲違いをしてしまったんだ。みさおちゃんから、完全に拒絶されてしまうぐらいにな。 そのせいで、あいつは心に深い傷を負ってしまった。だから、もう友達を作るのが怖くなってしまったんだよ。また拒絶されるような事になったら、って思ってな」
「そんな事って…」
 そんな悲しい事ってあるだろうか。でも、それなら、みさおちゃんがある時期を境にして、阿見寮に現われなくなった理由も判る。 レゥちゃんが、その後しばらく落ち込んでいたのも判る。でも…。
「その、みさおちゃんとの間には、一体、何があったの? そんな、完全に拒絶されてしまうような事なんて…」
「言ったろ? 詳しい成り行きは判らない、って」
 そう言って、恭介はまたグラスに口をつけた。私には、それが、恭介は本当は知っていて、話したくないという感じに見えた。 でも、今はそれを追及するよりも、話を進める方が先だ。
「じゃあ、いっその事阿見寮に戻してあげたら? たえさんだって、本人さえ良ければ、レゥちゃんを預っても良い、って言ってたじゃない」
「それは駄目だ。本人が嫌がる。オレも反対だ。前にも言ったように、部外者のあいつが寮に住む道理が無い」
「そんな、形や規則に拘ってるような場合じゃないでしょ!」
「あいつが、オレの傍から離れたくない、って言ってるんだ。拘ってる訳じゃない」
「…恭介。どうして、あなたは、そんなにレゥちゃんを手元に置きたがるの?」
「だから、あいつが…」
「それは判ってる。でも、あなたもそうよ。恭介は、昔からそう。レゥちゃんが、自分の目の届かない所に居る事には、すごく過敏になる。 過保護とかいうレベルじゃ済まないくらいにね」
「…そんな事は無い」
「いいえ、そうよ。二年前の、あの三本勝負にしたって、そうだったじゃない」
「あれは、ひとえが提案した事じゃないか」
「ええ。でも、元はと言えば、亮がレゥちゃんとお近づきになりたい、って言うのを、恭介が強く拒んだからじゃないの。
 あの時も不思議に思ってたわ、私。ただお友達になりたい、っていうだけなのに、どうしてあんなに嫌がるんだろう、って。ねえ、どうして?」
「あれは、亮が、もとみちゃんが居るのに、あいつに言い寄ろうとしてるのが見え見えだったから…」
「それだけ? 亮が、自分の彼女を放ってまで、あなたの大事な従妹に本気で何かするとでも思ってたの? 亮が、そんな人だって本気で思ってたの?」
「それは…そうじゃない」
「そうよね。そんな人と、恭介が親友になったりする訳ないもの。私だって、亮がそんな男なら、友達付き合いしなかったわ」
「…何が言いたいんだよ」
「恭介は、レゥちゃんが、自分の目の届かない所に居る事を怖がってるみたい。いくらレゥちゃんが普通の人みたいにできないからって、それじゃ籠の鳥よ、まるで」
「そんな事は…ない」
「だってそうでしょ? 恭介は、レゥちゃんを一生自分の手元に置くつもりなの? あの子だって、一人の女の子なのよ。恋も、結婚もさせずに、一生面倒を見るの?  レゥちゃんが自立できるようにしないの? したくないの?」
 恭介は、黙っている。言いたくないのね。でも、悪いけど、今日は追い詰めさせてもらうわよ。私の切り札は、まだいっぱいあるんだからね。
「ねえ、恭介。レゥちゃんは、本当に、あなたの従妹なの?」
「…どういう意味だよ」
「言葉通りの意味よ。あなたや、恭平兄さんの真似をすればね」
「…あいつは、オレの従妹だよ」
 恭介が、言葉を絞り出すように吐く。そう、まだ、私に言わないつもりなのね。冗談じゃないわ。
「じゃあ聞くけど、二年前、レゥちゃんをあなたの所に送り出した、っていう、海外に居る親戚、っていう人達は何をしてるの?  連絡が取れない、って言ったまま、もう二年も経つのよ。 そんなに長い間、自分の娘を放っておいて、しかもその娘がこんなに苦しんでる時に、いったいその人達はどこで何をしてるの?」
 恭介は、まだ黙っている。そうやって黙ったままでいれば、私が諦めるとでも思ってるの? 嘗めるんじゃないわよ。
「だいたい、恭介にそんな親戚が居る、だなんて、私、全然知らなかったわ。恭平兄さんにも聞いた事が無い。いったい、何処の、どんな人達なの、それは?  いきなり、自分達の娘を、それも普通の人より弱い娘を、たった一人で外国に送り出して知らんぷりしてるなんて、いったいどんな人達なのよ?」
 恭介の顔が苦しそう。ごめんなさい、恭介。でもね、私は、もう、このままで済ますつもりは無いの。 これからも、恭介やレゥちゃんと生きていきたいから、ここでなあなあで済ますつもりは無いのよ。
「ねえ、恭介。その人達は、本当に居るの? はっきり答えて」
 恭介が、テーブルに落としていた視線を上げた。真っ直ぐに私の眼を見つめる。私も、真っ直ぐにその眼を見つめ返した。
 さあ、どうするの。答えるまで、私は幾らでも待つわよ。でも、答えないまま済ませるつもりも無いからね。私を誰だと思ってるのよ。

 時間が、ゆっくりと過ぎていった。やがて、恭介は、私から視線を外すと、グラスに残った麦茶を全部飲み干した。大きく息を吐く。
「…判ったよ。本当の事を話す。まったく、ひとえには隠し事ができないな」
「…当たり前よ。私を誰だと思ってるの? 伊達に、恭介と今まで一緒に居た訳じゃないのよ」
 そう言って、私も麦茶を飲み干した。口の中が干上がっているようだった。
「そうだったな。おまえは、そういうやつだよな」
 少し笑いながら、恭介は、私のグラスに麦茶を注いでくれた。自分のグラスにも注いで、喉の滑りを良くするかのように一口含む。
「ひとえの言う通りだよ。そんな親戚は居ない。あれは、ひとえ達にレゥが見つかった時に、慌ててオレがでっちあげた嘘だ」
 私は、心の中で溜息をつく。やっぱりそうなんだ。予想はしていても、いざ恭介の口から聞かされると、少しショックだった。
「…よく二年間もバレなかったものね」
「正直言って、オレも驚いてる。何で、誰も疑わなかったんだろう、ってな」
 恭介の表情が明るくなった。私に、本当の事を言う気になって、本当の事を言う事ができて、気が楽になったみたい。良かった。その顔が見たかったのよ、私は。
「どうして、そんな嘘を吐いたのよ」
「あいつの正体を隠す為だよ。もっと上手い嘘があったのかもしれないけど、あの時は、ああ言うのが精一杯だったんだ。何しろ慌ててたしな」
「正体って、何よ。恭介の従妹じゃない、って事?」
「ああ、そうだ。あいつは、オレの従妹なんかじゃない。それだけじゃない。あいつは、人間でさえないんだ」
 はい? 何言ってるの、このお莫迦は。人間じゃない、なんて、何? 宇宙人だとでも言うの? そんな、マンガみたいな話…。
 でも、恭介の顔も、口調も、真面目そのものだった。とても、嘘や誤魔化しを言っているようには思えなかった。

 そして、恭介は言った。限りなく、真剣な表情で。
「あいつは…レゥは、レプリスなんだよ」

 ──レプリス。
 それは、ヒトが造り出した、限りなくヒトに近い、ヒトに在らざるモノ。ヒトに似て非なる存在。魂の無い、ヒトガタの器。

 私は、その言葉を知っていた。最近、ニュースなんかで結構耳にする機会が増えた、新しい言葉だ。それが、どんなものかも大まかには知っている。でも、そんな莫迦な。
「そんな、そんな莫迦な事、ある訳ないじゃない。レゥちゃんが、レプリスだ、なんて。人間じゃない、だなんて、私が信じると思うの?」
「まあ、そう言うだろうとは思ってたけどな。オレだって、ひとえと立場が逆なら、同じような事を言うと思うよ。 でも、本当なんだ、これは。あいつは、レプリスなんだよ」
 恭介は、嘘は言っていない。それぐらい、私には判る。だいたい、嘘を吐くならもっとマシな嘘を吐くだろう。そう思っていても、受け入れられない、こんな話。
「だって、私、テレビで見た事あるわよ。最近、どこかの学会か何かで新しい発表があったとかで、ニュースで言ってたのを。 その時、これが最新のレプリスだ、とか言って紹介されてたけど、でも、あんな…」
 その時、私が画面に見たものは、とても人間とは似ても似つかないモノだった。確かに、二脚二腕で、胴体があって、頭があった。 でも、あれは…そう、どちらかと言えば、グロテスクなモノだった。とても、今すぐ隣の部屋で寝ている、愛らしい少女とは結びつかない。
「一般に公表されているものなんて、十年は古いものか、あるいはごく当たり障りのないものばかりなんだ。現実には、研究の最前線はもっと進んでる」
「どうして隠すのよ」
「まあ、色々と理由はあるみたいだけどな。生命倫理上の観点、宗教団体の圧力、新しい犯罪の未然防止、その他諸々。 要するに、人間がヒトガタの生命体を造り出す、という事には、まだまだ風当たりが強すぎるんだ。だから、表には、適当なモノを発表してお茶を濁してる。 その裏で、色んな企業や公的な研究機関なんかが、開発に鎬を削っている、って訳だ。オヤジの会社も、その一つなんだよ。 そして、レゥは、オヤジの会社が造り出した…いや、はっきり言えば、オヤジとアニキが造り出した、最新のレプリスなんだ」
 タイレル・バイオ・コーポレーション。ゆかりさんが言っていた、欧米八カ国が出資してる、っていう超巨大企業。
 確かに、そういう風に言われると、何だか辻褄が合うような気がするけど、けどさ…。
「何だか、スケールが大き過ぎて信じられない話だわ。仮に、仮によ。あのレゥちゃんが、本当にレプリスだったとしてもよ、どうして恭介なんかの所に居るのよ?」
「恭介なんか、ってのはなんだよ」
「だってそうじゃない。それは、恭介は、そのタイレルの社長の息子かもしれないけど、でも、ただの高校生だった訳でしょ?  どうして、そんな一般人の所に、そんな世間にも秘密にされているような最新のレプリスが居るの? おかしいじゃない、そんなの!」
「モニター・テストなんだってさ、アニキによると」
「モニター・テスト? 何よそれ?」
「つまり、レプリスを実際の人間社会の中で生活させて、その状況をモニターするんだ。 レプリスが人間社会に与える影響と、逆に、人間社会がレプリス自身に与える影響、その全てをな。 そのデータを、また研究と開発とにフィード・バックして、更に完成度の高いレプリスを造る。レゥは、その為の試作品の一つなんだよ」
「そんな…試作品だなんて…レゥちゃんを物みたいに…」
「ごめん、不愉快だったんなら謝るよ。オレだって、あいつを物扱いなんてしたくないし、するつもりもない。 でも、あいつがレプリスである事を信じてもらうには、こういう言い方も必要だと思ったんだ」
「…まあ、いいわ。でも、そのモニター・テストが、どうして恭介の所でする事になったのよ?  タイレルって、アメリカの会社なんでしょ? アメリカでやればいいじゃない」
「…オレのせいなんだよ」
「どういう事?」
「オレが、何か面白い事ないか?ってアニキにメールしたんだよ。そしたら、あいつが送られてきたんだ。オヤジからになってたけどな」
「そんな、いい加減な…」
 確かに、レゥちゃんが来る前までの恭介は、何かにつけ、「何か面白い事無い?」って言っていた。自分で、その面白い事を、探そうとも作ろうともしてなかった。 恭介のその口癖を聞く度に、私や亮は、彼にお説教をしていたものだ。
 でも、いくら面白いからって、そんなものをいきなり送ってくる、だなんて、無茶苦茶よ。非常識ってもんだわよ、それは。
「オレもそう思うよ。でも、オレの所は、モニター・テストをするには条件が良かったのも確かなんだよ。
 さっきも言った通り、阿見寮は一つの閉鎖された社会なんだ。色んな条件が限定されているから、テストがし易い。 要するに、いきなり、世間の荒波に放り込むより、都合が良かったんだとさ。
 それと、やっぱり、オレが渡良瀬の人間だからだよ。 大っぴらにはされてないけど、レプリスを開発している企業の関係者の所で、この手のモニター・テストをするのは常套手段なんだそうだ」
「でも、それならどうして、初めからレゥちゃんをレプリスとして紹介しなかったの? 人間として生活したら、テストにならないじゃない」
「…それもオレのせいだな」
「また?」
「そんな、呆れたような顔で言うなよ。ちゃんと説明するから」
 恭介は、またグラスに口を付けた。唇を湿らせるようにして、話を再開する。
「オレがアニキにメールを送って、三週間ぐらいしたら、いきなりあいつが送られてきた。二年前の、ゴールデンウィークの初めの頃だ。 事前に連絡も何も無かったから、オレは、それがモニター・テスト用のレプリスだ、なんて知らなかったんだ。 後でアニキに聞いた話だと、一応、メールで事前に連絡はしてたらしい。けど、文字化けを起こしてたんで、オレは、気付かなかったんだ。
 だから、オレは、あいつがレプリスだ、という事は秘密にしなきゃいけない、と思い込んだ。 レプリスを所有する事は、国際条約で禁止されてるからな。 それでなくても、寮で、あいつみたいな、まあ一見普通の、年頃の女の子と一緒に居る、なんてできる訳ないから、何とかあいつを部屋に匿って、アニキに連絡を取ろうとした。 でも、色々な行き違いが重なって、それもできなかった。そうこうしているうちに、ひとえ達にあいつが見つかってしまったんだ。 だから、咄嗟にオレの従妹だ、という事にしたんだよ。今思えば、色んな偶然が重なって、こういう事になってるんだけどな」
 …私は、言葉も出なかった。確かに、信じ難い話ではある。と言うか、私は、今でも信じられない。 あの、可愛くて元気な女の子を、ヒトが、恭介のお父さんや、恭平兄さんが造り出した、なんて。
 そうだ、恭平兄さん!
「ねえ、それじゃ、もしかして、あのリースっていう人もレプリスなの? レゥちゃんの妹、って言ってた、あの?」
「そうだ。よく覚えてたな…って、忘れる訳ないよな。ひとえは、あの時、リースがアニキの婚約者か何かだと思ってたしな」
「う、うるさい! そんな昔の事はどうでもいいのよ!」
「まあ、そう照れるな。ひとえの言う通り、リースは、レゥの次に造られたレプリスなんだ。その意味で、リースがレゥの妹、っていうのは正しい」
「でも、全然違うじゃない、あの二人。それは、見た目はそっくりだったけど…」
「リースはな、あれが本来のレプリスの姿なんだよ。有能で従順な、秘書かメイドさん。まあ、そういう感じだよな」
「本来の、って…じゃあ、レゥちゃんはどうなの?」
「あいつは、バグ、なんだよ」
 恭介は、その言葉を言った時、妙な表情をしていた。喜んでいるような、哀しんでいるような。
「バグ」という言葉そのものの意味は、私も知っている。 虫、という本来の意味もそうだけど、それが転じた、コンピュータのプログラムに潜む不具合を指す、という意味も。
 でも、レゥちゃんが、その「バグ」である、という事の意味は、さっぱりだった。
「…意味が判らないわよ」
 ここで、いきなり「虫」とか「不具合」とか言い出したら殴ってやろうかしら、と思ってたけど、恭介は、私が聞きたい事をきちんと理解していた。
 もう一度、グラスに口を付けて、話を始める。
「あいつは、バグを持って生まれてしまったんだよ。
 オレがあいつを起動した時、落雷があったんだ。あとちょっとで起動が完了する、っていう時にな。 何時間も掛かった処理の、最後のほんの数秒を残してただけだったんだ。
 落雷で一瞬電気が消えたけど、起動そのものは完了していた。でも、その瞬断のせいで、起動処理に何かが起きた。
 で、生まれてきたあいつは、リースに──本来のレプリスには似ても似つかない、泣き虫で、赤ん坊のような女の子になってしまったんだよ」
「…信じられないわ、やっぱり。そんな、ほんの一瞬の事で、あんなに違ってしまうなんて」
「でも、これを──あいつが、レプリスである、という事を信じて貰わないと、この先の話ができないんだよ」
「そんな事言っても、信じられないものは信じられないのよ」
「…頑固なやつだな」
「…悪かったわね」
 恭介は、大きく溜息をついた。
 私は、恭介が嘘を吐いていない事を判っていた。恭介の話に、矛盾や、嘘や、誤魔化しが無い事も判っていた。理性は、恭介の話が本当の事である事を理解していた。
 でも、私の本能は、二年間あの子と友達として過ごしてきた私の心が、それを受け入れなかった。理解はしていても、どうしても納得できなかったのだ。
「仕方無いな…おい、レゥ、出てこいよ。どうせ聞いてるんだろ?」
 恭介が、レゥちゃんの部屋の方に向けて声を掛けた。扉の向こうで何かが動く気配がした。
 やがて、扉が静かに開いて、レゥちゃんが出てきた。悪戯を見つけられた子供のような表情をして。
「ごめんなさい、でも、どうしてもねむれなくて、おはなしのことがきになっちゃって、それで…」
「いいから、おまえも座れよ。全然怒ってないから」
「ほんとうに?」
「ああ、本当だ。だから、そこに座れ」
 レゥちゃんは、ゆっくりと三つ目の椅子に腰を下ろした。私は、流しに残っていた、三つ目のグラスを取って、レゥちゃんの前に置き、麦茶を注いであげた。
「ありがとう、ひとえちゃん」
「どういたしまして。喉、乾いてるんでしょ? 飲みなさいよ」
「うん…」
 レゥちゃんは、グラスを両手で包み込むように握ると、麦茶を少しずつ飲み干した。 私は、その姿を見て、尚更、この目の前の女の子がレプリスだ、なんて信じられなくなった。
 恭介は、リースが、本来のレプリスの姿だ、と言った。従順で有能な、と。
 じゃあ、この子は何なの? 恭介の言いつけも守らない、この子は?  恭介に、寝ていろ、と言われても、私達の話が気になって聞き耳を立ててしまうような、可愛くて、愛しくてしょうがないこの子は、何?
「本来のレプリスの姿」からは、遠くかけ離れたこの女の子が、人間でなくて何だと言うのよ?

 恭介は、レゥちゃんが麦茶を飲み終えるのを待って、言った。
「レゥ。ひとえに、おまえの『眼』を、見せてやってくれないか?」
 優しい、あくまでも優しい、恭介の声。命令でもなく、言いつけるのでもなく、ただ、お願いする口調。
 でも、その言葉を聞いて、レゥちゃんは、激しく体を震わせた。怯えた眼で恭介を見る。
「おにいちゃん…」
「大丈夫だ。大丈夫だから、見せてやってくれ。頼む」
「でも、でも、もし、みさおちゃんみたいになったら…」
 レゥちゃんは、はっきりと怯えていた。何かをとても恐れていた。その彼女が言った名前──みさおちゃん。
 結城みさお。たえさんの知り合いの女の子。たえさんの紹介で阿見寮に来て、レゥちゃんと仲良しになって、そして、レゥちゃんを拒絶して去ってしまった女の子。
「大丈夫だ。信じろ。ひとえは、絶対に大丈夫だから、な」
 恭介は、尚も懇願した。レゥちゃんが、こんなに怯えているのに…。
「でも…」
「ひとえは、ずっとオレと一緒に生きてきたんだ。このオレとな。そのひとえが、おまえを否定したりしない。絶対に。ひとえを信じてくれ」
 恭介が、レゥちゃんを見つめている。レゥちゃんの顔から、少しずつ怯えの表情が消えていった。代わりに、何かを決意した表情が浮かぶ。
「…わかった。ひとえちゃん」
 レゥちゃんが、私に向き直る。
「何?」
「よくみててね」
 そう言うと、レゥちゃんは顔を伏せた。顔に手を当てて、何かしている。やがて、顔を上げた。
 私は、息を呑んだ。
 二つの、血のように赤い瞳が、私を見ていた。

 私は、その、深い赤に染まった瞳を、凝視していた。目が離せなかった。息が苦しくなってきて、私は、喘いだ。
 全てを──私の心の中まで、全てを見通すような、あるいは、全てを吸い込むような、その神秘的な瞳に、私は、どうしようもなく魅了されていたのだ。
「レゥ、もういい」
 恭介が、声を掛けた。レゥちゃんは、また顔を伏せて、手を動かした。もう一度顔を上げた時には、瞳は、もう元通りだった。
 私は、大きく息を吐いた。口の中がからからに乾いていた。自分のグラスに残っていた麦茶を、一息に飲み干す。ようやく声が出た。
「…どういう事…?」
「レゥは、と言うか、レプリスは、アルビノなんだよ。どうして、そうなっているのかは知らない。何か意味があるんだろうけど、アニキもオヤジも教えてくれなかった。
 ただ、今のレプリスは、少なくとも、オヤジの会社で造られているレプリスは、例外なく、アルビノの特性を持って生まれてくるんだ」
 レゥちゃんは、アルビノだった。レゥちゃんは、カラーコンタクトを使って、その赤い瞳を隠していた。
 ゆかりさんの言った通りだった。あの人の推理は、正しかったんだ。でも、ゆかりさんは、単に人間のアルビノの事を言っていただけだ。
「で、でも、レゥちゃんがアルビノなのは判ったけど、だからって、レプリスだ、なんて証拠にはならないわよ!  人間の子供にだって、アルビノは生まれるんでしょ? ゆかりさんが、そう言ってたもの!」
「…ゆかりさんが?」
「そうよ! あの、レゥちゃんの部屋に飾ってある絵を見て、言ってたの。この子は、レゥちゃんは、アルビノかもしれない、って」
「…まったく、あの人は何者なんだ?」
「ゆかりさんの事は、今はいいのよ! とにかく、私には、まだ信じられないんだからね!」
「…ここまで頑固なやつだとは思わなかった」
「うるさい、莫迦! どうせ、私は頑固者よ!」
「…しょうがないな。レゥ、悪いけど、『みどりの』を食べる時に使う、あの針を持ってきてくれないか? 一本でいい」
 レゥちゃんは、今度はすぐ恭介の言葉に従った。自分の部屋に入っていく。クローゼットを開け閉めする音がして、すぐに戻ってきた。
 レゥちゃんの手には、一本の針が握られていた。注射針のような、真っ直ぐで、少し太い針。あのクローゼットには、こんなものが入っていたのか。
 レゥちゃんは、針を自分の指先に翳した。恭介の方を見る。恭介も、その視線に答えて、一つ肯いた。あなた達、いったい何を?
「ひとえちゃん、よくみてて。レゥのゆびさきを、よくみててね」
「何…?」
 私が戸惑っていると、レゥちゃんは、いきなり自分の指に、その針を突き立てた。苦痛に、彼女の顔が一瞬歪む。レゥちゃんは、すぐに針を抜いた。 血が、一筋流れた。瞳と同じ色の、深い赤の血。
「レゥちゃん!」
 私は、いきなりの事に呆然としていたが、その血を見て我に返った。
「何してるの、この子は!」
 血が流れた指を取る。急いでハンカチを当てようとして…私は、自分の眼を疑った。
 針が突き刺さった痕に、赤い血の玉が出来ていた。だが、次の瞬間には、その中央から白い泡が湧き立ってきた。肌理の細かい、真っ白な泡。
 その泡は、血の玉を押し退けるように大きくなり、すぐに止まった。 その様子を凝視したまま動く事ができない私を置いて、レゥちゃんは、自分でその泡のついた指先を拭った。跡には、何も無かった。 刺し傷も何も無い、白くて綺麗な、元通りの指先だけが残った。

 私は──その、あり得ない光景を見てしまった私は、取り返しのつかない事をしてしまった。 言い様の無い恐怖にかられた私は、掴んでいたレゥちゃんの手を、強く振り払ってしまったのだ。

 我に返った時には、もう遅かった。私に振り払われた手と、私の顔とを交互に見ていたレゥちゃんの顔に、絶望の翳りが落ちた。
 そして、そのまま、レゥちゃんはその場にくず折れた。糸が切れた操り人形のように。
「レゥ!」
「レゥちゃん!」
 駆け寄った私と恭介が、いくら呼んでも、レゥちゃんは目を覚まさなかった。



─ Scene 09 : 二人の決心 ─

 恭介は、床に倒れたレゥちゃんを抱き上げると、すぐに彼女の部屋に運んだ。ベッドに仰向けに横たえ、脈を取るように、レゥちゃんの喉元に手を当てる。 しばらくそうしていたが、やがて立ち上がると、部屋のクローゼットを開けて、一つの小さなトランクを取り出した。 さっき二人が帰って来た時に、恭介がそれを持っていたのを見た。私が中身を聞いても、その時は教えてくれなかった物だ。
 私は、恭介がレゥちゃんのベッドの足元の方で、そのトランクを開けて何かをしている間、ベッドの枕元に跪いて、じっとレゥちゃんの顔を見ていた。 ほつれた毛が額に落ち掛かっていたのを、指で梳いて整えてやる。
 レゥちゃんの寝顔は、穏やかだった。苦痛に歪んでいるわけでも、悪夢に苦しんでいるようでもない。ただ、静かに眠っているようにしか見えなかった。 そして、その穏やかな表情が、私を、パニックに陥る事から救ってくれたのだ。
 やがて、恭介が、手に何かを持ってレゥちゃんの横に跪いた。レゥちゃんの剥き出しの腕に、手に持った、その注射器のようなものの先を押し当てる。
「それ、何?」
「『みどりの』だよ。レゥはそう呼んでる。本当は、高蛋白剤、って言うんだ。ただ、これは、いつも使っている奴じゃなくて、こういう時専用の、だけどな」
「中身は何?」
「ナノマシンだよ。大部分はね。あと、精神安定剤みたいなものもいくらか混じってるかな。これを使うと、よく眠れるそうだよ。
 今日、病院を出る時に貰ってきたんだ。もし、こういう事が起きたらまずこれを使え、って言われてな。まさか、こんなに早く使うとは思わなかった」
「…ごめんなさい」
「ひとえを責めてるわけじゃないんだ。ただ、もう少し、オレが上手く話を運んでいれば良かったんだよ。ひとえにも、怖い思いさせてしまった。ごめんな」
「私より、レゥちゃんは大丈夫なの?」
「ああ、問題無いと思う。これを使うと、明日の…と言うか、もう今日だけどな、とにかく朝までは目を覚まさない。眠らせておくのが一番良いんだ。 どちらにしても、明日もう一度病院に行く事になってたから」
「そう…」
 私は、とりあえずほっとして、もう一度レゥちゃんの寝顔を見つめた。そして、ふと思う。レゥちゃんも、夢を見るんだろうか?
 恭介が、処置を終えたらしい。レゥちゃんの腕に押し当てていた器具を離すと、立ち上がった。器具をトランクに戻して、クローゼットに仕舞う。
「よし、これでいい。あとは、このまま寝かせておけばいいから」
「うん…」
 私は、恭介に促されるまま、部屋を出た。

 恭介が、また椅子に座り込んだ。ペットボトルはもう空になっていたので、私は、冷蔵庫から新しいのを取り出して、恭介のと私のと、二つのグラスに麦茶を注いだ。
 私も椅子に座る。麦茶を一口飲む。話を続けなきゃ。まだ「全部」は終わっていない。
「さっきのは何なの?」
「あれが、レプリスの特性なんだよ。レプリスの体内には、無数のナノマシンが活動していて、体に傷を負うと、それをあっと言う間に直してしまうんだ」
 ナノマシン。目に見えないぐらい小さい、極小の機械の総称。 機械音痴の私でも知っているぐらい一般的に知れ渡っている言葉だけど、その実物が動いているのを実際に見たのは、初めてだった。
「さっきの『みどりの』に含まれているのも、そういうものなの?」
「まあね。一口にナノマシンと言っても、実際には、色々な用途のものがごっちゃになってるんだ。 人間の血液だって、赤血球とか白血球とか、色々混ざってるだろ? だいたい、そんなようなものらしい」
「ふーん。ねえ、さっき、『いつも使ってる奴じゃない』とか言ってたわよね。レゥちゃんは、いつもあんなのを使ってるの?」
「ああ。一日一回、点滴みたいにして打ってる。あいつは、『みどりのをたべる』って言ってるけどな。さっきの針は、本当はその時に使うものなんだ」
「…怖かったわ、さっき。いきなり、自分の指に針を刺すんだもの」
「ごめん、別に怖がらせるつもりは無かったんだ。ただ、あれぐらいやらないと、もうひとえに信じて貰えない、と思ったんだよ。 あいつも、それが判ってたから、やったんだ。許してくれるか?」
「じゃあ、あれは、レゥちゃんが自分でやった事なのね? 恭介がやらせたからやったんじゃないのね?」
「ああ。あいつは、オレがいくら言っても、本当にしたくない事はしない。さっきは、あいつ自身が必要だと思ったからやったんだ。それは信じてくれ」
 私は、さっきのレゥちゃんの姿を思い浮かべていた。確かに、針を取ってくるように言ったのは恭介だった。でも、恭介は、それをどうしろ、とは言わなかった。 二人は、ただ、眼を合わせていただけだ。レゥちゃんは、恭介が自分に何をさせたいのかを知って、そして、それが必要だと思ったからやった。 少なくとも、私にはそういう風にしか見えなかった。
 私は、大きく溜息をついた。
「…いいわ。信じる。でも、せめて、事前に一言断って欲しかったわね」
「先に何をするか言ったら、ひとえは止めただろう? それじゃ意味が無い。レゥがレプリスだ、って信じなかった、ひとえが石頭なのが悪いんだよ」
「どうせ、私は石頭よ」
 拗ねたように言って、私は、グラスを呷った。恭介も同じように一気に飲み干す。それから、二人で顔を見合わせて、くすくすと笑った。

「…でも、まだ信じられないわね」
「あのな…これ以上、どうしろって言うんだよ」
「違うわよ。レゥちゃんがレプリスだ、っていう事は信じるわよ。あんなもの見せられちゃね。
 私が言ってるのは、恭平兄さんや、恭介のお父さんが、あのレゥちゃんを造った、っていう事の方よ。どうして、あんなものが必要なの?」
「パートナーとして、かな。レプリス、っていうのは、元々は、ナノマシンを中核にした、医療技術の総称なんだよ。だから、その用途は無茶苦茶広範囲なんだ。
 でも、普通に『レプリス』っていうと、レゥみたいな人間そっくりの、自律して動くものを指すんだ。人間の生活を支えるためにな」
「パートナーね…」
「人間を支える側のレプリスが、支えられる方の人間より弱かったら困るだろ? だから、傷を受けてもナノマシンが働いて、すぐに治るようになってるんだ」
「それ、さっき言ってたわよね、ナノマシンを…『みどりの』を一日一回点滴してる、って。そんなの、全然気付かなかった」
「それは、気付かれないようにやってたからな。初めは、オレの部屋でやってたんだよ。あいつ、一日一回はオレの部屋に来てただろ?」
「そんな事してたんだ。ただ、遊びに行ってるものとばかり思ってた」
「まあ、どちらかと言うとそうなんだけどな。『みどりのをたべてる』間は動けないんだ。だから、誰かに見つからない所でやる必要があった」
「よく、たえさんにもバレなかったものね」
「ああ。あいつ、その辺はかなり慎重にやってたからな。あいつ、自分がレプリスだ、って誰かに…オレ以外の誰かにバレるのを、極端に怖がってたんだ」
「…みさおちゃんの事ね」
「そう。察しが良くて助かるよ。これで頑固でなければ言う事無いんだけどな」
「…ふん。じゃあ、さっき言ってたのは、嘘なのね? 詳しい成り行きは判らない、っていうのは」
「そう、嘘だ。でも、あの時点では、そう言うしかなかった。できれば、レゥがレプリスだ、っていう事は隠しておきたかったからな」
「…嘘吐き」
「ごめん。謝る。でも、気持ちは判ってくれるだろ?」
 確かに、気持ちは判った。さっきのレゥちゃんの反応を、そして、その前に、私に「眼」を見せてくれた時の真剣なレゥちゃんの表情を見れば、 レゥちゃんが、それを恐れるのはよく判る。でも、恭介が私に隠していた事は、やっぱり気に食わない。
 私は、また麦茶を一口飲む。こういう時、お酒が飲めれば良いのかしら。今度、ゆかりさんに聞いてみよう。
 とりあえず、恭介は謝った。それで勘弁してやろう。
「判ったわよ。もういいわ。で、一体何があったの?」
「具体的に何があったのか、までは聞いていないんだ。とにかく、何かの弾みで、あいつのコンタクトが外れたらしい。そして、みさおちゃんは、あいつの『眼』を見た。 そして、あいつの手を振り払って、逃げて行ってしまった…そうだ」
 手を振り払った──だから、さっき、レゥちゃんはあんなにショックを受けてたんだ。その時の事を思い出して。
「オレは、泣いて帰って来たあいつを何とか宥めて、一人でみさおちゃんの家に行った。でも、みさおちゃんは、まったく取り合ってくれなかった。 オレは、とにかく、レゥがレプリスである事だけは誰にも話さない、と約束してもらって、それだけで帰ってくるしか無かったんだ。
 それから、みさおちゃんは、一度も阿見寮に来なかった」
「みさおちゃんは、『眼』を見ただけで、レゥちゃんがレプリスだ、って気付いた、っていう事?」
「そうだ。ひとえとは大違いだな」
「茶々を入れない!」
「悪い。でも、みさおちゃんは、確かに気付いていた。レゥが、レプリスである、という事だけであいつを拒絶したんだ。 それまで仲良く遊んでいた事も、何もかもが消えてしまったみたいにな。みさおちゃんは、明らかにレプリスそのものを嫌悪していた。 オレが、いくらあいつは普通のレプリスとは違うんだ、あいつがみさおちゃんの友達になったのは、オレがそうさせたからじゃない、あいつ自身の意思なんだ、 って言っても、信じてくれなかった。みさおちゃんは、あいつも、あいつの保護者のオレも、完全に拒絶してしまったんだ」
「どうしてそうなるの? そもそも、レプリスそのものが滅多に見る事ができないものなんでしょ? 知らないものを嫌いになるなんて、変じゃない?」
「そう。つまり、みさおちゃんは、レプリスを知ってたんだよ。レゥに会う、そのずっと前からな」
「…どういう事…?」
「今、世界で研究が進んでいるレプリスには、大きく分けて二つの流れがあるんだ。
 一つは、オヤジ達が…タイレル・バイオ・コーポレーションを中心にした欧米の企業がやっている『TYPE-A』というやつ。レゥも、リースも、これに当たる。
 もう一つが、純日本資本の、結城コーポレーションという会社を中心にした、日本やアジア、インドなんかがやっている『TYPE-C』。  この二つのグループは、無茶苦茶競争意識が激しいらしいけど、今のところは、『TYPE-A』が圧倒的にリードしている…らしい。アニキが言うにはな」
「結城、って、じゃあ、みさおちゃんは…」
「本当に察しが良いな。結城コーポレーションの今の最高責任者は、結城道夫といって、つまり、みさおちゃんの父親なんだよ。 だから、みさおちゃんは、レプリスの事をよく知ってたんだ。多分、オレなんかよりずっと詳しく、な」
「…そんなの、あり? その、二つのグループの、それぞれの社長の息子と娘とが、そんなに近くに居て、しかも娘の方はたえさんの知り合いで、その上、 息子の方にはレプリスの女の子が居て、その女の子が相手のグループの社長の娘と友達、だなんて…いくら世間が狭いって言っても、出来過ぎてるわよ」
「オレもそう思う。みさおちゃんが、結城コーポレーションの社長の娘だ、って後で知った時、アニキを問い詰めた事があるよ。 阿見寮の近くに、結城の娘が住んでいる事を知って、それで、オレの所にレゥを送り込んだんじゃないのか、ってな。 自分の所の最新のレプリスを、ライバル会社の社長に見せつける為にやったんじゃないのか、って。
 でも、アニキは否定してた。それは、偶然だ、って。お前が津久見高校を受験する事も、阿見寮に入る事も、全部お前が決めた事だろう、って。 確かに、結果的にはそう見えるかもしれないけど、少なくとも、アニキにはそんな意図は無かった、って。 まあ、オヤジがアニキに知らせずにやったかもしれないけど、少なくとも、アニキは知らない、って」
「恭介は、それを信じるの?」
「まあな。確かに言われてみればその通りだし、アニキは、昔からオレにだけは絶対に嘘は吐かないからな。 言いたくない事は全然言ってくれないけど、少なくとも、言った事に嘘があった例は無かった。ひとえも、それは知ってるだろ?」
「まあ…ね。でも、みさおちゃんは、どうしてそんなにレプリスを嫌ってるのかな…?」
「…オレ、何となく判るよ」
「恭介…?」
 恭介は、グラスを口に運ぶと、しばらくそのままにしていた。話そうかどうしようか、迷っているみたいに。でも、結局、また麦茶を一口飲んで、話を続けた。
「オレが、初めてたえさんからみさおちゃんを紹介された時、あ、何か似てるな、って思ったんだ。どこがどうとかは判らないけど、とにかく、似てる、って。
 それが判ったのは、みさおちゃんが結城の娘だ、っていう事を知った時なんだ。
 オレのオヤジも、みさおちゃんの父親も、レプリスに夢中だったんだよ。『TYPE-C』の開発責任者は、みさおちゃんの父親だったらしいからな。
 オレも、そしてみさおちゃんも、言わばレプリスに父親を奪われていたんだよ。生まれてからずっと、な。だから、似てる、って思ったんだ」
「恭介…」
「ただ、それだけで、あれ程レプリスを嫌うようになるのかな、っていう気はするから、他にも何かあったのかもしれない。それは判らないけどな。
 それで、思うんだよ。同じ父親が居ないのでも、オレとみさおちゃんは違う、って。
 オレには、アニキが居たし、ひとえも居た。生まれた時から、傍に居て、一緒に遊んでくれる友達が居たんだよ。
 でも、みさおちゃんには、そういう友達は居なかったんじゃないのかな、ってさ。居たら、そもそも阿見寮に来る事なんか無かったんじゃないか、って。
 そして、やっと出来た友達が、自分から父親を奪ったレプリスだった、って知った時のみさおちゃんの気持ちを考えるとさ、もう何にも言えなくなったんだよ」
「…それで、その後みさおちゃんは?」
「…判らない。あれから一度も阿見寮には来ていないし、たえさんにも特に何も言っていないからな」
「たえさんは? みさおちゃんが、阿見寮に来なくなった事には、何も言っていないの?」
「少なくとも、オレは何も聞いてない。たえさんが、どこまで事情を知っているのかも判らない。とにかく、みさおちゃんに関しては、それ以来話題に上った事も無いんだ」
 私には、それはとても不自然な事に思えた。自分が紹介して、仲良くしていたレゥちゃんとみさおちゃんとが仲違いした事に、あのたえさんが気付かない筈は無い。 気付いていて、その上で黙っているとしか思えなかった。
「…まあ、みさおちゃんについては、もういいだろ? 今は、レゥの事を考えないといけない」
「…そうね」
「とにかく、これで、オレがどうしてあいつを手元に置きたがるのか、判ってくれたか?」
 それは、判った。さっきのレゥちゃんの反応を見れば、それも仕方無い気がした。でも…。
「それは判ったけど、でも、じゃあどうするの? それじゃ、ストレスの原因を取り除く、何て無理じゃない?  自分が、レプリスだ、っていう事がバレるのを恐れて暮らしてたら、ストレスなんて溜まる一方じゃないの」
「そう、だから、今回は別の方法を取る」
「はあ? そんなのがあるなら、何でそっちを先に言わないの!」
「だから言ったろ? オレが上手く話を運んでいれば良かった、って」
「開き直るんじゃないわよ! そのせいで、レゥちゃんも、私も、怖い思いをしたんだから!」
「ごめん。謝るって。話の流れでそうなったんだから、しょうがないじゃないか」
 私は、何か体の力が抜けていくような、そんな脱力感を味わっていた。今まで長々と話をしていたのは、いったい何だったのよ?
「まあ、いいわ。結果的には、私は、レゥちゃんの事もよく知る事が出来た訳だしね」
「そう言ってくれると助かるよ」
「でも、大丈夫なの? さっき、あんなにショックを受けてたのに」
「正直言って判らない。体の方は何とかなると思うけど、心の方はな。こればっかりは、あいつが目を覚ましてみない事には何とも言えないんだ。
 ただ、オレは、割と大丈夫なんじゃないか、と思ってる」
「どうして?」
「二回目だからな。どんな事だって、二回目は、一回目よりも心構えが出来ている分、耐える事も乗り越える事も易しい。そういうもんだろ?」
「まあね…」
「それに、今度は、ひとえだからな」
「どういう意味?」
「ひとえは、みさおちゃんのように、あいつを拒絶してどこかに行ってしまったりはしないだろう?」
「当たり前でしょ」
「だから、だよ。あいつの方からひとえを拒絶する事は無いんだから、ひとえさえあいつを好きでいてくれれば、絶対に何とかなる。オレは、そう思ってる」
「判った。それで? その、別の方法、って?」
 恭介は、またグラスを呷った。話は、まだ先が長そうだ。
「あいつ自身を変えるんだよ。さっき言ったみたいに、笑っちゃうような話でいちいち倒れられたらかなわないからな。 そうならないように、あいつの心と体を強くするんだ。まあ、精神治療と体質改善との両方をやる、みたいなものかな」
「できるの? そんな事が」
「判らない。アニキも、できるかどうかは判らない、って言ってる。けど、判らないからってこのまま放っておく訳にはいかないからな。 とにかく、やってみる。やるなら早い方が良いから、明日、午後の便でアメリカにあいつを連れて行くんだよ」
「…やっと、話が本筋に戻ったわね」
「言うなよ。どうせ、オレは、要領が悪いよ」
「拗ねるんじゃないわよ。それで? どういう予定になっているの?」
「明日、午前中に病院に行って、あいつの体調を完全に整える。十時間以上、飛行機に乗るんだからな。万全を期さないと」
「そんな、普通に飛行機に乗っていって大丈夫なの?」
「アニキは、大丈夫だ、って言ってる。少なくとも、リースは大丈夫だったからな」
 そう言えばそうだった。リースは、普通の人間として飛行機に乗って、アメリカと日本とを往復してたんだ。でも、あの行儀の良かったリースならともかく…。
「…でも、ちょっと心配ね…」
「そうなんだ。レプリスとしてはともかく、あいつ、飛行機に乗るのは初めてだからな。こっちに来る時は、カプセルに入れられて貨物扱いで来てたし。 正直言って、飛行機の中であいつが大人しくしてくれるかどうかの方が不安なんだ。何をしでかすか、判ったもんじゃないからな。できれば、ずっと寝てて欲しいよ」
 心底困っているような恭介の口調に、私はくすくすと笑う。
「まあ、何かレゥちゃんが夢中になるようなものを考えるのね」
「人ごとみたいに言わないで、ひとえも何か考えてくれよ」
「まあ、考えとくわ。それで? その、明日の朝に病院に行く、っていうのに、私はついていく事はできるの?」
「それは、できない。この際だから言ってしまうけど、そこは病院じゃなくて、タイレルの日本支社みたいなものなんだ。 支社と言っても、研究施設はあるし、アメリカの本社とは別に、独自にレプリスの研究や開発もしているぐらいの規模がある。 実際、アメリカの本社とは、同じ会社内でも競争関係にあるらしいんだ。事業部が違うから、らしいけどな。
 で、そういう訳だから、部外者のひとえがそこに行く事はできないんだ」
「そう、私は部外者、って訳ね」
「怒るなよ。しょうがないじゃないか。タイレルの人間にとっては、社員でも、渡良瀬の家の人間でもない人間は、皆部外者なんだよ」
「例外は認められないの?」
「無理だ。レプリスの技術、っていうのは、軍事機密並に秘密が守られてる。社員の家族でも、中に入る事はできないんだ」
「ふーん…」
 そんなに固く守られている筈のレプリスを、ただの高校の学生寮、しかもライバル会社のある国にある寮に送り込む、っていうんだから、 恭介のお父さんも、恭平兄さんも、思っていたよりまともじゃないかもね。 渡良瀬の家の人って、変人ばかりなんじゃないかしら。恭介とのお付き合いも、考え直した方がいいのかも。
「別に構わないだろ? タイレルの連中にどう思われていたって」
「それは構わないけど、レゥちゃんに付き添ってあげられないのは残念じゃないの」
「まあ、そこは堪えてくれよ」
「場所も教えてもらえないの?」
「いや。地図を見れば載ってるからな。ここまで話してしまったら、もう隠しても意味が無い」
 恭介が教えてくれた場所を聞いて、私は唖然としてしまった。ここから歩いて十分も掛からない場所にあるじゃないの!?
「そんなに近くに居たの!?」
「ああ。そうでもないと、あの朝、あんなに素早くレゥを運び込む事なんてできないし」
「それは、そうだけど…」
 何か、この二日間の私の努力というか、徹夜までしていたのが、全部無駄だったような気がして、力が抜ける。あ、でも…。
「ねえ、恭介。これって偶然なの?」
「何が?」
 あ、恭介の目が泳いだ。あなた、私が気付くかどうか、って試したわね。このひとえ様を試したのね。いいわよ。受けてやろうじゃないの。
「恭介のマンションの近くに、レゥちゃんを治療できるようなタイレルの施設がある、なんて出来過ぎよ。これは、偶然なのか、って訊いてるのよ」
「…偶然じゃない」
 あ、あっさり降参するのか、この男は。
「実は、オレ、アニキから言われてたんだよ。高校を卒業したら、レゥを連れてアメリカに来い、って」
「私、そんな話、聞いてないわよ」
「話してないからな」
「…怒るわよ」
「怒るなよ。とにかく、アニキには予想がついてたんだよ。遅かれ早かれ、今回のような事が起きるのがな。 だから、そうなる前に、アメリカに来い、そして仕事を手伝え、って。そうすれば、レゥとも一緒に居られるから問題無いだろう、ってな」
「その通りじゃない。どうして、そうしなかったの?」
「…本気で言ってるのか?」
「さあ、どうかしらね」
「…ひとえ、おまえ、楽しんでるだろう」
「ええ。楽しい話になって良かったじゃないの」
「判ったよ。オレの負け。降参。そうだよ。ひとえが居るからだよ。ひとえと一緒に居たかったからだよ。これでいいのか?」
「まあ、少し誠意に欠けてるような気がするけど、それで許してあげるわ」
「…覚えてろよ」
「愛してるわよ、恭介くん」
「全然誠意が無いぞ、それ」
「いいから、それで、話の続きは?」
「…まあいいか。それで、オレは何とかアメリカに行かなくても済む方法を考えたんだよ。
 ひとえの事が第一だったけど、そもそも、オレは、アニキの仕事を手伝う気なんか無かったからな」
「どうして?」
「オレは、レゥの為になる事なら何でもするけど、レプリスの研究者や開発者にだけはなりたくなかったんだよ」
「それは、判る気はするけどね…」
 恭介は、レゥちゃんを「物」として見たくない、って言った。でも、レプリスを造る側の仕事に就いてしまったら、多分、そうは言っていられなくなる。 恭介は、それが嫌だったんだ。
 それに、もしかしたら、自分を置いてレプリスに夢中になってしまった、お父さんに対する反発も…。
「さんきゅ。ひとえなら判ってくれると思ったよ」
「誉めても何も出ないわよ」
「まあ、それはともかくだ。だからと言って、ただアメリカに行きたくない、と言っても駄目だ。それだけじゃ、レゥの問題が片付かない。 自分を卑下して言う訳じゃないけど、所詮、オレは一介の高校生に過ぎなかった訳だしな。
 で、どうしようか悩んでいた所に、ひとえの出番が来たんだよ」
「私の? どんな?」
「ひとえが、志望大学を決めた、っていう話を聞いて、その大学、ってつまりはオレ達が今通っている大学なんだけど、その大学の場所を調べたら、 近くに、タイレルのその日本支社があるのを見つけたんだよ」
「そこまでは、偶然だった、って事?」
「そういう事だ。それで、オレは、これだ、って思ったんだよ。オレもその大学に入って、住まいもその近くにする。 そうすれば、ひとえと一緒に居られるし、もしレゥに何かあった時も、その日本支社で素早く対応できる。まさに、一石二鳥だ、って」
「…呆れた。私がこの大学に落ちたら、とか、他に受験した大学の方に受かって、そっちに行っちゃうかも、とか、考えなかったの?」
「考えたよ。でも、他に良い考えも浮かばなかったから、これに賭けるしか無かったんだ」
「…賭けに勝って良かったわね。恭介が、こんなギャンブラーだったとは、知らなかったわ」
「こうなったのも、あの三本勝負のお陰かもな。何しろ、賭かってたものがものだけに、どんなに分が悪くても勝負に出るしか無かったんだよ」
 恭介は、はっきりとは言わなかったけど、「賭かってたもの」というのは、要するに、私と、レゥちゃんとの三人の生活だった事は明らかだった。
 それはそれで、嬉しい事なんだけど、でも、何か引っ掛かる。素直に喜べないなぁ。
「で、オレは、その線でアニキを説得したんだ。何とか、このままこっちで暮らさせてくれないか、ってな」
「よく、恭平兄さんがそんなアイデアを認めたわね」
「もちろん、すんなりとはいかなかったよ。さっきも言ったけど、タイレルの本社と、その日本支社とは、競争関係にあるんだ。 その日本支社で、本社が造った最新のレプリスの治療や検査を受けさせる、っていうのは、言わば敵に塩を送るようなものだからな。 アニキにとってみれば、レゥの髪の毛一本、爪の一かけらさえ、日本支社には渡したく無かったんだ。だから、初めは、かなり反対された」
「初めは? じゃあ、恭平兄さんが折れた、って事?」
「ああ、そういう事になる。結局、アニキは、オレの要求を呑んでくれたんだ」
「…凄いわね、恭介。恭平兄さんを説得しちゃうなんて」
「まあ、アニキは、あれでオレには甘い所があるからな。それに、半分はひとえのお陰だしな」
「どういう事?」
「要するに、アニキは、ひとえに借りがあったんだよ。ひとえの事を振って、オレと付き合う切っ掛けを作ったのは、アニキだからな。 アニキには、それを、今さら引き離すような真似ができる筈が無かったんだ。そういう事さ」
「何か、私、頭痛くなってきたわ…もう帰って良い?」
「駄目。まだ話は終わってない。
 ただ、アニキはそれでも良くても、事が事だし、アニキの一存でどうこうできる訳が無い。 それで、アニキは何とかそれらしい理由をでっちあげて、重役連中を説得したんだ。 さすがに、どんな理由にしたのかは具体的には教えてくれなかったけどな。 大方、レゥは偶然に生まれたこの世に一人しか居ない貴重なレプリスで、それを最も本人が喜ぶ環境でモニター・テストをするのが最適だ、とか、 この際、事業部間の柵なんか取っ払って、技術を共有した方が、タイレル全体の、ひいてはレプリス産業全体の発展に繋がる、だとか、そんな所だろう。
 まあ、とにかく、アニキは重役達の説得に成功した。アニキのでっちあげにも、それなりの道理があった、って訳だ。 最後は、オヤジの鶴の一声があったかもしれないけど、とにかく、何かあった時は、レゥを日本支社で診てもらえる事になった訳だ」
「冗談じゃないわよ。それじゃ、私の方こそ、恭平兄さんに借りを作っちゃった訳じゃないの。それも、一生掛かっても返しきれないぐらいの」
「まあ、その辺はあまり気にするな。それに、アニキも、どうせ長続きする訳ない、って思ってたらしいしな」
「…私と恭介が?」
「莫迦。レゥが、だよ。アニキは、せいぜい一週間か十日ももてば良い方だ、って思ってたらしいんだ。そのぐらいで、オレがアニキに頼ってくるだろう、ってな。 まあ、結局その通りになった訳なんだけど、一ヶ月近くももつとは、アニキも思ってなかったらしい。その点では、アニキに一矢報いた、って言えるかもな」
「私、本当に頭が痛くなってきた気がする…。なんか、皆恭介の思い通りにいったっぽいのも気に入らないわね」
「だから、言ったろ? オレ、ちょっと舞い上がってた、って。その事自体は反省しなきゃいけないけど、まあ、そういう事情があったんだよ」
「…どうして、私に話してくれなかったの?」
「ごめん。レゥがレプリスだ、っていう事を隠したまま、上手く説明できる自信が無かったんだ。 現に、今だってできなかった訳だし、その頃の、つまり一年以上前のオレじゃ、もっと無理だったろうからな。 だから、表面上は、ひとえと同じ志望にした、っていうだけにしておいたんだ。
 …怒ってるのか?」
「別に、そういう訳じゃないけど…ただ、恭介は、やっぱりレゥちゃんの事を第一に考えてるんだな、って、そう思ったの」
「まあ、そういう事になるのかもしれない。オレは、ひとえの事が大好きだけど、でも、やっぱりオレにはあいつに対する責任があるんだよ」
「責任?」
「ああ。色々行き違いがあったと言っても、あいつをこの世に生み出したのは、やっぱりオレなんだよ。オレは、その責任を放棄する気は無いんだ。
 それに、ひとえとは、もし離れててもまた会えるけど、あいつと離れたら二度と会えなくなるかもしれない。
 そう考えたら、あいつの事を優先するしかない、って思ったんだ。その上で、何とかひとえとも一緒に居たい。そういう事なんだよ」
「そう…」
 そうよね。結局、優先順位の問題なんだよね。どちらも大切だけど、どちらかしか選べないのなら、優先順位を付けるしかないのよ。
 レゥちゃんが、自分のお洒落よりも、恭介に貰ったものを大事にする事を優先させたみたいに。これも、同じなんだ。
「でも、結局は、それも問題を先送りにしてただけだったんだけどな。その事が、今回の事で嫌ってぐらい思い知らされたよ。
 だから、オレはあいつを連れてアニキの所に行く。根本的に問題を解決する為にな」
「それで、何時の便なの?」
「14時の便だ。オレとレゥは、朝、タイレルの迎えでその日本支社に寄って、そこから直接空港に行く」
「そう…」
 恭介は、行くなら早い方が良い、と言った。それなら、ここに戻らなくても、直接行く事だってできたんだ。
 ここに戻って来たのは、私に、ちゃんと話をしてから行くつもりだったからなんだ。
「判った。私、お見送りに行くわ。それで、いつ帰って来れるの?」
「判らない。さっきも言ったけど、本当にできるかどうかは判らない事なんだ。もしかしたら、いつまで経ってもできないかもしれない」
「それでも、やるのね。恭介は」
「ああ。他に方法があるならともかく、それしか無いみたいだからな。それに、できないかもしれない、って言って何もしなかったら、本当に何もできないからな」
「…偉いね、恭介は」
「何言ってるんだよ。ひとえがオレに言った事なんだぞ、これは」
「私、そんな事言った? いつ?」
「二年前の、ゴールデンウィークの前日だよ。二人で買い食いして帰った時に、ひとえ、オレに言っただろ? あの、河原でさ。
 恭介、もっと無茶苦茶しようよ、って。私達は、まだ世界の事を何にも知らないのに、恭介は、何もせずに知った気になってる、まるでおじいさんみたいだ、って」
「…覚えてない」
「酷いな。オレは、はっきり覚えてるのに。ひとえが、あの時そう言ってくれてたから、オレは、やってみる気になったんだよ」
「そうなんだ…」
 それから、少し沈黙が流れた。私も、恭介も、無言で麦茶を啜っていた。しばらくして、恭介の方から沈黙を破った。
「…意外だったな」
「何が?」
「ひとえが、だよ。もっと、怒るとか、泣くとか、するかと思った」
「どうしてよ?」
「だって、明日からオレはアメリカに行っちまうんだぞ? いつ帰って来れるか判らない、アメリカに。ひとえは、何とも思わないのか?」
「そんな訳無いでしょ。あの朝、一緒に暮らそう、なんてプロポーズみたいな事言ったくせに、その舌の根も乾かないうちに、今度はアメリカに行く、だなんて。
 そんな事言われて、私が何とも思わない、なんてある訳無いじゃない」
「悪いと思ってるよ。オレもそう思ってたから、だから、初めに約束してくれ、って言ったんだ。最後まで話を聞いてくれ、って。
 なのに、ひとえが随分と落ち着いてるように見えるからさ。だから、意外だ、って」
「じゃあ、恭介は、私がそんな事をすると思ってたの? 何でいきなり行っちゃうの、って怒ったり、私を置いていかないで、って泣いたりすると思ってたの?」
「…ん、まあ、少しはな」
「冗談じゃないわよ。何で、私がそんな事をしなくちゃいけないのよ」
「…オレと一緒に居たくないのか?」
「居たいわよ。居たいに決まってるでしょ。そうじゃなきゃ、こんな所でずっと待ってたりしないわよ」
「…こんな所で悪かったよ。じゃあ、どうしてなんだ?」
「これだけ長い間一緒に居たのに、そんな事も判らないの? 恭介は」
「質問で質問に返すのは禁止、なんだろう。ちゃんと答えてくれよ」
「そんな事をしたって、何にもならないからよ。恭介は、レゥちゃんの為にアメリカに行くのよ。それを、私が止められる訳ないじゃないの」
「オレと一緒に来る、っていう選択肢は無いのか?」
「私にだって大学があるのよ。恭介はどうする気か知らないけど、私は、せっかく入ったものを辞めたりする気は無いんだからね。 第一、そんな事したら、私に独り暮らしを認めてくれて、学費も生活費も出してくれてるお父さんやお母さんに申し訳ないじゃないの」
「まあ、オレはとりあえず休学するんだけど…本当に、一緒に来る気は無いのか?」
「無いわ。少なくとも、今すぐは、ね」
「本気で?」
 くどいぐらいに恭介は訊いてくる。それは、私に、一緒に行って欲しいからじゃない。少しはそう思ってるだろうけど、私が行かない事を、恭介はもう知っている。
 ただ、その理由を、私の口からはっきり聞いておきたいだけなんだ。そうしないと、恭介は、安心して行く事ができないから。
 …ホント、何でも判るっていうのも考えものよね。物分かりが良すぎるもの。いいわ、恭介が全部話してくれたんだから、私も話してあげるわよ。
「しつこいわね。じゃあ聞くけど、今、恭介と一緒に行って、私は、アメリカで何をするの?」
「それは…」
「どうせ、私は、そのタイレルの本社には入る事もできないんでしょう? 日本支社でさえ駄目なんだから、その総本山になんか入れる訳無いわよね」
「…まあ、そうだろうな。いくらアニキでも、そこまでは無理は通せないだろうな」
「で、恭介とレゥちゃんは、殆どそこに居る事になるんでしょ?」
「判らないけど、そうかもな。オレは、近くに家を借りて住む事になりそうだけど、レゥは、な…」
「でしょう? だったら、恭介が居ない間、恭介と恭平兄さんとが、レゥちゃんの為に力を尽くしている間、私は何をしてるの?」
 恭介は答えない。
「レゥちゃんの為に何もせず、何もできずに、ただ恭介の帰りを待って、洗濯やらお掃除やらに明け暮れるなんて、そんな専業主婦みたいな生活、私は絶対嫌だからね」
「…それは、専業主婦の皆さんに失礼なんじゃないか?」
「私は、専業主婦が嫌いなんじゃないの。専業主婦をしている私が、嫌いなのよ。レゥちゃんの為に何もできずに専業主婦やってる私なんて、私じゃないわ」
「じゃあ、ひとえは、ここに残って何をするんだ?」
「勉強するわ」
「…何の?」
「まずは英語ね。読み書きから、ヒアリングもスピーキングも、徹底的にやるわ。ネイティブのアメリカ人と対等に話ができるぐらいにはね」
「それから?」
「決まってるじゃない。レプリスの為になる事をやるのよ」
「…何だって?」
「聞こえなかった? レプリスの為に、レゥちゃんの為になる事をやるの」
「いや、だから、具体的には、それはどんな勉強なんだ?」
「それはこれから調べるわよ。どんな手段を使ってもね。恭介、私がどんな所に所属してるのか、忘れたの?」
「人間科学科、か…」
「そう。人間について科学的に調べ、学ぶ所よ。 レプリスが、ヒトが造り出した、限りなくヒトに近いモノだというなら、その人間について学ぶ事は、絶対にレプリスの、レゥちゃんの為になるわ。違う?」
 私は、別にレプリスの為に、と思ってこの学科を選択した訳じゃなかった。そもそも、自分がこんなに深くレプリスに関わるなんて、思ってもみなかった。
 なのに、私は、何故かそのレプリスの為になる勉強ができる所に居る。これも、ただの偶然なんだろうか?
「ひとえは、レプリスの研究者か、開発者になるつもりなのか?」
「…恭介、あなた、私の話をちゃんと聞いてる?」
「ごめん、疲れてるかもしれない。許してくれ」
「まあいいわよ。私は、レプリスの為になる勉強をする、って言ったの。レプリスの勉強をする、じゃないわ」
「…そういう事か…」
「察しが良くて助かるわ。私はね、レプリスを造りたいんじゃないの。既に生まれてきたレプリスが、幸せに生きる為のお手伝いをしたいのよ。 レゥちゃんが、楽しく、幸せに生きていくには、どうしたらいいのかを考えたいの。
 それをする為にも、私は、今、この場所から、この大学から、離れる訳にはいかないのよ」
「でも、もし、ひとえが大学を出るまでに、レゥが治ったら?」
「だから、何よ。それはそれで良い事じゃない。私のする事は、レゥちゃんの為ではあるけど、レゥちゃんだけの為でもないんだから。 レゥちゃんの後に生まれてくる、あの子の妹や弟達の為でもあるの。だから、例えレゥちゃんが早く治ったからって、何かが無駄になる事なんて無いわ。そうでしょ?」
「…そうだな」
「それに、恭平兄さんも、恭介のお父さんだって、完璧じゃないわ。もし完璧だったら、今回みたいな事は起きなかったでしょうからね。 だったら、私が、その穴を埋めてあげたいの。あの人達が見落としていたり、忘れていたりする事が無いか、私が見てあげたいの。
 そうする事でしか、私は、今度の恭平兄さんへの借りを返せそうにないのよ」
 恭介は、少し考えてから言った。
「オレと離れる事に不安は無いんだな?」
「…無い訳は無いじゃない。遠距離恋愛は難しい、っていうのがお約束なんだから。でもね、恭介、私が言った事、覚えてる?」
「何時、言った事か判らないと、何とも言えないな」
「あの日よ。私が、恭介に、告白の返事をした日。あの時、私が、恭介に言った言葉。覚えてる?」
「…私の知らない恭介をもっと見たい、だったか?」
「まあ、一言一句その通りとは言えないけど、意味は大体合ってるわ。合格よ」
「それはどうも。それで、ひとえは、今度の事が、ひとえの知らないオレを見る事になる、と思ってる訳なのか?」
「そうよ。ねえ、恭介。私達、ずっと一緒に居たよね。それこそ、生まれた時から、ずっと」
「ああ」
「じゃあ、私と一緒に居ない恭介、っていうのは、私は見た事が無いのよ。そうでしょ?」
「…何か、矛盾があるような気もするけどな」
「無いわよ。私と離れた恭介が、どんな恭介になるのか。私は、それが見てみたいの。これは、そのちょうどいいチャンスよ」
「…熱が冷める、とかは思わないのか?」
「そうなったらそうなった時よ。所詮、その程度のものだった、っていう事なんだから。寂しいけど、しょうがないじゃない。
 でも、私は、自信があるわよ。私は、絶対に恭介の事を好きでいる、って。すぐまた会える、って。恭介は、自信が無いの?」
「まあ、やってみないと判らない、って所かな」
「そうよ。やってみないと判らない。また、おじいさんみたいだ、って言われたくないなら、恭介もやってみようよ。ね?」
「…ひとえは、強いな」
 強くなんかないよ。私は、そう言いたかった。でも、そう言ったら、私は、絶対に泣いてしまう。私は、強くならないといけないんだ。
「そうよ。私を誰だと思ってるのよ」
 私は、そう言って笑った。そして、恭介も。私は、その彼の笑顔を、絶対に忘れないようにしよう、と思っていた。

 その後、私達は、その他の事を色々と話し合った。
 一番の懸案は、やはり、もしかしたらもう私のお腹にいるかもしれない、恭介との赤ちゃんの事だった。
 事がこうなった以上、産んで育てる、という事は更に難しくなった訳だけど、もう私には、せっかくこの世に芽生えた命を、自分の手で奪う事はできそうに無かったし、 恭介も、それは同じだった。そして、産むとなれば、子供にはできるだけ良い環境を整えてあげたい。その時は、結局、私もアメリカに行く事になるかもしれない。
 でも、前にも二人で話したように、まだ出来たと決まった訳でも無い事であれこれと考え過ぎるのも意味は無かった。
 とにかく、できるだけ早く、妊娠しているかどうかを検査する。確実に判るようになるまでは一ヶ月ぐらいかかる。 出来ていなければそれまでだし、もし出来ていれば、産んで育てられる環境を得るように、二人で最大限の努力をする。今は、それしか無かった。
 もしかしたら、私の実家を頼るしかないかもしれない。その覚悟だけは、今からしておこう、と思った。
 大丈夫、ちゃんと話せば、私のお父さんとお母さんなら、きっと理解してくれる。私は、そう思っていた。
 後、この恭介の部屋については、恭介とレゥちゃんがアメリカに発った翌日に、タイレルの手配で荷物が運び出される事になっていた。
 私は、その立ち会いを引き受ける事になった。 恭介とレゥちゃんが暮らした痕跡が無くなってしまうのは寂しかったが、それを見届けるのは、私の役目だった。
 その他、二人がアメリカに行った後の連絡方法とか、細かい事を取り決めてから、タイレルからの迎えが来るまでの数時間を、私達は、恭介のベッドで眠る事にした。
 正直言って、もう一度抱いて欲しいと思う気持ちもあったけど、幾らなんでも、隣の部屋でレゥちゃんが寝ている所でする訳にはいかないし、避妊の準備もしていない。 午後からのフライトに備えて、体力も残しておかなければいけないしで、ここは添い寝だけで我慢するしかなかった。
 でも、これはこれで、とても気持ちが良かった。お互いの体に手を回して、寄り添い過ぎず、離れ過ぎず。私達が、お互いに告白する前の関係のような、微妙な距離。
 恭介の体温と匂いとを感じながら、私が微睡んでいると、急に、恭介が、私の胸元に顔を埋めてきた。
「ちょっと、恭介…」
「いいだろ? このまま…」
 少し拗ねたような声。まったく、この人は。
「おじいさんは辞めて、赤ちゃんになるの? 子守歌もサービスしましょうか?」
「頼む」
 …速攻で答えるんじゃないわよ、冗談なのに。
 まあ、いいわ。恭平兄さんが居るとはいえ、レゥちゃんを連れて知らない土地に行く恭介が、やっぱり一番大変よね。
 私は、小さな声で歌い始めた。昔、お母さんに歌ってもらっていた子守歌。
 歌いながら、胸元の恭介の頭を撫でる。指に、彼の髪の毛の感触を覚え込ませるように、ゆっくりと、丁寧に。
 やがて、恭介の規則正しい寝息が聞こえてきた。今度は、その寝息を子守歌にして、私は短い眠りに落ちて行った。



─ Scene 10 : 二人の笑顔 ─

 私が目を覚ました時、隣に恭介は居なかった。彼が居た場所には、まだ微かに温もりが残っていた。恭介も、起きたばかりらしい。
 体を起こしてベッドの端に座る。頭は、まだ寝不足を訴えていたが、二度寝する訳にもいかなかった。大きく伸びをする。
 玄関の方から、微かに人の話し声が聞こえてきた。二人いる。一人は恭介。もう一人、若い女性の声。お迎えが来たんだ。
 私が恭介の部屋を出ると、そこに、ちょうど玄関の方から恭介が戻ってきた。
「おはよう、ひとえ」
「おはよう。もうお迎えが来てるの?」
「ああ。オレは、レゥを起こしてくるから」
 そう言って、恭介は、レゥちゃんの部屋に入った。レゥちゃんを起こしに掛かった彼の声を聞きながら、私は、洗面所を借りようと思って玄関の方に向かう。
 玄関には、一人の若い女の人が立っていた。ゆかりさんに似た、黒くて艶のある真っ直ぐな髪。白い肌。パンツタイプのビジネススーツを隙無く着こなしている。 いかにも、仕事のできる有能な人、という感じに見えた。
「榛名ひとえ様、ですね?」
 その人は、私の顔を見るなり、いきなり呼びかけてきた。自慢じゃないけど、私は、様、なんて呼ばれた事が無い。恭介の冗談交じりなのを除けば、だけど。
「はい、そうですが…」
「失礼しました。私、本日、渡良瀬恭介様とレゥ様のお世話をさせていただきます。タイレル・バイオ・コーポレーション日本支部の蕾花、と申します」
「はあ、どうも…」
 自分でも間抜けな挨拶だと思うけど、こんな畏まった、いわゆるビジネスの場で使われるような挨拶なんて、した事が無い。
 おどおどしながら、その人が差し出した右手を握る。らいか、だなんて、洒落た響きの名前よね。本当に名字なのかしら。
 我ながら、寝起きの恥ずかしい姿を晒してるな、と思っていたけど、その人は全然気にしていないようだった。あくまで事務的に話をする。
「榛名様の事は、渡良瀬様からお伺いしております。弊社のレプリスの保護にご尽力いただきましたそうで、感謝しております」
 少し気に障る言い方だった。「ご尽力」なんていう程の大層な事はしていないけど、私は、そんな「弊社のレプリス」なんていう「物」の為に動いた訳じゃない。 あの幸せな高校時代を共に過ごし、これからも一緒に過ごしていきたい、と思った、あの女の子の為にやったのよ。
 無言のままの私をどう見たのかは判らない。その人は、あくまでも事務的に、淡々と話を進める。
「それから、明日、この部屋の引き上げに立ち会っていただけるそうですが」
「はい、その予定ですけど」
「その引き上げには、弊社の方からも、私がご一緒に立ち会わせていただく事になっております。どうかよろしくお願いします」
 そう言って、その人は深々と頭を下げた。なるほど、そういう事で私に挨拶したんだ。
 私も、よろしくお願いします、と言って頭を下げた。
 事務的で、少し冷たい感じのする人だったけど、握手をした手の感触は、柔らかくて心地好かった。

 洗面所で口を漱ぎ、顔を洗って出てくると、蕾花さんは、さっきと同じ姿勢のまま、同じ場所に立っていた。私を見て軽く会釈をする。 私も会釈を返しながら、もしかしてこの人は、誰も見ていない所ではずっと動いていないんじゃないか、などと考えていた。
 レゥちゃんは、既に起きてきていた。ダイニング・キッチンの椅子に座って、じっとテーブルの上を見つめている。
「おはよう、レゥちゃん。よく眠れた?」
「うん、おはよう、ひとえちゃん」
 できるだけ自然に見えるように挨拶したつもりだったけど、やはりレゥちゃんの態度は少しぎこちなかった。私に挨拶を返すと、すぐ視線をテーブルの上に戻してしまう。
「恭介は?」
「おへや。にづくりしてるの」
「そう…」
 恭介の部屋から物音がしていた。当面必要なものを用意しているんだろう。レゥちゃんの分は、既にテーブルの上に置かれていた。
 レゥちゃんは、明らかにまだ立ち直っていなかった。私を見る瞳に、怯えの色がある。視線も合わそうとしない。 私が声を掛けた時、私に返事をする時、その時だけ私を見るけど、すぐに視線をテーブルの上に戻してしまう。 やはり、あれは、一晩眠ったぐらいで癒えるようなものでは無かった。
 ただ、まだ希望はあった。レゥちゃんの瞳には、私に対する怯え以外の何かも、確かにあったから。 上手く言えないけど、私に何かを期待しているような、そんな色が見え隠れしていた。 二年前のあの時、結城みさおに拒絶されたあの時とは、確かに違う。レゥちゃん自身もそれは判っているようだった。
 でも、どうすればいい? どうすれば、この子の瞳に残った怯えを消せるんだろう?
 レゥちゃんの心に傷を残したみさおちゃんの事を考えると、怒りよりも哀しみを感じる。あの子は、あの時、まだたったの13歳だった。 私にも覚えがある、多感で、傷つき易い年頃だった。今の私とは五つ離れているだけだけど、この時期の五年の差は大きい。 恭介が言うように、父親をレプリスに奪われた、と感じていたとしたら、あの子がレゥちゃんを拒絶してしまうのも仕方の無い気がした。 潔癖そうだったあの子にとっては、レプリス全てが、自分の父親を誘惑した、いやらしい悪女のようにしか見えなかったのかもしれなかった。

「お待たせ」
 恭介が部屋から出てきた。私は、自分のキーホルダーから彼の部屋の合い鍵を外して、恭介に返した。大して使わなかった合い鍵。きっと、これを使う事はもう無い。
 私に渡された合い鍵を見て、思い出したように、恭介は自分の部屋に取って返し、すぐに出てきた。その手に、私の部屋の合い鍵がある。
 …恭介、いい加減にしないと殴るわよ。まったく、最後まで大ボケなんだから。ちゃんと身に着けておきなさいよ。
「結局、使わなかったな」
 そう言って、私に渡す。余計な事は言わなくてよろしい。それに、恭介はこの部屋を出て行くけど、私は、まだ最低四年間はあの部屋に居るつもりなんだから。
 恭介が出てくるのに合わせて、レゥちゃんも立ち上がった。まだ、視線を落としたままだ。
 このまま、別れたくない。空港でまた会えるけど、少しでも長くこの子と居たかった。
「ねえ、恭介。私も、やっぱり一緒に行きたい。何とかならない?」
 言ってから、「アメリカに一緒に行きたい」という意味に取られないか、と思ったけど、恭介は、正しく理解してくれた。物分かりが良くて助かるわ。
「昨夜も言ったろ?」
「中に入らなければ良いんでしょう? その日本支社の入り口までで良いから、一緒に行かせてよ」
 恭介の眼を見て懇願する。恭介は、少し考えてから、とりあえず聞いてみる、と言って玄関に向かった。話し声がして、すぐに戻ってくる。
「良いそうだ」
「やけにあっさりしてるわね」
「まあ、入り口までなら、ただの通行人と同じだからな」
 なんだかなあ。私は映画のエキストラかなんかと同じ扱いなのか。
「入り口まで行って、そこでオレとレゥを降ろす。そのまま、ひとえを空港まで送ってくれるそうだ」
「いいの?」
「向こうが言ってるんだから、良いんだろう。オレとしても、そうしてもらえるとありがたいしな。 ひとえが、一人で空港まで来る途中で駅の階段でも踏み外したら、と思うと心配だし」
「殴るわよ」
「勘弁してくれ。それにこれは、ひとえを、つまり、オレの恋人を部外者扱いしてしまう事に対する、せめてものお詫び、なんだそうだよ」
 …何だか意外だった。私にも秘密にされていた、今でも私を中に入れてさえくれない、そのタイレルという会社の、意外な一面を見たような気がした。
「まあ、タイレルも、所詮は人間がやってる会社だ、っていう事だよ。鬼でも悪魔でも無い、って事かな」
 そう言って、恭介は笑った。

 マンションの正面の道路に停めてあった車は、意外な程に「普通」だった。 会社の迎え、と言うから、黒くて大きくて厳めしい高級車とか、あるいは、実用一点張りの商用車、みたいな車を想像していたのだけど、それは、ごく普通の自家用車で、 車体の色も、若い女性が好みそうな、明るい色をしていた。恭介が言うには、タイレルの所有ではなく、この蕾花という人の個人持ちの車なのだそうだ。
「詳しいのね」
「倒れたレゥを運んでくれたのも、この人だったんだよ。その時に聞いた」
 ヤキモチか?とでも言いたそうな顔をして、恭介が言う。うるさいわね、そのにやけた顔を何とかしなさいよ、莫迦。

 今日は、ゴールデンウィークの初日。天気は快晴。春の、少し霞んだような空から、夏の、澄んだ濃い青空へと移る途中の、微妙な色合いの空が広がる。 休日の朝の道路には車の影も少なく、私達を乗せた車は、順調に走っていた。
 晴れ渡った空とは対照的に、車内の空気は暗かった。私は、恭介に頼んで、レゥちゃんと一緒に後部座席に乗せてもらった。 移動中、私は、ずっとレゥちゃんの手を握っていた。レゥちゃんの、膝の上に揃えて置かれた両手を、上から包み込むようにして握っていた。 何か言ってあげたい、何か言わなくちゃいけない。そう思っていたけど、言葉が出てこない。行動で示すしか無かった。
 レゥちゃんは、私の手を拒まなかった。でも、返してもくれなかった。ただ、私に握られるに任せていた。
 それでも、彼女の眼に残っていた私への怯えは、間違いなく、少しずつ消えていった。もう少し長くこのままで居れば、完全に消えてしまったかもしれない。 しかし、その前に、車はタイレルの前に到着してしまった。
「本当に近いのね…」
 私は、目の前に聳える、小さな窓が並ぶ白い外壁のビルを見上げて呟いた。 あの、焦燥と不安に駆られて過ごした二日の間、二人がこんなに近くに居たのかと思うと、何だか自分が凄く間抜けな事をしていたような気がした。 まあ、過ぎてしまった事は仕方が無い。幸い、体も壊さなかった事だし。ゆかりさんには、改めてお礼をしないといけないけど。
「じゃあ、ひとえ、また空港でな。多分、そちらの方が先に着くから、適当な所で待っててくれ」
 荷物を車のトランクから取り出して、恭介が言った。そのまま、レゥちゃんを連れて中に入って行こうとする。
「レゥちゃん!」
 彼女の後ろ姿に向かって、私は呼びかけた。振り向いた彼女の顔は、まだ暗い。でも、起きた時よりは、大分明るさを取り戻しているように見えた。
「また、後でね」
 小さく手を振る。レゥちゃんも、同じように振り返してくれた。
「うん、ひとえちゃん、またね」
 恭介に促されて、中に入っていくレゥちゃんを、私は、姿が見えなくなるまで見送っていた。

 私は、車の所に戻ると、今度は助手席に座った。シートベルトを締めようとした時、今まで無言だった蕾花さんが、口を開いた。
「どうなさいますか?」
「はい?」
「このまま、直接空港に向かわれますか? それとも、一度、榛名様のお部屋にお戻りになりますか?」
 蕾花さんは、前を向いたまま、相変わらず抑揚の無い事務的な口調で、私に訊ねた。 話す時は、せめて相手の顔を見て話しなさいよ、と思うが、訊ねられた内容自体はありがたかった。 いくら今生の別れでは無いにしても、こんな寝起き同然の姿ではなく、もう少し綺麗な格好で二人を見送ってあげたかった。
「いいんですか? その、私の部屋に寄っていただいても」
「まったく問題ございません。あのお二人の搭乗手続の開始時刻までには、充分に余裕がございます。 榛名様のマンションにつきましては、渡良瀬様から場所をお伺いしておりますし、少し立ち寄るぐらいでしたら、時間のロスも殆どございません」
 この人って、いつもこんな丁寧な言葉遣いをしているのかな。相変わらず、前を真っ直ぐ向いたままだし。まあ、いいか。この際、好意はありがたく頂いてしまおう。
「判りました。それでしたら、すみませんがお願いします」
 私も、できるだけ丁寧に聞こえるように言ってみた。それでは参ります、と、あくまでも丁寧な言葉遣いで、蕾花さんは答えた。

 十分だけ時間を貰って、私は、自分の部屋に戻った。蕾花さんは、マンションの前に停めた車の中で待っている。
 シャワーを浴びたかったけど、その時間は無いし、あまり蕾花さんを待たせるのも気が引ける。 仕方無く、シャワーは諦めて、皺になった服の着替えだけにした。ハンガーに並んだ服を前にして、どの服にしようか、と一瞬考え、結局、いつも着ている普段着にした。 今さら、あの二人相手に着飾ってもしょうがないし、私は、またすぐに再会するつもりだった。 あまり特別な形にはしたくない。
 鏡の前で寝乱れた髪を軽くブラシで梳いて、メイクを直す。元々大してお化粧もしていなかったけど、さすがに、さっきまでの顔のままで行くのは躊躇われた。 携帯とお財布、キーホルダーにハンカチと、そのぐらいあればいいか、と思ってポケットに入れ、部屋の中を見回す。 特に他に要りそうな物が無い事を確かめて、部屋を出た。
 約束の十分には、少しだけ遅れてしまった。遅刻を詫びつつ、助手席に乗り込む私に、蕾花さんは、相変わらずの事務口調で答えた。
「お気になさらないで下さい。仕事ですので」
 こういう台詞、ドラマとかでもよく聞くけど、仕事だからって、待ってもらっていた相手に失礼な事には変わりは無い。 相手にしてみれば、細かい事をいちいち気にしなくて良い、というつもりなんだろうけど、あなたなんかには仕事でなければ付き合わないよ、って言われているような気がして、 少し悲しかった。
 まあ、私の気にし過ぎ、だよね。やっぱり、あの二人と別れる事で、少し神経質になっているのかもしれないな。

 市街地を抜け、空港へ向かう自動車専用道路を、蕾花さんの車は、軽快に走り続けた。 連休の初めの出国ラッシュにはまだ少し早いようで、道路は渋滞もせず、車の流れは順調だった。
 蕾花さんの運転は、実に上手だった。合図を出すタイミングも、右左折も、車線変更も実にスムーズで、迷いも躊躇いも無い。 まるで、あらかじめ周りの全ての動きを知っていて、それに合わせて最適なタイミングで動作を行なっているような感じがした。 加速も減速も丁寧で滑らか。ただ、顔は相変わらず正面に向いたまま、一言も喋らず、運転に必要な最低限の動きしかしていないようだった。
 乗り心地は良かったが、でも、世間話をするような雰囲気でも無く、私は、ぼんやりと、窓の外を流れる景色を眺めていた。
 私は、かなりの居心地の悪さを感じていた。私は、大体は誰とでもすぐ仲良くなれる質だったけど、この人とだけは、それは難しいような気がした。 ゆかりさんと同じような髪をして、ゆかりさんと同じぐらいの年齢で、ゆかりさんと同じぐらい綺麗な人だったけど、 お気楽を標準装備しているようなゆかりさんとは全然違う、取っ付きにくさがあった。
 そうだ、ゆかりさん。事の顛末を、あの人には知らせておきたい。 あれだけ、二人の事でお世話になったんだし、二人が渡米する事ぐらいは先に連絡しておいた方が良いかもしれない。 ただ、レプリスが絡んだ話だけに、勝手に連絡するのは不味いかも。一応、お伺いを立ててから、と思って、思い切って蕾花さんに話し掛けた。
「あの、一人、今度の事を連絡しておきたい人が居るんですけど…」
「どなたですか?」
 目線は前を向いたまま。まあ、運転中だし、しょうがないよね。
「私の大学の先輩で、今度の事で、私、随分その人にお世話になったんです。相談に乗っていただいたりして…。
 だから、あの二人が今日渡米する事になった、ってお知らせしておきたいんです」
 蕾花さんは、相変わらず。聞いているのかいないのか判らないような顔をしているけど、まあいいや。
「あの、レプリスの事とか、そういう秘密にしておかなければいけない事は話しません。 ただ、レゥちゃんの病気の治療の為に、二人でアメリカに行く、って言うだけにしますから、連絡させてもらってもいいでしょうか?」
「そういう事でしたら、ご連絡なさっても構いません」
 また前を向いたまま、蕾花さんが答える。何だか、本当に許可してくれたのかどうか判らないけど、とにかく了承は得た。
 無くさないようにお財布の中に仕舞っておいた付箋紙を取り出す。そこに書かれた番号を押して、発信ボタン。 数回の呼出音の後、相手が出た。
「誰?」
「もしもし」でも「はい」でもなく、いきなり鋭い調子でそう言われて、私は少し驚いた。でも、確かにそれは、ゆかりさんの声。
「もしもし、あの、ひとえです」
「ああ、ひとえちゃん。おはよう」
 声は、すぐいつもの明るくて、お気楽そうなゆかりさんの声になった。一瞬、掛け間違えたかと思った私は、ほっとする。
 ゆかりさんは、まだ大学に居るらしい。昨夜話していた長い実験の、自分の担当分が終わって、ちょうど休憩していた所だと言う。 私は、休憩中に割り込んでしまった事を詫びてから、二人の渡米の事を話した。蕾花さんとの約束通り、レプリスの事は伏せ、ごく簡単に用件を済ませる。
 ゆかりさんは、何も聞かなかった。どんな病気なのか、とか、いつまで掛かるのか、とか、何も訊こうとはしなかった。ただ、黙って、私の話を聞いてくれた。
 私が、その長くもない話を終えてから、初めてゆかりさんから話し掛けてきた。
「じゃあ、あなたは行かないのね」
「はい。私は、こっちで自分のできる事をやりますから」
「そう。それで、何時の便なの?」
 私が時刻と飛行機の便名とを教えると、ゆかりさんは、できれば自分も見送りに行くから、と言った。 徹夜明けの所を悪いです、と言おうとしたけど、ゆかりさんが、自分から行く、と言ったのだから、そんな事は織り込み済みだろう。 どうせ、また「寝ぼけてるわね」と言われるのがオチだ。間抜けな返答をするのは、もう充分だった。
「じゃあ、できれば空港で」
 そう言って、ゆかりさんは電話を切った。私は、通話の終わった携帯を目の前に持ってきて、そして、何気なく見た画面の表示に釘付けになった。
 そこには、今の通話に関する情報が表示されていた。通話時間、通話料金、相手の番号などと共に、相手の氏名が表示されていた。
「杵築ゆかり」と。

 ゆかりさん。
 杵築ゆかり。
 杵築たえ。
 たえさん。

 私の頭の中で、私のお世話になった女の人が二人、一本の線で繋がった。
 表示されている氏名は、相手の携帯に登録されている、その使用者の氏名だった。 携帯の電話帳から選択するのではなく、直接番号を入力した場合に、それが相手の携帯から自動的に転送されてきて、こちらの携帯に表示される。 掛け間違いを減らす為の、どんな機種の携帯にも搭載されている基本的な機能だ。 登録される氏名は、原則として、携帯通信会社との契約に使用された氏名が使われ、ニックネーム等は使えない。 携帯の契約時に登録されたその情報を、使用者は、自分の名前を相手に知られたくない場合には転送されないようにする事はできるけど、自由に変更する事はできない。 ここに表示されている以上、これは、ゆかりさんの本名に違いなかった。
 それにしても、こんな事が偶然にある事なんだろうか。
 私が、高校時代にお世話になった学生寮の寮母代理。私が、今お世話になっている大学の先輩。
 世界中に「杵築」という姓を持つ人が何人いるかは知らないけれど、私と縁があったその二人が、たまたま同じ姓を持っている、何ていう偶然があるのだろうか。
 これが、偶然でないとすれば──ゆかりさんに対して感じていた、様々な疑問の全てに辻褄が合うような気がした。
 会ったばかりの後輩の私に、何くれとなく世話を焼いてくれた事。
 レゥちゃんがアルビノかどうかに妙に拘っていたような態度。
 昨夜、レゥちゃんに話し掛けた言葉の意味。
 私が名前を出したかどうか判らない「阿見寮」の名前を知っていた事。
 そして、あの、たえさんに重なるような、優しい表情。
「どうかなさいましたか?」
 突然声を掛けられて、私は、考え込んでしまっていた頭を上げた。蕾花さんの方を向く。 彼女は、相変わらず前を向いたまま、淡々と運転を続けていた。今、私に話し掛けたのは、本当にこの人なんだろうか。いや、ここには、この人しか居ないんだけどね。
「いえ、何でもありません」
「そうですか」
 私は、愛想笑いをして、適当に返事をした。蕾花さんは、特に気にした風も無く、興味も無さそうにしている。私は、また窓外の景色に視線を移した。
 貴女は、誰なんです? 何を知ってるんです?──昨夜、恭介がゆかりさんに発した疑問。その答が、私の中でゆっくりと出来上がっていった。

 空港ビル正面の車寄せで、私は、蕾花さんの車を降りた。助手席側から車内を覗き込み、蕾花さんにお礼を言う。
「あの、送っていただいて、どうもありがとうございました」
 また、「仕事ですから」という答を予想していた私は、初めて私の方を向いた彼女と、彼女の答とに目を丸くした。
「いいえ。どういたしまして」
 そう言った蕾花さんの表情が、ほんの少しだけ変わっていた。取り澄ました、表情の無かったそこには、確かに微笑みが浮かんでいた。 それは、目元と口元とが、ほんの少し緩んだだけだったけど、紛れもない笑顔だった。
『まあ、タイレルも、所詮は人間がやってる会社だ、っていう事だよ。鬼でも悪魔でも無い、って事かな』
 今朝の恭介の台詞が思い出される。そうだよね、恭介。その通りだよ。
 蕾花さんは、ではまた明日、と言い残して、車を発進させた。 ロクに後方確認をしているようにも見えなかったのに、通り過ぎる車の流れの間に、相変わらず絶妙なタイミングで、魔法のように滑らかに合流していく。
 私は、少し晴れやかな気分になって、走り去っていく彼女の車が見えなくなるまで、その場所で見送っていた。

 私は、空港のロビーを見渡して、二人の姿を探した。二人は、まだ来ていないようだった。
 連休初日の空港は、ピーク時にはまだほど遠いものの、旅行客で割と混雑していた。 見落としてたり、他の所に居たりするとまずい。とりあえず、恭介の携帯に掛けてみた。
 また繋がらないかも、と思ったが、恭介はすぐに出た。既にタイレルを出発して、こちらに向かっている、と言う。到着までは、もうしばらく掛かりそうだった。
 私は、時間潰しにロビーをぶらぶらと歩いていた。来るのは、高校の修学旅行以来になるこの空港は、その頃と全く変わっていないように見える。 私は、大型の土産物店を見つけて、適当に商品を見ながら、時間を潰した。 色も形も大きさも様々だけど、空港のロゴマークだけは必ずどこかに入っている、沢山の商品が並んでいるその一角に、画材の類を扱っている棚があった。 小さなスケッチブックや色鉛筆、カラーペン等のセットが整然と並べられている。
 土産物店にこういう物を置いて売れるもんなんだろうか、と思ったけど、置いてあるからには需要もあるんだろう。機内で絵を描くとか…。絵、か。
 私は、何種類かずつ品揃えされた中から、葉書より少し大きいぐらいのスケッチブックと、色鉛筆のセットとを一つずつ選ぶと、レジに持っていった。 どちらにも、やはり空港のロゴマーク。スケッチブックの表紙には、飛行中の機内から撮影されたと思われる写真がある。 下には真っ白な雲海が拡がり、上には成層圏の少し濃い青空。澄み渡った紺碧の空。それは、レゥちゃんに似合う色。
「これ、機内に持ち込む事、ってできますよね? 海外に行く友達に持たせてあげたいんですけど」
 商品のバーコードをPOSレジスタに読み込ませていた店員に聞く。
「大丈夫ですよ。金属も使われていませんし。プレゼント用の包装にしますか?」
 私は、お願いしてお金を払った。あの子が気に入ってくれるといいけどな、と思いながら。

 店を出てロビーに戻ると、二人は既に到着していた。周りを見回していた恭介の視線が、私を見つけた。大きく手を振る。
 私は、買った物を後ろ手に持って、二人に近付いた。恭介達の周りには、他に人は居ないようだ。
「あなた達だけなの? タイレルの人は誰も一緒に行かないの?」
「ああ。必ず、オレとレゥの二人だけで来い、って、アニキに言われてるんだ。全く、アニキも、この期に及んで往生際が悪いよな」
「どういう事?」
「要するに、日本支社の人間とレゥとが一緒に居る時間を、一秒でも短くしたいんだよ。 飛行機の隣のシートに、十時間以上も一緒に座っていたら、何をされるか判らない、とでも思ってるんじゃないかな。 全く、今回の事でさんざん世話になっておいて、今さら何をじたばたしても遅いって。なあ?」
 そんな事に同意を求められても困るけど、恭平兄さんにそういう気苦労を負わせたのは、元々恭介なんじゃないの。人ごとみたいに言ってるんじゃないわよ。
「オレとしては、できれば誰かついてきて貰いたかったけどな。こいつが、機内で鬼ごっこでも始めた日には、オレ一人じゃとても捕まえられないし」
 そう言って、隣のレゥちゃんの頭を乱暴に撫でる。
「ああん、もう、おにいちゃん、やめてよ。レゥ、もう、そんなおぎょうぎのわるいことなんかしないのに」
 止めてあげなさいよ、もう。レゥちゃんが嫌がってるじゃないの。微笑ましいけどね。
 まあ、本気で嫌がってる訳じゃないよね、この子も。そう思いながら、手に持った包みを差し出した。
「そんな事にならないように、買っておいたわよ。はい、これ」
 そう言って、包みをレゥちゃんに差し出す。レゥちゃんが、私の手にしたそれを、少し驚いたような顔をして受け取った。
「なに?」
「小さなスケッチブックと色鉛筆。これで、飛行機の中で暇つぶしに絵でも描いてみてちょうだい」
 私が言うのを聞いて、恭介が、ああ、と肯いた。あのねえ、あなたが私にも考えてくれ、って言うから考えたのよ。自分だけ何も考えてなかったんじゃないでしょうね。 それは、私だって、あの店でたまたまこれを見つけただけかもしれないけど。
「ありがとう、ひとえちゃん」
 レゥちゃんが、包みを胸に抱いて、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとな。オレ、ちょっと手続きしてくるから、レゥとここで待っててくれ」
 そう言って、恭介は、航空会社のカウンターに向かった。後に、私とレゥちゃんとが残される。
 レゥちゃんは、物珍しそうに周りを見回していた。ふと、私と目が合うと、少し戸惑ったような表情をして目線を逸らす。だめだ、まだ私に対して怯えがある。
 どうしようか、と考えているうちに、恭介が戻ってきた。
「少し移動しよう。搭乗手続が行なわれる場所は、もう少し先にあるんだ。そちらの方にも、待合室があるから、そこで待とう」
 そう言うと、恭介は、先に立って歩き始めた。レゥちゃんと私がその後を追う。恭介は、レゥちゃんをあまりこの人込みの中に置いておきたくは無いらしい。
 私達は、特に会話する事もなく、黙々と歩いた。ロビーを離れるにつれて人が少なくなっていく。やがて、待合室らしき場所が見えてきた。
 恭介は、そこの、何列か並んだベンチの最後列の端に荷物を置いた。搭乗手続が始まるまでは、まだかなり余裕がある。人は疎らだった。
 私は、ベンチにじっと座っているレゥちゃんを見ながら、考えていた。このままじゃ、まだ別れる事はできない。次に会えるのは、早くても数ヶ月後なんだ。
「レゥちゃん、ちょっといいかな」
 私は、レゥちゃんの手を取って言った。立ち上がるように促す。
 レゥちゃんは、嫌がる素振りも見せなかった。私が促すままに立ち上がった。
 それが、彼女がそう造られたモノだからなのか、彼女が私を信頼してくれているからなのかは、判らない。判らないけど、どちらだったにせよ、結果は同じだった。
 なら、外から見て判らないその理由を忖度する事に、どんな意味があるんだろうか? それは、意味がある事なんだろうか?
「ひとえ?」
「恭介も、来て」
 私は、周りを少し見回して、待合室を囲む壁の方にレゥちゃんを連れて行った。恭介は、黙ってついてくる。
 待合室の一角に、背の高い観葉植物が並べられている所があった。その陰にレゥちゃんを連れて行き、私は壁を背中に、レゥちゃんをその私の正面に立たせる。 恭介を手招きして、レゥちゃんの隣に立たせた。
 よし、これで周りの人からは、レゥちゃんの顔は見えない筈。
 私は、一つ息を吸い込んで、思い切ってレゥちゃんに言った。
「ねえ、レゥちゃん。もう一度だけ、あなたの『眼』を見せてくれないかな。お願い」
 レゥちゃんの体が、小さく震えた。眼に、戸惑いと怯えの色が走る。
「ひとえちゃん…」
 弱々しい声で私の名前を呟く。恭介は、何も言わなかった。ただ、私達を、じっと見つめている。
 ありがとう、恭介。私が、何をしたいのかが判って、それをさせてくれるんだ。物分かりが良くて助かるわ。本当に、あなたが私の幼馴染みで良かった。
「どうして…?」
「昨夜は、本当にごめんなさい。あんな風に、あなたの手を振り払ったりして。本当にごめんなさい。
 でも、判ってほしいの。あれは、あなたの事が嫌いになったからじゃないの。ただ、ちょっと、びっくりしてしまっただけなのよ。
 私は、あなたの事が大好きよ。レゥちゃんが大好き。だから、少しの間お別れする前に、あなたの顔をよく覚えておきたいの。あなたの、本当の顔を。
 だから、もう一度、あなたの素顔を見せてほしいの。お願い」
 私は、レゥちゃんの眼を真っ直ぐに見て話した。レゥちゃんの顔から、少しずつ怯えた表情が消えていく。ただ、まだ戸惑いの色は残っていた。 その眼が、隣でじっと見守っている恭介の方を見る。恭介が、小さく肯いた。
 それを見て、レゥちゃんは、私の方を向き直った。その顔には、覚悟の色が浮かんでいた。レゥちゃんが顔を伏せる。手を眼の辺りに当てた。そして、顔を上げる。
 あの、赤い瞳が、私を見つめていた。深く、濃く、血のように赤い、いや、文字通りの、血の色の瞳。私の全てを見透かすような、紅玉の輝き。
「綺麗…」
 私は、うっとりとした声で呟いた。手が、自然に上がって、彼女の白い頬を挟み込む。そのまま、私は、動けなくなった。 昨夜と同じように、その瞳に魅入られてしまっていた。
 私は、どうして、恭介やみさおちゃんのお父さん達が、レプリスに夢中になってしまったのか、判るような気がした。
 こんな…こんなに綺麗で、可愛らしくて、そして、神秘的なものを、他ならぬこの自分の手で造り出せる、なんていう事が判ったら、 そんな素晴しい事が判ってしまったら、誰でもそれに夢中になってしまうだろう。 何を犠牲にしてでも、造り出さずにはいられなくなるだろう。
 人間は、そうやって、自分が造る事ができると判ったものは、造らずにはいられない生き物なんだ。 私の着ている服も、携帯も、これから二人が乗っていく飛行機も。大勢の人を一瞬にして酷たらしく殺すような、それだけを目的にしたようなものでさえ。
 それが、人間という生き物なんだ。レプリスも、そうして造られたものの一つに過ぎない。
 もちろん、その犠牲になったみさおちゃんや恭介達に対するあの人達の罪が、そんな理由で正当化できる筈は無い。そんな事で、みさおちゃんの傷が癒せる筈が無い。
 ただ、あの人達が、決して、男性の女性に対する征服欲や嗜虐的な欲求だけで、レプリスを造った訳じゃ無い事も確かだ。 そんな、醜い欲望だけで造られたものが、こんなに美しい訳が無い。ヒトを魅了できる訳が無い。そこには、絶対に、尊くて、崇高で、敬虔な精神がある。
 私は、みさおちゃんに、友達だったレプリスの少女だけでなく、自分自身をも傷つけてしまったに違いない小さな女の子に、その事を教えてあげたかった。 お父さんを許してやれなくてもいいから、それだけは、理解して欲しかった。心から、そう思っていた。

「ひとえちゃん…」
「何?」
「レゥが…こわくないの?」
「…どうして?」
「だって…レゥは、レプリスだよ…? にんげんじゃ…ないんだよ?」
「それが何? そんなの、私には関係無いよ」
「…だって…だって…」
 尚も言い募ろうとする唇に、私の指を当てて塞ぐ。彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「レゥちゃんは、レゥちゃんよ。私の大事なお友達。私の恭介の、可愛らしい妹。私には、それが全てよ」
 彼女の眼に涙が浮かぶ。その瞳に、もう怯えの色は無い。私は、指で眦に溜まった涙を拭いてあげた。
「泣かないの。そんな顔してると、おにいちゃんに嫌われちゃうよ」
「えぇ、そんなの、いやぁ」
 甘えたような、可愛い声。愛おしい笑顔。久し振りに見たその子の笑顔には、もう、翳りは無かった。私も、笑った。心から、笑えた。

「ありがとな」
 恭介が言った。待合室の端の方のベンチに座って、私と恭介は、缶コーヒーを飲みながら、搭乗手続が始まるのを待っていた。
「ううん、これは、私の為にやったの。私がしでかしてしまった事に対して、自分でケリを付けたかったの。それだけよ」
 レゥちゃんは、待合室の中を走り回っていた。見慣れないものを見つけては、ちょこちょこと近付いて見ている。 彼女には、さっきまでの萎れた花のような印象は全く無かった。私がよく知っている、元気で、明るい女の子だった。
「おい、レゥ! あんまりうろちょろするな! こっちに来て、大人しく座ってろ!」
 恭介が言っても、レゥちゃんは聞かない。「はーい!」と返事だけは良いが、すぐに興味深そうな物を見つけては、そちらにすっ飛んでいく。
「まったく、返事だけは良いんだからな」
「まあ、良いじゃないの。まだ人も少ないし。それに、一応、他人に迷惑を掛けないように気は遣ってるみたいよ」
「当たり前だ。あれで、この上、他人に迷惑まで掛けられたらたまらん。何か、今から不安になってきた」
 恭介は、憮然とした顔でコーヒーを啜った。その、腕白な娘に手を焼いている父親みたいな物言いが可笑しくて、私は、くすくすと笑った。
「笑い事じゃないぞ。代わって欲しいぐらいなんだからな」
「まあまあ。私があげたスケッチブックを、せいぜい有効に使う事ね。結局、恭介は何も考えてなかったんだから」
 私がそう言うと、恭介は、また憮然とした顔でコーヒーを啜る。その眼は、ちょこまかと動き回っているレゥちゃんから離れない。 まったく、何だかんだ言いつつ、過保護なんだから。
 その、彼の横顔を眺めていた私は、昨夜聞きそびれていた事があったのを思い出した。
「ねえ、他のレプリスって、ああじゃないの?」
「ああ、というと?」
「要するに、恭介の言いつけを聞かない、って事。昨夜も、恭介は言ってたでしょ。あいつは、いくらオレが言っても、本当にやりたくない事はやらない、って。 他のレプリスは、そうじゃないの?」
「まあな。レプリスは、人間の、と言うか、マスターの言う事には絶対に従う」
「マスター? 主人、って事?」
「そう。レプリスには、必ず、最低一人はマスターとして登録されている人間が必要なんだ。レプリスは、そのマスターの言う事は何でも聞く。 やれ、と言ったらやるし、やるな、と言ったらやらない」
「それって、何だか、奴隷みたいで嫌だな…」
 本来のレプリスがそういうものなのだとしたら、みさおちゃんが、レプリスに嫌悪感を抱いても仕方が無いかもしれない。
「まあ、あまり融通が利かないと困るから、実際には、もっと柔軟性を持たせてるみたいだけどな。 確かに、マスターの言う事には絶対だけど、マスターの言う事しか聞かない、という訳でも無い。 必要に応じて、他の人間の言う事を聞く事もあるし、自発的にマスター以外の人間を助ける事もある。 ひとえだって、目の前で困っている人が居たら、それが知らない人でも、できる範囲で助けてあげようと思うだろ? それと同じだよ」
 恭介は、一息ついて缶コーヒーを啜る。その眼は、相変わらず、レゥちゃんから離れない。
「それに、そもそも人間の生活を支える為のものなんだから、人間社会の常識や規範から外れた行動はしない。 いくらマスターの命令だからといっても、人を殺せ、とか、物を盗め、なんて言っても聞かないんだ。 そこまで直接的でなくても、行為そのものには問題が無くても、程度を過ぎると危険、なんていう事もしない」
「例えば?」
「例えば、無理矢理他人に大量の酒を飲ませる、とかだな。他人に酒を飲ませる、という行為自体は、気付けとかの目的でする事もあるから、問題は無い。 ただ、無理矢理に、とか、大量に、とかが入ると駄目だ。急性アルコール中毒になる、とかの害が及ぶ恐れがあるからな。酔い潰れたりもするし」
 そこまで言うと、恭介は、意味ありげな視線を私に向けた。彼が何を考えているのか、想像がつく。
 何よ。私に喧嘩を売る気? どうせ、私はお酒に弱いわよ。
「あと、同じ命令を実行するにしても、それなりに人間らしい気遣いも見せる。リースの事を覚えてるだろ?」
 だから、その眼を止めなさいよ。昔の事はどうでもいい、って言ったでしょ。
「アニキとリースが、阿見寮の食堂で朝飯を食ってた事があっただろ? あの時、アニキは、リースにご飯のお代わりを取ってくるように言った。 リースは、言われた通りにお代わりを持ってきたが、そのご飯の上にはお新香が乗っていた。覚えてるか?」
 私は、首を横に振る。さすがに、そんな細かい事までは覚えていない。と言うか、あの時の私は、突然帰って来た恭平兄さんに驚いて、かなり慌てていたような気がする。
「これが、人間らしい気遣い、ってやつだよ。言われた事だけをそのままやるんじゃなくて、どうやれば人間が喜んでくれるのか、を常に考えてるんだ」
「でも、それは、結局は人間がそうプログラムしているから、なんでしょ?」
「基本的には、な。ただ、リースぐらい高度なレプリスになると、どこまでがプログラム通りで、どこからがそうじゃないのか、よく判らなくなってくるんだ。 ご飯のお代わりに気を利かせてお新香を乗せてくる、なんていう、ごく日常的で些細な事までいちいちプログラムしているとは思えないし、 そもそも、お新香が嫌いなマスターだっているかもしれないしな。 結局、あれは、リースが自分で、アニキにはお新香を乗せていったら喜ばれる、って考えてやってるんだ、と思うよ。 オレが、ひとえは甘いものが好きだから、クレープを買ってやったら喜ぶだろうな、って考えるのと、どこが違うんだ、ってな」
「私、最近クレープ食べてないのよね」
「今は、そんな事はどうでも良いんだよ。例えにツッコミ入れないでくれ。
 要するにだ、人間にだって、あのリースよりもっと気の利かないやつは幾らでも居る。人間の親が子供にする躾だって、一種のプログラムみたいなもんだ。
 昔のこの国じゃ、国と天皇の為に国民は皆戦場に行って死ぬのが当たり前、それを拒否する奴は非国民と呼ばれて弾圧された事だってある。 今だって、この地上には、目的の為なら、自分で爆弾抱えて大勢の他人を巻き添えに死ぬのが当たり前、なんて連中も居るんだ。 そんな、オレ達から見たら狂ってるとしか思えないような事も、教育次第では、当たり前と思うような人間ができてしまうんだ。それも大量にな。 それに比べれば、ご飯のお代わりに気を利かせてお新香を乗せてくる、なんて事がプログラムの結果かどうか、なんて些細な事だよ。
 じゃあ、人間とレプリスは何が違う? 体にナノマシンが入っているとかどうとかじゃなくて、その精神にどんな違いがある? そう思わないか?」
「よく判らないよ、そんなの。私は、リースとまともに話した事も無いんだからね」
 私がそう言うと、恭介は、またあの意味ありげな眼をした。恭介、あなた、いい加減に昔の事を蒸し返すのを止めないと、本当に殴るからね。
 とにかく、話が逸れて行ったような気がする。ちょっと仕切り直し。
「つまり、リースのマスターは、恭平兄さんだったのね?」
「あの時はな。今どうしてるのかは知らない。マスターは、変える事もできるから」
「じゃあ、レゥちゃんのマスターは、恭介なの?」
「名義上は、だけどな」
「名義上? そんな区別があるの?」
 恭介は、缶コーヒーを啜る。少し説明が長くかかるようだ。その眼は、またレゥちゃんの方に戻っている。
「確かに、オレは、あいつを起動する時に、あいつのマスターとしてオレ自身を登録した。名義上、というのはそういう意味なんだ。
 でも、実際には、あいつは、オレの言う事を聞かない事もあるし、オレがはっきり言わない事でもやる事もある。一応、オレの意を酌んでくれてはいるようだけどな。 少なくとも、あいつにとって、オレは、普通のレプリスにとってのマスター、というのとは、明らかに接し方が違うんだ。 お転婆な妹に手を焼いているアニキ、という辺りが妥当なんじゃないかな」
 まあ、概ねそんな感じよね。
「ただなあ…。オレも、よく判らなくなる時があるんだよ。あいつには、本当にマスターが設定されているんだろうか、ってな」
「どういう事?」
「まず、あいつは、オレがあいつのマスターだ、なんて認識すらない。それどころか、マスターという概念さえ知らない」
「そうなの?」
「試しに、あいつに聞いてみろよ。『あなたのマスターは誰なの?』って。あいつは、絶対に『ますたーってなに?』って答えるぞ。賭けても良い」
「ギャンブラーの恭介と賭をする気は無いわよ。でも、それって、なんか間抜けなやり取りだよね」
「まあな。それに、他にもある」
「何?」
「あいつがオレに懐いているのは、オレがマスターだからじゃなくて、あいつが生まれた時に傍に居たのがたまたまオレだったから、なんじゃないか、と思うんだ。
 実際、生まれた直後のあいつは、オレにも懐いていなかった。 ただ、赤ん坊みたいに泣き喚いていて、オレがボールや縫いぐるみを見せてあやしても、全然泣き止まなかった。
 その内、あいつが『おなかすいた』って言い出した。で、オレがご飯をやるから、って言った途端、それを境にして、急にオレに懐くようになったんだ。
 つまり、あいつは、生まれて最初にご飯をくれた相手、自分を保護してくれた相手に懐いた。単にそれだけなんじゃないか、と思うんだよ。 それが、オレ以外の誰か、だったとしてもな。
 これって、要するに、刷り込み、みたいなものだと思わないか?」
「産まれたばかりの雛に、おもちゃを見せると、そのおもちゃを親鳥だ、って思い込む、あれ?」
「そう。もし、あの時最初にご飯をあげたのがオレじゃなかったとしたら?  もし、それがひとえだったら、あいつは、ひとえの事を『おねえちゃん』って言って懐いたかもしれない。例え、起動の時にオレの名前が登録されていてもな」
「そういう事があり得るの?」
「判らないんだ。今さらやり直しは効かないからな。
 ただ、もしそうなんだとしたら、あいつは、本当に人間そのものなのかもしれない、って思うよ。人間の赤ちゃんだって、傍に居て、自分を保護してくれる人に懐くだろ?  例え、それが生みの親でなくても、さ。それと、あいつと、一体何が違うんだろう、って思うんだよ」
「そうね…」
 私は、レゥちゃんの方を見た。レゥちゃんは、葉っぱの大きな観葉植物を、しげしげと眺めている。時々、葉っぱを摘んで裏返したりして。可愛い。
「でも、それでもやっぱり、あいつには、人間と違う所もある。精神的なストレスが、直接体に響く、っていうのもそうだ」
「それも、人間と同じなんじゃないの? 人間だって、胃潰瘍とか、精神的なストレスで病気になる事があるじゃない」
「まあな。ただ、あいつの場合は、それが極端過ぎる。昨夜話した通り、笑っちゃうような話でも、下手したら、胃に穴が開くどころか、体に穴が開きかねない」
「そんなに酷いの?」
「あいつ、『うでがいたい』って言ってたろ? あれは、肘の辺りに、人間でいう神経組織が密集していて、そこに大きなダメージを受け易いからなんだ。 この間は、痛いだけで済んだけど、下手をしたら、腕がもげる」
「…本当なの、それ?」
「ああ。オレもアニキにそう聞いただけで、まだ、実際にそんな事にはなった事は無いけどな。それに、もげた腕も、治療が早ければ、ちゃんと元通りにくっつく。 いきなり取り返しがつかなくなる事は無いけど、それでも、そんなのはあいつにとって良い事じゃない。その辺りを、何とかしてやらないといけないんだよ」
「…難しそうね」
「まあな。でも、やると決めたんだから、やってみるしかないだろう」
「そうだよね」
 私達は、またそろってレゥちゃんの方を見た。今度は、壁に埋め込まれている水槽を眺めていた。魚の動きに合わせて、その体が上下左右に揺れる。

「そうだ、ひとえ」
 恭介が、いきなり思い出したように私を呼んだ。
「何?」
「ひとえは、蕾花さんをどう思う?」
「どう、って?」
 何よ、私に、他の若い女の人の値踏みをさせよう、っていう訳?
「どんな印象を持った?」
「どんな、って言われても…美人で、仕事ができそうで、車の運転が上手で、でも少し事務的な感じがして、言葉遣いが丁寧過ぎて、少し取っ付き難そうだけど…」
 でも、素敵な笑顔もできる人。彼女が最後に見せてくれた表情を思い出す。
「なるほどな。なあ、ひとえ。あの蕾花さんが、実はレプリスだ、って言ったら、信じるか?」
「…何ですって?」
「蕾花さんは、実は、タイレルの日本支社で開発された、最新のレプリスなんだ」
「…嘘でしょ? だって、髪の毛だって黒かったし」
「髪なんて、かつらでどうにでもなる。瞳をコンタクトで隠せるようにな」
「だって、車の運転だってしてたじゃない!」
「上手だったんだろ? なら、問題無い」
「免許は?」
「当然持ってる。人間の振りをして、ちゃんと公認の自動車学校に通って免許を取ったんだってさ。 その学校の、免許取得期間最短タイ記録、実技検定満点、その上学科試験も満点、なんてものまでおまけに付いてきたらしい」
「でも、何でそんな人が、って言うかレプリスが、車で送迎なんてやってるのよ」
「これも、モニター・テストだよ。ちゃんと社会に適応してただろ?」
「それは、そうだけど…」
「言葉遣いが丁寧過ぎる、っていうのが玉にきず、なんだってさ。少し不自然なぐらい丁寧だったと思わないか?」
「そう言われれば…」
 私が考え込んだのを見て、恭介は、ぼそりと呟いた。
「…嘘だよ」
「何ですって?」
「全部嘘。蕾花さんが、タイレルの日本支社が造ったレプリス、だなんて嘘だよ。あの人は、正真正銘、人間だ」
「どうして、そんな嘘を吐いたのよ」
 理由次第では、今度こそ殴るからね。百発ぐらい。
「一昨日の朝に初めて蕾花さんを見た時、オレも、一瞬、この人はレプリスなんじゃないか、って思ったんだよ。 やたら話し方が丁寧だし、最低限の動作しかしない。名前も少し変わってるし、人の顔を見て話さない。何か、変な感じがしたんだ。
 でも、そんな事は無かった。と言うか、日本支社では、まだあそこまで人間と見分けがつかないようなレプリスは造れないらしい。 今回の、レゥの治療で得られたデータが役に立ちそうだ、って喜んでたよ。アニキには言えないけどな。
 で、ひとえはどう思うかな、と思って、ちょっと試してみたんだよ。悪い」
「…本気で殴るわよ」
「まあ、怒るな。でも、ひとえも、一瞬信じそうになったじゃないか。どうしてだ?」
「…それは、言われてみればそうかも、って思っただけよ」
「だろ? レプリスのように見える人間も居て、人間のように見えるレプリスも居る。外から見てるだけじゃ判らない。もう、そんな所まで来てしまっているんだよ」
「…何だか、私も、自分が本当に人間なのかどうか、不安になってきたわ」
 思わずそう呟いて、私は、背筋に軽く寒けが走るのを感じた。
 もし、私が今まで選択してきた事や、今抱いている気持ちが、全て誰かにプログラムされたものに過ぎないのだとしたら──そんな事はあり得ない、と判ってはいても、それは「私」というモノ自体を、曖昧で、不確かなものにしてしまう考えに思えた。
 その上、色白の綺麗な女の人が、皆レプリスに見えてきそう。そう思って、ゆかりさんの事を思い出した。あの人は、まさか、ねえ。
 私がその事を言うと、恭介は笑った。ゆかりさんに連絡した事は彼にも言ってある。ゆかりさんは、まだ来ていなかった。
「確かにそうかもな。色白の美人、っていう外見だけなら、あの人も条件は合ってるし。 でも、あんな、会ったばかりのオレをいきなり叱りつけるような、ひとえの相談にすごい親身になってくれるような、 すごく人間臭い人がレプリスだ、なんて事になったら、ひとえはどうする?」
「どうもこうも…。何を信じれば良いのか、判らなくなるよ」
「そう。これからは、今のひとえのように不安になる人間がどんどん増える。レプリスが、そのうち合法化されて、社会に溶け込んでいけばな。 ひとえがやろうとしてる事は、多分、そういう人間達にとっても、役に立つと思うよ」
 …恭介、そういう事が言いたかったの。まったく、話の要領が悪いんだから。
 私は、缶コーヒーを一口飲んだ。搭乗手続が始まる時が迫っていた。

「ねえ、おにいちゃん、ひとえちゃん」
「何?」
 恭介に呼ばれて、やっと戻ってきたレゥちゃんは、しばらく私と恭介とを等分に眺めていたが、何か不思議なものを見るような顔をして言った。
「おにいちゃんたちは、おわかれのきすはしないの?」
 …はい? 何、あどけない顔をしてそんな事を訊いてくるのよ、この子は。
「だって、てれびでみたよ。こいびとどうしが、くうこうでわかれるときは、かならず、きすをするんでしょ?」
 ……何となく、この子の中途半端な知識の源が判ったような気がする。よくもまあ、今まで変な方向に知恵がつかなかったものね。
「ねえ、しないの?」
 ………だから、そんな、無邪気そのものの顔で訊かないでよ。恭介も、何か頭が痛そうな顔をしている。
 でも、まあ、間違った知識、っていう訳でも無いわよね。
「恭介」
 私は、恭介の側に寄ると、その首に腕を回した。
「おい…」
「良いじゃない。間違ってる訳じゃ無いんだし」
「それはそうだけど…おい、レゥ、おまえはあっち向いてろ」
「えー、なんでー?」
「何で、も何もない! こういうのは、すぐ横でじろじろ見るもんじゃないんだ。いいから、あっち向いてろ」
「ちぇー」
 レゥちゃんが、残念そうにしながら、私達に背中を向ける。
 恭介が、私の方を向いた。真っ直ぐに私の眼を見つめている。私も同じ。少し背伸びして、顔を近づける。目を閉じた。

 恭介。しっかりやりなさいよ。私も、がんばるから。

 唇を離すと、いきなりレゥちゃんが話し掛けてきた。横目で覗いてたわね、この子は。
「ねえ、いまのきすって、おにいちゃんとレゥが、いつもしてるのとちがうね」
 顔は無邪気そのものでも、その発言内容は、まさしく爆弾。
「ちょっと、恭介! あんた、レゥちゃんと、いつも何やってるのよ!」
「違う! 誤解だ! こいつが言ってるのは、挨拶みたいなもんだ! ほら、海外のホームドラマとかでよくあるだろう!」
 …頭痛い。確かに、父親と娘が、父親の出掛けに挨拶でするのもあるけどさ。影響され過ぎよ。
「じゃあ、後ろめたい所は無い、という訳ね?」
「もちろん」
「じゃあ、ここでやってみて。この、私の目の前で。できるでしょ? やましい所が無いんだったら」
 意外な成り行きに、レゥちゃんが期待のこもった眼で私達を見ている。まったく、この子は。
「よし、やってやる。ちゃんと見てろよ」
 あ、本当にやる気か、恭介。
 にこにこして待っているレゥちゃんに、恭介が顔を近づける。ほんの一瞬、ちょんと触れるだけのキス。レゥちゃんは、本当に嬉しそうな顔。なんだかなあ。
「…どうだ、これで納得したか?」
「うー…」
 まあ、確かにね。レゥちゃんもあれでご満悦だし、確かに挨拶程度なんだけど…。でもなあ、ホームドラマの女の子は、こんなハイティーンの女の子じゃないもんね。
 この、言いようもない胸のもやもやを収めるには、どうすれば…あ。
「レゥちゃん」
「なに?」
「ちょっと、こっち」
 私は、まだにこにこしているレゥちゃんを手招きした。彼女が一歩こちらに足を踏み出した所に、すかさず私からも一歩踏み出す。 レゥちゃんが反応する前に、その頬に手を当てて、顔を寄せる。思い切って、その、ピンク色のふくよかな唇に、私は、自分の唇を当てた。一瞬で、すぐに身を引き離す。
「ひとえ…おまえなあ」
 恭介が、頭を抱えている。
「ふぇ…?」
 レゥちゃんは、きょとんとしていた。何をされたのか判らなかったのかも。
 私は、少し顔が熱くなるのを感じながら、レゥちゃんに言った。
「これは、『おねえちゃんのキス』よ。…嫌だった?」
 その言葉を聞いたレゥちゃんの顔に理解の色が広がり、そしてそれが、満面の笑みに変わった。真っ青な真夏の空の下に咲く、大輪の向日葵みたいな笑顔。
「ひとえちゃん!」
 レゥちゃんは、思いっきり私の首っ玉にかじりついた。私のより細い腕の、何処に隠されているんだろうと思うような、強い力で。そう、これも、レプリスの力。 でも、全然怖くない。
 …怖くないのよ。怖くないんだけどね、そろそろ弛めてくれるとね、おねえさん嬉しいかなぁ、って、思うんだけどね、ね、お願いだから弛めて!
「レ、レゥちゃん、ちょっと、痛い、痛いって!」
「あ、ごめんなさい」
 私の悲鳴に似た声に気付いて、レゥちゃんが体を離した。あぁ、死ぬかと思った。
「…自業自得だ、莫迦」
 恭介が、呆れたような顔して私を見ている。私は、その顔を思い切り睨み付けてやった。
 恭介、あなた、挨拶のキスなんて教えてる隙があったら、先に、ちゃんとレゥちゃんに「何事にも限度というものがある」っていう事を教えておきなさいよ、まったく。
 恭介の呆れ顔が、だんだん崩れる。私も、睨み付けている顔が弛んでいくのが判る。それを見ていたレゥちゃんも、満面の笑み。
 私達三人は、一斉に破顔した。別れの寂しさも、悲しさも、全部吹き飛んでしまった。

 搭乗手続が始まった。私達の別れは、あっさりしていた。
「じゃあな、ひとえ」
「ひとえちゃん、またね」
「ええ、またね」
 搭乗手続のゲートが開く。二人は、そのゲートに向かって歩いて行った。二人が、最後に振り返って手を振るのに、私も手を振り返す。 二人の姿が、ゲートの向こうに消えた。
 私は、そのゲートをしばらく見つめていた。
 二年前、同じこの空港で、私は、恭平兄さんがアメリカに戻っていくのを見送った。あの時、私は、泣いていた。
 今、私の目に涙は無かった。ただ、あの二人が幸せであるように、そして、私が幸せな二人に再会できるように、誰にともなく祈っていた。



─ Scene 11 : 二人の飛翔 ─

「行っちゃったみたいね」
 後から声がした。振り返らなくてもそれが誰の声だか判る、このほんの数日の間に、すっかり私の耳に馴染んだ、優しい声。
 私は、ゆかりさんに振り返った。昨夜別れた時の服装の上に、純白の長い白衣を羽織って、そのポケットに両手を突っ込んでいる。背筋を伸ばした、綺麗な立ち姿。
 この人が、もしレプリスだとしたら──さっきの会話を思い出してみる。それでも、私は、やっぱりこの人が好きだよ。そんなの、関係ないよ、恭介。
「はい。来ていただいて、ありがとうございます」
「いいのよ。私も、あの子にもう一度会いたかったから。少し間に合わなかったみたいだけどね」
 私は、探るような視線をゆかりさんに向けた。この人、私が本気でそれを信じてると思ってるんだろうか。そんな、間に合わなかった、なんて事を。
 私の視線に気付いて、ゆかりさんが訊く。
「何?」
「いえ、何でもないです」
「そう? 何か、私に訊きたい事がありそうな、そんな眼をしてたわよ」
 考えている事が顔に出るのを治すには、どうしたらいいのかな。まあ、今回は別に隠す気も無かったけど。
「あの、ゆかりさん…」
「…いつまでもこんな所に居ないで、上に行かない?」
 私が何か訊こうとするのを、ゆかりさんが遮った。ゆかりさんが、人の話を遮る、なんて珍しいような。
「上、ですか?」
「そう。どうせなら、飛行機が飛び立つまでお見送りしましょうよ。離陸まで少しかかるから、それまで、お茶でも飲みながら。どう?」
 この空港ビルの屋上には、露天の展望スペースがある。滑走路が一望できるそこからは、飛行機が空港ビルを離れて離陸するまで、一部始終を見る事ができた。
 ゆかりさんは、話があるならそこで聞く、って言ってるんだ。搭乗手続が始まってから、乗客が全員乗り込んで離陸するまで、確かにまだ時間はある。
「はい、是非」
 肯いた私を見て、ゆかりさんは歩きだした。私も後に続く。服装からすると、ゆかりさんは、大学から直接ここに来たとしか思えなかった。
 そんな、徹夜明けなのに悪いです、また今度で良いですから──そう言いかけた言葉を飲み込んだ。 ゆかりさんが、行こう、と言ったんだから、そんな事を私が言っても意味が無い。 ゆかりさんは、そういう人なんだから。

 季節はまだ夏には遠かったけど、陽射しにはもうその気配が充分に含まれていた。晴天の空の下に出ると、少し暑いような気がした。
 広大な展望スペースには、その広さに比べれば、人影は少なかった。私とゆかりさんは、ここに来る途中にあった、カウンター式のコーヒーショップで、 冷たいロイヤル・ミルクティーを買い込むと、人が疎らな所を見つけて腰を落ち着けた。
 展望スペースを取り囲んでいる、テロ防止用の、背が高くて頑丈だけど、何も無いように見えるぐらい透明な壁の側に寄る。
「どの飛行機なの?」
 ゆかりさんが、私に訊いた。長大な空港ビルの、その長辺に沿って、沢山の飛行機が駐機している。 私は、さっきの待合室の付近に泊まっている機体の中から、二人が乗った飛行機の航空会社のマークを探した。
「あれです」
 私が指し示した先には、白くて巨大な飛行機が泊まっていた。太い胴体に巨大な翼、そこにぶら下がっている、四つのやはり巨大なエンジン。 その、何階建てものビルに相当しそうな高さのある、これまた巨大な垂直尾翼に、お目当てのマークが描かれている。
「大きい飛行機なのね」
「胴体の前から後まで、全部二階建てになってるそうですよ。中は凄い豪華で、ちょっとしたホテルみたいな感じだ、って。恭介が言ってました」
「この時期に、よくそんな飛行機が取れたわね。行くのが決まったのは、昨日なんでしょう?」
「まあ、昨日か一昨日かのどちらかなんでしょうけど、その辺は、病院の伝で何とか上手くいったそうなんです。何しろ、事が事なので」
 思わず、タイレルの名前を出しそうになる。申し訳ないとは思うけど、これはゆかりさんには話せない。少なくとも、今は。
 二人の乗った飛行機は、細長い連絡通路で空港ビルと繋がっていた。その姿は、私に、母親と臍の緒で繋がれた胎児を連想させた。 あの夜から今日までの出来事を経験していなければ、多分、いやきっと、私は、そんな連想はしなかった。
 感心したような表情でその飛行機を眺めていたゆかりさんが、私の方を向いた。
「離陸まではまだ掛かりそうね。それで? 何か、私にお話があるんだっけ?」
「あの、さっき、間に合わなかった、って言ってましたけど、本当なんですか? 幾らなんでも、タイミングが良すぎると思うんですけど」
「いいえ。本当は、少し前から来てたわ。なんか、邪魔するのも悪いような感じだったから、離れて見てたの」
 ゆかりさんは、あっさり認めた。私が気が付いたんだから、隠して焦らすのも面倒、みたいな感じで。
「そんな、声を掛けてくれれば…。誰も、ゆかりさんを邪魔になんかしません」
「そう? 何か、三人で楽しそうな事してるなぁ、って思ったんだけど?」
「…あの、どの辺から見てたんですか?」
「あなたが、彼と『おわかれのきす』をしてる所、ぐらいから」
 …穴があったら入りたい、っていうのは、こういうのを言うのかな。それに、レゥちゃんの口真似までする所からして、声も聞こえる所に居たんだ。
「楽しいものを見せてもらったわ。コントみたいで。あれを見れただけでも、来た甲斐があったってものだわ。どうもありがとう」
「…いえ、どういたしまして…」
 私は、ゆかりさんをまともに見る事ができなくて、ミルクティーを啜りながら飛行機の方を見た。 まだ連絡通路も切り離されていない。大きいだけに、搭乗にも時間が掛かりそう。
「まあ、お別れが楽しい、っていうのは良い事だと思うわよ。次に逢う時の楽しみも増えそうだし」
「そうですね…あの、ゆかりさん」
「何?」
「ゆかりさんは、たえさんとはどういうご関係なんですか?」
「どうして、そんな事を訊くのかしら」
 私は、自分の携帯の画面が見えるように、ゆかりさんに翳した。さっき、ゆかりさんに電話をした時の、あの発信履歴の情報を表示させて。
「ああ、そういう事ね。しまったわね、これがあったのを忘れてたわ」
「それも本当なんですか? 忘れてた、って」
「どうしてそう思うの?」
「だって、普通、自分の携帯の番号を人に教える時、って、携帯同士でデータの転送をするじゃないですか。その方が、間違いが無くて確実ですし。
 それを、あんな風に紙に書いて渡したのは、私がこれに気付くかどうか、って試したんじゃないんですか?」
「あの時は、携帯を持ってなかったのよ。うっかり研究室に忘れてきちゃってて」
「本当ですか? ゆかりさんみたいにしっかりしている人が、責任感のある人が、携帯を忘れて、自分に連絡がつかなくなるような事をするなんて、思えないんですけど」
「誉めていただいたのは光栄だけど、私だって、うっかりする事はあるわよ」
「じゃあ、この名前が出るようになっていたのも、うっかりなんですか? これ、出ないようにしてあるのが普通ですよね。私だってそうしてますし。 それに、名前を知らない人に知られるのが嫌な人の方が多いですから、初めはそうなってますし。これって、わざと出るように設定しないと、普通は出ないですよね。 私に番号を教えた後で、わざわざ出るように設定し直したんじゃないんですか?」
 ゆかりさんは、ミルクティーを啜りながら、いつものお気楽そうな表情で私の言葉を聞いていた。
「それに、どうして『阿見寮』の名前を知っていたんですか? 私、一度も話した事が無いと思うんですけど」
「あの写真に写ってたのよ。ほら、彼の従妹の子の部屋で見せてもらった写真に、寮の看板がね」
「いいえ、あの写真からは、名前は判りません。寮の看板は、全部は見えてないんです。せいぜい、最初の『阿』の字が見えるかどうか、ぐらいで。 ちょうど、私の後になってたから、よく覚えてます。『阿見寮』なんて、初めから知らなければ、あの写真からだけでは言えない名前です」
 私が言葉を切ると、ゆかりさんは、しばらく何かを考えるような顔をして、それから口を開いた。
「その通りよ。よく気が付いたわね。そのうち気付くとは思ってたけど、正直言って、こんなに早い、っていうのは意外だった。 あなたの事、少し侮ってたみたいね。ごめんなさい」
「…どうして、そんな、試すような事をしたんですか?」
「それも判ってるんじゃないの?」
「ゆかりさんが、たえさんと関係のある人だ、っていう事を私に隠そうとしたから、っていうのは判ります。でも、どうして隠す必要があったんですか?」
「あなたが可愛かったから、少しからかってみたくなったのよ。ちょっとした推理ものみたいで、面白かったでしょ?」
「…それだけ、ですか? 本当に?」
「…怒ってるの?」
「そうじゃありません。ただ、理由を知りたいんです。本当の、理由が知りたいんです」
 そう、私は、別に怒ってはいなかった。からかわれたのは確かだから、その事は少し気に障ったけど、そんな事はどうでもよかった。
 私は、ゆかりさんの眼をじっと見つめた。ゆかりさんも、少し私を見つめていて、そして、諦めたように口を開いた。
「たえに言われてたのよ。できれば、自分との繋がりは気付かれないようにして欲しい、ってね。いずれ判るとは思うけど、できるだけそうしてくれ、って。 だから、初めは名字を伏せてたんだけど、今考えたら、初めから言ってしまって、同姓の赤の他人を装ってた方が良かったかもしれないわね。 調子に乗っちゃって、ヒントも出し過ぎてしまったし。策士策に溺れる、とはよく言ったものだわ。まあ、策、なんて大したものでもないけどね」
「じゃあ、あれも嘘なんですか? その、自分の名字が嫌いだ、っていうのも」
「ああ、それは本当よ。だって、あのたえと同じ名前だなんて、考えただけでぞっとするわ」
「…たえさんの事が嫌いなんですか?」
「嫌いに決まってるじゃない。あんな、酔う度に人に絡んでは管巻いて寝るような女、誰が好きになる、って言うのよ」
 …それも嘘ですね、ゆかりさん。だって、そんなに眼が楽しそうに笑ってます。
「どういうご関係なんですか?」
「まあ、従姉妹、って言って良いんだと思うわよ。実際は、もう少しややこしいんだけど、まあ些細な事だから」
「たえさんは、どうしてそんな事をゆかりさんに言ったんですか? その、繋がりを気付かれないように、なんて事」
 ゆかりさんは、また少し黙ってしまった。でも、ミルクティーを一口飲み込むと、何かを吹っ切ったように話し始めた。
「まあ、ここまできたらしょうがないわね。あなたも、聞かないと気が済まないでしょうし。
 三月の終わり頃にね、たえから電話があったの。今度、私の所に知り合いが、つまりあなたが入るから、面倒見てやって欲しい、って。 別に、普段は何もしなくても良いけど、本当に困っていそうな時は、手を貸してあげて欲しい、って。 あなたがそれを断った時は仕方無いけど、もしそうじゃない時には、できる限り助けてやって欲しい、ってね。 自分は、この場所を離れる事ができないから、代わりに私にやって欲しい、って。正直、面倒な事を頼んできたわね、って思ったわ。その時はね」
「どうして、そんな…」
「さあ? 私にはよく判らないわ。あなたに心当たりが無いんなら、ただの気まぐれだったのかもね」
 いや、私にはある。心当たりはある。でも、それを人に言う事はできなかった。何の確証も無い事だったから。ただ、私が、そう確信しているだけの事だったから。
「まあ、そういう訳で、私は、あなたが入学してきた時から、あなたの事をそれとなく観察してた、って訳。 たえが、あんまりしつこいもんだし、今度何か好きなものを奢るから、って言うし、それで渋々、ね。 まあ、観察と言っても、別に尾行なんてしてないわよ。休み時間とか、放課後とかに、用事のついでにちょっと様子を見てみる、ぐらいだからね。
 でも、私には、何の心配も無いように見えたわ。恋人も居て、毎日楽しくやっているように見えた。 正直、なんでこんな幸せそうな子をあんなに心配してるんだろう、って思った。私だって、恋人が居ないのに、って」
 そう言って、ゆかりさんが悪戯っぽい眼で私を見る。私は、恥ずかしくなって、顔を伏せた。ゆかりさんは、またミルクティーを飲んで、話を続けた。
「まあ、そんなに照れなくても良いじゃない。ちょっとぼやいてみたくなっただけ、なんだから。
 それで、いい加減飽きてきちゃって、もう止めようかなぁ、って、たえには、心配無さそうだから、って言っておけば良いかな、って思ってたのよ。
 ただ、それも面倒臭くて、ずるずると後回しにしているうちに、あの新歓コンパの日まで来ちゃった、っていう訳。 ちょうど良い機会だし、一度直接会って話を聞いてみて、特に何も無さそうだったら、たえにも電話して、もういいでしょ、って言ってやろうと思ってたの。 あの子は大丈夫だから、たえが心配するような事は何も無いから、私は手を引くわよ、って。まあ、引くも何も、別に出していた訳じゃないけどね。
 で、あの時、あなたが上手い具合に一人で立ってたから、声を掛けてみたの。後は、まあ良いわよね」
 …なんか、なんかもう、自分が嫌になりそうだった。私は、阿見寮を出てまで、まだたえさんに助けてもらっていた、だなんて。 しかも、それに気が付いてさえいなかった、だなんて。
「たえに申し訳ないとか、心苦しい、とか思ってるんなら、気にしない方がいいわよ。人のお節介を焼きたがるのは、たえの趣味みたいなもんなんだから。 そうでなきゃ、ただでさえ手のかかる高校生がいっぱいいる、しかも男女混成の、なんていう、造った人の常識を疑うような、 幾らでも問題が起きそうな寮の面倒なんて見てないわ。 年頃の男女をあんなに大勢、いくら棟が別れているとは言っても行き来が自由にできるような場所に住まわせるなんて、 ハムスターの雄と雌とを同じ箱に入れて飼うみたいなものじゃない。よくもまあ、今まで問題が起きていないもんだ、っていつも不思議に思ってたわ」
 …私達は、鼠ですか。確かに、私もそんな事を考えた事が無かった訳じゃないけど。
 でも、改めて外の人からそう言われると、その通りかもしれない、という気がする。 大した問題が起きなかったのは、たえさんの眼が厳しかったから、というのはもちろんだけど、でも、何より、あそこに住んでいた私達自身が、 問題を起こさないように、自分達を律していたからじゃないだろうか。 別に、修行僧を気取っていた訳じゃなくて、問題が起きて、この阿見寮が、私達の幸せな居場所が無くなったりするのが嫌だったからなんじゃないだろうか。 「自分達の事は自分達で解決する」っていう伝統は、そういう事だったんじゃないだろうか。
「まあ、切っ掛けはともかく、私は、あなたが困っているようだったから、少し手を差し伸べてみただけ。 その手を取るかどうかは、あなたが決める事だったんだし、そんなに気にする必要は無いわ。
 あの時も言ったけど、私が手を出した事に感謝してくれるんなら、ちょっとだけ、言葉にして表わしてくれれば、それで良い。 あなたは、また、別の人にそれをしてあげればいいのよ。手を出した人は、好きで手を出したんだから、その人に何でも返さなきゃいけない、なんて事は無いと思うの。
 言ったでしょ? 私には、自己犠牲の精神の持ち合わせなんて無い、って。だから、あなたは、必要以上に気にする必要は無いの。
 まあ、たまに、冷たいチョコレート・ドリンクをご馳走してくれるとか、駐車違反の反則金を弁償してもらうとか、そのぐらいは良いかもしれないけどね」
「…違反、取られたんですか?」
「冗談よ。大丈夫、幸いにしてね。あの辺、あまり頻繁に見回ってないみたいよね」
 ゆかりさんの、楽しそうな眼が私を見ていた。私も、その眼を見て、そして、二人してくすくすと笑った。口に含んだミルクティーの甘い香りが気持ち良い。 二人の乗った飛行機は、まだ動き出していなかった。

「それに、あなたは、もうそれをしてしまっているようだしね」
 しばらくその飛行機を見ていたゆかりさんが、また口を開いた。ゆかりさんが、何の事を言っているのかは、だいたい判る。 でも、この人は、何を、どこまで知ってるんだろう。
「あの子、あの彼氏の従妹、っていう子、ものすごく元気になってたじゃない。正直、驚いたわ。 昨夜の様子からは想像もつかないぐらい明るくて、あんなにあった翳りは何処に行っちゃったんだろう、私の見間違いだったんじゃないか、って思ったわよ。
 あれは、あなたのお陰なんでしょう?」
「それは、少しはそうなのかもしれません。でも、私は、私の為にやったんです。 私がしでかしてしまった、とんでもない事を、取り返しがつかなくなる前に何とかしたい、って思って。 そうしなければ、私は、この後どうやって生きていけばいいのか判らなくなるかもしれない、って思って、怖くてしょうがなかったんです」
「別に、良いじゃない、それで。結果的に、あの子は元気を取り戻したんだから。 あなたが、どんな動機でしたのか、なんて、あの子にとっては、どうでも良い事だと思うわよ。 そうじゃなきゃ、あの子、あんなに嬉しそうに、あなたに抱きついたりしないわ。そうでしょ?」
 そうなのかな。そうなのかもしれない。大切なのは、あの子が、レゥちゃんが元気になった、それだけなのかもしれない。
「凄く痛そうだったけど、大丈夫だった? 首の筋とか、違えてない?」
「ええ、まあ、何とか。死ぬかと思いましたけど」
「それは何よりね。まあ、本当に死ぬまでやる訳は無いんだけどね。そうでなければ、そういう加減がきちんとできるのでなければ、あんな力が与えられてる筈が無いもの」
「…やっぱり、知ってたんですね」
「それも判ってたのね。やっぱり、あなたの事、侮り過ぎてたみたい。ごめんなさいね」
 やっぱり、この人は知ってたんだ。レゥちゃんが、レプリスだ、って。ヒトに造られたモノなんだ、って。そうでなきゃ、「力が与えられてる」なんて言わない。
 アルビノに拘っていたのも、レゥちゃんにあんな話をしたのも、それを知ってたからなんだ。 あの時、恭介がゆかりさんを睨んでいたのは、彼が、その事に気付いていたからなんだ。
「…やっぱり、ヒントを出し過ぎちゃってたわね。今度からは、もう少しきちんと練り込んでからにしないと駄目ね」
 私が自分の考えを話すと、ゆかりさんは、肩をすくめて溜息をついた。今度からは、って、またやるんですか。勘弁してください。
 でも、ゆかりさんはこう言っているけど、本当は、私に気付かせる為に、わざと色々なヒントをばら蒔いていたんじゃないんですか。 今だって、わざわざ「力が与えられてる」なんて言葉を使って。そんな言葉を使わなければ、私はまだ確信が持てなかったのに。 私が確信が持てなくて、言おうかどうしようか困ってるのを見て、それで、自分から、知っている事を私に知らせてくれたんでしょう?
 ゆかりさんは、周りに少し眼をやって、声が聞こえそうな範囲に誰も居ない事を確かめた。この先の話は、誰かに立ち聞きされる訳にはいかなかった。 更に念を入れるように、声を潜める。
「まあ、結論から言うと、私はあの子がレプリスだ、っていう事には気付いてたわ。確信が持てたのは、つい昨日の事だけどね」
「写真を見た時、ですか?」
「あれも、少しわざとらし過ぎたわね。もう少し、演技の勉強でもしようかしら。
 でも、その通りよ。あの子の部屋で、あの写真と、絵とを見て、その後本人にも直接会って、確信したの。この子は、レプリスだ、って」
「ゆかりさんは、今までにレプリスに会った事があるんですか? テレビとかで発表されているような事だけじゃ、絶対に判らないと思うんですけど」
「会った、というか、見た、と言った方が良いわね。私ね、親戚にタイレルの人間が居るのよ。 タイレルの創設当時から関わっているような、今でも重要な役職に就いているような、そういう立場の人がね。 その人に見せてもらった事があるの。本当は内緒なんだぞ、ゆかりだから内緒で見せてあげるんだぞ、って言ってね。 その人は、私の事を莫迦みたいに可愛がってくれてた人だから、どうしても自分達が造り出したものを自慢したくてしょうがなかったんじゃないかしら。
 で、その時、見たのよ。世界で初めて開発された、っていう、レプリスの記録映像をね。 まだ、タイレルが創設される前に造られた、っていう、今ではその存在自体が疑われているような、本当の、世界最初の、ヒトガタのレプリスの、ね。
 綺麗だったわ、それは。本当に綺麗で、レプリス全ての母親になるのに相応しいような神々しさで。長くて色素の薄い、硝子みたいな髪をして。 最上級の陶器もシルクも敵わないような、輝くような真っ白い肌をして。そして、紅玉のような紅い眼をしていたわ。 深くて、静かで、何者もその前では自分を隠せなくなるような、自分をさらけ出さずにはいられないような、美しいけど、でも、とても恐ろしい瞳だった。
 こんなモノを、ヒトが造り出した、なんて信じられないぐらいだった。どうしてこんなモノを造ったんだろう、って思った。
 それからしばらくして、たえの所に、可愛い女の子が来た、っていう話を聞いたの。たえ自身からね。 渡良瀬、っていう男の子の所に、いきなり海外から一人でやって来て、こちらに身寄りも無くてその男の子の部屋に隠れてた、って。 事情を聞いたら放っとけなくなって、その子も素直で可愛い子だったから、自分の部屋に住まわせてあげる事にしたの、って。 もう、それは嬉しそうに話すのよ。お酒も少し入ってたけど、あの時のたえのにやけた顔ったらなかったわ。その子に変な事でもしないか、って心配になったもの」
 …たえさん、あなたっていったい…。
「でね、その時にその女の子の特徴を聞いたのよ。髪とか肌の色とかね。それが、何となく映像で見たレプリスと重なったから、聞いてみたの。目の色は何色?って。 そうしたら、別に普通よ、ちょっと灰色っぽいけど黒だよ、って言うから、まあ関係無いか、って思って、それっきり忘れてたのよ。
 それを、昨日、あの部屋で思い出したの。あの写真を見てね。写真の子が、あの記録映像のレプリスと、凄く似てたから。 あの映像のレプリスより、少し幼く見えたけど、もしこの子があと五歳ぐらい成長したら、あのレプリスに生き写しになるだろう、っていうぐらい似てたの。
 そして、あの絵。あの絵は、その子が、自分の本当の姿を描いたものなんじゃないか、って。だから、眼が赤い色で描いてあるんじゃないか、って思った。 そう思ったら、後はもうあっと言う間よね。世界最初のレプリスにそっくりな子が、そのレプリスを造った渡良瀬の家の息子の所に居るんだもの。 それも、海外からいきなり一人で、なんてあり得ない登場の仕方までしてるんだから、これで確信が持てない方がおかしいわよね」
「それで、あの時レゥちゃんにあんな事を言ったんですか?」
 ゆかりさんは、ミルクティーを一口飲んで、少し言葉を探すようにしていた。私も、自分のを少し飲んで、彼女の言葉を待った。
「あの写真のあの子は、ものすごく可愛かったわ。可愛くて、幸せそうにしてた。でも、それは本当に幸せなのかな、って思ったの。 自分の眼を、自分の本当の姿を隠さなければ幸せが得られないのだとしたら、この子は、本当に幸せなんだろうか、って。 本当は、この絵みたいに、ありのままを出したいんじゃないか、って。
 でも、それが、あの子が自分で選んだ生き方なんだとしたら、それは、私が口を出す事じゃないわ。私は、あの子に何もしてあげる立場じゃ無いんだから。 でも、それでも、どうしても言っておきたい事があったの。どうしても、覚えておいてほしい事があったの。 それを聞いて、あの子がどう思うのかは判らない。もしかしたら、何も感じないかもしれない。それでも、せめて覚えていてほしかった。 何かあった時に、もしかしたらその言葉を支えにしてくれるかもしれない、そう思ったの。 それぐらい、そう思わざるを得ないぐらい、あの時のあの子は辛そうに見えたのよ」
 ゆかりさんが私を見た。真っ直ぐな、真剣な瞳で。その眼差しに、思わずどきりとさせられる。
「そして、あなたは、私が言った事をちゃんとあの子に思い出させてあげた。私が言った事が嘘じゃなかった、ってあの子に信じさせてくれた。 私は、自分が間違った事を言ってなかった事が判って、本当に嬉しかったわ。だから、あなたには、どんなに感謝してもしきれないぐらいなのよ」
 それは、思いがけない感謝の言葉だった。この人が言う事は、いつも、私の意表を突くような事ばかりだ。その突然の言葉に、私は、何も応える事ができなかった。 どう応えれば良いのか判らずに、ただ、戸惑っていた。 ゆかりさんは、そんな私を優しい眼で見つめていたけど、やがて、視線を飛行機の方に移した。
 沈黙が流れた。初夏を思わせる暖かな風の音だけが、広大な展望スペースに流れていた。
 しばらく黙り込んでしまっていた私は、ようやく、話の接ぎ穂を見つけた。自分でも不器用過ぎるな、と思いつつ、口を開く。
「じゃあ、あの、恭介の眼も赤くなっていたのは、どういう意味があるんでしょうか?」
「それは判らない。本人に聞かなければね。でも、彼は、あの子の家族よ。たとえ、血が繋がっていなくてもね。あの子の本当の姿を知っている、ただ一人の人。 だからじゃないかしら」
 本当に、それだけなんだろうか。いや、それもゆかりさんの推測に過ぎないから、本当の理由は、この人が言うように、レゥちゃん本人に聞かなければ判らない。 でも、ゆかりさんには、他にも思い当たる事があるんじゃないだろうか。私は、壁越しに滑走路を見つめるゆかりさんの横顔を見ながら、そんな事を考えていた。
「その、ゆかりさんが記録映像で見た、っていうレプリスは、どうなったんでしょうか? まだ生きているんですか?」
「それも判らない。その、私に映像を見せてくれた人も、そこまでは教えてくれなかった。でも、残酷な事を言うようだけど、多分、もう生きてはいないと思うわ。 レプリスはアルビノの特性を持っているし、アルビノの子は弱い。神さまが創った人間でさえそうなんだから、ヒトが造ったモノは、もっと弱いでしょうね」
「そうですか…じゃあ、レゥちゃんも、ヒトより寿命が短いんでしょうか」
 だとしたら、私は間に合わないかもしれない。
「それも、やっぱり判らないわ。その頃からどのくらい技術が進んだのか判らないし、アルビノだからって短命とは限らない。 そもそも、どうしてレプリスがアルビノの特性を持っているのか、それとも持たされているのか、それさえ公表されていないの。 推測だけで言っててもしょうがないから、今は、あの子が幸せになる事を考えるしかないわね」
「そうですね…」
「動き出すみたいよ」
「え?」
「あの二人の飛行機。連絡通路が外されたわ」
 その通りだった。二人の乗った飛行機に接続されていた連絡通路が離れていく。エンジン音が少し大きく、甲高くなった。 飛行機は、誘導車に導かれて、エプロンを動き出した。
 その光景が、また私に一つの連想をさせる。少し恥ずかしいけど…まあいいわ、毒を喰らわば、よ。
「あの、ゆかりさん、さっき、その世界最初のレプリスの事を、『レプリス全ての母親になるのに相応しい』って言いましたよね。 レプリス、って、その、子供を産めるんですか?」
 ゆかりさんが、面白そうな顔をして私を見ている。しまった、また引っ掛けられた。
「あれは、文学的修辞、ってやつよ。本当に子供が産めたのかどうか、それに、あのレゥという子が産めるのかどうかは知らないわ。
 でも、元々レプリスっていうのは、ナノマシンを中核にした医療技術の総称よ。そこには、移植用の臓器の製造、とかも含まれているわ。
 要するに、ヒトガタのレプリス、つまり狭い意味のレプリスというのは、今までバラバラに作ってきた臓器を、全部くっつけたら一人の人間ができるんじゃないか、 っていう発想から造られたものなのよ。その、映像を見せてくれた人の話によるとね。
 もちろん、積木細工じゃないんだから、そんな簡単な話じゃないんだろうけど、平たく言えばそうなるのよ。 レプリスがそういうものである以上、生殖に関する臓器だけを例外視する、という事は、ちょっと考えにくいわね。
 でもね、臓器が有りさえすれば子供が産めるか、というと、それはまた別の話よ。いくら、子宮や卵巣があっても、それらが正しく機能しないと、子供は産めない。 卵子を作って、排卵して、受精して、受胎して、胎盤ができて、って、気が遠くなるぐらい複雑なプロセスが必要になるわ。 それを全部、正しく行なわないと、子供は産めない。少なくとも、まともに育つ子供はね。 レプリスの技術が、当時や、現在も、そこまで進んでいるのかどうかは、私は知らないわ。レプリスが子供を産んだ、なんて話も聞いた事が無い。 まあ、私が知らないだけ、という可能性もあるから、どうしても知りたければ、彼のお父さんにでも聞くのね」
「いえ、別に、どうしても、っていう訳じゃ…」
「それにね、子供は産めなくても、する事はできるわよ。多分ね」
 はい? する、って言うと、話の流れからして、要するに、あれをする、という、そういう事…?
「だって、そうでしょ? 子供を産む事に比べたら、ずっと簡単なんだもの」
 …恭介、あんた、レゥちゃんに「挨拶のキス」以上の事を教えたら殴るわよ。殴りに行くからね。アメリカだろうと何処だろうとね。百発ぐらいじゃ済まさないわよ。
 でも、ついこの間までは、自分がそんな想像をしていた事を思い出すと、本当に穴があったら入りたくなるわ。この辺に掘ろうかしら。

 飛行機の向きが、その前輪を牽引する誘導車によって変えられていく。飛行機が、誘導路に向いた。誘導車が離れていく。
「あの、もう一つお聞きしたい事があるんですけど、いいですか?」
「いいけど、そろそろお金取ろうかしら」
「また、チョコレート・ドリンクをご馳走しますから。あの、私の事を、ゆかりさんの弟子だ、っていう、あの言葉の意味を教えてほしいんですけど」
「ああ、あれね…ねえ、その質問に答える前に、私から一つ聞いてもいいかしら」
 まさか、ゆかりさんに「質問に質問で返すの禁止」とは言えない。私は、小さく肯く。
「あなた、さっきの電話で言ってたわね。こちらでできる事をする、って。それは、あの子の為になる事をする、っていう意味なのよね?」
「はい、まあそんな所です」
「具体的に、何をどうするのかはもう決まってるの?」
「とりあえず、英語をみっちりやろう、って事ぐらいしか…まず言葉が通じないと、やっぱりアメリカには行き難いですし」
「じゃあ、他には、特に具体的な予定とか、目標とかは、まだ無いのね?」
「はい、今の所は。これから考える所です」
「そう。ねえ、ひとえちゃん。あなた、一研に、私の研究室に来ない?」
「…どういう事ですか?」
「私の所ではね、ヒトの心について研究しているの。ヒトの、心、精神、魂、生命、まあ呼び方は何でも良いんだけど、そういうものについての研究をしているのよ。 こう言うとオカルトみたいに聞こえるかもしれないけど、でも、そう呼べるものが存在するのは確かよ。眼には見えないけどね。私にも、あなたにも、それは確かにある」
「はい、まあ、そうですね…」
「自信無さそうに言わないの。で、そういうもの、まあとりあえず、心、って言っておくけど、心の仕組みを解明する、っていうのが、一研の研究テーマなの。 もちろん、それは大テーマで、実際には、もっと具体的で短期的な、中小のテーマがあるんだけど、研究の最終ゴールはそこなのよ」
「心の仕組み、ですか」
「そう。どんなモノにも仕組みはある。何から出来ていて、どういう構造になっている、とかのね。 じゃあ、目に見えない心の仕組みはどうなっているのか、それを知りたいのよ」
「何の為にですか? 心を作る、っていう事なんですか?」
「それは私の知った事じゃないわ。私は、ただ知りたいだけ。ヒトの心が、どういう仕組みになっているのかをね。
 ただ、確かに、仕組みが判れば、それを作る事もできるでしょうね。人間は、そのモノの仕組みさえ判れば、それを作る事ができる。そういう生き物だもの」
「でも、それと、私とが、どう結びつくんですか?」
「あなた、レプリスに心はあると思う?」
「え?」
「さっき言ったわよね。私にも、あなたにも心はある、って。あなたは、自信は無さそうだったけど、否定はしなかったわ。
 じゃあ、レプリスはどう? 神さまが創ったヒトに心がある事を疑う人はいない。なら、ヒトが造ったレプリスに心があるかどうか」
 私は、レゥちゃんを思い出す。あの子には、確かに心がある、と思う。では、リースは? あの、「本来のレプリス」であるリースには、心はあるのだろうか?  恭平兄さんにご飯のお代わりを持って来い、と言われて、その上にお新香を乗せてきたのは、リースの心がそうさせたものなんだろうか?
 私には判らなかった。リースとまともに話した事も無い、私には。今度アメリカに行ったら、できればリースにも会わせてもらおう。そうしないといけない気がする。
「まあ、答えなくても、判らなくてもいいわ。今はね。でも、あなたは、あの子には、あのレゥというレプリスの女の子には、心はある、って思うでしょう?」
「はい、それは」
「でも、それは、本当に心なのかしら? ヒトの心と同じものなのかしら?」
「それは…」
「あの子は可愛いわ。本当に可愛らしい。素直な心を持っているからね。 でもね、それが、本当にヒトと同じ心なのか、それとも、そう見えるだけの別のモノなのか、どうやったら判る?」
 飛行機が、誘導路を進んでいく。ゆっくりと。
「見た目が同じだからといっても、同じように動いて見えるからといっても、それが同じモノかどうか、なんて判らないわ。 空を飛ぶからって、飛行機と鳥とを同じモノとは言わないようにね」
「でも、飛行機と鳥とは、見た目も、飛ぶ仕組み自体もはっきりと違うじゃないですか」
「そう、だから良いの。例えば、飛行機を壊す、という行為に対して、もったいない、とか、乱暴だ、とか思う事はあっても、残酷だ、って思う事はある?  その飛行機にものすごく愛着があれば思うかもしれないけど、大抵の人はそうは思わないわよね。でも、鳥はそうじゃない。そもそも、鳥は『壊す』とは言わないものね。 それは、結局は、飛行機はヒトが造った物であって、壊れても取り替えが利くからじゃない? 見た目も、鳥みたいに可愛い訳じゃないし。 まあ、可愛いと思う人だって居るかもしれないけどね」
 飛行機が、誘導路上で停止した。滑走路が混んでいるのだろうか。
「じゃあ、レプリスはどうなのかしら。レプリスは、ヒトが造った物よ。その意味では飛行機と同じ」
「そんな! レゥちゃんは、物じゃありません。恭介だって、同じ考えです」
「それは、あなた達がそう考えているだけでしょう? 証拠はあるの? あの子が、物じゃない、という、客観的で、具体的な証拠は何?  あの子は、人間の、お母さんのお腹から産まれてきた子じゃないでしょう? タイレルが造り出した物よ。違う?」
 一見残酷で、冷たく聞こえるゆかりさんの言葉。でも、その真意は、私にも判ってきた。そうだ、そういう事なんだ。
 私の顔を眺めていたゆかりさんの顔に、少し微笑みが浮かんだ。あの、優しい微笑み。
「よかった、あなたは判ってくれたみたいね。ごめんなさいね、回りくどくて、冷たい言い方をして。
 でもね、そういう事なのよ。 いくらあなたや彼が、いえそれだけじゃない、たえも、私も、あの阿見寮であの子と暮らした人達皆で、あの子は物じゃない、って言ったって、誰も信じてはくれないわ。 あなた達は、あの子と二年間も一緒に暮らしてきたから、あの子が物じゃない事が判ってる。 別に、二年間も暮らさなくたって、ほんの少し一緒に居れば、多分、誰にだって判ると思うわ。余程眼が節穴でなければね。 でも、世の中の多くの人達は、あの子と会った事さえないのよ。 あの子が、タイレルの造り出した物だ、という事しか知らないような、世の中の多くの人達は、あなた達の言う事を信じてはくれないでしょう」
 それだけじゃない。あの子と深く関わった人でさえ、信じない事だってある。あの、阿見寮を去ってしまった、小さな女の子のように。
「そうである限り、あの子は、本当の自分を隠し続けて生きていかなければならない。自分が、レプリスである事を知られないように、怯えながらね。 それどころじゃないわ。今は、まだそうはなっていないけど、もし、あの子が、自分がレプリスである事を呪うようになったら、どうする?」
 そうだ、そうならないという保証は無い。でも、ゆかりさん、そんな事、考えたくもありません…。
「そうならないようにするには、あの子が、物ではない、取り替えが利くような物じゃない、という事を、客観的に、具体的に証明できなければならないわ。 こう言うと、あなたはまた不愉快になるかもしれないけど、あの子の肉体自体は物に過ぎない。ナノマシンで維持されている、修理も取り替えも利く物。
 なら、後は、あの子の心がそうではない事を証明するしかない。あの子の心が、そう見えているモノが、ヒトの心と同じである事を証明できれば、 少なくとも、あの子がヒトと同じ、かけがえの無いモノである事を証明できる。誰にでも理解できる、納得できるような形でね。 その為にも、ヒトの心の仕組みを解明しなければならない。外から見て同じに見えるから、だけでは駄目なのよ。あの子を見た事もないような人達には、通じないわ」
「そんな、手間を掛けなければいけないものなんですか? 私達のように、あの子と触れ合う人を少しずつ増やしていくのでは駄目なんですか?」
「駄目、とは言わないわ。それも、一つのやり方だと思う。でも、それでは時間が掛かり過ぎるし、あの子が本当に自立する事も難しいわ。
 あの子に、充分な味方が増える前に、あの子を処分する、なんていう事を誰かが言い出したら、どうする?  あの子を、物としか思っていない、あなた達より遥かに力の大きな人が、そんな事を言い出したら。その時、あの子を守ってやれるかしら?」
 私は、恭平兄さんを思い浮かべた。恭介のお父さんも。あの人達なら、あの子を守ってあげられるかもしれない。 でも、あの人達も完璧じゃない。公的な立場だってある。そもそも、これは、あの子一人の問題じゃない。あの子の後に続くレプリスの子供達の問題でもある。 問題を根本的に解決するには、社会そのものを変えるしかないのかもしれない。
 でも、それは、あまりにもスケールの大きな話で、実感が湧かない。自分に、そんな事ができる、なんてとても思えない。
 それでも、それしか道が無いのであれば、それをやるしか無いのかもしれなかった。
「それは判りました。でも、その事と、私がゆかりさんの研究室に誘ってもらえる、その繋がりが判りません。 ゆかりさんは、別に、レプリスの為になるから、という理由でその研究をしている訳じゃ無いんでしょう?」
「まあね。でも、レプリスの為になる研究である事は判ってもらえた、と思うけど?」
「それは、まあ…」
「私はね、あなたの経験が欲しいのよ。あのレプリスの女の子と、二年間も一緒に暮らしてきた、あなたの経験が、ね。 私が知る限り、心がある、とはっきりと思えるレプリスと、そんなに長く一緒に過ごしてきた人間は、あなた達だけよ。あなた達や、たえのように、あの阿見寮に居た人達。 その内の一人が、こんなに近くに居るのよ。欲しいと思うのは当たり前でしょう?」
 何かおかしい気がした。レプリスの心の研究をする、というのならともかく、ヒトの心の研究をするのに、私の経験が役立つ、なんて。
 ゆかりさんが私を誘うのは、それだけが理由じゃない。まだ、他に何かある気がする。よし、ものはためし、よ。
「でも、私が入ったから、といって、お役に立てるかどうか…」
「それ、本気で言ってるの?」
「さあ、どうでしょう?」
 飛行機が、また誘導路上を進み出した。ゆっくり、ゆっくりと。
「あなた、いつの間にそんなにひねくれちゃったの? 初めて会った時は、あんなに可愛かったのに。やっぱり、男を知ると女は変わるのかしら?」
 う、うわ、ここでその話を持ち出すなんてずるい!
「し、知りません、そんな事!」
「私の助言を採用してくれて嬉しいわ。まさか、あんなに早く実践するとは思わなかったけど」
 駄目だ、まだ私なんかじゃ勝負にならない。やめとけばよかった。少しでも、この人をリードしようだなんて、どうしてそんな莫迦な事を考えたんだろう?
「まあ、いいわ。その度胸に免じて教えてあげる。それに、実行力のある人は、私も好きよ」
 すみません、ごめんなさい、もうしませんから、勘弁してください。
「正直に言うとね、研究はかなり行き詰まってるの。眼に見えないモノを相手にしてるんだから当たり前なんだけど、次に何をすべきなのか、それさえ掴めない。
 まあ、今日明日にもやる事が無くなってしまう、という程にはまだなってないんだけど、このままではそれも時間の問題なの。そうなれば、私達は失業よ。
 だからね、新しい視点が必要なのよ。私達が、一研のメンバーが誰も持っていない、新しい視点がね。それがあれば、また道も開けるかもしれない。
 あなたには、それがある。二年もの間、あの子と過ごしてきたあなたにはね。少なくとも、私はある、と思っている。だから、誘っているの。これでいいかしら」
「でも、できるかどうかは…」
「そうよ、できるかどうかは判らない。もしかしたら、私の勘違いか、過大評価に過ぎないのかもしれない。でも、それは、やってみなければ判らない事よ。そうでしょ?」
 飛行機が誘導路を抜けて、滑走路に入った。ゆっくりと向きを変え、進むべき方向を向いた。
「これで、私の話はおしまい。どうかしら?」
 広大な敷地を越えて、エンジンの音が響いてきた。離陸に向けて、飛行機が出力を上げていく。
「でも、私の質問の答がまだなんですけど…」
「簡単よ。あなたが私の所に来れば、あなたは、言わば私の弟子になるんだから。そうでしょ?」
「それって、詐欺なんじゃ…」
「ちょっと言葉を省略しただけよ。私の弟子『になるかもしれない、したいと思っている子』よ、って言うののね。 あなたの恋人を叱りつけている時に、そんな長ったらしい台詞、言えると思うの?」
 高まり続けていたエンジン音が、一定の高さになって安定した。後は、管制塔の離陸許可を待つばかり。
「まあ、返事は今すぐでなくても良いわ。どうせ、所属する研究室を決めるまでには、まだ大分あるもの。その間、私の話をじっくり考えてみてちょうだい。 今のは、あくまでも私の意見なんだから。その間に、あなたが自分でもっと良い道を見つけるかもしれないんだからね。 でも、もしそれが見つからなかったら、いつでも私はあなたを歓迎するわ。それだけは、覚えていてちょうだい」
 飛行機が、滑走路を走り始めた。私とゆかりさんは、その飛行機を眼で追う。走り始めた飛行機は、あっと言う間にそのスピードを上げ、飛び立っていった。 その機影が遠く霞んで見えなくなるまで、私達は、その姿を見つめていた。
「行っちゃったわね」
「はい」
 機影が完全に見えなくなった後も、しばらく青空を見つめていた私は、ふと、ゆかりさんに訊いてみた。
「あの…たえさんは、知ってたんでしょうか? その、レゥちゃんがレプリスだ、っていう事を」
「…さあ、どうかしら。そもそも、たえが、レプリスについてテレビで言っているような事以上の何かを知っているのか、それも私は知らない。 タイレルに居る私の親戚、っていう人とは、たえは面識が無いから。
 それに、あの子が阿見寮に来た後も、たえとは何回か会ったけど、会話の中には、レプリスのレの字も出てきた事が無かったわ。
 ただね、たえは、あの子の事は、よく話してくれたわ。あの子が、どんなに可愛くて、素直で、いい子か、っていう事はね。 お酒を飲みながら、あの、見ている方が恥ずかしくなるぐらいにやけた顔をして、ね。 子供を産んだ事も無いくせに、もう親馬鹿になっちゃったのかこの女は、って思うぐらいに嬉しそうな顔をして、私がもう止めて、っていうぐらいにしつこくね。
 たえにとっては、あの子が何者なのか、なんて、どうでもいい事だったんだ、と思うわよ。きっとね」
 そうかもしれない。レゥちゃんは、阿見寮の皆に可愛がられていたけど、一番可愛がっていたのは、やっぱりたえさんだったように思う。
 もしかしたら、恭介以上かも、って思うぐらいに。まるで「猫っ可愛がり」っていう言葉の生きた見本みたいに。それぐらい、たえさんはあの子を大切にしていた。
 寮内の事について、あれだけ眼が行き届いていたたえさんが、いくら慎重にしていたとはいえ、二年近くもの間、 レゥちゃんが毎日『みどりの』を使っていた事に気付かなかったとは思えない。
 たえさんは、レゥちゃんがレプリスである事を、少なくとも人間ではない事を、知っていたのかもしれなかった。
 だから、みさおちゃんと仲違いした後も、何も言わなかったのかもしれない。 何も言わず、ただ、レゥちゃんを大切にする事で、自分が紹介した友達に拒絶され、深く傷ついてしまったあの子に償いをしていたのかもしれなかった。
 ただ、それは、たえさんが何も言わなかった以上は、私がいくら考えても仕方が無い事だった。
「そうですね…でも、不思議ですよね」
「何が?」
「私が入った大学にたえさんの知り合いのゆかりさんが居て、そのゆかりさんはレプリスの事を知っていて、っていう事がです。こんな偶然、ってあるんでしょうか?」
「実際にあるんだからしょうがないじゃない。それに、そんな事を言ったらキリが無いわよ。 あなたがタイレルのトップの息子と幼馴染み、っていう所の、そのもっと前まで遡っちゃうんだから。 そんな事をいちいち気にしてたら、徹夜を何日したって足りないわよ」
「まあ、それはそうなんですけど…」
「それに、この国には、そういった事を全て一言で片付ける、良い言葉があるじゃないの。『縁』っていう言葉がね。
 私達は、縁があったから出逢った。ほら、これで全部説明できたような気になるでしょ?」
「…科学者がそんな事で良いんですか?」
「それもそうね。心の仕組みが判ったら、今度は縁の仕組みでも調べようかしら。ありがとう、テーマを提供してくれて」
「…いえ、どういたしまして…」
「さ、ご飯でも食べに行きましょうか。お昼、まだなんでしょう? 私も、お腹空いてるのよ。ここのレストラン、美味しい、って評判なの。 一度来てみたかったんだけど、なかなか機会が無くてね。ちょうど良かったわ」
「…もしかして、それが目的で来たんですか?」
「どうだっていいじゃない、そんな事」
「まあ、いいですけど…」
 ゆかりさんが笑う。軽やかな、そして暖かな笑顔が眩しい。ビルに戻る入り口に向けて歩き始めたゆかりさんに続いて、私も、足を踏み出した。



─ Scene 12 : 青空 〜来る日々〜 ─

 季節は、じめじめとした梅雨を挟んで、春から夏へと移っていた。私は、相変わらず、大学で忙しい日々を過ごしている。

 結局、私は、恭介との子供を宿さなかった。いつもの私の周期通りに月のものが訪れた時、私はそれを知った。念の為、検査も受けてみたけど、結果は陰性だった。
 それは、残念な事ではあったけれど、一方で安心もしている自分が居る事も確かだった。 所詮私は、まだ二十歳にもなっていない、学校以外の世界も知らない、世間知らずの子供に過ぎない。子供が子供を産む事は、やはり許されないのかもしれなかった。
 でも、もしかして、私と恭介って、相性が悪いんじゃないかな?
 そんな事を考える事もあったけど、それで彼に対する想いが薄らぐ事も無かった。その事を自分に再確認して、私は、進み続けた。先は、まだ長いんだから。

 あの日、空港で二人を見送った日の翌日、予定通り二人の部屋の荷物の引き上げが行なわれた。
 部屋まで迎えに来てくれた蕾花さんの車で彼のマンションまで行き、タイレルが手配した引っ越し会社の作業を見守った。 立ち会いと言っても、引っ越し会社の人達への指示は、殆ど蕾花さんがやってくれたので、私は、文字通り立って見ているだけだった。 ただ一つだけ、私がした事と言えば、レゥちゃんの部屋に飾ってあった、あの絵と写真とを自分で持って帰った事、ぐらいだった。 これだけは、私の手で二人のもとに送ってあげたい。そう思っていた。 初めは、恭介の部屋にあったあの本も貰っていこうかな、と思っていたけど、私は、レプリスの開発者になりたいわけじゃない。 そう思って、結局、全部引っ越し会社の人に任せる事にした。
 壁に貼ってあったあの絵を見た時、蕾花さんは、何とも言い難い表情を浮かべていた。
「これは、前衛芸術ですか?」
 真面目な表情で私に聞く蕾花さんを見て、私は、笑いを堪えるのに必死だった。
 こんな大ボケをかますような人がレプリスだとしたら、本当に、レプリスと人間との違いなんて、何も無いのかもしれないな。
 肩を震わせている私を、不思議そうに見る蕾花さんを前に、私は、そんな風に思っていた。
 やがて、荷物が全て梱包され、運び出された。元々、大して物が多くない部屋だったので、作業が終わるのも早い。
 蕾花さんが、管理人さんと一緒に室内の確認をしている間、私は、空っぽになったレゥちゃんの部屋の真ん中に立って、しばらくじっとしていた。
 ほんの一月足らずの間、あの子が過ごした部屋は、元々誰も住んでいなかったかのように、埃一つ無くなっていた。
 でも、不思議と寂しいとは思わなかった。あの子の居場所は、ちゃんとある。ここではなくなっただけだ。そう思うと、むしろ嬉しさの方が大きかった。
 室内の確認が終わり、私は、蕾花さんと一緒に部屋を出た。管理人さんが玄関の鍵を閉める。作業は、それで全て終わった。
 私は、蕾花さんが部屋まで送る、と言うのを断って、一人で歩いて帰る事にした。去り際に、蕾花さんともう一度握手をした。柔らかい手の感触は、やはり心地好かった。
 相変わらず、見事な運転で走り去っていく彼女の車を眺めながら、私は、車の免許も取らないといけないな、と考えていた。やる事は、増える一方だった。

 とりあえずの目標として、英語をみっちりやる、等と言ったけど、私には、英会話学校に通うお金も無かった。 実家からの仕送りは、日々の大学生活を送る分には充分だったけど、それ以上の事をするには足りなかった。 これ以上、仕送りを増やして貰える筈も無く、そもそも増やして貰うつもりも無い。今だって、お父さんにもお母さんにも、感謝してもしきれないぐらいなのに。
 そういう訳で、まず私は、バイトに精を出す事にした。 幸い、大学の近くの喫茶店で、比較的高い時給で雇ってもらう事ができた私は、部屋と、大学と、バイト先とを行き来する生活を始めた。 元々、私は、人とお喋りしたりするのが好きな質だったので、このバイトはうってつけだった。 お店のマスターは、私が入ったお陰で客が増えた、なんて言ってくれるけど、本当かどうかは判らない。 言い寄ってくるお客さんなんて一人も居なかったから、かなり怪しいものだと思う。まあ、言い寄ってこられても困るんだけど。
 バイトを始めたのは、もちろんお金を稼ぐ為だったけど、独りで居る時間をできるだけ少なくしたい、という気持ちもあった。 でも、意外と、バイトを終えて部屋に帰っても、寂しさは感じなかった。 今は、たまたま気力が充実しているだけなのかもしれず、いずれ寂しさに泣く事になるのかもしれなかったけど、そんな事を気にしていても始まらない。 私は、せっせとバイトに励んだ。

 たえさんとは、何も連絡を取っていない。
 自分との繋がりを伏せて、ゆかりさんに私の事を頼んだのは、たえさんが、私に、新しい場所で新しい関係を築け、と言ってくれているような気がしていた。 なら、今回の事でたえさんに話す事は何も無い、と思っていた。感謝はしてもし足りないけど、それを返すのは、別の人に対して、だと思っていた。
 ただ、それ以外の事で、そんな事とは関係無い事で、夏休みに入ったから、とか言って、あの懐かしい阿見寮にちょっと遊びに行く、ぐらいの事は良いよね。
 みさおちゃんに会えるかどうかは判らないけど、もし会えたら話をしてみよう。
 私は、そんな風に思っていた。

 ゆかりさんは、相変わらずだ。あの、お気楽そうな笑顔を浮かべて、私の姿を見掛けると、声を掛けてくれる。 時々、講義が休講の時なんかに会うと、喫茶室で冷たいチョコレート・ドリンクを一緒に飲んだりもした。
 そういう時間が、私には、とても楽しかった。

 夏期休暇が目前に迫った頃のある日、私は、午後の講義が二コマとも休講になってしまった為、食堂で昼食を摂った後、一旦部屋に戻ってきた。 バイトの時間まではまだ大分ある。少し溜まってしまっていた洗濯物を片付けてから、バイトに行こうと思っていた。
 でも、部屋に戻ってきて、テレビ兼用のパソコンの電源を入れた時、洗濯物の事は私の頭から消えてしまった。恭介からのメールが届いていた。

 恭介からは、不定期にメールが届いていた。毎日来るかと思えば、一週間も来ない時もあり、恭介の生活がかなり不規則である事が感じられた。
 それはそれで彼の健康が心配だったけど、メールの内容から見る限りでは、彼も、レゥちゃんも、元気一杯のようだった。

 メールの内容は、私へのメッセージ、というよりは、むしろ、日記のようなものだった。
 今日はレゥちゃんがどうした、昨日は恭平兄さんがああだった、みたいな事ばかりで、好きだ、とも、私の近況を訊ねる一言も無かった。 正直言って、今すぐ殴りに行ってやろうか、とも思ったけど、今さら殴ったぐらいであの性格が変わるとも思えない。 物分かりが良過ぎるのも考えものよね、とは思うけど、文句は、今度会った時に纏めて言うのに取っておく事にした。

 レゥちゃんの治療については、遅々として進んでいないようだった。 元々、できるかどうか判らない事の上に、レゥちゃんの内部でどんな事が起きているのかも、完全に把握されていなかった。 レゥちゃんの徹底的な調査を要求する恭平兄さんと、彼女のプライバシーを尊重させる恭介との間で、揉め事が絶えないらしい。 時間の多くが、この二人の意見の調整に費やされ、肝心の作業自体は全く進展が無いようだった。

 本当に、あの二人に任せていて大丈夫なのかしら。まあ、何となくこうなるような気はしてたけどね。

 ただ、レゥちゃん自身は、いたって元気なようだった。 まだ恭平兄さんの所に居たリースとも、仲良くやっているらしい。多分、姉と妹とが逆転しているような気はするけど。
 何にせよ、道は果てし無く続き、ゴールは何処にあるのかさえ判らない。何もかも、まだ始まったばかりだった。焦ってもしょうがない。

 今日来たメールも、内容はいつもと似たようなものだった。ただ、その最後に、気になる事が書いてあった。

『実は、オレ、まだひとえに話していない事があるんだ。
 と言うか、オレもこちらに来てから確信を得た事だから、話していない、というのとは少し違うかもしれないけどな。
 ただ、これをひとえに話すのは、正直言ってかなり怖い。おまえがこれを知った時、おまえがオレの事をどう思うのか、さっぱり判らない。
 ひとえは、また、これだけ長い間一緒に居たのに、とか言うだろうけど、これも、今まで話した事が無い類の話だから、まあそこは勘弁してくれ。
 ただ、オレは、もう話す事に決めた。ここに書くような話じゃないから、今度直接会った時に話す。まあ、今度も楽しい話になるよう願っててくれ。』

 私は、その一節を何回も読み返した。恭介は、何の事を言っているんだろう。
 ただ、私は、恭介が何を話そうとしているのか、薄々勘づいていた。確証は何も無かったけど、彼の『怖い』という言葉は、私の推測を裏付けているような気がした。
 そもそも、レゥちゃんが倒れた、という時、それを「渡良瀬の家に特有の持病みたいなもの」と似たようなもんだ、と言ったのは、恭介自身だった。 自分が倒れた時と似たようなものだ、と。
 レプリスであるレゥちゃんの病気と、「似たようなもの」で倒れた恭介。この間には、何か繋がりがある。 その事に気付いた時、私の頭の中で、バラバラだったパズルのピースが一つになるような感じがした。
 レプリスであるレゥちゃんと同じような症状を見せた恭介。
 レゥちゃんとそっくりな、やや年上の女性の容姿を持つ、今何処に居るのかも判らない、世界最初のレプリス。
 そのレプリスを造ったのは、恭介のお父さんだった。そして、恭介のお母さんは、彼がまだごく幼い頃に他界していた。 私は、いや恭介でさえ、その姿を知らない。何故か、写真一枚残っていなかったからだ。
 そして、レプリスが子供を産む事ができる可能性を示唆した、ゆかりさんの話。

 何も確証は無い。状況証拠ばかりで、決定的で具体的な証拠は、何も無かった。大体、その場合、恭平兄さんはどうなる? 恭平兄さんも、同じなの?

 でも、それが事実だったとしたら、レゥちゃんが、恭介を「おにいちゃん」と呼ぶ事も、全く当然の事のように思える。 二人は、本当の意味での兄と妹なのかもしれなかった。

 私は、一つ溜息をつくと、目の前のコルクボードに貼り付けた、一枚の絵を見つめた。
 あの、レゥちゃんの部屋に飾ってあった絵。アメリカに送る前に、カラーコピーを取って、ここに貼り付けた、あの絵。
 五人の「人間っぽいもの」の中で、恭介とレゥちゃんの眼だけが、赤く輝いていた。

 私は、結局、初めからレプリスに魅入られてしまっていたのかもしれないな。

 そんな風に思う事もある。
 でも、それが何? 私と恭介とが幼馴染みなのは、それ自体は自分達が選択した事じゃない。たまたま、二人の家が近くにあった。そのお陰だ。
 それでも、その後、彼と一緒に生きる事を選択してきたのは、それは私自身の意思だ。 家が近かろうと、小学校からずっと同じ学校だろうと、ずっと仲良くしなければならない、なんて事は無い。 彼と一緒に居たのは、私がそうしたかったから。誰に強制されたのでも無い。これは、全部私と彼とが、自分で決めてきた事なんだ。
 私は、その選択を後悔していない。この先も、する気は無い。

 恭介。あなたが何者だろうと、私が、今さらそんな事を気にするとでも思ってるの? 私を誰だと思ってるのよ。

 私は、窓の外を見上げた。青い空の一角に、真っ白い入道雲が湧いている。夕立になる前に、バイト先の喫茶店に入りたいな。
 そう思いながら、私は、視線をパソコンの画面に戻した。恭介のメールを閉じようとして、それにファイルが一つ、添付されている事に気付く。
 何だろう、と思って開いてみた。ウィルスのチェックを通り過ぎたそのファイルは、システムに関連付けられたアプリケーションによって、自動的に開かれる。

 それは、一枚の絵だった。
 誰の手によるものかは、一目見れば判る。画用紙か何かに色鉛筆で描かれたものを、パソコンに取り込んだのだろう。 少し傾いて表示されたその絵には、三つの「人間っぽいもの」が描かれていた。でも、そのどれが誰を描いたものなのかは、見れば判った。
 その「人間っぽいもの」の顔には、どれも「眼」が描かれていなかった。いや、正確には、「瞳」が描かれていなかった。
 それは、皆笑顔だった。マンガでよくある、眼を上向きの弧で描いた、にっこりと笑っている顔が三つ、並んでいた。

 私は、その絵をしばらく眺めていた。何となく、楽しい気分になってきた。

 今度は、絵の具のセットでも買っていってあげようかしら。もしかしたら、あの子は芸術家として名前を残すかもね。

 そんな将来像を思い浮かべてみる。 でも、絵筆を持ってキャンパスに向かっているよりも、絵の具を体中に付けてしまって泣いているあの子の姿が浮かんできてしまい、私は、くすくすと笑った。
 その画像ファイルを保存し、プリンタで印刷する。それを、あの絵の隣にピンで留めた。
 今はここまで。恭介への返事は、バイトから帰ってからしてあげるから。拗ねるんじゃないわよ。

 私は、パソコンの電源を切ると、手早く身支度を整えて、部屋を出た。マンションの玄関を出ると、暑い陽射しがふりそそぐ。もうすぐ、本格的な夏がやって来る。

 恭介。待ってなさいよ。夏休みになったら会いに行くからね。金髪美人なんかと浮気してたら、思いっきり殴ってやるから。覚悟してなさい。

 彼と、その大事な妹とが居る場所まで続いている、綺麗な青空。あの元気な女の子の姿が浮かんで、私は微笑んだ。
 私は、バイト先の喫茶店を目指して、歩き始めた。

── 了 ──



─ 後書き ─

 まずは、最後までお読みいただいた方に御礼申し上げます。
 これは、KIDの「My Merry May」という作品に触発されて書き上げた、二次創作小説です。 同作品の「ひとえA」のシナリオに基づいています。 一応、同シナリオに沿って内容を構成したつもりではありますが、勢いで書き上げた部分も多いため、少し異なっている場合もあるかもしれません。 その点は、ご容赦ください。
 物語が降ってくる、という言葉があります。 マンガや小説の後書きで、そのような言葉を使っている作家の方を時々見掛けますが、生まれてこの方、創作活動とは無縁だった私には、 それが全く実感として把握できませんでした。
 それが、この「My Merry May」という作品をプレイした後、突然、私にも降ってきたのです。
 正確には、今年発売のPS2版「My Merry May with be」というパッケージでこの作品に嵌まり込んでしまい、もう一度その世界に浸りたいと思ったのですが、 もう一度同じパッケージでやるのも意味が無い、どうせなら、と、買ったまま積んでいたDC版で再プレイを始めた時でした。 全体の半ば以上をプレイし終えた頃、突然、頭の中にこの話が浮かんできたのです。それは、まさに「降ってきた」としか形容しようが無い感覚でした。
 何故、主人公が「榛名ひとえ」なのか、と言えば、やはり「My Merry May」全ヒロインの中で一番好みのタイプだから、としか言いようがありません。 昔から、ショート・ヘアの似合う元気な女の子、というのには非常に弱いものですから。
 その「榛名ひとえ」が、突如、私の頭の中で物語を始めてしまったのです。 既に、「My Merry Maybe」の方の物語を書き始めていたにも関わらず、彼女の物語は、あれよあれよと言う間にラストまで到達してしまいました。 それを頭の中からテキストにして吐き出さなければ、「My Merry Maybe」の物語も全然先に進めません。 止むなく、私は、「榛名ひとえ」に命じられるまま、この物語を先に書いてしまおう、と思ったのです。
 さて、書き始めると、これまた不思議な感覚が私に降りかかってきました。
 キャラクターが勝手に動いて物語を作ってくれる、というのも、やはりマンガや小説の後書きで目にする事がよくある言葉です。 まさに、その感覚が、私にも降ってきました。 私は、自分で物語を紡いでいる、というよりは、頭の中で会話をしている、ひとえや恭介の言葉を、単にタイプしているだけのような感じがしました。 彼らの会話を録音したテープをもとに、所謂「テープ起こし」をしている。私は、そんな感覚を味わっていたのです。 それは、“Scene 08”,“Scene 09”辺りの、ひとえと恭介とのやり取りの辺りで特に顕著でした。
 もちろん、彼女らは架空の人物ですし、この物語も架空のものですから、全ては私の頭から出ている筈です。 当然、本作品の「榛名ひとえ」には、私のイメージによるフィルターが掛けられています。 その為、年齢は「My Merry May」本編時より弱冠上昇し、多少アダルト色が強くなった部分もあります。 にも関わらず、それは、私の中ではあくまでも「My Merry May」の「榛名ひとえ」と同一人物であり、彼女ならこう話すだろう、というのが自然に浮かんできたのでした。 それは、この作品の基になった「My Merry May」の世界と、その世界に生きる架空のキャラクター達が、それだけきちんと造型されていた、という事なのでしょう。 ただし、その造型されたキャラクターを作品のテキストから読み取って解釈したのも、あくまでも私の頭ですから、そこにも私の趣味がある程度反映されています。 本作品を読んで、こんなのは「榛名ひとえ」とは違う、と感じる事も当然あるかと思いますが、その辺は二次創作故の事と割り引いて見て下さると助かります。
 こうしてまがりなりにも一つの作品を書き上げてみますと、いかに自分が過去に触れた作品に影響されているか、がよく判ります。 全体の雰囲気は、女性主人公の一人称視点、という事もあり、昔読んだ新井素子氏の「星へ行く船」シリーズに似てしまったような気がします。 「バカ」や「馬鹿」ではなく、「莫迦」という言葉をよく使うのも、新井素子氏の特徴です。 誰かに受けた恩なり何なりを、当の本人ではなく、別の誰かに返していく、という辺りの考えもそうです。 ひとえがやたら「殴るわよ」を連発するのは、竹本泉氏の作品のキャラの影響を受けています。 細かい所でも、好きな作品の好きな台詞や言い回しを入れ込んでしまっている所もありますし (例を挙げますと、ひとえの「慌てず、急いで、正確に」や「びっくりしてるんじゃない!」、ゆかりの「誰?」、等々。 殆どは、既存のアニメやマンガ、ライトノベル系の小説作品に元ネタがあります。ああ、あれか、とピンと来る方も居られるでしょう)、 「My Merry May」の続編「My Merry Maybe」から借りてきた台詞等も入っています。 全て自分の言葉で綴る事ができれば良いのでしょうが、既存の作品から借りてきたものを入れ込む、というのも楽しいので仕方がありません。 もちろん、そこまでの筆力が私には無い、というのが最大の理由ではあります。やはり、二次と言えども創作というのは難しいものです。
 結局、創作というのは、自分が読みたい物語が無ければ自分で作ってしまえ、というものなのかもしれません。 前の「My Merry May with be」のページで、私は、「ひとえAエンド」について、この「最も普通の話」に仕掛けられた「最も残酷な運命」、と書きました。 それについては、同ページの「みさおAエンド」に書いてありますが、私は、その「最も残酷な運命」を回避した彼女らの物語を読みたかったのです。
 回避するにはどうするか、というのは、「降ってきた」時点で概ね固まっていました。 基本的に、レゥと恭介の二人を引き離せない以上、「たえA」と同様の結末に落ち着かざるをえない、というのがその答でした。 つまり、ひとえがレゥをレプリスとして受け入れ、レゥは恭介とひとえの妹として、つまり家族としての立場に納まる、というものです。
 しかし、ひとえは、年上の余裕がある女性のたえとは違います。 お姉さんぶる場面が多いひとえですが、それも通常の場合の話で、シナリオ後半のように恋愛色が強くなってくると、余裕が無くなってしまう場面も増えてきます。 まあ、その辺が可愛いんですが。 特に、恭介を「最低」と詰る、それも喚くのではなく、あくまでも静かに、押さえて、声を絞り出すように詰る場面など、初めて観た時はぞくりとしましたね。 で、そのひとえが、恭介と恋愛関係になった後で、レゥの事をたえのように受け入れられるのだろうか、と考えた時、最終的には必ず受け入れる事ができるだろうけど、 その前に一波乱無いと無理なんじゃないだろうか、と思った訳です。 阿見寮に居る間は良いとしても、そこを出た後はどうなるだろうか、という疑問もありました。 たえなら、すんなりレゥと三人の生活ができそうですけど、ひとえにすんなりそれができるのかな、と。 いずれは必ずできるようになるとしても。
 その結果生まれたのが本作品な訳ですが、実際の所はどうでしょうね。 本編のシナリオは、ひとえが恋愛関係に入りかけた所で終わってしまうため、恋人同士になったひとえと恭介の姿は、公式には描かれていません。 そもそも、続編の「My Merry Maybe」が、「みさおA」を前提にして作られている以上、それ以外のシナリオの後、というものは存在しないのですから。
 また、レゥも、シナリオが進むに連れて影が薄くなってしまい、ひとえとの関係が、たえシナリオの時のたえとの関係ほどには、具体的に描かれていません。 ではどうなるか、というと、それは「My Merry May」をプレイした人の数だけ存在するでしょう。本作品で描いたのは、そのほんの一例、でしかありません。 意外と、あっさり三人で仲良く買い物に行ったりしているのかもしれませんけどね。
 ただ、本作品でも、レゥは結構影が薄いです。 まともに登場するのは、“Scene 07”、“Scene 08”の後半と、“Scene 10”ぐらいで、殆どはひとえの視点で見た姿しか出てきません。 これは、特に意識した訳ではなくて、「降ってきた」時点で既にこうなっていたし、そもそもひとえの一人称視点という時点でこうなってしまった、というだけなのですが、 何より、本作品では、レゥが既に自分の立ち位置、すなわち「恭介の妹」という立場を確立してしまっているから、というのが最大の理由ではあります。 では、それは何時確立したのか、と言えば、別に本作品開始時点までなら何時でも良いのですが、とりあえず私の中では、“Scene 01”のダブル・ブッキングの日、 という事になっています。 幾らなんでも、洋服を買いに行くだけで、午前中から出掛けて夜まで掛かる訳が無い。 つまりは、この時に、本編のたえシナリオであったような、「恭介がレゥに迫られる」ような事があった、と。 ダブル・ブッキングを気にして、つまりはひとえの事が気になって買い物に身が入らない恭介に、レゥが言わば「キレて」しまって、思い余って恭介に迫ってしまった、と。 ついでに、恭介にはっきりと「振られてしまった」レゥが、「ひとえちゃんを大事にしてね」なんて事まで言ってたりもする、と。 翌日のひとえとのデートで、恭介が普段より優しかった、というのは、その影響ですね。ひとえは知らない事ですが。 その「迫られる」場面を入れようかどうしようか迷ったのですが、どう頑張っても本編のたえシナリオ以上のものは出来そうにありませんでしたし、 入れるとすれば、恭介かレゥかのどちらかがひとえに話す、という形にならざるを得ないし、それは多分やらないだろうしやる必要も無いだろう、という事で、 結局入れませんでした。 それに、いくらレゥが素直であっても、そうそう簡単に恭介の事を諦められるとも思えませんでしたので、恭介とひとえとの仲を認め、受け入れる為の時間も必要だろう、 でもその過程をいちいち書くのも何か本作品の趣旨から外れるなあ、という事で、レゥ側の事情はばっさり省略する事にしました。 その為に、本編からの二年間の時間がある、とも言えますが、まあそれは後付けの理由みたいなものですけどね。 一方、二年が経過しているにも関わらず、本作品のレゥが、本編の前半ぐらいの幼い感じになっているのも、この「妹」としての立場を確立してしまっているせいです。 一人前の「女」としての立場を捨て、「兄に甘える妹」という役回りを自ら演じる事で自己を保っている、という面がある、という事です。 レゥが、自分でそれを意識しているかどうかはともかくとして。 だから、一人称は相変わらず「レゥ」のままですし、言動も全体的に幼いままだったりします。 ある意味、レゥはまだまだ恭介から自立できていない訳で、恭介もそれを薄々ながら感じている為、レゥを手元に置かざるを得ない、と。 レゥが本当に自立できるのは、やはり、恭介以外の誰かを愛する事ができるようになった時ではないのかな、と思います。 この辺り、やはり「My Merry Maybe」の影響が大きいかもしれません。
 ついでに、“Scene 01”で、たえの一人称が「ワタシ」と「私」の二種類あるのは、ワザとです。書き間違いではありません。
 また、これも後付けの理由みたいなものなのですが、二年間の時間が必要だったのは、恭介の為でもあります。 本作品の恭介は、レプリスについてもある程度の知識を持っています。 本作品の中で、「レゥの為になる事なら何でもする」と言う場面がありますが、恭介は、この二年間、まさにレゥの為に一生懸命勉強してたんですね。 その過程で色々と精神的に成長もしてきている訳で、ひとえの恋人としてだけでなく、言わば「レゥのアニキ」として、ちゃんと頑張ってきた、という事です。 恭介がこうなる為にも、やはり二年間という時間が必要だった、という訳です。 それに、恭介には、私が「My Merry May」シリーズをプレイして感じた事や考察した事を代弁してもらう、という必要もありましたので、かなり説明っぽくなっています。 そのせいか、恭介が、所謂「狂言回し」的な役回りになってる感じもしますが、まあ主役はあくまでひとえなので、構わないでしょう。
 じゃあ、ひとえにとってはこの二年間はどうだったんだ、という事ですが、これは、“Scene 01”や“Scene 02”でひとえ自身に語らせている通りです。 恭介を愛し、恭介にも愛され、レゥも知らないうちに身を引いてしまったため、正面きって争う事も無いままレゥとも友情を育んでしまった訳です。 ある意味、「何も知らないが故の幸福」を味わっていた訳で、まさに「楽園」に居たようなものだった、と。 それが、「楽園」を出て、知らなかった事を知った時に、彼女がどうなるのか。また、彼女はどうするのか。 そこで破局を迎えない為に、二年間の言わば「準備期間」が必要だった、とも言えます。 この二年間があったからこそ、恭介がレゥの正体をはじめとして色々な事を自分に隠し続けていた事も、「ごめん」の一言で許してしまえるようになっている訳です。 「楽園」でただ安穏としていただけではなく、幸せだったなら幸せだったなりに、ひとえも成長していた、と。 恭介が「レゥのアニキ」と言うなら、ひとえは「レゥのおねえちゃん」として、きちんと成長はしていた、という事です。 ひとえの心境が、「あの夜」を境にして切り替わった理由もその辺にあります。 ひとえ自身が、「あの夜」以前にその辺をあまり自覚していなかったので、そういった事は殆ど描いていないのですが、一応、 ひとえやゆかりの台詞等で端的に表わしたりしたつもりです。上手く表現できているか、はあまり自信がありませんが。 もちろん、「あの夜」を経験して、文字通り心身共に恭介と結びつかなければ、ひとえが自覚をする事も無かった(少なくとも、もっと時間が掛かった)でしょう。 その意味でも、ひとえが「あの夜」を経験する事は、物語上の必然でした。 でも、これもまあ、後付けみたいなものですけどね。 「降ってきた」時点でこの二年間の時間は存在していましたから、初めからこんな事を考えて本作品を構成した訳ではありません。 この二年間がある事で、ひとえ達三人の心情やら何やらが全部説明できてしまう、というだけです。 それがある事で、適当に考えていたり、その場の思い付きで描いた事に全部上手く説明がついてしまう、という。 そういう意味では、この二年間という時間の設定は、「機動戦士ガンダム」のミノフスキー粒子のようなものなのかもしれません (「機動戦士ガンダム」のロマンアルバムに載っていた考証の松崎氏の解説で、 「モビルスーツに搭載できる小型の核融合炉や、ホワイトベースのホバリング・後進飛行等々、全てミノフスキー粒子で(後付けの)説明をする事ができた」 みたいな事が書いてあったもので。ホワイトベースがホバリングや後進飛行をする事を、実際の映像を見て初めて知り、慌てて設定を考えたらしい)。
 あと、本作品を書いた事で、「My Merry Maybe」の世界でのひとえは何をやっているか、というのもちょっと思いついた事がありまして、 それは「My Merry Maybe」の方のSSに入れたいな、入れられたらいいな、と思っています。 ただ、あちらは、何時完結できるか、サッパリな状態になってしまっているのですが。
 ひとえと恭介との関係については、まあこんなものかな、という気がしています。 そもそも、生まれた時からずっと一緒にやってきた男女の幼馴染みがどういう関係になるか、なんて判る訳がありません。実例も知りませんし。 ですが、それだけ一緒にいたのですから、物分かりはお互いに良いだろうし、細かい事でいつまでも仲違いはしないでしょう。 「My Merry May」本編でも、その辺りはきちんと描かれていますし。 ですので、一波乱さえ終えたら、後はもうスムーズにいってしまうのではないか、という気がします。 恋人や夫婦というよりは、人生の相棒、という感じで。
(実は、これも元ネタがあります。ゆうきまさみ氏の「じゃじゃ馬グルーミン☆up」の主役二人がそうです。 ヒロインのひびきの台詞として「私が何かしたいと思った時に、隣に立って同じ方向を向いてくれる人がいたらいいな」というのがありますが、そんなイメージです。 また、「My Merry Maybe」の由真シナリオのイメージも、少し入っているかもしれません)
本作品の後半、離ればなれになると判っても、その事で泣いたり喚いたりはどちらもしない、というのは、そういう考えがあったからです。 それぞれの場所で、同じ目的の為に自分のできる事をやる、というのは、昨日今日恋人になったカップルには難しかろう、この二人ならではの事ではないか、と。 実際にはどうか判りませんけどね。
 二人の考え方や何かは、少し年齢不相応に見えるかもしれません。本作品内では二人ともまだ二十歳前ですが、どちらももう少し年上に見えるかも。 ただ、このぐらいの、ある程度「大人」の考え方をするのでないと、この展開には合わないな、と思ったのも確かです。 一波乱の部分にアダルト色が強いのもその為で、決してそういう場面が描きたかったからだけ、という訳ではありません。その辺はご理解いただきたく思います。 まあ、自分で、改めて通して読み返してみると、「あの」場面そのものは無くても成立するかな、と思わないでもありませんが、そこはやはり趣味の世界ですから。 それに、ひとえを「生の女」として描いておかないと、後半の割り切った考えに説得力が出ないかな、という思いもあります。
 これができるのも、偏に、この「My Merry May」シリーズが「性愛」を否定していない──と言うよりは、コンシューマ向けという制約の中で、 できる限り「性愛」というものを描こうとしている、そういう風に見えるからでもあります。 そうでなければ、「My Merry May」のもとみシナリオや、「My Merry Maybe」の由真シナリオは存在しなかったでしょう。 ヒロインと二人で夜を過ごす、という場面が度々出てくるのも、そういう点を意識しているように思えます。 「with be」追加シナリオ「Epilogue〜五月の終わり〜」の、終盤でのレゥの台詞なんかもそれを匂わせています。 そもそも、ひとえにしてからが、「自分の知らない恭介」として最初に「キスの感触」を持ってくる辺り、 「榛名ひとえ」という女性が「性愛」というものを否定的に見ないタイプの人間である、という事の表れなのではないか、という気がします。 いやむしろ、キスから、つまりは「性」から恋愛を始めようとするこの「ひとえA」のエンディングは、「My Merry May」シリーズの全てのエンディングの中で、 最も「性愛」を肯定的に扱ったエンディングなのではないか、という気さえします。 これが無ければ、「My Merry May」という作品がそういうもので無ければ、そして「ひとえA」のシナリオがこういうもので無ければ、 多分本作品ももう少し違ったものになっていた、と思います。
(ちなみに、「性愛(エロス)」については、18禁ゲーム等のシナリオも書いておられる、 藤木隻氏のエッセイが興味深いので御一読される事をお勧めします)
 また、上で書いた通り、ひとえが「あの夜」を経験する事自体は必然でしたし、個人的に「寸止めの表現」が嫌い、というのもありました。 作品内で、本当に「寸止め」になっているのならともかく、そうでないのならきちんと描け、といつも思っているものですので。 とは言え、別に官能小説を書きたい訳ではありませんし、それを書く技量もありませんので、かなりあっさりめと言うか、そんな感じになってしまってますけど。 18禁まではいかなくて、せいぜいR-15指定ぐらいかな、という気もします。 この辺もまた、「じゃじゃ馬グルーミン☆up」が、少年誌掲載の作品でありながら、「あの」場面を省略せずに描いていた、というのに影響されているかもしれません。
 ただ、あちらは、その後の妊娠・出産という所まできっちり描ききっていたのが凄い所です。 そこまできちんと描くつもりがあったからこそ、少年誌で「あの」場面を描く事ができたのではないか、という気がします。
 本作品ではそこまではいけず、結局ひとえは懐妊しません。 これは、懐妊してしまうとその先の展開が難しくなる、というか、上手に物語を閉じる事ができなくなる、という、物語上の都合があったのが一番ではありますが、 それ以外にも、恭介の出生の秘密も関係している、という一応真面目な理由もあります。 「My Merry May」の時代のレプリスは、生殖能力はあるものの非常に低い (というか殆ど出来ないに等しい。恭介が生まれたのは本当に僥倖(誰にとってか、はともかく)だった)という設定がありますので、その子供である恭介も、 ハーフとは言えやはり生殖能力は低いだろう、という事です。 この辺りの話や、“Scene 12”でのひとえの「推測」の話は、「My Merry May with be」まで出揃った今だからこそ、自信を持って書ける部分ですね。 ありがたい事です。
 一方で、恭介の父親が自らが造ったレプリスと子供を作るような人だった、という事とか、恭介がレゥを起動させた動機とかについて、ひとえがどう思うだろう、 という辺りについては、これも入れようかどうしようか迷った挙げ句、結局入れない事にしました。
 前者については、ひとえにとって大切なのは恭介本人だけであり、父親の恭一がどんな人なのか、なんて事はぶっちゃけどうでもいい事だから。 後者については、今、現に目の前に居る恭介とレゥを大好きになってしまっている以上、恭介がどんな動機で彼女を起動したのか、なんて事も、もはやどうでもいい事だから。 多分、ひとえなら、少なくとも本作品の時点でのひとえなら、そういう風に考えるだろう。 と言うか、そんな事はひとえは考えもしないだろう、という気がしたもので。 また、後者については、これもたえシナリオである程度描かれていて、それ以上のものは描けないし、どうせ結果は同じなのだからもういいや、と思ったりもした、 という理由もあります。
 まあ、「My Merry Maybe」本編や小説版での描写、「マテリアルコレクション」の解説なんかを読むと、恭一や結城道夫が、 ひとえが本作品で語っているような「いい人」なのかどうかは多少疑問が残りますが、彼等の事を殆ど知らないひとえがそこまで洞察するのはさすがに無理だろう、 という事で、こういう形に落ち着きました。 これには、「マテリアルコレクション」掲載の小説で、玉村先生が、渡良瀬と結城について浩人に語っている内容も影響しています。 彼等の事をよく知っている筈の玉村先生でさえあんな風に思っているのですから、ひとえが彼等の事をそんなに悪く思う筈は無いだろう、という事で。 もちろん、「マテリアルコレクション」で玉村先生が語っているのは、恭平やみさおの世代以降の渡良瀬と結城の話、なのかもしれませんので、 恭一や道夫は、科学者・技術者としてはともかく、人間としてはやっぱりどこか「おかしい」所があったのかもしれません。 彼等については、直接その人となりが描かれる事はなく、常に誰かの目を通しての姿しか描かれていませんので、想像するしかありませんが。
 杵築ゆかりについても触れておきますと、彼女は、本作品オリジナルの人物で、「My Merry May」本編とは全く関係ありません。 当然、たえの従姉妹であるとか、親戚にタイレルの重鎮がいるとかは、全て本作品だけの設定です。
 実は、ゆかりは、「降ってきた」時点ではまだ居ませんでした。 しかし、本作品を書き始めるとすぐに登場し、あっと言う間に重要な位置を占めてしまいました。 これも、キャラクターが勝手に動いてくれた結果でしょうね。不思議なものです。
 また、恭介と同様に、ゆかりには私の代弁者も務めてもらう事になりました。 “Scene 11”でゆかりがひとえに話す「心の仕組み」についての辺りは特にそうで、これは、「My Merry Maybe」において「心」が簡単に与えられたり消されたりしていた (少なくとも私にはそう見えた)事に対する不満が少し出てしまっています。 もちろん、それをする為に、43年間という時間があり、玉村先生等のキャラクターが居る訳ですが、それで済ませるのは安易ではなかろうか、と。 それなら、「バグ」によって偶然生み出された、という方がまだマシだろう、と思った訳で。 「心」を作る事ができるならば、最低でも「ヒトの心の仕組み」が解明されていなければいけない、という思いがあるので、ゆかりにああいう話をさせています。 これには、あるTV番組で聞いた話が影響しています。 確か、人工知能を研究している方の話だったと思うのですが、インタビュアーが「結局、人工知能を作る事はできるんですか?」と聞いた時、その方は、 「知能の仕組みが判れば必ず作れますね」みたいな事を言ってたんですね。 未だに人工知能を作れない (現在「人工知能」と呼ばれているモノは、全て一見知能があるかのように見えるだけの「モドキ」であって、人間の持つそれとは根本的に異なるものですし)のは、 まだその「仕組み」が判っていないからだ、という訳です。 この時に聞いた話が、ゆかりの話の基になっています。
 ただ、本作品を書く時に、「心」や「意識」といったものについて、現実にどの程度研究が進んでいるのか少し調べてみたのですが、その時の印象では、 思っていたより進んでるんじゃないか、という感じを受けました。 ネット上で少し調べただけでそう思えたのですから、研究の最前線はもっと進んでいる筈です。 この調子でいけば、少なくとも「心があるように見えるモノ」を作る事ができるようになるのは、そう遠くない話なのかもしれないな、という気がしたのも確かです。 レプリスとまではいかなくても、HAL9000を作れるようになるのは、意外と早いかもしれません。
 ひとえがゆかりの名字を知る方法については、初めは別の方法だったのですが、話の流れに合わない為二転三転して、現在の携帯を利用する形に落ち着きました。 もちろん、現在の携帯電話にこんな機能はありません(多分)。作中の時代の携帯の機能です。
 作中では記述していないのですが、相手の携帯から氏名が転送されるのは、回線が繋がった瞬間です。 ですので、相手を呼び出している間、こちらの携帯にはその氏名が表示されています。その時点で掛け間違いだと判れば切れば良い、という訳です。 しかし、作中でも触れています通り、ひとえは、この転送を行なわないようにしている、と言うか、「転送しない」というデフォルト設定のまま放ったらかしにしていた為、 ダイヤル後に相手の氏名を確認する、等という使い方自体忘れていました。 そして、通話後に発信履歴の表示を見て、初めて気が付いた、という訳です。 しかも、この機能自体が、携帯を掛ける時は電話帳から選択するのが普通になっており、また作中でも触れています通り、知らない人に名前を知られるのを嫌がる人が多い為、 殆ど使われていない、という事になっています。日常的に使う機能しか覚えていないひとえが、そんなマイナーな機能を覚えている訳が無い、という。
 まあ、少々無理があるかな、と自分でも思わないでもありませんが、他に適当な方法を思いつかなかったのです。 また、こういう事を後書きで説明する、という事自体、筆力の不足を暴露するようなものなのですが、そこは素人のやる事と思ってご容赦ください。
 後、「My Merry May」は、一見現代が舞台に見えますが、実際には30年ほど未来の物語です。 その辺りの設定は、「マテリアルコレクション」掲載の年表に従っています。 本作品に登場する大道具や小道具等も、その辺りを「一応は」考慮しています。 現在の物より遥かに多機能化し、他の機器との連携も確立されている携帯、その携帯が繋がらないようになっているのが普通の映画館等の話、等がそうです。 二人が渡米に使う飛行機は、先日試験飛行に成功したと報道された、エアバス社の最新の大型ジェット機A380をイメージしています。 「少子化危機」やら「アル・ハラ」が過去の話として出てくるのもそう。
(携帯と言えば、本編では、恭介は携帯電話が嫌いで持っていない、という事になっています。 これでは、“Scene05”での「何年も携帯を使っている」というのと整合性が取れませんが、これは、本編の終了後に恭介が携帯を持つようになった、という事で。 レゥの事で恭平と連絡を取る事も多いでしょうし、そうなるといつまでも阿見寮の電話を使っている訳にはいかないでしょう。 あれは、亮とかに立ち聞きされる事も多いですから。 かと言って、返事が来るかも判らない、しかも文字化けするようなメールは信用できないでしょうから、自室で使える電話がどうしても必要になる訳で、 携帯が嫌いだから持ちたくない、などとは言っていられなくなり、やむを得ず持つようになった、という事です。そういう事にしておいて下さい。)
 しかし一方で、現在と変わらない物も色々とあります。 ひとえ達の住むマンションの鍵とか、バーコードを読む形式のPOSレジスタとか。 終戦直前に建てられたという阿見寮ならともかく、30年も経てば、マンションの鍵なんて生体認証が当たり前のように使われているでしょうし、 バーコードなんて絶滅していて、ICタグを利用したキャッシュレスのシステムがどこでも利用されているでしょう。 この辺りの、古い物と新しい物との使い分けは、結構いい加減です。深く考えていません。すみません。 まあ、あっという間に変わっていく物がある一方で、全然変わらない物もある、という事で。 ただ、鍵については、どうしても「合い鍵」のネタを入れたかった、という事情もあるのですけど。
 年代とは関係ありませんが、ひとえと恭介が通う大学は、私自身の出身大学をイメージしています。 ひとえの所属する人間科学科、という学科も存在していますし、キャンパスが広い所もそう。噂に聞く北大何かには全然敵いませんけど。 講義の枠を「一コマ」「二コマ」と呼ぶのも、私の大学で学生が使っていた呼び方です。他の大学でどう呼んでいるのかは知りませんが。 この大学や三人の住む街がどの辺にあるか、というのは特に考えていないのですが、二年前に恭平とリースが利用した空港と同じ空港を利用している、という所からして、 津久見高校や阿見寮から無茶苦茶遠い、という訳ではありません。 イメージとしては、津久見高校が和歌山県や奈良県辺りで、大学は大阪か神戸辺り、といった所でしょうか。この場合、空港は、当然関空に当たります。 空港を中部国際空港とすれば、津久見高校は三重とか岐阜の辺りで、大学は名古屋辺り、ぐらいの位置関係というイメージです。他の地方はよく判りません。 津久見高校が県立であり、「津久見」という地名が大分県にしか無いっぽい、という事からすると、大学は博多辺り、という方が良いかもしれませんが (一応言い訳しておきますと、“Scene10”以降の空港内の描写は割といい加減です。実際の出発手順はあまり考慮していません。 と言うか、本編に登場したあの空港が、国際空港なのかどうかもよく判らないです。みさおシナリオでレゥがアメリカから戻ってきた時の感じからして、 国際空港なのではないか、と思われますが、特に本編内で明記されていなかったように思います。 本作品では、A380級の機体が乗り入れているぐらいなので、国際空港のつもりで書いています。 ただそうすると、現実のチェックイン(搭乗手続)から保安検査、出国手続き等の流れが本作品の描写に当てはまらないかと思います。 本作品で言っている「搭乗手続」は、どちらかと言うと現実の「出国手続き」(出国審査)に相当する感じです。 が、現実に合わせてしまうと、待合室の場面を入れるのに困ってしまいます(ひとえがそこまでついていけない)ので、そこは雰囲気重視という事で流して下さい)。 ついでに、タイレルの日本支社、というのはオリジナルの設定ですが、元ネタは、「My Merry May」のみさおシナリオに言葉だけ登場した、 壊れたレゥを収容したという研究所です。
 また、「My Merry Maybe」を意識したものも幾つか登場させています。 携帯が繋がらない場所の例として出てきた「海辺の村」は、「My Merry Maybe」の舞台となる清天町をイメージしたものですし、 やはりオリジナルの人物である蕾花は、「My Merry Maybe」のライカから名前を拝借しています。 ゆかりが、阿見寮について「ハムスターの雄と雌とを」云々、と言うのも、やはり「My Merry Maybe」で浩人の台詞として出てきたものです。
 本作品では、主に回想シーン等として、「My Merry May」本編のエピソードを挿入しています。 また、公式サイトに掲載されている小説や、「My Merry May with be」のパッケージに収録された新シナリオ「Beginning 〜五月の始まり〜」からも一つずつ拝借しています。 前者からは、ひとえが高校時代に間違えてラブレターを貰った、という話を、 後者からは、同パッケージをプレイされた方は気付かれたでしょうが、ひとえが忘れていた「おじいさんみたい」云々の台詞がそうです。 ひとえが髪を切った時の話は、アペンド・ストーリーから拝借しました。
 これらは、全て、できるだけ本編に忠実に再現したつもりです。記憶に頼って書いた部分もありますので、細部が異なっている場合もあるかもしれませんが。 それに、もちろん、恭介の視点の本編とは異なり、「榛名ひとえ」の視点になっていますから、彼女がその時何を考えていたのか、とかいう辺りは、私の創作です。
 しかし、その時にどんな出来事があった、とか、どんな台詞を言ったか、等、客観的な「事実」として存在する部分については、可能な限り、本編の通りにしてあります。 それは、いちいちアレンジするのも面倒、というのもありますが、やはり、「事実」の部分については、元となった作品を曲げない、というのが、二次創作の基本であり、 また、元となった作品に対する礼儀である、と思うからです。
 もちろん、これは私の考えであり、他の方の価値観に対してとやかく言うつもりはありません。 私がそうしたいから、そうしないといけないと思うからそうしているだけです。
 …などと、偉そうな事を書いてしまってますが、後から本編の該当個所を観直してみますと、結構違っている所がある事に気が付いたりして、穴があったら入りたい気分です。 特に、縁日の辺りは結構多いですね。記憶とはいい加減なものです。 まあ、入る穴を掘るのも面倒臭いし、前後の繋がりを保ったまま直すのも容易ではありませんので、その内、多分、もしかしたら、気が向いたら直します、 という事でご容赦ください。
(※2006/02/02の修正で、特に気になっていた“Scene06”の縁日の辺りを直しました。それに伴い、“Scene08”での二人の会話も直しました。 修正前の文章はコメントとして残してありますので、暇な方はソースを見て読み比べてみて下さい。 何となく、縁日のエピソードを入れた意味が薄くなってしまったかな、という気もしますが、逆に「三本勝負」が生きてきましたので、まあこれはこれでも良いかな、と)
 一方で、本編では、はっきりと語られていない事を書いている所もあります。
 例えば、恭介が、ひとえ達にレゥが見つかった時の嘘として「海外の親戚から預かった」としていますが、本編では、 単に「家庭の事情ってやつで、一時的に預っている」としか言っていません。レゥの両親についてどういう風に説明したのか、については本編で何も触れられていません。 まあ、連絡をつける事ができないと言ってしまっている事とか、レゥ自身の名前や容姿の事とかを考えると、「海外にいる」ぐらいは言っているだろう、という事で。 それなら、レゥの「常識の無さ」とか、言葉が舌足らずな所とかも言い訳がし易いでしょうし。
 本作品で、重要な小道具として使わせていただいた、レゥの部屋に飾ってあった写真──「My Merry Maybe」で登場したあの写真です──についても、 撮影時期が今一つはっきりしません。 本作品では「二年前の初夏」としていますが、特に根拠がある訳ではありません。 「ひとえA」のシナリオに沿って考えると、もとみとみさおとが入っていない事から、少なくともシーン「油断」以後、つまり亮ともとみとが別れた後で、かつ、 レゥとみさおとが別れた後、と仮定し、また、服装からしてまだ夏にはなっていない筈、という事で、 だいたい「初夏」という曖昧な時期にしておけば良いだろう、という事でこうしています。 実際には、あの写真は、「My Merry Maybe」に登場している以上は「みさおA」のシナリオ上で撮影された物の筈なので、レゥがまだ元気だった時、という事になります。 とすると、レゥとみさおがまだ仲良くなる前にもとみによって撮影されたか、あるいは、亮ともとみとが別れた後で、 レゥとみさおが仲良くなった頃にみさおによって撮影されたか、のどちらかではないかと思われます。 何にせよ、写っている顔触れとか、「阿見寮」の看板が全部見えていない事とか、本作品で使うのに実に都合の良い写真でした。
「TYPE-A」と「TYPE-C」との区別も、本作品の時点で存在するかどうかは不明です。 小説「My Merry Maybe connected with 43years ago...」では、「まだタイプAでもCでもない、そんな区分けする概念すらなかった頃の話」という台詞があります(p.111)。 小説内では、はっきりとは語られていませんが、これが、「My Merry May」本編の何年か前の話である事は明らかです。 従って、本作品の時点でも、まだAやらCやらといった区別は無かった可能性が高いのですが、物語の都合上、既にその区別がある事にしてしまっています。 まあ少なくとも、後のAとCとの原型となるレプリスは存在している時点の話なので、それほど間違ってはいない、という事で。
“Scene 09”で、恭介に、「みどりの」の中身について「大部分はナノマシン」と言わせていますが、これもちょっと怪しい所です。 これは、「My Merry Maybe」本編で、「暴走した」レゥに、「恭平」が与える薬剤がナノマシンっぽかった所から来ているのですが、 「My Merry May with be ビジュアル・ガイドブック」の説明によれば、少なくとも普段レゥが摂取していた「みどりの」=高蛋白剤は、本当に栄養剤のようなもののようです。 要するに、「My Merry May」の時代のレプリスは燃費が悪いため、通常の食事とは別に高蛋白剤という栄養源を必要としていた、と。 だから、「みどりの」=ナノマシンという訳ではないのですが、まあ、あの場面であまり細かく恭介に説明させるのも何だし、という事でご容赦ください。
 また、「My Merry May」の時代における、レプリスの法的な扱いについても本編では今一つはっきりしないため、 「レプリスの所有は国際条約で禁止されてる」とだけ恭介に言わせています。 本編でその点について触れているのは、テレビで言っている「倫理的に問題があるとされ、世界の大半の国ではその製造を禁止している」というのと、 みさおが言う「たしかレプリスは国際法で禁止されてる」という台詞ぐらいです。少なくとも、「ひとえA」のシナリオでは。 本編以外では、「マテリアルコレクション」に「法律ではレプリスを所有する事が禁止されている」と書かれています(p.090)。上の恭介の台詞は、これを元にしています。
 つまり、この時代では、レプリスは製造も所有も禁止されている、という事になりますが、それが国際条約によるものか、それとも国内法によるものか、 一切禁止されているのか、条件付きで禁止されているのか、詳細が今一つはっきりしません。 しかし、テレビで言っているぐらいですから、「レプリス」という言葉やその概要は一般的に知られている筈。 また、タイレルがレプリスの研究をしている事、タイレルに歴とした国家が資本参加している事等が知られているのだから、 タイレルがレプリスの研究・開発をしている事、つまりは実用化・商用化を目的としない製造は違法ではないのでしょうし、 大っぴらにではないにせよモニター・テストと称して阿見寮にレゥを送りつけてくるぐらいだから、 所有は駄目でも特定目的(つまり研究・開発)の為に個人が(あるいは法人が)使用する事は違法ではないはずです。 ひとえシナリオでは判りませんが、みさおの家でもメイドとして使用されていたぐらいですし。
 という訳で、レプリスについては、関係者である恭介だけでなく、ひとえも大まかなところは知っているし、学会で発表があったり、 それがニュースになったりもしている、という感じではなかろうか、と。 本編の時点では、テレビで、タイレルからは過去17年間何も発表がされていない、と言われていますが、何かを隠すには沈黙より雄弁こそが有効である、とも言いますし、 それなら、表には当たり障りのないようなダミー情報を流しておいて、裏で実用化に向けて血道を上げている、辺りが妥当なんじゃないか、という気がします。
 よく判らないのは、阿見寮にレゥを送り込んだ時、恭一や恭平が、レゥがレプリスであるという事を恭介以外の人に知られても良いと考えていたのかどうか、です。 少なくとも、レゥのようなレプリスが既に開発されている事は、世間には秘密にされているのですから。 ですが、「My Merry May」公式サイトの小説「起動三日前」によれば、このモニター・テストが「国家間プロジェクト」として実行されている事が判ります。 つまりは、日米両政府はこのテストの事を知っていて、その実行を許可している、と考えられます。 また、帰国当日の、たえの前での恭平の言動からすると、恭介の台詞にあるように「バレないという自信がある」と言うよりは、 「バレても構わない」と思っている節があります。 政府の許可を得ているなら当然ですが。
 また、たえシナリオでレゥの正体がバレた時も、一応たえに口止めはするものの、その事自体はあまり問題視していないような態度に見えます。 それよりも、恭平自身の正体が恭介にバレる事の方を気にしているみたいですし(恭平の立場からすれば、これも当然ですが)。 みさおシナリオでも、レゥの正体を知っていると知りながら、結局はみさおを見逃してますし。 いくらみさおが、リースでさえ無傷では拘束する事ができない程の腕の持ち主だ、とはいえ、この処置は甘すぎるように思えます。 この辺りの恭平の対応を見ますと、バレないに越した事はないが、バレたらバレたで構わない、と思っているように見えるのです。
 という事は、レゥのような人間そっくりのレプリスが開発されている、しかも実用化目前の完成度に達している、という事実を、いつ公開しても構わない、 という段階にあったのではないか、と思われます。 そう考えると、本編のテレビで専門家が言っていた 「外見はおろか、問題はもう性格や感情といった疑似人格プログラムの精度を高めるのみといった段階まで進んでいるかもしれませんよ」という「推測」も、 近い将来の情報公開を見据えた、意図的なリークだったのではないか、という見方も可能なのではないか、と思います。 そういう背景があったと考えると、事前にメールを送っていたとはいえ、阿見寮にいきなりレゥを送りつけた、という、一見無茶な行動にも説明がつくかな、と。 ただ、表向きの理由はどうあれ、恭一と恭平がレゥを恭介のもとに送ったのは、恭介の保護が目的だった訳ですから、彼等がそういったような事をどこまで考えていたのか、 は謎のままです。 「My Merry May」の脚本を書いたQ'tronの方々も、どこまで考えていたのかわかりませんしね。 ただまあ、“Scene 08”でのひとえの、「人間として生活したら、テストにならないじゃない」という、レプリスを使う事=悪い事、とは思っていないような台詞には、 レプリスの法的な扱いについてはこういう感じなのではないかな、という考えが入っています。
 …何か、言い訳ばっかり書いているような後書きになってしまいました。 大体、設定の補足ぐらいならともかく、キャラの心情まで説明する、なんていうのは、「作品以外の場所で作品を語る」事になり、非常によろしくない事なのですが、 作品内で語りきれなかった事をどうしても書いてしまいたい、という欲求もなかなか捨てきれないもので。見苦しくてすみません。
 書き始めてから気が付いたのですが、パッケージに収録されているアペンド・ストーリーには、公式・ユーザー問わず、何故か「ひとえA」後のものがありません。 「もとみA(仮面)」、「たえA(笑顔)」、「みさおA(May the Road Rise)」それぞれの後日談はあります。 また、「レプリスへの謝罪」は、みさおシナリオ以外の場合の後日談、となっています。 これを、「レゥA」の後日談と考えると、何故か、私が一番気に入ったヒロインである「ひとえA」の後日談だけが、ぽっかりと抜けているのです。
 これは、果たして偶然なんでしょうか。それとも、「ひとえA」の後の物語が無い事が、私の中に無意識に何かを溜めてしまって、この物語を書かせたのでしょうか。
 とにかく、何とか最後まで書き上げる事ができてホッとしています。これで、やっとまっとうな生活に戻れそうです。
 それにしても、改めて、このような時代に生きている事に感謝したい気分です。 自分で書いたものを、実に簡単な、その上自費出版や同人誌の制作ほどの費用も掛からない安価な方法で世界中に発信でき、しかも、印刷物の形態を取りませんので、 発表後でも幾らでも修正が効きます。
(本作品も、誤字・脱字・整形ミス等は見つけ次第修正していきます。また、文章の繋がりの悪い所に思いついた文を追加したりもするかもしれません。 基本的に、内容の変更を行なった場合には改定履歴は付けますが、誤字の修正や、台詞回しや表現のちょっとした変更、そして後書きの修正、等々、 物語自体に影響が無い修正には履歴は付けません。ご了承ください。)
商業作品ではありませんので、ページ数の制限も、締め切りも関係ありません。実に素晴しい。 ただ、その為に、あれもこれもと詰め込みたくなって、多少散漫な感じになってしまったかもしれません。 まあ、自分の読みたい物語を書いただけ、ですから、それもまたよし、です。
 そう言えば、一通り書き終えて、誤字・脱字等のチェックの為に頭から読み返していると、また不思議な感覚が襲ってきました。 それは、「この話、何処かで読んだ事あるな」というものでした。 一応、本作品は、私の頭に「降ってきた」もので、私の創作である筈なのですが、文章のそこここに既視感があるのです。 それは、上述したような意図的に他作品から借りてきた、とかいうレベルではない、もっと大きな、物語の大枠となっているような部分に対して、でした。 もしかしたら、自分で文章を考えたつもりでも、無意識的に過去に読んだ作品を真似して書いているのかもしれません。その作品を忘れているだけ、なのかもしれません。 ですが、今さら過去に読んだ作品を全部掘り起こして確認するわけにもいきません。 まあ、商業作品ではないし、同人誌のように実費すら徴収していない、という事で、もしそういう部分を見つけても、見なかった事にしておいて下さい。
 こんな、ネットの片隅で、宣伝をする事もなくひっそりと公開している物語を、何人の方が見つけ、またその内の何人の方が最後まで読んで下さるのかは判りません。 ですが、読んで下さった方には、どうか気に入っていただけますように。 読み終えて、「ああ、面白かった」と、そこまででなくとも「まあ暇つぶしにはなった」と思っていただければ幸いです。 もし「時間の無駄だった」と思われたならば残念ですが、そこはそれ、本ページ最上部に書きましたように、あくまでも「自己責任」という事で、笑ってお忘れください。 もし縁あってリアルでお会いするような事がありましたら、「つまらなかったぞ」と言っていただければ、 私の好きな、北海道ロイズのチョコレート・ドリンクか、ドトールのロイヤル・ミルクティーでもご馳走しますので。
 最後に、私にこのような物語を書く切っ掛けとなった「My Merry May」という作品を世に送り出してくださった株式会社KID様、 およびシナリオを担当されたQ'tron様に、厚く感謝を申し上げます。

(2005/09/25 拝)