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2002年の天皇制

主として新聞社サイトの記事を改編 高円宮の突然死 天皇マッカーサー会見 大嘗祭訴訟 敬宮愛子 大正天皇実録 皇位継承 owl

皇室の健康問題について、宮内庁は、皇室全体を大局的に見る皇室医務主管を置き、さらに宮内庁病院が緊急時や初期医療の態勢を取っている。天皇、皇后、皇太子一家にはさらに専従の医者「侍医」を配置している。

しかし、他の皇族には専従の医師はおらず、各宮家が独自の“ホームドクター”というべき医師やかかりつけの病院を探し、実際には宮内庁の配慮が及ばないケースが多い。宮内庁は、高円宮がいつ、どんな健康診断を受けたかについて把握していない。 [毎日新聞11月22日]参照


求められる積極的開示--大久保和夫記者の記事と解説の要旨
昭和天皇の人間性を表すエピソードとしてこれまでしばしば引用されていた「私の身はどうなってもいい」などの会話は、公式記録には記述されていなかった。故高松宮の日記では「ソレカラ約15分MC(注:マッカーサーのこと)ハ独リデ語ル」と書かれている。天皇の戦争責任に言及する会話はその後になされたとこれまで伝えられていた。しかし、公表文書には、「自分トシテハ極力之ヲ避ケ度(タ)イ考デアリマシタガ」との天皇の発言の後、元帥が「一人ノ力ヲ以テハ為シ難イコト」と応じている。元帥はその回想記で、「私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねる」と昭和天皇が自らの戦争責任に言及したことを記し、感動を受けたと書いている。
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 両者の会見は11回行われたが、そのうち8回目以降通訳を務めた外交官の松井明氏が残したメモが最近見つかった。その中で、第1回の通訳をした奥村氏の話として事の重大さから記録から削除したことが記されていると言う。初回の両者の対面は、その後の元帥の天皇に対する見方に大きく影響したと言われる。
 昭和天皇とマッカーサー元帥との第1回の会見の公式記録は、外務省と宮内庁書陵部が1部ずつ所蔵していることが分かっていた。いずれも2001年4月施行の情報公開法に基づき、公開請求されたが、同省は不開示を決定。請求者が内閣府の情報公開審査会に申し立て、先月、審査会が「開示」を答申、今回57年ぶりに封印が解かれた。
 不開示理由は相手国との信頼を損なう恐れがあることや天皇の個人的会見であるとしたが、審査会は、終戦直後の天皇の公的な立場や国際関係の変化を考慮した。
 一方、宮内庁は「歴史的資料」として所蔵、開示請求に対して同様な理由で不開示の方針だった。特に昭和天皇が会見について「どこにも言わないという約束を交わしたことですから、男子の一言のごときことは守らなければならない」(1977年の記者会見)と語っていたことから、「ご意思は尊重せざるを得ない」(同庁幹部)姿勢だった。
 しかし、今回の公表でこうした根拠も薄れることになる。確かに同法が規定するように個人情報にかかわる不開示のケースはあるにしても、天皇のように公的な立場で、しかも年月を経た文書については、開示の実績を積み重ねつつ、より積極的に公表する姿勢が求められる。 

今回の公開資料で決着はつかず−−松本健一・麗沢大教授(日本思想史)
 戦争責任に言及した部分が公式記録に残ると、裁判で追及される可能性があることを恐れ、官僚または侍従が記録から削除したと思われる。会見の冒頭で、マッカーサーが原爆の破壊力に触れ、今後の戦争では勝者も敗者もないと述べたことに昭和天皇も共感しており、会話の流れで戦争責任に触れたと推測できるが、今回の公開資料で決着はつかなかった。昭和天皇の私的な日記が残っているという説があり、その有無も含めて、論争は続くだろう。
[毎日新聞10月17日]参照


愛子便乗商法
皇太子夫妻の長女敬宮愛子の顔写真などを入れたテレホンカードが、東京タワーや浅草などで売られている。皇族の写真などを無断で商品に使う“便乗商法”で、敬宮のものが見つかったのは初めて。宮内庁は「はっきり違法とはいえないが、営利目的で売るのは見過ごせない」としている。すでに一部は宮内庁の「注意」を受け販売をやめた。

ある土産物店の話「仕入れ先は言えないけど、観光客を中心に評判がいい。1日数十枚売れる時もあるね」
 確認できているテレホンカード(50度数)は4種類。敬宮のアップ▽敬宮が皇太子妃に抱かれているもの▽敬宮が夫妻とともに写っているもの▽天皇、皇后を含めた一家が写っているもの。いずれも宮内庁が公表した写真で、業者は新聞や雑誌に掲載された写真をコピーするなどしてテレホンカードにしたと見られ、1枚1300円。
[毎日新聞5月17日]参照


記事と解説の要旨
 注目点の一つは、大正天皇の体調の推移。首相などを務めた原敬の日記には1913年5月「肺炎に渡らせらる(略)急報ありたり」とあり、この時期重体説が流れているが、実録では同年5月19日の記述として「(3字分黒塗り)ニヨリ陸軍経理学校卒業式ニ行幸アラセラルベキヲ止メテ(23字分黒塗り)、遂ニ肺炎ニ羅(かか)ラレ給ヒ」とあり、詳しい病状は伏せられた。
 この時期の首相は西園寺公望、桂太郎、山本権兵衛、大隈重信。この間、桂首相が天皇を利用し内閣不信任決議案撤回を命じる勅語などを出させた結果、第1次憲政擁護運動が起き内閣が退陣する「大正政変」が起きている。大正政変に関し、実録では1913年2月、大正天皇が「衆議院ニ於テ紛糾アルヲ聞キ甚ダ之ヲ憂フ」と、早期の紛争解決を望む様子が記されている。

 大正天皇 1879(明治十二)年8月31日に明治天皇の第3子として誕生。母親は側室の柳原愛子(なるこ)。名は嘉仁(よしひと)。1900(同三十三)年5月10日に九条節子(後の貞明皇后)と結婚した。12(大正元)年7月30日に32歳で即位。即位の礼は昭憲皇太后死去のため当初の予定から1年延びて15(同四)年11月にあった。
 幼少の時に大病を患ったことなどから病弱だったとされ、即位後も公務を控えることが多く、21(同十)年11月25日に皇太子(後の昭和天皇)が摂政に就任。その後静養を続けたが、26(同十五)年12月25日、死去した。死因は肺炎に伴う心臓まひとされる。
[毎日新聞3月29日] 参照


大江健三郎氏、高校校長から「政治的話題に配慮」を求められたため、講演を断る
ノーベル賞作家の大江健三郎氏は、新潟県三条市の県立三条高校(笠原中庸校長)から講演依頼を受けたが、同校校長から「政治的話題に配慮」を求められたため、「自由な話ができない」と、いったん受諾した講演を断ったことが1月19日、分かった。大江氏の講演は10月5日に行われる同校創立100周年記念式典の目玉だった。
 同窓会やPTA、教職員らでつくる同式典の実行委員会が昨2001年末、教職員のアンケートにより選ばれた大江氏に講演依頼の手紙を送り、すぐに本人から快諾する旨の手紙をもらった。
 しかし、1月初め、校長名で大江氏に再び手紙を送り、日の丸・君が代を式典で用いることを伝えたうえで「政治的な話題についてはご配慮の程を」などと要請した。これに対し、大江氏から「講演を断念したい」との手紙が届いた。
 三条市は大江氏の恩師の仏文学者、渡辺一夫氏(故人)のゆかりの地だった。

 笠原校長は「大江さんの著書や講演集などを読み、(天皇の戦争責任を問うなど)政治的な発言が気になって手紙で触れた。教育活動において一般論で『政治的中立の維持』を要請したつもりだった。貴重な機会がなくなったことは残念だ」と話している。 
 大江氏は「年頭、速達で『政治に関しては話さぬように』という注文がきました。また三条高では日の丸、君が代などをこうした式典で用いる――私はなにも問いあわせていませんが――と書いてありました。それは『政治的に中立を』というより、自分らの方針とちがうことは話すな、というものです。そこで私としては、いつも自由に話をしてきた者として、講演を断念したのです」という内容のコメントを毎日新聞に寄せた。[毎日新聞1月19日]参照


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昭和天皇とマッカーサー元帥との会見記録要旨

「マッカーサー」元帥トノ御会見録

昭和20年9月27日午前10時

於 在京米国大使館

石渡宮内大臣、藤田侍従長、徳大寺侍従、村山侍医、筧行幸主務官、扈従

 定刻米国大使館ニ御到着、玄関ヨリ「フェラーズ」准将ノ御先導ニテ館内ニ入ラセラレ、居室入口ニ於テ「マッカーサー」元帥御出迎申上グ。陛下ヨリ御握手ヲ賜ハレハ

 「マ」 本日ハ行幸ヲ賜リ光栄ニ存ジマス



 陛下 御目ニカカリ大変嬉シク思ヒマス

 元帥ノ御案内ニテ居室中央ニ立御、元帥其ノ向ツテ左側ニ立テハ米国軍写真師ハ写真三葉ヲ謹写ス

 「マ」 戦争手段ノ進歩、殊ニ強大ナル空軍力及原子爆弾ノ破壊力ハ筆紙ニ尽シ難イモノガアル、今後若シ戦争カ起ルトスレバ其ノ際ハ勝者、敗者ノ論ナク斎シク破壊サレ尽シテ人類ノ絶滅ニ至ルテアラウ、現在ノ世界ニハ今猶憎悪ト復讐ノ混迷カ渦ヲ捲イテ居ルガ、世界ノ達見ノ士ハ宜シク此ノ混乱ヲ通ジテ遠キ将来ヲ達観シ平和ノ政策ヲ以テ世界ヲ指導スル必要ガアル。

 日本再建ノ途ハ困難ト苦痛ニ充チテ居ルコトト思フガ、夫レハ若シ日本ガ戦争ヲ継続スルコトニ依ツテ蒙ルベキ惨害ニ較ブレバ何テモ無イテアラウ、若シ日本ガ更ニ抗戦ヲ続ケテ居タナラバ日本全土ハ文字通リ殲滅シ何百万トモ知レヌ人民ガ犠牲ニナツタデアラウ、自分ハ自ラ日本ヲ相手ニ戦ツテ居ツタノデアルカラ日本ノ陸海軍ガ如何ニ絶望的状態ニ在ツタカヲ充分知悉シテ居ル、終戦ニ当ツテノ陛下ノ御決意ハ国土ト人民ヲシテ測リ知レサル痛苦ヲ免レシメラレタ點ニ於テ誠ニ御英断デアツタ。

 陛下 此ノ戦争ニ付テハ、自分トシテハ極力之ヲ避ケ度イ考デアリマシタガ戦争トナルノ結果ヲ見マシタコトハ自分ノ最モ遺憾トスル所デアリマス。

 「マ」 陛下ガ平和ノ方向ニ持ツテ行ク為御軫念アラセラレタ御胸中ハ自分ノ充分諒察申上グル所デアリマス。只一般ノ空気ガ滔々トシテ或方向ニ向ヒツツアルトキ、別ノ方向ニ向ツテ之ヲ導クコトハ一人ノ力ヲ以テハ為シ難イコトデアリマス。恐ラク最後ノ判断ハ陛下モ自分モ世ヲ去ツタ後、後世ノ歴史家及与論ニ依テ下サルルヲ俟ツ他ナイデアリマシヤウ。

 陛下 私モ日本国民モ敗戦ノ事実ヲ充分認識シテ居ルコトハ申ス迄モアリマセン、今後ハ平和ノ基礎ノ上ニ新日本ヲ建設スル為私トシテモ出来ル限リノ力ヲ尽シ度イト思ヒマス。

 「マ」 夫レハ崇高ナ御心持デアリマス、私モ同ジ気持デアリマス。

 陛下 「ポツダム」宣言ヲ正確ニ履行シタイト考ヘテ居リマスコトハ先日侍従長ヲ通ジ閣下ニ御話シタ通リデアリマス。

 「マ」 申シ上グル迄モ無ク陛下程日本ヲ知リ日本国民ヲ知ル者ハ他ニ御座イマセヌ、従テ今後陛下ニ於カレ何等御意見乃至御気附ノ點 opinions and advice モ御座イマスレバ、侍従長其ノ他然ルベキ人ヲ通ジ御申聞ケ下サル様御願ヒ致シマス、夫レハ私ノ参考トシテ特ニ有難ク存ズル所デ御座イマス。勿論総テ私限リノ心得トシテ他ニ洩ラスガ如キコトハ御座イマセンカラ、何時タリトモ又如何ナル事デアラウト随時御申聞ケ願ヒ度イト存ジマス。

 陛下 閣下ノ使命ハ東亜ノ復興即チ其ノ安定及繁栄ヲ齎シ以テ世界平和ニ寄与スルニ在ルコトト思ヒマスガ、此ノ重大ナル使命達成ノ御成功ヲ祈リマス。

 「マ」 夫レ(東亜ノ復興云々)ハ正ニ私ノ念願トスル所デアリマス。只私ヨリ上ノ権威(オーソリティ)ガ有ツテ私ハソレニ使ハレル出先(エイジエンシー)ニ過ギナイノデアリマス。私自身ガ其ノ権威デアレバト言フ気持ガ致シマス。

 陛下 日本ニ御滞在中モツト御会ヒスル機会モアルコトト存ジマスガ、御忙シイコトト思ヒマスカラ今日ハ之デ御別レシマス。

 「マ」 先刻モ申上ゲマシタ通リ今後何カ御意見ナリ御気附キノ點モ御座イマシタナラバ、何時デモ御遠慮無ク御申聞ケ願ヒ度ク存ジマス。本日ハ行幸ヲ賜ハリ破格ノ光栄ト存ジマス。

(此ノ間約三十七分。奥村謹記)

[毎日新聞10月17日]参照

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