荘厳司教ミサの歩み

今までの荘厳司教ミサの様子



Youtubeで2009年10月10日荘厳司教ミサ「平和と正義を求めて」を観る。


今までの参加者の声

この御ミサに参加してくださった方の中から、「良かった。」という声と、今後このような御ミサが多く行なわれることを望む声が、毎年40件以上寄せられています。その中のいくつかを紹介します。

1994年の声1995年の声1996年の声1999年の声2000年の声2007年の声2009年の声


(1994年ミサ参列者の声より)

神の恵みが歴史の流れの中で今日まで変わること無く続き、その恵みの中に、いまわれわれがいること、そして、その恵みに応える信仰のエネルギーを感じました。数年前パリで数ヶ月過ごしましたが、ある教会の毎日曜日の9時のミサはいつもラテン語のミサでした。私はそのミサの中で、歴史の流れの中で働きつづける神の恵みを受けながら祈り歌う信徒の方々の、落ち着いたそして、しっかりした信仰を感じました。今日のミサも、また、パリで経験したミサも、単なる懐古趣味の行事ではなく、教会の長い歴史を、喜びと涙と、そして殉教の血を以って書き続けてきた、おびただしい信徒達の信仰の流れに、いま自分も身を浸しているという喜びを感じとることだと思うのです。

今グレゴリオ聖歌が一種のブームだといいます。私はこれを、現代に呼びかけておられる神のお声のように感じます。グレゴリオ聖歌が、単にCDで聴くものだけではなく、ラテン語ミサの中で実際に人々の信仰を支えているのだということを社会の人々に示すことは、神の呼び声にお応えすることではないだろうかと、これは私の密かな思いです。皆様のお仕事の上に豊かなお恵みをお祈り致します。(Y.I 修道士)

初めてこのミサに出ました。素晴らしかったです。ぜひこれからも決して止めることなく続けていただきたい。そして改めてグレゴリオ聖歌に感動しました。(M.A神奈川)


本当に真のカトリック信仰を深めるカのあるミサでした。私はかねがねナイス運動の表面に出ない本質は信者の御聖体信仰を弱め、信者と御聖体を引き離すことであると考えております。このようなラテンの美しいミサは信者の心をご聖体に向かわせ、神の愛を深めるカがあるのです。(M.F.東京)
第一回以来、このミサに参加させていただいております。開かれた教会の名の下に、善い伝統さえも切りすてられている現状において、ラテン語のミサを行っておられることに心から声援を送ります。毎年参加させていただいているだけでなく、さらにこれが拡大していくことを祈りたいと思います。(東京)
毎年一度のこの釦ミサを楽しみにしております。カトリックの素晴らしい伝統であるグレゴリオ聖歌、ラテン式典礼が教会から姿を消した事は残念でなりません。
今後ともこの伝統を守る為お働き下さい。陰より祈りをもって協力させていただきます。年毎に典礼も素晴らしくなって来ました事を心から嬉しく思っております。又、来年楽しみに参ります。それまで少しずつでもグレゴリオ聖歌を勉強してみたいと思っております。(S.千葉)
満席にちかかわらず雑音もなく、祈りに一心となり、荘厳に行われ、グレゴリオ聖歌の大音響合唱は素晴らしいものです。伝統的なものは矢張り良いですね。一年に1回との事ですが、皆が自席で知っている歌曲を力一杯大声で唄っているのを聞き乍ら天国の前ぶれの感じを受けました。準備で大変でしょうと思いますが、次回もやって欲しいと思います。未信者の若者がゲレゴリオ聖歌のブームを起こしているのもうなづけます。(S.H.埼玉)
4年目を迎えたラテン典礼による司教ミサも定着したように見えますが、一方、年一回のフエスティバルと云っても良いかも知れません。現代は多様化の時代です。若者中心のフォークミサや国際ミサと呼ばれている多国籍ミサ、多くの教会で行われている典礼聖歌だけのミサ等があります。夫々存在の憲義はあり、これを決して拒むものではありません。しかしラテン式ミサに参加したいとしたら、一体どこへ行ったら良いでしょう。バチカンやイタリアヘ行けとでも言うのですか。或いは年一回を待つしかないのか、まるで七夕様ですね。どこかの教会へ行けばラテンミサがあると云う状態にしてほしいですね。(T.K東京)
第2回公会議以後、母国語のミサが行われるようになって、ミサが私たちのものとなった実感がある反面、美しいグレゴリオのミサが行われなくなったことを淋しく感じておりました。小教区でも折にふれグレコリオミサを行えれぱと思います。着い世代にもラテン語やグレコりオミサに日常的に親しんでもらうことで、今日の様な試みも聖歌隊だけではなく、会衆の参加もより期待できると思います。
来年も楽しみにしております。関係者の皆様、御苦労様でした。ありがとうございます。(S.T.東京)
グレゴリオ聖歌のミサは初めてでした。このような機会を作ってくださった同志会の方々に御礼申し上げます。ミサの流れはわかっていても、ラテン語の字面を追うことで夢中になってしまいました。また企画していただけれぱ、回を重ねて参加させていただき、しだいに味わっていくことができるだろうと思います。どう継続くださいますように。感謝を込めて。(H.I.東京)
今日始めてゲレゴリアンミサに参加いたしました。大変すばらしく感動いたしました。世界をひとつに詰ぷ祈りはいつまでも残して欲しいと思います。これからも多くの教会で又この様なラテン語ミサが復活することを祈リ願う一人です。ありがとうございました。(東京)
先年カナダヘ旅行した折、たまたま訪問した教会(カテドラル)でグレゴリオ聖歌を聴き、信者の方々と共に歌わせて頂き、ラテン語で祈りを唱え、人種を越えて一つの言葉でミサに与かれた事は今でも忘れる事が出来ません。これだけでカナダヘ来て本当に良かったと思った事でした。日本でも以前はどこの教会でもラテン語でミサが行われ、子供も大人も一緒にラテン語で祈り、聖歌を歌ったものです。本目は久しぶりにラテン語による荘厳ミサ1こ与かることが出来(カトリック新聞の記事で知りました)、本当に嬉しく思って居ります。久しぶりに「御ミサに与かった」と云う恩いで一杯です。本当にありがとうございました。思いきり一緒に歌わせて頂きました。ありがとうございます。この様な機会が又ありましたら是非々々参りたいと思って居ります。(K.A.幼児洗礼千葉)
若い人々に受け接がれて行くように、教会の準備された方々に感謝です。家族の中で一人キリスト教ですが、このミサには主人も同行し、楽しみました。一つの福音宣教の良い方法だと思います。
今回はこの御ミサにあづかる事が出来ましたことに梁く感謝致します。昔のよき時代を想い出します。旬ミサ、街聖体を非常に尊く、有難い気持ちで感謝々々でございます。ラテン語の御ミサ、グレゴリオ聖歌、嬉しい気持ちで一杯です。又、大変のことと存じますが是非企画して下さいます様にお祈り致します。そして日本の信者さんが迷わずパパ様を中心に、神を賛美することが出来ます様に…本当に有難うございました。新幹線でかけつけまして、祈り乍ら丁度3時に到着しました。思召しに感謝です。(K.T.静岡)
ラテン語ミサがあることを教会の告示板で知りました。公会議の前はすべてラテン語でしたし、学生時代にラテンの典礼を勉強しましたので、私にとっては大変懐かしいミサです。今後、やはり世界の共通ミサとしてこの日本にも残して頂きたいものだと思います。クリスマスか復活祭にでも来たような思いがしました。オルガンも久し振り…よかったです。(H.N.神奈川)

来年洗礼を受ける予定でがんぱって学んでいるところです。今日は参加できまして本当によかったです。すぱらしかったです。(T.1.)
初めて本当の歌ミサに預かりました。大変感激しました。(S.1.神奈川)

二年前からこのミサがあったそうですが、寡聞にして今年はじめてカトリック新聞で知り、うれしく参加しました。公のミサで、デ・アシジエリスを唄ったのは本当に久しぶりで、大昔これ等のグレコ'リアンを手とり足とり教えて下さった神田教会のシェレル神父様、若き目のアヌイ神父様に感謝します。来年も元気でしたら又与かるつもりです。(S.S.79才千葉)
先日は大変素晴らしいなつかしい衝ミサに参加するお恵みをいただき有難うございました。このような御ミサが91年から行われていたのを知らずにいて残念でしたが、来年からはお友達もお誘いして参加させていただくつもりでございます。

私共の教会は昔の神学校の御ミサに与かったり、ウッサン神父様にご指導いただいたり、内山神父様の頃には年9回もグレゴリオ聖歌で歌ミサをしたりしておりましたが、現在では主日のミサに拝領の時丈、細々と歌わせていただいている有様でこのような胸ミサがカテドラルで出来るとは驚きでした。ぜひぜひこの万国共通の素晴らしい聖歌がもっと教会で歌い継がれますよう、皆様のご尽力をお願
い申し上げます。(M.M.東京)
友人に誘われて、カテドラル聖マリア大聖堂でごミサに与かりました。ラテン式典礼ミサは初めてでしたが、その荘厳さに感激致しました。美しい聖歌に導かれ、天上との一体感を覚え、霊魂の高められる思いを味わいました。ミサとは斯くあるべきもの...ラテン式典礼ミサから言葉を越えた神秘をいただいたことを感謝致します。ありがとうございました。
(H.M.神奈川)
都合のつく限り来年も是非与かりたいと思います。それまでに少しでもラテン語の典礼用語でも覚えたいと思っておりますが、矢張りカトリックである事のアイデンティティは素晴らしい典杣こあると、かねて思っており、その為に洗礼を受けたものとしてラテン語ミサに与かれる事は無上の喜びです。もちろん国語化、現地化もそれなりに意義があると思いますが、ともすれば神学論理的に形式ではなく理屈で、あたかもプロテスタント的になってきつつある最近の典礼はきらいです。「心がこもっていれば下手でもいい」式の風潮はおかしいです。矢張り至上の「美」を求めた典礼こそ神を賛美するに相応しいと思います。その点ロシア正教のニコライ聖堂に於ける典礼は気に入ってたまに聞きに行きます。洗棟された「美」を不断に求める事..それが宗教の本質だと私は思っています。
(T.Y.東京)
前略先日はすばらしいグレゴリオ聖歌のごミサにあずからせていただきましてまことにありがとうございました。いまCDのベストセラーは世界でも、わが国においてもグレゴリオ聖歌だそうですが、これほどのすぱらしいものを第二ヴァチカン公会読後カトリック教会は何故捨ててしまったのか、私には不思議でなりません。刷新の名のもとに、歌いづらい典礼聖歌、カトリック聖歌の廃止、プロテスタント化したミサ、十字架の道行の廃止、ロザリオの祈りをしない、等々、教会内の不一致を挙げればきりがありません。私も先月まで横浜教区に所属していましたが何年か前に教区創立50周年の記念ミサが栄光学園のグランドで行われた時、びっくりしたのは共同ミサ司式の司祭が多勢いるのに、平信徒の女性が信者にご聖体を授けているのを見たことでした。私の所属していたS教会では毎日曜日、信者の数も少ないのにご聖体は平信徒が授けていました。第二パチカン公会講は悪魔のしわざという人もいますが、今の状態ではそれもうなずけます。こんなことでは信者数はますます減少し、召命も減って当然だと思います。今こそ、聖人を多く輩出したトリエント典礼のラテン語ミサにして、聖母マリアヘの崇敬を行うことが必要ではないでしょうか。
国際化した日本、外国人が教会に来られた時でも、共に祈ることが出来るのは共通語のラテン語のミサではないでしょうか。ぜひ、この次のグレコりアンミサにも参加したいと思います。
十アヴェ・マリア
ロザリオの月を迎えて、皆様の教会でもロザリオの祈りに励んでおられることと存じます。咋年に続き今年も、カトリック・アクション同志会から先日の荘厳司教ミサにお招き戴き、日本教会共同体の一体性を痛感しながら、喜んで参加させ
て戴きまレた。グレゴリアン聖歌のミサは、40年前ごろの神学生時代には、美声の持ち王であったドイツ人神言会員トナイク神父の厳しい指導の下で毎日のように歌っていましたので、歳が進むとその頃の美しい典礼が懐かしく覚えてなりません。それで、皆様の試みには感謝しています。この美しい伝統を将来の若者たちにも残したいものです。祈りつつ継続するなら、やがては青年たちも多く参加する時が来るのではないでしょうか。継続はカです。どうぞこれからも、この試みを長くお焼けください。
もう古<なって恥ずかしいものですが、11年前の秋、私の司祭叙階25周年記念に参集する信者たちに配布するため編集した拙著を、感謝の印に贈呈させていただきます。ご笑納ください。ついでに、近著も一冊贈呈致します。ご笑覧ください。感謝のうちに
(G.A.愛知司祭)

今回初めてのラテン語ミサで、私1人だけで行ったのでカテドラルヘ行くまでは不安でした。けれど親切な人達ばかりで、不安はなくなりました。ミサも大変すばらしい、ミサのパンフレットもラテン語、日本語、英語となっていて、英語もラテン語もわからない私にも親切でとてもわかりやすくてよかったと思いました。
ラテン語ミサがあんなにすぱらしいなんて想倶していた以上でした。今回ラテン語ミサにあづかることが出来て本当によかったと思います。ラテン語ミサが長く続いて下さることを願います。次回も楽しみにしています。感想遅くなってしまってすみません。乱文、乱筆、お許し下さい。(T.X.群馬)
ラテン語ミサは子供の時だけで、今はグレゴリアンも教会ではほとんど歌いません。子供ミサというのが月1回あり、フォークの聖歌を歌いますが、若者や子供だからフォークミサが良いだろうという考えは、非常にセンスの悪い大人の考えと思います。若者はあんなに貧弱な言葉の祈りの歌ではなく、美しい深いグレゴリアンの祈りの聖歌を歌えるように養成すべきです。若者の立場で言わせてもらえば今の日本の教会の信者に対する指導はセンスが悪い。若者は忍耐力より正義感のほうが強い。教義も典礼もがたがたで、ご聖体を拝領したいから教会につながっているという忍耐強い若者は少ないだろう。
(K.O、東京)
(前略、一昨日、土曜日、聖マリア大聖堂における荘厳ミサのコメントをお送りします。今でも感激の余韻が残っており、思い出すと涙が出てきます。ラテン語による聖祭に郷愁をいだいたりするのは不遜かと思っていましたところ、会場でお手渡しいただいたパンフレット表紙裏の志立託爾様の一文を拝読して、心が励まされました。どうかこのような企画をできる限りお進めください。早々)
私は、昭和20年代初めにカトリック教会を知り、昭和24年に長崎で受洗しました。当時の祭式はラテン語によっており、先日、干葉県市川教会の吉田神父にその当時へのノスタルジアについて洩らしましたら、今日の事を教えていただきました。感動の余り、しばしば涙が溢れ出ました。自宅に帰った今でも感動が吹き出します。お渡しいただいた「ミサ典礼書」は、おかげさまで全部フォローすることができました。たまたま旅行で参加できなかった妻にも語り聞かせ、典礼書は家宝扱いにいたします。(T.M.千葉)
久し振りのラテン語の御ミサ大変感激いたしました。昭和23年の洗礼ですので、最近の典礼や聖歌、特に聖歌は仏教の御詠歌のような感じでどうしてもなじめません。又、是非このような機会をお与え下さいますよう、本当にありがとうございました。
去年もすぱらしかった。今年もさらに心に深くすばらしい。昔、歌っていたラテン語ミサを、声はりあげて歌える喜び、このいい気持ちはそのまま`.祈り"。喜びの”祈り”。O Sanctissima O piissima...こういう美しい歌に接しない今の若い人達にはどんな聖歌が残されていくのでしょうか。世間には横文字の看板や歌だらけなのにあまり日本語にこだわるのも..(S.H.61才東京)
美しい超自然的atomsphere(雰囲気)にみちたミサです。今の教会の司教様、神父様方にもこのような典礼の美が信者の心の中の神への愛を燃やし、それによって隣人愛のカを与えるものだということを悟って欲しい。(M.F..東京)
感激しました。私たちの教会では最近来られた主任神父様の命令で、聖堂の脆づき台は勿論のこと、従来使っていた「カトリック聖歌集」も取り除かれてしまいました。日本語の「典礼聖歌集」で十分だというのです。「カトリック聖歌集」にもいい曲があり、それを主張すると異端者的な目で見られます。肩身の狭い思いで、実は、教会を変わろうかと同志で話し合っていたところです。今日は勇気付けられました。(20代女性、東京)

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(1995年ミサ参列者の声より)

初めてグレゴリオ聖歌のラテン語ミサにあづかりましたが、まさに題名のとおり、”荘厳”なもので非常に感動しています。一部の歌を除いて全てが日頃親しんでいないラテン語なので唱える時に多少とまどい、言葉と心が一致していない事が少々残念でしたが、心の方を向けようと努めました。おかげでとても素晴らしいものになったように思います。パイプオルガンと聖歌隊の響きも、敬謙な祈りの雰囲気をかもし出していて、「やろうと思えばこんなにすごい典礼をカトリックは持っているじゃないか!」と叫びたくなります。

やはりクリスマスや復活祭のように、壮大な、雄大なミサは非常に心を新たにしてくれると感じました。日頃の教会でも、もっと追求されるべきものだと思います。またぜひ、あずかりたいものです。年に1回などといわずに行なってほしいと思います。(一部省略)(K.M 大学生)

御ミサにあずからせていただいて感謝いたします。

ラテン語の御ミサの内にある雰囲気の荘重さ、聖霊が御臨在下さることの素晴らしさ、御ミサのうちに深く主の御救いの業を味わう事ができ感謝しております。主が私たちに与えてくださったものを毎週確認できる事の恵みを、改めて知ることができました。また「神をおそれる」ことを改めて教えられました。生活のうちに心がけていることがあっても、習慣化したプロテスタントの礼拝のうちに知らず知らずのうちに忘れておりました。(ないわけではないとおもいますが、私のうちに知恵が与えられ、神の御心を知ることに重きを置いて受取っておりました。)体と心と精神をもって神をおそれることを思いおこす事ができ、ありがとうございました。

すべての準備、ミサレットの丁寧だったこと、オルガニストや聖歌隊のお働き、はじめから終わりまですべての働きをなされました方々に祝福が増し加わりますように祈りつつ(Y.S 日本ホーリネス教団・神奈川)

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(1996年ミサ参列者の声より)


年1回の大司教様お二人1こよる荘厳ミサにあずかれますことはこの上ない幸せと喜んでおります。私は生え抜きの信者、横文字は読めませんが、耳からと目からでごミサの内容は分かりますが、どなたでもどうぞ、とのことで信者さんでいらっしゃらない初めての方もお席に座っておいでです。そこで一言、今何ぺ一ジと仰って下さることで折角のプログラム1こ目那集まるのではと、老婆心から思いました。いかがでございましょうか。次回を楽しみ1こしております。(K.S.東京)


ラテン語ミサのご案内を頂き、まことに有難うございました。普段はつかわない言糞ですので馴染みがなかったのですが、素晴らしい聖歌隊、流れるような礼拝のリズムのために、普段は味わえない安らぎが与えられました。このまえ、O○での礼拝があり、それが余りにも時代に迎合的なものでしたので、荘厳ミサには心が洗われました。OOの礼拝はなにか人間が工夫をして(姑息なテクニックを使って)誘導するような不自然なものでしたので、それと対比して歴史の重みを感じさせる礼拝のカを感じさせられました。ただ普段は使わない言葉ですから、人々がどう理解できるだろうかとは患いました。融の子供は下山神父様の幼稚園でお世話になりましたので、意味も分からないのですが、ラテン語の聖歌をいくつか覚えました。ですから長い間の訓練の積み重ねで私のような疑問も解消してしまうのかとも思いました。社会も、教会さえも、伝統を粗末にして非常に疑問を感じていた時でしたので、あらためて伝統について考える拠金になりました。来年も予定の中に入れて参加するっもりでおります。(匿名希望)


一咋年はコーラス団満杯でだめ。昨年は当日の直前にケガをしてだめ。本年漸く希望を達しました。来年まで健康を保ってまた参加することを祈りましょう。
(S.S.干婁81才)


ラテン語のミサの響きは神様への思いをつよくさせるものです。私たちは神様への思いをつよくさせるものなら何でも取り入れるべきです。各教会でラテン語ミサが行われることを希望します。(".".東京)


聖歌隊がよく整っていて素晴らしかったです。ラテン語で歌う御ミサですと余計なことを考えずに自ずと祈りに心を向かわせられるので、(今のところは)年に一度のこの機会を楽しみにしております。(S.1.東京)


古神道の修行を25年なさった方にグレゴリオ聖歌のバイブレーションは魂をしずめる素晴らしいバイブレーションがあると数えられました。今日、本当に実感しました。(R.U.東京)


日本人、外国の方々の多く参列する中に、なつかしいグレゴリオ聖歌、ラテン語ミサにあづかれましたことは、多くの恵みを受1ゴられた実感が大きかったです。心にひびく神の声をもっともっと多くの方々にも聞かせてあげたい気持ちになりました。神に感謝。(K.Y.東京)


各国語1こよる共同祈願が大変良かった。そして右へ一ジ1こ日本語、英語とのせて下さったので人々によくわかり、よかった。(^.K.千葉)


私は現在求道中で、来る降誕祭で洗礼の秘跡を受ける予定です。今回のミサはべ私が所属している共同体が元和の殉教の地を訪れ、その後に来ました。私は病をもっており、共同体の人々に助けられ、ミサを受けました。聖母の連願で感激し、泣きだしてしまいました。ミサ中1こ病気の発作が出て失神もしてしまいました。しかし、今回のミサで言葉で語れない程のものを得られたような気がします。(".1.東京)


聖マリアカテドラル聖堂は、高貴な美しさをもった真に神聖な所と感じました。自国からこれほど遠隔地にも関わらず、あの神聖な祈りをしておられる皆々様と非常に近く結ばれている感じもして、2時間の御ミサ中、始終大変な喜びに満たされました。周囲の美しさ、御ミサの壮麗さ、あの素晴らしい聖歌にも、非常に感動し、このような好機が与えられた事はお恵みと感じました。この素晴らしい祭儀を準備され、参加なさった皆様にお祝い申し上げます。(C.R 日本での国際会議に参加したカナダ代表)

心から感動しました。私は洗礼をいただいてまだ3年で、教会の歴史や伝統がやっとなんとなくわかったところです。よく昔はラテン語ミサだったという話を耳にし、一度あずかってみたいと思って足を運びました。なぜこのミサがなくなってしまったのだろう。こんなに美しく神秘的で、心にそのまま響く何かがあるもを.....と思いました。年に一度だけではなく、せめて二度、できれば春夏秋冬に一度ずつでもこのミサをたててくだされば、カトリックの長い歴史と信仰の心をもっと多くの人々が味わえるのではないでしょうか(N.Y 神奈川)

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(1999年ミサ参列者の声より)

なつかしいラテン語のミサに参加する機会が与えられたことを感謝いたします。とても美しいハーモニーだったと思います。枢機卿様はじめ司式される神父様とてもきれいな発音でした。参加された方も多く、とても感動的でした。ミサによって一つでも大きな宣教に励むことができますようにと思っています。(東京S教会A.T.)
今年もラテン語によるグレコリオミサを挙げて下さいまして、ありがとうございます。お忙しいなかを準備してくださいました方々に感謝いたします。出席できない方のために五月頃にも一度あリましたら、どちらかに出席できるのではと思います。ラテン語のミサは小教区ではあまリ顧みられなくなり残念です。この伝統的なミサが多く挙げられたら、神様はどんなにお喜びになられることでしょう。(東京S教会M.S.)
ラテン語ですと、訳文の日本語を気にしないであずかれますので、祈りにより一層専念でき、とてもうれしく思います。(東京D教会S.1.)
プロテスタントの方とお付き合いをしていて、そちらの教会に行っていたのですが、タンバリンを叩いたリ踊ったりという礼拝になじめず、この扱会に通いはじめて1年半になりますが、このミサにあずかる時が一番、神への祈りにふさわしい雰囲気を感じ、また長い教会の歴史の重みを感じます。個人的にグレゴリオ聖歌を歌うサークルに入ったり、卒論で典礼音楽にふれたリしておりますが、やはり生のミサにあずかることが一番の勉強にな
ります。私のように若い世代の人間はラテン語ミサに触れる概会がないので、このような取り組みをふだんのミサから取リ入れてほしいです。すばらしい文化、教会の伝統をこれからも私たち若い世代に伝えて下さい。ぜひ。(M.N.)
4回目です。毎年コーラスがピタっとくるようになっています。素晴らしかった。また、栄光誦は司教様がたの声がそろって本当1こ美しかった。できれば、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」「パンジェ・リングァ」「タントゥム・エルゴ」「アドロテ・デオ・パニス」ぐらいまでは楽譜をつけて下さるとありがたいと思いました。(東京D教会K.M.)
久し振りに教会らしくて良かったです。典礼聖歌は、グレゴリオ聖歌を中心に据えよという典礼憲章を無視しており、かつ、歌っていてももの悲しさや恨み等の感じられる音で、非キリスト教的なものを感じます。理性の輝きや心の清澄さは、やはり長年の歴史の中で研ぎすまされたカトリック聖歌の中1こ感じられます。年に一度でなく、もっと回数を増やし、また実施する教会も増やして欲しいと思っています。(東京T教会M.S.)
日本の最近の典礼の粗雑さに比して、脆き、口による聖体拝領、グレゴリアン聖歌と大変荘厳で感銘を受けました。更に広まることをお祈りいたします。ただ残念ながら、お説教等の声が反響して良く聞き取れませんでした。(東京T教会T.M.)
十主の平和 洗礼を受けて4年目です。これがカトリックのミサだとおもいました。宝です。参加できたことを感謝いたします。多くの方々の努力をありがとうございます。一年聞練習してきました。本場のミサを一年に一度は日本でも大々的にしたいものです。よろしくお願いします。白柳枢機卿のラテン語はいつきいてもあたたかいです。
今回で4回目のラテン語ミサに健康を保ち、集えました。毎回このミサに来ると心に澄明な私たちの主の恵みを与えられます。準備委員会のお一人お一人の労が報われていますように。(中略)来年も幸せに生き続けて来られることをお祈りしています。(埼玉、求道者)
殆ど参加させて頂いております。有難うございます。最近の教会では、こなれていない歌を歌わされるのが苦痛です。ことぱを生かそうとしない風潮に対し、イヤ気がさしてきます。このミサはいつも心が洗われます。(神奈川O.)
侍者の香の振り方、研究して下さい。最前列にいても金属音が聞こえません。(東京M教会K.H.)
大学でほんの少しだけグレゴリオ聖歌を学びました。信者ではない私にもその荘厳さは感じられました。今回、全てラテン語によるミサということで参加させていただきました。
建物がまずとてもすてきで驚きました。どこか冷たく静かに感じられ、その中で行なわれるミサの暖かさがさらに際立っているようでした。ミサ自体もとてもよかったです。信仰とは関係なく、心が洗われるようでした。合唱団の歌もオルガンの音も実際に生で聞くとやはりよいものですね。そして神父様方の声。歌うようにラテン語を唱えていました。もちろん日本語でもとてもきれいですが、ラテン語は言葉自体の特性も多いにあるのでしょうが、すてきでした。(東京、F)
今年も健康でこのミサに与れたことを感謝します。ご準備大変だと思いますが、来年も亦よろしくおねがい致します。来年まで健康であるように。(千葉N教会S.S.84才)
とてもすばらしいミサで感激しました。但し、普段やっていないせいかラテン語がおかしい神父も居られました。年1こ一度でなく二、三回実施してほしい。英語の教師なので細かいことですが表現に二、三気1こなる所があります。StandとSitはupとdownがついていないのがおかしいし、公式にはall riseとかbe seatedの方が適切であると思います。prayer for peace over churchはupon churchであるべき。join the choir songはchoir in singing。 sing palams はplease(スペルミス)(東京M教会M.T.)
◎孫より:いろいろとご指摘ありがとうございます。スペルミスは当然のことですが、他の表現については米国のカトリック教会で使用しているミサレット(日本の「聖書と典礼」のようなもので一月分をまとめて1冊として全米で配付されている)に準拠しております。
ミサでアナウンスするときは、Please Stand up とかしsit down pleaseなどと言っているようです。
聖体訪問に訪れましたら、思いがけなくこのミサがあり、与からせて頂き感謝しております。6才〜20才頃まで参っていた自ミサを懐かしく思い出しました。世界共通のミサ、そしてその荘厳さにいつもと違うミサの祈りを捧げる事が出来ました。(東京S教会Y.K.)
今年も荘厳司教ミサに与ることが出来、神の恩寵こ心からの賛美と感謝を捧げます。一ヵ月前に入院手術を受けた後なので、参加出来るかどうか不安でしたが、元気にあづかることが出来て感激も新たです。ただ一年に一回しかラテン語によるミサにあづかることが出来ないので、典礼書のラテン語を見ても昔ほど目に馴染まず、もともと語学の才能のない私ですが、ふだん見聞きしないでいると忘却の彼方へ行ってしまうものだとつくづく痛感しました。枢機卿のラテン語は流暢で、綺麗な響きとなって聞こえ、真剣に典礼書のラテン語を目で追いつつ緊張のうち1こ祈りを捧げました。当然のことながら枢機卿は大したものだと感じました。最近の神学校ではラテン語は必須科目ではなく選択科目だそうで、実際にラテン語を知らない神父がいるそうですが、一体これはどういう亭でしょうか。全世界の公用語である筈のラテン語がこんなに疎んじられても良いものなのでしょうか。第二パチカン公会議で決定された事項の中で、ラテン語を勉強しなくとも良い等ということは全くないと聞きました。教皇から回勅やメッセージが出された場合、籔会ではどのようにしてこれを信者に伝えるのでしょうか。高齢化を迎えて日本の社会で国民が老齢者が増えてい<現在の状況の中で、司祭も高齢化し次第にラテン語を知っている司祭が減って行<ことにこなリ、将来はラテン語によるミサがあげられなくなるのではないか、という危機感さえ感じます。(東京S教会K.O.)

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(2000年の参列者の声より)

〔当日回収分〕
充実した素晴らしいミサに与かることができました。久しぶりにカトリック聖歌集の美しい曲を歌うことができて嬉しかったです。有難うございました。(東京K教会T.S.)
今年聖歌隊に入りました。信者でなく、ほとんど知らない歌でした。聖歌楽譜を頂いてほぼ2週間、バスパートを歌詞と共に書き写し、音を私の楽器で一つ一つひろい、当日はまわりの方の音をたよりに歌わせて頂きました。Veni Jesuのあたりでは胸がつまり歌えなくなりました。有難うございました。(神奈川K教会 C.F.)
Missa de Angelisのなつかしい聖歌、すばらしいミサ曲が教会の日常のミサからなくなってさびしい気持でしたが、本日一緒に歌う事が出来、感激しました。すばらしい聖歌は教会でも歌う努力が必要と思います。(神奈川Y教会=Y.U.)
本日のミサに参加させていただいたことを感謝致します。ラテン語ミサは世界共通ですので続けてほしいと思います。外国の巡礼の時など、特に喜びを抱きます。なぜなら日本の巡礼者の聖歌に合せて、外国の巡礼者も一緒にラテン語で一緒に歌い祈っておられるのです。ラテン語聖歌はすばらしいので多くの人に練習してほしいのです。(埼玉K教会:K.H.)
素晴らしい荘厳ミサに与かり心より感謝しております。グレゴリオ聖歌の祈り心のあふれた天上のような美しいミサに神さまの真、善、美が表れているような一刻でした。一年に一度のこの御ミサを楽しみに感謝と合わせてお待ち致しております。(東京K教会:F.N.)
†平和と善。来年もこのミサが開催されますように。特に典礼の悪化が進んでいる大阪管区内でもこうしたラテン語ミサが行なわれるといいと思います。(神奈川K教会:Y.K.)
5年振りに横浜(戸部教会)より参加しました。大勢の皆様方と御一緒に御ミサに与かり、心より嬉しく思います。ありがとうございました。今後も続けて下さい。磯浜地区聖歌隊も来年10周年を祝います。(ラテン語ミサ)(神奈川丁教会:YIH.)
ラテン語・グレゴリオ聖歌によるミサの荘厳さを堪能いたしました。同時に、第二バチカン公会議の意義深さを実感いたしましれ(東京K教会1Y.Y.)
本当に久しぶりにラテン語の荘厳ミサに参加出来て感動しました。普段のミサも時々、このような機会があれば良いと思います。(東京K教会=K.M.)
心から神に感謝!このようにすぱらしい御ミサが10年も前からあげられていたことを本当に感謝致します。いつも御親切にしていただいている信者さんに今回初めておさそいいただきました。パパさまの御ミサにあづかったように、御ミサの中でパパさまにお会い致しました。旅行になかなか出られない身にとってこれ以上のお恵みはありません日これから可能な限り出席させていただきたいと願っています。そして、一人でも多くの方にお知らせして、この地上で最高のお恵みを共にいただきとうございます。
ありがとうございました。パパさまと、全ての神父さま方のためには毎日祈っています。
1O年連続参加。年々盛り上がってきていることは喜びに耐えません。今後とも永く続けることが出来ますように。(神奈川M教会1T.S、)
何と美しい御ミサ!典礼の本質は人間の五感を通して見、聞くことのできる美しいしぐさや音楽を通して、目に見えない愛の神様を、人々がより深く信じ、愛することができるように助けることでしょう。
そして、御聖体を深く信じて、愛することができるように、人間のちっぼけな心を高めるためのものでしょう。御聖体拝領の後、御聖体のありがたさ・・・・・これが本当に神様の体だということ・・・・・を強く感じることができて、涙が止まりませんでした。グレゴリオ聖歌は祈りそのものですね。美しい選曲をして下さった方々、ありがとうございました。日本中のすべての教会で、このような美しい御ミサを採用すればあっという間に信者が五倍・十倍、十五倍にも増えるでしょうのにね……1(東京S教会=M.F.)


〔後日到着分〕(2000年11月8日までに届いた分です)
今回で2度目ですが、大変感動的なごミサでした。ありがとうございました。私達の聖歌隊も良き伝統を守り、歌っていきたいと思います。(神奈川Z教会:T.0.)
今年もラテン語・グレゴリオ聖歌でのミサを計画、実行して下さったカトリック・アクション同志会に心より感謝申し上げます。カトリック教会の宝といえるグレゴリオ聖歌・ラテン語聖歌は、実際にその様式でのミサに与っていた人達の世代が絶えてしまってからでは、甦えらせることは非常に困難だと、心配している者の一人として、この催しはいっも嬉しいことです。聖歌隊、オルガンもとても良かったです。グレゴリオ聖歌とラテン語は、日本の教会では今では教会の大祝日に思い出されたようにお蔵から取り出されるほこりまみれのお宝のように扱われている現状をとても憂えています。グレゴリオ聖歌でのミサを知らないでいる信者さん達も増えている現状にもっと度々、それぞれの教会で歌われるべきだと思います。その場合はミサの通常文のみのグレゴリオ聖歌・ラテン語聖歌で充分だと思います。素晴らしいものを感じ取ることに優れている若い世代の人達も、いいものはいいときっと感じると思います。
高3の時に、グレゴリオ聖歌とミサの素晴らしさに、信仰の真髄を感じて、プロテスタントからカトリック教会に移って洗礼を受けた私は、特に若い世代の方々に、グレゴリオ聖歌をCDで聴くのではなく、ミサで皆で歌うことによって、その本来の素晴らしさを知って欲しいと望んでいます。又、カトリック教会の共通語であるラテン語のミサは、それが用いられている限り、旅行中など、どこの国でのミサにも安心して写ることができるという素晴らしいメリットがありました。現在、日に日に多国籍、多人種になってきている日本のカトリック教会は、それぞれの国語でのミサで対応はしているものの、司祭の数は減少の一途であることを考えれば、とても無理な対応であり限界が来るのは目に見えています。この際、ラテン語のミサであれば、国籍、人種を問わず多くの人達が与れるのではと思います。教会の中でラテン語が生きていれぱの話ですが、今ならまだ手遅れではないと確信しています。いろいろと思うままに書きましたが、カトリック・アクション同志会の働きが、現在・未来の教会の為に、大き旭流れ、動きとなって下さることを固い、応援しています。(東京K教会:H.K.51才)
初めて参加させて頂きました。洗礼を受けて1O年になりますが、キリスト信者としての本分を忘れ、怠慢から、教会から遠ざかる生活を送ってきました。罪を悔い改め、行いを新たにしようとしていた、この大いなるゆるしの年に、このような素晴らしいミサに与かれた事を神に感謝致します。そして、伝統的なグレゴリウス聖歌とラテン語によるミサが普遍の教会に浸透し普及される事を切に願い、祈ります。
また機会があればぜひ参加しだいです。(東京K教会1K.1.)
大聖年(グレゴリオ聖歌・ラテン語)の荘厳司教ミサにて神を礼拝し、賛美と感謝の祈りを捧げることができ大変感動しております。おもえば、私は1949年に受洗いたし、まさにラテン語によるミサにて信仰生活をはじめました。爾来50年余りになりますが、ラテン語の、ドミヌゥスボビスクムや、スルスムコルダ、クレドインウヌムデウムのお祈りが、心にしみこんで今日に至っております。此の度、久しぶりにラテン語だけのミサに与かり、信仰の原点にかえり、喜びと感謝が続いております。2000年の1O月、第10回目の司教ミサは、深く心に残りました。(東京教区1M,0.)
†アヴェマリア
初めて参加しました。とても感激しました。事前に女子パウロ会のシスターにお伺いして、CDとカセット2本購入し、練習して参りましたが、当日、受け付けで頂戴した式次第の立派さにびっくり致しました。グレゴリアン聖歌の歌詞から式文に至るまで、ラテン語、英語、日本語3ケ国語対訳形式で載っているではありませんか。聖歌には楽譜までっいていて、まさに至れり尽くせりの感、第2ヴァチカン公会議以前のごミサを全く知らない者でも安心してごミサに与からせて頂けますように配慮して頂いて、誠に有聾く嬉しく存じました。帰り際には、ローマ教皇庁大使エムブロズ・デ・パオリ大司教様の説教の邦訳まで手渡で配って頂きました。素敵なチラシとともに式次第に貼って切に保管しております。いつか又・ラテン語の響きの美しさ、グレゴリアン聖歌の清澄な語べに酔いしれることのできる機会がございますこと、心より楽しみにお待ち申し上げております。ありがとうございました。(東京S教会:M.K.)
†Ave Maria!すばらしい荘厳な御ミサのために尽力してくださったことに、心から感謝し、敬意を感じております。ローマカトリックの信仰、伝統のすばらしさを体感することができました。これからも毎年つづけてください。楽しみにしています。そしてお円いがあります。御ミサの前の聖母の連とうを、10月なのでロザリオの祈り一環にしていただきたいのです。しかも文語体の祈りで…1あんなにも多くの人々とロザリオの祈りが共に捧げられたら、すばらしいと思います。けれども、どうしても文語体の方がいいです。新しい祈りは神様はお喜こぴになっておられないと思います。“めでたし”or
”AveMaria!”という呼びかけも省力されているなんて、ひどい祈りになってしまったものです。(口語体の祈とう書も安っぼいものになってしまい、やはり文語体の祈とう書を私は一生使いっづけていくつもりです。)これからも'御聖体拝りょうが、ひざまずいて口で受けてもいいというすぱらしいやり方をつづけてください。いつまでもローマカトリックの正統な教えと伝続を守るために戦いつづけてください。多くの司祭が理解を示してくださるとよいのですが、現状は難しいと思われます。どうか困難に屈せず、神の御国の実現のために働きつづけてください。祈りのうちに応援しています。(東京K教会:K.T.)

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