2007年ミサ参列者の声より
(編集部より)昨年も多くの方々からコメントをいただきました。心より御礼申し上げます。私たちの掲げる、「荘厳で美しい聖なる典礼への回帰」運動は、礼節をわきまえながら今後も続けてまいりますが、皆様もそれぞれの小教区におきまして、様々な機会に発言していただきますようよろしくお願いいたします。教皇様がこのようなミサの実践を強く奨励されておられることをぜひ多くの信徒の方々にお伝えくださいますように。

このような素晴らしいラテン語司教ミサの準備をされた関係者に深い感謝の祈りをささげます。第2バチカン公会議後の各国語ミサとともに、このような伝統を引き継ぐミサが並立されることこそ、公会議の伝える多様性の尊重、寛容の精神を体現するという事ではないでしょうか。教会が特定のイデオロギーによって動かされるのではなく、ただ主のもとに立ち帰り、静かに折れる神の神殿であるようになる事を願います。関係者のみなさま、本日の準備ありがとうございました。
(東京・高円寺教会)

主を賛美します。今日は思いがけずミサに出席できましたことを感謝します。大学時代、グレゴリオ聖歌を学びました。結婚し聖公会のクリスチャンになりましたが、17年間主人の仕事の関係で海外に住み、久々に日本へ帰ってきましたが、この様な礼拝を日本で体験できることはすばらしいです。本当に主の家族として世界が一つとなる様、析ってゆきたいと思います。(千葉県・市川教会)

 荘厳ミサは素晴らしいです。伝統的で感動しました。今回は訃報が入ってしまいましたが、毎年楽しみにしています。又、共同祈願で「ヒロシマ」「ナガサキ」と入っていたのが良かったです。世界唯一の被爆国として、平和を伝えていきたいです。それに世代を越えた交わりができて楽しかったです。これからも続けてばしいですし、ラテン語でミサを挙行できる司祭を増やしてほしいです。(東京・麹町教会24才)

 主の祈りのメロディーをもっと味わいのあるものに出来たら、と思いました。

 今年列福された188人の先達たちは大半が市井の人だった。年寄、女、子供もいた。そのような人達が自らの命を捧げて迄信仰を証しした。今は血を流して教えを証しすることは殆どない。しかし証しすべき時には証ししてほしいと、心構えを説く内容の説教を枢機卿は行った。大戦が敗戦で終了した小学5年生の夏迄は、敵性宗教を信じているとして、級友からも大人からも再三いじめられたものだ。そのような時家族皆で祈り守ってくれた。逆境の時、人間の性として本心が出るという。心理に根差した信仰心の強さを、説教を聞いて感じさせられた。今何事によらず余りにも安易になり過ぎている。危機意識の拾も合わせがない。その上真理より人間の方を大切にする風潮が蔓延している。それは残念ながら我がカトリックにも当て嵌まる。今回の枢機卿の説教はそれらに対する警鐘と捉えるべきであろう。自分自身甘く、不心得なだけに身につまされた。反省を込めて。(神奈川・三笠教会)

 The Mass was very uplifting. Reminded me when I was still young of the Mass in the Philippines.Masses was always celebrated Gregorian Mass. It makes you feel like talking and singing for God with peace and love. Thank you.(Roppongi Chape1 Center,Tokyo)

 ごミサには毎年参加させていただいております。お世話してくださる方々にはお礼中し上げます。一つ気になる事がありましたので、意見を書かせていただきました。ごミサのあいだ、信者どうしの私語が多いと感じました。ごミサ前にご注意いただきたく存じました。よろしくお願いいたします。

 本日はありがとうございました。ミサレットに、当面はトリエント典礼のミサを行う予定が無い旨の記述かおりましたが、これは残念な事と思っております。 7月に教皇聖下が出された「スンモールム・ポンティフィクム」は、1970年版のローマ・ミサ典書での典礼をラテン語で、ではなくトリエント典礼の復興を望んでいるように読みとれます。ミサ自体に差異はない、とトリエント典礼を無視することは教皇聖下のお言葉に耳をふさぐ事になりはしませんでしょうか。これについては改めて検討いただきたいと願います。(東京・浅草教会)

 今年も荘厳さに心打たれ涙のお恵みを頂けました。関係者の方々に、その御苦労に主が報いてくださいますように。私が多大なお恵みを頂いたイタリア・サンダミアーノに御出現なさったマリア様のメッセージ、デルコル神父様の「バチカンの道」で教皇様が口での拝領を勧めておられる事、ガラバンダルで大天使聖ミカエルが子供(コンチータ)の舌の上に御聖体を天から運ばれて来た事等を考えますと、ベールの使用と共に口による聖体拝領をひざまづき台を設置する等して、勧めて頂きたく中し上げます。席に着いても落ちつきませんでした事は、御聖櫃が中央になかった事です。皆を見ておられる主は御聖堂の中心であられ、まずは主に挨拶するべきなのに、誰に向かって挨拶するのでしょうか。来年は友人にももっと声をかけようと思っています。聖なる典礼に飢えている方々の為に。誠にありがとうございました。(茨城県・友部教会)

 先日は素晴らしいごミサに参加させて頂き誠に有難うございました。帰りの新幹線の中でも一同「夢の様だった」と感激して居りました。私共はカトリック信者を中心にプロテスタント、無宗教の者も参加している素人の合唱団です。静岡県は伝統的にパリミッション会の神父様にお世話して頂いて居りました関係上、ポーロ・アヌイ神父様のおそらく最後に御指導を頂いたグループではなかったかと思います。アンセルモの聖歌隊のグレゴリオ聖歌が今でも耳の中に残っています。あれを目標にこれから頑張らなくては、と新たな思いで御座居ます。(静岡県)

Wonderfully solemn and dignified and sacred lusic which has formed the basis and inspiration far so much of the high culture the world enjoys today.With St.Mary Cathedra1 Tokyo full of people at such a Mass,I believe the Lord and Creator will surely have been well pleased.l wish we could have such sacred ceremonies more frequently.(Hatsudai Church,Tokyo)

今日は荘厳ミサに参加させていただきありがとうございました。 50年以上前幼い頃いつもミサはグレゴリオで何をいっているのかわからないけれど荘厳な気配を幼いながらも感じていました。そして第ニバチカン公会議後、日本語ミサがふきゅうし祈りの意味がわかる様になったのですが、何か、もの足らない・ ・ ・何か・・・。でもやっぱりラテン語だけでも言葉がよくわからない。日本語(自国語)でやっても深く祈り歓びをあじわえるミサであって欲しいものです。そしてグレゴリオ聖歌の祈りと意味を深く分かち合いたいと思っています。(千葉県・市川教会)

 主の平安! 荘厳司教ミサには何度か参加させて頂いております。毎年素晴らしい御ミサをありがとうございます。このような素晴らしい様式の荘厳ミサが、東京教区司教公認の団体の方々の御尽力のおかげで毎年開催され、参加させて頂ける事に感謝しております。お体が不自由だったり、遠方のため参加できない方々のためにも、その方々の分も感謝の気持ちで祈りたいと思います。聖書の勉強なども大切でこれからも学んで行きたいと思いますが、荘厳ミサだけでなく、ベールの着用や、ミサに与かりご聖体を頂く心構え、マナーのようなものも信者として守って行きたいと思います。荘厳ミサに参加して教えて頂いた恵みです。大きな教会を訪問して思うのは、ミサが始まってから平然と、いつも遅刻して入って来る方が多いこと(とてもだらしなく感じます)、携帯電話の電源を切らずにミサに与かり、マナーを守らない方が老若男女問わず多いことです。荘厳司教ミサは遅刻者もおられましたが、きちんとされている方が多いようで勉
  強になります。(東京・築地教会 受洗7年目)

 すばらしいラテン語ミサにでられて神に感謝しました。私はグレゴリオ聖歌が大すきで毎日グレゴリオ聖歌のCDをきいています。また毎日ベネディクト16世、バチカン国、カトリック・アクション同志会、オプスデイ、フォコラーレのためにいのっています。 2008年も荘厳司教ミサにてたいです。(東京・清瀬教会)

 初めて参加させて頂き、余りの素晴らしさに未だ心を震わせております。受洗しましてから20年弱ですが、このような感動を味わったことはございません。心からの祈りとしてのグレゴリオ聖歌は市販されているCDで聴くものと異なり、神様への熱い思いを駆き立てられまるで天国で聖人様方と共に御ミサに与かっている様な深い祈りのうちに満たされ、胸が一一一杯になりました。御ミサの真髄を味わわせて頂きまして目からはウロコが落ちた思いでおります。(会員の)奥様と茶話会でお話しまして「次回はグレゴリオ聖歌が歌える様準備したらよろしいですよ」とおっしゃって頂き、そのようにしたいと存じます。心からの感謝のうちに。(福岡県・行橋教会)

スタッフの皆様、毎年このすばらしい御ミサを計画して下さり本当にありがとうございます。現代ではミサの典礼もしだいに簡素となり、また季節感に温れた美しい“カトリック聖歌集”もいつの間にか使われなくなってしまいました。どうしてなのでしょうか。そして文語体で唱えていたロザリオやお告げの析りも口語文となり、何か味気ないものになった気がします。そのような中で、たとえ年に1度でもこの美しい御ミサに与かれるのが楽しみでなりません。このような荘厳ミサが全国的に行われれば遠くて来られない方々もどんなによいことかと思います。(千葉県・成田教会)

今年も荘厳司教ミサに与かることができました。グレゴリオ聖歌はローマカトリックにおいて、幾世紀にも渡る教会的伝統、教父的伝統を有するローマカトリック教会の固有の典礼聖歌です。1903年ピオ十世聖下は「Inter Pastoralis 聖ピオ10世の聖楽に関する自発教令」においてグレゴリオ聖歌の重要性とグレゴリオ聖歌がローマカトリック教会の固有の典礼聖歌であるという点を指摘しておられます。グレゴリオ聖歌は単なる歌ではなく典礼の一部です。聖アウグスチヌスは、「歌うのは愛している証拠」と言われましたし、「よく歌う人は倍祈ることになる」とも言われます。私は、ローマカトリック教会はこの伝統を子々孫々に継承してゆく必要があると思います。又、ミサ聖祭は犠牲(いけにえ)であり、御聖体の犠牲は、キリストの太陽であり、ローマカトリック教会の殉教者、童貞者、証聖者を生んだ源であるという認識を強める必要があると思います。 2007年7月ベネディクト16世教皇聖下は、すべてのローマカトリック教会の司祭は司教の許可を必要とせずにトリエント典礼を○○できる自発教会を公布なさいました。パウロ6世のミサ聖祭典礼もトリエント典礼もローマカトリック教会の肘産です。教会には断続は存在せず、継続かおるのみです。正統信仰を守ることが大切だと思われます。(東京・調布教会)

 主の平安、カテドラル司教荘厳ミサに出席し、ラテン語ミサに参加してうたわしていただきました。初の訪問、そして都会のどまん中に司教座かおるのは知りませんでした。名古屋教区から移転してきて名古屋とはすでに違ったイメージ、ざん新な作り、おどろきました。聖歌隊もすばらしかった。主に感謝。

 主の平和、今年も荘厳司教ミサに与からせていただきました。昔はミサはラテン語で捧げられていたことは神父様方や年配の信者さんから伺っておりますが・・それがどんな様子であったか、どんなふんいきであったのか・・と想うと心ときめきます。私個人のことですが東方正教会信者さんと交流かおり正教の典礼にも与かることかおりますが、(もしかしたら?)原始キリスト教の典礼はこうもあったかと感じられる程、正教の祈祷は歌ミサというほど、歌うことによって神への賛美をしています。グレゴリオ聖歌ミサはそれに近い美しさ・・どちらがよいというのではありません。東方正教会の各国の伝統、西方ローマカトリックによる伝統・・いづれも美しい・・ただ、ひざまづくことが行われなくなったことは誠に残念です。神への賛美、主の死を記念して捧げるミサですから、ひざまづくことは復活して欲しいと思います。ミサには厳粛な気持ちで与かりたいと考えます。(東京・関口教会)

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