恋におちたシェイクスピア 




section-1 きみに読む物語


『・・・・あッ、あ、あ、あ』

『・・・・イイんだろ?感じてんだろ?なら正直にそう言えよ』

『お願いッ、意地悪しないで・・・・ッッ、おかしくなっちゃうッッ』

『あ?じゃあどうして欲しいんだよ、いってみろよ、ホラッッ』

『あうぅッ、ダメぇ!!許して・・・・カカシ・・・・ッッ』




__完璧だ。


舳先が割り進む波の音と、吹き抜ける潮風が柔らかく銀の髪を乱す。七班上忍師はたけカカシは『イチャパラ
シークレット・〜禁断の章〜』をパタンと閉じると、突き抜ける青空に向かい熱い吐息を吐いた。隣では黒髪の
うちはの生き残りが、上官に向かいあからさまに胡乱気な視線を投げている。


「何が嬉しくてそんなニタついてやがる」

「何って、そりゃ決まってるでしょ」


出立前のあの一時。濃厚で濃密な情事。白いシーツの海で、乱れに乱れたイルカの痴態。__思い出すだ
けで涎が出る。望み通り切れ切れに呼び捨てにされた時には過ぎる滾りに危うく漏らしかけたが、しかし生ま
れて初めて受け持った直弟子にシチュエーションプレイという言葉は流石にまだ早かろう。代わりに出来る限
りの愛想を込めて笑い掛けると聡い子供は何事かを悟ったか、険を宿らせた瞳を海面に向けた。甲板で進む
撮影の準備を眺めていた金色と桃色の頭が、くるりと振り向いて警護対象への不満を垂れ始める。


「なんかあのねーちゃん、オレ苦手だってばよー」

「なーに言ってんのナルト。何があってもあの人を守り抜く、これ重要な任務だよ?」

「任務?」

「そ、Aランク任務」

「Aランクぅ!?」

「たかが映画女優の護衛が、そんなに難しいとも思えないがな」


生意気にも冷めた言葉と表情で、反論を試みる少年に著名人警護の難しさをカカシはひとくさり説いてやっ
た。フン、と鼻を鳴らし視線を逸らすその真意が、実は別の場所にあるのも分かっている。何しろ自分とサスケ
は大変に似たタイプの生き物だ、惹かれる対象も一緒だろう。聞きたい事い探りたい事も山ほどあるだろう。
しかしカカシには自分からその問いかけの糸口を与えてやる気など、サラサラ無かった。努力とは自分で汗を
かくから努力なのだ、何もこちらから降りてやる必要はない。

音高くカチンコが鳴り、女優が瀕死の呈で横たわる男優に取り縋る。その緊迫した撮影現場の空気に、ナル
トもサクラも固唾を飲んでプロの演技を見守っている。


「・・・・よくも飽きないもんだな。そんなにその猥褻物が面白いか」

「ええ?コレ!?」


手の中のハードカバーを掲げると、サスケは鼻に皺を寄せて見せた。同時に上官の蒼い片目も、驚きに見開
かれている。


「へえぇ、サスケでも興味あるんだ!?でも考えてみりゃお前だって立派な男だしねぇ」

「ちが・・・・・」

「まーアレだ、百聞は一見に如かずって言うしそんな事なら気前よく貸してやりたいトコだけどこれ18禁だし、
オレ一応せんせだしね?」

「だからッッ!!俺が言いたいのはッッ」

「イチャパラの歴史をサクッとひもとくのも大変なんだけどさー、不朽の名作って言われてる『イチャイチャパラ
ダイス』初巻は意外や普遍的な恋愛モノなんだよね。んでこのイチャパラシークレットはシリーズ初の姉弟モノ
なんだけど、弟が貰いっ子ってオチなの。でもオレの密かなイチオシは『イチャイチャミッドナイト・ローズ』で
さ!!兄貴の嫁さんと義弟が夜な夜な人目を忍んで」

「だから誰が解説してくれと頼んだ!!俺は呆れてるって言いたかったんだッッ!!」

「えぇー?また何でそんな可愛いげの無いコトいうかなー。恋とイチャパラは人生の必須アイテムだよ?」

「アンタ本当に上忍か・・・・?それこそいいトシした大人の言うことか」

「修羅場を潜るからこその蜜の味でしょうが。どっかでバランス取らなきゃ、撓ってばかりじゃいつかポッキリ折
れちゃうでしょ」

「・・・・当てこすりか。どんな負荷にも耐え続けられる人間だっている」

「だからさ、そうガチガチになる必要もないって言ってんの。生きるか死ぬか、痛いか気持ちいいかだったら誰
だって生きて気持ちイイコトする方選ぶでしょうよ」

「・・・・アンタな・・・・」

「人間なんで生まれて来るかっつったらさー、好きな人と気持ちよーく溶け合う為でしょー?」


ねー?と小首を傾げる長身の上官の姿を、サスケはたっぷりと三十秒は見つめて重い溜息を吐いた。__信
じたくない。この猥褻を具現化したような男が千の術をコピーした、木の葉一の技師であるなどと。ましてや幼
い頃から仄かな思いを抱き続けた、恩師の現恋人であるなどと。

女優が落涙の場面で目薬を要求し撮影は中断した。あからさまな手抜きに落胆したか、ナルトは頬を膨らま
せて後ろの二人に噛みついた。


「なんだよぉサスケもカカシ先生もさっきからー!!ゴチャゴチャうるさいってばよー!!」

「おー悪い悪い、ま、何だ。究極の選択ってヤツをちょっとな」

「・・・・あ!?あー!!それなら知ってるってばよ、カレー味のうんこかうんこ味のカレーかってヤツだろ!?」

「「はぁッッ!?」」

「やっだぁ、ナルト何それ!?」

「ええ、サクラちゃん知らねーの!?昔アカデミーで流行ったじゃん絶対どっちか選ばなきゃならねーんだけど
さーてどっちにする?っての」

「知らないわよぉぉ!!何ソレ、げっひーん!!」

「えぇーー!?マジすっげー流行ったんだってばよー?でもどっちかって言われたらうんこ味のカレーだよ
な!?とりあえずカレーなんだし」

「やっだぁぁぁ!!もーー!!」

「・・・・ナルト、お前ね・・・・」


なーサスケー?と同意を求められすんでの所で吹き出すのを堪えた。すっかり毒気を抜かれたカカシの表情
が、可笑しくてならない。いい気味だ、どんなに気取ったところでこの世に天然ほど強いものは無い。その証
拠に眉を顰めて窘めるサクラの口元にすら、隠しきれない笑みが浮かんでいる。


「ドベ、サクラ。修行するぞ」

「「えッッ」」

「ちょっと!!忘れて貰っちゃ困るんだけど今任務中でしょうよ?」

「メインマストの上で警護対象を監視しながら組み手。チャクラコントロールの鍛錬にもなるだろ」


自分が未だ発展途上にあることなど、重々分かっている。__ならば力を蓄えるまで。サスケは上官の承諾
を待たず、瞬速で甲板を蹴った。何事かを喚きながら、ナルトとサクラも後に続いて来る。呆れ顔で見上げて
いるカカシの立ち姿が、チラと目に入った。

巨大な帆に風を受け、目的地雪の国に向かい船は進む。その先に十年前の遺恨を引きずった戦いが待ち受
けている事などまだ誰も知らない、旅の途中の一時だった。







section-2 ギフト


「だから止めろって言ってるだろう、いい加減」

「んだとぉ!?テメェこそ横から余計な口出しすんじゃねぇよヤんのか!?あぁッッ!?」

「俺だってヤボは言いたかないが、しかしこのお嬢さんは嫌がってるだろう」

「何様だテッッメェ!!そんなに痛い目にあいてぇかぁ!?」


奉納木の葉大祭__年に一度の夏祭りの夜、木の葉神社へと続く参道の途中で男は年若い少女を庇い立
っていた。年の頃は二十五、六。その男とそれに対峙する数人のチンピラ達を囲んで、周りには既に人だかり
の山が出来ていた。濃紺の浴衣を着た男の後ろで、しゃくり上げる少女の表情はすっかり怯え切っている。ど
うやら少女とチンピラ達の間でナンパ話が拗れ、それを見かねた浴衣の男が割って入ったらしい。鼻梁に跨る
うっすらとした傷を持つ、黒髪を肩まで垂らした男は威嚇に怯む様子もなく、至極冷静に向き合っていたがそ
れが益々男達の怒りを煽っているのは瞭然だった。


「ここまで言っても分からねぇか。」

「るっっせぇッッ!!でけぇ口叩きやがってブッ殺してやる!!」

「・・・・しょうがねぇなぁ」


膨れ上がる殺気混じりの恫喝を投げつけられ、並みの人間ならここで尻尾を巻く場面だろう。だが男は溜息を
吐き、懐手にしていた両手をだらりと下げただけだった。あーあ、と楡の木の葉陰から漏れたカカシの呟きは
しかし、男の行く末を案じたものではなかった。少女とゴロツキ達の身体からチャクラ等の類は一切感知され
ず、十中八九民間人の可能性が高い。__だが男は。


「ならまぁ仕方ねぇ、躾の注射代わりだ。少しチクッとするかもしれねぇが」


いいざまに男の上段回し蹴りが入りゴロツキの一人が崩れ落ちる。暫し呆然としていた仲間達が我に返り飛
び掛かるのを、これまた正拳付きと下段薙ぎ蹴りで事もなく片付けてゆく。男の鮮やかな身のこなしに、ヤジ
馬の間からは大きな歓声が沸き上がった__その手足が浴衣から伸びていたのは、時間にすればほんの僅
かの間だった。

アイツ、忍だ。

喧嘩と呼ぶにはレベルの違いすぎる、容赦のない攻撃。標的に対する付き蹴りが的確で寸分の躊躇いも狂
いも無い。何より地面に伸びたゴロツキ達を見下ろす男の身体から立ち上るのは__忍特有の、錬成された
チャクラ。民間人には当然の事、同業の忍ですら感知出来るか危うい程の僅かなそれを、カカシの写輪眼は
はっきりと捉えていた。


「気を付けるんだね、今日はこの賑わいで酒の入ってる人間も多い」


泣きながら礼を言う少女に踵を返し、男は素早く人混みに紛れる。夜店の連なる参道に聳える、楡の木伝い
に飛びながらカカシはその後を追った。__あのチャクラには、確かに覚えがある。しかし男は見知った人間
ではない。

・・・・誰だ?

数分後、疑問は氷解した。男が人気のない路地に入り込んだ直後、ごく軽い衝撃音と煙が上がる。漂う白煙
の中で見え隠れする忍服姿に、覗き込んだカカシは息を飲んだ。


変化を解いて現れたのは、うみのイルカ。


七班で預かり中の部下、下忍うずまきナルトが恩師と慕う女教師だった。





「なあにカカシ、さっきから。思い出し笑い?」

「は」


横に寝そべる女に指摘され初めて気が付いた。どうやら自分は笑っていたらしい。


「随分ご機嫌なのね、警邏に向かう時はあんなにオカンムリだったのに」

「あー・・・、まあね」


分かっている。カカシは目を瞑り寝返りを打った。自分は任務に於いての耐性は強いが人間関係に関しては
全く堪え性が無い。__これはいつもの一過性の興味だ、偶然目にした顔見知りの中忍教師とそのお節介
が意外な程に愉快だった__たったそれだけのことだ。


挨拶を交わす程度の関係とは言え、イルカがあまり繊細な人間で無いことは分かっていた。でなければ男の
姿とは言え、浴衣の裾をはだけた蹴りを入れはしないだろう。しかし情に長けた性格ではあるらしい。

通常民間人同士のトラブルに、一般的な忍は介入しない。対処に当たるのは警務のみだ。

しかし警務部隊の捜査はかなり周到で念入りだ。一度関わり合いになれば多大な時間的精神的犠牲を払わ
ねばならず、それを嘆く人間も多い。あの女教師はゴロツキはともかく、年若い少女が警務のねちこい尋問の
対象になるのを危惧したに違いない。後腐れの無いよう通りすがりの民間人に変化し、現場に介入したのは
おそらくその為だ。

その証拠に、社務所内の詰め所に戻ったイルカは素知らぬ振りを続け、先刻の大立ち回りについては一言も
漏らさなかった。逆に遅刻を咎め絡む同僚の腕をするりとかわし(ツバキと呼ばれるその男は既に振る舞い酒
に酔っていた)、きついヘッドロックを見舞っていた。


「・・・・ホラ、また笑ってる。変ね、折角の休みを潰されたってあれ程機嫌悪かったのに」

「うん?まぁあれだけ大規模な祭りになると、中忍だけじゃカバーしきれないだろうし色んな輩も入り込んで来
るしね。不審者の監視検挙はやっぱり大事だし」

「・・・・・・」


訝しむ瞳を伏せ、身を寄せる女の肩を抱く。指先で柔らかな亜麻色の髪を弄んだ。

分かっている、これは一過性の興味だ。自分はこと女に関しては堪え性が無い。だからいつも側に置くのは
従順で且つ気遣いの出来る女と__見目が良いのは勿論だが__決めていた。けれども。

華奢な女の素肌を胸の中に抱き込む。勿論それは再び込み上げる笑みを気取られない為だ。


女に、ヘッドロックをかけられたことはないなぁ。






「だからヤメロっつってるだろうが」

「んだとお!?ヤんのかコラァッッ!!」


目を見張った。流石に二度の出会いは望めまいと思っていたあの男が、眼前に立っている。しかも今度は、
自分を庇って。


「テメェが首突っ込むことじゃねぇだろうが、あぁ!?」

「自分がされてイヤな事を、他人にもするなって習わなかったか?このお嬢さんは嫌がってるんだ、仕方ねぇ
だろう」

「フザけた口利きやがってジャマすんじゃねぇッッ!!クソがぁぁぁッッ!!」


いきり立ち飛び掛かる男達を次々と蹴倒す手早さは前回同様だ。違いは浴衣から一般的な普段着に変わっ
ている着衣のみ。鼻梁をうっすらと跨ぐ横長の傷もそのままに、ヤクザ者を楽々と転がした『男』はカカシにニ
ッコリと笑い掛けた。


「お嬢さん、此処は確かに娯楽施設の多い場所だが、女が独り出歩いて良い場所じゃあない。今度から充分
気をつけるんだね」

「あッ、待・・・・ッッ」


カカシがマスカラを乗せた長い睫を瞬かせる間、男の姿は消えた。ヒールの高いミュールに裾の纏わりつくロ
ングスカート。確かに今自分は女体変化してこの短冊街での潜入任務中だが、そんなことは些少な問題だ。
何より今まで、狙った獲物に逃げられた過去など持たないし持つ気もない。


「見ーーつけたv」

「ヒィィィィッッ!!」


後ろから抱きつくと、大仰な悲鳴が上がった。案の定イルカは人気のない路地に入り込み、今まさに変化を解
こうとしている瞬間だった。印を組み掛けた指先もそのままに男の見目形のまま、イルカは蒼白な顔を向け
た。


「なッ、なッ、なん、何・・・・ッッ!?一体、どこからッッ」

「探しましたわ、だって私、きちんとお礼も申し上げておりませんのに」

「え・・・・ッッ」

「先程は本当にありがとうございました、助かりました。ちょっと散歩に出たつもりがいきなりあんな男達に絡
まれて・・・一体どうしたものかと、膝が震えておりましたのよ?」

「あ、ああ、いや・・・・困っている方の手助けをするのは人として当然の事です。ですからどうかもう、お気にな
さらず・・・・」

「実は私、下男を連れて気晴らしに遊びに来ておりますの。普段はあまり、外に出ることもなくて」


というのは真っ赤な嘘で短冊街に一つ根城を作ってこいと、火影直々の命で此処にいる事は黙っている。し
かしアスマという名の下男役を連れている、その部分だけは真実だ。


「この下男がまたどうにも使い物にならない、箸にも棒にも引っ掛からない男でしてね、まったくムサ苦しい上
に気が利かないわぐうたらだわオマケに口うるさいわ、ったくこんな時の金くらい好きに使わせろっつの」

「・・・・は!?」

「あ、いえ、こちらの話ですわホホホホ」


火の国南西部にあるこの大歓楽街は賭場遊技場遊郭料亭と、あらゆる欲を満たす場には事欠かずよって人
間の出入りも多い。有象無象の情報を得るにはうってつけの場所だが街はあたかも治外法権国家の様相を
呈し、未だ木の葉の草すら喰い込めない。そこでその牙城を崩せとカカシの投入だったが、奇天烈な目眩まし
を狙い博打好きの令嬢という触れ込みで逗留している事実を、今イルカに打ち明ける気はなかった。


「とにかく窮地から救って下さった恩人を、このままお帰しする訳にはまいりませんわ。是非ちゃんとしたお礼
がしとう御座います、どうかこれから私の宿においで下さいませ」

「えええええ!?い、いや、それはどうかご勘弁を!!わた・・・俺はそんな見返りを期待していた訳ではあり
ませんし、そんなお気遣いは無用です!!」

「ま」

「それに先を急ぎますので、正直此処でのんびり出来る余裕も無く・・・お心遣いは大変有り難いのですが」

「・・・・助けた亀ですら、竜宮城にご案内致しましてよ?私には、その価値もございませんの・・・・?」

「あ、あ、あ、いやあのッッ、決してそんな事はッッ」


うる、と潤ませて見せる瞳と押しつけた豊満な胸の感触に、イルカは滑稽な程狼狽えている。先刻ヤクザ者を
熨した威勢は何処へやら、オタオタと耳元を赤く染める『男』に、カカシは眼を細めた。


「かーわいい、惚れちゃいそうv」

「はぁッッ!?」

「いいえー?」


ニコ、と微笑むとイルカは再び頬を染めた。女体化したまま街中を闊歩すれば何らかの突発的トラブルに見舞
われる予想は付いていたが、だがそれすら足掛かりに変える自信はあった。里に居るはずのイルカが現れた
のは流石に想定外だったが、おそらく目付役のアスマへの、伝令任務か何かだろう。


「で、ではこうしませんか。貴方のお気持ちは大変嬉しいのですが、俺には時間的余裕がありません。このま
まここでお別れさせて頂きますが、もしいつか、次にお会い出来た折りには必ずお付き合い致します。そうお
約束するということで・・・・」

「まぁ」

「訳あって身分を明かすことは出来かねますが、一度交わした約束は必ず守ります。ですからどうか、それで
ご容赦を」

「・・・・絶対に、約束して下さいますの?次にお会いしたらお付き合い下さると」

「はい、もし再び見えることが出来ましたなら」

「絶対に絶対に絶対にぜった」

「あーハイハイッッ!!だから大丈夫ですってば!!」

「ならせめて、お名前をお教え下さい。私は呵々子・・・畑乃、呵々子と申します」

「か、呵々子さん・・・わ、わた・・・、俺はうみの、といいます」

「うみの様。ではこれはお約束の証文代わりですわ」


爪先立ってチュ、と口づけるとイルカは大声を上げ後ずさり、そのまま姿を消してしまった。カカシはその煙の
漂う虚空に向かい、笑って声を張り上げた。


「このご恩は決して忘れませんわ!!次は必ず、私を受け取って頂きましてよーー!?」





短冊街を抜け更に半里ほどを駆け抜け、イルカはようやっと変化を解いた。変化状態のままでの全力疾走は
体力的にも負担が増す。目の前に開けた河原の土手に思わず息荒く転がると、頭を抱え呻いた。


「あああああ!!き、キスしちゃった!!女の人とッッ!!」


また何と強引な女性だろうか。偶には外の世界を覗いて来いと潜入任務中のアスマへの伝令を言い渡され、
無事接触後に路上で彼女を見掛けたのは偶然だった。しかし明らかにヤクザ者に囲まれ困り果てていたあの
呵々子と名乗る女性の第一印象は、とても儚くか弱げであったのに__人間見ると話すとでは、随分と違うも
のだ。


「・・・・でも、すごく綺麗な人だったなぁ・・・・。あんな美人、生まれて初めて見た・・・・」


すらりと伸びる鼻梁、紅く色付いた薄い唇。頭頂で結い上げた髪はスラリと背中まで流れ、均整のとれた柳眉
と睫まですべて、眩く輝く銀色だった。そしてあの、蒼天を切り取ったような青く美しい瞳・・・!!


「同じ女なのに、あそこまで違っちゃうもんかなぁ」


おそらく年の頃は自分と変わらないだろう。だが彼程の容姿とスタイルに恵まれ、過ごす日常とはどんなもの
だろう。しかも下男を伴って遊興するなど、余程の裕福層に違いない。その証拠に口づけられた時、間近に感
じた吐息からは薔薇の香りがした。__あれは香り玉を含んでいるのだ、所謂セレブと呼ばれる人種に違い
ない。


「勿体なかったかなぁ・・・・友達になって貰えば良かったかな。もう会えないと思うけど」


自分は姓しか名乗らず、実は木の葉の忍であることも明かしていない。再会出来るとしてもそれは天文学的
な確率だろう。しかし知り合いとなっていたら、リッチな男友達の一人も紹介して貰えたかも知れない。いやい
やいや、さっきも告げた通り自分は見返りを望んで助けたのではない。何より自分は男の恰好をしていたのだ
し。__そう言えば、アスマからはツーマンセルで任務中だと聞いていたけれど、もう一人の忍は一体誰だっ
たのだろう?

里外で久しぶりに会うアスマは、驚くほどに酷く疲れた顔をしていた。何か自分に、少しでも力になれる事が
出来たらいいのに。


「だって困ってる人に見て見ぬ振りなんかしたら、お天道様に顔向け出来ないもんね、お母ちゃん!?」


川の水で顔を洗い、燦々と降り注ぐ日の光を仰ぐと随分と人心地がついた。はぁ、と草の間に四肢を投げ出す
その鼻先に、一匹のシオカラトンボがついと渡っていく。


この二週間後。あの上忍師はたけカカシが『こんにちは、呵々子ですv』と訪ねて来る事などまだ露も知らな
い、晩夏の午後の一時だった。



〈 続 〉



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