ギフト 2



仏の顔も三度、という言葉がある。


如何にこの世にたとえ様のない程愛していようが溺愛と表するに相応しい情愛を寄せていようが、躾とそれと
は一線を引くべきだ。


沸いた出し汁に味噌を溶き、賽の目に切った豆腐を投入し一煮立ちさせてから火を止める。掛けたエプロンで
手を拭いつつ、覗いた寝室は案の定15分前と何も状況が変わっていない。こんもりと丸まった掛け布団を前
に、一つ息を吸いカカシは仁王立ちで声を上げた。


「アカリ、起きなさい。何度同じことを云わせる」


しかしさながら団子虫のように丸まった小山からは何の反応もない。こめかみのひくつきを無理やり抑え、努
めて平淡な声色で語りかけた。


「いい加減にしないと本当に時間がなくなる。アカリ、このセリフを云うのももう3度目だ、分かってるよね?」

「・・・・」

「3度目の次はないよ。大体起こされて起きるなんて1度で出来て当たり前の事だろ?さっさと顔を洗って朝
食を食べなさい、もう準備は出来てる」

「・・・僕」

「あ」

「・・・僕今日、アカデミー休む」

「あぁ!?」

「だってお腹痛いんだもん、絶対歩けない起きられない。今日はこのまま父様が帰るの、待ってる」


くぐもった寝具の中からの返事が終わらないうち、引っ被っている掛布団に手を掛けたがそれ以上の力で引き
戻された。まったく、火事場の馬鹿力とは云えこれが子供の握力だろうか。拒絶以外の何物をも示していない
大きなダンゴムシに、カカシは大仰な溜息を吐いて見せた。


「腹が痛い割にはまた随分な力だねぇ。オレにはまったく問題ないように見えるけど?」

「・・・・」

「ズル休みしたい本当の理由を10秒以内に述べよ、でないとブルを口寄せして耳の臭いを嗅がす。・・・ごー
お、よーん、さーん、にー」

「・・・ヤダッッ何でいきなり半分になってんの!?だからお腹痛いって云ってるじゃないッッ!!」

「オレが聞きたいのは状況説明じゃなくて原因だ。・・・なら代わりに云ってやろうか、どうせ二時限目の体術
のテストだろ?うそっこ『腹痛』の理由は」

「・・・うーーッッ!!」


怒りにまかせもぞりと動いた隙を逃す筈が無かった。上忍スピードで布団を引き剥がし暴れる身体を抱え上げ
洗面所に連れ込み無理矢理に洗顔を終わらせ寝間着を剥ぎ、用意してあった服を着せる__ものの数分と
経たないうちに、さっきまで布団を被っていた筈の少女の体躯は食卓に向かっていた。ふくれっ面の表情に箸
を取れと命じ、カカシは素早く後ろに回り長い黒髪を編み始めた。


「頼むから少しは恥ずかしいと思いなさいよ、体術のテストって度に毎度毎度手間掛けさせて、赤ん坊じゃあ
るまいし」

「『夕べはあんなに可愛く甘えてあげたのに』」

「・・・そんなセリフを何処で覚えてきたのかは今は聞かないでおいてやる。とにかく食べろ」

「イチャイチャタクティクス第2章63ページ7行目サブキャラスズシロのセリフ」


諦めか開き直りかそれとも空腹に抗えなかっただけなのか、小さな手が味噌汁に伸び次いで沢庵を齧る。ポ
リ、と響く音の所為で、アカリの声は幾分不明瞭だった。


「・・・お前ッッ、どこでそれ」

「カカシの読んだ」

「嘘つけ!!オレは此処にアレを持ち込んだ記憶は断じてな・・・、ッッ!?アカリお前、まさか」

「アハハ嘘うそ!!まだ上忍の部屋をピッキングする度胸も技術も、今の僕には無いよ。秘密だけど、穴場が
あるの」

「・・・立ち読みか・・・」

「内緒v ねぇリツとマサムネって最後どうなるの?僕まだ3章の205ページまでしか進んでないんだけど、絶
対幸せになるよね?イチャイチャシリーズって基本ハッピーエンドなんでしょ」

「お前な・・・」

「スズシロが横恋慕して邪魔ばっかするしマサムネは北方戦線に送られちゃうし、十年振りに再会したのに信
じられない!!ね、カカシ、ハッピーエンドかどうかってだけでも教えてくれない?僕気になって気になって夜
も眠れないんだ、あ、別にカカシの貸してくれても構わないし!!」

「・・・馬鹿云うんじゃないよ、18禁小説を子供に貸す大人がどこにいる・・・絶対ダメだ、結末も教えない」

「ええー!?いいじゃないどうせ僕だってそのうち18歳になるんだし、9年早いくらいなんてことないよー」

「ふざけるんじゃないよ、どうせ文松堂か戸波屋ってとこだろ。薄暗いわ狭いわ店番は年寄りだわで潜り込ん
だら分からないよなぁ、確かに」

「ち、違うもんッッ」

「一遍話を通しとくか・・・チョロチョロ忍び込んで来る子ネズミに要注意、ってな」

「もうヤダッッ、余計なことしないでよ!!ケチケチカカシのケチ、ドケチッッ!!」

「喚いてる暇があったら食べなさい、本当に間に合わな・・・ああそうだコレ、出発前にイルカ先生から預かって
た手紙。渡すのすっかり忘れてた」

「え!?父様からッッ!?」


手渡された封筒を大急ぎで開封した少女は、しかし文面に目を走らせた後直机に突っ伏した。そのあからさ
まな落胆の様子で、大体の内容は容易く想像出来る。カカシは吹き出したい衝動を何食わぬ顔で抑え、艶め
いた黒髪にピンを刺し髪留めを止めた。


「何て?」

「・・・体術のテスト受けないと、お土産渡さないって・・・」

「ホレみろ、やっぱり」

「うう〜〜」

「どうして子供の思考ってのはこう浅はかなんだかねぇ。逃げ回ったところでいつかはやらなきゃならないんだ
ろ?ならさっさと済ませて楽になるって、何で考えられないんだか」

「・・・だってどうせ、笑われるんだ。僕分かってるんだ」

「あ?」

「うみのは写輪眼にもうずまき上忍にも春野特上にも贔屓されて、その上父親はアカデミー教師。・・・なのに
アレだって。どうしようもない、って」

「『アレ』ねぇ。まぁ9割5分方事実なんだから仕方ないけど」

「うぅぅぅ〜〜!!」

「だからって最初から尻尾巻いてどうすんの?そこがお前の一番の欠点なんだ、得意且つ好きなことにはいく
らでも打ち込むのに苦手なことからはすぐに逃げる。イルカ先生だって、いつもそう云って心配してるだろ?」

「それだけじゃないもん!!文句つけられるの・・・ね、カカシ、みてこの薔薇色の肌」

「・・・目標1日30品目食事のバランスはバッチリ、あたりまえだろ毎日どれだけ気を使っておさんどんしてると
思ってる」

「つやっつやの髪に長いまつげ、ふっくらピンク色の唇・・・この僕の類まれな容姿がまた、平凡なクラスメイト
達の嫉妬を買っちゃうんだよねーー・・・、ホント美しいって、罪」

「あのな、オレがどれだけ」

「ね、カカシ!!イチャイチャウルトラ・ヴァイオレッドの後編ってどうなってるの?ヒロアキと折角両想いになっ
たのにノユキ無理矢理異国に留学させられちゃうじゃない、僕前篇のラストまでしか読んでないんだけどヒロ
アキ追いかけてくの!?二人絶対幸せになれるよね、ね!?」

「・・・いい加減にしないと本当にブルを口寄せするよ・・・?ごーお、よーん、さーん、にー」

「ケチ、自分ばっかりカカシのドケチ!!知らないッッ」


文句を垂れる度左右に振れる頭を眺めた__今日の編み上がりも、我ながら満足のいく出来栄えだ。黄色い
卵焼きと白飯を同時に頬張る喉元の薄い皮膚が、白く細いうなじの側面でヒクリヒクリと蠕動している。


わが愛。

わが魂。


だが滾る情愛を過剰に垂れ流してみせるのも、教育的側面からは芳しい行為ではないと重々承知している。
カカシは美しく編み込んだ黒髪を一度小突くと、お代わりの是非を尋ねた。









カタリ、と玄関で上がった物音にイルカは微かに背筋を強張らせた。だがその緊張も間を置かずして解けた。
足を下ろせば派手な軋みを必ず立てる廊下を、ひたりとの音も立てずに進む馴染んだ気配。畳を踏みしめる
微かな足音。イルカは縁側で胡坐をかいた姿勢のまま、首だけを巡らせると後ろで立ち尽くす人影に微笑み
かけた。


「お疲れ様です、カカシさん」

「・・・お帰り、イルカ先生」





忍と忍を家族に持つ人間にとって深夜の訪問者ほど、忌み嫌われ禁忌の対象となっているものはない。その
理由を今更云うまでもない__夜中に戸を叩く人間の携える知らせが、悲報でなかったためしなど一度として
ないからだ。

八年前のあの夜。
『里の誉』と謳われる上忍はたけカカシがイルカのもとに、妻琴乃の訃報を伝えにやって来たように。





「どうでしたイルカ先生、帰還は予定通りだったんですか?」

「ええお陰様で。昼過ぎには受付に報告書を上げて、夕方にはここに帰ってこれました。ほとんどアカリと同じ
くらいでしたかねぇ」

「・・・よかった。オレも今日新人達とちょっとしたお遣いだったんですが、コレがまた意外に手間取っちゃいまし
てねぇ。後始末させられた挙句に始末書まで書かされてこの時間ですよ、ったく」

「そりゃ災難でしたねぇ・・・!!」

「いやまぁ、ソッチはいいんですが・・・もしイルカ先生が遅れてるようだったらどうしようかと思ってねぇ。アカリ
の晩飯、サクラに頼むかどうか迷ったんですけど」

「ハハ、そりゃ御心配お掛けしました。大丈夫ですよ冷蔵庫にあった干物焼いて、あぁカカシさん煮物作ってく
れてたでしょう?それと味噌汁と天麩羅が食べたいってんでかき揚げ作って、腹一杯食べて暫くしたら寝ちま
いましたよ、アイツ今日は確か・・・体術の試験がありましたよね。多分その疲れもあるんでしょうけど」

「そうそう!!そのお陰で今朝も、えらい目に遭っちゃって」

「やっぱりゴネました?あ、まずどうです一杯」

「あーすみませんねぇ・・・それがさ、聞いてよイルカ先生」









__ごめんなお父ちゃん、うちも女の子なんて思わんかってん。あんなに男で間違いない、云われてたのに


産婦人科病棟の一室で横になったまま、琴乃は病衣に身を包み上目遣いにイルカを見上げた。琴乃の傍に
はほんの一時間前に産声を上げた小さな命が一つ__真白な産着につつまれた赤ん坊が固く眼を閉じ、健
やかな寝息を立てている。ぎゅっと胸元で握りしめた二つの拳は、まるで愛らしい小ぶりの果実のようだっ
た。


__お前が謝ることないだろ。そう見えたんだから、間違いがあっても仕方がないさ。

__せやかて


生まれ落ちたのが娘と聞いて、イルカも膝裏の力が抜けたのは事実だった。超音波診断で琴乃を担当した医
師はおそらく男子で間違いない、八割方の確率でそうだろうと断言していたしイルカも琴乃もすっかりその気
でいた。

『息子』と云う言葉の響きに、イルカは日々どれほど胸を躍らせたか知れない。そして琴乃もそれを知ってい
た。

だが、それが何だろう。元気な産声を分娩室に轟かせる赤ん坊を腕に抱いた時、微かな落胆は瞬時に霧散し
た。声の限り自己主張を続ける小さな肉体。確かな重量と質感を持って、脈動する命。初めての我が子に抱
いた溶けるような幸福感を、イルカは今も覚えている。


__無事に生まれてくれただけで何よりだろ。それに幾らだって次がある、次がダメだったらその次の次、そ
れからその次の次の

__いややわお父ちゃん、本気?


二人揃って忍び笑いを漏らした。ベッド脇のパイプ椅子に座るイルカの肩に、琴乃は身を起しゆっくりと凭れ
た。


__お父ちゃん、一つお願いがあるんやけど

__俺に?・・・何だ?

__この子の名前、うちに付けさせて欲しいんよ。まさか娘て思わんかったから、男の子の名前しか考えて
へんやろ、お父ちゃん。

__う・・・、ま、まぁな・・・

__破水するまでえらい時間掛かったからウンウン唸りながら考えてたんやけど・・・、『アカリ』ってどうやろ。
うちもお父ちゃんも任務で外に出ることもあるやろ?でもここで、この里でこの子が待ってる思たら絶対無事に
帰ってこれると思うんよ。帰り道が例え暗くても難儀でも、道筋を照らしてくれるような・・・灯台云うか誰にとっ
ても明るい道標になるような、そんな子になってくれたらいいて思いついたんよ。・・・どうお父ちゃん、アカン?

__アカリか・・・









「イルカ先生、このつまみ摘まんでいい?」

「あぁどうぞ、でもその前に風呂入っちゃったらどうです?もしくは手を洗って」

「あ!!そうね慌てて一杯飲んじゃったよ、取り敢えず着替えるか・・・イルカ先生、まだ飲む?」

「ええ、俺もまだ始めたばかりですから」

「ならさっと風呂済ませちゃうか・・・」

「そんなに慌てないでちゃんと温まって下さいよ、俺ももう少しつまみ用意してますから」

「あーすみませんね、でもテンプラだけは避けといて欲しいんだけど」

「ハハ!!汁で煮ると美味いのに!!」


暗い海で海路を照らす灯台のように、険しい山路で旅人を導く道標のように。人を照らす人であれと名付けら
れた娘は木製の古いドアの向こうで寝息を立てている。その名を呟いて妻と生まれたばかりの娘の額に口づ
けた記憶を、イルカは素早く脳裏から剥ぎ取り立ち上がった。冷蔵庫に、干物はまだ残っていただろうか。


大丈夫、規則正しい小さな呼吸音は熟睡している証拠だ。


風呂場から、早くも湯の跳ねる音が響いてくる。腰を屈めて冷蔵庫を覗くイルカの顔を、室内灯が黄色く照らし
た。



<続>



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