蜘蛛巣城 中



──・・・・さま、・・・・みだい、さま・・・・・


呼ぶ声に沈み掛けた意識が再び浮上する。日菜多、そう返そうとして違和感に目を見開いた。__いつもよ
り柔らかな寝具、見慣れぬ天井の木目、肌を滑る正絹の感触。慌てて上半身を起こし、走り抜ける痛みに呻
いた。


──・・・・そうだ、妾は・・・・、昨日・・・・昨夜・・・・


沸き上がった記憶に身体が硬直する。額に手を当て低く呻くと静かに障子が開き、その向こうに日菜多ほど
の歳の少女が平伏していた。


「・・・・お目覚めでございましょうか、御台様。」

「そなたは・・・・」

「桜、と申します。御台様の御身の回りの御世話をいいつかっております。以後どうぞ、お見知り置きを。」

「そうか・・・・」


涼やかな少女の声にようやっと現実を認識した。故郷を遠く離れ、そうあって欲しいと願った此処は馴染んだ
自分の寝所ではない。緩くかぶりをふり昨夜相見えたばかりの夫の姿を探したが、勿論部屋の何処にも、そ
の影すら見あたらない。


──・・・・・あれはもしや、夢だったのではないか。銀の月に誑かされ、一夜の悪夢を見たのではないか。


その逃避に近い願望も桜の小さく呑んだ息に打ち消された。慌てて伏せた桜の視線をなぞって入鹿は再び己
自身に硬直した。はだけた裾から覗く太股に走る、破瓜の証。夫の吐き出した、欲望の印。朱と白濁が混じっ
たそれを今更ながらに覆い隠し、入鹿は震える声で問い掛けた。


「・・・・すまぬ、桜。早速だが湯殿を使いたい。・・・・良いだろうか?」

「もちろんで御座います。既に準備は整っております故、ささ、こちらに」


躙り寄った桜が入鹿の肩に小袖を掛けた。小声で礼を云う入鹿に桜は笑みを返したが、伏せた睫はその欠
片さえ映していなかった。






身体を洗い流し、着衣をあらためた入鹿は一人朝餉の膳に向かい合った。だが白く輝く白米にも、湯気を上げ
る椀物にも唾すら湧かない。俯いたきりの入鹿の姿を、桜始め数名の侍女達が座して静かに見つめている。
入鹿に宛われた部屋は不知火の城で使用していたものの、優に数倍はある。床の間に掛けられた掛け軸も
其処此処に飾られた調度品も一見してその贅の高さが窺い知れたが、しかしシンと冷えた空気は帳の様に
室内を覆い重く入鹿の身体を包んでいる。__入鹿はこれ程に寂しい朝餉を、経験したことがなかった。

故郷の城ではまだ朝も早い内から甥の影丸が騒ぎ出し、挙げ句入鹿の寝所に潜り込んで来る。それを追っ
てきた静音と静音付きの侍女たちとが入り乱れ、結局はそのまま賑やかな朝食となるのが常だった。子供特
有の落ち着きの無さで散々に周囲の手を煩わせた影丸だったが、その天衣無縫の明るさはいつも入鹿の胸
を暖かく和ませた。__影丸は今頃、どうしているだろうか。入鹿の婚儀を正確に理解出来る歳ではない。も
ぬけの殻の寝所を見て、幼子は何と思うだろう。あねさま、と泣いて探し回る甥の姿が瞼を過ぎり、入鹿は込
み上げるものを押さえ唇を噛んだ。


「・・・・・御台様。」


少女の声に我に返り、顔を上げると桜が気遣わしげに入鹿を覗き込んでいる。


「どうぞ御箸をお取り下さいませ。何もお召し上がりにならないままでは、お身体に障りまする。」

「ああ・・・・」


何度も瞬きを繰り返す瞳に固い笑みを返し、緩慢な仕種で箸を握った。桜の肩が微かに揺れ小さな息を零
す。入鹿はその姿に俄に思い至り、湧いた慚愧の念に頬を染めた。緊張しているのだ、この年若い少女も、
後ろに控える押し黙った侍女達も皆__新しい主に。それを省みず鬱々と内に籠もる今までの態度は、全く
持って上に立つ者の所作ではない。入鹿は罪悪感に背筋を伸ばし椀を持つと、精一杯桜に微笑んだ。


「なんと美味そうな白米じゃ。色艶がまた素晴らしい。」

「左様で御座りましょう、我が国の米は天下一と云われております故・・・・ささ、たんとお召し上がり下さりま
せ。お代わりもござりますれば」


俄然生気を帯びた桜の声に応え、箸に載せた飯を一口口に含む。__甘い。生来経験したことのない味わい
に入鹿が刮目すると、花の綻ぶように桜が笑った、__その時だった。


「ようやっと起きたか」


音高く開いた襖の向こうに、痩身の男。
昨夜の白い夜着ではなく正装の出で立ち、黒い眼帯で隠された左眼の上では日の光を浴びた白銀の髪が硬
質な輝きを放っている。その喩えようもない美しさに箸を取り落とす入鹿の横で、座していた侍女達全てが声
なき悲鳴を上げ平伏した。


「もう済んだか」

「・・・は」

「ならついて来い。城内を案内する」


後ろに付き従う男達を引き連れ、夫は入鹿を顧みもせず踵を返してしまった。昨夜受けた所行を反芻する間も
なく立ち上がった膝に膳があたり、食器が不作法な音を立てる。__それに気付く事なく慌ただしく後を追う
入鹿の後に、桜も続いた。




だが勝手気儘に連れ回された城内外の絢爛豪華さは、確かに入鹿の目を見開かせたばかりか度肝を抜くも
のだった。五層六階、最上層には回縁高欄の望楼を戴いた天守は文字通り大天守閣の名に相応しく、葺か
れた瓦も尋常な瓦ではない、金箔瓦であった。またその巨大な天守曲輪の傍には幾つもの大小天守が並び
立ち、高欄の擬宝珠はすべて純金、宝珠親柱も架木も平桁も地覆も原色の漆で塗り固められている。侘び寂
びに富んだ、有り体に言えば煤けた不知火の城内しか知らぬ入鹿にとって、これは眼も眩むばかりの色合い
だった。大天守の三層階には多面体の能舞台が張り出し、シテもワキも囃子方も見えぬ閑散とした舞台を昼
日中から焚かれた篝火が煌々と照らしている。それが能好きの国主が何時でも舞える為の腐心と聞き、無駄
と言う名の贅沢に入鹿は眩暈を覚えた。

前を行く広い肩が時折入鹿を振り返り、短く荒い言葉で城内の其処此処を指し示す。だがその中に玩具を自
慢する幼子と同様の稚気を察し、入鹿の頬は緩み掛けたが__如何に夫婦とはいえ、それを表せる程自分
達は未だ近しい間柄ではない。表情を引き締め後に続く入鹿のその足が突如ある部屋の前で止まり__つ
いには吸い付いた様に動かなくなった。前を行くカカシが不審げに振り返る。


「・・・・なんだ、一体どうした」

「あの・・・あの、ここは・・・・?」

「ああ、ここは書庫だ。城の書物はすべてここに収めてある。・・・・何だお前、こんな物に興味があるのか?」


入鹿は無言で頷くと、我知らず部屋に足を踏み入れていた。眼前の光景が現の物とは思えなかった。およそ
三十畳はある広間の壁と云う壁全てに書架が立ち並び、其処には隙間無く帖装本や線装本が積まれてい
る。そればかりか収蔵しきれず溢れ出た書物が無造作に床に平積みにされ、所々で雪崩を起こしていた。


──・・・・財力の違いとは、これ程のものか・・・・!!


震える指を伸ばし掛け、躊躇った後に握り込んだ。静謐な紙と墨の香りに涙が滲む。暫く胸に手を当てたまま
立ち尽した入鹿は、俄に覚醒すると平伏した。


「・・・・ご、ご無礼を、殿。田舎暮らしが長う御座いました故、このように大量の書物を目にするのは初めての
ことにて・・・・」

「これは殆ど親父様が集めた医学書や兵法の書だ。お前、女の癖にそんな物を読むのか」

「はい、特に医術の書は読んでいて飽きることがありません・・・・」


カカシの云う通り学術書が蔵書の大半を占める様だった。だが未練がましく書架に這う入鹿の視線の隅に、
絵草紙や錦絵、人情本の表紙まで映っている。言葉とは裏腹に落ち着きのない入鹿の姿にカカシは冷笑を
投げた。


「女の身で医術か。つくづくお前は変わった奴だな。・・・・まぁいい、好きにするがいいさ。見ての通り荒れ放
題だがな。」

「・・・・は?」

「入鹿、お前はこの城の何だ」


飲み込みの悪い入鹿にカカシの声が苛立ちを帯びる。首筋を掠めた冷たい怒気に身を竦めながらも、入鹿は
辿々しく答えた。


「・・・・み、御台所にございます」

「ならそういう事だろう。この城のもの全て、俺のものでありお前のものでもある。お前が御台である限りは
な。・・・・おい、どうした?」


──・・・・この蔵書全てが、自分のもの・・・・!!


一旦音を立てて引いた血の気が、激しい勢いで逆流する。自分を見下ろす夫の端麗な顔が歪み、視野が狭
窄した。傾いだ身体に、夫が手を伸ばしたかどうかは分からない。


『御台様、如何なされました!?』

『お気を確かに、御台様・・・・ッ!!』


桜を始め立ち騒ぐ人間達の声が脳内で反響する。その騒ぎと自分の心音とを聞き比べながら、入鹿の意識
はゆっくりと落ちた。







「藤の方様、北の丸にて桔梗が美しく咲きました故、お持ちし致しました。」

「これは御台様。いつもながらのお気遣い、ありがたく存じまする」

「なんのこれしき」


しかし波乱含みで始まった新しい生活も、時が経てばそれは代わり映えのない平穏な日常に変わる。
凪いだ時間の中、入鹿は今日もカカシの愛妾藤の方の元で茶を啜っていた。藤の方はカカシが抱える数多の
側室の中でも最も寵愛を受ける女性だったが、この穏やかで臈長けた美女と偶然親交を結んでからは、入鹿
は三日と空けずその元に通い姉の如く慕っていた。当の藤の方は豪商と名高い実家から献上された菓子を
入鹿に勧め、ゆったりと微笑みかける。端からみれば正室と側室の奇妙極まりない関係も、入鹿にとっては
大真面目な思慕の上に成り立つかけがえのない交友だった。


「昨日、実父が此処に参りまして。」

「まあ!!それは良うございました」

「はい。随分と久方ぶりの対面で御座いました故、余りの老け様に驚きましたが・・・・矢張り身内と云うもの
は、心和ませるもので御座います。」

「左様で御座りましょうとも!!」


故郷に残してきた家族への愛着と思い出を互いに語り、共に望郷に浸る。一頻り笑い合った後入鹿は茶器を
置き、ここ数日来の気がかりを徐にきりだした。


「時に藤の方様。昨今城内の様子が、妙に慌ただしく感じられますが・・・・何かお聞き及びの事が、ございま
しょうか」

「城内が・・・・?」

「はい、家臣も侍従の者達も皆動きが慌ただしく、顔付きが一様に緊迫している様に感じます。桜に尋ねても
首を振るばかりで埒があきませぬ。もしや・・・・もしや戦が近いのかと存じまして」

「・・・・戦とはまさかそのような・・・・生憎私は何も聞いておりませぬが・・・・」

「左様で御座いますか・・・・いえ、杞憂であるならばそれに越したことはないのです。きっと私の気のせいでご
ざいましょう。」

「・・・・・・」


曖昧な笑みを浮かべたままの藤の方だったがその長い睫に縁取られた瞳に、影が走ったのを入鹿は見逃さ
なかった。__やはり、何かあるのか。それとも何処からか、口止めをされているのか。何れにしろ彼程聡明
でたおやかな藤の方の口を噤ませるとは、余程の事情であるに違いない。笑顔で部屋を辞した後も裏腹に入
鹿の心が晴れることはなかった。

やはり直接、殿にお聞きするより他無いのだろろうか。

しかし唯でさえ多忙のカカシを掴まえることは至難の業であり、ましてや日の高いうちから入鹿の元に足を運
ぶ事などあろう筈がない。精々思い出したように共にする閨で、散々に入鹿を蹂躙するだけだ。その閨でも自
分が存分に思いを遂げれば、意識の落ちかけた入鹿を残しさっさと引き上げてしまう。質問どころかまともな
会話さえ成り立たぬ夫婦と云えた。


──・・・・はてさて、一体どうしたものか。


城内で最も心安らぐ場所である書庫でごろりと横になり、天井を見上げる。不作法は分かっていたが襖と障
子できっちりと閉め切られた部屋に、足を踏み入れる人間など殆どいない。名実共に御台専用となったこの場
所で、微かに漂う黴の匂いを思い切り吸い込み、薬草に関する書物を片手にうつらうつらとしていたその時だ
った。


『・・・・・無茶な・・・・・丁の火器を揃えよと・・・・・』

『・・・・・までに進軍と・・・・余りの所行・・・・』


──・・・・・進軍!!


廊下を渡ってくる男達の声に、眠りかけていた入鹿の目は大きく見開かれた。襖一枚隔てた向こうに御台が
いると知らぬ家臣達の声が、ゆっくりと近づいて来る。


『・・・・・様は激しく反対され、言い争いに・・・・・』

『殿のあの御気性・・・・撤回されることはまずもって・・・・何としたことか・・・・』


高い足音と嘆きの吐息が、徐々に遠ざかる。入鹿はそのざわめきが完全に掻き消えても、暫くその場所を動
かなかった。




「お帰りなされませ、御台様。丁度ようございました、今不知火のお里からお文が・・・・・御台様?」


書物好きの主がいつもの如く書庫に籠もっているのを知り敢えて後を追わずにいた桜だったが、入鹿の顔色
の悪さに思わず息を飲んだ。・・・・もしやあの事を、知ってしまわれたのだろうか。ならばまだ年若き御台様
は、どれ程に悲しまれるだろう・・・・。


「御台様、お顔の色が優れませぬ。如何なされました・・・・?」

「桜。家老の真伊斗と森乃をこれへ。・・・・・尋ねたき儀がある」


とうとう来た。何時までも隠し通せるものでもないと思ってはいたが、やはり知ってしまわれたのだ。崩れ落ち
る様に脇息に凭れる入鹿を前に、桜は暫し無言で立ち尽くした。







「ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じまする、御台様。」

「うむ。二人とも揃って息災の様子、何よりじゃ。・・・・時に多忙の身をこうして呼んだ訳は、もう既に察してお
ろう。ここ最近の城内の様子、明らかに尋常でないが誰に尋ねても真の事を話してはくれぬ。そこで直接、そ
なた等に問いたい。・・・・・先程書庫で『進軍』の言葉を耳にした。戦が近いのか?」


真伊斗も森乃も若輩の部類に入る家老であったが二人揃って言動に表裏が無く、且つ国を思う心が篤い。常
日頃から入鹿の気に入りの男達だったが__いつもの歯切れの良さはどこへやら、今日は平伏したまま顔を
上げようともしなかった。


「・・・・案ずるな。私とてこの城の御台所、いざと云う時の覚悟は出来ている。ただ戦となれば相手は何処の
国なのか。規模はどれ程のものになるのか──事実を知りたいだけだ。」

「恐れ入りまして御座います、御台様。お察しの通り、開戦の日が迫っております。」

「・・・・・森乃ッ!!」

「真伊斗、今更隠し立てして何とする。此処まで来たら、御台様に何もかもご報告申し上げる方が得策と云う
ものであろう。」

「しかし・・・・!!」


普段から明朗快活で知られる男の顔が歪んでいる。言い争う二人の男を手で制すると、入鹿は無理矢理に
作った笑みを向けた。


「有り難いが気遣いは無用じゃ。私は唯、忌憚無い事実だけを知りたい。・・・・・戦の相手は、音の国か。」

「・・・・・?いいえ、今回の開戦の相手は蝦蟇の国にございます。」

「何・・・・・!?」


入鹿がこの国に嫁ぎ、最も恐れてきたのは音の国との戦だった。この城での生活にも馴染み既に幾度と無く
カカシとの閨も経験したが、佐助に対する純然たる思慕は、未だ入鹿の中にあった。その入鹿にとって自分
の夫と佐助が刃を交える事程恐ろしい事象は無かったが、どうやらその可能性は掻き消えた。しかし森乃の
口から漏れた国の名に、入鹿は改めて驚愕した。


「蝦蟇の国とは・・・・・あの自来也殿か・・・・ッ!?」

「左様に御座います」

「何と・・・・!!幾ら殿が戦上手とは云え、相手が自来也殿とあっては分が悪すぎようぞ・・・・!!」


蝦蟇の国は雷の国の西方に位置し、その強大な国力は近隣諸国に鳴り響いている。国主自来也は既に初
老に差し掛かる男だったが戦場では幾つもの伝説的逸話を残し、『戦神』の名を欲しいままにする一種の天
才であった。その正室綱手も頭脳の冴え著しく、男であれば必ずや城持ちになっていたであろうと謳われる女
傑だ。この二人が治める蝦蟇の国は国そのものが難攻不落の要塞に例えられる程、堅牢な国政を布いてい
る。その強固な国に自ら攻め入るとは、体の良い自殺行為に入鹿には思えた。


「何という無謀な・・・・!!唯でさえ蝦蟇の国に進軍するのに、どれ程の時間と労力が掛かると思うてお
る!!しかも稲の刈り入れさえ済んでいないこの時期に、領内から男手を割いて何とする?残された女子供
で、とても担い切れるものではあるまいに・・・・!!」

「は。梨の国、巳の国、笙の国、厘の国、円の国・・・・五つの国を越えて行きまする。進軍にどれ程の人員と
経費を必要とするかは、未だ不明にて・・・・」

「・・・・・!!評定は如何した、勿論詮議されているのであろう」

「確かに評定は毎日開かれておりまする。しかし我らは殿の指し示す方向に殿をお連れする、荷車のようなも
の。その荷車が意見したとて、殿にとってどれ程のものでござりましょう。」

「・・・・・したがその殿とて人の子、判断を誤ることもあろう。それを正すために、そなた等家臣達が控えている
のではないか」


入鹿の言葉に、二人の男達は黙り込んでしまった。額に手を当て、脇息に凭れる。蝦蟇の国との戦とは、こ
れは容易ならざる事態だ。この国の命運を左右しかねると云ってもいい。最早自分一人の力でどうにか出来
る規模の話ではないとも思うが、とにかく聞ける事実は総て知っておきたい。大きく息を吐くと入鹿は手にして
いた扇を音を立てて閉じ、再び男二人に向き直った。


「・・・・して、その戦の根拠とは何じゃ。」

「・・・・は?」

「戦の理由付けじゃ!!あれほど遠方の、しかもこれ程大規模な戦を仕掛けるとなればそれ相応の訳があろ
う。まさかそれをそなた等が知らぬ訳でもあるまい。・・・・・理由は何じゃ」

「それは・・・・」


真伊斗ばかりか今まで口を開いていた森乃まで押し黙る。その不甲斐なさに憤り腰を浮かし掛けた入鹿の脳
裡に、閃くものがあった。


「まさか・・・・まさかその理由は・・・・『白鷺姫』か!?」


真伊斗と森乃が同時に顔を見合わせ、平伏する。その落ちた肩に、疲労と絶望が滲んでいるかに見えた。


「恐れながらご明察にございます、御台様。その白鷺姫を、殿がご所望にございます」

「何と・・・・!!」


白鷺姫は自来也の末娘であり、その並ぶ者とてない絶世の美貌で評判を呼ぶ姫だった。それだけに自来也
の溺愛振りも凄まじく、今まで如何なる求婚話も退けてきたと聞いている。その白鷺姫の噂を聞きつけたカカ
シが婚儀を申し入れたが当然の如く突っぱねた自来也との間で話がこじれ、相当に険悪な雰囲気になってい
る。そればかりか寄越さぬなら取りに行くまでと、カカシは蝦蟇の国に進軍の準備を始めていると云うのだ。


「我が城にあれほどの百花繚乱、春蘭秋菊をうち揃え・・・・未だ足りぬと申すのか・・・・!!」


カカシの抱える側室は現在でも両手では足りず、両足の指まで使わねば数え切れない。肉体的にも精神的
にも未熟な自分に、カカシが満足しているとは無論思ってはいなかったが__しかし藤の方を始め周囲に名
を馳せた美女達が、この城にはさんざめく様に囲われているのだ。それでも尚別の華を手折ろうとするカカシ
の欲求が、入鹿には全く理解が出来なかった。


「・・・・御台様。我が殿は知略謀略に長け、その戦場での勘の冴えの素晴らしさは、先代をも凌ぐ程にござい
ます。この国がこれ程までに領土を拡大し力を持ちえたのも、総て殿の思し召し故・・・・しかしその殿の唯一
の弱点は、女性に対し全くお気持ちの抑制が利かぬ事・・・・今までも所望された女性は、どんな手段を使っ
てでも手に入れていらっしゃいました。今回のことも、殿にとってはいつもの軽い我が儘に過ぎないのでござ
いましょう。」

「──・・・・・・」


入鹿は頭を抱えた。何故、何故だ。何故夫はそこまで女性に固執する。如何に優秀な国主とは云え、これで
は玩具を強請り続ける子供と一緒ではないか。このままではその果て無き欲求が、国を討ち滅ぼすことにも
なりかねない。いや事実今、この国は重要な岐路に立たされている。万が一この戦に敗れ、自分と夫の首が
飛ぶことになろうとそれは構わない。それは己の命運がそこで尽きたと、唯それだけのことだ。

しかしこの国と国主亡き後の、不知火の国はどうなる。

自分の名誉と愛娘の行く末を愚弄したカカシの所行を、自来也はそう簡単に許しはしまい。その正室の里が
どれ程の目に合わされるか、それは火を見るほど明らかだ。その時不知火の領民はどうなる。兄上は。義姉
上様は。紅は、日菜多は、遊馬は。そして幼い影丸の命は__


入鹿の掌に、じっとりと汗が浮いた。心臓は激しく脈打ち、背にも腋にも脂汗が流れているのに頭だけは冴え
冴えと冷え、澄み渡っている。入鹿、考えろ、何故我が夫は其れ程までに女を求める。その心根には、一体
なにがある__答えは簡単だ。与えられていないのだ。カカシが本当に望むものを。この城にいる誰もが__
自分は勿論、あの藤の方さえも・・・・。


──・・・・・入鹿、愛されることだ。それより他に、波多卦の家でおのが生きる術は無いと心得よ・・・・


今更ながらに兄玄馬の声が蘇り、それは激しく入鹿の心を打ち据えた。兄上様、お許し下さりませ。この不測
の事態を招いたのは総て入鹿の愚かさ故、現状に胡座をかき精進を怠った入鹿の不徳でしか有り得ませ
ぬ。


「御台様あぁぁぁぁッッ!!!」


打って変わって黙り込んだ入鹿の沈黙を激怒と取り違えたか、真伊斗が床を這いながら入鹿に躙り寄った。


「御台様ッッ!!御台様がその御歳で我が城に嫁がれたその日よりの御苦労、御尽忠!!この真伊斗、海
よりも深く山よりも高い尊敬の念にて、御台様をお慕い申し上げております!!!」

「い、・・・・如何した、真伊斗・・・・」


躙り寄る平時ですら濃い表情に、涙が浮かんでいる。その迫力に入鹿は思わず仰け反り、扇を開いた。


「その御台様の御忠義に対しこの仕打ち!!この有り様!!お腹立ちは全く持ってごもっともに御座います
が、何卒!!何卒この真伊斗の暑苦しい顔に免じて、お許しくださりませ!!御台様・・・・・殿は、殿は・・・・
お寂しいのでございます」

「おいッ、真伊斗!!」

「うるさいぞ、森乃!!御台様に包み隠さず申し上げると云ったのはお主ではないか!!お主その年で健忘
症か!?」

「なにをッ!?」

「いい加減にせぬか二人とも!!何だ?この期に及んでまだ隠し事があると云うのか!?なら有り体に申
せ、今更隠し立てして何になる・・・・案ずるな。此処で聞いたこと、決して他言はせぬ。」

「そ、そのようなことを案じているのではございませぬ・・・・・」


入鹿の一喝に厳つい森乃が両手をつきガックリと項垂れた。横目でそれを確認した真伊斗は、入鹿に向き直
り咳払いをして語りだした。


「御台様は殿の御髪の色・・・・不思議に思われた事はござりませぬか。」

「それは御母上譲りと聞いている。何でも異国の方であられたとか・・・・」

「何と!!それを殿が申されましたか!!」


それを聞かされた後、カカシと云う嵐に散々に錐揉みされたことは記憶に新しいが、入鹿はその頬に僅かに
朱を上らせただけでおくびにも出さず、先を促した。


「それが如何した」

「殿の御髪がご生母様譲りというのは、殿の御記憶の誤りにございます。殿はお生まれになった時、御台様
や我らと同じ、漆黒の髪をお持ちでした。」

「・・・・何と!?」

「ご生母様は御出産の後心を病まれて長らく伏せっておいででしたが・・・・殿が御歳五歳の砌、大発作を起こ
され錯乱された挙げ句、殿のお顔に小刀にて斬りつけられたのです。その時の傷跡は御台様もご存じの通り
でございますが・・・・今殿の左眼には、殆ど視力がございませぬ」


あの左眼の尋常ならざる色合いは、刀傷の後遺症だったというのか・・・・!!そうとも知らず、自分は新床で
呑気にもその色を褒め称えてしまった。カカシにとって、それはどれ程胸を抉っただろう。


「殿は毎日その小さなおみ足で裏山に登り、ご生母様の枕元に美しいお花を届ける程慕っておいででした。
その慕われたご生母様から突然の狼藉を受け、その夜・・・・一夜にして、殿の御髪は白髪に変わってしまわ
れたのです」

「・・・・何と云うことだ・・・・」

「大殿はその後やむなくご生母様を地下牢に移されたのですが・・・・その所行を殿は深く恨んでおいでなの
です。手を尽くされず、臭いものに蓋をしたと・・・・」


入鹿は言葉もなかった。親がないのは自分とて同じだ。だが自分には、幼い時確かに愛された記憶がある。
存分に慈しまれた暖かさを覚えている。それがあるのと無いのでは、その後の人生を生きる意味合いが全く
違ってきてしまう。脇息に凭れ、入鹿は呻いた。


「その忘れられぬ辛さ寂しさ故、女漁りを止められぬと云う訳か・・・・」

「御台様・・・・」

「美しい方でござりました」

「・・・・森乃?」


黙って真伊斗の語りを聞いていた森乃が、突然呟いた。入鹿と真伊斗の視線が、その傷だらけの顔に注が
れる。


「私もまだ子供で御座りました故、記憶も些か怪しくなってきてはおりますが・・・・まるで絵に描いた様とはあ
の事かと・・・・地下牢に移されてから数年の後に亡くなられましたが、それでもそのお美しさは亡くなるまで
変わられることがございませんでした。」


向かい合う三人の中に沈黙が落ちた。だが如何に辛辣な過去が国主の記憶に巣くっていようと、今この国が
絶対的な危機に瀕している事態に代わりはない。__感傷に浸っている時間はない。如何様な手段を使って
でも、この戦を止めねばならぬ。口火を切ったのは入鹿だった。


「・・・・真伊斗、森乃、もっと近う。殿の生い立ちを、詳しく知りたい。」


二人の男が顔を見合わせ頷いた後、静かに躙り寄る。その日御台所と若い家老達の密談は、およそ二時に
も及んだ。



〈 続 〉





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