蜘蛛巣城 後



少年のこめかみに、汗が浮く。


重力に倣い頬を滑り顎を伝って流れたそれは音もなく床に滴り落ちた。既に稲の刈り入れの時期を迎えた季
節とはいえ、天井裏の蒸れて澱んだ空気と熱は容赦なくその細い体躯から水分を奪う。滴った汗は幾重にも
床に染みを造り、幾何学的な紋様すら成している。しかし少年は片膝を付き脇差しの柄に手を添えたまま、そ
の姿勢を崩そうとはしなかった。

少年にとって、暑さ寒さはさほどの苦衷では無い。幼い頃から忍の道を歩んできた己にとって今この状態が
極楽と云える程の、陰惨な経験なら幾らでもある。肉体的酷使になら如何様にも耐えられると、不遜な自信を
胸に抱く少年が不機嫌に眉を寄せる理由は__階下にあった。


羽目板の隙間から僅かに覗く、男と女の痴態。絡み合う二つの裸体はいつ果てるとも知れないまぐわいを続
け、懇願とも悲鳴ともとれる女の喘ぎが主の律動に合わせ高く低く響く。それは少年の身体の奥深くを、細波
の如く絶え間無く刺激し疼かせる。閨の警護は難なくこなせる筈の任務とは云え__思春期を迎えたばかり
の少年にとって、何度経験しても気まずい嫌悪を抱かせた。

吐きたくなる息を堪えもう一度姿勢を正す。流れる汗を拭おうとしたその時、背後の空気が僅かに揺れた。


──・・・・何奴ッッ!!


鞘から刀身を一気に引き抜こうとした瞬間、柄を握る右手に柔らかな掌が添えられ己の口元も同様に塞がれ
ていた。忍の自分が、難なく動きを押さえ込まれている。今自分は限りなく間抜けな顔を晒している自覚はあ
ったが__眼前で微笑む少女に、更に驚愕を深くした。夜目ではあるが、間違えようもないその笑顔は確か
に。


『──・・・・みッ、み、み、み・・・・・ッ』


掛けられていた圧力が消え身体が自由になる。少年は数歩飛びすさり、床に額づき深く平伏した。


『御台様・・・・・ッッ!!』


頭や肩にべったりと蜘蛛の巣を貼りつけ、白い夜着一枚だけを身に付けた少女は間違いなく、自分が仕える
もう一人の主だった。


『済まぬ、少年。驚かせてしまったな。』


主と呼ぶ人間に、これ程近しく接するのは生まれて初めての経験だった。緊張と混乱で顔を上げられぬ若い
忍に、入鹿はたおやかに笑った。


『背後から近づけば人間誰でも驚く。済まないな、もう少し考えるべきであった。』

『こ、こちらこそご無礼を、御台様!!どうかご容赦下さりますよう・・・・!!・・・・で、ですが、あの・・・・、一
体何故、このような場所にお運びに・・・・?』

『何、そなたの仕事の邪魔立てをする気はないのだ。ただ少しだけ、其処を貸して貰いたい』

『・・・・・は?』


問う間もなく、汗が滲みた床に膝を付き入鹿は羽目板に手を掛けた。息を飲む少年の前で、入鹿の唇が微か
に動く。__藤の方様、お許しくださりませ。そう読んだ途端、羽目板がずらされ入鹿の顔を階下の灯りが照
らす。少年は正視出来なかった。階下ではこの国の国主が側室と激しい性交に耽っている。自分にとっては
ただそれだけの客観的事実も、御台所に対してその意味合いは全く異なる。夫と愛人の番いを喜んで目にす
る正室が何処にいるだろうか。ましてや御台所は自分とさほど変わらぬ年若さだ。__閨を覗く入鹿の目的
は皆目分からなかったが、その居たたまれ無さには言葉も無かった。


──・・・・・やはり。


漏れた呟きに顔を上げると、意外な程に真摯な横顔が見えた。そのまま入鹿が羽目板を元に戻す。周囲が
再び闇に包まれた。


『・・・・そなた、名は何と云う』

『は。鹿丸・・・・奈良、鹿丸と申します』

『そうか。・・・・鹿丸、造作をかけたな。云うまでもなく此の事は他言無用じゃ。万一何か事あれば、妾の元に
まいれ。決して悪い様にはせぬ故。』

『はッ』

『表を上げよ、鹿丸』


云われて顔を上げた鹿丸の額に、懐紙が充てられた。呆然とされるがままのこめかみに、頬に、柔らかな紙
の感触が滑る。


『・・・・かような暗く狭い場所で夜通し・・・・難儀なことじゃ。したが鹿丸、そなたの忠義故殿のお命がご無事
であること、忘れるでないぞ。常日頃口には出さぬが殿も、そして妾もそのことはようく存じている故。』

『み、御台様・・・・・』


鹿丸が言葉を継ぐ暇を与えず、入鹿の姿が闇に消えた。夢か現か幻か。ただ焚きしめられた懐紙の香だけ
が、残像の如く鹿丸の鼻腔に残り入鹿の笑顔を蘇らせる。女の嬌声が一層高く上がった。悩ましく淫楽に熟
れた吐息と衣擦れの音が、相も変わらず階下から立ち上る。しかしそれはもう、鹿丸の精神を苛むことはなか
った。拭われた額に、新しい汗が滲むこともない。姿勢を正し顎を引き、静かに瞼を閉じる。僅かな雫が眦に
浮いたことに気付かぬまま、少年は御台所が消えた暗闇に深く平伏した。





しゅるり、しゅる、しゅる、しゅるり、しゅるり。


結んでは解かれ、結んでは解かれる衣擦れの音に入鹿の溜息が重なる。


「・・・・桜。これ以上はもう無理じゃ。今宵は此処までにいたそう。」

「なにを仰います、御台様!!この私に遠慮なさる必要などございませぬ、ささ、存分になされてくださいま
せ!!」

「したが・・・・」

「恐れながら御台様、お時間が御座いませぬ。今宵はともかく、もう明日にでも殿のお渡りがあるやも知れま
せぬ。それを思えば一刻の猶予もならぬのは明白。・・・・ささ、御台様、今一度!!」


そう云って突き出された桜の両手に、入鹿は柳眉を寄せた。幾度となく縛り上げられ擦られた跡は赤く腫れ上
がり、所々に裂傷が浮いている。綿のサラシでは忽ち肌を傷つけると気付き、途中から夜着を裂き絹を用意し
たが__それでも桜にかかる負担は大きい。入鹿は再び溜息を吐いた。


「痛ませず、しかし確実に拘束することがこれ程難しいとは・・・・誤算であったわ。」

「左様でございましょうとも。さればこそ、鍛錬が必要なのでございます。まさにその為の桜の身体なれば、何
卒・・・・御台様。」


あどけない笑顔の底に潜んだ決意に、入鹿は押し黙った。手を伸ばし、ゆっくりと桜の指を握る。桜も力強く、
握り返す。年若い侍女と御台所は同時に笑みを交わした。


「相済まぬ、桜。後ほど必ず治療を施そうほどに・・・・今少し、付き合って貰おう。」

「ありがたき幸せ。さ、どうぞご存分に。」


燭台の灯りが重なる二つの影を映していた。しゅるり、しゅる、しゅる、しゅるり。シンと更けていく夜に、衣擦
れの音だけが続く。襖の内側で張りつめた息を吐く二つの気配は、その夜、誰一人をも寄せ付けなかった。



桜は、元は藤の方付きの侍女であった。

藤の方は商家の出であり国主と殆ど歳の変わらぬ年長者であったが、その美しさと知性に於いて並ぶもの
の無いほどの出来た女性であった。当然の如く国主の寵愛も篤い。寵姫に仕えると云う事は、自ずと従者の
地位の安定をも示す。桜は藤の方の侍女であることが、日々心からの誇りであった。


だが、乱行とも呼べる女漁りを続けていた国主が、とうとう正室を娶ると云う。


桜は最初、国の七不思議と云われる程に誕生せぬ、世継ぎ対策としての輿入れかと勘繰った。しかし聞けば
正室の国元は不知火の国と云う。直ぐに合点がいった。不知火の国は貧しいことと雷の国の軍事的要である
北方に位置することだけが特徴の、取るに足らぬ小国であった。これは婚儀とは云え、正室とは名ばかりの
人質が入城するに過ぎない。それならば藤の方に影響が出よう筈もない。そう胸を撫で下ろしていた桜に正
室付きの辞令が下ったのは、正に晴天の霹靂であった。


『御正室様付きとは・・・・何ぞ、何ぞ私に粗相でも御座りましたのでしょうか』


震える声の桜の問いを、家老の真伊斗は呵々とした笑いで蹴飛ばした。


『粗相あって御正室様付きとは、これはまた異なことを申すものだな桜!!そのようなことがあるはずが無か
ろう、お主は優秀なればこそ選ばれたのだ。』


屈託無い真伊斗の答えも、桜を納得させることは出来なかった。何故に、自分が。時を同じくして城に上がっ
た同齢の衣野は、そのまま藤の方の元に残留する。その事実が、ますます桜の鬱屈に輪を掛けた。加えて
正室と自分の年齢差が僅かであることも気に入らない。桜は国主と不知火の姫の婚儀の日まで、荒れすさん
だ気持ちを持て余しつつ過ごした。


だが対面を果たした新しい主は、意外にも桜を楽しませた。


輿入れの翌朝、しょげ返って朝餉の膳に向かっていたと思えば猛然と箸を取り、城内の装飾に投げていた茫
洋とした瞳を荒れた書庫では極限まで見開く。挙げ句書庫の使用を国主よりからかい気味に許され、極度の
興奮で気を失った。繰り人形の如き姫を勝手に想像していた桜にとって、これは新鮮な驚きだった。そればか
りか運ばれた塩むすびにかぶりつく飾り気のない笑顔は、確実に桜の琴線に触れた。


──・・・・これはまた何と、変わり種の姫であろう・・・・


桜の抱いた鮮烈な印象を、その後も入鹿は裏切ることはなかった。
時折煙の様に姿を眩まし、散歩と称し埃や泥を纏い帰ってくる。かと思えば幾らでも書庫に籠もり、這いずる
様に書物を漁る。止まぬ癖のように桜や若い侍女達の頭を撫で、数度言葉を交わした藤の方とあっという間
に懇意になりその部屋にまで足を運ぶ。入鹿と過ごす日々は尽きぬ発見と驚きの連続であったが__主に
従し、藤の方の元を訪ねる事だけが、桜にとっては苦痛だった。入鹿という正室を娶った後も、国主の藤の方
への寵愛は変わらない。藤の方付きの侍女達は、あからさまに優越に満ちた視線を桜に投げる。歯噛みする
桜の心中を知ってか知らずか、悠然と茶を啜る入鹿に珍しい菓子が供された事があった。

初夏の陽気に相応しく、固められた寒天の中で赤い求肥の金魚が踊っている。

しげしげと眺めた後、それを口にした入鹿は悪びれることなく叫んだ。


──・・・・なんと云う美味・・・・!是非桜にも、所望したい!!


その時沸き上がった激烈な羞恥と歓喜を、桜は生涯忘れることが無かった。正室が側室に物乞いをするな
ど、前代未聞の所行ではあったが__此程までに直裁な愛情を、桜は初めてその身に浴びた。

かろうじて末席に名を連ねる、城の家臣である桜の親はごく普通の良識で桜に接し育て上げたが、娘を城に
上げるその目的が国主の色好みであることを、桜ははっきり理解していた。

この城にはまだ世継ぎが誕生していない。

侍女として上がった桜に国主が手を付け万が一身籠もれば、我が娘は国母となる。強者に縋らねば生きて行
けぬのがこの世の定めとは云え、透けて見えるあからさまな魂胆に桜は吐き気を催すほどの嫌悪を覚えた。

入鹿とて、それに気付かぬ筈がない。

侍女と主の関係が簡単に裏返る実例など、掃いて捨てる程に転がっている。だがそんな思惑などものともし
ない衒いの無い入鹿の愛情は、深く鬱屈した桜の感情を眩しすぎる程の光で照らした。その固い痼りを溶か
した。


__侮蔑の視線と入鹿の笑みの中で甘味を口にしながら、桜は、自分が生涯ただ一人の主に相見えた事を
知った。




燭台を捧げ持つ桜の後に、荒い足音が続く。緊張に膝が震え、掌に汗が滲む。張りつめた顔で書庫に籠もっ
ていた御台から胸の内を告げられて以来数日後、ついにその日が来た。


──・・・・・御台様、御台様のそのお身体、その願い、この桜が身を賭してお守り申してみせまする。なれば
こそ、存分に成されませ。


「・・・・御台様、殿のお渡りに御座います。」

「相分かった」


束の間、座する御台と侍女の視線が絡み合い、離れた。平伏する桜の眼前を骨張った男の足が通り過ぎる。
敷居を跨ぐその背中を見送ると、桜は懐に手を当て控えの間に向かった。






灯りの落とされた部屋に、髪を下ろした少女が端座していた。相も変わらず硬い表情の『妻』の腕を取り、口
上を述べる暇を許さず臥所に転がす。低く呻き横たわる躰の裾が大きくはだけ、細く引き締まった太股が顕わ
になった。成熟と云う名の柔らかさにはほど遠い、固い身体。熟れた反応を返す訳でもなく、声を殺しされるが
ままの人形遊びは決してカカシの好みでは無かったが__偶には青い実を齧ってみるのも悪くない。襟元に
手を掛け引きずり下ろすと小ぶりな乳房が現れる。そこに荒い愛撫を施していると、組み敷かれた身体から張
っていた力が突如抜けた。
いつもとは違う反応に訝り身を起こすと、黒い瞳が自分を見据えている。
其処に胡乱な光が走ったのは気の所為かと目を瞬く間に、御台所が口を開いた。


「殿は・・・・」


入鹿が閨で口を開くのは珍しい。何事かと思わず止まった手を払いのけられ、その驚きはますます倍増した。


「殿は、遊郭などにおいで遊ばされますのか」

「何・・・・?」

「遊郭、です。遊女などを買われるのかと聞いておりまする」


悋気か。カカシはどうにか吹き出すのを堪え、しげしげと少女の顔を見た。この歳とは云えやはり女、なかな
か渡ってこない夫に痺れを切らしたか詰まらぬ嫉妬に燃えているのか。不躾な視線に気付いたかつんと澄ま
した表情で顔を背ける若い妻に、カカシは益々笑い出したくなった。


「そんな暇がある訳がなかろう。城内外を駆けずり回って日が暮れる。わざわざ場末に赴く余裕も時間も無
い。」

「成る程、その為の側室方で御座いますか。」

「それがどうした」

「とりたてては特に。・・・・したが安心致しました。外にお出でにならなければ噂が広まることもありますまい。
国主が此程拙き性技の持ち主と分かれば、国の恥となります故。」

「・・・・な・・・・に・・・・ッッ!?」


思わず耳を疑った。殴られたかの如き衝撃で、束の間声を出すことすら不可能だった。だが対する御台所は
白々とした表情でカカシと向かい合っている。


「今、なんと云った・・・・?つ・・・・たない、だと・・・・!?」

「左様にござりまする。」


恐れ入るどころか見下した響きさえ籠もる入鹿の言葉に、カカシの怒気は膨れ上がった。しかし当の入鹿は
それさえ返す強い視線で夫を睨め付ける。


「入鹿はもう、懲り懲りで御座います。」

「何ッ!?」

「雷の国の国主と云えば漁色で鳴らしたお方。どれ程悦い思いをさせていただけるのかと期待しておりました
のに、蓋を開けてみればこの有り様。入鹿はもう、殿との閨には飽きました。」

「お前・・・・この俺を、愚弄するか・・・・」

「愚弄とは滅相もない。単なる事実にございまする。」

「・・・・フン、出鱈目を云うな。その歳で間夫がいた訳でもないだろう。何の目的あってそれ程の暴言を吐くの
かは知らないが、お前の破瓜は確かにこの俺が・・・・」

「ホホホホホ」


突如入鹿が高く嗤った。カカシは憎悪に近い表情でそれを見たが、入鹿の嗤いは止まらない。小馬鹿にした
視線と共に散々に嗤いのめして尚、口の端を歪ませて言い放った。


「女が性の悦びを知るのに破瓜のあるなしなど、なんの関係もございますまい。その程度の知識でよくもま
ぁ、彼程の側室方を相手に出来たものでございますこと」

「な・・・・・に・・・・・ッッ!?おのれ、云わせておけば・・・・・ッッ!!」

「唯腰を振るだけの生き物と交わるなら、犬とでも交わる方が存外ましと云えましょうぞ!!」


──・・・・・・犬!!!


カカシが刀掛けの大刀に手を伸ばした。何か理由あっての入鹿の豹変だろうと察しは付いていたが、それに
したところで言葉が過ぎる。一国の国主が、犬に喩えられては我慢も限界を超えた。年若い御台を斬ればそ
れなりの騒ぎを引き起こす事は必然だったがそんなことはどうでもいい。カカシの中で煮え滾る怒りが、入鹿
の血を見ずには収まらぬと吠えていた。枕元の刀掛けに伸ばした手が柄に触れる、その瞬間、しかしカカシ
の身体は後方に吹き飛ばされた。

懐に入り込んだ入鹿から鳩尾に突きを喰らい、戦場で天賦の弓取りと称された男は無様にも尻餅をついてい
た。

代わりに刀を掴んだのは入鹿だった。長刀を部屋の隅に放り投げ、短刀を握るとするりと刀身を抜く。それを
夫の喉元に突き付け素早く馬乗りになると、婉然と笑った。


「私を、お斬りなさいますか」


カカシは初めて、本能的な恐怖を抱いた。国主がこれほどの狼藉を働かれて、何故誰も助けに来ない。割っ
て入らない。控えの間には従者も、天井裏には御庭番も潜んでいるはずだ。__まさか、手を回されたのか。
カカシは驚愕の思いで目の前の正室を見つめた。小柄な少女の体躯が、幾倍にも膨らんで見える。その全身
から放つ気は人間とも思えぬ、妖狐の如きゆらめきがあった。カカシははっきりと、戦場ではなく居城である閨
の中で、死の足音を聞いた。


「ご心配召されますな、殿」


胸の内などとうに見透かしていると笑う、余裕の表情に再び怒りが湧いた。だが入鹿は意外にも、刃を突き付
けながらも慰撫する様な口づけを与え始めた。


「私の身体はこの城に入った時より殿のもの。殿の持ち物が殿を傷つけることなど有り得ましょうか。お手を汚
されるまでもございませぬ、ご命令とあればいつでもこの短刀で、自ら喉を突いてみせまする。されどその前
に・・・・」


入鹿の手が臥所の下を探る。何事かと思ううち、今度は胸を押され寝具に突き倒された。その耳元近くに刃
が突き刺さる。


「冥土に逝く前の置き土産、私が真の快楽を教えて差し上げましょう」


しゅるり、と衣擦れの音が響く。闇に翻る白布を見た瞬間、カカシの視界は遮られた。



上手く息が、出来ない。

幾ら瞬きを繰り返しても視界は晴れず、口の中に溜まった唾液を飲み込むのにも難儀する。__猿轡を噛ま
されたのは、生まれて初めての経験だった。一つに拘束された両手首の不自由さと相まってカカシの不快感
は頂点に達していた。

それなのに。

噛んだ絹の布の下から、どうしようもなく熱い吐息が漏れた。先刻から裸に剥かれた全身を冷気と熱が、同時
に襲っている。皮膚を滑る刃に並行して、入鹿の舌が同時に蠢く。峰に返しているとは云え、手元が狂えばい
つ何時その切先が皮膚を食い破るか分からない。予測不能な恐怖の中で、滑る舌が与える快楽は痛い程に
神経の中枢を刺激した。喉元を、肩を、二の腕を確かめる様にゆっくりと刃がなぞる。その冷たさに気を取られ
ていると胸の先端にきつく歯を立てられた。堪らずあげた声は噛んだ布地に吸収され、くぐもった呻きにしかな
らない。

くくく、と嗤い声がする。布越しに見上げた視線の先に、自分を覗き込む入鹿を感じる。脇腹に移動した刃を感
じて、冷や汗が流れた。


「何とはしたない。一国の国主が女子供に嬲られてこの昂ぶりよう、人に見られたら何となさいます?」


云うやいなや、その固く勃ち上がった陰茎をなぞられた。熱い口唇と冷えた鉄の感触が下から上へと一気に
駆け抜ける。カカシは背を仰け反らして耐えた。しかし入鹿が其処に触れたのは一度のみで、翻弄する舌は
陰嚢を捉えると執拗にそこを嬲り始めた。短刀の峰が、未だ陰茎をなぞっている。

口を塞がれていなければ、女の様な声を上げていたに違いない。

事実滑る舌が蟻の門渡りから後孔に辿り着きその中に浸食したのを感じた時、カカシは不明瞭ながらも大声
を上げた。排泄器官である其処に、自分でさえ触れたことのないその場所に、舌が差し込まれている。掻痒と
も疼痛とも知れぬ強烈な刺激が、大きく開かされた足の間から尾ていに沿って駆け上がる。止め処なく発汗
し熱を持った身体は、与えられた恥辱と享楽で火だるまの如く燃えていた。


「お可愛そうに、こんなにされて」


華奢な指先が怒張したモノを弾いた。それだけで声が漏れた。陰茎に触れていた短刀の感触はいつの間に
か消えていた。代わりに入鹿の指先が、触れるか触れぬかの具合でなぞっている。もどかしかった。その両
手で包まれ幾度か扱かれれば、自分は呆気なく果てるだろう。だが拘束された身体では起き上がる事も出
来ず言葉すら発せない。ただ犬のように吐く息で、破裂寸前の劣情を伝えた。


「楽にして差し上げましょうか」


云うなり猿轡を外された。突如入り込んできた大量の空気に咽せ、カカシは激しく咳き込んだ。入鹿がその背
をさすり、ゆっくりと抱き起こす。背を丸め荒い息を吐きながら、カカシは間髪入れず云い放った。


「目と、・・・・手も外せ!!」

「まぁ怖い。そのようなきついお言葉、とてもものを頼む言い方とは思えませぬ。」


一度だけ軽く握られ、扱かれた。今度こそ誤魔化しようのない、濡れた声が迸った。目隠しの下の瞼に涙が
滲むのを感じながら、カカシは懇願した。


「・・・・た、のむ。・・・・入鹿、頼む・・・・ッッ!!」

「・・・・仕方がありませぬ、そこまで仰るのなら・・・・」


今度は手の戒めを解かれた。痺れに呻く間に、その手を取られ自らの滾る陰茎を握らされる。入鹿の唇が耳
元で囁いた。


「このまま御自分でなされませ。入鹿が途中までお手伝い致します故。」

「な・・・・ッ!!・・・・あッ、アアッ、ああああッッ!!!」


強引に上下させられる手の中で、起立した性器の硬度が急激に増す。気がふれるほどに、感じた。溢れ出る
自らの情液で掌は滑り、淫猥な音が鼓膜を突き刺す。だが扱くのを、止められなかった。限界が近い。とうに
手を離した入鹿に見せつける様に腰を突きだし、手の動きを速めた。もう駄目だ。来る。もうそこまで来てい
る。仰け反り顎を突き出し扱き上げる手に一層力を入れた瞬間、目隠しを外された。

黒い瞳が、自慰に耽る自分を静かに見下ろしている。

カカシは悲鳴を上げて、達した。


「よく出来ました」


荒い息で陰茎を握り締めたままの手を解くと、入鹿は微笑んでその指を丁寧に舐めた。十指総てを舐め上げ
ると、次は股間に顔を埋め飛散する白濁した液を舌で拭う。逐情したばかりの性器に走る過ぎた刺激に、カカ
シはまたも大きく呻き少女の黒髪に指を絡めた。今自分は身体の拘束総てを解かれ如何様にも動く事が出
来る。細い正室の首を縊る事さえ可能だ。__しかし出来なかった。その願望すら湧かなかった。口づけられ
入り込んだ入鹿の舌を夢中で追う。えづく様な苦味走る精液の味が、二人の唾液で混じり合い溶けてゆく。
入鹿の口角が上がり、途切れ途切れの吐息で囁いた。


「今まで私を道具扱いした報い・・・・今宵は私の好きにさせて頂きます故、お覚悟なされませ」





小国不知火の国から、入鹿と云う名の姫が輿入れして数ヶ月が過ぎた。
女と呼ぶにはまだ幼い、豊かな黒髪と鼻柱に傷を持つ少女は、しかしその気さくな人柄と旺盛な行動力で
人々の心を魅了し、城内で密かな人望を集め始めていた。しかし今、その明るく聡明であった筈の姫に奇怪
な噂が立っていた。
__あの神出鬼没なまでに活発な御台所様が、ここ最近ずっと部屋に閉じこもっておられる。彼程書物好き
の方が書庫にも現れず、昼日中から寝所を閉め切りそちらに籠もられているらしい。
病かと思われたがそうではない。侍女の桜によれば、身体の何処にも悪い所は無いと云う。ではご懐妊かと
問う声に、桜は再び首を振った。では__ではあの噂は__人々は次に問いたい言葉を呑み込んだ。閉めき
った寝所の中から漏れ聞こえる、切れ切れの喘ぎや啜り泣きとは__そしてその声が、男のものであると云
われる真相は__桜は何も答えない。黙って背を向けるその姿に、誰もが胸に浮かんだ疑問を飲み込んだ。
御台所様の寝所に通われる男と云えば唯一人。其処に足を踏み入れられるのも唯一人。もしや__もしやそ
の声の主とは__



「入鹿」

そんな疑惑の視線の中、カカシは今日も入鹿の元を訪ねていた。だがいつも、慈愛に満ちた笑みで自分を迎
える筈の御台所から、返事が無い。首を傾げもう一度呼びかけたが結果は同じだった。近づきその華奢な身
体を抱き締めようと手を伸ばしたカカシは、いつもと違う入鹿の出で立ちに目を見開いた。夜着どころかきっち
りと襟元を合わせた単衣の上に、小袖まで羽織っている。


「入鹿・・・・?」

「何用でございますか、殿」


むすりと黙り込み、文机に向かったままの背中に動悸がした。


「何とは・・・・勿論入鹿に、会いに来た。」

「それはご足労をお掛けいたしました。・・・・ですがもう、入鹿は金輪際殿とは遊びませぬ」

「──・・・・え、えッ!?」


何故、どうしてと矢継ぎ早に問うカカシに、入鹿は目を細めようやっとその顔を上げた。


「聞けば蝦蟇の国からご立派な御台所様をお迎えになるとのこと、用済みの入鹿には殿のお相手は致しか
ねます。その新しき御台様とお戯れになるがよろしゅうございましょう」

「・・・・・えッ、あ、・・・アッッ!!い、入鹿、その話はだな・・・・」


慌てふためくカカシを、入鹿はきつい眼差しで睨んだ。その目尻に涙が浮いている。


「殿。入鹿はこの城の何でございます。」

「な、何って・・・・勿論、御台所だ。俺の、妻だ。」

「左様で御座りましょう。入鹿もそのつもりで不知火を出て参りました。不知火からもそうして送り出されまし
た。なればこそ、このままおめおめと実家に戻ることなど出来ませぬ。なればこうした方が、本望にございます
る!!」


突然取りだした懐刀を引き抜き、入鹿が自分の首筋に充てる。仰天したカカシは大声で叫んだ。


「待て!!待て待て、待て、入鹿ッ!!早まるなッッ!!」

「待ちませぬ!!生き恥を晒すくらいなら、このままこの国の御台として死にまする!!」

「誤解だ!この国の御台は今までもこれからも、お前一人だ!余所から御台を迎える気など毛頭ない!!」


え、と入鹿が懐刀を置く。カカシは冷や汗を拭い安堵の息を漏らした。


「・・・・では、入鹿の勘違いでございましたか・・・?」

「う、いや、ま、・・・・それらしき話が、あるには有ったんだが・・・・」


途端に入鹿の目線がきつくなる。カカシは慌てて頭を振り、幼い妻に躙り寄った。


「いや、無い!!その話はもう無い!!今決めた、蝦蟇の国との交渉は総て白紙に戻す!!」

「・・・・誠にございますか・・・・?」

「ああ、本当だ。誓って本当だ」

「では私は、この城から出て行かずとも良いのでございますか・・・・?」

「だから誰がそんなことを云った・・・・」

「なれば、その証拠に一筆したためて下さいませ。」

「・・・・・は?」

甲斐甲斐しく筆と硯の用意をする入鹿に唖然としていると、その眼前にサラの書状が広げられた。

「自来也殿に一言お詫びと、停戦のご提案を。其れのみで結構でございます。」

「な・・・・・ッ!!」


余りの強引な展開に一言返そうとしたカカシだったが、打って変わった入鹿の朗らかな笑みに口を噤むしかな
かった。書状の前で暫く唸り、大きく息を吐くと筆を取る。その姿を、息を殺して入鹿が見つめていた。


「・・・・これでいいか」

「結構です、ではこれを」

──・・・・こんなものまで!!


差し出された愛用の落款に内心溜息を吐いた。署名の後に押印し、放り投げる。あからさまに安堵の表情を
浮かべる入鹿を、腹いせに手荒く抱き寄せた。


「その代わり、もう二度とあんな真似はするな」

「はい」

「寿命が三年、いや五年は縮んだぞ」

「はい、・・・・申し訳ありませぬ」

「・・・・で?今日はどうやって遊ぶ?この間みたいに小姓の格好でもするのか?それとも遊女か?」

からかう声に入鹿は項まで朱に染め上げ、夫の胸に身を預けた。目を閉じて小声で呟く。

「今日は・・・・・」

「うん」

「今日は、殿のお好きにして下さいませ」

「う・・・ん・・・?え、えッ!?・・・い、良いのか・・・?」

「はい。私は殿のものに御座いますれば」

「うん・・・・そうだな・・・・」

見上げたカカシの頬も赤く染まっていた。その有り様に気付き、二人同時に笑い声を上げる。一頻り肩を揺ら
すと、二つの唇は互いを求めてゆっくりと重なり合った。

秋の深まりを告げる虫の音が響く。そのあえかな響きに混じり、入鹿の吐く熱い吐息が部屋に満ちた。



するり、と臥所を抜ける影があった。音も無く襖を開け庭に面した廊下に出ると、ひゅい、と低い口笛を吹く。瞬
間月明かりに照らされた庭に、若い忍びが舞い降りた。


『御台様。お呼びにより奈良鹿丸罷り越しました。』

『おお、鹿丸、よう来やった。準備は整うておるか。』

『は、何時にても出立可能に御座います。』

『祝着至極。ではこれを携え、真伊斗と共に直ぐに発て。事は一刻を争う。出来るだけ早く蝦蟇の国の土を踏
む様。』

『はッ』

『よいか鹿丸、これは唯の勅使ではない。そなたが運ぶのは此の国のみならず他国の命運まで握る大切な
書状じゃ。正式な挨拶と詫びは、後ほどきちんと入れる。今は兎にも角にも、殿に戦意の無いことを伝えるの
が重要じゃ。心して掛かれ、真伊斗の実直な人柄は必ずや自来也殿を納得させるとは思うが、万が一と云う
事もある。その為にそなたを付けること、努々忘れるな。』

『は、奈良鹿丸、この命に替えましても。』

『よし、行け!!くれぐれも道中抜かるでないぞ!!』

『はッ!!』

瞬きを一つする間に鹿丸の姿は消えた。虫の音だけが響く、静謐な空気に身を委ねぼんやりと庭を眺める
内、目の前がグラリと揺れた。柱に凭れ額に手を当てると、隣室から押し殺した声が聞こえた。


『御台様・・・・ッッ!!』

『大事ない。桜、立ち騒ぐな。』

『なれど・・・・ッ』

『これ以上は殿のお耳に障る。控えよ、桜。』

『・・・・・・』


ゆっくりと立ち上がり、夫の横たわる臥所に足を向ける。一歩毎に床が揺らいだ。眠る端正な横顔を目にした
途端、全身の力が抜けた。最後の力を振り絞り、白銀の頭を抱き込む。夫はこうされて眠るのが好きだった。
額の生え際に口づけると渦巻く猛烈な睡魔が襲い、抵抗する間もなく、入鹿はそのまま意識を失った。


入鹿が抜け出した時から、カカシはその気配に気付いていた。先刻無理矢理書かされた書状を手に、御庭番
と言葉を交わしている。・・・・あれは、奈良家の長男か。確か鹿丸とか云った筈だ。よりによって一番優秀な
のを手懐けたか。側室と友情を築いたり天井裏に潜んだり、まったく俺は面白い御台様を貰ったもんだよ・・・・


「桜、心配するな。入鹿は疲れているだけだ、今宵の番は俺がする。お前ももう休め。」

『・・・・・・!!』

「お前も入鹿に付き合って疲れているだろう。俺も偶には愛しい御台様と二人きりになりたい。気を利かせると
思って下がっていいよ」

『は・・・・』


薄く口を開けて眠るその頬を撫でた。閨の中ではくるくると表情を変える御台所も、こうして寝顔を眺めれば今
年十五のあどけない少女だ。その少女が蝦蟇の国との戦の噂を聞き付け発奮したか。捨て身の色仕掛けは
確かに効いた。身体を拘束された性行為が彼程の快楽に満ちているとは、予想外だった。だが深くカカシを虜
にしたのは、実は入鹿と語る寝物語だった。

入鹿は訥々と、生い立ちを語った。

流行病であっという間に二親を無くした事、年の離れた兄玄馬がそれからの親代わりとなった事、幼き頃、忍
び頭の遊馬と野山を駆けめぐり過ごした事、一度だけはぐれた山中で野犬に襲われ顔に傷を負ったこと、泣
きに泣いた遊馬の切腹を兄玄馬が厳重に禁じた事、その遊馬を支えた恋人紅のこと__

入鹿の語りは巧みだった。

色彩を持った入鹿の言葉は新緑に燃える山の端を映した。皮膚を裂く獣の爪を見せた。少女を育んだ不知火
の情愛が蘇った。刺激的な享楽を貪った後、その胸に抱かれて聞く入鹿の心音と言葉は、麻薬的にカカシの
心を蕩かした。

──・・・・この小ぶりな脳味噌を、どれ程に働かせたのやら。

忍び笑いを漏らし、黒髪の生え際に口づけた。襦袢一枚の背を撫でる。__確かに、少し痩せたかも知れな
い。明日は何か精の付くものでも食わせてやろう。小柄な体躯を抱き込んで、カカシもそのまま目を閉じる。
入鹿の規則的な脈動を感じながら、ゆっくりと眠りに落ちた。





入鹿は駆けていた。

その黒髪が向かう風に煽られ、美しく靡く。額に浮かぶ汗が日の光に煌めく。城の端まで駆けに駆け、城壁
の石垣に載ると、城下を見下ろし声を張り上げた。


「見やれ!!桜!!」


息も絶え絶えに後を追ってきた桜は、石垣の上で仁王立ちになっている主に悲鳴を上げた。


「御台様ッッ!!お止め下さいッッ!!落ちる、落ちまするッッ!!」

「これしきで何をうち騒ぐ。見やれ!!桜!!ものの見事に稲が刈られておるわ!!」


入鹿の指し示す情景を桜も目に映した。城を取り囲む城下町の向こうに、刈り入れの済んだ田畑が延々と広
がっている。麹塵の地肌が色付き始めた遠方の山々と、鮮やかな対比を成していた。

丸坊主とはこのことよ、そう云って嬉しげに笑う入鹿に、桜の頬も緩んだ。城壁にぶつかり駆け上がる風に身
を任せ、御台様、と呼びかけた。


「此度の件、桜誠に感服致しました。──・・・・御台様は、この国を救われました。」

「なにを戯けたことを申しておる。ご英断を下されたのは殿じゃ。妾は何もしておらぬ。」

「なれど・・・・」

「殿は聡いお方じゃ。妾の猿芝居の理由を分かっていながら、知らぬふりで付きおうて下さった。未だにそれ
を通して下さる。殿は心根の、優しいお方じゃ。」

「・・・・・・」

「桜」

「はい」

「桜はお父上様を存じているか」

「大殿・・・・でございますか。私もまだ幼いころに身罷られました故うっすらとでは御座いますが・・・・国内外
に名を轟かせた美丈夫と聞き及んでおります。加えて人望も厚かったとか・・・・」

「うむ。それほどに徳のあるお方なら、妾も是非にお会いしてみたかった・・・・。したが桜、書庫の蔵書を見れ
ばそのお人柄が良く分かる。お父上様は、お母上様を強く愛されておられた。」


先代が集めたと云う書物はカカシの言葉通り医学書と兵法の書が大半を占めたが、__その医学書には心
の病に関するものが多かった。異国の言葉を書き写した書物もあった。カカシの父は病んだ妻の心を癒そう
と、出来うる限りの手を尽くしたに違いない。美しい錦絵の類も妻を慰める為のものだろう。それが伝わってい
ないのは、父の言葉が足りなかったのか、カカシが過去を見据えていない所為なのか__


「桜。人は誰もたった一人で生まれ成長するわけでは無い。その傍には何時も何某かの情愛が寄り添ってい
る筈なのだ。それを殿が分かってくだされば──」


入鹿はカカシと藤の方の閨を思い浮かべた。心が通い合う前の、自分に対してもそうだった。其れさえ分かれ
ば、カカシが女を小突き回す様に抱くことも、物の様に扱うことも無くなるだろう。

沈思に耽る二人の少女の目に、早駆けから戻る国主と真伊斗の姿が見えた。ポツリポツリと田んぼに立つ案
山子の間の畦道を馬乗し駆ける姿に、二人は声を上げて笑った。

「桜」

入鹿がゆっくりと桜に手を伸ばした。桜もその手を、力強く握り返す。そのままひょいと城壁から降り立った入
鹿は、頭上の木立に向けて問い掛けた。

「鹿丸!!」

『は』

「真伊斗の馬に載っていた獲物は何だった?何ぞ山鳥か!?」

『・・・・おそらく雉のように御座います、御台様』

「では今宵は雉鍋だな。般若湯でも付けて貰おうか」

「み、御台様のお年で御酒はまだお早いかと・・・・」

「何を云うておる、桜。不知火ではようも酒蔵に忍び込んで味見をしたものよ」

「えッ!」

『・・・・・・』

「味噌を舐めながらの生一本程、この世に美味いものはないぞ」

「ええッ!!」

『・・・・・・!』

「さて、そろそろ戻ろう。殿がお渡りになられて部屋が蛻の空では、また一騒ぎじゃ。」


深まりゆく秋の日差しが、大らかに笑う少女達を優しく包む。染まりかけの紅葉の一枝が、風に吹かれて数
枚の葉を地面に散らした。




〈 了 〉





ここまで付き合って下さった皆様、本当にありがとうございました。
長い話で申し訳有りません。皆様の忍耐と努力に感謝致します。
そしてこの物語の中編をatom様に捧げます。共に文字に淫する者
として、友愛と畏敬の念を込めて。



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