まごころを君に 3



『ほーお、この妾が中忍教師の護りとな。面白い冗談じゃのう、シズク。』


アタシは自分の忍猫『黒姫』の前でもう随分長いこと平伏していた。
忍猫といったって黒姫は身の丈2mはあろうかという、堂々たる体躯の持ち主だ。その外見は猫というより最
早、豹やチーターに近い。


「お願いぃ、姫。もう頼れるのはアンタしかいないの、頼むからアタシの言うこときいて」

『ほぉ、暫く会わぬ間にたいそうな口を利くようになったのぉ』

「う・・・っ、も、申し訳ありません・・・」


紅玉のようにギラギラと光る黒姫の赤い瞳に睨め付けられて、アタシは益々体を縮こまらせた。


「で、でもホントに姫に出張ってもらわないと、イルカの貞操が危ないの!アタシがいない間、こんなこと頼め
るの姫しかいないの、お願い!一生のお願い!頼むから!愛してるから!アンタだけだから!!
お願い、姫ぇぇ!!」


すらりと伸びた首にかじりつくと、殊更哀れっぽく泣き声を上げて見せた。天鵞絨のように艶やかな漆黒の躯
からは獣特有の高い体温が伝わってきて、抱きしめているだけでアタシの身体まで暖まる。黒姫は心底呆れ
たように濡れた鼻から荒い息を吐き出すと、アタシを乱暴に振り落とした。


『お主も何故あのような凡忍に執着するかのう。婚期を気にしておるならば、そのうち妾がお主に相応しい男
を見繕ってやろうほどに、そう焦らずともゆるりと待っておれ。』

「えぇっ、姫、そんな娘に見合い話勧める田舎の親父みたいなこと言わないでよ。アタシが言いたいのはそー
いうことじゃなくって・・・」

『なんぞ言うたかの』

「い・・・いえ、スミマセン。なんでもないです・・・」


ギロリと睨み付けられるとそれだけで腰が引けた。
このド迫力。
怒れる黒姫の眼力ときたらそんじょそこらの上忍なんぞケツまくって逃げ出すほどの恐ろしさだ。
__どうする、やっぱりこうなったら正攻法でいくか。もともと小手先だけの言葉が通じる相手じゃない。もう一
度、腹の底から本気出して頼んでみるしかない。

アタシは両膝を揃えて正座すると両手をついて深く頭を下げ、きっちりと土下座した。


「お願いします、姫。これはアタシの人生で最初で最後の恋なんです。頼みますからアタシのいない間、イル
カの身をアイツから守ってやって下さい。」


そっぽを向いて大きく伸びをした黒姫は、鋭い犬歯を剥き出して盛大に欠伸をした。





その頃、イルカを頂点としてアタシとカカシが点対称の位置にある三角形もどきの緊張状態は、ピークに達し
ていた。

お互いがお互いを監視し、牽制しあう日々。アタシがイルカを誘えば耳ざとく聞きつけたカカシが付いてきた
し、アタシだってカカシが抜け駆けしようとするのを全力で阻止した。
勿論カカシだって24時間貼り付いている訳にはいかないし、上忍としての任務も待っている。そこがアタシの
狙い目、と思っていたのだが、アイツは自分の目が届かない間、イルカの周囲に忍犬を配置していきやがっ
た。そして当のイルカは、全くそれを知らない。
如何に上忍のアタシといえど、イルカに知られず忍犬4,5匹を始末するのは相当にキツイ。お陰でアタシは
ご馳走を前にした犬のように、涙ながらのお預けを喰らったのだった。




そんなある日、アタシは三代目から直々に呼び出された。だいぶ消化したとはいえ、未だ有給休暇中だ。一
体何の用かと執務室を訪ねると、好々爺は上機嫌でキセルをふかしていた。


『三代目、鳴滝シズクまかりこしまして御座います』

『おうおう、シズク。久しいの。息災かな。』

『は、お陰様を持ちまして。』

『それは何よりじゃ。聞けば休暇中にもかかわらず、アカデミーで補助教諭をしておるそうな。殊勝な心がけじ
ゃの。』

げ。

何でそれを。

補助教諭ったってイルカ目当てでうろつくアタシを馴染みになった教師達が呼び止めて、生徒の前で術の実
技をせがんでくるってだけの話だ。上忍、子供達の為にもお願いしますと頼まれれば、アタシもそう無下には
断れない。それに、まだ子供の忍猫なんかを口寄せしてやると生徒達がよろこぶよろこぶ。
あっちでウケ、こっちで感謝されてその上イルカも喜んでくれるとなればその気持ちの良さは麻薬的で、アタ
シはすっかりアカデミーに入り浸っていた。

知らず流れてきた冷や汗に我に返ると、アタシは自分を叱咤した。

な、なにビビッてんのよ、別に悪いことしてるワケじゃなし。胸はってりゃいいじゃないの。

しかし流石は木の葉の火影。言葉の端にほんの僅かな緊張感を乗せるだけで、その場の空気が痛いほど張
りつめる。俄に背筋を伸ばしたアタシを三代目は嬉しそうに眺めると、ちょいちょいと手招きした。


『そんな遠くに控えずとも、もそっと側に参れ。大事な話があるでの。』

『はぁ・・・ 』


恐る恐るそばに寄ると周囲を柔らかい風が吹き抜けた。瞬間、アタシの身体は三代目の膝に乗っていた。


『んなっ・・・!なななななんですか三代目っ!!いったいなにをっ・・・!!』


驚きのあまりジタバタと暴れるアタシの腰を、三代目の腕がしっかり掴んでいた。気のせいかその手が限りな
く怪しい動きを始めている。


『うんうん、かわゆいのう、シズク。鳶色の瞳、栗色の髪、薔薇色の頬、こんな美人のくの一は木の葉広しとい
えど、そうはおらぬのう。』


ひーっ!!なに!?アタシ口説かれてるの?もしかして後妻にってこと!?そ、そりゃあ光栄なお話だし、火
影の妻なんて究極の勝ち組だけど・・・・、ダッ、ダメ!それだけはダメ!絶対にダメ!!
だってアタシにはイルカっていう将来を誓い会っ・・・・・えたらいいな、と思ってる大事な人がいるんだもの、い
くら三代目の仰せでも頷くわけにはいかないの!お願い、そこのところ分かって頂戴!火影様!!


『それに何よりこのゴムまりのような乳。これぞまさに村雨好みの躰よのう』


胸に頬ずりする三代目に堪らず悲鳴を上げながら聞き慣れない名前に首を傾げた。
村雨?・・・って誰・・・だっけ?


『お主も聞き及んでおろう、出雲の国の国主、村雨良時じゃ』


あーはいはい、知ってます、あの『バカ殿』ね。
出雲の国はまだ新興の小国でそれほどの国力も無いのに、滅多やたらと好戦的で隣接する国々と小競り合
いを起こしては不興をかっていた。それもこれもみな向こう見ずで野心家の国主、村雨の愚かな性格に因ると
ころが大きいと言われている。


『その村雨をどうにかしてくれと、さる筋からの依頼での。
このままいけば、出雲が自滅するのも間違いなかろう。しかし迷惑被る諸隣国からすれば、そうのんびりと構
えても居られまい。我らも以前から動いておるが、__これがなかなかどうして、隙がない。そこで正面から
の突破は諦め、後宮から攻めることにした。シズク、お主その後宮に潜入して村雨の寝首を掻いてまいれ。』


へー寝首をね・・・って、えぇぇぇぇっ!アタシが?なんでアタシが!?つーかアタシまだ休暇中だし!


『村雨の色好みは耳にしておろうがの、ヤツの女の趣尚は一貫しておるのよ。ボン・キュッ・ボンの切れ長の
目をした明るい髪の色のおなごが大好物なそうな。まさにお主の見目かたちそのものよのう、シズク。』

『さ・・・三代目、たったそれだけの理由で、私を指名されたんですか・・・』


なんとも名状し難い情けなさで呟いた。アタシだって木の葉の忍。そりゃ上からやれと言われたことはやりま
すけどね、バカ殿相手に色仕掛けの潜入暗殺任務、__これは下手しなくても命懸けだ。
にもかかわらず選ばれたその理由の軽さが、アタシのプライドを傷つけた。


『村雨の様な愚かな男はの、人の上に立つ資格など無いのよ。これも世のため人のため、激務続きは不憫じ
ゃが、老い先短い年寄りの願い、聞いて貰えぬかの。』


まーたそうやって下手に出て、人の罪悪感を煽るのが上手いんだ、このじーさんは。もとよりアタシが火影
直々の任務依頼を断れるわけがない。


『わ・・・わかりました、三代目。鳴滝シズク、謹んでお受けいたします。』

『そうか、そうか、宜しく頼むぞ。暗部も三人つけよう。先方にはすでに手引きの者も潜入しておる。後はお主
が寝所に潜り込むだけじゃ。なに、お主の実力を持ってすれば容易いはずじゃ』


パンと尻を叩かれた。打って変わって晴れ晴れとした三代目の笑顔に見送られ、まんまとしてやられたアタシ
はフラフラと執務室を後にした。・・・・なーにがボン・キュッ・ボンだ、チクショーめ!

いままでイルカにかまけて忘れがちだったがアタシは上忍、慢性人手不足の里がそうそう使える人材を遊ば
せておくわけがない。

それにしても、カカシとこんな一触即発状態の時にまったく。

出雲の国といえば往復するだけで4、5日。任務自体にかかる日数を考えたら一体いつ帰れるのかさえ見当
も付かない。運の悪さを呪いながらも、アタシはこの時もう既に、後を任せられるのは自分の忍猫『黒姫』しか
いないと心に決めていた。







土下座し続けるアタシを一瞥すると、黒姫は如何にも興味なさそうに前足を舐めて毛繕いを始めた。
長く赤い舌が舐め上げる丸い指先からは戦闘時30センチもの鉤爪が伸び、標的を瞬時に切り裂く。その圧
倒的戦闘能力と妖しくも美しい異形の姿は、アタシが「化け猫使い」と呼ばれる所以だった。


『して、その中忍に張り付いている忍犬達の遣い手は誰じゃ』

「えっ?あっ!カカシです!!はたけカカシ。写輪眼の。姫も知ってるでしょ」


アタシはガバと身を起こすと黒姫ににじり寄った。


『ふうん、はたけカカシとな。』


黒姫は少し考え込むように虚空に視線を彷徨わせた。


『ではその忍犬共の中に、眼鏡を付けた小柄な者がおろうの』


あーあーあー、いたいた。犬のくせにグラサンかけてるヤツ。


「なに?姫の知り合い?なんかワケありなの?」

『あ奴はイスルギ家の三男坊じゃ。あんな小わっぱとはなんの関わりもないが、イスルギの家とは少々因縁
があるのよ。ふうん、はたけカカシとな。なれば相手にとって不足なし。シズク、今回に限りお主の願い聞き届
けてやっても良いぞ。』

「えぇぇぇっ!ホ・・・、ホントっ!?ありがとう、ありがとうございます姫っ!!ああああいしてるうぅっ!!」


アタシはしなやかな鋼のような漆黒の躰を抱きしめると、その顔に派手に口付けを落とした。


『その代わり二度目はないぞ!それにいざとなれば妾の好きにさせてもらおうぞ、よいな!?』


はいはい、わかってます、わかってます。後のことはともかく、アタシにとってこの急場を凌ぐ事が何より大
事。感謝の気持ちを込めて優しく黒姫の耳の後ろを掻いてやると、ピンと張った長いヒゲが震え、喉の奥から
転がるような唸り声が響いてくる。何のかんの言ってやっぱり猫、こうされると気持ち良いらしい。
アタシはこのツンと澄ました女王様に惚れて惚れて惚れ抜いていた。
力あるあやかしの動物達と契約を結ぶには、遣い手にも互角かあるいはそれ以上のの力量が要求される。
アタシはこの黒姫と契約を結ぶ為、文字通り血の滲む様な努力をした。おかげでなんとか合格ラインぎりぎり
で遣い手になれたアタシと黒姫の主従関係は、未だに逆転したままだ。


__とにもかくにも黒姫の協力を取り付けたアタシは、あわただしく出雲の国に出立した。








勿論、任務は成功した。

持てる性的魅力を全開にして投げ出したアタシという疑似餌にバカ殿村雨は難なく食い付き、アタシはきっち
りその首を切り落とした。

だが里を出発して10日、ついてきた暗部も吃驚の超スピードで任務を完了させ、後は三代目に直接報告を
済ませるばかりだというのに__アタシの精神状態は地を這っていた。

内腿をまさぐる手、胸元を這い回る舌、首筋にかかる生臭い息。どんなに身体を清めても、村雨が触れた汚
れた痕跡がそこかしこに残っている気がした。欲にまみれた荒い息。興奮に血走った眼。かつてそれとそっく
り同じものを持つ男を、アタシは知っていた。

久しぶりに踏んだ里の土もフワフワと現実感がなく頼りない。アタシは無意識にイルカの姿を捜し求め、足は
独りでに受付所に向かっていた。こんな深夜にイルカがいるとは限らない。それでもアタシは少しでもイルカに
繋がるものに触れたかった。

動悸が激しい。軋む扉を開け、明るく静まり返った室内足を踏み入れて、__アタシは神に感謝した。

机の向こうに、イルカが座っていた。




再会の喜びに大きく見開いたイルカの目は、尋常でないアタシの様子に、俄に掻き曇った。


「──・・・・シズク?どうした、顔色が悪いぞ?・・・・どこかケガでもしてるのか!?」


問われても、黙って首を振ることしか出来ない。

剥き出しの黄色い歯、翻るクナイ、切り裂かれる皮膚、反転する眼球、吹き上がる血飛沫。
記憶に固定された映像が、壊れたビデオのように脳内で繰り返しフラッシュバックし続ける。

イルカは身体まで震えだしたアタシを抱え込むと、誰もいないソファーに座らせた。白熱灯の照らす物音一つ
しない室内で、速度の違うアタシ達の呼吸音だけが静かに響く。
アタシはイルカのベストに顔を埋めて、ただひたすらこの激情が鎮まるのを待っていた。
滾る感情を制御出来なければ一人前の忍とは言えない、そんなことは重々分かっていた。けれどキツイ、汚
い、鬼畜なこの稼業。今更嘆いてみてもどうにも変わらない現実に、時折こうして精神が悲鳴を上げた。


「泣いてもいいんだよ、シズク」


イルカの手が宥める様に、アタシの身体をさすり続ける。


「泣きたかったら、泣いたらいいんだよ、この前みたいにさ。上忍だって忍だって人間だ。辛いとき、悲しい時
は弱音を吐いて大声で泣いたらいいんだよ。それでスッキリしたら、心も軽くなってまた前に進めるだろ?
溜め込むのが一番良くないよ。オレでよかったら何時でも付き合うし、頼ってくれよ。オレ達長い付き合いなん
だ、遠慮なんかする間柄じゃないだろ?」


そろそろと上目遣いに見上げると、イルカはにっこり微笑んだ。


「子供の頃、お前『泣き虫シズク』って呼ばれてたの覚えてるだろ?お前はそれくらいよく泣いてたよ。
だけどいつからかお前は我慢ばかりするようになった。いっつも何か我慢している。耐えている。
お前が平気な顔をしていても、オレにはよく分かるんだ、__なんとなく。
だから偶には好き勝手したらいいんだよ。もっと自分の気持ちに素直になって、言いたい事を言ったら良いん
だ、遠慮しないでさ。それがお前にとっても、周囲の人間にとっても、もちろんオレもだけど__一番幸せなこ
となんだ。」

イルカの言葉に瞠目した。まるで自分の気持ちを察しているかのような言外の含みに、アタシの心は激しく揺
れた。
そうなのだろうか。いいのだろうか、__こんなアタシが、イルカの手を取っても。
あれほど切望した現実が、今目の前横たわっている。それなのにアタシはこの身に余る幸福の前でみっとも
なく躊躇し、尻込みしていた。

イルカはそんなアタシの心を引き寄せるように、しっかりと肩を抱いた。

胸元に落ちる微かな音に気付けば、それは自分の涙だった。胸に渦巻く暖かな血潮が全身に拡がり、細胞
のひとつひとつを満たしてゆく。

アタシは生まれて初めて、幸福に酔って泣いた。

頬を滑り続ける涙を、イルカは何度も優しく指で拭う。イルカの柔らかな吐息が額を擽り、見上げるアタシと見
下ろすイルカの視線が絡み合った。


キスして欲しい。


アタシは明確な意志を無言で告げると、イルカに向かってゆっくりと目を閉じた、

__その瞬間。



「おぉっ鳴滝君、こんなところに!いや、よかったよかった!!火影様が至急お呼びですけど!?」



わざとらしく派手に開いた扉の向こうに、銀髪の男。

棒読みのセリフが、白々しくアタシ達を引き離す。



はたけカカシ、__いつかアンタを、絶対コロス。





アタシの我慢も、そろそろ限界点に達しようとしていた。






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