まごごろを君に 4



結局イルカと決定的な言葉を交わすことは出来ず、あの夜以来、お互いの気持ちを確認することもままならな
い。__中途半端に触れ合った頬が、胸が、肩が、イルカを求めて激しく疼く。

イルカが、欲しい。

アタシは酸欠で藻掻く魚のようにイルカを求めて喘いでいた。それなのに出来損ないのスリーマンセルのよう
に三人一緒に絡み合う日々。

その息苦しさに耐えかね、張り巡らされた緊張の糸を切ったのはアタシだった。




「でもねぇ、イルカ。一緒になるなら絶対一途なタイプよ。
だいたいそれまでさんざっぱら遊び倒してたヤツが突然『愛』なんてほざいた所で説得力ある?
口先だけなら何とでも言えるけどねー、人の性根ってそう簡単には変わらないもんよ。」

「鳴滝君、君のその意見は将来的な可能性ってものをハナから否定してるよねぇ。そんな老成した考え方しな
いでさ、もうちょっと女は女らしく、柔軟な姿勢で生きた方が可愛げが出るってもんじゃないのかなー」


酒場で酔った挙げ句のヨタ話。カカシと交わす言葉に刺と当て擦りが混じっているのはいつものこと。だが今
夜のアタシ達はいつもより執拗に絡んだ。


「あぁら御免なさい、カカシ。アタシ綺麗だとはよく言われるんだけど、可愛いって滅多に言われないのよね
ぇ、残念だわぁ。それにアタシが言いたいのはそんな難しいことじゃないの、品性ってものを問題にしてるだ
け。__金と権力にあかせて美食三昧、そんなキリギリスの末路はどうなったのでしょーか?カカシィ、『アリ
とキリギリス』よーく読み返してみるのねぇ、結構身につまされたりしてねー?」

「へぇーじゃあさ、オレの知り合いのくの一で『童貞切り』って異名を持つ女がいるんだけどさ、そいつはどーな
るんだろうね?聞くところによると、新人ばっかりもう30人は喰ったって話なんだよねぇ。
君の価値観からしたら、それこそとんでもないんじゃないの?」


人の悪い笑みを浮かべるカカシに、内心冷や汗をかいた。それは遠方の任務先や戦場での話。
当事者には出来る限り口止めしていたし、内勤のイルカの耳に入ることは無いと思っていたのに__カカシが
知っている!?・・・いずれにせよここでその話を持ち出されるのは、非常に面倒だ。

「まぁ真面目なイルカ先生がそんなあばずれを相手にする訳ないと思いますけどね、気を付けた方がいいです
よー、くの一には色んなのがいますからねー。」

あばずれ。
半信半疑の表情で頷くイルカの横で、アタシはカカシの放った言葉にザックリと貫かれた。グラスを握り締め
る手が微かに震え、色を失って白くなる。

__アタシが『童貞切り』などと有り難くない異名を拝命したのには、実は、深い訳があった。



知っての通り、くの一には破瓜の儀式がある。
一人前の忍を目指す思春期のくの一達には避けて通れない道だ。その儀式を施すのは大概上忍師かベテラ
ンのアカデミー教師だが、アタシはそれを14歳の時に受けた。
__アタシは運が悪かった。相手となった中年の上忍師は、アタシの何を気に入ったのか、儀式を終えたそ
の後二年間、アタシを玩具にし続けた。嬲られ、弄ばれ続ける間、その事実を親にも、教師にも勿論イルカに
も、周囲の誰にも言えなかった。相手は上忍だ。ただでさえ子供が大人に恫喝されれば、それだけで竦み上
がる。それを良いことに、その男はアタシを性の暴力で蹂躙し続けた。

そして最も抵抗力を奪ったのが、倒錯的な罪悪感だった。

男はアタシの未成熟な身体にあらゆる淫技を刻みつけた。
まだ少女だったアタシはその男を殺したいほど憎悪しながらも、施される淫楽に身体が勝手に反応してしまう
事に、男の共犯者となったような錯覚を抱かされた。
性的虐待の被害者には、一遍の責任もない。
だが身体が心を裏切って生理的反応を返すことに、幼いアタシは男に合意したような後ろめたさを感じてい
た。

お前は何も悪くない。お前には何の落ち度もない。悪いのは総てあの男だ。そう言って包み込み、そこから連
れ出してくれる大人がいたら、アタシはどんなに救われただろう。けれどそれは虚しい幻想だった。
誰一人アタシの悲鳴に気付くことはなく、その淫虐な地獄は男が素行不良で里から追放されるまで続いた。

同じ様な悪行をあちらこちらで繰り返していた男は、追放される際、忍としての能力をすべて剥奪され、記憶さ
えも消されて放り出されたらしい。
おそらく今、アイツが生きている可能性は殆ど無いだろう。

それでも、あの時アタシの心を深く抉った恐怖が、怒りが、苦痛が、悲しみが、この先一生消える事はない。
今でも普段記憶の底に眠っている痛みが、何かの拍子に浮上してはアタシを苦しめる。
任務を終えた後、時折情緒不安定になるのもその所為だ。

だからアタシは任務先や戦場で、質の悪い上忍共の性の餌食に成りかけた中忍や下忍を見ると、どうしても
黙っていられなかった。

お互い同意の上だというなら話は別だ。だが今まさに無体を強いられようという性的弱者を目の前にして、黙
っていろと言われても無理な話だ。
アタシはそんな場面に出くわすと出来るだけ介入した。揉めに揉めて刃物沙汰になったことさえある。
余計な事をしているという自覚はあったし、悪しき風習が一朝一夕に消えて無くなるとは思っていない。
それでも夜伽を免れて心底安堵する年若い忍達を見ると、アタシはどうしても信念を曲げる気にはなれなかっ
た。

一方、保護した少年達に、抱いてくれとせがまれたことが間々あったのも事実だ。
そりゃあ誰だって男に突っ込まれるよりは、女とするほうが良いに決まってる。窮地を脱した安心感が性的刺
激にもなるのだろう。
アタシだって心許した相手と一つの感覚を共有して、共に快楽の高みを目指す行為は嫌いじゃない。幸いな
ことにあんな目にあったにも拘わらず、アタシの中にセックスに対する拒絶反応は残らなかった。

だからどうしてもと言う人間に限り、その場限りという条件付きで至極丁寧に優しく抱いた。そのなかに、性行
為が初めてだという少年が何人かいたのも本当だ。

けれどそれはイルカに対する思慕とは全く違う次元の行為で、アタシに躊躇いは無かった。

アタシの願いはただ一つ。これ以上性暴力の前で泣く人間を増やしたくない。ただそれだけだ。


それをカカシは『あばずれ』と切って捨てた。


いや、確かにそれはそうだろう。何も知らない人間からすれば、アタシのしていることは他人の獲物を横取りし
てまでも自分を満たそうとする「色狂い」の行動そのものだ。
カカシは多分、どこかでそれを聞き齧ったに違いない。


だが、その日のカカシの見下した視線は、投げつけた言葉は、鋭利な刃物の様にアタシの心に傷をつけ、同
時に自分の善意がこれ程までに曲解されている事実が、巨大な虚無感となってアタシを包んだ。


唐突に、本当に唐突に総ての事が色褪せて見えた。
イルカを傷つけたくない、カカシに弱みを見せたくない。唯それだけの為に自分を押し殺してきたことが酷くバ
カバカしく思えた。__もういい。もうどうでもいい。
とにかくこのくだらないゲームを終わらせよう。多少みっともない姿を晒したところで、アタシという人間は変わ
らない。どうせいつかどこかでケリをつけるのだ、それなら幕引きはアタシの手で。これからいますぐに。


黙り込んだアタシの異変に先に気付いたのはイルカだった。何度も名を呼び気遣う態度に、カカシもようやっと
訝しげな視線を投げて寄越した。
できるだけ自然に微笑んで、イルカに告げた。

「ごめんね、イルカ。これからカカシにちょっと話があるの。二人きりにしてくれる?」





人気のない公園で、アタシはカカシと対峙していた。以前も同じこの場所で、カカシと向かい合ったことがあ
る。けれど何故かそれは酷く遠い昔の事の様に思えた。

カカシは微かな苛立ちを顕わに、腕組みをして立っていた。里では珍しい銀の髪が月光を受けて凍えるような
白に輝いている。アタシは何の衒いもなく、その美しさに感じ入った。


「クナイを抜きな、カカシ。バカバカしい仲良しごっこは今日で終わりよ。スッパリ力で決着つけようじゃない
の。」

「はぁ!?」

興味半分、侮蔑半分の声音でアタシを見た。

「里内での私闘は厳禁だけど、要は殺らなきゃいいのよ、殺らなきゃ。バレたってせいぜい謹慎程度でしょ、
お互い口噤んでいりゃあ、絶対知られっこないわ。__口寄せ、術の使用は禁止。クナイ一本で勝負をつけよ
うじゃないの。」

「ははぁ、さっきオレが言ったことがそんなに気に入らない訳だ。だけど撤回する気はないね。あばずれをあば
ずれって呼んで何が悪い。お前のやってることはそういう事だよ。」

「色魔にあばずれって言われるようじゃ、アタシももうお終いね。臍で茶が沸くってこーいうことだわ」

「何ィ!?」

「あのことについては何も言い訳しないわ。でもそこまで言われたならアタシも相応のことを言わせてもらう。
カカシ、アンタじゃイルカを幸せにできないわ。アンタ、イルカの子供を産める?」

「・・・・・」

「最初に三人で飲んだ日の事覚えてる?あの時イルカは大分アタシを持ち上げたけど、イルカだって強いの
よ、いつ上忍になってもおかしくない位にね。それはアンタも知ってるでしょ?だけどイルカは昇進試験も受け
ずに内勤に甘んじている。その理由がわかる?__うみのの血よ。
イルカにはもう肉親も、親族さえ誰一人残っていない。自分が子を成さなければうみのの血は絶えてしまう。
だから絶対に死ねない。責任感の強いイルカに、その責務を放り出せといっても無理な話よ。
アンタがイルカを手に入れるってことはそのイルカの気持ちを踏みにじるってことなのよ?アンタ一度でもその
辺のこと真面目に考えたことある?
自分本位の好意を押しつけてるだけなら、それは愛って言わないわね。ただのエゴよ。」


カカシの気が瞬時に膨れ上がり圧倒的密度でアタシを取り巻く。指一本触れていないというのにギリギリと身
体を締め上げる圧迫感は、並の中忍や下忍なら即座に失神モノだろう。


「毎度毎度お前の言うことはくだらないのを通り越して滑稽だね。エゴ?あの人を自分に都合良く解釈してる
のはお前だろ?血を残すことが何だ?俺達は遺伝子の奴隷か?ガキ作んなきゃ法にひっかかんのか?
言っとくがオレだって肉親の一人もいやしない。だけどそれを苦にしたことすらないね。オレは自分の生きたい
ように生きる。ヤりたいようにヤる。他人から指図を受ける謂われはないよ。」

「あぁら、ご高説ブチ上げてる所悪いんだけど、アンタの人生論に付き合う気は毛頭無いわ。何の役にも立ち
ゃしないし、時間の無駄よ。さっ、クナイを抜きな、カカシ。__もしこの勝負で負けたら、アタシは二度とイル
カの前には現れない。だからアンタもその足の間に立派なモノぶら下げてるなら、負けたときは潔く身を引くの
ね。それが男ってもんでしょ、違う?」

「お前『僭越』って言葉知ってる?謹んで進呈するよ。」

「その言葉そっくりアンタに返すわ。__さぁ、一曲踊ろうじゃないの?とびきりゴキゲンなヤツを。」


アタシ達は殆ど同時にクナイを構えた。指先に血流が集中し毛細血管が拡張する。自分の規則正しい心音
が体内で大きく響き、周囲は静寂に包まれる。
__カカシのチャクラが、秒速で練られていくのが分かる。煽られた空気が低周波でビリビリと震え、細かな
振動は地面まで揺らした。

来る。本気で来る。

アタシはクナイを逆手に持ち替えきつく握り、大上段に振り翳しながらカカシに向かって瞬歩を踏み出そうとし
た、その瞬間。


「──何をしているっ!!」


大喝する声に振り向くと、そこにイルカが立っていた。





「一体、どういうことですか!!」

アタシとカカシは、イルカの前で共に頭を垂れていた。いえ、お互い殺るつもりでしたとは流石に言えず、アタ
シ達は気まずく目を逸らした。

「カカシさん!」

「は、はい!何でしょう、イルカ先生。」

叱られた犬の様にカカシがビクビクとイルカを見た。

「オレは確かにシズクをお願いしますと言いましたが、こんな意味で申し上げた訳ではありません!一体何な
んですか、こんな尋常でない気を張り巡らして!!殺し合いでもするつもりですか、ふざけるにも程がありま
す!」

ええ、まさにそのつもりでしたと言えば二度と口をきいて貰えないのは必至だ。カカシはしどろもどろの言い訳
が続かず、縋るような視線をアタシに向けた。

「い・・・いやあの、えーと、これは一種の鍛錬というか、何というか、・・・・ねぇ、鳴滝くん?」

「あ・・・っ、そうそう、そうね、あの、よくガイとカカシがやってるじゃない、ちょっとした手合わせというか、何と
いうか・・・べ、別にケンカしてた訳じゃないのよ、だから心配しないで、イルカ。」

イルカは疑わしそうに眉を顰めるとアタシとカカシを交互に見比べた。

「・・・本当ですか?」

同時に激しく頷くアタシ達にイルカは溜息を吐いた。

「近くまで来たらもの凄い殺気が渦巻いてるじゃないですか、よくよく見れば二人が睨みあってるし・・・驚きま
したよ。幸い誰もいなかったから良いものの、__一般人でも通りかかったら卒倒してましたよ?」

「「す、すみません・・・」」

「シズク。」

イルカは向き直るとアタシの頭にポンと手を乗せた。カカシの表情が僅かに硬くなる。フッ、妬いてんだ、そー
だ、そーなんだ、ザマアみろ、カカシ。アタシとイルカの間には、深くて長い歴史がある。だてに幼い時から一
緒にいたわけじゃない。アンタ、イルカとこんな風に触れ合える?言っとくけどね、時間ってのはお金じゃ買え
ないものなのよ。

「お前、どうせカカシさんを怒らせるようなことを言ったんだろう。」

カカシの肩が揺れて喉が鳴る。言葉に詰まったアタシをさも面白そうに見下す目つきは、古い童話に出てくる
チェシャ猫そっくりだ。

「オレ、前にも言っただろう、自分の気持ちにもっと素直になれって。ただでさえお前は自己表現が下手なん
だ、ねじ曲げて押し殺してばかりいたら、いいかげん元の形に戻らなくなるぞ。」

──えぇっ?アタシとしては限りなく自己に忠実に行動したお陰で今この現実があるんですが・・・。

「カカシさん、申し訳ありません。シズクが何か失礼な事を申し上げたのなら、オレが代わってお詫びします。
もう二度とこんなことの無い様に言い聞かせますから、今日のところは許して遣って貰えますか?」

カカシは鷹揚に手を振ってみせると嫌みなほどの余裕の笑みで、頭を下げるイルカに答えた。

「いえいえ、それには及びませんよ。オレもつい乗せられちゃって、大人げありませんでした。気になんかして
ませんから、安心して下さいよ。それより、イルカ先生何でこんな所にいるんですか?もうとっくに帰られたか
と思ってましたよ。」

さり気なく当て擦るカカシの態度はかなりムカついたが、話の流れを変えたいアタシはカカシの言葉尻に乗っ
た。

「そうそう、どうしたの?こっちはイルカの家とは反対方向じゃない、なにかあった?」

「い・・いや、違うんだ、二人の様子が気になってたのもあるんだけど・・・実はさっき、言えなかった事が一つ
あって・・・それを聞いて貰おうと思って引き返してきたんだけど・・・」

今までとはうってかわって逡巡するイルカの態度に、アタシとカカシは顔を見合わせた。

「・・・・い、いや、いいんだ!また次の機会にでもきちんと話すよ、こんな所で立ち話もなんだし・・・」

「なに?そんな奥歯にモノが挟まった様な言い方、イルカらしくないじゃない!言いたいことがあるなら言って
よ、気になるわ。」

「そうですよ、このまま引かれたらなんだか気になって眠れませんよ、言って下さい!」

「いや、でも、やっぱり・・・」

何故かイヤな予感がする。
鼻の傷を掻きながら俯いて躊躇うイルカに、さっきまで命懸けの諍いをしていたことも忘れアタシ達は同時に
詰め寄った。

「「いってよ!!」」

「は、はい!」

剣幕に圧されたイルカは慌てたように背筋を伸ばすと、顎を上げてやがて真剣な表情で向き直った。


「カカシさん。シズク。実はオレ、来月結婚します。」


アタシとカカシは、文字通り石化した。






晴れ渡る青空の下、イルカは沢山の生徒達に囲まれていた。生徒だけじゃない。大勢の元教え子、アカデミ
ーの教職員、中忍仲間、それに上忍達までも。
そこにいる誰もがイルカを心から祝福し、冷やかし、その幸運を羨んだ。

イルカは普段の忍服でなく、伝統的な忍び装束を着ていた。黒に近い濃紺の紬で仕立てられたそれは、イル
カの精悍な顔付きに実によく映えた。
アタシもイルカの生家に足を踏み入れるのは随分と久しぶりだ。奥では宴の準備に余念のない人々が忙しく
立ち働き、庭はイルカをとり囲む子供や大人達の喧噪に満ちて、まるで祭りのような賑やかさだった。

はしゃぎ回る子供達がひときわ大きな歓声を上げ、指さした方角をみると、白無垢に身を包んだ花嫁が馬に
揺られていた。今では滅多にお目にかかれない古式ゆかしい花嫁行列に、人々から感嘆の声が上がる。
やがて行列が到着すると待ち受けていた人々の群れと混じり合い、辺りは身動きできないほどの混雑となっ
た。それを見たイルカは器用に人の合間を縫い行列に近づくと、馬上の花嫁に手を差し延べた。辺りが一瞬
静まり返り、イルカが花嫁の身体を支えて抱き下ろすと、再び爆発的な歓声が沸き上がる。

花嫁の手を取ったイルカは、皆に囲まれながらゆっくりと母屋に向かった。人々は口々に新郎新婦の美しさを
たたえながら、これから始まる華々しい披露宴への期待に胸を膨らませていた。

イルカの背が屋内に消えるのを見届けると、アタシは静かに踵を返した。







おじさん、おばさん。イルカがとうとう嫁さんを貰いましたよ。医療班出身の、評判の可愛い子です。

アタシは慰霊碑を見つめながら、もう随分記憶もあやしくなってきた、イルカの両親の面影を反芻していた。
いつもトロンとした締まりのない笑顔を貼りつけていた父親と、キツイ目元をして歯に衣きせぬ物言いをした母
親。どちらかといえばイルカは、風貌は母親の、性格は父親のものを受け継いでいると思う。
__もし彼らが生きていたら、今日のこの日をどれほど喜んだことだろう。


「なーんだ、泣きっ面を拝めるかと思ったのに、無駄足か。」

この数ヶ月ですっかり馴染んだ気配が後ろに立っていた。

「誰が泣くって、コラ。アンタこそヤケになってイルカを犯るんじゃないかと心配してたけど、杞憂だったみたい
ね。」

「・・・人を何だと思ってんだか、まったく。オレもそこまで鬼畜じゃないっての。あの人がそれでいいってんなら
仕方がないだろ、オレだって手の出しようがないよ。」

「へぇー、なんとまぁ、殊勝なお言葉。アンタほんとにカカシ?明日は雪だねこりゃ。」

「・・・・いっぺん死ね。」

あさっての方向を向くアタシ達の間を、風が吹き抜ける。高く昇った日が、慰霊碑に短い影を投げかけてい
た。。

「・・・・この間任務で若い中忍と一緒になったんだけど」

カブラギってハタチそこそこの奴だ、知ってるか?カカシは初めてアタシを見据えて言った。

「・・・さあ・・・憶えてないな」

「お前と一度長期任務で一緒になったんだと。ソイツが涙目で言うことには、別の上忍に喰われそうになった
とこをお前に助けられたって話でさ。今や外回りの中忍の間じゃ、お前の噂で持ちきりだとさ。」

「・・・ふーん・・・」

「ま、お前が何のつもりでそんなことしてるのか知らないが、オレが聞いてたのとは大分話が違うようだな。
まぁ、知らなかったとはいえ・・・この前は言い過ぎたよ。」

「・・・・」

一応謝ってるつもりなんだろうけど、それって『礼を言うぞ』とかいって『アリガトウ』って言わない侍と一緒じゃ
ないの。弄んでいた草を吹き飛ばすと、アタシは下からカカシを睨め付けた。

「カカシ、それでフォローしたつもりなら甘いんじゃないの?アンタ黒姫に『猫股』っていったでしょ。彼女もうカ
ンカンよ、アンタを殺るって爪研いでたんだから。」

「ゲッ、マジ!?」

舞い上がった木の葉と共にカカシの姿が突然消えた。珍しく慌てふためく様子が可笑しくてならなかった。
黒姫が怒っていたのは本当だ。実は彼女は齢100歳を越える老猫で、プライドの高さ故にそれをからかわれ
るのを一番嫌う。こみ上げる笑いに身を任せ、アタシは暫く喉を震わせていた。

風がカサカサと音を立てて、カカシが散らした木の葉を運んだ。アタシはそれを一枚手に取ると、高く日に翳し
ながら、イルカが結婚を宣言してからのこの半月、ずっと考え続けていたことを再び反芻し始めた。




あの夜聞いた言葉が単なるイルカの冗談ではなく、厳正なる事実だと知ったとき、衝撃を受けなかったと言っ
たら嘘になる。いや、事実アタシはフラフラと帰った部屋で一人号泣したし、暫く食事も喉を通らずに周囲を心
配させた。しかしアタシは、胸の内にもっと根本的な疑問を抱いていた。

だっておかしい。どう考えても奇妙だった。

アタシ達三人が頻繁に連んでいた数ヶ月の間、イルカの口からそんな存在がいることなど一度も聞いたこと
がなかったし、それらしい影もなかった。

それなのに、この結婚話はまるでアタシとカカシに対する騙し討ちのように決まった。

__おかしい。絶対におかしかった。

なによりカカシはイルカに対してあからさまな好意を隠そうともしなかったし、イルカもそれを拒絶しなかった。
もし仮にイルカがそれを苦痛だというなら、恋人がいるという事実をつきつけて、つきあいを断れば良いだけの
話だ。それなのにイルカは出来る限りアタシとカカシの誘いに乗ってきたし、時間を割いていた。


アタシは既に、一つの結論に辿り着いていた。


__イルカは、カカシを愛していたのではないか。

そしてアタシの気持ちを、大きく誤解していたのではないか。


そう考えれば、すべてのことに合点がいった。


もしイルカが自分の気持ちに気付いていたとしても、それはかなりの逡巡を伴っていただろう。イルカは自他
共に認める常識人だし、教師という人一倍自制を求められる立場にある。
社会的に見ても非常に特殊な形の男同士の恋愛は、カカシには躊躇いが無かったとしても、イルカには相当
の覚悟がいることだったに違いない。

そこにアタシが帰ってきた。

思えばアタシとカカシは会えばドツキ漫才のようなケンカを繰り返していたし、牽制しあっていた為共に行動す
ることも多かった。

そんなアタシの姿を見て、イルカはおそらく__アタシの気持ちが自分にでなく、カカシに向いているとカン違
いしたのだ。自分に素直になれだの、言いたい事を言えだのと説教じみた言葉は、カカシに告白しろと示唆し
ていたのだ。そして自分とカカシが不毛で非生産的な関係に陥るくらいならアタシと結ばれて欲しいと、勝手
に決めつけ身を引いてしまった。
この結婚話を取り持ったのは三代目だという話だから、多分あのジイさんも事の次第を知っているのだろう。



アタシは両手で顔を覆うとこみ上げてくる嗚咽を必死に堪えた。

こんな晴れの目出度い日に涙を流すことはしたくなかった。でも。


バカイルカ。


暖かくて、優しくて、お人好しで、いつも他人の事ばかり気にして、自分のことは後回し。

アタシはそんなアンタが好きだった。アンタの幸せだけを願っていた。そして自分こそが、アンタを幸せに出来
ると思っていた。

けれどどこかでボタンを掛け違ったアタシ達は背中合わせのまま、全く逆の方向を見ていた。


イルカ。アンタにとって、__アタシの存在って、一体何だったのかな。


アンタを想うアタシの心が、アンタの進む道をねじ曲げてしまったのだろうか。
愛する人に愛されたい、唯それだけの、人として当然の希求を取り上げてしまったのだろうか。


ごめんね、イルカ。それでもアタシは、信じたい。
アンタがどんな思いで下した決断であれ、それが最善のものであることを。

だって確かに、白無垢の花嫁を胸に抱いたアンタの瞳は、静かな幸福に満ちていたから。

指の間から次々に零れ落ちる涙の雫が、アタシの膝を冷たく濡らした。



季節は、もう秋になろうとしていた。









雨が降っていた。叩きつけるような雨だ。

アタシは荒い息を吐きながら、狭い洞窟で傷の手当をしていた。
右腕の肘から下にかけて、深い裂傷を負っていた。その他細かい切り傷、擦り傷なら数え切れない程沢山。
破傷風を防ぐための抗生剤と増血剤を口に放り込むと、それを水なしで飲み下す。


任務の内容はある巻物の『奪還』だった。
岩の国の地下組織が密かに開発し、大量殺人を可能にする術が封印された、非常に危険な巻物。アタシ達
はその奪還に暗部と上忍数名の合同チームで望んでいた。

『このトシで暗部服かよ、こっぱずかしー』

犬の面を付けた男の声に、辺りから一斉に笑い声が上がる。冷やかしと賛同の声。愚痴りあい、軽口を叩き
つつ和やかに里を出立したその状況は、今や見る影もなく一変していた。


巻物を奪うことには成功した。しかし退却中に、あれほど多くの敵忍に遭遇するとは全くの予想外だった。
共に敵地に潜入した仲間達は気が付けば散り散りに別れ、その安否すら分からなかった。


__あぁ、イルカに会いたいな。


アタシは未だに未練たらしく、暖かな光のような笑顔を胸に描いては、きつく抱きしめていた。
だってお互いどんな場所に立っていても、アタシはアタシ、イルカはイルカ。
こうして密かに想い続けることぐらい、許してくれるよね、イルカ。

包帯を巻き終えると大きな溜息をついて、岩壁に身をもたせ掛けた。疲労と貧血から来る眩暈が、深く身体に
くい込んでいる。仮眠を取りたい。眠りたい。アタシは軽く目を閉じると、鼻腔を擽る芳香に酔った。

「アタシにも一本頂戴、カカシ」

「残念、これが最後。」

カカシは長い指の間で短くなった煙草を弾くと、いかにも美味しそうに吸ってみせた。

「ケチ、ケチん坊、しみったれ」

「そりゃどーも」


敵忍に追われ這々の体でこの森に逃げ込めたのは、今のところアタシとカカシだけだ。
余裕の表情で一服してはいるものの、カカシの出で立ちも酷いものだった。腕のプロテクターはとうに吹き飛
び、剥き出しの二の腕の細かな裂傷からは血が滲んでいる。かろうじて耳に引っ掛かっている面も大きくひび
割れ、もう使い物になりそうに無い。里でフワフワと柔らかな綿毛のように揺れていた銀髪は、血と泥にまみ
れベッタリと頭に貼り付いていた。

アタシはその、惜しげもなく晒された名高い写輪眼を見つめながら、何の気なしに呟いた。

「カカシ、もし無事に里に帰れたら、アタシと寝てみない?」

カカシは風が唸るような勢いでアタシを見ると、暫く無言のまま固まっていた。
オエッと言われなかっただけマシか、内心で呟くと、カカシはいつもの性悪猫のような笑みを浮かべて煙草の
フィルターを弾いた。

「よく言うよ、未だに寝言で誰かの名前呼んでるくせに。」

えぇっ、そうなのか、そうかそうだったのか。はははすいません、バカなことを言いました。
首を竦めて舌を出すと、カカシも低く笑って喉を鳴らした。

「ねぇ知ってる?イルカ子供が出来たんだって。あ、まだ生まれた訳じゃないのよ、嫁さんのお腹にだって。
どうやら双子だってさ。」

ふーん、と気のなさそうな様子のカカシを見ながら、この男も自分なりのケリを付けたのだろうかと思う。
アタシが気付いたことを、この男が感じない筈がない。相変わらず茫洋とした表情の下に、どれほどの深い傷
跡を隠しているのか知れなかったが、それはアタシが立ち入ることではなかった。

「さてと、無駄話もこれくらいにして」

カカシは爪先で煙草を揉み消すと、背中の大刀を背負い直し立ち上がった。

「そろそろ行くぞ、鳴滝。」

肩越しに一瞥をくれると、カカシは未だ叩きつける雨の中を飛び出した。

「はいよ」

クナイを左手に握り、アタシも後に続く。里まであと少し。あと半日持ちこたえれば、無事故郷の土を踏めるは
ずだ。アタシの血の匂いも、カカシの煙草の香りも、この強い雨が打ち消してくれるだろう。



アタシは上忍になったことを後悔していない。



勿論、生きて帰る自信はある。そうして傷が癒えればまた新しい任務を受けて、里を出て行く。何度でも。
何回でも。この命続く限り。


イルカ、それがアンタを、アンタの愛しい家族を守る為、アタシが出来るたった一つの事だから。それがアタシ
の愛。アンタに捧げる、心からの、本当の気持ち。

そしてそれはたぶん___カカシも一緒だ。




目指す西の空に雲の切れ目が見えた。アタシ達はただ無言で、森の中を駆けた。




〈了〉





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