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陽のあたる場所 3

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ベッドに横たわる彼女の頬は、白磁のように色がなかった。
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髭面の声の主に向き直って深々と会釈すると、こっちに来いと手招きされた。
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「ありがとうございました、アスマ先生。もう大分落ち着きました。最初はかなり興奮してましたけどね。」
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騒ぐ子供達を掻き分けて彼女をこの医務室まで運んだのはアスマ先生だ。偶然近くで下忍を連れての任務
中だったと彼は笑ったが、取り残された生徒に寄り添ってくれていたのもその下忍達だ。
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彼女は一人で生徒達を率いていた。演習場からアカデミーはそう遠く離れてはいないが、発見が遅ければ今
頃どうなっていたか予想もつかない。
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「アスマ先生、部下の皆さんにもお世話になりました。後ほどきちんとお礼をさせて下さい。」
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「よせよ、ガキがガキの面倒見たようなもんだ。アイツらもいい勉強になっただろ」
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この後の処置をどうするか、アスマ先生と校医は相談を始めた。すぐに病院に運ぶか、もう少しこのままここで
様子を見るか。演習場にいた生徒達も迎えの教師と共に帰還したのはいいが、未だ興奮冷めやらず、アカデ
ミーの中はちょっとした騒ぎになっていた。今は薬で眠っているとはいえ、どのみちこのままではいられない。
病院に連絡を取ってみると校医は部屋を出ていった。
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その頃新年度も始まったばかりで、僕もイルカ先生も連日馬車馬の様に働いていた。
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それはアカデミーの教職員皆同じ有り様で、片付けても片付けても雨後の竹の子のように新しい仕事や問題
が湧いてくる。泥沼に腰まで浸かって進むような毎日に、彼女の顔色が冴えないのも疲労のせいだと思って
いた。ただ軽い咳を頻繁にしていたのが気になって、何度か病院に行くよう勧めた事もあった。
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しかし笑って取り合ってもらえなければ後は黙って見ているしかない。あの時無理にでも連れて行くべきだっ
たと後悔しても、もう後の祭りだ。
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「タカノお前これから暇か?俺はまだ任務中だし、できればお前がイルカに付き添ってやった方がいいだろう」
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午後から受け持ちの授業は無い。言われるまでもないと頷きながら後ろを振り向くと、僕は驚きの余りあやう
く飛び上がりかけた。
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ここにいる筈のないカカシが眠るイルカ先生の顔を覗き込んでいる。
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ガキども放ってきたのかよ、呆れたようなアスマ先生の声も全く意に介さず、例によって僕の存在も完全無視
だ。相変わらず表情の伺えない顔で彼女を凝視しながらイスを引き寄せた時、ベッド上の躰が身じろぎした。
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「お前どれくらい血を吐いたか自分で分かって言ってんの」
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「・・・ちょっと疲れてただけです、少し休めばすぐ直ります」
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「ただの疲労で吐血する人間がどこにいるよ、大人しく言うことをききな」
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強引に彼女の背に手を廻して、横たわる躰を引き起こそうとしている。おいカカシ、諫めようとしたアスマ先生
も言うだけ無駄と途中で口を噤んでしまった。
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アスマ先生が掛けた言葉で、その時初めて彼女は僕に気がついた。泣き笑いの様な表情を浮かべ、少し震
える指を僕に差しのべながら、
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言いかけたところで彼女の姿が突然消えた。つられて手を伸ばしかけた僕は唖然としたまましばらく立ち尽く
し、カカシに連れ去られたと気づく迄に数秒かかった。
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同情するように呟く髭の上忍に、僕の恋心はとっくに見透かされているのだろう。まぁ頑張れよと酷く抽象的
な励ましの言葉と同時に、大きな手で咽せるほど強く背中を叩かれた。
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生徒達のことだろうか。それとも僕に伝えたい何かがあったのだろうか。
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まあいい、今度会ったら聞けばいいことだ。心配ではあるがあんな連れ去り方をしても、カカシはちゃんと彼女
を医者に診せるだろう。とにかく今は休んで体を治すことが先決だ。
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それがとんだ甘い考えだったと気が付いたのは、それから暫く後のことだ。
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逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい。
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幾重にも重なって五月蠅く響き渡る蝉の鳴き声が、焦る気持ちを余計に刺激する。あれから数ヶ月、季節は
移り夏の盛りになっても、彼女はアカデミーに現れなかった。それどころか、外で姿を見かけることさえ出来な
い。理由は簡単だ、カカシだ。アイツがイルカ先生を拘束しているのだ。
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彼女の容態を知ることすら叶わず話を聞ける知り合いには全て、アスマ先生にまで探りを入れた。その彼でさ
え、二人がどう過ごしているのかよく知らない様子だった。
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イルカ先生は郊外の古い一軒家に、昔から一人で住んでいた。そこにカカシが入り浸っていたことなど知らぬ
者とて無いが、場所は知れていたので思い切って訪ねてみた。
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が、僕はその門前で一歩たりとも動けなかった。ここは城か要塞かという程の数多のトラップの数々。呼び鈴
どころか門扉や塀に触れることすら不可能だ。これ見よがしに仕掛けられたそれらを見れば、敷地内がどうな
っているのか容易く想像できる。
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カカシの執着は知っていたが、これは軟禁とか監禁とかいうより犯罪じゃないのか。
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自分は気配を消していないし、家の中からも僅かながら人のいる気配がする。
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それでも見えない幕を引かれたかのような拒絶ぶりに、僕は唇を咬んでそこから退散するしか無かった。
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それまでの僕は意地と根性で職務をこなし、イルカ先生の穴を埋めた。それは僕をここまで育ててくれた彼女
への恩返しであり、単に自分のプライド故でもあった。
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僕はもう限界だった。一目でいい、彼女に逢いたい。逢って思う存分話しがしたい。職場のこと、生徒達のこ
と、そして僕自身のこと。もう我慢できない。絶対に逢って彼女の顔を拝んでみせる。そのためなら手足の一
本や二本、くれてやる。こうまでカカシの思い通りにさせてたまるものか。
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そう思い決死の覚悟で門前に立った目の前で、扉はあっけなく開いた。
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ふくよかだった頬は削げ、顎は鋭角なラインを描いている。鎖骨は浮き上がり浴衣から覗く手首は折れそうな
ほど細かった。それなのに降ろした髪を掻き上げる姿からは壮絶と呼べる程の色香が漂っている。衝撃と混
乱で口を開けたままの僕の手を取って彼女は優しく笑った。
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「タカノ君今まで何度も来てくれたでしょう。会えなくてごめんなさい。」
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でもね、入ってくるのは大変でも、出るのは案外簡単なの。こんな小さな家なのに、恥ずかしいわね。
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そう言うと僕に家に上がるように促した。少しの躊躇いが顔に出たのだろうか、彼女はまるでイタズラっ子のよ
うに僕にウインクしてみせると、
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その後ろ姿に僕はようやっと息をついて、後に続いた。
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今更平常心を装ったところで遅すぎるのは分かっていたが、それからの僕は精一杯道化を演じて彼女を歓ば
せた。実際積もる話に口が止まる暇は無く、彼女の笑い声は絶えなかった。
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数刻の時は瞬く間に過ぎて僕が腰を上げた頃、外には既に夜の帳が降りていた。
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そう言って見送る彼女の細くなった肩を引き寄せて、この胸に掻き抱きたい。体を駆けめぐる衝動を必死に押
しとどめてありきたりな別れの挨拶を交わし、彼女の家を辞した。
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イルカ先生、いったいアナタの身に何が起こっているのですか。その躰の内で、何が蠢いているのですか。
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死ぬほど訊きたいのに最後まで口に出来なかった言葉が、嗚咽となって溢れ出る。
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身に纏うチャクラは半透明のオブラートの様に透け、僕の話に頷き微笑む姿は菩薩の様に美しかった。
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何もして上げられないのだろうか。また、何も出来ずに、見守ることしか叶わないのだろうか。
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日が暮れてもなお熱を孕む空気はじっとりと重く足元にまとわりついた。
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心の奥底に澱のように沈む「最悪の事態」が見えない鎖となって僕の躰を締め上げる。
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目の前に続く薄暗い夜道の向こうに、華奢というには細すぎる彼女の背中が浮かんで消えた。身の内に巣く
う悲嘆が見せる幻影に脅え、熱に浮かされるように帰路に就いた、その三日後、
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はたけカカシは何度も死線を乗り越えてきた男だったし、そんなことは決して珍しいことでは無かった。
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今までも死んだといわれた忍が、暫く後にひょっこり帰って来たことなど幾らでもある。
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だから不確定な情報も確証の取れない内は唯の噂にすぎない。
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僕はそれを知ったときの衝撃を、生涯忘れることが出来ないだろう。
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依頼内容の暗殺任務は滞り無く終わっていた。問題は標的の首を取った後の撤退時に起きたらしい。
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トラップに引っかかり多勢の敵忍に捕縛されかけた仲間の中忍三人を、退却中のカカシはとって返し、単独で
救出した。
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飛ばされた式で異変を察した里はすぐさま追加部隊を派遣した。その中にはアスマ先生も交じっていた。
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カカシの遺体は忍びとておいそれと入れない、深い谷底にあったそうだ。
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有り体に言えば嫌悪していたと言っていい。しかしその死を知った時の衝撃と得も言われぬ不安感を、どう表
現して良いのか未だに分からない。
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僕には許容できかねる価値観の持ち主だったとはいえ、他国にまでその名を馳せた実力を否定出来るもの
など、誰もいない。その実力は僕にとって、決して手の届かぬ場所で燦然と輝く星だった。そしてその星が自
分より先に墜ちようとは夢にも思わなかった。
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僕は結局の所、カカシを卑下し憎みながらも、同時に里の守護神としての存在に精神的に寄りかかり、依存
していたのだ。まるで厄災を追い払ってくれる魔法の杖のように。
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しかしカカシは優秀な忍ではあるが便利な道具ではなく、一人の人間だった。そして死は人間誰にでも平等
に訪れる。
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カカシの死はその容赦ない現実を僕等の前に突然つきつけたのだ。
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忍に庇護され、忍なしでは立ち行かない、この里。その里を支えていた大きな歯車が欠けた。
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突きつけられた現実に人々は頭を垂れ、嘆き、途方に暮れた。カカシの信奉者は多い。仲間を守るために命
を投げ出したその英雄的行為は大勢の人々の涙を誘い、その姿は徐々に神格化され伝説となる。
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カカシの名は慰霊碑に刻まれ、師と同様に若くして逝った偉大な忍びのために里の人間は皆長い間彼を偲
び、喪に服した。
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しかし如何に大きな歯車一つが欠けたとしても、いずれは残された歯車同士が噛み合い、最初はぎこちなくと
も円滑に廻るようになってくる。受け入れられずにいた現状も少しずつ認識出来るようになり、やがてそれが
当たり前の現実となる。
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そうして誰もが落ち着いた口調ではたけカカシの思い出を語ることが出来る様になった、その頃、
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