陽のあたる場所 2

                                                                

緩む頬を抑えられない。

僕とイルカ先生は、初めて二人で任務に就くことになった。
任務と言っても、内容は火の国の辺境の地にある学校での教育補助と指導。過疎の村に住む子供達にとっ
て一年に一度だけ会える「イルカ先生」はこの上ない楽しみなのだ。毎年一人で赴いていた彼女だったが、何
を思ったか今年に限って僕を連れて行くと言い出した。

棚ぼた、役得、漁夫の利。嬉しさの余り頭の中で妙な言葉がぐるぐる回る。ハタから見れば地味な出張任務
でも、僕にとっては想い人と二人きりでの旅行に変わりない。足取り軽く集合場所に向かうと、イルカ先生が
僕を認めて軽く手を挙げた。


あぁ、あの笑顔なんだよなぁ。


僕が初めてイルカ先生に出会ったときも、あんな風に笑ってくれた。その瞬間僕はもう、恋に落ちていたんだと
思う。日だまりとか、向日葵とか、風にそよぐ麦畑とか。そんなものを連想させる、暖かく柔らかい笑顔。正直
に言えばイルカ先生より美人は沢山いるが、でもあんなに綺麗に笑える人は滅多にいない。


怪我の後遺症で一線を退いた僕が、教職を採ったのは必然だったかも知れない。
でも当時僕は内心かなり腐っていた。若かさとそれなりの上昇志向を持っていた身には、潰えた未来を認め
ることは辛かった。けれど、彼女に出会って僕の人生は反転した。

里の将来を支えるのは子供達だ。子供の潜在能力は里の財産であり宝だ。その教育という仕事の重さと恐
ろしさ、そして面白さ。それを知った。こんな形でも、十分里を支えてゆく事が出来る。僕は教師という職に心
から誇りと情熱を持っている。この数年でそう言えるまでになっていた。そして、そう導いてくれたのはイルカ
先生だ。
恋情という贔屓目を差し引いても、彼女は素晴らしい上司であり、教師だった。


これで自分の気持ちを伝えることさえ出来たら、もう何もいらないのに。過ぎた望みとは知りつつも、隣で揺れ
る黒髪に胸がつまり、小さく息を吐いた。

「どうしたのタカノ君、足、痛む?」

「あっ、いいえイルカ先生、大丈夫です。」

優しい気遣いに嬉しさを噛み締めつつ、慌てて否定する。
そんな僕の脳裏に、望んでもいないのに一人の男が現れた。はたけカカシ。相も変わらずイルカ先生を所有
物の様に扱って振り回す、不埒な男。こんなに優しい女性を。賢くて思いやりに溢れる、真っ直ぐなこの人を。
あんなに男にわざわざ付き合う彼女の真意も、未だに分からない。
もし相手がカカシでさえ無かったら、僕とイルカ先生の関係も変わっていただろうか。しかし現実は厳しい。逆
立ちしても埋まらない実力差と写輪眼を前にしては、どう足掻こうと沈黙せざるを得ない。そんな状況でせめ
て僕に出来るのは、彼女のサポートと自分の仕事に全力を尽くすことだけだ。


上の空で歩いていた僕は、急に立ち止まったイルカ先生に衝突しかけた。その眉を顰めた視線の先を追っ
て、僕は思わず息をのんだ。




出た。


はたけカカシ。




顔を殆ど隠したいつもの怪しい姿で、大門の扉に凭れてこちらを眺めている。まるで今し方の妄想が具現化し
たかの様な恐怖に、僕の足は竦んで震えた。

「・・・何かご用でしょうか、はたけ上忍」

冷静なイルカ先生の声に、カカシの気配がゆっくりと近づいて来る。その身に纏うチャクラの奔流は強すぎて、
あたかもパリパリと乾いた様な音が辺りに響き渡った。いや、それは緊張に晒された故の幻聴だったかもしれ
ないが、事実僕の体は仰け反るような威圧感に冷や汗が流れ、心拍数は急激に上昇していた。


ふ、とその気配が僅かに弛緩した様に感じたその時、カカシは彼女の腰を抱き寄せると、その耳元で熱心に
何事か囁きはじめた。立ち尽くす僕を完全に無視しているその不自然な態度が、逆に僕を意識していると感じ
させる。最初は大人しくされるがままだったイルカ先生は、やがて溜息を吐くと無理矢理その体を引き剥がし
た。

「今更そんなこと言われなくても、充分わかってます。」

軽くカカシの背中を叩いてあやすようなその仕草が、まるでアカデミーの生徒に対するものと変わりなく、僕は
一時現状を忘れて思わず吹き出しかけた。
その瞬間ゴォッと音のするような殺気が僕の側を奔り抜け、その衝撃で僕の眼鏡は吹き飛んだ。唯一晒され
たカカシの右目が今度は間違いなく僕を睥睨している。

「カカシさん!」

後ろから怒声を浴びて彼女に向き直ったカカシは、その顎を掴むと突然激しく口付けた。舌と舌が絡んで、粘
膜の擦れあう濡れた音がする。手甲をはめた手が彼女の体を這い回り、カカシが角度を変えて口付ける度、
結い上げた黒髪が緩やかに乱れた。藻掻く彼女の口から漏れる苦しげな呻き声と荒い息遣いはハッキリと僕
の耳元まで届き、眼前で繰り広げられる淫靡な光景に僕は為すすべなく、微動だに出来なかった。



「いい加減にしなさい!!」

耳に響いた鈍い音で我に返ると、身を翻したイルカ先生が拳を握りしめて仁王立ちしていた。その足下でカカ
シが何事か呻きながら身を丸めている。

アカデミー教師が写輪眼を熨したと聞いて、誰が信じるだろうか。

今自分はかなり貴重な現場に立ち会っているという自覚はあったが、快哉を叫ぶのは身の内だけにしておこ
うと自重するうち、カカシは舌打ちの音を残して煙と共に消えてしまった。


「タカノ君、怪我は?!」

大丈夫です、と一応余裕で答えてみせたが実は浴びた殺気の余波でまだ膝が笑っていた。

「ごめんなさい、変なモノ見せて。全く、毎年の事なのに一体どうしたことやら・・・」

髪を括り直しながら呟く彼女を待ちながら、内なる僕は饒舌に答えた。


それはどう考えても僕が原因です、イルカ先生。

方法としては犬のマーキングと同じレベルだが、遅刻魔で有名なあの男がこんな朝早くからわざわざ牽制に
現れるとは、僕も余程警戒されているらしい。
でも残念だったな、はたけカカシ。こんな事ぐらいで彼女への崇高な想いは変わらない。アンタの汚れた欲望
と一緒にしてもらっちゃ困る。アンタの子供じみた独占欲は充分知っているし、今更驚きもしない。そんなに脅
えなくても、せいぜいきちんと彼女を護って帰ってくるさ。


「さぁ行きましょう、イルカ先生。子供たちが待っていますよ。」


そう何事も無かったように笑ってみせて、僕は彼女とゆっくり大門をくぐった。












そんな出掛けの出来事が嘘の様に、任務は予定通り滞りなく終わった。
往復の移動日を含めて一週間。あっという間だった。
別れの時、いつまでも自分の名を呼び手を振り続ける子供達の姿に、イルカ先生の目は確かに潤んでいて、
そんな彼女の姿を、僕は少し離れた場所から見守っていた。


帰り道、お互い交わす言葉は少なかった。いつも快活に笑う人が、珍しく感傷に浸っている。思考に沈み、伏
せたその睫が美しい。少し休みましょうか、無意味に高鳴る胸の内を誤魔化すように問うと、彼女は黙ったま
ま頷いて僕の後をついてきた。一体どうしたことかその姿はまるで寄る辺ない子供のように頼りなげで、僕の
心は更にかき乱れた。

道沿いに見事な欅の大木を見つけると、その根本に僕達は腰を下ろした。
木漏れ日がイルカ先生の横顔に斑に影を投げかけて、深い陰影を造っている。
カチリ、という彼女のライターの音が響くと、微かな風が僕達の間を吹き抜けて、鳥の囀る青空に上っていく。
まるでこの世に二人だけ残されたような長閑な静けさに、僕はつい胸の内に終っていた言葉を零してしまっ
た。


「・・・イルカ先生、どうしてはたけ上忍と付き合っているんです」


ゲホガホゲホと吸いかけの煙草に盛大に噎せると、彼女は驚いた様に目を見開いて僕を見た。


「どうしたのタカノ君。今日はやけに大胆。」

「あ・・・スミマセン、僕が聞いていいことじゃありませんでしたね。」


からかいと戸惑いが入り交じった言葉に、僕は確かにその通りかも知れないと苦笑いした。気がつけばまだ
小さく咳き込む彼女の背をさすっている。こんな事里では絶対できっこない。鬼の居ぬ間に、の一言で片づけ
られる自分の卑小さに嫌気がさすが、二人きりの貴重な時間であることに変わりはない。
僕は少しでも気持ちを鎮めようと、水筒から水をつぎ口を付けた。


「私ね、カカシにゴーカンされたの。」

唐突な言葉に、今度は僕が水を吹き出す番だった。

「ゴーカンって・・・あっ、あの・・強姦、ですか。」

「そう、その強姦です。」


__ただしもう随分前のことなんだけどね。今思えば噴飯ものの低姿勢で私を訪ねてきて、子供達の名前を
出してきたものだから、私もつい信用しちゃったのよね。まあ、赤の他人に気を許した自分が一番馬鹿だった
んだけれど。


淡々と続けるイルカ先生の言葉に、僕は目も眩むばかりの怒りを覚えた。あのヤロウ、やっぱりそうだったの
か。常識の見本の様なこの人が、無理矢理でもなければあんな出鱈目な男に惹かれるはずがない。
まったくなんてことだ。僕の手はカップを持ったまま小刻みに震えていた。  

「何故皆にそう言わないんです!?上に訴えようとしなかったんですか!?そ、そりゃあ体裁の良い話じゃな
いことは分かりますけど、それにしたって先生は周りから誤解され過ぎですよ!!」

「・・タカノ君、曲解したがる人間に何を説明しても無駄よ。上層部にしたって一介のくの一の私生活と写輪眼
を天秤に掛けたらどっちが重いかなんて明白でしょ。パワーバランスってそういうものよ。」

「そ、そんな・・・それで・・・そんなことって・・・」


衝撃が頭の中で渦を巻いて言葉が縺れた。そんな馬鹿な話があっていいのか。どうしてこの人は平然とした
顔で何もかも抱え込む?そこまでカカシにしてやる理由は何だ。
喉の奥から熱い塊が迫り上がってきて、眼窩が痛む。歪んだ表情を見られたくなくて、抱えた膝に顔を埋め
た。いつもこの人の側でだだ静かに傍観するだけの自分。助けたいのに。役に立ちたいのに。自分に対する
情けなさと腹立たしさが腹の中でとぐろを巻く。
カカシに対しても自分自身に対しても、これほど嫌悪を覚えたことは今まで無かった。

「ごめんね、驚いた?聞いて気持ちの良い話じゃないもの、気分も悪くなるわね。
ただ、それでもどうしてと訊かれれば好きだから、一緒にいたいから、としか言いようがないの。
それを言いたかっただけ。許してね」

彼女が気遣わしそうに僕の顔を覗き込んでいるのが分かったが、再び受けた衝撃で、僕は本当に眩暈を起こ
していた。

「・・・好き、ですか・・・」

カカシと彼女が男と女の関係にあることなんて誰でも知っていることだ。それに僕だって子供じゃない、そこは
頭できちんと理解していたつもりだ。しかしこうして直に彼女の口から肯定されることは、僕に計り知れない打
撃を与えた。

「・・・そんなことがあり得るんでしょうか。だって、それまでの生活を滅茶苦茶にされた訳でしょう・・・」

「ああ、無理強いとか強制とか、ストックホルム症候群みたいなことをいってるのね?
そう、そりゃあ最初の頃は憎くて憎くてね、どうしたら彼を殺せるか、毎日そればっかり考えてたものよ。
でもね、もうあれから何年も経っているんだもの、我慢していたら耐えきれないし、幻想だったらもうとっくに消
えているはずよね。
だから多分、この気持ちはまがいものじゃあ無いと思うわ。」

どこかでカカシへの否定の言葉を期待していた僕の気持ちは完全にうち砕かれた。固まったままの僕の様子
を彼女への嫌悪と勘違いしたのだろうか、イルカ先生はすこし哀しげに眼を伏せた。

「そうね、こんな生き方も考え方も、きっと君にとっては理解し難いわね。君に嫌われても仕方がないけど、
でも哀れまれるよりはよっぽどいいわ。その方がずっとつらいもの。」

僕は慌てて顔を上げると激しく首を振った。

一体なぜ僕が貴方を嫌いになれるだろう。なにを抱えようと、何を背負おうと、貴方は貴方だ。
僕が貴方を否定出来る筈などないのに。

顔を上げた僕と彼女の視線がぶつかった。その黒い瞳は静かに凪いでいて、穏やかに僕を見つめていた。

「君はとても賢い、優しい子だもの。いつかきっと私の言ったことを理解してくれる日が来るわ。」

そう言うと急に照れたような苦笑いを残して、僕に出発を促した。

もう少しここでこうしていたい。子供のようにぐずる気持ちも確かにあったが、僕はカカシとは違う。彼女を困ら
せることだけはしたくない。頷いて外していたリュックをノロノロと背負うと、僕は彼女の後に続いた。




 ぼんやりと見上げる遙か空の彼方を、鳥の群が渡ってゆく。
並んで歩く僕達の指が何度か触れ合うと、彼女は突然優しく僕の手を握った。
驚いた僕が彼女を見ると、今度は朗らかな声で歌をうたい出した。
それは里で生まれ育った者なら誰でも知っている、木の葉の子守歌。泣きやまない赤ん坊をやさしく宥める母
親の歌だ。
もしや、僕の心中を察して歌ってくれているのだろうか。
そう思うと恥ずかしさで首まで赤くなる。すると彼女はそんな気持ちを察したかのように僕の手を柔らかく握り
直し、終わった歌をまた最初から歌い始めた。



好きだ好きだ好きだ、貴方が好きだ、イルカ先生。



哀愁を帯びたその旋律は僕の感情を激しく揺さぶり、押さえつけていた彼女への想いが強い言葉の濁流とな
って溢れ出しそうになる。
だが僕は必死にその衝動を呑み込んだ。
例え今そうした所で彼女を困らせるだけだ。それは決して僕の本意じゃない。

そんな僕の葛藤を知ってか知らずか、伸びやかな歌声は流れつづける。その中に込められた労りに感謝し
て、僕は強く手を握り返すと声を上げて一緒に歌い始めた。一瞬驚いたように僕を見上げたイルカ先生は、や
がていつもの柔らかい微笑でそれに応えた。

貴方が好きです、イルカ先生。

けれど今、進むも退くもままならないのなら、後はこの想いを祈りに換えるだけだ。
僕はほんの僅かの間、すこしだけきつく目を閉じた。


イルカ先生、ただ貴方が、幸せでありますように。







あぁ、強くなりたいなぁ。

辛いこと、苦しいこと、嫌なこと、全ての災いから貴方を守れるくらい強く。
今すぐには無理でも少しずつでいい、力を蓄えて、貴方の為の少しでも高い防波堤になりたい。
そうして僅かでも頼もしくなった僕と、これから年に一度でいい、こうして二人で任務に出たい。









けれどそんなささやかな僕の願いは、二度と叶うことはなかった。






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