東海覇王伝

第一部 ことのはじまり、あるいは、如何にして一介の辻占師が覇王の座に昇り詰めたか


第一巻


第一話

ことのはじまり

 東海の南東の果てに、倉穴(そうけつ)という小さな都があった。その昔には、東海の覇者グラン・ドール王国の中心地であった倉穴だが、今では一地方政権としてかろうじて命脈を保っているに過ぎない小王国である。
 その倉穴の郊外に、占術を学んでいる一人の若書生が住んでいた。姓は本(ほん)。名は今となっては不明である。
 本はしばらく倉穴の大学に通っていたが、そこで占術の才を認められ、大陸最大の魔術の府、六塔へ留学することとなった。六塔で魔術を学んだ本は、特に魔具の製作に自らの才能を見出し、五、六年の修行を経て、多彩な魔力を秘めた道具を作り上げることに精通するに至った。彼自身は魔力を用いることにさほど長けてはいなかったが、造り出す魔具の魔力は一流の魔法使のそれを凌駕したのである。だが、本がそれに満足することは決してなかった。六搭の魔具師範を唸らせ、感服脱帽せしめるほどの驚異的な魔具を数多く生み出しながらも、彼の中ではまだ何かが欠けていたのである。それが何なのか、本にはわからなかった。しかし、その類稀なる能力を認められて、六塔の一、造化の塔の塔主により魔具師の免許皆伝を受けた本は、六塔に残る道を断り、とりあえずは意気揚々と故郷である倉穴へと帰ってきたのだった。
 しかし、本の才能は、この片田舎の街では認められなかった。倉穴の街には、魔具を必要とする者など一人もいなかったのだ。多彩な魔具を作り、売りさばいて生計を立てるつもりでいた本のあては見事にはずれ、彼の手元には、街の暮らしにはまったく役に立たない、山のような魔具の材料だけが残ることになった。かくて、本はあっという間に蓄えを使い果たし、街の人間から見れば珍奇な魔具の数々と共に、貧しい暮らしを強いられることとなったのである。街の民は、本のことを「能なしの膠屋」とあざけった。魔具製作には、強い香りのする独特の膠を用いるためである。
 だが、本は辛抱強くこの逆境に耐えた。昔とった杵柄で、辻占をして小銭を貯めては、魔具の材料を買い集めた。そして、暗く湿った地下室で世間の無知を呪いながら魔具を組み上げ、時が来るのを待った。

* * * * *

 数年後、その時は来た。本の作り上げた中でも、最も強く、最も美しく、最も恐ろしい魔具《ティルト》が完成したのだ。一見、ねじ曲がった樫の木の杖にしか見えないそれは、最高位の熱力の魔法を刻み込まれた凶悪な魔具であった。
 本は狂ったように笑った。そして、杖とともに数々の魔具を携え、倉穴の王府へと足を向けた。倉穴の王はグラン・ドール王家の末裔でその名を劉竜風(りゅう・りゅうふう)八世と言ったが、《勇士》と称えられ数多くの頌歌に謳われた初代の面影はまったくなく、奸臣を重用し重税と弾圧で民を苦しめ、自らは王府に引きこもって安逸な暮らしをしていた。
「止まれ、止まれ」
 王府の門前で、体格のよい衛兵が本を制止し、誰何した。
「貴様は辻占師ではないか。何をしに来た」
「王に伝えよ。この場で倉穴の王位を譲らねば、王府もろとも焼き尽くすと」
 運の悪いことに、衛兵はその言葉をつまらぬ冗談だと解した。
「帰れ、帰れ。我らは膠屋の物売りに付き合っている暇はない」
 本は憎悪に目を見開き、そして衛兵を薮睨みに睨み付けた。
「おのれ、自分を何様だと思っている? この虫けらめが! お前になど、この魔具を削りだした木の屑ほどの価値もないということを知れ!」
 衛兵がその言葉に反応するより早く、本は魔具《ティルト》を天に高々と掲げ、地面に三度うち下ろした。
 どん、どん、どん。
 本が三回目に杖をうち下ろしたと同時に、杖は白く燃え上がった。輝く杖の先端から、数十、いや数百数千の白熱の矢が天に舞い上がり、流星雨となって地に降り注いだ。鉄をも溶かす灼熱の雨である。衛兵の身体は一瞬で溶け落ちた。いや、蒸発してしまったのかもしれない。王府の屋根でいくつもの爆発が起こり、無数の悲鳴がわき起こった。王府は燃えていた。いや、炎を上げる間もなく焼け落ちていった。
 本は笑った。腹の底から笑った。無知蒙昧で暗愚なる支配者を笑った。己の才能を認めなかった屑のような倉穴の民を笑った。白い炎の雨は、本に近づくすべてを焼き尽くした。王府の人々、そして多くの街の住人は、何が起こったのか知る前に死んでいった。
 いまや、本は満ち足りていた。
 これこそ、彼が求めていたものだったのだ。

* * * * *

 こうして倉穴の王府を滅ぼした本は、その強大無比な魔具の力で急速に東西南北を制圧していった。炎の雨で全てを焼き尽くす《ティルト》だけではない、大河の水をも自在に操る腕輪《バイバーン》、突き立てるだけで大地を揺るがし町一つを壊滅させる力を持つ魔槍《ダル・ディアー》といった圧倒的な破壊力を持つ魔具の前に、民は沈黙し、支配階級は恐れをなしてひれ伏した。本の元には、その武威をもって弱小勢力の乱立する南東道を統一せんとする野心を抱いた各地の軍閥が馳せ参じ、いつしか、数十万の兵と、数千万の民が従うようになっていた。
 ついに南東道七州を支配するに至ったとき、本はその名を改め崇雄子(すう・ゆうず)と名乗った。崇高にして偉大なる存在の意である。倉穴王府炎上よりわずか半年。南東道府・武焔に都し崇王と号した彼は、とうとう東海中央部に目を向け始めたのである。

* * * * *

第二話

崇軍北上し大元帥王連力に阻まれること

 久麗帝紀四一八年春。当時、東海中央部には、強力な騎士団を擁し、帝都・朱垂を拠点に周囲に覇を唱える久麗帝国があった。また、その東の沿岸部には、東海最大の貿易港であり、東西交易の中心である東都・朱漕府を都とする自由国家・越司があった。
 崇雄子による南東道統一の報は、久麗帝国に大きな衝撃をもたらした。帝国は、これまで小国が乱立するだけであったこの地方を軽視していたのであるが、ひとたび統一したとなれば帝国に比肩する巨大勢力である。帝国六軍を統帥する大元帥・王連力(おう・れんりき)は聡明であったから、崇王の即位を知るや、麾下の諸将に命じすばやく東南の国境を固めさせた。また、皇帝に謁見し、直隷の七騎士団を動員するよう上奏した。すなわち、魂の騎士団を始めとする帝国の精鋭部隊である。
 一方、崇雄子の下では、右将・藩文竜(はん・ぶんりゅう)と左将・鼠没鬼(そ・ぼつき)がそれぞれ十万の軍団を率い、北の国境線を窺っていた。
 藩文竜は西南道の大砂漠の出身であるが、部族内の争いに破れ、少数の部下を連れて東へ落ち延びて来たところを崇に拾われた。元々、砂漠の部将として名を上げていた男でもあり、その戦略眼と指揮能力は、崇軍でも随一といわれた。
 一方の鼠没鬼は、その名の示す通り半人半鼠の獣人である。南東道の外れで山賊紛いの傭兵をしていたが、その噂を聞き付けた崇がわざわざ人をやって召し抱えたのだ。戦場ではハ十二斥の大鉞を振るい遭うものすべてを斬り倒す猛将で、崇軍の文字通り斬り込み隊長として重宝された。
 この二将が攻めてくると知って、王連力は一計を案じ、配下の那有将軍に十万の兵を与えてこれを迎え討たせた。
 国境沿いに十万の兵が展開しているとの斥候の報を受けて、鼠将軍は舌なめずりして即座に攻撃を命じたが、藩文竜は首をかしげ、進軍を止めた。智将の誉れ高い王元帥が、川沿いで湿地帯の多い要害でもない南東国境で、わざわざ敵軍の半分の兵力をぶつけてくるには何か裏があると読んだのだ。
 藩将軍は、左翼の没鬼に兵を引くよう伝令を送ったが、伝令は返ってこなかった。一説には、没鬼は藩将軍の弱気をひとしきり嘲ったあと、伝令を串刺しにして軍旗に掲げたともいう。
 とにかく、左翼に引く気がないと知った文竜は、慌てて右翼にも進軍を再開させた。歩調を揃えねば各個撃破されかねないと恐れたのだ。
 那有将軍の兵は、鼠将軍の左翼軍と接触すると、多少の抵抗のあと、蜘蛛の子を散らすように退却した。わずか半刻の間に、没鬼の大鉞の餌食になった者は百人とも二百人ともいう。
 没鬼は緒戦の戦果に飽き足らず、逃げ惑う兵らを追撃した。大将が、斬り刻み叩き潰すことに熱中する間に、左翼軍は国境の湿地帯の深くに踏み込んでいた。
 時既に遅し。巧妙に機動を封じられた左翼軍に対し、突然伏兵の長弓隊が現れ、ここぞとばかり雨あられと矢を浴びせた。浮き足だった軍勢に、今度は那有将軍旗下の騎馬突撃兵が反転攻勢をかけ、三々五々と散った兵士たちを各個撃破していった。
 一足遅れた右翼の藩将軍は、懸命に陣形を整えて奮闘したが、突出した左翼を救出することはできなかった。鼠将軍はそれでも大鉞を振るい続け、これに当たった不運な数百の兵が斃れたが、全体としては帝国軍が勝利を収めたのである。藩将軍は鼠将軍を救出すると、すばやく撤収をかけた。その見事な引き際に、さすがの王連力も舌を巻いたという。とにもかくにも、これが崇軍の初めての軍事的敗北であった。

* * * * *

第三話

崇雄子が再び北上の兵を興したこと

 崇王は緒戦の敗北を知ると、鼠将軍を懇ろに労って褒美を取らせ、藩将軍には激しい叱咤を浴びせた。無論これには裏があって、たとえ敗北しても勇敢に戦う範としたのである。これは外ならぬ藩文竜の入れ知恵であった。さらに、崇王は戦死した兵士には、遺族に手厚い褒賞金を与え、その武功に勲章を叙したうえで大喪を主催し大いに弔った。こうして軍の士気を高め、再戦の機運を作った崇は、三カ月後に再び兵を興し、藩将軍と鼠将軍に各々十万の兵を与えた。兵だけを見れば前回と同じだが、崇王は同じ過ちを繰り返す男ではなかった。彼は、右翼・藩軍に参謀として腹心の栄斗策(えい・とさく)を付けていた。栄は崇王こと本の遠い親族であり、崇と同じく六塔で魔術の修行を積んだ男で、崇王の覇業に手を貸していた。

 大元帥・王連力は三カ月の間に南東国境の守りを固めていた。緒戦と同じ奇襲策が通用するとは思えないことから、精鋭の魂の騎士団を中央に、目の騎士団と鍵の騎士団をそれぞれ左右両翼に配した鶴翼の陣形をとった。しかし、大元帥の策はそれだけではなかった。両翼の後詰めにそれぞれ三万の一般部隊を置き、魂の騎士団の後ろに十万の兵による円方陣を敷いた。総勢十七万五千。崇王軍と数の上ではほぼ互角である。だが、今回は帝国最精鋭の騎士団が揃っている。他の国境の守りを薄くしてまで三騎士団を招集したのは、これが帝国の命運を分ける戦いになるという、練達の武人の直感だったのかもしれない。

 藩文竜は斥候から王大元帥の布陣を聞き、黙って頷いた。敵ながら完璧な戦術である。まともに戦ったならば、間違いなく前衛の騎士団に蹴散らされた後、後詰めの部隊に踏み潰されることになる。だが、藩将軍はそのまま進軍を続けた。左翼の鼠将軍も同じである。もっとも、こちらの方はとにかく早く戦場につきたい一心で兵を急がせていたのだが。
「良いのですかね」
 栄斗策は藩将軍に尋ねた。「このままでは、半刻程早く、左翼が敵軍と接触することになると思いますが」
「没鬼は、いわゆる咬ませ犬です」藩将軍は涼しい顔をして答えた。「敵陣を撹乱し戦機を作り出すための。一対一の戦闘という意味においては、いや、多対一であれ、局地戦におけるあの男の武力は無類のものです。彼を討ち取れる部将は恐らく帝国にもいないでしょう。そして、兵たちもその力に魅せられている。だから、一見して無謀に思える突撃にも兵は着いていく。彼らは恐れを知らぬ無敵の部隊と化すのです。これほど頼りになる男はおりませんよ。
 加えて、兵たちだけでなく、民もまた勇猛果敢な将軍の活躍に酔っている。そう、いうなれば、鼠没鬼は皆の偶像なのです。無論、それは虚像かもしれませんが…」
 栄は、手にした槍によりかかりながら目をつぶって藩将軍の説に耳を傾けていたが、ふと目を開けるなり柔らかい声で言った。
「鼠将軍を捨て石にするつもりですか」
「まさか。王連力を討ち取るための戦術ですよ。そのために貴公も居られるのでしょう?」
「そうですね」栄は悪戯っぽい微笑を浮かべて頷いた。
「尊い犠牲の下の勝利ほど甘美なものはありませんからね」

* * * * *

第四話

久麗一の騎士、上繰風が鼠没鬼に討ち取られたこと

 数刻ののち、藩文竜の放った斥候が、左翼軍が敵軍と接したことを伝えてきた。鼠没鬼は前回の失敗にも懲りず、先陣を切って敵軍右翼の鍵の騎士団に突撃したのである。
「俺の名前は没鬼!!」
 鼠は大音声で呼ばわると、嬉々として手にした八十二斥の大鉞で帝国の騎士に斬りかかった。如何に帝国精鋭の騎士であるとはいえども、その膂力の前にはひとたまりもない。鼠の大鉞は、受け止めた剣を軽くへし折り、堅い兜を楽々と割って騎士の頭を南瓜のように叩き潰した。
 大将の活躍を見て活気づいた左翼軍は、将軍に続けとばかりに突撃した。この勢いには、さしもの騎士団といえども少なからず動揺した。鍵の騎士団は、機動に長け、自ら攻撃することは得意としていたが、対峙しての防衛戦には慣れていなかったのである。そこで、鍵の騎士団長・久良碓(きゅう・りょうたい)は、敵軍を受け止めるのではなく、巧みに勢いをそらすという戦法をとった。すなわち、導水堤の陣である。騎士団の右翼は敵を押し止め反撃するが、左翼は徐々に後退する。これにより、敵軍の動きは自軍から見て徐々に左方向へそれていくことになる。そしてその方向とは、魂の騎士団と大元帥・王連力の本隊が控えている方向であった。
 一方、これを待ち受ける魂の騎士団長・上繰風(じょう・そうふう)は、敵軍左翼が突出して鶴翼の中央へ流れてきているのを見て取り、これぞ勝機と判断した。そして、大元帥・王連力に対して敵軍に殲滅攻撃をかける旨の報告をしつつ、自ら魔剣・魂炎を携え、陣頭に立って鼠軍を迎え撃ったのである。
 やがて、右翼方面から地響きが鳴り、鬨の声と悲鳴とが聞こえてきた。敵味方入り乱れての乱戦の中、真っ先に姿を現したのは、黒い毛皮を纏った半人半鼠の醜悪異様な怪物である。
「没鬼!!」
 上繰風は魔剣を抜くと敵将に呼びかけた。「我が名は上繰風、貴公と一騎打ちを所望する!」
「片腹痛いわ!」
 鼠は上の挑戦を一笑に付すと、大鉞を片手に斬りかかった。上も魂炎で応じる。魔剣の刀身に銀色の炎が宿り、巨大な鉞を受け止めた。歯ごたえのある相手と見て、没鬼が牙を剥いて笑う。
 二人は二十余合ほど打ち合ったが、鼠の膂力、上の剣技が拮抗して勝負がつかない。
 このままでは体力に勝る鼠には勝てないと考えた上は、秘技により一気に決着をつけんと図った。いったん間合いを開けて溜めを作り、没鬼の機先を制して空を断つ。忽ち銀の炎が宙を裂いて伸び、人鼠の真芯を捉えた。魔力を帯びた剣圧で巨木をなぎ倒し城門を打ち破る騎士魔剣の奥義・剣風破である。特に、代々の魂の騎士団長に伝えられる魔剣・魂炎の剣風は目映い銀の光を放つことから銀華炎とも呼ばれていた。
 強烈無比な銀華炎を真っ向から受け、鼠は血しぶきを上げて背後に吹き飛んだ。手応えありと見た上繰風は、勝利の騎士儀礼を取って静かに魔剣を収める。だが、その己の剣技への自信が仇となった。
 そう、常人ならば、帝国一の騎士が放った渾身の一撃を受けて無事でいられるはずがなかった。だが、鼠没鬼は人の範疇を超えた強靭な肉体を持っていた。鼠は、吹き飛ばされながらも空中で態勢を整え、着地と同時に地面を蹴って、大鉞を振りかぶって斬りかかる。
「なにっ」
 上が再び魔剣を抜くより早く、鼠の大鉞が騎士の首にかかっていた。
「討ち取ったり!」
 狂ったような雄叫びが戦場を駆け渡った。
 これが、帝国一の騎士、魂の騎士団長・上繰風の最期であった。

 鼠没鬼は上の首級を大鉞の穂先に掲げると、奇声を上げて周囲にいるものに手当たり次第に襲いかかった。敵味方の別もなく、ただ殺戮あるのみである。この残忍凶悪な悪鬼の所業に、さしもの魂の騎士たちも恐れをなしたか、徐々に左右へと退いていった。
 こうして、鼠将軍の猪突猛進により魂の騎士団を蹴散らした崇軍左翼は、とうとう王連力率いる十万の久麗本隊と相見えたのである。

* * * * *

第五話

王連力、飛虎山に策を授けること

 その頃、藩将軍の右翼軍は帝国軍左翼・目の騎士団と対峙していた。だが、奇妙なことに、戦場の反対側では血みどろの戦いが繰り広げられているにもかかわらず、こちらは両軍とも仕掛ける気配がない。まるで、互いになにか時を待っているようであった。
「おかしいですね。少しは攻撃して来るものと思ったのですが…」
 藩文竜は首を傾げた。
「まあ、こちらとしては好都合ですが」
 そのとき、栄が見てきたように告げた。
「藩将軍、鼠将軍が王連力本隊に到達しましたが」
「ふむ。では、そろそろですね」
「準備は万端、いつでもどうぞ」
 栄は槍に寄りかかった態勢で軽薄に言った。
「ところで、栄先生はどこまで視ることができるのです?」
「どこまで…と問われると非常に答えにくいですね」栄は藩の問いに頭をかきかき答えた。「いま、この辺りに確かに存在している現象を、おぼろげに掴むことができるだけです、と答えても理解してはもらえないのでしょうね」
 藩文竜はじっと考え込んで目ばたきをした。
「雲を掴むような話ですな。私には魔術がとんと分からない」
「知らない方が幸せなこともあります」栄は頭を振ってしみじみ言った。「見え過ぎることはかえって判断を誤らせる」
「成る程」藩将軍は頷いたが、心は何処か別の場所にあるというふうであった。「それでは、当初の予定どおり、半刻後に攻撃を開始しましょう」

 王大元帥は、本陣に座したまま刻一刻と変化する戦況を確実に把握していた。まず右翼の鍵の騎士団が崩れたこと。そして、敵軍左翼が中央に突出したこと。中央の魂の騎士団と敵左翼軍が血みどろの乱戦を繰り広げている間も、敵軍右翼と自軍左翼は動かず剣を交えていないこと。そして、上繰風が斃され、鼠没鬼がやってきたこと。
 沈黙を保つ大元帥の元に、参謀の飛虎山(ひ・こざん)が畏まって現れた。大元帥付参謀という役職にありながら、まだ二十を少し越えたくらいの秀眉の若者である。
「大元帥閣下、惧れながら申し上げます」
「うむ、申してみよ」
「敵軍左翼は多くの兵を失っているものの、総大将鼠没鬼の蛮勇に奮い立ち頗る意気軒高、対する我が方は練達の精兵なれど、勢に欠けております。このまま鼠と当たれば、苦戦は免れませぬ」
「ならば退くか?」
 王連力は静かに言った。
「誠に遺憾ながら、その方が宜しいかと」
「いまここで戦わずして退けば、崇雄子は、参謀の言う勢とやらをさらに強めるのではないかな」
 飛参謀は慌ててそれを否定した。
「いえ、不才の申しておるのはこの戦場での勢にございます。大局にての勢ではございません」
「ふむ。確かに、参謀の責は戦場で勝利を収めることで、参謀の戦の対手は鼠将軍じゃ。しかし、わしの戦は、鼠将軍でも藩将軍でもない、南東道王・崇雄子が相手よ」
 王連力は、自軍前衛が戦端を開いたのを遠目に見て取った。
「わしはこの一連の戦に勝たねばならぬ。そのためにはここで退くことはならぬ」
「多くの兵が失われます」飛虎山はなおも言い張った。「いったん兵を引き、勝てる戦いを選んで戦うべきです」
 大元帥は息子といってよいくらい若い参謀の目を見つめた。若く才気に溢れた逸材だ。だが、まだ理に傾きすぎ、実を抜くすべを身につけていない。
「いまここで兵を引けば、崇雄子はさらに大軍を送り込んでこよう。皇輿が侵され、帝の御威が弱まったとみれば、辺境諸公のうちには公然と離反するものも現れよう。民は、いざというときに自分たちを守ってくれなかった久麗を恨み、侵略者である崇雄子に降るだろう。戦場の勢は一時の勢に過ぎぬが、大局の勢は動かし難いものじゃ。たとえ戦場では負けたとしても、戦いに踏みとどまることが大局の勝利となる場合もあるのだぞ。戦ってこれに勝てば上策だが、負ければ下策。戦わずして負けるのは下の下じゃ。ここは退くべきでない戦場じゃ」
 王大元帥は滔々と論を説いた。
「しかし…無駄死になさるお積りですか」
 王連力は若者の無礼な言葉を鷹揚に受け止めた。
「参謀はまだ戦場の経験も浅い。それで大局を見よと言うのがそもそも無理な注文だ。ここはわしに一つ策がある」
 私とて十や二十の戦場はくぐり抜けております…と口を挟みかけた飛虎山だが、大元帥に策があると聞いてそれを飲み込み、黙って次の言葉を待った。
 王連力は懐紙と筆を取り出すと、それにさらさらと何事かを書き留め、巻物にして紐で結んだ。
「参謀には一万の兵を与える。そうだな、暮薄将軍の第五軍団がよかろう。参謀は半刻ほど経ったら兵を率い、鼠没鬼の背後をかくと見せてそのまま我軍左翼の目の騎士団と合流し、この書を騎士団長の礼見殿に渡してくれ」
 目の騎士団長・礼見は、若かりし頃は文官を勤めていたという異色の騎士団長であったが、王連力がもっとも信頼を寄せる男であった。
「…わかりました」
 大元帥の意図を内心訝しみながらも、飛虎山は書状を恭しく戴くと、早速第五軍団の暮薄将軍の元へ向かった。
「わしとて帝に全権を任された久麗の大元帥よ。野盗ごときに遅れはとらぬ」
 若き参謀の後ろ姿を見送りながら、王連力は呟いた。

* * * * *

第六話

王連力、回天牙攻の法を用いること

 鼠将軍率いる崇軍左翼は、騎士団との戦闘で数万の兵を失っていたが、怒涛の勢いをもって久麗軍本隊と激突した。久麗軍もよく抵抗したが、やがて押されて後退を始める。飛虎山の云う勢の違いが現れたのである。
 半刻ほどの間に、鼠軍は王連力の本陣近くまで侵攻していた。これはもちろん総大将鼠没鬼の力技によるものである。当たるを幸い伐り倒す猛攻で、鼠一人に数百、いや、一千を超える兵が斃されている。
 だが、ここまで懐深くに入り込めたのは将軍の突撃によるところが大きかったから、戦列は王軍に打ち込まれた楔のごとく縦に長く伸びていた。王連力は、これを待っていたのである。そして、飛虎山が言い付けどおりに一万の兵を率いて出立したのを確認すると、大元帥は麾下の諸将に号令を下した。
「これより、回天牙攻を開始する」
 大元帥の命を受けた伝令が直ちに各軍団長の元へ飛び、次に各大隊長、そして中隊長、小隊長に至るまで迅速に指示が伝わった。混乱を極める戦場で、ここまで精緻に兵を把握できる武将は他にいないといってよい。大局観に基づく大胆な戦略と、戦場での正確な用兵こそが、王連力を大元帥たらしめているといってよかった。

「いざ、反攻である!」
 第一軍団長・陸羽は、背中に生やした二つの羽根を打ち鳴らし太い尾を振るうと、腰に吊るした特製の鞘から六尺六寸の鋼の大剣を抜き放った。西域の少数民族・地竜民の出身である陸羽は、人間というよりは、羽根を持つ直立歩行の蜥蜴といってよい外見をしている。少数民族の出身で人ばなれした容貌魁偉の陸羽が国家鎮護の要である第一軍団長を務めているのは、久麗帝国が門地や経歴にとらわれることなく、能力本位で人材を登用する良い証であった。
 鼠軍の左辺に集結していた重歩兵中心の第一軍団は、陸羽の指揮により攻防一体の隊列を組んで、右方すなわち鼠軍の方向へとを前進を開始する。

「さて、ようやくと云っちゃあなんだが、試合開始、だな」
 仮設営の中で寝転がっていた第三軍団長・阿鳥は、伝達を受けると大きく伸びをし将机を蹴倒した。天幕を出ると、戦扇を開いて旗下の軍勢に号令をかける。「全軍! 後退!」
 鼠軍の右辺に退避していた第三軍団は、軍団長の命令通り、鼠軍からさらに離れるように後方へ後退を開始する。ただし、追撃を受ければ即反撃できるよう備えは怠らない。
 同じように、第一軍団後方の第四軍団は前方へ、第三軍団後方の第二軍団は左方へ、同時にそれぞれ移動を開始した。
 このようにして、王連力麾下十万の兵が、全体としては陣形を崩す事なく、その場で右回りに機動し始めたのである。自ら兵法書を記したこともある王連力は、これを指して車軸の勢、又は螺旋の勢と呼んでいる。防御戦において相手の勢を殺すには、自軍も同等の勢を持つか、完全にこれを吸収してしまうかのどちらかしかない。そして、鼠将軍のような怒濤の勢を持つ武将が相手では、自ら勢を生み出し対抗するのが上策と、王連力はみたのである。
 さらに巧妙なことに、鼠軍と直接当たった第一軍団の重歩兵隊は、攻撃を受け持つ長槍の小部隊と防御を受け持つ大盾の小部隊を交互に配した鋸歯の布陣を取っていた。ゆっくりと、しかし着実に強い圧力をかけてくる鋸歯の陣に対し、不用意に攻め返せば容易く防がれ、却って酷く攻め立てられる。かといって、どこかに逃げ道があるかといえば、後ろを振り向いても見えるのは敵軍の旗のみ。渦を巻く敵軍のただ中に閉じ込められ、退路は断たれているのであった。これまで、大将の後に続いて突撃していれば良かった鼠軍の兵士は、整然と組織だった反撃を受け浮き足立った。伸び切っていた戦線はそこかしこで寸断され、各個撃破される。
「どうした! 王連力の首はすぐ其処だぞ! 俺に続け!」
 鼠没鬼の檄も空しく、崇軍左翼の兵は臼に挽かれるように段々と削り取られていった。
 敵軍の猛攻の勢を螺旋の勢で静かに受け止め、ゆっくりと、しかし確実に噛み砕く。これが、大元帥・王連力が一見何の変哲もない方円陣に仕込んだ戦法、回天牙攻であった。

* * * * *

第七話

王連力絶命し久麗敗れること

 王連力恐るべし。
 斥候から最前線の報告を受け、藩文竜は感嘆の唸り声を上げた。久麗最強の騎士団をも蹴散らした圧倒的な勢をもった鼠軍を、押し返すでなくその場で圧殺するとは。やはり、王連力と正面から戦って勝つには、今の倍の兵力と、戦術を理解する有能な部将が必要だ。
 だが、自分も崇軍の指揮官として、なんとしてでもこの戦いには勝利せねばならない。藩文竜は再び覚悟を決めると、参謀・栄斗策を呼んだ。
「栄先生、そろそろ始めてもよろしいか」
「始めますか?」
 栄斗策は欠伸をして聞き返した。
「鼠将軍が思いのほか善戦したので様子を見ましたが、やはり猪突猛進だけでは大元帥には及ばなかったようだ。このまま放っておけば、この戦も勝負がついてしまいます」藩文竜は他人事のように鼠軍の戦いぶりを評した。
「あの男にはお似合いの結末ですが、あいにくと、我が王の名にかけて、この私に敗北は許されないのですよ」
「では、勝負を決めると致しましょうか」
 栄は不敵な笑みを浮かべた。
「お願いしますよ、先生」
 藩文竜は数歩引き下がる。
 栄が二言三言呪文をつぶやくと、その周囲に青白い光の陣が描かれ、その姿がかき消えた。
 やがて地響きが轟き、続いて地面が、最初は弱く、徐々に激しく揺れ出した。敵本陣からはるかに離れたところにいる藩文竜でさえ、支えなしには立っていられないほどである。土煙に覆われた戦場が再び晴れ渡ったとき、王連力の本陣は跡形もなく消え失せていた。強大な呪力による地殻変動が巨大な断層を生じ、王連力と周囲の兵をすべて飲み込んだのである。そして恐らく、本陣へと攻め込んだ鼠没鬼も。
「今のは、いったい…」
 藩文竜はゆっくりと立ち上がりながら栄斗策の姿を探した。
「魔具・地神槍…古代劫語で云う《ダル・ディアー》…の力ですよ」
 栄斗策は先ほどまで杖代わりに使っていた槍を片手に、まるで何事もなかったかのように藩文竜の背後に立っていた。
「ははは……魔具・熱核杖の炎の雨は一度だけ遠目に拝見しましたが、地神槍は初めてですね。まさか先生のもっておられるそれが魔具だとは…」
 藩文竜は呵々と笑った。これまで知略の限りを尽くして戦ってきたのが馬鹿々々しくなるような威力だ。この恐るべき魔具の力を操る崇王に逆らえるものがいるはずがない。
「魔具が常に立派な形をしているとは限りません。むしろ、誰しもが魔具だとは到底認識できぬような形に作り上げるのが魔具造りの神髄と、崇王は常日頃から仰っておられましたよ」
「いやはや、ここまでの力とは…これを最初から賜らないとは、崇王もお人が悪い」
 藩が冗談めかして云うと、栄は却って真面目くさった顔つきをして説いた。
「いえいえ、将軍、魔具を使うには幾つもの条件が必要です。まず、魔具には膨大な魔力を蓄えておく必要がありますから、そう頻繁に使えるものではありません。それに加えて、例えばこの地神槍は、大地に突き立てれば先ほどのような大地震を招来しますが、突き立てた人間はどうなるでしょう。そして、突き立てられた魔具そのものは……」
「成る程」藩文竜は愚昧ではなかったから、その言葉ですべてを悟った。「それで、空間術の使い手であられる栄先生を参謀に推されたわけですか」
「左様です」栄は肯いた。「私ならば、遠く離れた場所から目標まで転移し、槍を突き立て、そのまま元の場所へ戻ることができる。恐らく、王連力やその配下たちは、何が起こったのかわからぬうちに絶命したことでしょうな。もちろん、我らが英雄、鼠将軍も」
「流石です」藩文竜は手を打った。「すべては計算通り、我が軍の完全なる勝利です」

* * * * *

 大地震が起きたとき、飛虎山は丁度目の騎士団の控える久麗軍左翼へ到達しかかったところだった。激しい揺れを突いて自ら早馬を飛ばした飛虎山は、目の騎士団本陣に入って目を見開いた。もぬけの殻だ。
「爺め、敵前逃亡か!」
 目の騎士団長・礼見を罵った飛虎山だったが、気を取り直して部下に辺りの様子を探らせる。すると、馬追いの下男が一人見つかった。
「目の騎士団はどうしたのだ。どこへ姿をくらました?」
 問いつめる飛に、下男は間の抜けたような問いを返した。「あんた、飛虎の山さんかね?」
「たしかに……俺は飛虎山よ。だがどうして俺の名を?」
「ああ、んなら、礼見様に言付かってるんだがよ。あんたの持ちなすった文を、自分でご覧なせぇ、とな」
「何?」
 眉をひそめた飛虎山だったが、礼見の言付けというのが気に掛かり、本来は開けるべきでない密書を紐解いたのである。果たして、そこにはこう記されていた。
『小職、久麗のため死力を尽くすも、勝敗は此れ時の勢なり。小職の亡きあと、飛虎山に全権を委ねる。機を見て再起を期せ。 大元帥 王連力』
 飛虎山は号泣した。涙が涸れるまで大声で泣き尽くした。飛には、大元帥が何を覚悟したのかが手に取るようにわかった。思わせぶりの大元帥の言葉。そして先ほどの大地震。すべてが一つの結論に符合した。王連力は、恐るべき魔具で殺されることを予め知っていたのだ。そして、その予感通り、大元帥は死んだ。
 大元帥が云った策とは、この戦での勝利のための策ではなかった。大元帥は、身を捨てても久麗を守るための策を選んだのだ……己の不安が的中してしまったことに、飛虎山は悔やむに悔やみきれなかった。
 だが、いまさら悔やんでももう遅い。
 あとは、残されたものたちにできることをするだけである。
 飛虎山は涙を拭うと、暮薄将軍と語らい、全軍撤退のための準備を始めた。

* * * * *

 王連力は静かに待っていた。眼前の鼠没鬼は、時を待てば捕らえることもたやすいだろう。だが、不気味な沈黙を保つ藩軍はどうだ。何か策を持っていると見るのが妥当であろう。
 すでに打つべき手はすべて打った。取るべき道も決まっている。あとは、その時を待つだけである。
 果たして、大地が揺れ始めたとき、王大元帥は少しもうろたえる事なく、ただ黙って帝の在わします北西を遙拝し、久麗大元帥府の旗を高々と掲げさせたまま地割れに飲み込まれていったという。
 大元帥・王連力、享年五十六歳。老いたる帝国の最後の守護者、ここに没す。

* * * * *

 遡ること半刻前、目の騎士団団長・礼見は娘の礼未朱を呼び寄せた。
 未朱は今年で十八になるが、才色兼備で剣にも優れ、戦略眼もある。将来が楽しみな娘であった。
「騎士団を率い、戦場から速やかに退却しなさい」
 未朱が老父の言葉をどう解してよいのか分からずにいると、礼見は淡々と世間話でもするかのように言ったそうである。
「久麗は滅ぶ。早々に下野し、再起を図りなさい。大元帥閣下にはまこと申し訳が立たないが、閣下の命運はここで尽きた。わしには閣下の未来はまったく見えん。鼠将軍の未来もだ」
 礼見は漠たる未来を見ることができる、いわゆる千里眼の持ち主であった。それゆえ、その言葉は絶大なる尊敬と信頼を勝ち得ていた。魔剣も持たず、正式に軍略を学んだこともない貴族が最前線の指揮官たる騎士団長を務められているのは、ひとえにその千里眼によっていた。
「父上は…どうなされるのですか」
 未朱は眉間を険しくして尋ねた。
「わしの命運も尽きたようだ」礼見は微笑んで言った。
「ではわたくしもここに残ります」娘は凜とした態度で父に対した。「父を死地に置いて子が逃げのびる、誰がこれを孝と呼びましょうや?」
 礼見は目を細めた。
「確かに、親を見殺しにすれば孝とは呼ばれまい。だが、若くして死ぬのは道にもとることだ。小義に惑わされ大道を見誤るでないぞ。お前は若い。お前には未来がある」
 老人はそこでいったん言葉を切った。
「わしはこれまで、久麗のために尽くしてきたつもりだ。だが、わしの力ごときでは、時代の流れは変えられなかった。やがて東海を恐怖と暴力が支配する。そのとき、道を正しゅうするために立ち上がるものが現れよう。未朱よ、お前にはそのものたちの力になってほしい。このことはわしの騎士たちにもすでに言い含めてある」
 礼見が合図をすると、騎士団副長の来波(らいは)と香浦(こうほ)が姿を現した。二人とも文武両道に優れた若武者である。
「娘をよろしく頼みます。こんな娘だが、わしの目だけは受け継いでいるらしい」
 心から敬服している騎士団長に頭を下げられ、二人は慌てて最上級の服従礼をとった。続いて、未朱に対しても忠誠の騎士礼を取る。未朱は不本意ながらその騎士礼を受けた。
「これから、どうすればよろしいのですか?」
 未朱は泣き出しそうになるのを堪えて父に聞いた。
「叔父上を訪ねなさい」礼見はぼんやりと遠くを見つめながら言った。これまでに幾度となく礼家や久麗を救ってきた千里眼である。「叔父上は西のかた覇山で仙道を学び仙者となられたお方だ。しばらくの間はお前たちを匿ってくれよう。機を見て下山し、船を用意しなさい。やがて剣が森に現れ、闇を払い魔を討つだろう。樹々や獣と力を合わせ、剣を束ねて共に戦いなさい。勝利は暁と共に来る…」
 そこまで一気に語ると、礼見はふっと口を閉ざした。千里眼が切れたのだ。
「…わしに見えるのはここまでだ。お前たちは早々に撤退しなさい。わしはここでしばらく工作をしていく」
「…わかりました」未朱は頭を垂れて呟いた。「それでは、ごきげんよう、父上」
「うむ。達者でな」

* * * * *

第八話

帝都炎上し久麗滅びること

 王連力敗死の報を受け、帝都朱垂は驚愕を飛び越えて沈黙に包まれた。特に、大元帥に厚い信頼を寄せていた今上帝の嘆きは一方ならぬものであったが、その喪に服している暇のないことは誰の目にも明らかであった。南東道王崇雄子は、魔具による大地震で死んだ鼠没鬼を、久麗の大元帥と差し違えた英雄に祭り上げ、鼠将軍の敵討ちと称して帝国中央へと兵を進めてきたのである。
 兎も角も崇軍を迎え撃たねばならぬということで、軍や宮廷の重鎮による緊急の会議が招集されたが、帝国の三軍、すなわち陸軍、帝家・久一族の私兵である禁軍、皇帝直隷の騎士団それぞれの意見はばらばらで戦略の統一がとれず、幾度議論を重ねてもまったくまとまりを見なかった。これまで、帝国陸軍だけでなく、禁軍、騎士団をも人徳で束ね、軍事に対する政治の介入を遮ってきた大元帥・王連力が失われたことが改めて悔やまれるのである。
 それでも、丞相・久良山(きゅう・りょうざん)の裁定により、近衛禁軍総督・久嬰我(きゅう・えいが)を総司令として帝国軍を総動員することとなったが、地方の反応は疎らだった。既にこの時、崇雄子の威力を恐れて密かに藩文竜に通ずる地方総督もいたという。
 一方、王連力の遺言どおり敗軍をまとめて帝都に帰還した飛虎山は、報告のため宮廷に参内した。
 朱垂は決して難攻不落の要害ではなく、むしろ攻め易く守り難い、開けた沃野の中央にある。ここで徒らに民を巻き込むよりは、帝都を放棄し戦機を待つべし、というのが飛の論であったが、軍・宮廷の対策会議では、皇帝陛下は避難すれど帝都は死守すべしとの論が強かった。皇帝の姪ながら飛の論に賛同した久里秀(きゅう・りしゅう)内府の強い口添えがあったものの、結局、会議からは敗戦の責を不問とされたに留まり、飛の意見は入れられなかった。あるいは大元帥・王連力の遺言を明らかにしていればまた結果は異なったのかもしれないが、飛はそれを潔しとしなかったのである。
 帝国の将来に希望が持てなくなった飛は、第五軍団長・暮薄とともに下野する。戦地から帰還した軍のうち、王連力直系の兵の多くがこれに従ったため、飛と暮の下には、数万の戦力が残った。また、久里秀の内府禁軍三万も、飛と行動を共にして下野した。
 こうして、禁軍二十万のうち内府禁軍を欠き、皇帝を直接護衛する近衛兵団も帝都を離れ、帝都防衛に当たることができたのは辛うじて十万。また、精鋭の騎士団のうち、帝都守護の盾の騎士団に合流できたのは心の騎士団のみであった。陸軍の帝都守備隊五万も合わせ、朱垂都の兵力は二十万足らず。
 これに対して、攻め上る崇軍は、藩文竜将軍を総大将に、左右将軍にそれぞれ古夢譚(こ・むたん)と木武斗(もく・むとう)両将軍を、先鋒には猛将として知られる武雷本(ぶ・らいぼん)将軍を、殿軍に美蘭(び・らん)将軍を配し、総勢五十万の軍勢であった。
 禁軍総督久嬰我は、軍略の面では大元帥王連力に一歩譲るものの、かの幻刀・雷電と並び称せられる幻刀・鳳凰を佩き、武芸では上繰風に優るとも劣らないと謳われる帝国一の武人であった。今上帝の信任も厚く、大元帥亡きあと久麗軍をまとめられるのはこの男をおいて他にはないといってよかったのである。久嬰我は帝都守備隊を後詰めとし、直属の禁軍を中央に据え、盾と心の両騎士団を遊兵に用いる機動防御戦を採用した。
 一方の藩文竜は、数に物を言わせる古典的な包囲戦を仕掛けると見えた。
 かくて、久麗四百年の都、朱垂を巡る攻防の火蓋が切って落とされたのである。

* * * * *

 軍略家としての久嬰我の力量は、王連力ほどではないにせよ、敵将のそれを上回っていたと思しい。崇軍先鋒の武雷本は勇猛果敢に戦ったが、兵力にして十分の一ほどしかない機動部隊の騎士団に左右から迎え討たれ、早々に退却している。
 だが、藩文竜は同じ過ちを二度犯す男ではなかった。藩は左右両将に命じて敵軍機動部隊を中央へ引き付けると、あとは崇王派遣の魔道顧問団に全てを委ねたのである。
 このとき、武焔から派遣されていた顧問団の長は保明良(ほ・めいら)という魔女であった。保は、年の頃十五、六の青い髪をした美しい少女であったが、兵たちの間では、異界からやって来た魔神の化身で、異界の魔力を操ると噂されていた。その噂を裏付けるかのように、保明良には、猫ほどの大きさをした、この世の物とは思えぬ禍々しい昆虫のような生物が常に寄り添っていた。彼女は、他の事物には殆ど関心を向けないくせに、その薄気味の悪い生物だけは優しく愛でるのであった。
 保明良は藩将軍からの要請を受けると、頷きもせず、ただ無言で一本の樫の木の杖を取り出した。彼女の方術は呪文も用いず、触媒も用いることがない。保は杖を持ち上げ、二、三度まばたきし、そして、おもむろに杖を大地に打ち下ろした。
 すぐに、空が真白い閃光に包まれ燃え上がった。やがて灼熱の槍が大地に降り注ぎ、朱垂の都を、それを守る久麗軍ごと焼き尽くした。現世の炎熱地獄が、崇軍の前に広がっていた。そう、それは倉穴を滅ぼしたのと同じ炎の雨であった。魔具・熱核杖である。
 劫火に焼き滅ぼされ即死した者はまだ幸せだったかもしれない。残された敗残兵の末路は、それは凄まじいものだったからである。
 四百年の伝統の都はもはや跡形もなかった。そこには、ただ黒く焼け焦げた焼け野原が広がっているだけである。一瞬にして廃墟と化した街のあちこちから、死ぬことができなかった者たちのうめき声が聞こえる。親兄弟を、そして最愛の子供を失った民たちが、それでもなんとか助かろうともがいている姿は、哀れみよりもむしろ嫌悪を呼び起こした。顔の半分が焼け落ちたもの、手足が黒く炭化しているもの、倒れた建物の下敷きになって胴体のほとんどが潰れかけているもの、目を灼かれ眼窩が丸い口を開けているもの、その他にも数え切れぬほどの、生きながらにして死よりも悲惨な運命に叩き落とされたものたちがそこかしこに蠢いていた。
 友軍の将を犠牲にしてでも勝利を求める非情な合理主義者の藩文竜でさえ、「これは残念なことをした」と呟いたほどの惨状であったが、それを引き起こした保明良はまったくの無関心だった。嘆きもしなければ喜びもしない。ただ超然として周囲を睥睨するのみである。崇軍の兵たちが思わず目を背ける光景にも動じることのない彼女の姿は、まさしく鬼神と噂されるに相応しいものであった。
 かくて、帝都を巡る戦いはわずか半日で終わりを告げた。久麗軍の戦死者は数知れず、百万を数えた帝都の民は三人に二人が焼死するという悲惨な結果であった。
 まさにこの時から、崇雄子の名は恐怖の代名詞として東海の人々の心に強く刻み込まれていったのである。

* * * * *

 朱垂の北に、唐院という小さな県があった。ここの知事は久喜先(きゅう・きせん)といい、久麗皇族であったが方術に通じ、六塔に留学して幻術の導師の位を得たほどの才能を持つ術士であった。今上帝はこの喜先を頼って唐院に落ち延びたのである。
 しかし、まもなく帝都陥落の報が伝わると、久喜先は途端に恐ろしくなった。あの地獄の軍勢が攻めて来れば、久麗の皇帝を匿った自分は到底無事では済むまい。そして実際に、数日後には武将軍の先遣隊がつい目と鼻の先まで追撃してきたのである。
 武将軍の軍団が唐院郊外に到達すると、城門は開け放たれ、白い旗が高々と掲げられていた。
 久喜先は、戦う前に降伏を選んだのであった。
 今上帝は既に喜先の手により殺されていた。喜先は、皇帝が崇雄子によって捕虜として生かされ、後に皇帝自身やその忠臣に復讐されることを恐れたのである。皇帝は侵略者に殺されたと言い抜ければ、真実は誰にもわかるまい。
 こうして武雷本に降った喜先は、夏喜先と名を変え、その得意とする幻術の法で自らの姿まで変えた。さらに崇雄子に取り入って、魔道顧問に取り立てられるまでになったのであるが、それはまた後の話である。
 かくて四百年の帝国久麗は滅ぶ。
 そして、久麗最後の皇帝が殺された唐院の地は、いつしか唐忌と呼ばれるようになった。

* * * * *

第九話

崇軍が朱漕府を脅かすこと

 自由国家・越司(えつじ)は、主都・朱漕府(しゅそうふ)、座典(ざでん)、院宮峰(いんぐうほう)、そして越司本国から離れた離島の霊門(れいもん)の四つの主要都市による連合国家であった。時の越司元首・富友良(ふ・ゆうら)大総理は、院宮峰民会議長と同市総理を併せて二十年間務めた老練の大政治家であったが、崇雄子の軍事的野心については過小に評価していた。さらには、まさかかの大帝国久麗があっけなく滅ぶなどとは露ほどにも思わなかった。しかして、久麗帝国が崩壊し、崇軍が朱漕府に向けて動き出したときにようやく初めて戦争の危機に気がついたのである。
 だが、いったん動き始めれば、富友良はこの上なく鋭敏で有能な指導者であった。陸海司令部に命じて防衛線を築かせ、市場の統制により衣食の物資を倉庫に集め、仮に防衛線が破られたとしても、四都市のそれぞれが籠城戦を戦えるよう準備を整えた。富の指導の下、たった三週間で、越司は完全な臨戦態勢に切り替わったのである。
 越司軍は、四つの都市それぞれに属する陸軍第一軍団から第四軍団各五万と、陸軍統帥府属中央軍五万、そして海軍提督府属連合海軍一個艦隊からなっていた。
 陸軍司令長官・虞理鵬(ぐ・りほう)は、陸軍情報部の出身であったから、富大総理よりはことの深刻さを理解していた。崇軍に対してまともに戦争を仕掛けても、強大な方術を操る魔具の前にひとたまりもないであろう。だが、一方で、久麗の朱垂都をまったく無価値の焦土と化したことには多少の負い目を感じているはずである。仮に崇雄子に道徳というものが欠如しているとしても、越司四都が東海の通商の要であることは十二分に理解しているはずだ。だからこそ、久麗残党の制圧より先に越司に軍を向けたのであろう。
 虞は、表向きは、敵軍に朱漕府の無血開城を打診する密使を送りつつ、同時にいくつかの策を練っていた。

* * * * *

 久麗東部国境。崇軍に制圧された小都市、魚洲都(ぎょしゅうと)が、武雷本率いる崇軍先遣隊の拠点となっていた。
 武は形ばかりの小競り合いでこの街を陥とすと、もっとも大きな屋敷を接収し仮の本陣とした。街の周囲には防御柵が築かれ、昼夜となく、兵士がおよそ百歩の間合いで巡回する厳戒態勢が取られていた。
 男が魚洲都を訪れたのは、魚洲都制圧から二日経った日の夕刻である。巡回する兵士に簡単に拘束された男は、越司陸軍司令・虞理鵬の密使と名乗った。
 武雷本は話を聞くやすぐさま男を屋敷の応接間に呼び付けた。内応か、降伏の相談か。いずれにせよ、敵軍司令を交渉事で押さえられれば、藩文竜将軍だけでなく、崇王自らもお喜びになるだろう。
 赤い幅広の頭巾を被り、紺の垂を付けた鎖帷子に身を固めた武雷本は、左右に重武装の衛兵を従え、座布団の上に胡座をかいていた。
「その方が虞理鵬の使者とやらか。まあそこに座られい。その方は、乳酪は嗜まれるか? 韋駄夢の上物があるが…我輩はこれが好物でな。毎月、乳酪を食す会を催しておる。その方も会に加わらぬか?」
 使者は丁重に申し出を断ると、平伏して口上を述べた。
「この度は、勇将の誉れ高き武将軍にお目通りかない、身に余る光栄にございます…」
 武は、使者の口上を皆まで聞かず遮った。
「前口上はよい、早々に本題に入られい」
「は、これは失礼を」
 使者は平伏し、周囲を気にするように左右を見回した。
「できますれば、お人払いを頂ければ…」
「ならん、それで喋れぬようなことであればたいした話ではあるまい。さあ、話せ」
 武に強く促され、使者は不承不承口を開いた。
「我が司令長官は、久麗大帝国のように、崇軍とみだりに争い却って国を滅ぼすよりは、戦事なく朱漕府を明け渡したいとの意向を持っております」
 武雷本は膝を打って喜んだ。これはしたり。向こうから首を献上したいというのだ。これに乗じぬ手はあるまい。
「して、何時迄に朱漕府を明け渡し願えるのか?」
「そうですな、半年ほど時間を頂ければ…」
 使者の悠長な言葉に、武雷本は激高した。
「半年だと? ふざけるのも大概にせい!」
 武が怒りに席を立ちかけたのを見て、使者は慌てて言葉を継いだ。
「では、三カ月ほど」
「ならん、ならん。話にならん」武は大仰に首を横に振って見せた。
「では、一カ月で如何か」
 武の表情が微妙に変わったのを見て、使者は内心ほくそ笑んだ。
「ここ魚洲都より朱漕府まで何里ある?」
 武は逆に使者に問い立てた。
「およそ二百と十里ほどでございます」
 使者の言葉を聞き、武は勝ち誇ったように続けた。
「それでは、我が軍は三日の間に朱漕府に到達致すぞ。それでもそのような悠長なことを言って居られるかな」
「ふむ」使者は少し考え込むようなそぶりを見せた。「されば、二週間。二週間でなんとか、国内をまとめて朱漕府を明け渡しましょう」
「我が軍は三日で攻め込むのだぞ」武は勝利を確信したような笑みを浮かべて言った。「二週間、そのような悠長なことを言っておる間に、我が軍は朱漕を破滅させるがよいか」
「では十日。各所への調整も困難を極めましょうが…」
「三日と云っておるのだ、三日と」
 武は嵩にきて畳み掛けた。「我が軍と事を構えたいか、否か」
「では、一週間」使者は掠れた声を絞り出した。「一週間で如何か」
「一週間!」武雷本は大喝した。「よいか、我が軍は、かの大帝国久麗を半日で滅ぼしたのだぞ? 一週間もあれば、越司など跡形もないわ」
 それを聞いて、使者は突然背を起こし、呵々と笑った。それは、かの武雷本ですら呆気に取られるほどの豪快な哄笑であった。
「ははは、半日で久麗を滅ぼしたと?」使者は大笑しながら云った。「その久麗の騎士団と、半日はおろか半刻たりと刃を交えていられず逃げ帰った将軍が、これは面白いことを云う」
「き、貴様」武雷本はその身を怒りにうち震わせた。「笑いおったな!」
「はは、これが笑わずにはおられんよ」使者は楽しげに笑い続けた。「崇軍が久麗を滅ぼしたのも、武力ではなく魔具の力に頼っただけ、しかも、どうせ今回は藩文竜から魔具は使うなとお達しが出ているのだろう? それでありながら一週間で越司を陥とすなどとは笑止千万、よくもまあ云ったものだ」
 武雷本の顔が真っ赤に滾った。図星を指されて云い返す言葉も出ないのだ。
「貴様ぁぁ!」
 武は傍らの得物を取ると、狙い過たず使者の頭を打った。これまでに数知れぬ敵兵を撲殺してきた、七十二斥の鉄球棍の一撃である。
 だが、武の一撃は当たらなかった。否、正確には、男の拳に弾かれたのだ。
「なんだと…!」
 驚駭した武が反射的に腰を落として身構えると、男は瞳に嬉々とした輝きを湛え、再び笑いながら云った。
「筋はいい。流石は元剣教会の二桁だっただけのことはある。だが、まだ練気が浅いようだな」
 使者と名乗っていたその男は、軽やかに身を翻すと、部屋の窓枠に飛び乗った。
「さらば」
 男は武に向かって軍隊式の敬礼をすると、窓の外へと消えていった。
「待て! 逃がすな、追え!」
 武将軍の号令一喝、崇軍の兵士がどっと群がる。だが、男はそれを一蹴し、あっという間に包囲網を突破していった。
「ははは、そう焦ることもあるまい。いずれ戦場で相見えよう」
 男の快活な声だけが、魚洲都中に響きわたったのであった。

* * * * *

 武はしばし茫然自失としていたが、やがて我に返ると周囲に向かって怒鳴りつけた。
「安を呼べ! 安、安陳冠はいずこ!」
「ここにございます」
 進み出たのは、青年というよりはまだ少年の僧であった。若いながら精悍な顔立ち、剃髪した頭には白い鉢巻きを巻き、黒衣を身にまとっている。
「おお、そこにおったか。その方、今の男を見たか」
「いいえ、拝見してございません。が、なにか」
 安は跪きながら、主の顔を伺った。
「うむ、実は、越司の虞理鵬の使者とやらが来ておったが、きやつめ、我輩の鉄球棍を素手で受け流しおった。もしや、その方と同じ、亜空の衆ではないかと思ってな」
 亜空衆。それは、西域は大羅漢道から伝わったとされる修験僧の一派である。己の心身をひたすらに鍛練し、素手の一撃はどんな刀より鋭く、その肉体は鎧のように弓矢を弾くという。武は実物を見るまでその存在を信じていなかったが、この安陳冠という少年僧の技量を見て感服し、是非にと自軍に引き入れたのであった。安も、当時はまだ師範に付いて修練を積んでいたが、もはや己の力量は師範を超えたと確信し始めたところであったから、武の申し出を受け、師範を殺して崇軍に加わったのである。
「その男、虞理鵬の使者と申されましたか?」
 安は平伏したまま、武の顔色を伺った。
「うむ、そう名乗っておった」
 武はぞんざいに答えた。片手はせわしなく鉄球棍をいじっている。あのような手練れに、いとも簡単に本陣まで侵入を許したことが不安でたまらないのだ。渾身の一撃という訳ではなかったが、常人相手なら確実に頭を打ち砕いていたはずの鉄球棒の打撃が、こともあろうに素手で打ち返されたのだ。避けられたというならともかく、力勝負で打ち負けたという事実が、武の心に重くのしかかっていた。
「それはおそらく使者ではなく、虞理鵬本人でございましょう」安は確信に満ちた口調で告げた。
「なんと?!」
 驚く武雷本に、安は続けた。
「亜空虞理鵬と云えば、私のような若輩でもその名を知っているほどの、亜空の中では高名な男です。若くして亜空衆を抜け、越司の軍人となって活躍したとか」
「そうであったか…」
 武は、敵将自らがつい先程まで目の前にいたということを思うと内心忸怩たる思いであった。敵将の首をみすみす取り逃がしたとあっては藩将軍や崇王に申し訳が経たぬ。だが、同時に、あれほどの力量をもつ男に果たして本気で戦って勝てるのか、そこに漠然たる不安があった。
「しかし、将軍。私がいるからには、虞理鵬なぞ恐るるに足りません。戦場で相見えたなら、必ずやその首取ってご覧にかけましょう」
 安はそう断言すると、にやりと不気味な笑みを浮かべて見せたのであった。

* * * * *

 虞理鵬は、朱漕府に戻るとすぐに統帥府幕僚本部に立ち寄った。
「お帰りなさいませ、長官殿」
 虞を出迎えたのは、黒い長衣に身を包み、神秘的な雰囲気を漂わせる黒髪の美女である。女の身ながら作戦幕僚兼参謀長代行の肩書を持ち、越司軍の中枢を占める才媛、那多(なだ)であった。
「はは、あの武雷本と拳を交わして来たぞ」
 虞は那多の姿を見ると、楽しそうに告げた。
「あれほど、お一人では行動なさいますなと申し上げましたのに。今宵は星辰が吉方に在りましたから良かったものの、ひとつ間違えば死ぬところでございました」
 那多はにこりともせず、静かな声で虞を諌めた。
「まあ、そう云うな。いくつか有益な情報も聞き出して来た。どうやら武は、一カ月でここを陥とすよう命じられているらしい。しかも、できれば魔具抜きでな」
 那多は顎に手をやり小さく頷いた。長い黒髪が微かに揺れる。
「…それでは、一カ月の猶予がある訳でございますね」
「うむ、だが、余り悠長にはしていられんぞ。戦が一カ月を超えれば、敵はやむなく魔具に頼ってくる。朱漕府は港町だ。津波や洪水を自在に操るという流水輪を使われれば、ひとたまりもない。
 俺はさっそく、艦隊司令と大総理にかけあってくる」
 虞は国家の一大事を前にして、むしろこれを楽しむかのような口ぶりで云った。まったく、彼にとって戦事と政治事は頭の運動にすぎないのである。

 一週間後。前線の斥候が崇軍の動きを伝えてくると、虞理鵬はすぐさま麾下の蛮醜大(ばん・しゅうたい)将軍に命じて第一軍団を出撃させた。武雷本の先遣隊十万に対し兵力は半分。しかし、強行軍で久麗東部を制圧してきた武軍に比べ、一カ月間の十分な準備を重ねた越司軍に利があった。
 緒戦の感触から正面突破は厳しいと観念した武将軍は、自軍を二つに分け、一つを陽動として敵軍を誘い出し、別動隊がこの裏をかく作戦をとった。しかし、陽動部隊が大きく機動している間に、まだ準備が整っていない別動隊のもとへ敵の本隊が大挙して押し寄せ、武はほうほうの態で引き揚げた。
 次に、武雷本は兵力差を利用した時間差による波状攻撃をかけたが、これもまた絶妙な伏兵によって各個撃破の憂き目に遭い、武は三度撤退を余儀無くされた。
 越司側の主将である蛮醜大は金で雇われたいわゆる傭兵将軍であったが、指揮に優れ、常に報酬に見合うだけの働きはした。また、副将の干律馮(ひ・りつふう)も勉強家で若くして王連力の兵法に通じ、人望も厚い好漢であった。
 さらに、彼らには参謀長代行の那多が着いていた。那多は敵軍の動きを先んじて両将に伝え、これを打ち破るための的確な助言を与えた。越司軍がことごとく崇軍の戦術を破ったため、武将軍は内通者を疑ったというが、すべては那多の予言めいた指示によるものだった。彼女には方術の心得があり、巫術卜占に長けていたのである。
 だが、越司第一軍団は、有利に戦いを進めながらも決して無理な戦いはしなかった。防衛戦であることを強く意識し、武将軍の繰り出す鋭い矛先をのらりくらりと躱すが如き戦法を取ったのである。

 さて、前線で第一軍団が敵軍に消耗戦を仕掛けて時間を稼いでいる間に、虞理鵬は二人の男のもとを訪れていた。
 一人は、座典市に住む大富豪、段虞麟(だん・ぐりん)である。この男は貿易公司の大株主であり、その有り余る財を使って傭兵を集め、軍艦を建造し、私設の陸軍と艦隊を築いていた。越司の影の支配者とも揶揄される男だが、その大人物ぶりは虞もよく知っていた。
「おお、長官殿か。これはこれはお久しゅう。よう来られた。まあ入れ」
 段虞麟は、虞理鵬の来訪を聞くと、自ら居宅の外門まで出迎えた。ここ、居仁苑と名付けられた開豁明媚の庭園は、市民にも広く開放され、憩いの場となっている。段は、司令長官を屋敷まで案内すると、茶室に招き入れた。
「急な来訪ゆえ、たいしたものはないんだが、茶葉だけは上等のものを用意しているつもりだ」
 段は手慣れた手つきで茶を抽れると、生菓子とともに虞に差し出した。
「ふうむ、これは誠に結構なものですな」一口啜って虞が唸る。
「東方は毛郡の茶葉だよ。公司が近年力を入れている交易路の一つだな。毛郡の太紗との交易はまだ端緒についたばかりだが、一年で数百万両の利益を上げている。有望株という訳だ。もちろん、俺も一口乗っているがね」
 段は自分の茶碗を口元まで運んだが、口をつけず滔々と喋り続けた。
「越司がここまでの繁栄を築き上げることができたのは、ひとえに地の利、人の利、そして天の利があったからだ。まず、地の利とは、朱漕府が東海の南北を結ぶ要衝の地で、東方に開けた湾を持つ天然の良港だということだ。人の利とは、朱漕の重要性を見抜き街の礎を築き上げた、越司の四都連合体制を作り上げた霊門卿・儒梨、貿易公司を設立して海上交易を始めた大技師・彫須陶ら多くの偉人がこの地に生まれたことだ。そして天の利とは、この地のすぐ西に、礼と義を重んじる平和の大帝国久麗が長らく続き、わが越司は外敵の脅威なくして商売に勤しんでいられたことだ。この結果、すべての海路は朱漕に通ず、とまで云われる今の繁栄が築き上げられたわけだ」
「お説ごもっともです」虞は頷いた。「私が参ったのも、まさにその越司の繁栄を守るため…」
「この国家の一大事に長官御自らが尋ねて来たのだから、用件は云わずとわかっているさ」
 段は虞の言葉を遮って云った。
「我が護衛艦隊十八隻、必要とあらば長官の下に馳せ参じよう」
 虞は内心舌を巻いた。流石は越司の影の支配者である。計画は既に見抜かれていたか。
「その時が来たならば、ご協力を有り難くお受けしたいと思うので宜しくお願い申し上げる」
 虞は丁重に頭を下げた。
「あと、長官にはとりあえず百万両ほど用立てしよう。足りなければ追加で用立てる」
 さすがの虞理鵬もこれには驚いた。百万両と云えば陸軍省の一年の予算に匹敵する額である。それをいとも簡単にくれてやるというのだから、段の財力の程が伺い知れる。
「誠にかたじけない」虞はもう一度頭を下げた。
「なぁに、俺は越司と運命共同体というだけだ。私利私欲のために払う金ゆえ、惜しまず使ってくれ」
 そこで二人は意気投合して笑ったのであった。

 次に虞理鵬は、朱漕府から三日ほど離れた寒村・郭螺を、その身ひとつでふらりと訪れた。
 虞が探していたのは、黄水竜(こう・すいりゅう)という男である。この黄という男は、呪文も呪具も用いず、岩を砕き鉄を切り裂く不可思議な力を使うことで恐れられていたが、自らを与えられし者、賦与者と称し、同じような力を持つ者たちを集め、裁音という集団の統領となっていた。裁音は、軍艦こそ持たないが、小型の高速艇を中心とした精鋭の艦隊を築き上げ、越司沿岸にたびたび襲撃を仕掛けている。俗に云えば海賊の類なのであるが、彼ら自身は、賦与者の解放について某かの信念を持っているらしかった。
 その裁音の根拠と目されているのが、ここ郭螺である。
 郭螺は越司の北の外れに位置し、土地貧しく農耕には適さぬが、四面を峻険な山と荒海に囲まれた天然の要害であった。黄水竜は、艦隊を率いて遠征していない時は、この強固な自然の砦に籠っていると噂されていた。
 虞はここでも自分自身の使者と名乗り、黄水竜に会わせるよう要望した。だが、郭螺に続く峠道を守る裁音の兵の反応は芳しくなかった。差別され抑圧されてきた階級である裁音は、政府や軍隊に強い嫌悪を抱いていたからである。
「なに? 陸軍長官の使いだと? おい、てめえら、やっちまえ!」
 郭螺の入り口を守っていた守備隊長は、二十名ほどの手勢を率いて虞に襲いかかった。だが、もとより亜空虞理鵬の敵ではない。数呼吸のうちに蹴散らされ、うめき声を上げながら地面に転がった。
「おい、お前ら。俺は何もお前らと争いに来たんじゃない。お前らの力を貸してもらうために来たんだ」
 虞理鵬は倒れた男たちに向かって言ったが、守備兵らには答える気力はなかった。
 やむなく奥へ進もうとした虞理鵬は、突然強烈な殺気を感じて身構えた。
「侵入者か。何者だ?」
 岩場の陰から姿を現したのは背の高い道士風の男である。両の目を閉じているが、虞理鵬のことは「視えて」いるらしい。
「越司陸軍司令虞理鵬の使いで参った」虞理鵬は口上を述べ立てた。「黄水竜殿にお目にかかりたい」
 そのとたん、男はかっと両目を見開いた。燃えるような紅眼である。虞は、その瞳を見た瞬間、身体がずしりと重くなって身体が動かなくなった。金縛りにあったのである。
「平和の使いがこのような殺気を放つか? おこがましいことよ。この尉判風(い・ばんふう)の目はすべてお見通しだ」
 虞は額から脂汗を流しながら、なんとかして動こうとあがいた。しかし、尉という男の凶眼に射竦められ、まったく身動きが取れない。
「まずは貴様の背後にいる者が誰か、尋ねることにしようか」
 尉が一歩づつゆっくりと迫ってくる。虞は珍しく焦りを覚えた。気を練り、鍛練を積んだ亜空の身であったころなら、この程度の凶眼に捕らえられることなどなかったはずだ。だが、戦事や政治事にかまけて修行を怠っていたせいか、凶眼をかわし、あるいは跳ね返す術をとっさに取ることができなかった。悔やむに悔やまれぬ失態である。
 虞がもはや奥の手を出すしかないと覚悟を決めたその時であった。
 峠道の向こう側から、若い男の声がした。
「どうした? 侵入者か?」
 声を聞くや否や、尉の動きが止まった。その声が震える。
「水竜様…」
 悠々とした態度で道を歩いて来たのは、二十歳か、もう少し若いくらいの金髪碧眼の青年であった。この男が黄水竜か、と虞は動かぬ頭で考える。これ程の術士を顎で遣うのだから、自身も相当の術を遣うとみていいだろう。
「お前が眼力を用いるほどの相手がここにくるとは、珍しいことだからな」
 若者はそう云って、興味深げに虞を見つめた。
「判風、眼を閉じていいぞ」
「しかし…」
 躊躇する尉判風に、黄水竜は笑って云った。
「心配することはないだろう、俺がいるんだから」
「は…仰せのままに」
 尉判風は目を閉じた。とたんに虞を押さえ付けていた力が解け、身体が軽くなる。
「どうだ? 侵入者。この尉判風の眼力はなかなかのものだろう」
 黄水竜は面白そうに虞を眺めた。
「確かに、隙をつかれたことは認めよう。だが、気さえ張っていれば、この程度の眼力に降参する俺ではない」
 虞は不敵な笑みで返してみせる。強がりに聞こえるかもしれないが、半分以上は本気の言葉だ。
 黄水竜の眼差しが少し厳しくなった。
「なるほど。さすがは虞理鵬・陸軍司令長官、噂は事実に違わぬようだな」
「そうか、俺のことを知っているのか。それなら話は早い。
 今の越司を取り巻く状況は百も承知だと思うが、俺は貴公ら裁音の力を借りたい。無論、ただでとは云わない。お前達の組織を合法化し、政治活動を認め、広報活動と財政支援を行うつもりだ。これは富大総理の了解も既に得ている」
 虞はそこで言葉を切って相手の顔色を伺った。黄水竜はいくぶん神妙な面持ちで耳を傾けていたが、懐疑的な声で問い返した。
「そうやって甘い言葉で騙し、我々を使い捨てるつもりか?」
「さあな。結果的にどうなるかは俺も保証はできん。確かに、今の越司はお前達の理想郷ではないかもしれんし、昨日まで目の敵にしてきた政府を相手に信用できない気持ちも良く分かる。だが、掲げた理想を少しでも実現する機会を目の前にして、お前は何もせずに見ているつもりか? お前の言葉はその程度のものか?」
 虞理鵬は熱弁を振るった。大総理・富友良や、連合艦隊司令長官・景霖敢をも動かす雄弁である。
「うむ」
 黄水竜はうなった。「貴様の云うことにも一理ある。だが、崇雄子に与すれば、より大きい利が得られるとしたらどうだ?」
 黄の言葉に対し、虞は待ち構えていたかのようによどみなく説いた。
「ならば逆に問うが、崇雄子はお前達の理想の体現者か? このまま崇雄子が越司に入ればどうなるかは火を見るより明らかだ。崇軍は久麗朱垂都で罪のない百万人の市民を惨殺した。それは、お前達の掲げる自由と平等の意思に反しているのではないかな? 果たして、崇軍に与して、お前はそれでもなお抑圧を受けたものたちの解放を唱えることができるのか?
 自由独立を国是とする越司連邦があってこそ、お前たち裁音の理想は実現できるのではないか?」
「信用できんな。貴様の雄弁は立ち過ぎる」
 黄水竜はふいと顔を背けた。が、一呼吸おいて続けた。
「しかしさりとて、だ。貴様の云うとおり、崇雄子が信頼に値しない下賎であることは間違いない。ならば、これに当たるため一時的に同盟を結ぶという選択肢があったとして、これを選ぶことは誤りではない。それとなにより、貴様が単身でここに乗り込んできた覚悟がどれほどのものか、この目で確かめたくなった」
 虞理鵬は黙って青年の横顔を見つめた。その口元は、心なしか僅かに微笑んでいるように見えた。
 やがて黄は虞に向かって振り向くと、「そういうことか」と呟いた。
「裁音の水軍は、越司軍と同じように扱えるかどうかは分からんぞ。果たして貴様の思いどおりにうまくはまるかな」
「はは」虞はここにきて初めて笑いを上げた。「俺の思惑は、会う奴らすべてにことごとく見破られているようだな。これでは、崇雄子に見抜かれるのも時間の問題か?」
「さあな」黄は空を見上げ、彼方を一瞬凝視した。
「武雷本は朱漕府に突撃をかけているようだぞ。総大将が不在で大丈夫か?」
 黄水竜の碧い眼も、尉判風と同じように鋭い眼力を備えているとみえた。
「これから急いで帰還するさ」虞は黄に向かって手を差し伸べた。「これ以上はないという心強い味方を得たからには、我が軍も士気が上がるというものだ」
「それはどうだかな」黄はふんと鼻を鳴らしたが、その瞳には、己の理想を実現しようとする男の強い意気がみなぎっていたのであった。

* * * * *

第十話

虞理鵬、江道の女巨人と相見えること

 その頃、久麗中央の夏州に留まっていた藩文竜は、武雷本の苦戦を聞くと、王都武焔の守備に当たっていた神弐辺(じん・にへん)将軍を呼び寄せ、五万の兵を与えて後詰めに送り込んだ。これは、単に戦力を補強しただけでなく、武将軍への叱咤の意味も込められている。早く落とさぬと首をすげ替えるぞ、という意思を暗に示したのだ。神弐辺は武雷本とは異なり緻密な情報戦に長けていたから、虞理鵬に対抗できるのではないかとの読みも少なからずあった。
 一方、武雷本は、神弐辺の到着を待たず総攻撃を開始した。崇王に自分の真価を示す千載一遇の機会だというのに、手柄を横取りされてはたまらない。虞理鵬に看破されたように、藩文竜の奏上により、崇王からは魔具を貸し与えられていない。魔具を維持するための贄は莫迦にならないからだ。だが、約束の一カ月という期限が迫っている以上、王都から呼び出された神将軍には魔具が与えられたと見るべきだろう。ならば一層猶予はない。

 越司防衛線の左翼を守る兵士たちは、いち早く敵軍の異変に気が付いた。
 敵陣の中から、山のような大きなものが近づいてくる。それが五十尺はあろうかという巨大な女であることに気づくには、そう時間はかからなかった。
「虞理鵬はどこだ? 虞を出せ!」
 遥か頭上から雷鳴のような大音声で呼ばわる女は、矢や槍に刺されても平気な顔をして、纏わり付く兵士らをまるで鼠か蛙のように蹴飛ばし、踏み付けるのであった。
 それと前後して、防衛線右翼でも異変が起きた。
 敵陣から女のような装いをした男が歩み出てきたかと思うと、警戒して見守る越司軍の前で、額を強く押すのであった。すると、とたんに男の身体が巨大化し、これまた五十尺はあろうかという巨人と化したのである。
 男はその手を突き出し、越司軍の兵士を虫けらのように叩きつぶした。やはり弓矢や槍刀では相手にならず、防衛線はここでも後退を余儀無くされた。

 前線の報告が入ってくると、第一軍団司令部は慌ただしい喧噪に包まれた。
「蛮将軍、これ以上の戦線維持は不可能です。ここは城壁まで退きましょう」
 干律馮が云うと、蛮醜大はひとしきり唸り声を上げた後沈黙した。退くのは容易い。だが、城壁まで退却して果たして持ちこたえられるかが問題であった。報告が真実ならば、相手方には城壁より背の高い巨人が二人いるのだ。兵士を一振りでなぎ払う膂力の持ち主なら、壁を崩し門を破るのは造作もないことだろう。
「これは誠にいけません、惧れながら、如何に卦を立てても、八方塞がりでございます」
 那多が静かな声で告げた。これまで崇軍を三度跳ね返した彼女の卜占。これにも頼れないとすると、まさに打つ手なしである。
「おそらく敵は、江道の女巨人・泉斗立(せん・とりつ)と、鬼道の使い手、張魔王こと斉東斎(さいとうさい)でしょう。ただその身が大きいだけならば戦い方はありましょうが、いかんせん、避け難い凶卦が出ておりますゆえ、ここは退かれるべきかと存じまする」
 江道は毛郡の大森林を抜けた先、東海の最南東にある土地で、巨人族が支配していることで知られる。将軍と呼ばれる支配者は雲をつくような大巨人だとされるが、その姿を見たものは東海中央部にはいなかった。そもそも江道の巨人たちは東海人とは没交渉なのである。泉斗立は、わざわざ崇軍に傭兵として加わった変わり者であった。
 一方の斉東斎は、いわゆる左道使いの類であり、西南道の数州を支配し張魔王と号していたが、崇雄子に招かれてその傘下に入り、何故か武雷本と意気投合したのであった。
「やむを得ん、抗戦しつつ撤退だ。長弓隊は敵の顔を集中して狙え。城壁の守備隊にも、投槍器の準備を始めさせよ。長官が戻られるまで、少しでも時間を稼ぐんだ」
 そう命令を下すと、蛮将軍は席を立って天幕を出ようとした。干があわてて止める。
「将軍、どこへ行かれるのです」
「決まっているだろう。指揮官たる者、退却の時は殿軍を務めるものと決まっている」
 蛮は当然といった雰囲気で云った。
「お待ちください。もし将軍に万が一のことがあっては困ります。ここは私めが参りましょう」
 干は天幕の外に繋いであった伝令の馬に飛び乗って蛮醜大に云った。
「蛮将軍は軍全体の指揮を執るべきです。ここにお残りください。私が殿軍を務めてみせます」
 蛮醜大は何か云いたそうに口を開けたが、黙って若き副将の姿を見送った。

* * * * *

 武は、総攻撃に当たりためらわず切り札を使った。すなわち、これまで温存していた精鋭である内陣の者たちを前線に投入したのである。内陣に集う武人は、武雷本の眼鏡に適う猛者揃いであるだけでなく、毎月催される乳酪を食す会で培った厚い信頼で結ばれた同志であった。泉や斉東斎も、その一員であった。もっとも、武が大量の乳酪をどのように調達していたのかは定かではない。

 干律馮が前線の指揮に出立してから半刻ほど、蛮醜大は城壁守備隊の再編成に追われた。巨人を先鋒に押し立ててくる部隊の攻撃を予測して、これに集中的に打撃を与えられるよう、射撃部隊を集中したのである。
 一方の那多は策を求めて卜占を続けたが、何度卦を立てても、結果ははかばかしいものではなかった。あきらめた那多が占木を置いて席を立った時、かたんという音がして一本の占木が倒れた。
「これは…」
 那多は倒れた占木の象る卦を読んだ。
「待ち人来る」

 撤退の指揮を執るため最前線に走った干律馮は、左右両翼から迫ってくる二人の巨人に肝を抜かれた。五十尺はあろうかという小山のような巨人である。これを相手にまともに戦うことは難しいだろう。
 干将軍は手際よく退路を開き、前線の混乱する兵士らをよくまとめ、朱漕まで後退の指揮を執った。武雷本は、撤退する敵軍に追撃をかけんと騎兵部隊を送り込んだが、これはいささか勇み足であった。兵法に長じる干将軍の反撃にあったのである。しかし、それとて度重なる波状攻撃には耐えられるものではない。干は早々に城壁まで撤退した。
 武雷本は、先行する二人の巨人を追って、自ら陣頭に出て越司軍を追撃した。鉄球棍を振り回し、逃げ遅れた敵兵を撲殺して回る姿は羅刹の如くである。負けじとその後を追う内陣の武士たちも、それぞれ得物を手に激しい追撃を行った。
 半刻の後には、武の本隊は二人の巨人と合流し、朱漕府の城壁まで到達した。泉斗立と張魔王は、朱漕府の南西と南東に分かれて、それぞれ城壁に対峙した。
 物見の兵らは驚いて、すぐさま指令本部に報告した。
「南西城壁に例の女巨人が現れ、虞将軍を出せと呼ばわっておりますが…」
「放っておけ。投射兵器隊を集中させろ」蛮将軍は冷静を保って的確な指揮に努めた。「第二七砲兵隊と第三六長弓連隊を西門から回せ」
「城壁外で多くの難民が発生しています」
 今度は南門からの報告である。退却した兵を収容してすぐに城門が閉ざされたため、逃げ遅れた民が門外に殺到しているのである。
「捨ておけ」蛮は非情な決断を下した。「密偵が紛れ込むおそれがある」
「将軍、それはいささか道にもとるのではありませんか」
 干将軍が異議を申し立てたが、蛮は譲らなかった。
「城壁を守るのが今の最優先事項だ。これを抜かれれば朱漕は陥ちる。司令長官が戻られるまで持ちこたえるのが我々の仕事ではないか?」
 そう言われると、干将軍も言い返す言葉がない。
「武雷本の特使と名乗る輩が、無条件降伏を要求するビラを撒き、責任者との会談を求めております」
「相手にするでない。我が方が不利だと錯覚させる心理作戦だ」
 矢継ぎ早に指示を出す蛮将軍だったが、城壁からはより多くの伝令が飛ばされる。
「南西城壁の女巨人が怒り狂って暴れ出しました。城壁に大きな亀裂が入りはじめております。このままでは…」
 泉斗立は、敵将が姿を見せないことに腹を立て、とうとう素手で城壁を破壊しにかかったのだった。
「これ以上兵は回せません」前線指揮官の悲痛な声が響く。
「やむを得ますまい。私が相手を仕りましょう」
 そう言ったのが外ならぬ参謀長代行の那多だったので、一同は皆一様に驚いた。
「しかし…参謀殿」干将軍が口を挟もうとしたものの、
「何か、異議がございますか?」
 那多の強い意志を持ったひとにらみに言葉もなく引き下がる。蛮将軍も気迫に圧されて止める言葉がなかった。
(虞理鵬殿、貴方の留守を預かったからには、貴方が戻るまでは決して敵軍に城壁を越えさせは致しませぬ)
 那多は身支度を整えると、護衛兵数名を連れだって南西城壁へ急いだ。

 南西城壁では、第一三騎兵大隊と第二九弩弓連隊が、荒れ狂う女巨人に対して決死の抵抗を試みているところであった。だが、城壁はあちらこちら積石を剥がされ、大きな亀裂がいくつも入っている。
 那多はしばし黙想し気脈を通すと、大きく声を発した。
「無礼者!」
 その大喝にあてられたか、女巨人泉斗立はびくりと身をすくめ、そして皿のような目でぎろりと城壁の上の黒衣の娘を睨みつけた。
「あたしを無礼者という、あんたは何者だい」
 那多を一呑みにしてしまえそうな巨人の口から、不器用な東海語が発せられる。
「汝が如き粗野下品の者に、誇りある我が名を名乗るまでもない」
 味方の兵士さえも思わず背筋を正しゅうする、気魄に満ちた朗々たる声である。仙道の気韻を通じた那多の声は、聞く者の心神を震わせ、これを圧するのである。さしもの巨人も、しばしの間攻め手を休め、困惑したように、自分よりはるかに小さな娘を見つめる。
 那多は目を閉じ、すうと息を吸った。
 そして、那多が目を見開き、一歩を踏み出そうとしたとき。
 泉斗立は呪縛から解き放たれたように、巨大な拳を那多目がけて勢いよく繰り出した。
 周りの兵らが絶望に凍りついたその瞬間である。那多の脇方より何者かがすっと進み出たかと思うと、巨人の一撃を素手で受け止めるではないか。
「はははっ、待たせたな、那多」
 豪放快活な笑い声は、虞理鵬その人のものだった。
「虞理鵬殿…」
 さすがの那多も驚いた声を上げる。
 待ち人来る。これぞ占木の示した卦であったのだ。
「ほう、貴様が虞理鵬か?」
 頭上から降ってくる野太い声に、虞は天を見上げて言い返した。
「そういうお前は江道の女傑、泉斗立だな。お前が南東道で大暴れしたことは聞いているぞ。だが、この俺を相手にしようなどとは、これは随分大それたことを考えたものだ」
 満面に闘争への喜びを湛えて、虞は片方の拳を突き上げた。
「人ならぬお前が相手ならば、俺も遠慮はすまい。亜空虞理鵬の真の力、お目にかけよう」
 虞理鵬は気合をかけると、拳を両脇に着けて念を集中した。するとどうだろう。虞の髪は逆立ち、逞しい全身の筋肉が更に張り詰め、膨らんでいく。その体躯が普段より一回り大きくなったところで、虞はもう一度気合を発して念を止めた。
 取り巻く兵らは驚愕に目を見開き言葉もない。自分たちの司令官がこのような力を持っていたなどと、誰が想像できただろう?
「それではゆくぞ、巨人族の戦女よ」
 虞は不敵な眼差しを泉斗立に向ける。だが、巨人も負けてはいない。腕を振り上げ、思い切り城壁の上の虞に叩きつけた。だが、次の瞬間、泉は苦悶に顔を歪める。
 数人を一度に潰すことのできる分厚い掌を、虞の拳が貫いていたのだ。掌の下の虞は、勿論のこと健在である。
「はっ、練気が足りんな」
 虞がもう一発拳を入れると、女巨人は弾かれたように後ろへ倒れた。巨体が沈み、地響きが起こる。虞は後を追うように城壁から飛び降りた。三十尺ほど落下して軽い足取りで着地すると、虞は、まだ倒れたままうめき声を上げている巨人へと近づいた。
「図体の大きさに頼って、鍛練を怠ったな?」
 虞の声を聞いて、泉は怒りの形相をして体を起こした。人の背丈ほどもある太い足で起きざまに蹴りを食らわせる。だが、虞はそれもひょいと躱した。
「久しぶりに痛みを味わっただろう。まあ、よい薬になったと思って、江道へ帰るがいい」
 虞は諭すように言ったが、泉は聞いていなかった。血まみれになった拳を再び振り上げ、虞目がけて叩きつける。
「懲りん奴だな。もう少し戒めが必要か」
 虞は気を練って巨大な拳を弾くと、瞬時に跳躍して巨人の正面へ回り込んだ。がら空きになったみぞおちを思い切りよく手刀で突く。凄まじい発気。巨人族の鋼のような筋肉も、亜空の研ぎ澄まされた一撃の前にはまったく役立たずであった。泉は再び後ろに倒れた。今度は完全に白目を剥いている。
「手加減はしたが、立ち上がるのが精一杯というところだろう。しばらく戦事は諦めて、じっくりと功夫を積むのだな」
 虞は気を失った女巨人にそう言うと、城壁の中へと戻った。

* * * * *

第十一話

亜空相対し雌雄を決すること

「長官、よくぞ戻られました」
 那多が畏まって膝を折り、一礼をする。虞は明るく笑うと、参謀長代行の手をとって起こした。
「形式張ったことはいい。何にせよ、お前が無事でよかった」
「しかし、長官殿は私の命の恩人でございます」那多は未だ顔を伏せたままである。
「はは、馬鹿を言うな。それより、早く次の手を打たないと拙いことになる。とりあえず司令部に急ぐぞ」
 虞理鵬と那多が司令部に戻ると、戦況は更に悪化していた。虞が泉斗立を倒したことで、南西方面の守備は何とか持ち直していたが、南東方面からの攻撃は激しく、妖術を操る張魔王の前に南門も陥落寸前であった。
「長官、如何致しましょう」
 状況を簡潔に説明した蛮将軍は、すがるように虞を見つめる。如何に有能な傭兵将軍とはいえ、もはや持ちこたえるのは限界だった。
「とりあえず、俺が南門の前線を立て直す。那多、悪いが添え人を頼むぞ」
 司令部に戻ったのもつかの間、虞は、那多を伴って今度は南門へと急行する。

 南門では、文字どおり城壁を揺るがしていた魔人・斉東斎は姿を消し、越司兵らはつかの間息をついているところであった。虞理鵬と那多は、直接前線を回って崩壊寸前の指揮系統を回復させるとともに、兵らを鼓舞し、士気の高揚に努めた。
 斉東斎が前線から引いたのには理由がある。それは、予期せぬ伏兵の登場によるものであった。

 崇軍先鋒が、泉・斉の両巨人を押し立てて、朱漕に対し力攻めを仕掛けていたとき、武雷本の本隊は、その五里ほど後方でいったん進軍を止め、隊伍を整理し攻城戦の態勢を整えているところであった。
 そのときである。南の方角、崇軍の右翼方面から、一群の兵が突如として現われた。その数およそ一千というところであろうか。
「なんだ? あれは」
 武将軍は呑気に南方を眺めやった。敵の伏兵か、それとも神将軍の先遣隊か。どちらにしても、もはや自軍の勝利は決まったようなものだ。いまさら横槍を通させはせぬ。
 一千の兵は、彼我数里の距離に近づくと大きな黒の旗印を掲げた。中央に白く染め抜かれているのは、「裁」の一文字。
 そう、これこそが越司軍をも脅かす異能の集団、裁音であった。
「総員、配置に就け」
 先陣に立つのは尉伴風。
「念撃班は甲二で攻撃開始、防御班は全方位幻域を展開せよ」
 黒い道服に身を包んだ男たちが黙想をはじめる。そのとたん、崇軍の兵らに異変が起こった。喉をかきむしり倒れる者、頭を抱えて悶える者、目を見開いたまま硬直する者、訳の分からぬ叫びを上げて駆け回る者。崇軍はあっと言う間に大混乱に陥った。
「なんだ、なにが起こったのだ」
 武雷本はあわてて左右に問うたが、誰も答えを知らない。兎にも角にも、建て直しのため前線に向かおうとした武の前に、女の装いをした男、斉東斎が姿を現した。
「これはこれは武雷本殿、随分とお慌てですのう」斉東斎はほっほっと笑った。
「張魔王よ、我が方の兵が得体の知れぬことになっておる。何か心当たりはないか」
「私が前線から戻ってきたのは、まさにそのことのため」斉東斎は頷いた。「敵方に方術の使い手がおるようですのう」
 武は野太い唸りを上げ、そしてはたと膝を打った。
「成る程、虞理鵬め、方術の使い手を予め野に放っていたか。最後まで気のおけんやつだ」
 そうは言ったものの、武雷本自身には方術の弁えはない。そこで、張魔王・斉東斎に対抗策を請うた。
「敵方は尋常ならざる方術を使っておる。これに対するには、通常の手段をもってしてはいけませんのう。いったん兵を引き、立て直した方が、迂遠には見えるが大局的にはよろしかろう」
 武本隊は、総大将の号令の下、西方へ迂回を開始した。こうして、裁音は一応の戦果を挙げ、朱漕郊外へと到達したのである。

 一方、最前線では、武雷本の内陣の武士が出番を伺い血気に逸っていた。そこへ、物見の兵の報告が入る。
「虞理鵬、最前線に見ゆ」
 これを聞いた内陣の者たちは小躍りして出撃の準備を整えた。総大将を討ち取れば、越司など恐るるに足らぬ。我れ先にと争って出陣した内陣の武士のうち、もっとも早く最前線に到達したのは、安陳冠であった。
 武雷本に虞理鵬を討ち取ると豪語した手前、内陣の同輩に後れを取る訳には行かぬ。少年僧は、他の武士らが鎧や武具を整える間に、黒衣に白い鉢巻といういつものいで立ちで、徒にて出立した。

 敵陣から一人の男が現れ、虞理鵬との一騎打ちを申し入れているとの報告を受け、虞理鵬と那多は早速そちらへ向かった。
 見ると、それはまだ少年の面差しをした僧である。しかし、虞は一目見て相手が亜空であることを見て取った。亜空が相手とあらば、たとい幼い子供であろうとも、兵らに任せておく訳には行かぬ。
「武雷本め、何を企んでいるかは知らんが、俺が出ない訳には行かんな」
 虞は那多に告げると、単身進み出たのであった。

「ほほう、貴卿が虞理鵬。なるほど、なかなかの練気をしていますね」
 安はそう言うと両の手を胸の前で合わせお辞儀をした。亜空同士が手合わせするときの礼である。
「そういうお前は何者だ?」
 虞はすました顔で問いただす。実のところは、武雷本の秘蔵っ子の若い亜空がいるという情報は虞の耳に入っていたが、あえて知らぬふりをしたのである。
「私の名は安陳冠。武将軍の内陣のものです。私のことを知らないとは、貴卿の耳目もたいしたものではないようですね」
 安は負けじと言い返した。「長らく修行の身を離れているとはいえ、亜空の礼を忘れた訳ではありますまい。ここはひとつ手合わせ願いますよ」
「ふん、小僧相手に本気を出すまでもないが」
 虞は完全になめてかかっている。「武雷本が出て来るまでの余興としてなら、つきあってやらんでもない」
「吠え面かくなよ!!」
 安は叫ぶなり猛とばかり突進した。その勢いのまま、虞の水月目がけて鋭い蹴りを放つ。
「ははは、直線で俺が捉えられるか」
 安の視界から虞の姿がかき消えたかと思うと、次の瞬間には背後から声がかけられる。
「ちいっ」
 安はすかさず後ろ回し蹴りを放つが、虞の身体は既にそこにはなかった。軽やかな跳躍で、安の右の懐に潜りこんでいる。
「攻め手も単純だが、守りもがら空きだぞ」
 虞の猫手は軽く安の脇腹を打ったように見えたが、少年僧は凄まじい勢いで地面に叩きつけられた。
「これしきの練気で亜空を名乗るか? 殺される前に修練を積み直したほうが良いぞ」
「ぬぅっ」
 安は素早く受け身の体勢をとって撥ねるように立ち上がったが、虞は目の前まで詰めてきていた。反撃の暇も与えず、安の右肩に鉞のような踵落しが極まる。少年亜空の強靭な肉体が裂け、真っ赤な鮮血が吹き出した。亜空の鍛え抜かれた肉体でも耐えられぬ一撃である。これが常人であれば、即死は免れないところだ。
「これ以上続ければ、命を落すぞ。さっさと引いて、武雷本に出てくるよう言っておけ」
 虞が隙のない構えを保ちつつ、起き上がろうとする安に近づいたときであった。
「虞理鵬、覚悟!」
 安は突然、額の鉢巻をするりと解いた。するとどうだ、あらわになった額の中央には、巨大な第三の目があるではないか!
 第三の目が見開かれた途端、稲妻の如き衝撃が戦場を走った。それは恐ろしい威力を秘めた凶眼である。ほんの一瞬視線に触れただけでも、酷い火傷を負うであろう。これを真っ向から受けては命はない。これこそが、師・緒尚(ちょ・しょう)をも葬り去った、安の奥の手であった。
 だが、一呼吸もおかぬ間に、安は後頭部に強い打撃を受けてもんどり打って倒れた。
「はは、なかなかに力のある凶眼であることよ」
 涼しい顔をして立っていたのは、ほかならぬ虞理鵬その人である。「だが、相手が悪かったな。俺に凶眼は通じんぞ」
 虞は、先の尉伴風との手合わせで凶眼に捕らえられたことに懲りて、今度は予め気を練っていたのである。
「ぬうう…」
「丹田に気を巡らせ、呼吸を正しゅうすれば、自ずと気脈通じ、感官は明らかなり」
 勝負ありと見て取った那多が、詩を朗ずるように云った。「虞理鵬殿は、生まれながらにして気脈を制御する術を身につけておいでだ。天与の才に鍛練が加われば、生半な技ではこれを破れぬぞ」
「そういう貴様は那多か」
 安は歯軋りした。「亜空衆一の使い手と、東方の仙道がつるんでいるとは…」
「はは、いまさら俺におべっかを使っても無駄だが、さて、これからどうする。武雷本の下へ帰らず、修練の道に戻るというのであれば見逃そう。だが、武の下へ逃げ帰るというのであれば、この場で死んでもらう」
 虞理鵬は冷酷な宣告をした。
「くっ」
 安は身を縮こめた。悔しいことに、凶眼が通じないのでは虞に勝つことは不可能である。安は頭を垂れたまま苦々しげに言った。
「悔しいですが、武将軍の下へは戻らないと約束しましょう。どの道、貴卿に完敗したことで、武将軍には合わせる顔がない」
 そこで、虞は安を解放したのであった。
 安陳冠は、約束どおり武雷本の下に戻らず、南西道方面へ落ち延びたが、武には兵士を通じてこのように伝えたという。
「無念ながら、亜空虞理鵬に破れた身では、武将軍の下へおめおめ帰ることはできません。修練を積み直し、虞を倒す力を得て、必ずや戻って参ります」
 武はそれを聞いてしばし絶句したが、やがて気を取り直して周囲に告げた。
「恐るべし、虞理鵬。だがしかし、たった一人の力では、朱漕を守り切ることなぞできぬわい」

* * * * *

第十二話

崇軍、朱漕府を陥とすこと

 武雷本は、虞理鵬の活躍の前に、内陣の泉斗立や、懐刀と頼んでいた安陳冠を失ったものの、麾下の軍勢をよく率いて朱漕城壁まで到達した。これには勿論、張魔王こと斉東斎の活躍も少なからず貢献していた。
 一方、越司第一軍団は消耗戦を強いられて極度に疲弊していた。いくら指揮官が優れていても、兵士の数は絶対的に足りなかったのである。
 安陳冠を破った戦いの翌朝、虞は司令部に主だった将軍や幕僚を集めて戦況を問うた。
「南門の防衛線は限界です。総力を尽くしておりますが、張魔王の攻撃に持ちこたえられるかどうか…」
 蛮醜大将軍が情勢を簡潔に述べると、干律馮将軍が補足した。
「海軍が全艦動員して艦砲射撃の準備をしておりますが、市民を巻き込む恐れが強く、まだ開始してはおりません」
「うむ」
 虞は生返事を返した。
「このままの状況では、あと半刻のうちには南門が突破され、敵本隊が突入してくることになります」
 干将軍が訴えた。
「うむ。では、どうすればよいか、各々の策を述べよ」
 虞は司令官たちを見渡した。
「当面、南門に防衛力を集中すべきかと」
「しかし、それでは西門の防衛が手薄になるのでは」
「西門を放棄し、市街戦に持ち込めば地の利は我が方にあります」
「いや、避難が進んでいるとはいえ、なお多くの市民を巻き込むことになるかと」
「むしろ逆に、兵力を集結して打って出るべきです。敵将の首を取れば、あとは逃げ帰るでしょう」
「あの張魔王たった一人に苦しめられているというのに、敵将の首を取れるというのか?」
「他の市の防備が薄くなっても、連合軍の派遣を要請すべきでは…」
 喧々諤々の議論が戦わされる中、虞は黙って何か別のことを考えている様子だった。
「長官、如何なさいますか?」
 議論が膠着したところで干将軍に水を向けられ、虞は視線を目の前に戻した。
「さて、諸君らの意見を数々拝聴させてもらったが、決め手となる策はないようだ」
 虞は重々しい顔つきで告げた。
「良い知らせと悪い知らせがある。良い知らせは、越司に敵対していた異能の集団、裁音が我々の味方についたことだ」
 その瞬間、周囲は軽いどよめきに包まれた。まさか、越司軍を目の敵にしてきた裁音が友軍になるとは!
 にわかには信じられないことだが、本当だとすればこれほど頼もしい援軍はない。あの裁音をも説得するとは、さすがは虞理鵬である、と誰しもが思った。
「そして、悪い知らせとは、藩文竜が二の矢を放ってきたことだ」
 虞は、静まり返った場内をぐるりと見渡した。
「神弐辺将軍の五万の兵は、あと一週間のうちにここへ到達する。総勢十五万の崇軍を相手に籠城戦を続けるか、撤退するか。道は二つしかない」
 やがて、蛮将軍が重い口を開いた。
「撤退するといっても、どこへ」
 ぽつりと発せられた言葉は、皆の共通の思いであったに違いない。守備兵は疲弊しきっている。十五万の兵を相手に籠城しても、一カ月と持ちこたえられないだろう。さらに、藩文竜の送り込んだ神将軍は、恐るべき魔具・流水輪を有していることが明らかだ。勝ち目のない戦いをいつまで続けることができようか?
 その時であった。司令部の扉が勢いよく開け放たれ、伝令が息せききって飛び込んできた。
「し、至急報であります!」
 居並ぶ指揮官たちに動揺が走る。
「なんだ。報告せよ」
 虞がその場を冷静に掌握した。
「は、はっ。内務長官、胡織(こ・しょく)殿が…敵将の特使とやらと会談を始めております」
「内務長官が。会談というのはなんだ」
 虞はしばし考え込むようなそぶりを見せた。
「無血開城の交渉と思われます」
 伝令は上ずった声で叫んだ。
「内務府が敵軍に降ったとなれば、五千名の内務警察の動員もできませぬ」
 那多が感情を込めない声で淡々と述べた。「もともと当てにはしておりませぬが」
「なお、商務長官も同席されているという未確認情報も…」
「梅華任(ばい・かとう)か。小賢しい真似を」
 虞はふんと鼻を鳴らした。
 幕内は静まりかえり、数十人の幕僚たちは、みな一様に虞を見つめている。結局のところ、越司の最後の頼みの綱は虞ただ一人なのだ。国の存亡が、彼の肩にかかっている。
 虞は、小考ののち、良く通る声で言った。
「霊門に退却する」
 またも司令部に驚きが走った。
「霊門に?」
 干将軍が懐疑的な声を出す。それもそうだろう。霊門は越司四都の中でも唯一、東海沿岸より三百里の海中にある島である。東海の海上交通の要にして朱漕に次ぐ都とはいえ、撤退など考えもよらないことであった。
「数日の時間が稼げれば良い。段虞麟殿の護衛艦隊と、裁音の高速船団が援軍に向かっている。わが連合海軍を合わせれば、五万の人員をも運ぶことができよう。時間を稼げれば稼いだだけ、更に多くだ」
 干将軍は目を丸くした。蛮将軍は黙って腕組みをしている。那多は目を閉じて軽く頷き、前線指揮官たちは長官の打ち上げた唐突な計画に面食らっている。貿易公司の有力株主である段虞麟の私兵と、黄水竜率いる異能集団、裁音。それらの海軍力は、確かに、越司連合海軍に匹敵するとも言われている。
「…ですが、朱漕の民はどうなります」
 干律馮が乾いた喉から声を絞り出すように言った。
「それでは逆に問うが、内務長官が無血開城を申し出ているのはなぜか?」
 虞は干将軍に問い返し、強い意志を持つ瞳で一同を見渡した。これに言葉を返す者はない。
「残念ながら、越司第一軍団にはこれ以上の継戦能力はない。ならば、朱漕市民の安全を図るにはどうすれば良いか。最後まで徹底抗戦し、魔具により破滅を迎えるか、恥と屈辱を忍んででも生きながらえる道を取るか。残念ながら、内務長官はものを良く見ているようだ。だからこそ、我々は撤退する」
「本当に、大丈夫なのでしょうか。その、略奪や、虐殺など…」
 干将軍の声が震える。
「いかな乱暴者の武雷本とはいえ、知恵者の藩文竜が背後にいるからには、間違いは起こすまい。お目付役に神弐辺が送られてきているのは、行いを慎めということに外ならぬ。もし崇雄子が東海の支配を目論んでいるのであれば、大久麗の朱垂都に続き、商都・朱漕府を廃墟にするような真似はできまい」
「撤退するということは、再度の攻撃と奪還を考えに入れているのでしょうな。撤退策は、いわば国民を人質に取られるようなもの。それでも勝算ありと考えてよろしいのでしょうな」
 蛮将軍が口を挟んだ。
「当面は海上封鎖を行い、我が国の経済活動を保護する。もちろん、朱漕府が敵の手に落ちるのは大きな痛手だが、霊門、院宮峰、座典の三都が残っている限り、いや、霊門だけであっても、越司は経済的に抵抗を続けることができる。
 崇雄子はその野心から領土を急激に拡大しすぎている。今は勢に任せて攻め続けているが、いずれは息切れし守勢に回る時がくる。その時には、越司のみに兵力を集中させておくことは困難だ。その虚を突き、海軍力による電撃作戦で朱漕を奪還する。
 武雷本だけが相手ならば勝算もあろうが、神弐辺が送られて来たことで情勢は変わった。崇雄子の野望ははっきりしたが、逆に弱点をさらしたとも言えるだろう。朱漕府を押さえ都とするならば、越司の海軍力と常に対峙せざるを得なくなるからだ。隙あらば崇雄子にとどめの一撃を加える、それが我が国の立場となる」
 虞の言葉に、蛮将軍は納得したように小さく頷いた。那多も黙って賛意を示す。
「たしかに、崇雄子は水軍を持っておりません。守備が手薄になったところで、我が方の海軍に加え、裁音の高速船団により奇襲上陸を行えば、朱漕奪還も不可能ではないでしょう。しかし、魔具・流水輪を使われれば、いかな越司水軍といえどもひとたまりもありますまい?」
 なお懸念の色を残している干将軍が疑問を呈すと、虞理鵬はそれには答えずに那多を見やった。
「参謀長代行殿、流水輪の射程は如何ほどか?」
 那多は一礼して答える。
「はっ、惧れながら、一海里に満たぬかと存じます」
「ならば、術師を一海里に寄せ付けねばよい。機動に長ける裁音の高速艦隊、そして我らが越司連合海軍は、魔具を用いる隙を与えず、常に奴らの喉元を脅かすことができよう」
「成る程…」
 干が顎に手をやり頷いた。
「景霖敢・海軍司令とは、戦を始める前から攻守策を協議済みだ。段虞麟殿の海兵と、裁音水軍とも同様にな。越司陸軍が朱漕を支えきれなくなれば、撤退を始めることになっている」
 虞理鵬はそこでにやりと笑った。
「だが、その前に武雷本に一泡吹かせてやらねばな」

 越司軍はそれから一両日にわたり徹底的な反撃に打って出た。機動戦力を一点に集中し、敵陣の薄いところを執拗に叩いたのである。勿論、これには那多の卜占が力を発揮した。さらに、南東方面には、連合艦隊の艦砲射撃が雨あられと降り注いだ。前日までの守勢と打って変わっての大攻勢である。これには、さしもの武雷本もたじろいだ。
 内陣の武士を集めて協議した武は、南門の強行突破をあきらめ、敵の疲弊を待つ典型的な包囲攻城戦に切り替えることを決した。だが、これこそが虞の狙いだったのである。
 武雷本の策が持久戦に切り替わったことを確認すると、虞は連合艦隊、段の護衛艦隊、そして裁音水軍を使って霊門への兵力輸送を行った。海軍力を有しない崇軍は、海上で機動的な兵力輸送が行われていることに気づかず、ただ南門に圧力を加えるのみであった。
 一週間後、神将軍の先遣隊が朱漕府近郊へ到達し、焦った武は南門の力攻めを命じた。そこで初めて、武は朱漕府がもぬけの殻状態であることに気づいたのである。しかし、もはや後の祭りであった。越司軍は計画どおり、霊門への撤退を完了していたのである。
 胡織め、儂を謀ったな。内応の相談をすると見せかけて軍の撤退の時間を稼いでいたか。
 武は、憤って朱漕府の内務府へと急行した。
 市中央部の内務府の建物には、あちこちに白旗が掲げられていた。正面の門扉は閉ざされていたが、武は、手にした鉄球棍棒の一撃でこれを打ち破った。
「胡織! どこに隠れている!」
 武は、大声で呼ばわりながら廊下を駆け抜けた。待ち構えていた内務警察の警官隊が取り押さえようと飛びかかったが、軽く一蹴される。
「許さぬぞ!」
 武は、階段を三段跳びで駆け登り、内務長官室へと直行した。
 内務府の最奥に設えられた内務長官室は、背の高い広々とした部屋であった。そこには、胡織と、商務長官の梅華任がいた。
「貴様、儂を裏切りおったな!」
「裏切る? 何を申されているのか、全く解らぬ」鬼神のごとく髪を振り乱し目を剥いた武雷本相手に、胡織は少しも怯んだ風もなく、威風堂々と受け答えた。隣に立つ梅華任の顔が真っ青だったのとは好対照である。
 さらに、胡織は厳しい口調で切って返した。
「我らは貴殿の要望どおり朱漕府を明け渡したのだから、約束どおり市民の安全と規律の維持は守っていただけるのでしょうな」
「うぬう、言わせておけば図に乗りおって!」
 武雷本は鉄球棍棒を振りかぶった。次の瞬間には、胡織の頭は西瓜のように打ち砕かれていた。
 武は、絶命した胡織の身体を、なおも怒りのままに何度も何度も鉄球棍棒で打ち付けた。ひき肉のような赤い肉片が飛び散った様を見て、梅華任はそのまま気を失った。

 さて、武雷本は、怒りを鎮めるとすぐに朱漕全市の掌握にかかった。これには、元商務長官の梅華任が実に役立った。人質を取って商業組合の要人を押さえさせると、崇軍に対する翼賛体制を強制的に築き上げたのである。完全に武の言いなり、媚びへつらい手足となって働く梅の態度に、武もいたく満足し、梅を朱漕府の臨時総督に任命し市政を任せた。
 一方、遅れて到着した神将軍は、武が略奪行為などを働いていないことに安堵しながらも、支配体制には不満を述べた。崇王はいずれ朱漕府を都とするお考えだ。そのためには、民心を慰撫し、進んで崇王に従うようにしなければならぬ。だが、武は神将軍の動きを警戒していた。後から来た神将軍に、手柄を横取りされてはかなわぬというのである。そのため、神将軍が取れる策は非常に限られていた。
 神将軍は退却した越司軍への反感を煽る喧伝を行いつつ、総大将藩文竜に指示を仰ぐこととした。

* * * * *

 かくて、東海一の都、朱漕府は崇雄子の前に陥落した。崇雄子はこの報を聞いていたく喜び、武に褒美として異国の多弦琴や乳酪を取らせるとともに、北征軍総司令・藩文竜を元帥に昇格させた。だが、崇雄子がそれだけで満足する男であるとは、もはや誰も思わなくなっていたのである。

* * * * *

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