東海覇王伝


第二巻


第十三話

阿鳥、花精を征伐すること

 久麗の北東に、律瀬という村があった。ここにはまだ崇雄子の軍勢が攻めてきてはいなかったが、それは単にこの村が街道から離れた山間の寒村だったからにすぎない。村人は、木を樵り、獣を狩り、木の実や草の根を採ってどうにかその日を暮らしてきたのである。村人は、帝都が一日にして廃墟と化したということも、皇帝が弑逆されたということもまだ知らなかった。
 ただ、しばらく前から村人を悩ませていたのは、所謂妖怪変化の類である。邪気を持った何物かが村外れの祠に取り憑いたとみえ、近くを通りがかった狩人数名が襲われて大怪我をするという事件も起きた。狩人らは激しい熱に冒され床に伏した。村に狩人は数人しかおらず、貴重な食糧の供給源である。それが倒れるということは、村にとって一大事であった。

 そんなところへ、村の外れで行き倒れの男が発見された。
 自分の背丈程もある大きな箱を背負ったその男は、街道を外れ一人で長旅をしてきたとみえ、着ている服はぼろぼろ、髪もぼさぼさである。
 村の長老である馬宇は、村人たちに命じて倒れた男を自分の家に運び込ませ、奥の一間を空けて布団を敷き、そこに男を寝かせた。
 男は一昼夜爆睡した後、腹を空かせて目を覚ました。
 村の蓄えはそれほど豊富ではなかったが、馬宇は男に五穀米といくばくかの野菜、そして煮付けた猪肉を施した。
「ああ、助かった。この三日間、ほとんど何も食わずに歩きづめだったもんでな」
 男は食事をあっと言う間に平らげると老人に向かって大仰に合掌してみせた。
「困っている時はお互い様よ」馬宇は静かに言った。
「ところで、お主は何者かな? このような人里離れた山中を一人で歩かれるとは、尋常なこととは思えぬが」
「ああ、俺は阿鳥という。一カ月前までは久麗のお上に世話になっていたが、今はしがない無宿者よ」
 老人は特に詮索するふうでもなく、静かに頷くと淡々と言った。
「何にせよ、この村には何もない。困っている男に一食を施すことぐらいはできないでもないが、それ以上は何もできぬのだ。悪く思われるな、お客人。だが、この村の民はみな飢える一歩前で堪えておるのだよ」
「それは済まないことをした」男は頭を深く垂れた。「このような馳走を戴いて、まっこと忝ねえ」
「もし、旅を続けられるのであれば、いくらかの用立てはしよう」馬宇は囲炉裏の灰をそっとかき回しながら云った。
「いや、そこまでしてもらうわけにはいかねえ」男は村長の顔を見つめた。「だが、俺は一宿一飯の恩義は返す主義でな」
 男の瞳には、単純だが信頼できる何かがあった。
「何か俺にできることはねえかな。といっても、俺は荒事ぐらいしか能のねえ魔物狩りだがよ」
 魔物狩りという言葉を聞き、馬宇は、はっと顔を上げた。
「お主、討魔士か?」
「おう、ここしばらく軍隊勤めだったが、本分は鑑札付きの魔物狩りよ」
 討魔士とは、文字どおり魔物や妖物を狩ることを生業とする者たちのことである。魔物の類は、そのほとんどが災いなすものであり、人々が苦しめられることは多かった。故に、討魔士は、普通の得物ではなかなか傷つけることもかなわない魔性を殺す呪力を込めた討魔具を携え、狩るべき魔物を求めて各地を放浪するのが常であった。そして、討魔士には組合のようなものがあり、その実力を認められた魔物狩りは鑑札を与えられることになっている。男は、その鑑札持ちだと云ったのである。
「ほう…お主、腕に自信があるようだな」
「わけあって今はこんななりをしてるが、魔物相手にゃひけをとらないぜ」
 男は胸を張った。
「本当か? ではひとつ、頼まれてはくれぬか」
 村長馬宇は、村外れの森の中にある祠に最近取り憑いたとみえる妖怪の話を語った。
「昔は霊験あらたかな森神の祠だったとも伝え聞くが…最近は村人も奉仕を怠っておったからな。しかし、怠慢ではなく、そうするだけの余裕がなかっただけなのだ。だから、きっと神様も許して下さると思っておったのだが」
 男は首を傾けて村長の話をじっと聞いていたが、話が終わると一つ尋ねた。
「ふむ。そいつに襲われたという狩人はどうなったんだ」
「熱に浮かされ、うわごとを云っておる。美しい花がどうとか…だが、すぐに悲鳴を上げるので聞き取れぬのだ」
「花ねえ」男は、興味無さそうに鼻をふんと鳴らした。「まあ、それじゃあ早速、その祠とやらに行ってみるか」
「大丈夫か」
「ん? ああ、飯も食わせてもらったしな。斬魔刀一本ありゃあ大抵のことは片がつく」
 そういうと、男は大きな箱を叩いた。
「討魔具か…」馬宇は感心したように頷く。
「おう。大事な商売道具だ」
 男は箱を背負って立ち上がった。
 そして、数歩歩きだしてから思い出したように振り返ると、懐からぼろぼろになった扇子を取り出して広げ、老人に向かって見栄を切った。

 祠は、村から一刻ばかり歩いた森の奥にあった。昔はきちんと道が着いていたようだが、今では下生えに隠されてしまっており、跡をたどるのに少々苦労する。
 問題の祠は、何の変哲もない小さな石造りのものだった。阿鳥は用心して辺りを見回したが、特段変わったところは見当たらない。
「魔性がいるにしちゃあ、妖気を感じないが…」
 そう呟いて祠の前に足を踏み出した阿鳥は、足元に可憐な黄色い一輪の花が咲いているのに気が付いた。
「花か…そういや、襲われた猟師がうわごとを云ってたってなあ」
 花に見入った阿鳥は、不意に何ものかの気配を感じて振り返った。同時に背中の箱を滑らせ、中に収めた刀を一瞬で取り出し、一挙動で抜きつける。一見何の変哲もない直刀だが、これこそが鬼神も震わす斬魔刀である。
 誰もいない。いや…。
 足元の花が震えていた。おかしい。阿鳥が身構えると同時に、花弁から何物かが突如として現れ、目の前に立ち上がった。
 それは、黄色い太極服に身を包んだ屈強そうな色黒の醜男であった。身の丈は六尺五寸というところか。阿鳥より首一つ背が高い。
「てめぇがこの辺りを騒がしている妖物か」
 阿鳥は斬魔刀を男の喉元に突き付けた。
「この私に対して妖物とはなんという言い草。私は花の精、権八路と申す者」
「花の精だぁ?」阿鳥は大仰に聞き返した。「どの面下げて精霊を名乗りやがる」
「正真正銘、本当のことでございます」
 男は厚い唇を歪めてにっこりと微笑んだが、それは男の醜悪さをより増すだけであった。
「狩人に怪我をさせたのはてめえか?」
「私はそのようなことはしていません」花精は筋肉質の腕を持ち上げ、否定するように手を振った。「ただ、お近づきの挨拶に抱擁を…」
 権八路が羽交い締めにしようと近づいたので、阿鳥は花精の顎先に刀を当てて動きを止めた。
「気色悪い真似すんじゃねえ」
 そこで阿鳥ははたと気が付いた。
「ははあ、さてはてめぇ、ここに近づいた奴ら全員にそれをやったな?」
「無論」権八路は鷹揚に頷いた。「私は心が広く情け深い精霊。世界にただ一つの有り難い存在なのです」
「世界でも最低の腐れ外道たぁ貴様のことだ」
 阿鳥は斬魔刀で花精をつつきながら吐き捨てた。「本来なら一刀の元に切り捨てるところだが、残念なことに貴様からは妖気を感じない。魔物でないものを斬るのは刀に悪いんでなあ」
「それは当然のことでございます」
 権が余りに自信たっぷりに頷いたので、阿鳥は花精の向こう脛を思い切り蹴飛ばした。
「な、何をなさいます。私は神界から遣わされた、いとかぐわしく高貴なる存在なのですよ」
「神性ならともかく、一介の精霊如きが神界から降りてこられるか。刀の錆になりたかったら、その阿呆な口を開けて駄弁り続けるがいい」
 阿鳥はものすごい形相をして、じろりと権をにらみつけた。さしもの屈強な花の精も、この眼力にはたじろいだ。
「ほ、本当のことでございます。神界と人界の間を隔てる障が緩やかになったため、私めも人界へ降りることができたのです」
「なんだと? おい、それはどういう意味だ?」
 阿鳥が権八路を問い詰めて聞き出したところによると、どうやら、人界で大きな方術が行われ、天地を巡る気に乱れが生じたらしい。そのために、神界と人界の間に綻びが生じたということらしかった。
「ううむ、そいつぁ聞き捨てならねぇなあ…」
 阿鳥は花精の存在をしばし忘れて唸り声を発した。
 覇王界は、数えて三界なり、と言われる。三界即ち天界、地界、人界であるとする者もいれば、神界、人界、魔界であるという者もいる。いずれにせよ、陽の気をつかさどる天界ないしは神界と、陰気をつかさどる地界ないしは魔界の間で陰陽の気が淆合流転しており、その中間に、陰陽相半ばするこの世界、人界が存在するというのである。
「…ってぇことは、魔界も同じってことだぁな」
 阿鳥がつぶやくと、権は大いに頷いた。
「左様でございます、左様でございます。私、花精権八路は、そのことを警告するために人界に降りて来たのです」
 権は二の腕を誇示する姿勢で、歯茎を剥き出しにしてにんまりと笑った。
「嘘をつけ。だが、まあなんとなく合点が行くところもある。おそらく、天地の気を乱しているのは崇雄子、奴に違いあるめえ」
 阿鳥はしばし黙考していたが、やがて何か思いついたというふうに頷いた。
「さてと、俺はひとつ老師の処で相談して来ようかというところだが、てめぇはこのままのさばらせておくわけにもいかんなぁ」
 討魔士が鋭い視線を向けると、花精は震え上がって、二度と人の前に姿を現さぬと約束した。そこで、阿鳥は権八路を許し、村に戻って馬宇長老に事の顛末を伝えた。村人が大いに安堵したことは言うまでもない。
 その後、阿鳥は西の方、覇山を目指して出立したのである。

* * * * *

第十四話

藩文竜、北征の軍を再編すること

 朱漕府陥落後まもない頃である。
 久麗東部は、武雷本が既にそのほとんどを制圧して、北東部の数州を残すのみとなっていた。久麗北西部は、藩文竜将軍が自ら進撃の準備を整えており、崇雄子に降るのも時間の問題であった。久麗南部は、崇軍が朱垂都に至る過程で制圧されている。
 そして、残る久麗西部では、旧久麗帝国側の諸公を平定するため、古夢譚と木武斗両将軍が総勢二十万の軍勢を率いて進撃していた。
 しかし、この両将軍の前に立ちはだかったのが、霊里州総督、永理流(えい・りりゅう)である。常冬の氷瀑城を居城とし、氷の理流との異名をとる強大な方術士である永は、崇軍の進撃を知ると、その進路に氷の山と吹雪とを呼び出した。古・木両将軍は三度これを迂回しようと試みたが、そのたびに行く手に現れる巨大な氷の壁と猛吹雪とに阻まれ、完全に立往生した。
 古夢譚と木武斗の苦戦が伝えられると、藩文竜は久麗中央の守備に当たらせていた方雨竜(ほう・うりゅう)将軍に五万の兵を与えて増援に派遣したものの、勝敗は覚束無かった。そこで、藩は、西部諸州の攻略のため、魔具を用いることも辞さぬ覚悟で当たることを決意した。
 藩は王都武焔へ帰還し、崇王に謁見を願ったが、折あしく王は不在であり、代わって現れたのは、魔道顧問の一、司空奉であった。草去庵の号を持つ、崇軍の中では古参の魔道顧問である。崇雄子は魔道顧問団を政軍の最高顧問としていたため、軍の最高位にある藩文竜といえども、これに命令をすることはできず、頭を低うせざるを得なかったのである。
「心配は無用じゃ、藩元帥」司空は顎髭を撫ぜながら喋った。
「陛下は戦線の拡大に備えて、新たな部将を用意しているところじゃ」
「新たな部将?」藩は怪訝な顔をした。確かに、前線指揮官が不足気味であることは否めぬ。しかし、崇王が部将を取り立てるという話は初耳だった。「それは一体?」
「うむ。陛下は六塔時代のつてを頼るとおっしゃられていた。今の配置では南西の備えが足りぬし、北征に当たり、久麗西部や越司方面で軍の再編が必要であろうとのことでな」
 崇王は戦略に関して全くの素人ではない。急ごしらえの軍の弱みはよく心得ている。だからこその再編計画だ。藩文竜は無言で考えを巡らせた。だが、今次の北征の全権は、この自分、藩文竜に委ねられたはずだ。それにもかかわらず、軍の増強が総司令官に知らされずに行われるというのは、何かがおかしい。
 藩は、情報通の神弐辺将軍を王都から引き抜いたのは早計だったか、と内心舌打ちする。崇王の周囲におかしなことが起こっていないか、探りを入れておく必要があろう。
 しかし、藩はそのような考えをおくびにも出さずに滔々と述べた。
「それはそれは、実にありがたきことと申し上げまする。ご存じの通り、久麗西部では氷の永理流が方術により行く手を阻み、越司軍は霊門へ籠って未だに海上の支配権を握っている。これよりさらに北西、北東へと兵を進め、東海全土を制圧するには、如何せん駒が足りないと考えていたところです」
「陛下の御心もまさしく那辺にあろう」司空奉は大仰に首肯した。「陛下は、広大な東海を支配するには、多くの優れた部将が不可欠と何度も強調されておられた」
「六塔のつてと申されたが、すると魔術の使い手が?」
 藩は司空の顔色を伺いながら尋ねた。
「それもあろうな。だが、それだけではなかろう。軍略に長けた武人を多く取り立てるとのことであったから安心せい」
「ならば心強い。私めも安心して前線に戻ることができます」
「うむ。陛下もお主の手腕にはいたく期待されておる。精進するがよいぞ」
 別れの挨拶もそこそこに、藩文竜は王都を立ち去り、仮本営を構える夏州へと戻った。

 思案にふける馬上の藩を出迎えたのは、青髪白面の美丈夫、美蘭将軍であった。
「よう、文竜司令殿よ」
 美蘭はぞんざいに呼びかけたが、これはいつものことであったから、藩は気にも止めなかった。
「なんです、美蘭将軍」
「俺を永理流と戦わせてくれ」
 美蘭は尖った牙を剥き出しにしてにたりと笑った。その様はまるで野獣である。藩文竜は顔をしかめながら問い立てた。
「貴方がですか? 勝算があるのですか?」
「ああ」
 美蘭は左手に嵌めた風変わりな小手を突き出した。何十枚もの鋼片を腕の形に合わせて巻いて張り合わせたような、不思議な造りをしている。
「ほう、それが魔具・螺旋甲ですか。崇王陛下の魔具ほどではないにせよ、大地を操る恐るべき力をもつとは聞いています」
 藩は淡々と応じた。
「そうだ。俺の魔具と狼鬼兵が当たれば、たかが田舎の方術士一人に後れを取ることはない」
 美蘭は自信たっぷりといった調子で語った。
「勝利には戦略と策術が必要ですが」藩は小考ののち言った。「いいでしょう、もともと古、木の両将軍では相手にならぬし、方将軍の手にも余るだろうと思っていましたから。できれば貴方には夏州の守備に当たっていただきたかったのですが、久麗全土の速やかな掌握のためには、貴方に出てもらうのも、そう悪い賭けではなさそうですね」
 美蘭はそれを聞いて得意げに鼻を鳴らした。策士・藩文竜がこの策を認めたからには、勝算は十分にありと見てよいだろう。
 一方の藩文竜にも打算があった。もともと美蘭将軍は評判が芳しくない。万が一、敗北したとしても大きな問題にはならないし、勝利すれば自分の手柄になるということだ。
「夏州の守備は浄慈将軍に任せることにしましょう。彼には私とともに北西に逃げ落ちた久麗の残党狩りに当たってもらう予定だったのですが、西部諸州の制圧は目下の優先事項ですから」
「ふん」美蘭は不敵な笑みを浮かべた。
「ところで、もう一つ聞きたいんだが」
「なんです?」
「無能な将軍を生かしておく価値はあるのか?」
 美蘭の邪な笑いを見て、藩文竜は、この男が何を考えているのかおおよそ察しはついた。だが、あえて表情を変えず淡々と答える。
「戦場では、無能な将軍は生き残れませんよ。有能な将軍だけが、戦に勝利し生き残るのですから」
「わかった。肝に銘じておく」
 美蘭は下卑た笑いとともに、自らの宿営に戻って行った。藩文竜は、その後ろ姿を冷ややかに見送る。
「獣め」

 さて、本営に戻った藩文竜は、大規模な軍の再編と第二次北征計画を発表した。すなわち、大要以下の通りである。
 東方、越司方面に北征軍主力を移し、新たな本営を築き、神弐辺将軍を守将とし、兵二十万を与える。
 東北道方面へ、総大将を武雷本将軍とし、副将を須原将軍とし、兵二十万を与える。
 久麗中央、夏州においては浄慈将軍を守将とし、兵十万を与える。
 久麗西部へ、現在派遣している古夢譚、木武斗、方雨竜の三将軍二十五万に加え、美蘭将軍と麾下の兵五万を増派する。
 久麗北西部へ、総大将は藩文竜自身とし、兵二十万を率いる。

 こうして北征軍を大幅に再編した藩文竜は、東海全土の掌握へ向けて更なる戦争の火蓋を切って落としたのであった。久麗帝紀四一八年の秋のことである。

* * * * *

第十五話

崇雄子が導師無血牙を軍師に迎えたこと

 さて、その頃、崇雄子は側近の栄斗策を伴って、密かに東海の西、西域諸国を訪れていた。
 西域には、大羅漢道や九竜場など、仙道と修羅の集ういくつかの国があったが、住人のほとんどが人外であり、魑魅魍魎が跋扈し、妖怪変化が人の姿を借りて棲んでいるといわれていた。
 崇雄子と栄斗策が西域を訪れたのは、六塔時代の本こと崇、そして栄の二人に方術を授けた魔具師範、魯譜天の勧めによるものであった。魯は、二人が師父と仰ぐ老魔道である。南東道王の位に着いた崇雄子は、すぐに六塔師範であった魯を王都武焔に招き、魔具司の位と、崇霊子という称号を奉じた。崇高にして霊妙なる存在の意である。
 その崇霊子の教えを受け、二人は東海制覇のための次なる策を西域に求めたのである。
 二人はまず、西域の強国、覇嵐邪の禅公の動向を探った。方術使いの治める国である覇嵐邪に学び、東海支配の手本とするためである。禅公を初め強大な方術士の集う覇嵐邪は、崇雄子の目指す理想の国家像の一つであった。ここで多くを学んだ二人は、次いで広く人材を集めるために西域諸国を巡った。崇霊子は、西域にこそ覇王を導く真の魔道が見つかると、予言めいた言葉を崇雄子らに授けていたのである。

 覇嵐邪から東南へ下った崇雄子らは、九竜場国の角烏という町へ至り、そこで一晩の宿を借りることとした。
 翌朝、二人が朝早く宿を出ると、宿の前に小じんまりとした卓が立っていた。卓上に立てられた小さな看板には、占事よろず承り、と記されている。朝の市へと向かう往来で、卓に立ち寄ろうという者は誰一人としていなかった。
 一見何の変哲もない辻占であったが、もともと辻占の出である崇雄子は、こと関心をもってこれを眺めた。
 卓に向かって座っていたのは、坊主頭をした小柄な老人である。卓の上には、占木や筮竹など、卜占に用いるような道具は見当たらなかった。老人は半ば目を閉じ、起きているのか眠っているのかも分からないような様子でじっとしている。
 一方、栄は、ふとあることに気が付いて眉をひそめた。奇妙なことに、この占師からはなんの霊力も感じられない。ふつう、辻占をしているような下級道士は、自らの力を最大限誇示するため、持てる限りの術力を身の回りに巡らせているのが常である。それが清々しいほどなにも感じられないことに、栄はいささかの疑心を抱いた。
「何者だ?」
 栄が進み出ると、老人はわずかに目ばたきをしたが、言葉を聞いているかどうかも怪しかった。
「名乗れと言っている!」
 栄が再び怒鳴りつけると、老人は、ようやく顔を向け、芒洋とした目で栄の方を見つめながらゆっくりと口を開いた。
「そこ、煩いですよ」
「何っ」
 栄は身構えた。一見惚けたようなこの老人に、ただならぬ力量があることを見て取ったのである。
「用心なさいませ」
 栄は崇雄子に注意を促すと、杖を手に老人に相対した。
「ふむ」
 老人は、相変わらずのんびりした調子で二人をじっと眺め、やがて言った。
「後ろの方、覇王の相が出ていますな」
「なんと?!」
 栄は驚き訝しんだ。まさか、崇雄子の正体が見抜かれたのではないか。
「しかし、剣難の相も出ています。これを上手く避ければ、東海に覇王たりうるでしょう」
「どういうことかな?」
 たまらず口を開いたのは崇雄子本人であった。「自分のことは自分ではわからん。卜占をよくするものに占わせてみたが、やはりだめだった。もし、この崇雄子の未来が見えるというのなら、教えてはもらえないか」
「ふむ、やはり崇雄子陛下でありましたか」
 老人はゆっくりと頷き、唐突に動きを止めた。
「ご老人…?」
 老人がじっと固まったように動かぬので、栄が、まさか眠りについたか、死んだのではないかと疑ったとき。
「難しい」
 老人は薄目を明けた状態で、夢遊病者のようにつぶやいた。
「それに答えるには、少しばかり時間がかかるでしょう…」
「むう、やはり、すぐには無理か…」
 崇雄子が落胆のため息をつくと、老人は急にきびきびとした動きで、卓の下から一枚の羅盤を取り出した。一見単なる石の羅盤であったが、崇はこれを見て驚嘆に目を見開く。一目瞭然、天地神霊に通ずる至高の魔具である。熱核杖や地神槍のように、破壊をもたらす力はなさそうだが、崇自身の創り上げた魔具に匹敵する、いや、ともすればそれ以上の力を持っているやもしれぬ。
「これを用いれば、あるいは陛下の未来も読み解くことができるでしょう…東海に冠たる覇王へと向かう道が…」
 老人の目は、眼前の崇雄子を通り越してどこか遠くを見ている。大海のようなその瞳の深さに、崇は思わず身震いした。やはりこの男はただ者ではない、無尽蔵の霊力を操る器を有している。深奥なる力を操る不世出の才能。これぞ、師父・崇霊子の予見した真の魔道なのではないか。
「師兄よ、貴方のお名前は」
 老人は崇雄子の問いに淡々と答えた。
「導師・無血牙…人には阿呆爺と呼ばれておりますがな」
 そこで崇雄子は無血牙の前に跪き、叩頭して嘆願した。栄も慌ててこれに倣う。
「導師・無血牙よ、ぜひ、その穎才を以て我が軍を導いてはいただけませんでしょうか」
 無血牙は黙って崇雄子を見下ろした。その顔は泣いているようにも見え、笑っているようにも見えた。暫しの間、老人は再び動きを止めたように見えたが、終には崇雄子に小さく頷いた。
「いいでしょう」
 崇雄子は三拝九拝して感謝の意を表した。
 こうして、崇雄子は導師無血牙を軍師に迎え、東海制覇へと更なる大きな足掛かりを得ることとなったのである。

* * * * *

第十六話

古夢譚と木武斗が貪り喰われること

 崇雄子がちょうど西域諸国を訪れていたころのことである。
 北征軍司令・藩文竜の命を受けた美蘭将軍は、久麗西部平定のために兵を進めていた。
 美蘭が率いる五万の兵の中核をなすのは、僅か五百人の狼鬼兵と呼ばれる精鋭集団である。狼鬼兵は、武雷本の内陣と同様、いやそれ以上に、血に飢えた戦鬼揃いと恐れられていた。
 だが、久しぶりの戦に意気込んで霊里州へと乗り込んだ美蘭と狼鬼兵を迎えたのは、槍や弓を構えた敵兵の群れではなく、一寸先も見えぬ真っ白い猛吹雪と、凍てついた氷の山々であった。
「これが噂に聞く氷の理流の方術か…」美蘭は忌々しげに歯を噛み締めると、一般兵を下がらせ、いくばくかの側近と、親衛隊の狼鬼兵のみを連れて氷山に挑んだ。
 氷の山は周囲百里にも及ぶ大きさで、迂回しようにも余りに長大である。そのうえ、近づけば近づくほど、吹雪は激しさを増し、横殴りの雪が突き刺さるように襲ってくるのであった。わずかでも気を抜けば、あっという間に雪に埋もれて凍りついてしまうであろう。狼鬼兵らは、雪中行軍用の鉄板を張った長靴を履き、巧みな足さばきで進軍した。
 だが、ほぼ垂直に切り立った氷の絶壁を前にしては、さしもの狼鬼兵といえど、これ以上の進攻をあきらめざるを得ない。
「久麗でも一、二を争う術者とは耳にしておったが、ここまでとはな…」
 半ば呆れ果てたような顔で言ったのは、副官のひとり金覇玉である。この小太りの妖術師は、罵門なる悪魔に仕える司祭であり、かつて美蘭と手合わせしたが、これに破れて降伏し、配下に下ったという経歴を持つ。
「なあに、単なるこけおどしだ」
 美蘭は薄笑いを浮かべた尊大な態度を崩そうとはしない。
「しかし、これ以上進むことはできないのではないかな?」
 なおも金が問いかけると、美蘭は片手でこれを制し、ひとり氷の絶壁に向かって進み出たのである。金や狼鬼兵は、黙ってその姿を見送った。
 氷の壁のすぐ手前まで近づくと、美蘭は厚めのマントを撥ね除ける。マントに覆われていた銀白の鎧が姿を現したが、何故か左の腕に着けた手甲だけは、凶々しい漆黒に染まっていた。
 呪力を帯びた六十六枚の鋼板を張り合わせて作られた魔具・螺旋甲である。
「こいつを使うのも久しぶりだ…」
 美蘭は舌なめずりをして独りごちた。
「さてと、三流導師に引導を渡してくれるか」
 美蘭は雪に埋もれた大地に左の拳を思い切り叩きつけると、くわと目を見開き、牙を剥き、凄まじい形相で遠吠えた。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ…」
 するとどうだ。美蘭の咆哮に応えるように、大地がびりびりと震え出すではないか。
「おおおおおおお!」
 美蘭がさらに力を込めると、地面の揺れは大きくなり、地鳴りを伴って鳴動した。地神槍の引き起こす大地震とは比べ物にはならぬが、それでも十分に恐るべき威力である。やがて、辺り一帯から湯気が立ち込め始めた。大地が奥底より熱く熱せられ、辺り一帯を被う凍土を溶かしているのである。
 熱気は凝縮して高まり、地鳴りも最高頂に達したとき、氷の山が大きく揺らぎ、砕け散ったかと思うと、大地を引き裂いて紅蓮の炎が噴き上がった。
 そう、美蘭の持つ螺旋甲は、地脈を操り噴火をもたらす魔具であった。これを用いたのは、かつて、真珠口の地で金覇玉と対決したとき以来である。
 辺りを襲っていた吹雪は嘘のようにぴたりとやみ、大量の氷雪が解け出した冷たい水の流れは、浩々として大人の膝の高さにまでなったという。
 一方の永理流は、魔具によって氷の壁を破られたことを知ると、千五百ばかりの手勢をまとめて即座に氷瀑城を退去し、霊里州のさらに西、崙西の伯竜髯を頼っていった。寡兵で恐るべき崇雄子の魔具と争うことは得策ではないと踏んだからである。これは、美蘭の螺旋甲を崇雄子の魔具と誤認したものであった。
 美蘭は、狼鬼兵らと合流すると一挙に氷瀑城へと攻め入った。だが、そこに既に永の軍の姿はなく、一切の抵抗なしにこれを攻め取ることができたのである。
 こうして、美蘭は三カ月間足止めを食らっていた古・木両将軍に先んじて、たった一週間あまりで氷瀑を陥としたのであった。

 当の古・木両将軍は、派遣されたばかりの美蘭将軍が、たった五万の兵で瞬く間に氷瀑を抜いたことを聞いて、まずは大いに驚愕し、ついでひどくうなだれた。このままでは、藩文竜に責を問われることになるのではないかと恐れたのである。
 その夜、古将軍の天幕で、二人が今後どうすべきかと善後策を話し合っているところに、当の美蘭将軍が現れた。
「何のご用かな」
 古将軍は虚勢を張って美蘭に声をかけた。だが、美蘭はにやにやと妙に下卑た笑いを浮かべるばかりで答えようとしない。しばらく声をかけ続けた古将軍だったが、ふと、天幕の周囲がやけに静かであることに気が付いた。普段であれば兵らの靴音や声がするものだが、それがまったく聞こえないのである。
「何かあったのか?」
 古夢譚が不安に顔を曇らせた時、ようやく美蘭は口を開いた。
「あれだけ苦労して攻めたあげく、氷瀑城には人っ子一人残っちゃいなかったんだぜ。実にひどい話だろう?」
「どういうことだ?」
 木将軍も不審げに問い返す。
「つまり、俺の兵は、戦の飢えと乾きを癒せなかったということさ」
 そう言うと美蘭は大きな口を開けて舌なめずりをした。
「それと、俺もな」
「なに!?」
 二人の将軍が立ち上がるのと、美蘭が大きく息を吸い込んだのとが同時だった。反射的に剣を抜いた二将軍は、次の瞬間、途方もない絶望感に打ちのめされることになる。
 美蘭の姿は見る見るうちに変貌していった。服の生地が裂け、獣毛があちこちから覗く。艶やかな毛皮の下の肉体は一層筋肉質になり、顎が迫り出し、鋭い牙を生やした大きな口がくわっと開かれた。頭部は犬めいているが、それより遥かに兇悪だ。獣のように四つん這いになり、美蘭は狼のように遠吠えた。それに応えるように、どこからともなく、無数の遠吠えが返ってくる。人狼は、狂喜を満面に浮かべて哀れな獲物に飛びかかった。
 彊梁無比なる人狼を相手に、錬磨を怠っていた二将軍が太刀打ちかなうはずもない。まず古夢譚が腕を食いちぎられ、腹を引き裂かれて倒れた。次いで逃げ出そうとした木武斗は、頭からばりばりとむさぼり食われたのである。兵らを省みず安逸な暮らしにふけっていた二人の肉は程よく脂が乗っていたともいうが、真相は定かではない。
 そして、翌朝になってみると、両将軍の親衛隊らも、やはり影も形も無かったという。
 その代わりに両将軍の兵らが見たのは、あの猛吹雪をついて行軍して来たにもかかわらず、妙に血色のよい美蘭と狼鬼兵の姿であった。
 美蘭は、古・木の二人が、崇王の懲罰を恐れて離叛を謀っていたため、これを先んじて討ったと藩文竜に報告し、藩もこれを了承した。そして、両将軍の麾下二十万の兵のうち、十万は藩元帥の下へ呼び戻され、残りの十万については、代わりの将軍が派遣されるまで当面の間は美蘭が指揮を執ることとなった。この裁定には少なからぬ下士官が不安を覚えたが、まだそれは序の口に過ぎなかったのである。

* * * * *

第十七話

崇軍、東北道を席巻すること

 武雷本は、さしたる抵抗もなく、東北道へ二十万の兵を進めた。
 越司のすぐ北には、久麗の庇護下に置かれていた、彩国という小さな国があった。彩国は、皇帝から代々任命された国司が治めていたが、いかんせん、大帝国久麗なき後、崇雄子に抗する力は持ち合わせていようはずもなかった。そこで、時の国司であった曹一は国都・彩玉市を無条件で明け渡したのである。武将軍は、ここを北進の拠点とし、兵を休めて乳酪を食させ、大いに鋭気を養わせた。
 彩国から北にはいくつかの国があったが、これらは、新王宮・梅羽守(ばいはしゅ)を鎮護する東北道王・中嶼王(ちゅうしょおう)の勢力下にあった。新王宮・梅羽守の周囲には、入師糸、青竹内、行座といった街があり、その北の山中には、那州、阿橋州といった国々があった。さらに北には東海最北の国、道佛があった。
 武雷本は、近郊の入師糸を攻め落としてかの地の武人・毛美悠を内陣に迎えたほか、青竹内や行座を押さえ、新王宮を包囲した。その間に、武は副将の須原東洲に那州を攻め取らせ、退路を断った。中嶼王も弓の名手と謳われる成嘉幸を擁して抵抗を続けたが、勢、我にあらず。
 武の度重なる恫喝に、東北道王・中嶼が遂に屈したのは、彩国陥落から三月の後。久麗帝紀四一九年新春のことであった。
 中嶼王の降伏後、もはや東北道に武雷本を阻むものは何一つなく、崇軍は東海北端の道佛王国まで破竹の勢いで進撃を続けた。

 道佛王国は、北海に面した小さな王国であるが、その地に豊富に産する野生の牛馬だけでなく、羆や豺狼をも飼い馴らす遊牧騎馬の民として知られていた。故に、その数少なれど精兵、と武雷本は用心を怠らなかった。
 一方、道佛王国の六胡狼王は、配下の揺豹に命じて武の動向を探らせると同時に、王鈴将軍に命じて迎撃の準備を整えさせた。
 揺豹は、かつて江道の黒豹と呼ばれた男で、南海は江道の出身である。だが、江道を支配する巨人族の出身ではなく、ふだんは人の姿をしているが、獣の姿に変ずることのできる獣の民であった。揺はその二つ名の通り黒い豹に変ずると、闇に紛れて崇軍の偵察に赴いた。
 王鈴は野の獣たちを集め、武の軍団に立ち向かう準備を進めた。王鈴は一見して戦の経験もまったく無さそうな娘将軍だったが、その正体は人狼の族であり、どんな男よりも強く猛々しいのであった。そのため、六胡狼王は彼女に全幅の信頼を置いていた。
 王鈴が訪れた四城山には、豺狼の類が多く棲んでいたが、王はここで自らの本性を顕し、遠吠えして四つ足の同胞に北の大地を守るよう呼びかけた。この招集に応え、山中の豺狼一千頭が集まった。また、この山を根城とする部族民、豺狼族の羅右という若き族長は、六胡狼王の要請に応じ、一千の民を率いて馳せ参じた。
 一千の豺狼と一千の兵を引き連れ、六胡狼王の元へ帰ろうとする王鈴の前にふらりと現れたのが、元二という木樵の青年である。
 生成りの単衣に手斧一丁という飾り気のない姿をした元二は、王鈴を見るや、「あんた、彫…」と言いかけ、口ごもった。
 一方の王鈴も、まだ少年の面差しを残した黒髪の青年に、いわく言葉にしがたい感覚をおぼえた。だがそれ以上に、青年の口にした言葉が気になって仕方がなかった。
「彫…とはなんだ?」
「いや、それは…軽々しく口にするもんじゃない」
 青年は真面目な顔で言った。しかし、そう言われれば余計に気になるのが人の性である。王鈴の再三の問いかけに、元二はとうとう口を開いた。
「俺もよくは知らない。知りたければ、久麗の俊影先生を訪ねるといい」
 そういうと、元二は林の陰へとすばやく姿を消したのであった。

 さて、六胡狼王の元へ戻った王鈴は、前線指揮官の馬捨入を呼び、一千の狼を任せた。この馬という男も王鈴と同じ人狼の族であり、野獣の扱いには長けていたのである。
 また、敵陣を探りに行っていた揺は、帰還するや否や六胡狼王と居並ぶ将軍らに報告した。曰く、敵軍は五万の兵を先遣とし、須原将軍に指揮を委ねている。さらに後詰めで五万の兵が移動中であるが、武雷本の本陣はまだ阿橋州の北は玉納院にあり、兵力がちょうど分散している状態であった。
「攻むるのであれば、今をおいて外に時はなし」
 揺豹はそう結論付けたが、六胡狼王や将軍らの反応は芳しくなかった。そもそも道佛王国は自給自足の牧歌的な田舎に過ぎない。この地に兵を集めて国制を定め、政を行ったのは、六胡狼王の強引なまでの指導力によるものであった。唯一境界を接する東北道王・中嶼とは友好な関係を築いてきたこともあって、他国と境を争ったこともない田舎の小国に、兵法が分かるはずもなかったのである。
 しかし、敵軍が進撃してきているというのは紛れも無い事実であったから、六胡狼王は、馬将軍に命じて、これに一万の兵と五千の野獣をもって国境線を守らせた。
 これに対して、須原将軍は、先遣隊の五万を率いて早急な進攻を図っていた。道佛侮りがたしと言えども、戦の準備を整えていないうちに叩くのが上策と踏んだのである。そのため、須原は前線に軽歩兵部隊と方術部隊のみを配した。騎兵や重歩兵を主力とする武雷本本隊とは全く正反対の構成である。
 左右両翼の軽歩兵隊を率いるのは、扁導齢と不齢導という武将軍の内陣の武士であった。扁は巨躯で丸々と肥えており、不は骨と皮のような細身という似ても似つかぬ二人であったが、義兄弟の契りを交わし、互いに名を一字づつ交換しているほどであった。
 また、中央に控える方術部隊を率いるのは呉白という男であった。この男、もとは農民の出身だが、禅音という導師にその才を認められ、魔道に入ってやがて火術に長じるに至り、火の呉白と呼ばれていた。

 馬将軍は、国境付近の草原の見晴らしのよい丘に陣取り、牧畜のための木柵を補強して、急ごしらえの防御柵とした。また、牧草を刈り取って、干草の山を無数に積み上げさせた。馬は、この柵や干草の山に隠れるように、獣五匹と歩兵十人を一組とした小隊を配した。小隊の数は一千である。
 これに対し、扁と不の軽歩兵隊は、左右に別れる鶴翼の陣形を取って前進し、遠くから長弓を射掛けて馬将軍の兵を挑発した。しかし、馬将軍は守備に手堅かったから、挑発に乗ることなく、兵らはただ持ち場を動かなかった。
 そこで、今度は呉白が方術部隊を率いて前進した。配下の方術士は、すべて南東道の人里離れた森に住まう叡縷巫族という部族の出身である。叡縷巫族は体こそ弱いが方術の才に長け、生まれつき呪法を操る力をもつと言われていた。
 その叡縷巫族の方術士らは、敵陣に接近すると、一斉に杖を掲げて口々に何事か呪文を唱えた。
 するとどうだろう。馬将軍の配下の兵らは、人も獣もみな、ばたばたと倒れて行くではないか。
 そう、叡縷巫族の方術士らは、呉白の号令により部族に伝わるとある方術を用いたのである。「化酊能」と呼ばれるこの術は、人も獣も問わず眠りに誘い、気を失わせるというものであった。
 敵軍が崩れたのを見計らって、指揮官・呉白が高らかに呪文を朗ずる。
「神名使徒・化無死都・英霊ゝゝ拝礼霊……発離塔!!」
 呪文が完成するや否や、敵陣に炎が走り、辺り一面業火に包まれた。
 発離塔は、八卦の一、離の卦を司る術であり、敵中に燃え盛る炎を呼び出すのであった。この術自体はさして高位の呪文ではなかったが、火の呉白の手にかかると、高位の術を上回る勢をもつのである。
 爆発的に燃え盛った火は、干草の山を焼き、のどかな牧草地帯をあっと言う間に炎熱地獄と化した。術により眠りに落ちた道佛の兵らが目覚めた時には、既に戦場全体に火の手が回り、逃げ出すこともかなわぬ状況であった。
 こうして、一万の人と五千の獣による混成部隊は、体勢を立て直す間もなく、そのほとんどが逃げ遅れて焼け死んでいったのであった。
 大勢が決した後も、ひとり馬将軍は半人半狼の本性を現して抵抗を続けたが、呉白の左道と、扁導齢と不齢導の義兄弟の息の合った連携技に押し込まれる。しかし、牙折れ爪欠けてもなお立ち上がって戦い続ける人狼の闘志を前に、呉白ら三人もこれを持て余し気味であった。
 そこへ現れたのが、武雷本の副将、須原である。魔導顧問の黒い法服を身にまとい、左手に大鉞、右手に槍斧を構えた姿は、さながら死神のようであった。
「東洲先生」
 呉白が呼びかけると、須原は重々しい顔をして三人の部下に言った。
「お前たちは下がっていなさい」
 その命を受けて、先ず呉白が引き、次いで、内陣の武士として自らの手で決着を着けたいという思いはあったのであろうが、扁導齢と不齢導もこれに従った。
 馬捨入は新たな敵の登場に牙をむき威嚇の唸り声を上げた。だが、須原の瞳には単なる負け犬としか映らぬ。冷酷な視線で見下ろしながら、須原は一片の呪言を密かに唱える。
「貴様が須原東洲か! その五体をばらばらに引き裂いて咬み千切ってやる!」
 馬はそう吠えると須原目がけて飛びかかろうとした。だが、身体が何者かに押さえ付けられているかのように動かぬ。はっとして我が身を返り見ると、地面から無数の小さな手のようなものが生え、馬の四肢を押さえ付けているではないか。
「小さい、手…!?」
 馬が驚駭の叫び声を上げたのとほぼ同時に、須原が音もなく踏み込み、右手の槍斧を一閃した。赤く染まった馬の視界に最後に映ったのは、血しぶきを上げながら切り落とされた自分の左腕だった。

* * * * *

第十八話

崇軍、道佛を破り北海の岸へ至ること

 崇軍、国境を侵犯し、馬将軍敗るる。
 九死に一生を得て逃げ延びた兵士の報告に、道佛首脳陣は浮き足立った。
 娘将軍王鈴は、馬将軍の仇を討つべくすぐに進撃すべきと唱えたが、揺豹らは反対した。兵力で劣るのに、真っ向から戦っても勝ち目がないというのである。特に揺は、唯一の勝機を逃した以上、もはや形勢の挽回はかなわぬと見ていた。だが、六胡狼王はここに来てなお明確な決断を下さなかった。
 怒りに燃える王鈴は、人狼族の勇士・藍道品に、人獣合わせ一万の指揮を委ね、自らも三千五百の豺狼・羆熊を率いて崇軍を迎え撃った。
 一方の須原は、緒戦で華々しい勝利を収めた呉白らを後詰めに下げ、武雷本の内陣の武士である鬼人・土遁牙を先頭に押し立て、楔の陣形による強硬突破の構えを見せた。もはや計略は不要、圧倒的な兵力差によって確実に勝利できるとの読みである。
 鬼人・土遁牙は、青い肌、隆々とした体格で、額に大きな角を生やした怪異の武士である。この男は、猛攻槌と呼ばれる巨大な金槌を携え、ずかずかと敵陣の真ん前に進み出た。その武力を頼んで、一騎打ちにより片をつけようというのである。
 この挑戦に応じて、道佛側からは総大将の藍道品が進み出る。藍は、やや小柄ながらも人狼族一の勇士として知られているが、気分しだいで動くお調子者でもあった。この時も、再三にわたる周囲の諌めを聞かず、意気揚々と出陣したのである。
「藍道品と申す。いざ尋常に勝負されたい」
「俺は、土遁牙、だ」
 両者とも至極簡潔に名乗りを上げると、銘々の得物を握って、真っ向からぶつかり合った。
 土遁牙の猛攻槌は、その重さ実に百四十四斤、鬼人族に代々伝わる魔具であり、その蛮力により立ち塞がるすべてのものを粉砕すると言われていた。一方、藍の帯びた六星剣は、古代劫語で《ラル・ドーン》と呼ばれる魔具であり、六星地祇をつかさどり、これを持つものは決して敗れることはないとの伝説があった。
 猛攻槌と六星剣が交わると、激しい衝撃とともに火花が散り、両雄は互いに驚愕の表情を浮かべた。これまで、猛攻槌で破壊できぬものはなかったし、六星剣で軽く受け流せぬものはなかったのだ。
 打ち合ってから十余合、藍は土遁牙が繰り出す猛攻槌の連打に防戦一方であったが、その間合いを見切るにつれ、ただ受け流すだけでなく鋭く切り返しはじめた。猛攻槌を軽々と操る土遁牙でさえも、藍の鋭い剣裁きには次第に翻弄され、やがて形勢逆転し、次第に差し込まれた形となった。そこで土遁牙は、このまま押し切られる前に、一気に片をつけんと、隠し持っていた必殺の奥義を繰り出したのである。
 秘技・血荒猛攻槌。
 巨大な魔具を素早く両手で持ち替えながら、左右から強烈な乱打を打ち込む技である。その速さと破壊力は、相手を粉砕することは勿論、使い手にも肉体に極限の負担を強いる。この奥義を使えるのは、土遁牙が人ならぬ鬼人であったからにほかならない。鬼人の強靭な肉体と、さらに血の滲むような修練によって初めて血荒猛攻槌は完成するのである。
 一騎打ちの場は、忽ち血煙に包まれた。
 百四十四斤の猛攻槌でめった打ちにされては、小柄な藍などひとたまりもないかと思われた。だがしかし、あに図らんや、血煙の晴れたあとに立っていたのは、土遁牙ではなく、藍道品であった。
 土遁牙が並み外れた鬼人の体力と腕力を誇るとても、藍道品は誉れ高い人狼族の勇士である。鬼人に劣らぬ力を持つ人狼の中でも、特に優れた瞬発力を誇る藍と、金剛より堅い六星剣の組み合わせは、土遁牙の繰り出す乱打をすべて受け流していた。そして藍は、息切れした鬼人の隙を逃さず切り返し、瞬く間にその四肢をずたずたに切り刻んでいたのである。
「この…土遁牙…」
 土遁牙は自らの血潮にまみれ、ごぼごぼと血泡を吹きながら、なおも立ち上がろうとしていた。
「死ぬ……んがっ!」
 藍のとどめの一撃が背中から心臓を過たずに貫き、鬼人は断末魔の悲鳴とともに痙攣して息絶えたのであった。

 崇軍は沈黙に包まれていた。内陣の武士の中でも恐れられていた存在である鬼人の猛者が、取るに足らないと嘲っていた田舎の人狼に破れたのだから当然である。
 道佛側でも、人狼族は熱狂的に讃えて喝采したが、人間らはあまりの血なまぐさに顔を背けた。
 後背から様子を見守っていた須原も、忌々しげに舌打ちをした。そもそも、一騎打ちなどせずに、圧倒的な兵力で蹂躙するだけでよかったのだ。武雷本将軍の顔を立てて内陣の武士を使ったが、人選の誤りであったか。
 しかし、須原は一騎打ちの敗北に気を落として戦運びを誤るような男ではなかった。全軍の指揮権を自らに戻すと、右翼に呉白の方術部隊、左翼に扁と不の軽歩兵部隊を配し、方術と弓矢による中距離戦を仕掛けたのである。そして、須原は、敵陣の戦列が乱れると見るや、自ら騎馬にうちまたがり、大鉞と槍斧を引っ下げて最前線に躍り出た。
 敵将須原見ゆとの報を受けて、復讐に逸る王鈴は即出陣せんとしたが、これはさすがに皆が諌めた。しかし、そうこうしているうちに、呉白隊による化酊能などの方術攻撃に加え、扁・不両将の歩兵隊が攻勢に出で、道佛軍の前線は早くも総崩れになりつつあった。藍道品は須原を討ち取らんと三度前線へ向かおうとしたが、その度に戦場の混乱や援軍要請に妨げられて守勢に回らざるを得ず、これを果たすことはなかった。
 数刻に及ぶ合戦で、道佛軍は兵の半数以上が死傷し戦線は崩壊していた。攻め手の崇軍もいくばくかの被害を被ったが、道佛側に比べれば少なく、土遁牙を失ったことを除けば、当初の目論見どおりの戦であったといえよう。
 さしもの藍も人狼族の兵をまとめて撤退を余儀無くされたが、王鈴は、道佛の総将としての責任感からであろうか、なおも戦場に踏みとどまろうとしていた。絶望的な何度目かの突撃を仕掛けようと、残った数十名の兵をまとめているところへ、いつぞやの木樵、元二がひょっこり現れた。
「王様はとっくに宮殿を捨てて逃げ出したぜ。あんたもさっさと逃げた方がいい」
 初めは半信半疑であった王鈴だが、元二が嘘をついているとは思えない。それでもなお逡巡する王鈴の手を強引に取って、元二は戦場を安全に抜ける抜け道を案内したのであった。

 かくて、東海北端の国、道佛は崇雄子の手に落ちた。
 北海の岸に至った武雷本は、記念の石碑を建て、道佛名産の新鮮な乳酪をふんだんに供した盛大な戦勝の宴を開き、崇王の威信を知らしめたという。

 さて、六胡狼王はどうなったのか。
 実は六胡狼王は、馬将軍の敗北を見て既にこの地を捨てる決心をし、脱出の準備を整えていた。しかし、右腕と頼んでいた王鈴が強硬な態度を取ったため、手足となる部下を欠いたまま動かざるを得ず、王の意図を正しく把握していたのは、わずかな側近のみであった。
 このため、六胡狼王は揺豹ら少数の精鋭のみを連れて、西方の山中へと逃れた。そして、東北道と北西道との境に近い西桃郷の地に拠点を移したのであるが、それはまた後の話である。

* * * * *

第十九話

縫禅が陥落すること

 西南道最北東に位置する座州。
 ここはもともと、張魔王こと斉東斎の支配下にあったが、張魔王が崇雄子の傘下に下ってからは、崇軍の武蓮という将軍が名代として送られていた。
 この武蓮という男、北征軍に参加している浄慈将軍の実の兄であり、遊天斎と号する刀の達人だったが、しばしば命令を無視して独断で行動するために今次の北征軍からは外され、辺境の守備に回されたのである。
 さしもの武蓮も、ここへ送り込まれては身動きが取れず、窮屈な日々を送っていた。それというのも、座州から西へわずか八十里の距離には、西南道王を称する小覇王・呉武林の都、縫禅があり、その北には金城、南には銀庭城という二つの軍事拠点が控えていたからである。呉の兵力は、合わせて百万ともいわれていた。わずか十万の兵で守備を命ぜられた武蓮が歎息したのも無理はあるまい。
 西南道にはこれまで統一した勢力がなく、今も崇軍を除き四つの勢力が群雄割拠し、互いに西南道王を称して覇を競っている状態であった。呉はそのうちの北東部を支配する勢力の長である。この地方には森が多く、そのために森の軍とも呼ばれていた。
 呉は短躯で醜悪な外観であったが、国境を接する久麗に倣って礼節と徳を重んじ、人としての魅力溢れる人物であったので、ことさらに武力を重んじる他の勢力と比べ民の評判は悪くなかった。これもまた、武蓮にはなんとも歯痒く思われたのである。

 さて、武蓮がいつものようにぼうっと城下を眺めていると、奇妙な光景が目に映った。多くの民が、何かを手に持って列をなし、ぞろぞろと歩いているのである。
「あれは何の騒ぎか?」
 武蓮は傍らに控えていた副官の飛鵡良にたずねた。もしや、民の反乱ということにでもなれば、即刻鎮圧せねばならぬ。久々に武人の血がうずいたのである。
「武蓮殿はご存じないのか? あれは、この地方の祭りでござるよ。なんでも風伯に感謝する祭りだとかで、老いも若きも、風車を持って近くの神殿まで練り歩くのだとか」
 どうやら、民が手に持っているのは風車であるらしい。つまらぬ風習もあるものだと武蓮は思ったが、ややあって思いついたように尋ねた。
「この地方というが、縫禅もか?」
「そのようでござる。この地方では非常に重要な祭りらしく、呉武林王自らも風伯神殿の本山に参拝するのだとか」  武蓮ははたと膝を打った。
「それだ。全軍に出撃準備を命ぜよ」
 武蓮は気まぐれであったが機を見るに敏であった。麾下の軍勢は、いつ攻め込まれても対処できるよう、不休で臨戦態勢を取っている。それを手際よく組織して、武蓮は一昼夜で攻撃の準備を整えた。
 その間に、物見から詳しい報告を受けた武蓮は、呉武林の兵の多くが祭りに参加しているとの確信を得、縫禅北方の拠点、金城へと強行軍で攻め入った。
 金城の守備隊は常時三十万といわれていたが、折しも風伯大祭の中日、その半数以上は帰郷しており、残りも戦闘準備を整えていなかった。崇軍は一度も座州の境界を越えたことはなく、戦志なしと侮っていたのも災いした。敵影見ゆとの報告を受け、守備隊は未曾有の混乱に陥ったのである。
 それでも、金城には十万以上の兵が控えている。座州をほとんどがら空きにしてきたとはいえ、兵力の上では互角か、崇軍がやや不利。しかも城攻めという厳しい条件である。
 しかしここで、武蓮付きの魔道顧問として送り込まれていた江道出身の魔女、桐沙が大きな役目を果たした。この魔女は、幾ばくかの生贄を捧げ、魔界から鵞王主と呼ばれる妖鳥を呼び出したのである。この巨大な化け物は、広げると優に十間はあろうかという鵬のような羽を持ち、とがった嘴は家をひとのみに飲み込んでしまうよう、身体には鉄の羽毛を生やし、脚には鋭い爪を持っていた。
 鵞王主は、金城の上空に邪々しい影を落とすと、城壁を守る兵士らに向かって巨大な嘴を開け、耳をつんざく奇矯な鳴き声を上げた。兵士らは、頭を抱えてのたうちまわる。中には、気が狂ったように城壁から地面へ身を投げるものまで現れた。鵞王主の鳴き声は、人を惑わせ、狂わせるのである。そして、もだえ苦しむ兵に、巨大な爪や嘴が容赦なく襲いかかった。守備兵らはたまらず散り散りになる。
 城の守備がもろくも崩れたのを見て取ると、武蓮は即座に抜刀して切り込んだ。武蓮に続くのは、飛鵡良らの決死抜刀隊である。崇軍精兵の突撃に対して、敵兵はすでに組織的な抵抗ができる状態ではなく、武蓮はあっけなく金城の正門である東門を制圧することに成功した。
 時の金城総兵は白名位という男であったが、偶々巡り合わせで金城を任されたような取るに足らない小物であり、この一大事に当たってはまったくの無策であった。巨大な妖怪が城壁を荒らして兵を貪り食い、羅刹のような武者が怒涛の勢いで突入してきたと聞いて、白はすぐに戦意を失った。未だ城壁では戦っている兵らがいるというのに、使者を立て、降伏を申し出ることとしたのである。
 東門の一帯を制圧し、さらに内側へ攻め込もうとしていた武蓮は、白旗を掲げた馬車が近づいてきたのを見てにやりとほくそ笑んだ。
 馬車からは、金をあしらった派手な着物を着た小男がひょこひょこと降りてきた。手には白旗を握っている。
「ほう、降伏しようというのか。殊勝なことだ。貴様がここの将軍か?」
 武蓮が言うと、小男は慇懃に頭を下げた。
「いいえ、金城総兵、白名位の使いの者にございまする」
「それで、降伏の証として何か持ってきたとでもいうのか?」
 武蓮に促され、使者は背後に控えた屈強そうな二人の男に命じ、馬車から豪奢な飾り箱を運ばせた。箱を開けると、まばゆい黄金の輝きが目も眩むばかりである。
「金万両にございます」
 使者は満面に得意げな笑みを浮かべながら頭を垂れた。だが、どうやらそれが武蓮の癪に障ったらしい。
「何だ、こんなものしか持って来なかったのか!」
 武蓮は憤慨し、即刻使いの者の首を刎ねるよう兵に命じた。手下の二人の男も同様である。だが、そこで一計を案じた武蓮は、御者だけは生かしておくこととした。そして、那智流抜刀術の使い手である飛鵡良をはじめ抜刀隊の精鋭を揃えて馬車に乗り込ませると、御者に総兵のところへ馬車を返すよう命じた。
 脅えた御者は言いなりに馬車を返し、金城中心の金閣という建物の前までやってきた。武蓮は車止めに馬車を止めさせると、配下と共に一斉に抜刀して飛び出し、驚く金閣の守兵を、当たるを幸いと斬りまくった。
「十五! 十六!」
「十九!」
「十九?! 負けておられるか!」
 斬った敵兵の数を叫びながら突撃を繰り返す武蓮や飛鵡良、そして決死抜刀兵らの姿は、まさしく悪鬼修羅の如く、数百名の金閣守兵の大半は武器を捨てて逃亡した。突然の敵襲に仰天した白名位は、着の身着のままで逃げ出そうとしたところを飛鵡良に見つかり、一刀のもとに切り捨てられる。
 こうして、攻城開始からわずか半刻で、大勢は決した。正門と城壁を押さえられ、司令塔である金閣も陥落し総兵は憤死とあっては、もはや戦にならない。武蓮は、ほとんど無傷で金城を攻め取ったのであった。

 金城を征服した武蓮は、その余勢を駆って南方の縫禅へと兵を進めた。これには、金城で接収した山のような金品を惜し気もなくふんだんにばらまき、呉軍に雇われていた傭兵を丸ごと引き抜いたことが大きい。この傭兵部隊は雛酒虎という名の知れた剣豪が率いており、約五万の兵力があった。さらに雑兵を糾合した崇軍は、兵力二十万ほどに膨れ上がっていたのである。
 武蓮は、副官の飛鵡良に若干の兵を与えて金城の守りを任せると、右翼に同じく副官で蟷螂人の索真、左翼に雛酒虎率いる傭兵部隊を配し、自らは抜刀隊を率いて中央に陣取った。この軍勢は、昼夜の強行軍で縫禅を突いたのである。
 呉武林王不在の縫禅では、金城陥落の報が伝えられて間もなくの敵襲に対応するすべがなかった。もとより兵事に重きを置かぬ呉王は、必要最小限の守りしか配備していなかったのである。
 縫禅を離れ、風伯の寺院にいた呉武林は、崇軍が国境を侵し金城を蹂躙したと聞いてすぐに祭礼を取りやめ、限られた側近のみを連れて縫禅に急ぎ帰還しようとしたが、既に縫禅は敵兵に包囲されていた。武蓮の迅速な進攻が勝ったのである。敵中強行突破をも辞さぬ構えの呉王をなんとか諌めたのは、軍師・杜久側である。西南道では名の知れた術士でもある杜は、敵側が魔界から妖物を呼び出したことに強い危惧の念を抱いたのである。
「鵞王主といえば黴羅、張嚴などと並び地界でも高位の妖物。あれに対抗するには、天界の牙滅羅でも招来しなければならぬと思います」
 賢人の誉れ高い杜久側の言葉に、呉王はむうと小さな唸り声を上げた。
「その招来とやらはできるのか」
「必要な儀を整えれば、あるいは。しかし、今は我が方にはその準備なく、残念ながら打つ手なしかと」
 杜の進言を聞き入れるだけの分別は持ち合わせていた呉王は、唇を噛みしめながらも縫禅の救出を諦め、盟友、溥合大を頼って西へと落ちのびた。

 かくて首尾よく縫禅を落とした武蓮だったが、大きな不安も抱えていた。南方に三十里の距離には、難攻不落と謳われる銀庭城がある。銀庭公・李威は、呉武林王の下でも最も有力な諸侯であるが、人徳厚く、文武に秀でた名君と聞こえている。今までのところは、武蓮の仕掛けた電撃戦が功を奏し敵軍を各個撃破できているが、さすがに今度ばかりは同じ手は通用しないだろう。武将としての才覚にも優れる李威公が相手ではなおさらだ。銀庭の兵力が縫禅奪還に向かってきた場合の迎撃態勢を整えなければならない。今のところは恭順を誓っている傭兵部隊も、形勢不利と見れば寝返るだろう。
 そこで武蓮は、縫禅に主力を残し、銀庭の出方をうかがう慎重策をここでは採った。
 ところが、銀庭の動きは奇妙なほどに全くなかった。一週間、二週間が経っても、銀庭の李威公が反撃の兵を起こすことはなく、非難の声明すら出すことがなかったのである。三週間が過ぎ、さすがの武蓮も首をかしげたところで、密偵が重大な秘密を探り出してきた。
「李威公、失踪」
 俄かには信じられないことに、縫禅陥落とほぼ時を同じくして、銀庭城の主の行方が知れないというのである。君子の鑑である李威公が出奔するようなことはありえず、何らかの陰謀が働いているとしか思えぬ。しかし、なにはともあれこの好機を逃す訳にはゆかぬ。
 武蓮は、銀庭城への総攻撃を決断した。
 銀庭での戦は、縫禅でのそれより容易いものであった。凱碓将軍率いる銀庭兵の動きは精彩を欠き、明らかに戦意を喪失していると見受けられた。李威公の不在が、兵士たちに与えている影響は計り知れないものであり、武蓮はそれを最大限に利用した。
「かの名君と聞こえた李威公も、我が軍には勝てぬと見て逃亡したか。まこと情けないことよ。聖人君子も一皮むけば凡人俗物ということか。だが、我が王は真に偉大にして寛大なお方である。我が軍に降伏し恭順を誓えば、今の地位と生活を保証しよう。あくまでも抗戦するなら、一家郎党根絶やしになっても文句は言えぬぞ。恨むなら自分たちを見捨てた李威を恨むがよかろう」
 武蓮は、このように触れ回らせて敵軍の戦意をさらに萎えさせた。また、有り余る金子をもって攻城兵器を調達し、強攻をも辞さぬ構えを見せて揺さぶりをかけた。
 かくて、崇軍の倍の三十万の兵を有しながらも、銀庭軍は戦らしい戦をすることなく一週間余りで投降した。李威公の家臣団でも、徹底抗戦を主張した少数派の班杯寿、劉衛らは闇をついて逃げ落ちたが、凱碓将軍は逃亡しようとしたところを捕らえられ、武蓮の命で斬首された。また、銀庭に残った家臣らも、武蓮に濡れ衣を着せられて次々に殺された。その一方で、武蓮は民衆に金子をばらまき、飴と鞭を使い分ける巧みな手腕でこの地の支配を確立した。

 武蓮が独断で縫禅を征服したことは、魔導顧問を通じてすぐに王都武焔に伝えられた。
 崇雄子は、図らずも西南道に大きな橋頭堡を得たことに内心満足したが、主命を破って攻勢に出たことは厳に戒めねばならぬ。偶々上手く行ったからよいものの、ひとつ間違えば、座州をも失うところであったのだ。
 そこで、信賞必罰のならいにより、崇王は武蓮に座州総督の罷免を言い渡した。同時に、その戦功を賞して金城を褒美として与えたのである。そして、金城領主に周辺諸州の総督を命じたため、武蓮は、実質的に西南道の四分の一を支配することとなったのであった。

* * * * *

第二十話

藩文竜、窟竜府を攻略すること

 藩文竜の三十万の軍は、左翼に劉活(りゅう・かつ)、呂堂(りょ・どう)、右翼に周夫霖(しゅう・ふうりん)、徐西風(じょ・せいふう)の諸将を配し、満を持して久麗北西部へ進軍した。巧みな戦運びによって瞬く間に久麗北西部を制圧した藩は、久麗の残党を追って北西道に兵を進めた。北西道南部の諸州は、元々は久麗に服属していた露夢蘭(ろむらん)王国の領土であったが、藩文竜の武威に圧されて崇王に恭順を誓った。
 さらに北上を図る藩文竜の前に立ちはだかったのが、魔窟とも呼ばれる東海の暗部、窟竜府(くつりゅうふ)の勢力である。
 窟竜府は、元々、海竜神・雲氷淘の寺院があったところである。この寺院は何人に対しても寛容だったことから、流民や、他処で犯罪を犯した者たちが何処からともなく大勢して流れ込み、およそ五十年ほど前に寺院がなくなったときには、周囲は巨大な迷宮のごとき魔窟と化していた。その大きさたるや、三十里四方とも四十里四方とも言われたが定かではない。
 そして今、この窟竜府には、東海最大の暗黒結社、鉄牙会を率いる総帥・黒牙が君臨し、十万近い手勢をもって周辺諸国に睨みを利かせていたのである。鉄牙会は、窟竜府の周囲百里に長壁を巡らせ、巨大な城塞を築き上げていた。この強固な防壁と内側の複雑な構造、そして戦慣れした精強な兵を擁することから、藩文竜は、この窟竜府・鉄牙会こそが、北西道でもっとも気を用いなければならぬ対手であると読んでいた。
 そこで藩文竜は、窟竜府の最南端は神門に向かって半月形・三重の陣を布き、進攻に万全の態勢を整える一方で、多くの物見を放って敵方の探りを入れた。
「城壁内部に敵兵の動きなし」
「神門の前には、黒服を着た男が一人立っているのみ」
 藩文竜は物見の兵からの報告を聞いてしばし考え込んだ。まさか、鉄牙会総帥・黒牙自身が前線に出てきているということはあるまいか。なんでも、黒牙は六塔の魔道師範をも上回るという方術を使うと聞く。それが直接の相手となると、魔具なしでの勝利はあり得ない。
「如何致しまするか?」
 副官の維龍角に問われ、藩はしばし黙考し、ややあって答えた。
「うむ、誰か、我こそは挑戦せんという者を募ってみよ」
 すると、ほどなくして白夜という豪傑風の剣士が名乗りを上げた。白夜は、その道では広く知られている、かつて剣教会でも十指に入ったことがあるといわれる剣士である。剣力を唯一の正統とし、強さのみがすべてである、かの剣教会にあって第十位の座に着くというのは並大抵のことではなかったから、その名を聞いただけでこれを避けるものは多かった。
 実のところ、白夜の行方はこの数年知られておらず、この男が本物の白夜であるかどうかは定かではなかったのではあるが、ともかくも維龍角はこの男に黒服を退治するよう命じ、男は意気揚々と戦陣へ進み出た。物見の兵らの言葉どおり、そこには黒い長衣の男がぽつんと立っている。年は若くもないが老いてもいない。長い黒髪を後ろに垂らし、腰には一本の直刀を珮いていた。少なくとも、見てくれからすれば左道使いの類ではなさそうである。
「俺の名は、白夜…貴様も剣士の端くれなら、一度は俺の名を聞いたことがあろう」
 剣士白夜は自信に満ちた笑みで名乗りを上げる。
 だが、黒服の男は、白夜と名乗る男を一目見るなり断じた。
「…貴公は白夜ではありません」
「なんだと? 何を証拠にそんなことを…」
「白夜は私の弟子です。弟子の顔を忘れるほど、私も耄碌はしていないつもりですが」
 白夜は相手の視線に圧されたが、一笑に付して剣のつかに手をかけた。
「ふん、つまらぬ冗談を…。俺の剣力を見てから、ものを言うのだな」
 白夜が剣を抜くと、黒服の男はふっと笑って直刀を抜いた。白夜は気合一閃打ちかかり、勢いに任せて十余合ほど打ち合ったがまったく隙がない。ゆったりと決して速くはない、しかし流れるような足裁きで対手との間合いを常に一定に保ち、剛剣の打ち込みをほんのわずかな動作でさらりと受け流すのである。それはあたかも柳に風であった。
「貴様…俺の剣をことごとく受け流すとは…。なかなかの手練れだな。名はなんという?」
 あきれた白夜が額の汗を拭って問うと、黒服の男は淡々と答えた。
「隼、と呼ばれていますが」
「《隼》……? こんなところにいるはずがない…!!」
 白夜の顔が見るみるうちに蒼白になる。
 遠巻きに様子を見ていた維龍角も、髭に手をやり思わず唸りを上げた。
「ううむ、あの男、まさか……剣教会の元第二位、神速と謳われたあの《隼》か。ここ十年ほど失踪していたと聞くが……」
 剣教会第二位・隼の武勇伝は、東海中に広まっている。曰く、西南道は大玉氏の率いる一万の兵の固める陣に単身で挑み、わずか半刻でこれを突破した。西域覇山の覇道七仙と一対一で次々と手合いして一日ですべて破った、などなど。
 これが真だとすれば、雑兵をいくらぶつけても勝ち目は薄い。今、戦っているのが本物の白夜であったとしても、勝利はおぼつかぬであろう。維龍角は、早々に陣頭から退き、藩文竜へと報告を入れた。
「此れが真に隼とすれば、一万の兵を以てしても攻め切ること能わざるを恐るる云々」
 これはいささか誇張であったかも知れぬが、維龍角の上申を重くみた藩は、右翼の周夫霖、徐西風両将に命じて、それぞれの精兵を前線に出し、必ずや敵将を破るよう命じたのである。

「おのれ、負けてなるものか…俺は剣豪・白夜だぞ!」
 白夜を名乗る剣士は、猛烈なる剛剣を振るってさらに五、六合ほど《隼》と打ち合ったが、全て右に左に受け流される。自称剣豪は、余りの屈辱にいきり立った。
「貴公の剣はまだまだです。《白夜》の足元に及びません」
 対手の激高ぶりとは反対に、《隼》は涼しい顔で言い放った。
「何だと! 貴様、俺を侮辱するのか!!」
 《白夜》は顔を真っ赤に染めて吠えた。剣の柄を握り直し、重い踏み込みから強烈な斬撃を放つ。しかし、《隼》が直刀をゆらりと僅かに動かしただけで、渾身の一撃は軽く弾かれた。
「くっ……あり得ん……」
 《白夜》が息を切らして吐き捨てると、《隼》は目を閉じて言った。
「我は水、刃は陰」
 黒衣の剣士の放つ静かな気が、この対決の場を支配していた。
「貴様、古流派の使い手か? 剣教会でも、羅周金派でもないな?」
 自慢の剛剣で、今までに百、いや、二百以上の剣士を捩じ伏せてきたと自負する《白夜》である。《剣教会》主流十六門派はもとより、剣教会とは異なるルーツを持つ東海もう一つの武術の殿堂《羅周金武闘大学派》の剣術とも一通り相対してきた。それが、全く見たこともない構えにてんで歯が立たないとは。
「貴方が本当に《白夜》なら、容易にこの構えを破れるはずです」
 《隼》はゆっくりと目を開き、《白夜》をじっと見据えた。
「この《水波》は、《白夜》その人が編み出した構えなのですからね」
「なっ……」
 さしもの剛剣士も、これには絶句せざるを得なかった。
「さて、来ないのならば此方から参ります」
 《隼》はそう宣言し、防禦の構え《水波》を解いた。腰を溜め、直刀の刃を背後に向ける変則の構えを取る。
 これも見たことはないが、居合抜刀術の変種か。《白夜》の偽者は、激しい動揺に脂汗を垂らしながらも、なお闘志は捨てていなかった。《隼》が《水波》を解いた今なら、自慢の腕力で打ち勝てるかもしれない。否、勝てるはずだ。絶対に勝たねばならない。力のみが剣の正統なのだから。
「きおおおおぉぉぉおおおおお!」
 《白夜》の偽者は突如奇声を上げ、剣を大上段に振り被って《隼》に襲いかかった。
 だが、その剣が振り下ろされるより早く、直刀の斬撃が剣士の胴を切り裂いた。それも一閃に非ず。《隼》の太刀筋は、ちらりとも見えすらしなかった。
 刀の間合を秘し、呼吸を悟らせぬ瞬時の太刀合いで急所を突く。殺人剣技、《暗剣殺》。
「ば……莫迦な」
 《白夜》の偽者は、驚愕に目をひん剥いて大地に倒れ伏した。
「は、速すぎる……これが、神速と呼ばれる所以だとでも……いうのか」
 そう呟いて、偽《白夜》は失神した。
 実のところ、隼の剣技は、鎧を切り裂いただけで対手の身体には傷を付けていなかったのだが、この男は、心身に受けた衝撃の余り気絶してしまったのである。
「だから、まだまだだと言ったでしょう。腕力の鍛錬だけでなく、心の剣を磨くことが大切ですよ」
 《隼》はそう言い残すと、きびすを返して《神門》の前へと戻っていった。

* * * * *

 白夜を名乗る偽者が《隼》に惨敗を喫してよりおよそ半刻。遠巻きに黒衣の剣士を見守るだけであった崇軍前線のところへ、容貌魁異の一群が到着した。
 まず目につくのは、雲を突くような緑の肌の大男である。
 次に、巨大な櫓を小脇に携えた小太りの男。
 それに続くは、背中に六弦琴を背負った白面の男。
 最後に、両手に抜き身の剣をひっ下げた、目つきの悪い痩せぎすの若者。
 この四人こそは、周・徐の両将軍が神速の《隼》を倒さんと送り込んできた選りすぐりの手練れであった。
 陣頭指揮に戻っていた維龍角は、四人を一目見るなり満足げに頷いた。これらの傑物であれば、かの隼にも太刀打ちかなうのではないか。維は早速四人に敵将を平らげるよう下命した。

「緑巨人・方峰保」
 まず進み出たのは身の丈三十尺はあろうか、髪も緑、肌も緑、着ている単衣も緑という緑づくめの巨人である。
 その容姿から《緑巨人》の字を持つこの方峰保は、出身の江道では一介の農夫に過ぎなかったが、東海に覇王たらんとする英雄の行く末をその目で見守らんと崇軍に加わったのであった。巨人の背後では、巨人が敵将を打ち倒すところをこの目で見ようと集まった崇軍の兵らが、口々に声援を送っていた。
「貴公は江道の民ですか。力のみで技を持たぬ者には興味はありません」
 《隼》はちらりと見上げただけで、緑巨人は怒りに地団太を踏んだ。地震の様な揺れが辺り一面を襲う。崇軍の兵らは軽い恐慌状態に陥ったが、隼は涼しい顔をしていた。そして、巨人が力任せに拳を振り下ろそうとすると、さっとその懐に潜り込む。
「背後ががら空きです」
 隼は、巨人に振り返る隙をも与えず、その右足の踵を直刀で突き刺し、すぐに引き抜いて身を引いた。
「ぅふぉうほうふぉおぅっ!」
 巨人は絶叫し、つんのめって倒れた。ほんの一瞬の所業であったが、隼の一撃は確実に巨人の腱を貫いていたのである。
「いかに江道の巨人族といっても、腱を鍛えることはできません。しばらくは立ち上がることもままならないでしょう」
 巨人は倒れ伏したまま、「おおおぅおうぉおおぅ」と呻き声を上げ、両手で顔を覆うばかりである。目からは豆粒のような緑の涙がぼろぼろと零れ落ちている。
 勝負あり。崇軍の兵らは意気消沈して声もなかった。

 さて、巨人が倒れてすぐ、二人目の部将が進み出た。
「魔櫓じゃ」
 そう名乗りを上げたのは、巨大な櫓を携えた小太りの男である。この男、周将軍の先鋒であり、その独特の柄物から、崇軍の中では《魔櫓》(まろ)と呼ばれているのであった。
「拙者がその剣、破ってくれるわ」
 ずかずかと進み出た魔櫓は、肩に担いだ櫓をずいと地面に突き立てた。この櫓は一千年の樫の大木から削り出された特注品で、竜の背脂をたっぷりと染み込ませてあるため、木製なのに生半な鋼より堅く、その重さは七十二斤もあった。魔櫓はこれを軽々と振り回すと、頭上に持ち上げる構えを取る。
「棍術の使い手ですか」
 《隼》は興味がなさそうに呟いた。
「魔櫓は棍術に非ず、古流槍術じゃ」
 小太りの男はニヤニヤとだらしない笑みを浮かべ、頭上でくるくると櫓を回した。
「曲芸なら都の大路がお似合いです」
 《隼》は相変わらず辛辣だった。
「ふむ、魔櫓の技が曲芸かどうか、その身で試してみられい」
 魔櫓は不敵に笑うや否や、小太りの身体からは想像できないすばしこさで一気に間合いを詰めた。
「そりゃ!」
 巨大な櫓を頭上でぐるりと一回転し、唐竹割りに打ち据える。しかし、七十二斤の櫓は空しく地面を叩いただけだった。
「遅い…その程度の太刀筋では、私を捉えることは到底不可能です」
 魔櫓が目を見開いて見ると、隼は男の真横に立っている。しかも、刀を抜いてすらいない。
「それともう一つ、古流槍術には、垂直方向の払いはありません」
「えい、魔櫓を邪道と抜かしおったな?!」
 丸い顔を真っ赤に染めて気炎を上げる魔櫓だが、櫓を突けども払えども、隼にはかすりもしなかった。
「貴方にはやはり曲芸がお似合いですね」
 軽い足裁きで右に左に身をかわしていた隼は、そう言うなり反撃の姿勢を取り、柄に手をやった。
 目にも留まらぬ抜刀術。
「……《剣教会》十六流派の一、飛鳥剣。斬って千刃千裂を為す。故に千裂斬と謂う……」
 隼が刀を鞘に納めたとき、魔櫓の口からは、喘ぎとも泣き声ともつかぬ音が発せられていた。
 彼の自慢の七十二斤の櫓は、ばらばらに切り裂かれていたのである。
「おぉぉぅぉおぅおおう」
 魔櫓はその場に突っ伏し、ただ泣きじゃくるのみであった。

「まったく、なんとも頼りにならん連中だな」
 そうぼやきながら三番手に進み出たのは、白い六弦琴を担いだ白面の男である。男の姿を一目見るなり、隼は眉をしかめた。
「俺の名は清志呂。人は俺のことを炎の清志呂と呼ぶぜ」
「左道使いですか」隼は眉をしかめたまま言った。「早々に立ち去りなさい」
「そいつぁできない相談だな」
 清は軽い調子で歌うように言うと、担いでいた六弦琴を下ろした。
「魔具、ですか…」
 隼がつぶやくと、清はにやりと白い歯を見せて笑った。
「ほう、我が愛器《焔野》の本性を見抜くとは、流石にできるようだな?」
「……いいでしょう。相手にとって不足はありません」
 隼はここに来て初めて鋭い目つきを見せた。

 隼は、先ほどまでの戦いと同様、刀を鞘に納めたままだったが、これまでの三者を相手にしたときとは異なって、慎重に間合いを見極めつつ、対手の出方を窺っていた。我流の魔具や方術を使う左道の類とは幾度か合いまみえたことがある隼であったが、未だ高位の魔具を有する術者と相対したことはない。清志呂と名乗る道士の名に聞き覚えはなかったが、長年の経験から、彼の魔具が人外の力を秘めていることを感じ取っていたのである。
 対する清も、黒衣の剣士から発せられる静かな気に圧されていた。まるで飢えた野獣の前に裸で放り出され、一歩でも動けば忽ち食らい尽くされるが如き感覚である。一介の剣士と侮るべからず。流石は剣教会の元第二位よ。清の額から、一筋の汗が流れ落ちた。

 そのとき、動いたのは隼だった。
 敵将の魔具の能力が判っていればあるいは対処のしようもあるが、それが判らぬ以上、発動前にこれを制圧せねばならぬ。隼は清と相対した非常に短い時間のうちにそう見切りをつけ、即行動に移ったのである。
 神速の、突き。
 七歩の間合いをものともせず、常人の反射速度を凌駕する踏み込みで敵将の真正面の位を一瞬で取り、その勢を十分に乗せた目にも止まらぬ居合抜刀により、相手の急所を一気に貫く。
 殺技とも称される秘技・暗剣殺をも越える、練刀法の秘中の秘。終奥義・天中殺である。

 戦場を取り囲む兵らは思わず息を飲んだ。
 先ほどまで六歩、いや、七歩は間合いを取っていた隼が、瞬き一つせぬ間に、清志呂の胸に刀を突き立てている。
 だが、更に兵らが驚いたことに、やがてぐらりと倒れたのは、清ではなく隼の方であった。
 大地に転がった隼の頭部からはうっすらと二本の白い煙が上がり、肉が焼ける胸の悪くなるような臭いが戦場を漂い始めた。
「米々、先に一曲奉じておいてよかったぜ」
 清は震える手の甲で額の汗をぬぐった。隼の刀は、清の右胸上部に深く突き刺さっている。道服には、赤々と血が染み出している。あと僅かでも反応が遅ければ、この刀は清の首を取っていたことだろう。清は、勝ったにもかかわらず背筋に凄まじい寒気を覚えた。
 清は、曲を奏じながら呪句を唱え、雷部の神の力を借りて方術を行う《六句》の使い手である。炎野は、魔曲を奉じ、雷部神の依代となる強力な魔具であった。実は、清はこの戦場に来る前に密かに一曲を奉じ、あらかじめ雷部の神力を借りていたため、目を向けるだけで発動する焼けつく視線を用いることができたのである。この術は、六句の中でも難度の高い《異形難意・竜呪魔術句》と呼ばれるものであった。しかし、ただ目を向けるだけで済む術にもかかわらず、隼のあまりの剣裁きの速さに、危うく命を落とすところだったというわけである。
 清は、辛うじての勝利を誇示する余裕もなく気を失った。

* * * * *

第廿一話

窟竜府攻略戦・続

 そこは、奥行きのある広間である。天井は高く、小さな天窓から薄明かりが差し込んでいる。部屋の左右には円柱が並び、円柱の間には、広間の奥に向かって赤い絨毯が敷かれていた。
 広間の最奥、背の高いビロード張りの椅子に肘をついて腰掛けているのは、漆黒の長衣を身にまとった年齢不詳の男である。その傍らには、飾り気のない白の短衣を身につけた銀髪の少年が控えている。
「隼が…倒されたと?」
 黒衣の男は、眼下に跪く鉄鎧の将に尋ねた。
「はい…敵は、魔具を用いたものとの報告がございます。敵軍は嵩にかかって魔窟外周部の制圧を進めております。御命令を、総帥」
 そう、この黒衣の男こそが、鉄牙会総帥・黒牙その人であった。その前にひざまずく将は鉄牙会副長の黒武、傍らに控える少年は付き人の華院である。
「策は?」
 黒牙の簡潔な問いに、副長・黒武はきっぱりと言い切った。
「かくなる上は、一の牙をもって、敵軍中枢を一気に叩くよりほかには策はございませぬ」
「準備はできてるぜ、黒牙の旦那」
 黒武の言葉が終わるか終わらぬかのうちに、広間の隅の円柱の陰から、ぼそりと声がした。そこに立っていたのは、長い金髪を背中に垂らした長身の男で、筋張った手には、細長い筒状の風変わりな武具を玩んでいる。鼻筋の通った面長の顔には皮肉めいた薄笑いを浮かべていたが、何故か両目は固く閉じていた。
「おいおい、手柄を独り占めってかぁ? 老図さんよぉ」
 その横から口を出したのは、逞しい肩に黒光りする鉄鎖を巻き付けた、浅黒い肌の好漢である。
 老図と呼ばれた金髪長身の男は、薄笑いの表情のまま、声の主の方へ顔を向けた。が、やはり両目を開けようとはしない。色黒の男は、白い歯を見せて笑い返した。
「俺の鎖は、十歩の距離に近づきさえすりゃあ、奴さんの身体を打ち砕くのはもちろん、生きながらにして捕らえることも自在だぜぇ」
「それを言うなら、私の糸は百歩の距離からそれをやってのけますよ、武能殿」
 色黒の男の背後から、さらに口を挟んだのは、討魔刀を差し、軽装の革鎧に身を固めた、いかにも討魔士という装いをした若者である。
「無論、切り刻むことも思いのままですが」
 魔物狩の中には、様々な武具の扱いに長じたものたちがいる。その中でも、仙境の朝露で鍛えられた特殊な鋼糸を己の呪力で自在に操る呪糸術を会得するのは至難の業と言われていた。この若者、朱令托は、弱冠十八にしてその呪糸術の極意を習得した数少ない達人の一人であり、そのために特級討魔士の称号を与えられていた。
「老図殿はその長筒で敵将藩文竜の心の臓を撃ち抜こうというのでしょうが、さすがに射線が通らぬ相手を撃つことはできますまい」
 朱は得意げに胸を張った。呪糸術ならば、如何なる障害物をも乗り越えて敵を討つことができるというのである。老図は、目を閉じ、皮肉めいた笑いを浮かべたまま、ふんと顎をしゃくり上げる。
「聞くところによると、敵方の将は六弦琴の魔具を用いるとか。ぜひ一度、拝聴してみたいものだ」
 広間の反対側から言ったのは、竪琴を抱え、灰色の外套に身を包んだ楽士風のやさ男である。
「今度ばかりは、貴殿も優雅に舞楽を楽しんでいる余裕はあるまい、曾西殿?」
 楽士を隣から睨みつけ冷ややかに指摘したのは、広間にあって紅一点のうら若き娘であった。白い肌に赤い唇、ぱっちりとした大きな青い瞳の蛾眉は、蝶の刺繍を施した緋の単衣を身にまとい、異様な雰囲気の男たちの中にあって、なおひときわ異彩を放っていた。
「常に心にゆとりを持たねば、せっかくの生も楽しめますまい、板娘々?」
 曾はそう切り返したが、その端正な口元は不満げに歪んでいた。
「……残念ながら、我らとて。この戦、楽しんでいる余裕はないだろう」
 重々しい口調で総括したのは、広間の入り口近く、石柱にもたれかかるように座る、いかめしい顔つきの初老の男だった。男は、ひび割れた分厚い掌を巧みに操り、抜き身の刀に薄く油を塗っている。
 魔将・亥戎。鉄牙会の最精鋭・一の牙を束ねる男である。
「敵将一人とっても、あの隼殿が不覚を取った相手だ。我ら一の牙にとって、最初で最後の大戦(おおいくさ)になるかもしれん」
「そうかもしれませんが、最後に勝つのは我らです」朱が自身に満ちた口調で断言すると、何名かが同調してうなずいた。
「さて、どうかな」
 ぼそりと呟いたのは老図だったが、場に居合わせた者は誰もそれを聞いてはいなかった。

* * * * *

「総帥、ご命令を」
 黒武が静かに申上し、一同の視線が、広間の奥まった一所に集まった。
 黒牙がゆっくり口を開く。
「確かに、諸君らの言はもっともだ」
 黒牙の声は穏やかで落ち着いており、一片の迷いもない。冥い瞳が一同をさっと撫ぜ、一の牙の面々はその底知れぬ深みに恐ろしさすら覚える。
「だが、ここは戦うべきでない戦場だ」
 一の牙は、謎めいた総帥の言葉に銘々顔を見合わせる。
「無論、我が鉄牙会が総力を結集すれば、この戦場において崇軍を破り、藩文竜を討取ることは容易いだろう。しかし、仮にこの場で勝利したとしても、崇雄子は必ず二の矢、三の矢を継いでくる。そのときもまた、我らは勝利を収めることができるだろうか?」
 黒牙は言葉を切って一の牙らを見渡したが、この問いには、誰も答えるものがなかった。
「久麗の大元帥・王連力は、自ら戦うべき戦場を定めて戦ったが戦果は空しかった。それはひとえに、三界の大勢には抗しえなかったからだ。今、東海には陰気が満ち、それをつかさどる覇王・崇雄子の行く手を阻むものは何ひとつとしてない。この場で我らが小さな勝利を収めても、最後に笑うのは崇雄子、奴ひとりだ。しかし、いま大勢は傾かずとも、いずれ陰陽は混淆流転し、崇雄子の運気も尽きる時がくる。しかし、そのとき、崇雄子を倒すべき力がなければどうにもならぬ。
 王連力が敢えて明白な死に戦を仕掛けたには理由がある。王は、自ら身を捨てて時を稼ぐとともに、久麗の力の温存を図った。崇雄子の昇りゆく現在の勢を止められずとも、最期の時に大勢を動かし、真の勝利を得るためだ。王連力の薫陶を受けた将軍らは、久麗辺境やここ北西道、さらには西域の山中に退き、時が来るのを静かに待っている。
 我らもまた、時を待たねばならぬ」
 黒牙は語り終えると静かに目を閉じた。それは、王連力の冥福を祈っているようにも見えた。
「総帥は、それをご覧になられたのか…?」
 曾西のやや不躾な問いに答えたのは、黒牙本人ではなく、板娘々であった。
「口を謹みなさい。貴卿とて、天眼晶のことを御存じない訳でもあるまい」
 曾は歯を噛み締め、板の方を睨むように見た。
 魔具・天眼晶。古代劫語で《パ・トリック》と呼ばれるこの水晶球は、千里の彼方を見通すだけでなく、過去に起こった出来事を、まるでこの場で起こっているかのように見ることができるという魔具であり、未来を見通す《視透球》と対をなすといわれていた。
「総帥の言葉に従おう。不服のあるものは、この場で鉄牙会を抜けてもらう」
 亥戎が重々しい口調で言い渡すと、一の牙の総員が沈黙した。
「それでは、鉄牙会はこれより窟竜府から撤退する。よろしいですか」
 副長・黒武の言葉に、亥戎がうなずき、次いで数名が同意を示す。
「兵らの指揮は、黒武、貴様に任せる」
 亥戎が唸るように告げ、黒武もうなずき返した。一の牙は、各々が異能を有する希有なる戦闘集団ではあるが、必ずしも、戦術を立て兵を率いて戦う将才を有しているわけではない。
「……殿軍は、わしが受け持とう」
「なに…亥戎殿…?」
 これには、黒武だけでなく一の牙の者たちも驚いた。
「敵は魔具を使ってくるかもしれませんが…?」
 朱が懐疑的な声を上げると、亥戎は重々しく振り向いた。
「敵が全力で向かってくるからこそ、わしは殿軍を務めねばならぬのだ」
 これには広間中のものが押し黙った。亥戎の剣力は誰しもが良く知っている。一の牙の中でも、真っ向から戦ってこの男に勝てる自信があるものはいなかった。兵の損失を最小限にくい止めるのが殿軍の役割だとすれば、この男より適任はいないだろう。だが、いくら魔将の異名を持つこの男でも、数多くの名だたる部将を含む三十万軍勢を受け止め切れるであろうか。
「わかった。殿軍は任せる」
 沈黙を破ったのは、黒牙の一言であった。
「それでは、鉄牙会はこれより撤退を開始する。一の牙諸君も各々行動を開始されたい」
 黒武の宣言に、一の牙の各員は無言で肯き、三々五々に散っていった。

* * * * *

 藩文竜は、神門を守る隼を倒したことを受け、左右両翼に窟竜府突入を命じていた。鉄牙会の精兵が総力で抵抗してくる場合に備え、各軍の突出を厳に戒める一方で、藩は、敵方の退路を断つため四方に伏兵を配するとともに、元帥府直属の暗殺部隊に、鉄牙会幹部の暗殺を指示したのであった。
 崇軍が南の神門から魔窟外周部を少しづつ制圧していく間に、鉄牙会の主力は、黒武の指揮の下で魔窟北門からの撤退を進めていた。そして、一の牙のうち、亥戎は北門を守備し、朱令托と武能の二名は、自主的に総帥・黒牙の護衛を買って出た。他の面々は、それぞれ思い思いの方向へ散ったのである。

 窟竜府の北西、土竜雲方面へ続く街道。まばらな木々の合間を抜ける交易路であるが、藩文竜は、鉄牙会がこの街道を使って北に退却する場合に備えて、劉活率いる左翼軍のうち五千の兵をもって伏兵に当たらせていた。この部隊を束ねるのは、久麗帝国の巡察史を務めていた馬開という男である。馬開はもともとは出水州の孤児であったが、少年時代を過ごした久麗の練兵場で文武に優れた才覚を示し、州総督の抜擢により二十歳の若さで巡察史となった。しかし、馬はわずか数カ月で突然職を辞し、行方知れずとなる。出奔した馬開は、実は、亜空衆の聖地の一つとされる覇山に赴き修業を積んでいたのである。馬にとっては、国家組織の中に埋没するより、己の武力を磨き上げることの方が魅力的に思えたのだ。数年に及ぶ血のにじむような修練の末、馬は覇山最強の亜空である覇者の位を得た。覇山七仙の一である桂良は、彼の武力を称えて《絶刀》の二つ名を与えたほどである。かくて、再び彼が久麗に戻ってきたとき、そこでは崇雄子が覇を唱えていた。磨き上げた己の武力を試す場として、覇王戦争はうってつけのものに見えたのであろう、馬は、北征軍司令・藩文竜の配下に加わったのであった。
 絶刀の馬開と、その副官の剄雪なる白装束の左道使いが、精鋭を率い街道を封鎖しているとの報を受け、土竜雲方面への退却を図った黒牙一行は迂回を余儀なくされた。そこで、朱令托は一計を案じ、背格好が黒牙によく似た兵を選び出し、これに黒衣を着せて、武・朱の二名が護衛として当たるという影武者を用いたのであった。黒牙には、付き人の華院がいたし、そもそも黒牙自身が東海一の方術の使い手であったから、伏兵を避けて落ちのびるには、一の牙の二将をわざわざ護衛に着けなくとも支障はないように思われたからである。朱は、自らの策に満足しているようだったが、武能は、「相手さんがひっかかってくれりゃいいけどねぇ」と半信半疑であった。

 果たして、黒牙が側近らと離れてから半刻後、街道筋を外れた疎らな林の中を進んでいた黒牙と付き人の華院の前に、藩の放った刺客が現れたのである。
 そこに立っていたのは、道化のような衣装をした小男と、左右ちぐはぐのぼろをまとった大男の二人組であった。
「そちら様が黒牙殿でいらっしゃりまするか?」
 小男のせせら笑うような上ずり声に、黒牙は冷ややかな一瞥をくれた。
「お前らのような下衆どもに名乗る名など、生憎持ち合わせていないが」
「左様でございますか」
 小男は、小さな体を左右に揺すりながら言った。
「私めは孔乱雲、こちらに控えるは劉二と申しまして、失礼ながら、そちら様のお命、もらい受けまする」
 孔の言葉が終わるか終わらないかのうちに、劉二なる大男は体を大きく前のめりに傾け、黒牙らを目がけて走り始めた。手足を同時に突き出す奇妙な走り方である。
「任せたよ、華院」
 黒牙はまばたき一つせず、傍らに控える少年に静かに言った。少年は無言で頷き、すっと黒牙の前に進み出る。劉二は、よろけるような足取りで近づきながら、背負っていた大剣を引き抜き、ぎこちない動作で振り上げた。華院は自然体の構えでじっと見据える。
 するとその時、劉二の後ろから走ってきた孔が、少年目がけて十数本の手裏剣を一斉に投げ付けた。同時に、劉二が人間とは思えぬ身体の動きで、大剣をくるりと一回転させ下方から斬りかかる。
 手裏剣で反射的な機動を封じ、同時に予測不能の死角からの攻撃を仕掛けるという絶妙の連携技である。これを避けられるものなど居りはしまい。
 孔は、華院に必殺の一撃を与えんと、小剣を抜き、奇声を上げながら発条のように跳躍する。だが、劉二の巨体を飛び越えたところで、孔は自らの失敗に気が付いた。
 劉の大剣は、華院に受け止められていたのである。
 こんなちっぽけな子供が。しかも素手だというのに。劉二の膂力は、一薙ぎで一抱えもある大木を切り裂き、人を鎧ごと叩き切るほどである。それを正面から素手で受け止められるはずがない。
 華院は、飛びかかる孔に顔を向け、大きく獅子吼した。口元から覗く牙。
「獣人か!?」
 孔が叫ぶとほぼ同時に、華院は劉二の大剣を押さえ付けているのとは反対の腕を振り上げた。鋭い爪が孔の眼前に迫る。明らかに、爪よりは小剣の方が間合いが長いはずだ。それなのに、どうやっても小剣が先に届くような気がしない。
 孔は狂ったような笑い声を上げながら、それでも小剣を華院に向けた。落下する体重をかけた一撃は、本来ならば相手の死角から不意を打って脳天を直撃するはずだった。しかし、その動きは既に見切られている。華院は空いている片手の爪をつっと動かし、襲いくる小剣の切っ先に滑らせた。
 軌道をほんの少し逸らしただけで、小剣は目標を失って地面へと突き刺さる。孔はすかさず反動で跳び退ろうとして、何者かに首根っこを掴まれた。
 はっと振り向いた孔の瞳に映ったのは、黒牙その人であった。
「もうおしまいか?」
 黒牙の冷ややかな一言に、孔は両足を大きく振り上げる。仕込んであった無数の手裏剣が黒牙の顔面を襲うが、見えない壁に弾かれて落ちた。
「まるで軽業師のようだな」
 孔はさらに身体を揺すり、背中に隠し持っていた大針を握って突き立てようとしたが、やはり見えない何かにがっちりと阻まれる。
「無駄だよ、守護の呪符を張っている」黒牙はにこりともせずに言った。「久麗騎士の剣技ならばともかく、お前らの打撃程度は封じることができる」
 黒牙は袖から一枚の呪符を取り出すと、孔の額に張り付けた。とたんに小男の四肢はだらんと垂れて動きを止める。いわゆる封縛の呪符である。
「華院」
 黒牙の呼びかけに応えるように、劉二を押さえ込んでいた少年は、大剣から手を放して瞬時に黒牙の傍らへと引き下がる。劉二もすかさず後ろに退き、糸の切れた操り人形のような格好で立ち止まった。
「お前らなど殺すまでもないが、死を選びたいというのならそうしてやってもいい」
 黒牙はわざと大きな声で告げた。
「……もう一人、いるのはわかっているぞ」
 黒牙が付け加えると、木立の陰から静かに歩み出る者があった。
「さすがは黒牙殿。これでも一応、気配は断ったつもりでしたが、すべてお見通しですか」
 姿を現したのは、全身黒づくめ、黒い覆面で目許まで隠した長身の男である。片手には、大振りの刀を鞘に入れたまま提げている。
「この者たちの仲間か?」
 黒牙が問うと、男は小さくうなずいた。
「いかにも。同輩が無礼を働き、申し訳ない」
「暗殺者に礼儀があるものか」黒牙はここで初めて笑った。「お前も崇雄子の手の者だろうが、なぜ俺を狙わなかった? この中では一番の手練れだろうに」
 男は頷いた。
「確かに、我らに命ぜられた任務は黒牙殿の暗殺。しかし、ものには道理というものがある。最初からうまく行かぬことが分かり切っている作戦など、遂行する気はもとよりない」
 暗殺者でありながら、与えられた任務を拒絶するというのである。
「ふむ。面白いな。名前はなんという?」
「比子董(びし・とう)」
 男はそう告げると、丁重に一礼をした。
「さらば、またお会いする機会もございましょう」
 かくて黒牙一行は、無事に土竜雲方面へ落ちのびたのであった。
 ちなみに、影武者を立てた朱・武の二人は、窟竜府南西の馬奈国へ至り、かの地で大活躍することとなるのであるが、それはまた後の話である。

* * * * *

第廿二話

崇軍と一の牙の豪傑相まみえ、窟竜府陥落すること

 鉄牙会が密かに撤退を進めていたその頃。
 崇軍右翼の周夫霖、徐西風両将は、魔窟外周を右回りに、先を争うように北門目指して進軍した。かの隼を倒した炎の清志呂は周将軍の部将であったことから、この戦で目立った手柄を上げていない徐将軍は特に功を焦っていたとみえた。
 鉄牙会の誇る鉄の規律に加え、副長・黒武がその卓越した指揮力を発揮したことから、鉄牙会の主力は非常に迅速に撤退しており、敵の抵抗らしき抵抗にも出くわさなかったため、両将軍はわずか一日足らずで広大な窟竜府の半分を制圧したのである。
 これは、左翼の劉活・呂堂両将が藩元帥の命に従い、慎重に兵を進めていたのとは対照的であった。

 さて、一足先に窟竜府北端の北門まで到達した徐将軍は、未だ撤退を終えていない鉄牙会の一軍と会敵した。
 配下の《野狗子》宝温に百名の手練れを与えて取り急ぎの先鋒としつつ、敵軍が逃げ切る前に更なる一撃を加えるべく、自ら陣頭指揮を執って北門前に馬を駆った徐将軍だったが、突然馬が怯えたいななきを上げて立ちどまった。
 北門の真正面にあぐらをかいて座っていたのは、徐と同年配の、白髪交じりの初老の武人である。武人の周囲には、徐将軍が送った先鋒隊の宝温と兵らが、もの言わぬ躯となって倒れていた。
 初老の武人は、徐西風の姿を認めると静かに立ち上がった。徐将軍はその異様な眼光の重さにぞっと身震いする。しかし、練達の武将として、ここで引き下がっては居られぬ。
「我が名は徐西風」
 徐将軍は馬を降り、名乗りを上げた。
「波門の一族か」
 亥戎はじろりと徐将軍の顔を眺めてつぶやいた。波門とは、水を操る方術と体術を組み合わせた独特の技を伝承する南東道出身の一門であり、別名、水使いともいう。
「いかにも。貴公もさだめし名のある将軍とお見受けしたが」
 亥戎はふんと鼻で笑った。
「わしの名は、亥戎」
「鉄牙会の魔将とは、貴公のことか!」
 徐は敵将を睨みつけると、呼吸を整えて波門古武術の構えを取った。徐西風、このとき五十二歳。波門の頭首となって三十余年、ただ一門を守るために戦い続けてきた。しかし、「鉄牙会に魔将あり」と謳われたこの男が相手となれば、勝てる見込みは良くて五分。これが最後の戦いになるかも知れぬと練達の武人の勘が告げたのである。
「久々に、心が震えるわ」
 徐は敵将に対し七歩の間合を置き、体を斜めに構えると、両手を絡めるように交差させながら心神を集中した。亥戎はその様をじっと見守る。
「さあ、来い。貴公の剣力、拝見させてもらう」
 徐は腹の底から、気の篭った掛け声を発した。亥戎も腰の刀をするりと抜き放つ。だが、徐の誘いに応じて仕掛けるでなく、ただ間合いを測って相対するのみである。
「どうした、かかって来ぬのか」
 徐の度重なる挑発にも、亥戎は応じる様子がない。自然に下げた左の腕に刀を握り、仁王立ちに立っている。
「わしは、鉄牙会の殿軍を務める身だ。貴様の魂胆は知らんが、わしはただこの門を守れればそれで良い…」
「ふむ。ならば、こちらから参ろう」
 徐は素早く身体を捻ると、亥戎に向かって飛びかかった。初老の男が放ったとは思えぬ、全身のばねを利かせた鋭い蹴り。無論単なる飛び蹴りではない。観察眼の鋭い者ならば、ごく薄い水の膜が徐の軍靴を覆っているのを見抜いたことであろう。
 波門の使い手は、水に気を通し自在に操る。気を込めた水の薄膜は、足の甲から伸びる鋭い爪となって亥戎に襲いかかった。
 亥戎は、無造作に刀を振るってそれを受け流した。しかし、水で形作られた爪は、形あって無きが如し。刃をすり抜けるようにして亥戎の右肩を捉える。それは、なめし革の鎧をすらっと切り裂き、紅波が散った。
「我が《波門蹴爪》、刀で受けられると思ったか!」
 徐は亥戎の背後に着地すると、勝ち誇ったように叫んだ。しかし、亥戎は意に介する様子もない。北門を背にしたまま、ただ重い視線をぎょろりと向ける。肩口の傷など、痛みすら感じていないようである。
 徐も、内心この男には底知れぬ脅威を感じていた。挑発にも乗らず、手傷を負っても動揺も見せない。先ほどの波門蹴爪も、蹴りそのものが直撃すれば、体内に気を含んだ水を流し込み、心臓まで到達させることができたはずである。即死とまでは言わずとも、戦闘不能に陥れることは確実だったはずだ。亥戎は、直撃さえ避ければ致命傷にならぬことを承知の上で、あえて淡々と受け流したのではないか、そう思えてくるのである。
「貴様を葬らねばこの門が守れぬとあらば、わしは、喜んで貴様の処刑吏となろう」
 亥戎は低い声で野獣が唸るが如くに言った。
「果たして貴公にそれが可能かな」
 徐は再び呼吸を整え、気を練って機会を窺った。亥戎もまた、眼光鋭く徐を見据える。
 両者は暫くにらみ合ったまま対峙したが、やがて異変に気が付いたのは徐であった。亥戎の右肩にはかなりの深手を負わせたはずだ。だが、つい先ほどは滴るほどに血が流れ出していたのに、今は全く出血がみられないのである。
「ふん、やはり口先だけか。ならば我が波門の奥義でとどめを刺してやろう」
 徐はまたも大言を叩き、両手で目の前の宙を掴むような仕草をした。忽ち拳大の水球が二つ、徐の掌中に現れる。
「名付けて、《波門空落果》」
 徐は、二つの水球を左右から撃ちつけた。激しく回転する水球は複雑な螺旋を描きながら空を切り、亥戎めがけて落下する。
 亥戎は水球に目を遣りもせず、左手の刀に加え、右手で小刀を抜いて二刀流の構えを取った。先ず左から襲ってくる水球を左の刀の腹で受け止める。猛烈な勢いで刃に激突した水球は、なおも暫く推力を失わなかったが、亥戎は力でこれを弾き返した。
 しかし、その僅かな隙に、もう一つの水球が、亥戎の右後方から背面を衝いたのである。
「かかったな!」
 徐は思わずにやりとした。左右の水球に時間差を付け、まず亥戎を左に引き付けることにより、右後方に死角を作り出す策である。
 だが、亥戎は微塵も慌てなかった。瞬時に右に転回し、眼前の水球を右の小刀で一刀両断に斬り捨てる。水球は、真っ二つになって地に落ち砕けた。
 徐も、これには流石に絶句せざるを得ぬ。波門の気を含んだ水球はいかな鋼よりも硬く、百斤の鉄鎚より重い。その一撃を生半可な剣技で防ぐことは不可能である。加えて、それに込められた練気の強さは、常人ならば剣で触れただけで吹き飛ばされるほどである。それを片手で造作無く押し返す剣力は、やはりただものではない。
 しかも、精妙な技巧で完全に死角を取ったにもかかわらず、亥戎は、手負いのはずの右腕で水球を切り落として見せたのだ。これまでにも、《波門空落果》を避けたり受け流したりしたものはあったが、力で切って捨てたものはいなかった。
「やはり、貴公は、腑活者ということか」
 腑活者とは、肉体を傷つけてもあっという間に治癒してしまう特殊な力を持ったもののことである。徐もそういった類の人種がいることは知識としては持っていたが、その存在は余りにも稀であるため、これまでに出会ったことはない。
 先ほどの手傷が癒えていなければ、このような立ち回りができるはずがない、徐はそう結論づけたのである。
 亥戎は、口元をニイィと歪めた。それは、この戦いで初めて亥戎が見せた「笑み」であった。
「ならば、貴様はどうするのか?」
 亥戎の声は、闘いの喜びに満ち溢れていた。
「見せてもらうぞ、貴様の覚悟の程を」
 亥戎は、そう言うなり動いた。七歩の間合を一跳びに、右手の小刀を豪快に振りかぶる。徐は素早い運歩でかわすが、その爪先から数寸のところで、小刀は大地に深々と突き刺さった。もし避け切れていなかったならば、徐は足を縫いとめられ、完全に機動を封じられていたであろう。
 亥戎は小刀から右手を放し、左手から細い鉄鎖を伸ばして徐の足を絡め取ろうとする。徐が跳躍してこれを避けると、亥戎は右腕を横に振るい、左脚を軽く蹴上げた。すると亥戎の手足に仕込まれていた十数本の手裏剣が徐を襲う。点でも線でもない、面の攻撃である。
 これは避けようにも避け切れぬと一瞬で見て取った徐は、気合一喝、左右の手に手刀を形作り水膜を張った。
「《波門手刀》!」
 鋼より硬い水の皮膜で覆った手刀で素早く手裏剣を払い除け、徐は体勢を立て直した。
「どうした、息が上がっているぞ」
 亥戎はしわがれ声でせせら笑うように言った。口を動かすだけでなく、既に次の一手を打っている。背負っていた曲刃(ブーメラン)を徐の首めがけて投じ、徐が身体を反らすようにして辛うじてこれを回避するのに合わせ、驚くべき瞬発力でその眼前に一気に踏み込み、重い回し蹴りを徐の腹に極める。対手が曲刃の一投を避け切れないことを見越しての連撃である。
 常に全身に気を巡らせている徐であったが、亥戎の蹴りは気功を上回る威力を持っていた。徐もこれにはたまらず膝を崩しよろめく。刹那、徐の髪の毛を、先刻投じられた曲刃が背後から掠める。もし膝を崩さず持ちこたえていたら、曲刃は過たず徐の首を刈っていただろう。亥戎は、帰ってきた曲刃を無造作に素手で受け止める。
 徐は心底震えを感じた。それは、闘いを前にした武者奮いの類ではなかった。
 この男、戦いに慣れすぎている。
 刀、鎖、曲刃など様々な得物の扱いに通じ、体術も徐のそれを遥かに凌駕する。加えて、傷を負わせてもすぐに回復する腑活者の能力がある。数十年の間に数多の戦いを経験してきた徐西風だが、この男は、他の何者とも違う凄みを持っている。
 徐の脳裏を、幾つもの出来事の記憶が駆けめぐった。
 古より伝わる秘石・瑛邪を巡り、環矛ら半修羅の三人と戦ったこと。その戦いの中で、同門の盟友、史財を失ったこと。暗黒街の帝王・武覧堂の放つ刺客の群れをかいくぐり、西南道は楷楼の地で瀕死の重傷を負いながらも討ち果たしたこと。孟稜の町を脅かした殺人鬼・安十老らを倒し平和を守ったこと。
 いずれも厳しい闘いではあったが、不思議とここまでの絶望感を味わったことはない。ならば退くか。否、この猛者に背を向けたが最後、確実に首を取られるだろう。進むも為らず、退くも叶わず。
 徐が死を覚悟したその時である。

 一迅の疾風がどうと吹き、大地にさっと影がさす。見上げた徐と亥戎の目に映ったのは、空を飛ぶ青龍刀と、その上に腕組みをして立つ男の姿であった。
 途端、晴天の霹靂とはこのことか、二人の間に轟音とともに雷が炸け、もうもうと土煙が舞い上がった。
「暫く、暫く!」
 煙が晴れると、そこには、地面に突き刺さった青龍刀と、その鍔と柄に片足ずつをかけて刀の上に立つ、紺色威鉄鱗鎧を着込んだ豪傑の姿があった。
 鎧武者は、見事な顎髭を打ち振るい、からからと笑いながら大音声で名乗りを上げた。
「吾輩は《青雷》の周夫霖、義によって助太刀に推参致す」
「周将軍」
 徐は驚きの声を上げ、予期せぬ援軍の顔を見上げた。
「徐将軍、吾輩が来たからにはもう安心じゃ。貴殿と二人で、賊めを討ち取ろうぞ」
 周はそう言うと、腕組みをしたまま刀から飛び降りた。
「《青雷刀》よ!」
 周が呼び掛けると、青龍刀が地面からひとりでに抜けて宙に浮かび、周の横にぴたりと沿うではないか。
「北方の魔具使どもか」
 亥戎は唾を吐き捨てた。「魔具如きでわしは殺せぬ」
「それは、吾輩の武芸を見てから言っては如何か」
 周は豪快に打ち笑うと、腰を落とし北方武術・祖馬闘の構えを取った。
「いざ参ろうぞ。《青雷刀》!」
 周が命ずると、魔具は空を切って亥戎に切りかかった。亥戎は左の刀で受け流すと、足に仕込んだ手裏剣を放つ。周は不意を突かれて避けることも忘れたが、
「危ない」
 徐が割って入り、波門手刀で手裏剣を弾き返す。
「成る程、これは一筋縄では行かぬわい」
 額の汗をぬぐい、周は敵将を凝視した。
 周・徐二将と亥戎は七、八合ほど打ち合ったが、互いに隙がなく手傷を負わせることもできぬ。宙を翔ける青雷刀を縦横無尽に操る周と、次々に波門の技を繰り出す老練な徐の連携攻撃を、亥戎は様々な得物を駆使して凌いでいるのである。
 戦いの最中、徐はふと考えた。二対一ならば有利と踏んだが、流石は鉄牙会の魔将、二人を相手に互角に打ち合っているではないか。しかも、幾多の修羅場を潜り抜けてきた二将を対手として、である。このまま打ち合っても、腑活者は疲れを知らぬ。もしや有利と読んでいたのは誤りで、むしろ敵方が優勢なのではあるまいか。あえて攻めず、隙を作らぬ守備の構えを取り、二将が消耗するのを待っているのではないか。
 ならば、どうするというのだ。
 亥戎の先刻の言葉が蘇る。
 そうだ、先刻、この命は捨てたのではなかったか。ならば今こそ、この身を捨てても敵に隙を作り、周将軍にとどめを刺してもらうより他に活路はない。そうしなければ、二人とも、この北門で落命することになりかねぬ。
 徐はそう覚悟を決め、目を閉じて呼気を整え、全身の気を練り上げた。両腕に宿る水気は、浩々たる大海の荒波の如き勢を蓄えている。徐は目を見開き、敵将の懐めがけて飛び込んだ。
「多鯉頭振・王覇虎武」
 王覇虎武とは、その名の通り、虎の武力をも覇する王の如き勢を持つと称する、波門の最高奥義である。その奥義の中でも特に練り上げられた一撃は、昇り行く水流の様があたかも登竜門を昇る鯉の群れのようであることから、多鯉頭振と形容される。
 徐将軍の身を捨てての一か鉢かの猛攻に、亥戎は慌てこそしなかったが、両の手に構えた得物を操って防戦一方となった。過たず、その一瞬の隙を衝いて周将軍の《青雷刀》が斬りかかる。
「取った!」
 青雷刀が亥戎の首を捉えたかと見えたその時、ギャーンという音とともに、魔具は地面に叩きつけられた。
 勝ち誇った周将軍の顔が見る間に凍りつく。
「なん…だと?」
 周は即座に《青雷刀》を手元に回収するが、刀身に疵は見当たらず、ほっと胸を撫で下ろす。他方、徐の一撃を凌ぎ切った亥戎も、腕を薙いで徐を引き離し、間合いを取って大きく息をついた。
「あやつか!」
 ぐるりと辺りを見渡した周が、北壁の上を指さして怒号した。そこには、白い外套を着け、長い筒状の武器を構えた金髪長身の男が立っている。一の牙の盲目の射手、老図である。
「伏兵か、怪しからん魔具を持っておるわい。天工幕那の雷伏竜とやらか!」
「周将軍!」
 闘争心に駆り立てられた周であったが、徐の声に我を取り戻す。二体一でようやく互角であったこの闘い、二対二となってはいかにも形勢が悪い。
「ここはひと先ず、おあいこということにしておこう」
 周はそう強がると、徐とともに素早く魔窟の奥へ退いていった。

 周・徐二将が退いたのを確かめると、老図は北壁から飛び降り、亥戎の元に馳せ参じた。
「なぜ、わしの命に背いて残った」
 亥戎はぎろりと目を剥いた。目が見えぬはずの狙撃手は、あたかも見えているかのように亥戎に顔を向ける。
「まあまあ、そう怖い顔するなよ。旦那に、黒牙の旦那からの伝言を伝えに戻ってきたのさ」
 老図は瓢々として臆する様子もない。
「総帥は、なんと?」
「生きて戻れ、とのこと」
「いらん節介を。貴様とて、崇軍の武将相手では、生きて帰れる保証はないのだぞ」
「それは仕方ないさ、今、旦那に死んでもらっちゃあ、一の牙はバラバラになっちまうもんでね」
 老図はへらへらと笑いながら言った。
「それと、俺は、腐れ楽士如きに一の牙を牛耳られたくはない」
「ふん」
 亥戎は苦々しげな顔をした。老図のいう腐れ楽士とは曾西のことである。曾西は、鉄牙会の序列では黒武、亥戎に次ぐ第四位、順当にゆけば亥戎の跡を継ぐことになる。だが、老図や板娘々は、時に応じて言を左右にする曾西に信頼を置いていなかった。亥戎も同じ意見である。
「鉄牙会本隊は既に三十里の彼方だ。旦那は十分に責を果たした。今度は、黒牙の旦那に義理を果たす番だ」
「相分かった。この命、しばし預かっておこう」
 亥戎はしぶしぶながら頷き、老図とともに北門を撤退したのである。
 周・徐両将軍は、二刻の間に軍の態勢を立て直して再び北門を攻めたが、鉄牙会の兵は既に跡形もなく、一の牙の将も姿がなかった。間もなく、窟竜府西側を進んだ劉・呂両将の軍も北門に到着した。こちらは一部の熱狂的な雲氷陶信徒の抵抗を受けたものの、やはり鉄牙会の兵には遭遇しなかった。

 かくて、窟竜府はさしたる抵抗もなく、崇軍の手に落ちた。時に四一九年新春のことである。

* * * * *

第廿三話

崇雄子、朱漕府に都を移すこと

 北西道最大の難関と予想していた窟竜府陥落の報を受け、崇雄子は小踊りして喜んだ。これで、崇の覇業を阻む勢力は事実上なくなったといっても過言ではない。未だ西南道は群雄割拠状態であり、北西道には土竜雲、幕那帝国などの諸勢力が控えていたが、いずれも東海中央にまで攻め込むだけの力はない。今こそ、東海に覇王として君臨する時が来た、そう崇は信じた。
 崇は、鉄牙会の残党を追って能育州と北方の要衝・土竜雲に進撃中であった藩元帥をわざわざ王都武焔に呼び戻し、盛大な戦勝式典を催して大元帥に昇格させるとともに、改めて北西道の全土制圧を命じた。
 この祝典において、並み居る将軍を差し置いて藩と同列の左右元帥格に配されたのは、誰もその顔を知らぬ、銀髪白面の玲瑯な美丈夫であった。老馬頭なるこの将軍は、南方方面の軍を統括するため、崇王自ら請うて招いた武将であり、配下に七人もの有能な部将を抱えて馳せ参じたのだという。崇は、この場で老馬頭に元帥号こそ授けなかったが、元帥に準じる破格の扱いでこれを遇した。
 また、東北道方面の武雷本、須原両将軍からは、東北道及び北海沿岸の制圧が報告され、崇はこれらに対しても褒賞を惜しまず、武を元帥に昇格させるとともに朱漕府都督を命じ、また、須原東洲に対しては東北道総督の位を与えた。

 朱漕府都督に任じられた武には、一つ大きな使命が課せられた。それは、廃墟となった久麗の都・朱垂都に代わり、海上交通の要衝・朱漕府に東海の新たな都を建造するというものである。朱漕府への遷都は、かねてより崇雄子が計画していたもので、交易を盛んにし千年楽土を築くという崇の野望を体現していた。

 武雷本に与えられた王命は、「東海の皇帝に相応しい、久麗京師を超える壮麗なる都を一月にて築くべし」である。
 朱漕府の再興は、口で云うは易いが、実行するのは至難を極める作業であった。
 しかし、武は、配下の兵を総動員した突貫工事で、越司旧内務府を改装して仮宮殿とし、さらに魔道顧問団から与えられた指示に従って周囲の文武官署もとりあえず整えさせた。この手際の良さには、魔道顧問団から目付役として朱漕府に派遣された司空奉も驚嘆したという。
 このとき、武雷本を主に資金面で支えたのは李茶堂なる久麗商人である。
 李は、神洲牙龍飯店なる豪奢絢爛な温泉宿場を経営する大富豪であり、越司の元商務長官で、現在は武の知恵袋となっている梅華任のつてで自らを売り込んだのであった。
 また、地元の越司商人では、弟文谷、明志が職人や資材をよく揃えて協力したため、武はこれらに対して特権的な座を組むことを許した。
 さらに、武は、霊門に逃げ落ちた越司の民の住居を接収し、崇軍の兵に無償で与え、その代わりに東海の都に相応しいものとなるよう建物の補修や道路、水路などの土木工事を行わせることによって都の景観の整備を図った。無論、兵らの監督には内陣の武士を駆り出し、厳しく目を光らせたことは言うまでもない。

 かくて、朱漕府の中心は、一月足らずで覇王の都に相応しい体面を何とか保つこととなった。しかし実際には、朱漕府全体でみれば先の激しい攻城戦の爪跡もまだ完全には癒えておらぬ一方で、越司軍は海上の要衝霊門から強大な水軍を以って崇軍に睨みを利かせ、民は不在でただ兵のみが住まう街となっていて、朱漕府はかりそめの都に過ぎなかった。
 こうして短期間に新都建設を進めた功により、武雷本は新設された禁軍師範に抜擢されることになる。

* * * * *

第廿四話

覇王崇雄子、東海を席巻し皇帝を称すること

 陽暦四一九年春、正式に朱漕府に遷都した崇雄子は、自らを東海皇帝大覇王と宣し、ここに東海帝国が成立する。
 即位式には、丁久麗、露夢蘭、暗砂流、彩国など崇の軍門に下った国々の傀儡が顔を揃えて新皇帝に万歳を叫んだ。朱漕府には民はほとんどおらず、数十万の兵が小旗を振って皇帝を称えるという異様な光景の中、崇は次のように即位の言葉を述べたという。

 万民よ聞け。かの大久麗ですら、東海四道を安らかにすることはできなかった。しかし、今、我が軍団は四道に号し、遠く北海から南海までの間を領土とし、東海の民は一つの帝を頂くこととなった。
 久麗が東海の統一を成し遂げ得なかったのはなぜか。それはひとえに、久麗が口先だけの仁義友愛を唱え、行動に拠ることがなかったからである。仁と云い愛と云って民の暮らしが良くなったことがあったか。四道の民が貧しさに肩を寄せ合って震えながら飢えた暮らしを送っているとき、久麗の民は、言葉では大義を嘯きながら、四道から絞り取った膏血で安穏としていたのである。まさに空虚な絵空事によって政が為されており、四道の諸国はこれにうわべだけ従わざるを得なかったのが現実であった。
 故に、我は兵を起こし、革命を成した。これは我が意に非ず、天の意であり、地の意であり、まさに東海の民の意である。それが証拠に、我が軍団の前に久麗は張子の虎であった。久麗の天命は既に尽きていたのである。
 今ここに、我は、東海皇帝大覇王として東海に君臨することを宣する。
 我は、仁愛でなく武力により、東海を支配する。武力は、魔具と将兵により維持される。東海の民は、正義を為す我が帝国に従わねばならぬ。正義に反する行いは罰せられる。これが法である。我が帝国は、美辞麗句ではなく法と正義により、東海を支配する。我は法である。故に、我が帝国は、東海に永らく平和と繁栄をもたらすこととなろう。

 崇は、皇帝に即位すると、次の四名を四道の王に封じた。すなわち、東北道王・須原、南東道王・崇霊子、北西道王・藩文竜、西南道王・老馬頭である。
 この四人目の名を聞いて多くの者は首を傾げた。まだ崇軍に入って日が浅く、目立った戦功もない老を西南道王に就けることには、藩文竜ら挙兵以来の軍人のみならず魔道顧問団内にも反対の声があったものの、崇帝の強い意向で押し切られた。
 また、崇帝は、久麗の統治制度に倣い丞相を置き、これを補佐する司政府を置いて政事を司らしめることとし、導師・無血牙を丞相に任命した。無血牙は軍においても総軍師の地位を与えられており、魔道顧問団を正式に組織化した顧問院と並んで、政軍に睨みを利かすことになったのである。
 そして、司政府においては、丞相を直接補佐し、施策を建議し法を執行する大法官に魔道顧問・有破が、また、地方百官を統率する大都察に魔道顧問・聘保立がそれぞれ命ぜられた。その他、東海帝国の主要な文武の官は次の通りである。

司政府丞相総軍師 無血牙

大法官 有破

左法官刑部書令 金久良

右法官吏部書令 申鳩嶺

大都察 聘保立

左都察直隷巡按 馬十郎

右都察四道巡按 回燃

南東道王大顧問魔具司 崇霊子

東北道王顧問 須原

北西道王大元帥 藩文竜

西南道王左元帥 老馬頭

朱漕府都督右元帥禁軍師範 武雷本

軍営府軍令 神弐辺

顧問院長大顧問直隷総督 栄斗策

顧問院令顧問 司空奉

(第二巻・完)

* * * * *

東海覇王伝・表紙へ戻る