国旗・国歌問題についての歴史

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「日の丸」「君が代」1999年、法制化まで owl

国旗・国歌法制化批判と話題

なぜ、この時期に法制化するのか
     1999年7月22日、国旗・国歌法案が衆議院本会議で、自民、自由、公明、民主の約半数などの賛成により可決された。8月9日には参議院本会議で同じく、可決された。
    新聞報道によれば、2月25日の参議院予算委員会で「長年の慣行で定着している」ことを理由に、「日の丸」「君が代」の法制化の考えがないことを表明していた。その後、2月29日に卒業式を巡り悩んだ広島県立世羅高校校長の自殺があり、これをきっかけに野中広務官房長官は、教育現場での混乱を回避するための「法制化の必要性」を指摘し、自民党執行部の現状で十分という消極論を押し切った結果、首相、政府は一転、法制化の道を走り出した。国旗については法制化する必要がないという保守派は、太政官布告第57号を論拠としている。
    ところが、衆議院本会議の趣旨説明では、首相は「よくよく考えてみると、わが国は成文法を旨とする国であり、法制化している国もあるから、21世紀を迎えることを一つの契機として成文法で明確に規定することが必要」と答弁した。なぜ、この重要な問題への態度を変えさせたのか、そのきっかけについては全く言及せず、あいまいな説明となった。
    国旗・国歌法案は提出しないと言っていた政治家が、ある個人の自殺をこれ幸いと利用し、前言を翻し、合理的な理由の説明もなく、国旗・国歌の法制化を突っ走っていったのである。このことだけでも、全国民の内面、人間の精神を規制する国旗・国歌を制定するのにふさわしくない経過をたどっていることが明らかで、とても法制化を容認できるものではない。
    その後、7月1日の衆議院内閣委員会で野中官房長官は、国旗・国歌法制化の直接的な動機は、校長自殺事件であったことを明確にした。
重要法案なのにスピード審議
    参議院の国旗・国歌特別委員会での中央公聴会は、同法案が通過したなんと同じ日の午前中に開かれたばかりであった。公述人で、法案に反対する新潟国際情報大の石川真澄教授は、公聴会の前に「公聴会は採否の前提となるものだが、その当日に採決というのでは、単なる日程の消化ではないか」と当然すぎる疑問を投げかけた。国会会期末を13日に控え、衆議院参議院を合わせて地方・中央公聴会を含めた計16日間というスピード審議であった。
スピード通過させた各野党の事情
    2月16日、日本共産党は、機関紙「しんぶん赤旗」で「日の丸・君が代には反対」だが、国民的な議論を経て国旗・国歌の法制化をした方がいい、という見解を示した。次期総選挙後の「暫定政権」を視野に入れた、ソフト戦略といわれる。このため同党の影響力の強い組合などは、法制化の検討そのもののには反対しにくくなった。保守の一部は、法制化すると法律によって簡単に変更される恐れがあるというので、法制化に反対したが、野中官房長官の決断の背景に共産党の新見解があったことは間違いがない。
    また、公明党は、政府が国旗・国歌法案を国会に提出した翌日の6月12日付「公明新聞」で、「転換迫られる旧来の権力観」と題した論説を発表し、「国家=戦争加害者」という戦後の権力観からの転換をうたった。他の通信傍受法案、住民基本台帳法案にも賛成を決め、与党入りの体制を整えた。
    野党第一党の民主党は、党内のまとまりがなく、政府案の追求に迫力がなかった。やむを得ず「日の丸」のみ法制化するという修正案を提出したが、同党以外に賛成する会派がなく否決された。参議院では特別委員会での採決で、竹村泰子議員が党議に反し、修正案に反対した。政府案については党議拘束を外したところ、賛否がほぼ半ばした。
    社民党は、法案に強く反対したが、少数党派の上、前身の社会党が村山首相の時代に日の丸・君が代を認めたこともあって、国会内外への影響力は乏しかった。

戦後50年以上経った今、なぜ法制化するのか
    将来にわたり保守政治の安泰を図り、現在の支配の枠組みを維持していくためには、国家意識が薄い若い世代の精神を改造し、自陣営に引き寄せなければならない。そのためには、国旗、特に天皇を賛美する国歌によるシンボル操作により、体制批判の芽を摘む必要がある。日本の支配層はかねがねこう考えていたに違いない。さいわい若者のスポーツへの関心は高く、スポーツを利用した国家への忠誠心の醸成は容易である。学校現場においてわずかに残る「日の丸」「君が代」反対派は、法制化することによって、「法制化されていないから国旗・国歌は掲揚・斉唱する根拠がない」という形式的な反対論を突き崩せば、簡単に消えてしまうだろう。野中広務官房長官は、「20世紀中に起きたことは、今世紀中にカタをつけると」意気込んでいる。突然の自殺。今この機会を逃してはならない、と法制化に踏み切ったのだろう。

とんでもないことが起こっている
    小選挙区制の実施以降、反民主的な流れが加速されているが、特に今年は、日米防衛指針(ガイドライン)関連法(米国の宣戦布告なき戦時体制へ奉仕する総動員法、4月27日衆院可決)、労働者派遣法改正、通信傍受法(盗聴法。6月1日衆院可決、8月?日参院)、住民基本台帳法改正(国民総背番号制)、憲法調査会を設置するための国会法改正(第9条破棄への地ならし。7月6日衆院可決)が成立したか、成立しそうな勢いである。こう並べてみれば、とんでもないことが起きていることに気づかなければならないだろう。この年は、新保守主義の主張する"小さな"政府(かつ少数企業による労働者・生活者支配)、実は強権的な新国家主義の基礎を固めた年として、歴史年表に記載されるのではないか。
    コワモテ野中官房長官を前面にたて、ソフトムードで周囲を煙に巻きながら保守政治家としての実績づくりを目論む小渕首相と、その背後の竹下元首相、おめでとう、あなたの名前は歴史に残ります。扇動者の小沢一郎氏も、これらの法案の成立を推進した某宗教政党も、その役割が歴史に残ります。
    トラブルを避け、慣行を重んじる保守主流も、賛成か反対かの態度を迫られれば、賛成してしまう。よって圧倒的多数が保守政治家で占められている衆議院で、簡単に国旗・国歌法案が通ってしまった。「君が代の歌詞の一部を変えればいい」「日の丸はいいが、君が代は反対」といった意見は、結局、国家主義に荷担する議論になってしまうのだ。

定着しているか
    法制化をもくろむこと自体、「日の丸」「君が代」が定着していないことの証明である。小中高の行事に参加することのない私のようなものにとって、日常生活で日の丸を目にする機会はほとんどない。国民の休日に家庭での旗の掲揚を目にする機会は、むしろ昭和30〜40年代より減っている。最も身近なのが、大相撲千秋楽の「君が代」だが、表彰式のテレビ放映は見ないし、単なる慣行というぐらいにしか思わない。ボクシングの世界選手権やサッカーの国際試合には、国旗掲揚、国歌演奏があるが、テレビ放映枠に入らないこともある。これは国際的なスポーツイベントのプログラムの中で、イベントを盛り上げる効果を狙ってイベントの演出家が使用しているのであって、国旗として国民に定着しているのではない。歌詞を考えたときに疑問に思う国民の割合は少なくない。指導要領を巡る論争があるのに、定着したといえるわけがないと思うのだが。

強要されないか
    法制化に関しての政府見解は、「国旗の掲揚や国歌の斉唱に関し、義務付けを行うようなことは考えていない。国旗の損壊などを刑罰の対象とすることは考えてない」としている。
    しかし、文部省は、戦後「日の丸」」「君が代」が解禁されて以来、国旗は日の丸、国歌は君が代であることを教師が教え、生徒児童が従うことを強要し続けてきた。検定教科書や学校指導要領により、教師の自由な活動を縛り、文部省−教育委員会に従順な教師を作る“踏み絵”として利用されてきた。「日の丸」「君が代」の定着といわれる事態は、戦後も強制された結果だといえる。
    周囲の雰囲気に流される日本人には、「ご起立し、ご唱和ください」とでも言われれば、「君が代」に違和感を覚えていたとしても、起立してしまうだろう。一人座ったままでいれば、白い視線が注がれるからだ。君が代賛成派がいう思想・信条の自由とは、「口をこじ開けてまで強制することはない」(7月21日、衆議院内閣委員会と文教委員会の連合審査会での有馬朗人文部大臣発言)というもので、法制化されれば、教育の場のみならずスポーツ観戦の場でも、変わった奴(異端、非国民)を排除する“踏み絵”として作用していくだろう。
    国旗・国歌法案の衆議院通過後、参議院の国旗・国歌特別委員会で、有馬朗人文部大臣は、「各学校の判断により、いろいろなところでの日の丸とか、君が代について、理解を深めていただきたい」と、卒業式や入学式に限らず国旗・国歌が指導されることへの期待を表明した。いろいろなところとは、国語や「総合的学習」(来年度から小中高校に新設される教科)での教育や、始業式・終業式・運動会・学芸会などの行事であると、文部省は例示した。こうした見解からすると、教育現場の多くの機会での指導徹底が命令されることが予想される。
    文部省の御手洗康初等中等教育局長は、法制化後の君が代指導について、「文学的歴史的経緯を含めて教え、最終的には政府見解にのっとった適切な理解が導かれれば適切だ」と延べ、矢野重典教育助成局長は「校長から国旗・国歌の指導を命ぜられた教員が従わなかった場合、地方公務員法に基づき懲戒処分を行うことができる」と明言している。

国旗・国歌は自明なのか
    今回の議論の中で抜け落ちている論点は、国旗や国歌というのが本当に必要かどうかという議論だ。国旗、国歌は必要なのは、自明のことだろうか。
国旗は、いうまでもなく国家の象徴である。現在、用いられている国旗は、ほとんど近代になってからの産物である。戦争や革命あるいは植民地からの独立、体制の変革に際して、君主の家紋やさまざまなシンボルが掲げられた。天皇主権を廃し、軍隊の所持の放棄を宣言するという、大変革を遂げたはずの戦後日本には、戦いを鼓舞する絶対的な国旗や国歌は、必要ないのではないか。国民を精神的に統合する必要もないだろう。国旗や国歌には、それを周知させるための教育、教育を兼ねた儀式の挙行が必ず付随する。交通標識を教えるときのように、何の精神的な押しつけがなければいいが、ひとたび国旗・国歌となれば、それで済むわけにいかないだろう。
    国旗が各国家を区別する単なる印なら、熱い議論は起こらない。その中に権力・権威を巡るいろいろな意味があるから議論が起こり、問題が起こる。旗に罪がないのではなく、単なる旗にも罪(歴史的な意味、染みついた意味)がある。国旗は、歴史的政治的所産としての国家の、その象徴であるから、歴史的政治的な意味を見る必要がある。単にデザインとしていいから、認めるというのではお話にならない。
日の丸容認派の論拠への疑問
    文芸評論家・明治学院大学教授の加藤典洋氏は、6月28日付け毎日新聞で、「・・君が代の現行の歌詞のままでの法制化とは、戦後の日本国民が、戦前のままの天皇主権への賛仰を意味する歌を、戦後、自分達の国歌として選び直す意志を表明することにほかならない」と指摘している。その一方で、5月11日付け毎日新聞では、「日の丸が悪いイメージを引きずっているのは、戦後の日本がいまだに戦争の負債を返済し切れていないからで、日の丸はそのことの象徴なのである」と独特な理屈を延べ、「日の丸を戦前の日本に対抗する戦後日本を象徴する国旗として育てていく」という。なぜ戦後の日本を象徴するのが国旗であり、それが日の丸でなければいけないかが、読みとれることができない。前に引用した「君が代」を「日の丸」に置き換え若干の手直しをすると、「・・日の丸の現行のデザインのままでの法制化とは、戦後の日本国民が、戦前のままの天皇主権への賛仰を意味する旗を、戦後、自分達の国旗として選び直す意志を表明することにほかならない」のようになるが、加藤氏はなぜこのようにいえないのだろうか。
    評論家・麗澤大学教授の松本健一氏は、7月13日付け毎日新聞で、「『日の丸』は、日本という国家が存在していることの、いわば存在証明である。・・法的根拠は百四十数年前からあり、それ以来、他の国じるしを使った例はないから、国民的コンセンサスは出来上がっていると考えてよい」といっているが、なぜ、国旗が「国家が存在していること」を証明することになるのか、私には分からない。日の丸の法的根拠は、百四十数年前ではなく、旧体制下1870年(明治3)の太政官布告にさかのぼれるが、そうだからといって、国民的コンセンサスが出来上がっているというのが分からない。
    松本氏は「成立の由来も歴史的時間も異なる『日の丸』『君が代』を一体化して国旗・国歌法案として提出したのは、政治的不純な動機がある」というが、その動機とは何かが明示されていない。「日の丸」「君が代」を論じ分けてきた論者もいたようだが、戦後一貫して、一体として政治的に論じられてきたのであり、そのこと自体、批判の対象とはならない。ちなみに松本氏は「天皇制はわが民族が存続させてきた文化であるから、天皇礼式曲としての『君が代』を持つのは当然である」という天皇主義者なのである。

広島県立高校長の自殺について
    文部省の学習指導要領で、国旗掲揚、君が代斉唱の指導を強制してきたという問題が根本にある。行政指導でありながら、従わないと処分をうけるのが現実であった。広島県では、県公立高校長協会と高等学校教職員組合が、1991年に「国歌斉唱を指導しない」という約束を取り交わしていたという。自殺に追いやった主原因は、日の丸・君が代に法的根拠がないからでなく、学習指導要領、文部省、当該教育委員長にある。
    ちなみに広島県では、教育委員会が校長に職務命令を出し、この3月以降、卒業式や入学式での日の丸掲揚・君が代斉唱を実施しなかった公立小・中・高の校長239人が処分されているという。
「会場から出ていってもらいたい」発言
    1999年6月26日、秋田市内で行われた中学校総合体育大会で、日の丸掲揚の際、スタンドの観客の一部が起立しなかった。来賓として挨拶した市体育協会会長が「国歌掲揚の際に起立しなかった人は会場から出ていってもらいたい」と発言した。「個人の思想の自由を侵害するもの」と問題化し、結局、市教育委員会が市体協に「不適切な発言だった。今後はこうしたことがないように」と申し入れた。
天皇は天皇
    毎日新聞7月7日付記事によると、小渕首相は米週刊誌「タイム」の求めに応じて「20世紀を代表する人物」として、昭和天皇を推薦する文書を寄せたところ、7月6日、日本で発売された雑誌に添付された写真は軍服姿であったため、同日首相官邸ではタイム側に抗議の文書を送った。タイム誌東京支局では「掲載内容を発売前に伝えたところ、思っていたのと違う、ということだった。なぜどんな写真だろうと天皇は天皇のはず」と話しているという。タイム誌の「天皇は天皇」というコメントは納得できる。
参加者の国旗を全部出せばいい
    8月2日の衆議院国旗・国歌特別委員会で、民主党の竹村泰子議員の「在日韓国人がいた学校の卒業式で、太極旗を掲げた学校もあった。国際化というなら、何カ国かの生徒がいれば、それだけ国旗を出せるか」という質問に対し、有馬朗人文部大臣は「国際会合をやる時には参加者の(国)旗を全部出すことが多い。(学校でも)進めていいことだと思う」と答弁した。


スポーツは政治との相互依存で成り立っている
    実際に用いられる場面を想像すると、例えばオリンピックの出場行進や表彰時に掲揚されるのであって、これは選手ではなく、国家の威信の発揚以外の何ものでもないだろう。国家の一体感を感じ、恍惚となる国民もいるかもしれない。
    自国のチームや選手を応援するときには、国の代表であることを自覚させ、「愛国心」を奮い立たせるためだろう。国家の援助を受けて代表選手になっているのだから、国家に対して恩義を感じるのは当然かもしれないが、観戦者は国旗を振る必要はない。
    東大大学院総合文化研究科教授・石田英敬氏は、「ワールドカップや五輪はスペクタクル(見せ物)、メディアが競ってつくる『スペクタクル社会』は、一時的な歴史の忘却を生み出す。歴史の中で蓄積された記憶と、ゲームが生み出す忘却を同じ水準で論じてはいけない」と指摘している。
    オリンピックへの参加・ボイコット問題、国際的スポーツ大会の開催問題(国内問題を後回しにして、膨大な経費をかけたスタジアムの建設)などが現実に起きているにもかかわらず、「スポーツを政治に利用してはならない」というのが、スポーツを十分政治に利用している人たちの言い分だ。スポーツと政治の関係について考えると、典型的にはナチスのベルリンオリンピックの政治的利用だが、おおかたスポーツの大イベントは、政治に利用されている。個人が主催者側の意図と異なる政治的な利用を使用とすると、「政治的利用は禁止されている」という理由で処分を受けてしまうのだ。
それでも必要なら
    戦前の天皇主権体制において、強圧的な国民支配のシンボル、侵略のシンボルとして活用された日章旗や、天皇讃美の「君が代」。このことはおおかたの「日の丸」「君が代」賛成派も認めている。国民主権、非戦を誓った日本国憲法のもとでは、両者とも継承してはならないというのが、最も簡単で明瞭な「日の丸」「君が代」に反対する理由だ。
    石田英敬氏は、「近代的な国家をつくる文化的仕掛けの中心に君が代や日の丸があった。戦争に関係がないという議論は、全く成立しない」と述べている。そうしたイメージを濃厚に持つ「日の丸」「君が代」を廃し、新しい国旗、国歌を公募し(数人の著明な詩人、作曲家に依頼してもいい)、多数の候補作から正式な国民投票で選べばいい。それも、ただ一つに決定する必要もないだろう。
    船舶に掲げる必要があれば、船舶用の旗を決める(そもそも便宜置籍船全盛の時代に、国旗を目で見て船籍を判断することに意味があるのか)。国連に必要ならそれ用の旗を決める。小中学校の公式行事では、問題となる国旗など使わない方がいい。それで何の不都合があるのか。国家代表によるチームスポーツの大会、特にオリンピックのチーム競技やワールドカップは、民衆にとって益することが少ないので、中止した方がいいが、オリンピックやサッカーワールドカップにどうしても出たいのなら、オリンピック用サッカーワールドカップ用の旗を決める(国旗でなくとも代表団旗で十分だ)。大相撲にアクセントが欲しいというのなら、大相撲儀式用の旗を決める。
日の丸
    太陽光が広がっている日の丸(旭日旗=軍旗)はいやだが、円だけの日の丸はいやでないと言った日本通ぶっている米国人がいたが、きっとアジアへの侵略は知らず、真珠湾攻撃しか知らないのだろう。
    日の丸は太陽を表すというのは、万人が認めるところだが、戦前は日の神とされる天照大神の子孫である天皇を讃える旗であると解釈されることがあり、現在でもそう解釈する識者もいる。この意味から日の丸は適当なデザインとはいえない。
君が代の歌詞
    近年の「君が代」法制化論議の中で、君が代の歌詞の解釈が、政府見解では一貫していない。1984年3月24日、参議院予算委員会の森喜朗文相の答弁では、「君が代」は、「日本国の象徴である天皇をいただいている日本の繁栄を願ったものである。自然のなぞらえもできており、比喩も日本的文化の薫りが高い。日本の歴史を讃えている」としたが、「君」が「象徴天皇」であると明示することを避け、「日本」を前面に出していた。
    ところが、6月11日の公明党衆院議員の質問主意書に対する答弁書では、「君が代の『君』とは、大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当。(君が代は)天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とするわが国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当」とし、「天皇」を前面に出してきた。
    マスコミは「君=象徴天皇」と初めて明言した「新見解」ととらえたが、6月22日、これは「新見解」でないという内閣内政審議室の判断で小渕恵三首相一人だけが署名する簡略手続きでの閣議決定であることが分かった。
    さらに、6月29日の衆議院本会議では、小渕恵三首相は「日本国憲法下においては、君が代の『君』は、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位は主権の存する日本国民の総意に基づく天皇のことを指しており、君が代とは・・天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする『わが国』のことであり、君が代の歌詞もわが国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当」「『代』は本来、時間的概念を表すものだが、転じて『国』を表す意味もある」と答弁している。
    ところで、在外日本公館が配布しているリーフレット(外務省所管国際教育情報センターの作成)で「君が代」の歌詞の意味を「皇帝(天皇)の治世」と説明していることがわかった。この解釈は、大日本帝国憲法下での「君が代=天皇の治める御代(時代)」というすっきりした解釈を継承しており、自然であるが、6月2日、「政府の公式見解を示す性格のものではないが、誤解を生む」という理由で、配布が中止された。
    小渕首相は、6月11日の答弁書のように「君」が「象徴天皇」を指すというだけでは、国民主権の原則が見えないし、「代」を時代ととらえられると「天皇の時代」となって、これも国民主権と解釈できないと、考えたのだろう。6月29日の小渕首相の答弁では「その地位は主権の存する日本国民の総意に基づく天皇」と付け加え、代→国と拡大解釈し直したのだが、「君が代=天皇を象徴とするわが国」という意味になった。いずれにしろ、君が代を存続させたいがために、天皇が前面に出てしまった。そもそも、国民主権と天皇制は矛盾する存在なのだから、いかに言葉をもてあそぼうと、明解な答えは出るはずがない。
    「歌詞の解釈を変えれば、このままでいい」という政府などの意見は、矛盾が多く、都合がよすぎて説得力がない。
    「君」を「あなた」という意味に解釈すればいいという、国民もいるが、これは江戸時代以前には一部の解釈としてあったかもしれないが、明治以降、現在にいたるまで、政府の公式的な解釈としてはなかった。個人的な勝手な解釈をして君が代を国歌とすることに賛成するのは、やめてほしい。
    松本氏は「君が代」は天皇賛歌として制定された歌であると指摘したが、戦前、君が代は国民を強権的に統合するために国歌として大いに利用されてきた。それなのに「解釈の変更」や「一部の歌詞の変更」によって、これらのイメージが払拭されるはずがない。それほどまでにして、なぜ守ろうとするのだろうか。
    新聞の投書欄には、いろいろな歌詞が私案として掲載されてるが、わかりやすい歌詞では、たとえ国民投票があったとして、きっと候補選考委員会の選ぶ候補にも残らないだろう。わかりにくいことが神秘性を生み、得体の知れない国家との一体感を醸成するのだから。
君が代の曲
    「曲には問題ない」とか、「もっと現代風にしたほうがいい」、「アレンジを自由に認めたらいい」とか、いう人がいるが、明治体制以降、歌詞と曲は一体であった。この際、中途半端なことをしないほうがいい。国歌を持ちたいならあっさり歌詞、旋律とも変えたものを提案したらいい。かつて、九州のある学校の音楽教師が、君が代をアレンジ演奏したら、当局から処分を受けた。君が代を必要としている人たちは、自由な発想を嫌うのだ。米国かどこかのまねをして、スポーツイベントなどでプロの歌手がアカペラで君が代を歌うことがはやってきたが、アレンジされており、観客が斉唱もできないので保守派からは不評だろうな。文部省は、直立不動での「斉唱」を指導してきたのだから。 cameleon


「日の丸」「君が代」問題の戦後史
日の丸

君が代

cameleon
法制化の1999年 批判と話題 戦後史 日の丸 君が代 学習指導要領 教科書検定 国旗・国歌法 政府答弁 世論調査

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