全国特別活動研究会50周年

記 念 対 談


テーマ 「豊かな心や人間性を育む特別活動の課題と期待」


講師 兵 庫 教 育 大 学 学 長 ・ 文  学  博  士   梶田 叡一 先生
文部科学省初等中等教育局教育課程課教科調査官 杉田 洋 先生

<杉田> 全特活が50周年を迎えるにあたって、この50年を振り返りながら、この先の10年、20年とどういう方向で向かっていったらよいのか、そこに明るい展望がもてるようなお話を梶田先生との対談という形でできないだろうか、というご提案いただきました。教育課程部会でも重責を担われ、教員養成の審議の方でも重要なお立場ということで、新たな特別活動に希望をもてるようなお話を伺えるのではないかと思っている次第でございます。プロフィールのところでご紹介がありましたが、梶田先生は国立教育政策研究所にいらっしゃったということで、私の大先輩にあたります。梶田先生、どうぞよろしくお願いいたします。
 私は、豊かな心や人間性を育む教育の重要性については、きわめて深刻な状況にあると認識しています。最近のいじめ問題について、全国の関係者を集めての会議が先日、開かれました。その中で評価等にかかわって出てくる文言として、「道徳や学級活動、ホームルーム活動、児童・生徒会活動などにおいて、いじめの問題とのかかわりで適切な指導・助言が行われているか」具体的に教科名等が挙げられて指示があったのは、この文言だけでした。しかし、今後ますます特別活動が重要な役割を果たしていかなければならないと思っています。
 現在の教育改革の柱として、学力向上と規範意識が挙げられていますが、学力向上にやや傾斜のかかった教育活動が展開されてはいないかということが懸念されます。学力重視をすることは極めて重要な課題ですが、それと同様に心や体の問題もしっかりやっていく必要があるし、それが公教育としての役目であると思います。
 先日行われた教育再生会議の座長である野寄氏は、人との対話力、人間関係を作っていく力の育成が今の教育に欠けているとおっしゃっています。様々な学者も課題解決力が低下していると指摘しています。
 私は、今こそ特別活動の出番ではないかと感じるのですが、しかし、コミュニケーションだ、体験だ、そのために国語力だ、道徳だ、という話は出ますが、特別活動への期待の声が聞こえてこない。
 この時期、教育課程については、学力とともに、心の問題も大事だということをきちんと打ち出していくことが大事なのではないかと考えております。梶田先生、その辺についていかがでしょうか。
 
<梶田> 最初に全特活50周年、おめでとうございます。今、杉田先生からご紹介いただきましたが、私が若い時に、11年間国研におりました。当時の国研では、私は最年少の所員でしたから、心理学の勉強とかあらゆることをやらされました。そういうことをベースにいいますと今、きちんとした規範意識を育てるということでは、当然、特活が話題にならなければおかしいですね。
 しかし、最近の特活関係の本やら雑誌をさっと振り返ってみると、特活についてきちんとした性格付けが見えてきません。特活は学校行事、クラブ活動、学級活動、児童会・生徒会など様々なことをやります。ところが、これを合わせて一本にする理念が見えてきません。何でこれらが一括して特別活動と呼ばれたのか、まずこの点をはっきりさせなければならない。そうでないと学力をあげるためには、学校行事も精選しましょうという暴論が出てくる。学校行事を精選するというこの発想は、教科の授業は学校の本務だけれども、運動会をやったり学芸会をやったり、また、卒業式などの儀式的行事、これらは副次的だから少ないほうがいいということになる。
 私は心理学をやっていて30歳で文学博士をもらってから、授業論、カリキュラム論、あるいは教育経営の問題、制度論などもやりました。そういう中で習った特活は何なのかというと、アメリカから教育使節団が来て入ったカリキュラム改革の一環で、3番目のカリキュラム、3番目の領域です。
 1番目の教科は、それぞれ人類が何万年もわたって積み重ねてきた文化遺産をいくつかのサブジェクト、教科に分けて伝達していくことです。
 2番目の道徳は基本的には、気持ちの中にあるけじめやルールやら価値観ができてくることです。基本は内面の問題。
 3番目の特活は何か、それは市民性の教育。よき社会人、よき市民としてやっていく。だから、学級活動で練習する。児童会・生徒会、民主主義のイロハを学ぶのもここなのです。学校行事では、世の中はきちんとした構造をもっていて、その構造が儀式的な行事の中に目に見えて反映されるわけです。日の丸、君が代の問題も、いろいろと意見がありますが、内面の自由なんて言ったらだめなのです。よその国に行って、国旗が掲揚される時に、座ったままだったらどういう顔されますか。国歌を歌っている時に話をしていたら、どうなりますか。それだけで、一人前の市民ではないわけです。国旗とか国歌というのは、そういう約束事なのです。世の中は約束事で成り立つのです。つまり世の中でやっていく時には、きちっとしたことをきちっとやっていかなくてはいけない。そういう規範意識を、しっかりとつけるとすれば、まず特活なのです。道徳教育という心の教育は大切ですが、ストレートに取り上げているのは特活です。「学校というところは、授業の始まりから終わりまで座っていることになっているの。」と教える、これが学級における規律の指導です。気持ちの中で、学校ではこうしないといけないということが分かってきて、価値観や秩序が分かってくる。これは道徳です。でも、それが分かってくるのを待つのではなく、経験を踏まえさせながら指導していく。その経験の場が特活です。
 そういうことで、まず最初に申し上げますけれど、道徳と特活は裏表みたいなものです。ある社会的行為の意味が分かる、価値が分かるということは、道徳にかなり比重がいっている、でもそういう行動ができるということは3番目のカリキュラム、特活で指導する市民性の基礎なのです。社会性の基礎なのです。
 
<杉田> 梶田先生から市民性、社会性の基礎を培う役割として特別活動はきわめて重要だと、こうおっしゃって頂いて、大変私も力強く感じているわけですが、ただその一方で、例えば教育課程部会でも特別活動の話題というのが本当に少ないです。また、特別活動の原点が今、分かってない教員が多いのではないかという点もありましたので、その辺でどんな切り口があるのかお話を伺えれば有り難いのですが?
 
<梶田> 今日は指導的な立場の方ばかりですので、申し上げておきたいのですけれど、いつも何か問題になると、それだけに囚われてしまう。ゆとり教育といったり学力重視といったり。その時その時のいろんなことに振り回されてはいけません。それぞれ、全部大事なことなのです。というのは子どもにはバランスのとれた形で毎日を過ごして、いろいろなことを学んで、その結果として、いい形で世の中に出て行ってもらわなければいけない。その準備期間です。一つの問題に囚われるのではなく、バランス感覚が教育者には不可欠だと思います。戦後60年間、学力が大事だと言われたかと思うと、いやいや人間性だと右往左往してきた。あれもこれも大事、という考え方をしなくてはいけない。
 私はこういう言い方をよくしてきました。「我々の世界」を生きていく力、「我の世界」を生きていく力。両方の力がつくのが教育界。
 「我々の世界」っていうのは世の中のことです。私たちは子どもを育てて、それによって二十歳前後で世の中に出て行く。その時、教科学力も必要です。しかし、まず世の中に出て一人前にやっていけるかどうかです。そこで役割を果たして、自分の社会的な生活を定年までは持して行かなくてはいけない。人間は社会生活をしているのだから、これは責務です。「私は生きる権利があるのだからみんな食わしてくれ。」など甘ったれたことでは困るわけです。学校という所はそういう意味ではトレーニングをする所です。そういうのは管理教育だなんてとんでもないことを言う人がいますがそうではない。きちっとしたことを身につけさせる。「我々の世界」を生きる力です。
 もう一つは「我の世界」を生きる力です。例えば、今、教壇に立っているというのは人生の中のある一コマ、エピソードです。様々なエピソードのトータルが人生です。生まれてから死ぬまでの一生を自分の責任で力強く生き抜く力をつけるのも教育なのです。定年過ぎてから「我の世界」を考えるのも遅くはないが、できれば小学校の時から徐々に人生というものを考えさせていく。世の中できちっとやっていかなくてはいけない。自分の人生を充実させて行かなくてはいけない。せっかくもらった命、与えられた命これをどうするかです。世の中に出て本当にやっていくためには学力も大事です。規範意識あるいは価値観も大事です。それから同時にTPOも大事。
 いろいろなこと全部に目配りしながら、この子がどういう風に充実した一生を送れるか、そのための基礎作りを、私が関われる時にどうやっていくか、これを工夫するのが教師というものの役目だろうと思います。
 我々は、教科の学力と張り合おうというのではなくて、何がどう言われようと特活の関係者であれば、子どもにとって不可欠な、ある側面の教育に責任を持って取り組んでいるんだという気持ちをもたなくてはいけない、ということです。
 
<杉田> 是非、先生のご意見が反映されたような中教審の答申が出てもらえることを期待したいと思います。
 さて、それではもう少し具体的に「特別活動の改善」の方向について話を進めたいと思います。道徳教育の改善が求められていますが、梶田先生は道徳と特別活動は融合させるものではなく表裏の関係にあるものだと話されました。では、その関係はどのようなものなのか検討すべき重要な課題になっています。一つは道徳的実践の場としての特別活動の役割が大きく求められています。この点について、先生のお考えを伺いたいと思います。
 
<梶田> 道徳というのは、外側に出ないものもあります。他人との関係のものだけでなく自分自身の問題とか、自分の人生との関係もある。他人との関係、社会との関係に関わる規範意識とか価値意識、これについて具体的な場でどのように身を持すべきか、これは特活の場になると思う。教育課程部会や専門部会(心の教育)で道徳と特活を安易に融合させようとする意見もあるが、これは困る。道徳には特活をはみ出す領域も含んでいる。
「我(われ)の世界を生きる」、人間として生きていく上での価値観、それをどうするかということもある。だから特活とは同じ円が重なり合うというわけにはいかない。
 もう一つ、アプローチが違う。道徳というものは内面にどう深化していって、規範意識としてどうできていくかという意識の問題。フロイトの言葉を借りると道徳は超自我的なコントロール、特活は自我的なコントロールという違いがあると思う。これを一緒の時間に同じようにやったらうまくいくという話ではない。分けた上で、関連づけることを考えなければならないと思います。
 いじめの問題では、道徳の問題として気持ちの持ち方を扱うのは大事なことだが、互いに尊重し合う行為としてどう現れてくるかは学級会活動や児童会・生徒会活動、部活動などにおいてでしょう。一般的な原理・原則のものの考え方は道徳でやるけれども、それを適用していく場は特活がやらざるを得ない。だから関連づけを図らなければならない。場も方法も基本的なコンセプトそのものが違うということをはっきりさせないと何が何だか分からなくなってしまう。
 
<杉田> ありがとうございました。コンセプトが違うということですね。しかし、しっかりとした関連も図っていかなければならないと、このあたりが今後の検討課題になってくるだろうということだと思います。 
 一 部 略
<杉田> ありがとうございました。時間の関係でなかなか一つ一つを深めるというのは難しかったと思います。普段お聞きしたいと思っていることを直接ぶつけてみましたが、本当に気持ちよく答えていただき、ありがとうございました。以上で対談を終わらせていただきます。
※ 約1時間の対談の内容を、特活と道徳の関連のお話を中心に編集しました。ご了承ください。
文責 中学校研究部長 上田 晃一
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