「サンジ――――――ッ!!!」
大波に浚われた男を助けようとする声と長く伸びた腕は、雷鳴と次から次へと押し寄せる高波に阻まれて
彼へ届くことはなかった。
目の前には荒れ狂う海。
能力者でなくても身を乗り出すのでさえ臆するような状況へ、何の躊躇いもなく飛び込んでいく男がいた。
あっという間に視界から消えていった金色の髪を追いかけて。
「ゾロ!!」
この大嵐の中で命綱すら着けずに身を投じた男を、誰もが信じられないという気持ちで見送っていた。
数少ない大事な仲間をいっぺんに二人も失うのではないかという不安をその場の全員が抱く。
しかし、奇跡的としか言いようのない生還を、その男は遂げた。
脇には追いかけたサンジを大事そうに抱えて、肩で息をしながら仲間の下ろしたロープをゆっくりと着実に昇って。
それまでとは比べ物にならない程の大波が見えた瞬間、作業をこなしていたサンジの手が、体が凍りついた。
いつもなら本能的に危険を察知し、回避する行動を取っているはずなのに、
その時は目の前に迫ってくる波をただ呆然と見詰める事しか出来なかった。
他のクルーがそれに気付いた時には既に遅く、甲板に波が打ち付けられ、引いていく力はサンジの体など
いとも簡単に浚って行く。
悲鳴ひとつも聞こえないまま、サンジは嵐の中へと姿を消した。
「何はともあれ、無事で良かったけど…」
男部屋のソファに寝かされたサンジを前に、小さな船医が後ろに立っているゾロを振り返る。
「無茶も大概にしてくれよ。いくら俺でも死んじゃったらどうにもできないよ」
「死なねェ為にああしたんだ」
「それはそうだけどさ…」
これ以上言っても無駄だと悟ったのか、チョッパーは再びサンジの方を向き直った。
「サンジ、あの時ちょっとおかしかったよな…身構えるどころかボーっとしてたみたいで」
「‥‥‥‥」
あの直後、ゾロの耳にルフィの呟きが入ってきた。
「サンジ…もしかしてあの時のコト、思い出しちまったのかな…」
それはゾロの居ない所で語られたサンジの過去。
彼に多大な影響を与えた海賊ゼフとの衝撃的な出会い。
それがトラウマとなって、彼は時々嵐を怖がる傾向があった。
ゾロに対しては決して弱みを見せたがらないのを知っていたから敢えて追求することはなかったのだが、
たまに見せる儚さにゾロはサンジの中の、ゼフの存在を感じてしまった。
(あんな風になった時、アイツの中にはあのジィさんがいる…)
初めてそう思ったときは二の腕に鳥肌が立った。
その事実に対してなのか、そう感じてしまった自分に対してなのかは分からない。
ただ、漠然とした不安が胸の中に残るだけであった。
自分の中に閉じ込めるように抱き締めた時、その瞳は確実に自分に向けられている。
今ではサンジ自ら望んで自分を受け入れてくれる。
その安心感や信頼が、ただ一度の『事故』で薄れてしまった。
サンジを疑っている訳ではないのだが、自分以外の影を見せられるとどうも落ち着きをなくしてしまう。
焦ればそれだけ相手を遠ざけるのは分かっているのに。
(違いすぎるのか…重みってヤツが…)
診察を終えたチョッパーが部屋を出て行って、今は二人きり。
サラリとした金髪に指を滑らせながら、出てくるのは深く静かな溜息だった。
「剣士さん、ご飯を持ってきたわよ」
天井の扉が開き、細い腕が梯子を辿ってゾロの前へ食事を差し出す。
「ああ、サンキュ…」
受け取ろうと振り向いた直後、その背後でガタンと音がした。
「―――――!」
トレイを受け取ってその音の方を向くと、上半身を起こしたサンジが目を丸くしてゾロの方を見ている。
「お‥‥‥」
「な…なんだよ、それ―――――――!!」
ゾロが声をかけるよりも早く、サンジの素っ頓狂な叫び声が部屋に…いや、船全体に響き渡った。
「あら…?」
「お前…」
尋常ではない驚き方に、ロビンも咲かせていた腕を消して部屋へと降りてくる。
ゾロは様子をみようと腕を伸ばすが、それを遮るようにサンジは頭から毛布を被って丸まってしまった。
二人が顔を見合わせていると、先刻の叫び声を聞きつけたクルー達が次々に部屋へと押し寄せてくる。
「なに?!今の叫び声は!」
「サンジ―――!大丈夫かっ?!」
部屋へ飛び降りてくる足音が響く度に、毛布の中の体がビクッと震えた。
明らかに怯えている。
「サンジくん‥‥?」
ナミが様子を伺うように丸まっている毛布に手を触れながら声をかけると、少しずつ毛布がずれて金髪が姿を現した。
目の位置までずらすと、ナミを見て目の中の怯えが少しだけ褪せる。
「どうしたの?何かあっ‥‥」
尋ねようとするナミの横へ視線をずらしたと思った瞬間、総毛立つような形相を見せたかと思うと、
再び頭から毛布を被ってしまった。
「‥‥‥‥‥?」
不思議そうにナミが振り返ると、既に涙目になったチョッパーが立っている。
「今…俺と目が合った…」
結局その後何を言っても毛布から出てこようとしないサンジに業を煮やしたナミが、サンジ以外の男を部屋から蹴り出して
話を聞きだそうと試みた。
何とかなだめすかして顔を出させ、やっと聞かれた第一声がこれである。
「…お姉ちゃん…誰?」
「―――――?!」
「ちょっとコレは強烈だわ…」
話を終えるのに、ゆうに2時間は費やした後、疲れ果てた様子のナミがラウンジの椅子にどっかりと腰掛けて呟く。
「サンジ、一体どうなっちまったんだ?!」
「それがね‥‥」
その場にいるクルー全員が見守る中、ナミが重い口を開いた。
「サンジくん、どうやら記憶が子供の頃に後退しているらしいの‥‥」
「‥‥‥‥!??」
「話を聞くとどうも、10歳前後の頃に戻ってるみたい。
彼の中では、今彼と一緒にいるのはあのオーナー・ゼフってことになっているらしいのよ」
ナミは一つ深い溜め息をついてがっくりと肩を落とした。
バラティエにクリーク海賊団が襲ってきた時の闘いで、サンジの過去が語られたのを聞いていたのはルフィ一人。
そのルフィも、サンジが仲間になってしまった今は『大したことじゃない』と断片的にしか記憶に留めていない。
お陰で記憶後退してしてしまったサンジの状況を察することの出来る人間はいないと思われた。
ただ一人、ゾロを除いては。
ゾロは、サンジと二人きりで酒を酌み交わす機会が増えてから、酔っ払って上機嫌になったサンジからゼフとの経緯を
何度か聞いていた。サンジがバラティエから旅立った時の様子も、ヨサクから聞いて何となく知っている。
その度にゼフという存在が未だにサンジの中で大きく影響していることをヒシヒシと感じさせられていた。
勿論、今の自分とは立場が違うのは分かっているのだが。
だから余計に、自分ではどうにも出来ない、入り込むことはおろか、超えることなど出来得ない関係に
行き場のない不満を抱えていた。
そして、今は。
自分に会う前の、ゼフに信頼の全てを委ねていた頃のサンジになってしまったのだ。
ゾロの表情は『海賊狩り』と恐れられた頃のそれに戻りつつあった。
「か、海賊?!お前達、海賊なのかっ?!」
このままサンジを放っておくわけにもいかないと、一番恐れられる確率の低いナミを先頭に立たせ、
ゆっくりと今の状況をサンジに分からせようと試みた。
「う〜ん…今はあなたもその一員なんだけどね…」
「嘘吐け!俺が海賊なんかになるわけねェだろっ!俺はジジィと…!」
毛布を握り締め、ソファから転がり落ちそうな勢いで反論してきたサンジを、ナミは目線を合わせて静かに制した。
「ね、落ち着いて?私達はみんなサンジくんの『仲間』なの。
信じられないかもしれないけど、まずは自分の身体をゆっくり確かめて。いっぺんに全部を理解する必要はないわ。
分からないコトは私達が出来る限り教えてあげるから。慌てないで、ゆっくり考えていって」
「‥‥‥‥‥」
ナミの言葉に従うように、毛布を握り締めている自分の手をジッと眺める。
広げてみたり、握ってみたり。
自分の意志で動くそれは、明らかに自分の手よりも大きいと感じているのだろう。
立ち上がってみれば、自分より大分年上だと思っていた女性を見下ろす高さに頭がある。
纏っているのは男物のシャツとパンツ。間違ってもジュニアサイズなどではない。
顎を触れば何だかわさわさしている。つるつるだったはずなのに。
「俺‥‥何歳?」
「19歳。あそこに立ってるゾロと同じ歳よ」
ナミが示す先には、部屋の隅で憮然と壁に寄り掛かっているゾロがいる。
サンジがそれに目をやると、俯いていたゾロは視線だけをサンジに向けた。
「ひっ‥‥‥!」
その目は殺意以外の何物でもない恐ろしい色で、今のサンジの子供心には強烈な印象を与えてしまったらしい。
ソファの背もたれに激突する勢いで後ずさり、再び毛布を頭から被ってしまった。
「ちょっと、ゾロ!怖がらせないでよ!」
「‥‥‥」
ナミに一喝され、再び視線を床に戻す。
それを見てナミが溜め息を付き、サンジの方へ向き直った直後、その背後でカツンとゾロの靴音が響いた。
それはあっという間にナミを通り過ぎてソファのすぐ横で止まる。
「‥‥ゾロ?」
ゾロの背中によってサンジとの間を遮断されたナミが覗き込もうとした瞬間、
ゾロはサンジが被っていた毛布を勢い良く剥ぎ取り、乱暴にサンジの腕を掴み上げた。
「い、いてっ‥‥!」
「ゾロっ?!」
慌ててナミが止めようとするが、ゾロの腕はびくともしない。
すっかり怯えてしまったサンジの腰は引け、ゾロに吊り下げられるような体制のまま固まってしまっていた。
ゾロから外せなくなった目は、大粒の涙が今にも零れんばかりに滲んでいる。
「や‥やだっ‥‥!ジジィ‥‥!!」
今一番聞きたくなかった名前をサンジが口にすると、ゾロはサンジの身体をソファに叩き付けるように
掴んでいた腕を振り離した。そのまま踞るようにソファに丸まったサンジの髪を掴み、自分の方へ向かせる。
「いいか、てめェはこの船のコックだ!バラティエのジジィから離れて、てめェの意志でこの船に乗ったんだ!
てめェにはこの船のクルーにメシを作る義務があるんだ!分かったらいつまでもウダウダしてんじゃねェ!
さっさと厨房に行けっ!!」
「‥‥‥っ!!」
子供の意識に戻ってしまっているサンジに与えられた恐怖心は計り知れない。
が、盛大に泣き出すのではないかというナミの予想を裏切り、サンジは腕を掴んでいるゾロの手を上から掴み、
スッと立ち上がった。
「メ‥メシ、俺‥‥作る!俺がみんなのメシを作る!」
立ち上がってみると殆ど同じ目線の高さになってしまったゾロに「あれ?」と少し不思議そうな顔を見せたが、
それ程気にも留めていないように梯子へ向かい、それを昇り始める。
「厨房どこだよ。教えてくれよ!」
さっきはまるで『殺すぞ!』という勢いで掴みかかってきたゾロに対して、サンジは何かを期待しているような表情で
声をかけた。
「‥‥‥」
そんなサンジにゾロは黙って従い、梯子を昇っていく。
ナミを始め、その場に居たクルー達は事の展開にイマイチ着いていけないと、軽く溜め息を付くのだった。
「ゾロ、相当キてるよな…」
「そりゃそうよ。サンジくんの中の『一番』が自分じゃなくなっちゃったんだもん」
その少し後、甲板では
「サンジ、メシ――――――――――っ!!!」
「うわァ!!!伸びた―――――?!」
「止めろ、バカ!!」
船長の異常さにまだ馴染まないサンジを、ゾロが必死に護ろうとしていた。
それから小一時間も経った頃、甲板でまったりと『メシ』の合図を待っていたクルー達に、念願のお呼びが掛かった。
テーブルに並べられたメニューは、いつもと比べてシンプルなもの。
どうやら、今のサンジはまだ見習い中の身らしい。
「俺、一人で全部任されたコトって、まだねェから…」
モジモジと気まずそうにするサンジは、外見は変わらずとも確かに幼さが感じられた。
腹ペコだったクルー達はいつものように食事を進めるが、その味付けはぎこちなさが否めない。
もっとも、それに気付いた者達はサンジに気を使って敢えて何も言わなかったし、
気付かない船長などはこれまでと同じようにガッつくだけである。
全ての皿がキレイに平らげられたのを見たサンジは、とても嬉しそうに洗い物を始めた。
「自分の作ったモン、『旨い』って言ってもらうのって嬉しいよなっ」
シンクで忙しそうに手を動かしながら、誰に話し掛けるでもなく呟く。
しかしそれは未だ椅子に腰掛けて酒を煽っているゾロの耳に届くには充分な声量だった。
そして、あからさまにゾロからの返事を期待しているようにチラッと視線を向けられる。
(これは…メシの感想を言っていない俺に対しての当て付けか?)
ゾロはゾロでそんな風にしか思っていないので当然返答などせず、それは会話にすらならないで終わってしまう。
そうこうしている内にサンジの仕事が終わり、何を思ったのかゾロの正面へ腰掛けた。
最初に見せたような怯えはなく、しげしげとゾロを観察するように見詰める…というよりは凝視している。
「…なんだよ」
「‥‥‥もしかして俺ってケンカしたらお前に勝てたかも?」
「‥‥‥‥‥はァ?」
「さっきはビックリして腰が引けちまったけどさ、本気でケンカしたら勝ってたかもしれないな〜と思って」
両脇で小さくガッツポーズをする仕草が、外見に似合わず妙に可愛らしい。ゾロは思わず軽く噴き出してしまった。
「あっ!てめっ!バカにすんなよ!俺は暴力ジジィに毎日鍛えられてるんだからな!
大きくなった俺はケンカが強くなってるはずなんだ!!」
再び聞きたくない名前を出され、ゾロの眉がピクリと動く。
しかし同じ過ちは繰り返すまいと、一つ大きく息を吸ってから立ち上がった。
自分を目で追うサンジを感じながらその横に立ち、金髪頭にポンッと手を置く。
「お前は料理人だろ?つまんねェ事で大事な手、傷つけるようなマネするんじゃねェよ」
更にポンポンと軽く叩くと、サンジは目を見開いて呆然とゾロを見た。
ゾロは気付いていなかったが、実はほんの僅かに笑みを浮かべていたのだ。
多分それは、普段からサンジに対して言いたかった事の一つを言えたからなのかもしれない。
実際には『料理人だから』ではなく、単純に『大事だから』無茶をするなと一度言ってやりたかった。
もちろん、普段のサンジがそれを素直に聞き入れるとは思っていないから、敢えて口にする事もなかったのだが。
中身が幼くなったサンジは、いつもより素直になっている気がする。
だから、いつもは呑み込んでしまうような想いも軽口の様に伝えられたのかもしれない。
固まったままのサンジを振り返ることなく、ゾロはラウンジを出ていった。
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