情報センター通信第12号
2001年2月25日発行


忠生遺跡にみる土地の記憶〜堆積した地域の潜在力〜
                     町田市教育委員会生涯学習部
                       学芸員 川 口 正 幸
■はじめに
 この遺跡は、町田市施行の忠生土地区画整理事業(第二工区)に伴い、1986年秋から本調査が始まり、断続的に発掘調査がおこなわれ、現在も調査継続中である。調査は市の都市緑政部、教育委員会生涯学習部、考古学の学識経験者から構成される「忠生遺跡調査会」が実施してきた。一遺跡調査会による10年以上にもわたる発掘調査は市内では前例がない。最大の要因は遺跡密度の高さにある。事業用地は木曽町の北西部、根岸町のほぼ全域と矢部町の一部を含む約100ヘクタールの範囲で、中学校敷地面積の約50倍に相当する。
幸いにして、遺跡面積は10ヘクタール程度であったが、遺跡内容は当初の予想をはるかに上回るものであった。遺跡の時代は旧石器、縄文、古墳、平安、室町、江戸の各時代にわたるが、とくに木曽町と根岸町の事業用地の東西には横綱級の情報が眠っていた。
 ここでは、現時点での発掘成果の一部を紹介し、思うところを若干述べてみたい。

■繁栄した縄文中期の拠点集落と仏教の匂いがする平安中期の集落址
 木曽町の調査地区は、忠生高校脇から木曽中学校にかけて約36、000uが調査され、縄文中期の竪穴住居址、掘立柱建物址が合わせて176軒、同じく平安時代では73軒が発見された。縄文中期のこれらの分布は、境川の段丘を上がりきった忠生高校脇のバス通りの交差点付近に集中し、150軒あまりが直径約140mの半円形に分布していた。実際には、円環状に300軒程度が分布していたはずだが、惜しいことに残りの半数近くは昭和30年代の造成工事で破壊されてしまったらしい。しかし、町田市内でこれだけの建物址が一地点で調査されたのは前例がなく、この地点だけでも博物館ができるほどの出土品の質と量を誇る。縄文集落研究では、100軒を超える住居址群は「巨大集落址」として扱われ、小規模住居址群にはみられない様々な生活具が出土する。
 縄文中期は、今から約5、000〜4,000年前の1,000年間を意味するが、調査した土器型式の分析からすると、少なくとも4,800〜4,200年くらい前の約600年間はこの地点に居住し続けたことになる。巨大集落址と言われるものは、通常は累積した見かけの規模を表し、実際には何百軒もの建物が同時に営まれることはなく、新築や建て替えを繰り返しながら、長期にわたって同じ土地にこだわり続けたということである。
 この地点をなぜ、縄文人が長期間利用してきたのか。狩猟採集経済の当時にあって、食料調達の保障が確立されていなければ、このこだわりは理解できないであろう。縄文時代の多くの情報は、土中で腐朽消滅していき、通常は骨さえ溶解して土に還ってしまう。当遺跡も例外ではなく、どんな食料事情であったのか、具体像を描き出すのは難しい。しかし、破片も含め100個体にも及ぶ土偶、新潟産ヒスイの原石や大珠(装身具)、水晶の原石、粉々に焼かれた長さが2メートル近い彫刻を施した特異な石棒などが出土しており、これらは通常の集落址の内容とは明らかに一線を画する。土偶は女神像であり、石棒は男性のシンボルである。これらの道具には、寿命が短く、幼児死亡率も高かった当時の社会にあって特別な意味がある。縄文人の生命再生への祈りと世界観に関わる特異な道具が卓越していたこの集落は、祭祀行為の拠点としても機能していた可能性がある。周辺の中小の集落を束ねる縄文ネットワークの中核の一つであり、ヒスイのような遠方の特産品を所有できたところにも、「拠点集落」の様相が読み取れるのである。食料調達もこのネットワークが機能していたに違いない。
 平安時代は10世紀を中心とした集落址で、住居址、鍛冶工房址、倉庫と思われる建物址から須恵器、土師器(はじき)、灰釉(かいゆう)陶器を主とする器物をはじめ、紡錘車、鏃(やじり)、鎌、穂摘み具、火打ち金、刀子(とうす)などの鉄製品、フイゴの羽口(はくち)、坩堝(るつぼ)、鉄滓(てっさい)などを出土した。ところが、銅製帯金具を出土した焼失家屋、浄瓶(じょうへい)と呼ばれる仏具、破片ながらも当時の高級品である緑釉(りょくゆう)陶器など、村落内寺院の様相もうかがえるものが出土しており、市内の同時期の遺跡とは様相が異なっている。
 一方、根岸町の調査地点は日向根隧道とその上の段丘上で、調査面積は28,000uと木曽町と比べると狭いが、密度は極めて高く、居住地を中心とする集落址は旧石器時代の終わり頃と縄文時代中期の集落が、また古墳時代終末期と室町時代の集合墓地が発見された。旧石器時代の終わり頃は約15,000年前で、当遺跡ではもっとも古いムラである。現場では硬い赤土との格闘が続き、5,000点を超える石器や石器をつくるときに生じた破片類が回収された。これも市内では前例がない規模であった。縄文中期は50軒程度の環状集落で、木曽町の集落址に比べれば小規模だが、こちらも拠点集落の様相がうかがえる出土品がある。ただし、年代幅は木曽町に比べ存続期間が短く、そこへ吸収されていった可能性がある。

■中世集合墓地と「日向根のなんじゃもんじゃ」
 根岸の調査地点は発掘する前から「なんじゃもんじゃ」と呼ばれる木があり、その傍らには宝きょう印塔、板碑(いたび)などを納めたホコラがいくつもあった。地元では祟りを恐れて、代々供養されてきた場所である。発掘調査に際しても、地主さんの計らいで事前に関係者一同が集まり、近くの箭幹(やがら)八幡様の宮司には魂鎮めのお祓いを、また件の木は地主さんに伐採していただいた。これで心おきなく発掘を始めたが、一帯は中世の土葬墓や火葬址が次々に出てきた。約20メートル四方の範囲に60基もの土葬墓が発見され、人骨は土に還ってしまった部分もかなりあったが、約1メートル×50センチの長楕円形状に掘られた穴に、多くは頭を北方向、顔は西に向くよう膝を曲げた横向きの状態(右側臥屈葬・みぎそくがくっそう)で骨の輪郭が残っていた。埋葬姿勢から西方浄土思想を垣間見ることができた。墓からは永楽通寶(えいらくつうほう)などの渡来銭が骨とともに出てくる。1穴につき6枚以上のものが多かった。いわゆる「三途の川の渡し賃」である。現場では、墓が見つかるたびに線香を焚き、酒を供え、手を合わせ、記録作業を続けた。調査が進むにつれて地盤が下がり、例の木の切り株が邪魔になってきた。そこでチェーンソーで切り始めたところ、少ししてこれが青い粉を吹いて止まってしまった。ノミで周辺をはつっていくと驚いたことに、板碑が木の中にすっかり取り込まれて潰されているのが分かった。板碑は青石塔婆とも呼ばれる仏様である。これが根元から枝分かれした木の股に立てかけられたまま、木が成長して内側に取り込まれ、外側からは全くわからなくなってしまったのである。祟りがあると恐れられたのは、その土地に関わった人たちの500年間以上にも及ぶ、世代交代を乗り越えて語り継がれた証拠と言えようか。

■横穴墓と「崖根(ままね)の怨霊」
 段丘上の調査が終了して工事側のトンネル掘削が始まると、思わぬ発見があった。掘削中に地中にポッカリ穴が開き、中を覗くと玉砂利が敷かれた上に人骨の塊があった。内部の構造から、明らかに崖面の中腹にあけられた横穴墓であることが分かった。ポッカリ開いた穴は、その天井だった。急いで工事側と調整し、崖面一帯を調査していくと、次々に横穴墓が7基確認された。事の重大さから、この時ばかりは工事を約2か月間中断してもらい調査を継続、解剖学者を現地に招き、夜間も人骨を傍らに調査が終了したのは、平成4年の大晦日であった。玉砂利が敷かれた玄室の人骨は土に直接触れていないので、保存状態は後世の中世土葬墓よりはるかに良く、鉄鏃(てつぞく)の塊やまばゆい金銅製の耳飾りなど有力者の姿を彷彿とさせるものや、葬送時に供物を入れた須恵器などが出土した。 じつは、この崖下沿いには日向根道と呼ばれる小道があり、地元ではここを通ると「ゾクゾクして全身に寒気が走り、時には背後で人の囁く声が聞こえることがある」と、『町田の民話と伝承 第一集』(発行:町田市教育委員会、1997年3月)に、「崖根の怨霊」として記載された場所である。この崖面の中腹には、古墳時代終末期の横穴墓が群れをなし、出入り口だけが埋まり樹木が生え、人知れず黄泉の国が形成されていたのである。人の囁く声は横穴墓から漏れていたのだろうか。1300年以上の時間を飛び越え、現代人の感性が崖中の他界に反応したのかもしれない。中世と古墳時代の終わり頃に墓域となったこの地区には、既に現代の集合墓地がつくられている。発掘以前に計画されたものだが、よほどこの土地は霊の鎮魂にふさわしいらしい。

■活用の時代に向けて
 発掘調査の大半は、忘れ去られた情報を再発見し、薄れゆく土地の記憶をなんとか記録に留めようとする最後の機会である。世紀の変わり目に、忠生土地区画整理事業用地は一部を除き、すっかり生まれ変わり新しい街が形成されつつある。土地に刻まれた遺跡情報の多くは、もはや現地から消滅し、コンクリートによる新しい時代の意志が刻み込まれている。 現代の町づくりは、その土地に根ざした遠い過去の記憶をあぶりだした。「区画整理は孫たちの世代のためにやるんだ」。初老の地主さんの言葉を思い出す。畑や山林、農道、釣瓶井戸、開発前のゆったりとした牧歌的な環境と引き換えに、新しい世代のために利便性が追求されたわけだが、その過程でこの地域は利便性とは対極にある文化財という副産物を手中にしたのである。遺跡は地中に貯えられてきた地域文化の集積である。これが大規模開発を契機として、発掘調査という手法により一瞬だけ最後の輝きを見せ、出土品と最低限の記録を残し、完璧に消滅していく。回収できた資料はどんなに膨大でも腐らずに残った部分的な情報に過ぎないが、考古学を核とし関連分野からのさまざまな角度から地道な肉付けをして、地域史を再構成していく素材なのである。これも新しい時代へのかけがえのない大切な継承物である。当遺跡の成果は、「東京の遺跡」、「東京考古」、「東京都遺跡研究発表会」、「まちだの教育」、「わが町まちづくりー区画整理だよりー」などで逐次報告し、実物は現地調査と並行しながら町田市考古資料室(下小山田)で速報展を、市立博物館では「忠生遺跡展」を昭和63年と平成5年に出土品をすべて替えて2回開催し、1万人以上の入館者を数えた。また、忠生高校の1週間に及ぶ発掘体験学習や市内小・中学校の遺跡見学会、市民大学の郷土史関係講座、ひなた村などでも成果を活用してきたし、現在開催中(3月25日まで)の相模原市立博物館の縄文遺跡展にも当遺跡の出土品が出品されている。
 さて、当遺跡のみならず、市内全域では調査された数多くの遺跡があり、出土品も膨大である。これからは遺跡から得られたさまざまな情報が、「教育資源」としてもっとクローズアップされなくてはならない。文化財であり、取り扱いには注意が必要になるが、例えば学習指導要領の改訂で新設された「総合学習」の時間に十分活用できる分野であることも、現場の先生には広く理解していただきたい。既に、木曽中や鶴川二小、南つくし野小などで余裕教室を改装して、その地域の遺跡をテーマとした資料室が開設され、活用されている。その準備には筆者も微力ながら協力してきたが、これからもできる限りの情報提供と活用方法をともに考えていきたいと思う。文化財保護法が規定するとおり、遺跡は埋蔵された文化財であり、「文化財は国民共有の財産」なのだから。

 ★忠生遺跡に関するお問い合わせは、「忠生遺跡調査会現地事務所」へ。
     所在地:町田市根岸町220番地 電話 042(794)1914
      事務所への訪問は、事前に電話連絡をお願いします。
            (午前9時〜午後5時。月曜日〜金曜日)
   


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