情報センター通信No.11
2000.11.30発行


言葉で環境問題を誤魔化してはならない

本谷 勲(環境問題の語り部)

1) 環境問題であって環境ではない
私はずっと以前に環境教育について書かされた時に「環境教育とは環境問題教育だ」ということを強調したことがある。当時、公害という言葉が官庁などで避けられてきて、たとえば東京都の公害研究所は環境科学研究所に看板を掛け代える、ということがあった。公害教育は一部の意識の高い先生によって展開され、文部省などはこれを無視していたが、ある頃から環境教育に推進しだした。
公害という言葉は1960年代の頃は意味不明という抵抗があった。公け(おおやけ)の害では公け、すなわち社会全体が原因となっている害という印象がある。公害の実態は不心得な企業のせいだから、私害だというのだ。それが公けが蒙る害だという解釈で、通用するようになった。言葉に慣れてみると、公害は被害の実態がはっきりしている、加害者がはっきりしている、などの明快なイメージがある。
しかし、環境問題というとイメージが不明確で、いきおい、対応は誰かまかせという傾向になりがちである。日本では環境問題という言葉は、もともと公害に後れて表面化した自然破壊と公害とを指すものであった。公害は人間の生命、健康、財産に直接に害をもたらすもの、自然破壊は人間への害は不明確だが野生生物をはじめとする自然に害や異変が生じたものとされ、いずれも人間社会の環境上の問題であるとして環境問題という言葉が使われるようになった。公害や自然破壊という言葉はよりいっそう抽象的で、結果として気にはなるが自分とのかかわりがはっきりせず、専門家や当事者まかせという風潮をつくりだした、と私には思える。
それがさらに環境問題といわず環境というようになっている。教育ではなく学習だ、という議論はあったが、環境ではなく環境問題だ、という議論はなかったように思われる。
言葉を抽象的に(カッコよく)すると、響きはいいかもしれないが、私たち、人間とのかかわりがうすれ、言葉でわかったつもりになって、実態は悪くなる危険があるようだ。

2) 共生ではなく共存だ
この2、3年来よく使われる言葉に共生というのがある。自然との共生というふうに使われる。共に生きるという意味で軽い気持ちで使っているのかもしれないが、共生というのは生物学上の古くからの術語であって、実はしんどいことなのである。
ウメの大木の太い幹に青緑色の瘡(かさぶた)のようなものがついているのを見た方があるだろう。ウメノキゴケという名をご存知の方も多いにちがいない。あるいは高山の森林帯で、枯れかかった樹木の枝からこれも白っぽい青緑色の髪の毛の束のようなものが、ぶら下がっているのを見た方やサルセガオという名をご存知の方も多いだろう。これらの物体は一つの独立した植物で、地衣類と呼ばれている。
地衣類が生物学で注目されるのは、生物界の共生の最も典型的な存在だからである。地衣類という植物は外側の細胞層はカビの仲間であり、内側につまった細胞群はラン藻や緑藻の仲間である。地衣類は外側のカビの細胞層が植物体の外壁となり、かつ、外界から水や無機物を取り入れている。内側のラン藻や緑藻の細胞群は光合成をおこない、地衣類の栄養を作りだしている。
カビ類とラン藻・緑藻類はいうのはかなり縁の離れた植物同士で、そんな縁の遠い植物が一緒になっているのも不思議だが、自然界では地衣類やカビやラン藻・緑藻はそれぞれ単独では生活できない。まさに持ちつ持たれつ、二者不可分の存在なのである。
この他、アリとアブラムシ、イソギンチャクとヤドカリなどのように、互いに独立した生物だが、一緒に生活することによって、双方が有利さを得ているような関係をふくめて生物学では共生と呼んでいる。
人間と自然との関係は現在どうなっているだろうか。自然から資源を強奪し、自然に汚染を垂れ流しているのが実態ではないだろうか。それを共生と呼ぶのは盗人猛々しいというものであろう。
元来、日本人は外界に対して、キメの細かい認識をするひとびとであったが、高度経済成長の儲け主義、追い抜き主義、効率主義に汚染されて、キメ細かさを失ってしまった。しかし、実態と離れた空疎な言葉で事態を誤魔化してはならないのである。


※ 編集部注
執筆者の本谷さんは、当情報センターのプロジェクトチーム「どぜうの会」において、焼却施設周辺の土壌の重金属汚染を調査する上での、専門的なご指導・ご協力をお願いしている方です。「どぜうの会」の調査については、一定のまとめが出来次第、誌上でご報告致します。

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