風邪ひきイルカ先生の一週間



○月×日 火曜日


熱が高い。下がるどころかますます上がっている。

相変わらず荒い息を吐き出している唇は乾いたまま、額に冷たいタオルを載せると黒い瞳が虚ろに開いた。


昨日帰宅してから先生は臥せったままで、病気だから当たり前なんだがなんというか覇気がない。肉体的な
発熱の辛さも勿論あるには違いないが、どうも精神的な落ち込みが尾を引いているらしい。きっとまだ、フイに
した予定を気にしているのだ。
正直、オレもこの休みをもぎ取るのに少々苦労した。チャクラ切れだの怪我だので寝たまんまの状態を除け
ば、ガキの頃から忍者やってて此程長い休暇を貰った事がない。上層部にお願いと書いて恫喝と読む交渉を
粘り強く続けて数ヶ月、ようやっと手にした勝利の証だったしそれを聞いたイルカ先生も随分と喜んでくれたも
んだったが。

こんな結果になるとは流石のオレにも予想外だった。だがしかし__こうなったらもう、仕方がない。

これが上層部の爺婆共の耳に入れば、さぞかし腹を抱えて笑い転げるだろう。だがそんな事はどうでもいい。
オレにとってイルカ先生と一緒に過ごせるのが何より大事、場所が何処であろうとさほどの違いはない。寧ろ
こうして先生の役に立てるなら万々歳だ。そう誠心誠意真心込めて告げたつもりだったが、残念ながら未だ先
生の気持ちを浮上させるには至っていない。

その所為もあるのか熱は上がる一方、昨夜はとうとう39度を越えた。

薬も服用してはいるが、ここまで上がったらもう解熱剤を使うしかない。そう先生と話し合い、了承してくれたま
では良かった。・・・・が!それが座薬だと知った後の抗い様といったら、そりゃあもう!!__虎の子が暴れ
回るより酷かった。


『いやッ!!いやです、絶対嫌ッッ!!』

__せんせ、どうしちゃったの大したコトじゃないでしょ?こんなの。こんな小さな薬すぐに入っちゃうから大人
しくしてて、ホントすぐだから。

『なら自分でします!!アナタに入れて貰うなんて、それだけは絶対に嫌ですッッ!!』

__あのねせんせ、病院で貰って来た説明書にも書いてあるの、『薬剤は直腸に向かって出来るだけ奥ま
で、速やかに真っ直ぐ挿入して下さい』。これ吸収され易いように出来てるから、グズグスしてたら指の熱であ
っという間に溶けちゃうんですよ。奥までいれなきゃなんないし自分じゃ無理ですって、オレがやってあげます
から心配しないで、ね?大丈夫だから。

『違いますって!!し、信用してるとかしてないとか、そんなんじゃないんです!!』

__えぇ?じゃ、何

『そ、それは、その・・・・。は、は・・・・』

__は?

『・・・・は、恥ずかしいんです・・・・!!こんな子供みたいな格好、するのがヤなんですッッ!!だからアンタ
にされるくらいだったら自分でします、それ貸して下さいッッ』

__せんせ・・・・。あのさぁ、こんな小さい薬がなんだっての?いっつもこんなのとは比べものになんない極太
のブツ、あんなカッコやこんなカッコで出し入れしてんでしょ!?可愛らしい事言ってないでホラホラ!さっさと
下脱ぐ!!

『ヤダッ、止めろッッ!!嫌だ、アッ、アッッ!!』

__ちょっとせんせ!!これ音声だけだったらまんま強姦モノだよ!?頼むからそんな声出さないで、大人し
くして!!

『ばかぁッ、嫌!!イヤだぁぁッッ!!』


ベッドの上で転げ回り逃げ回る先生をひっ捕まえひん剥いて、無事薬を挿れたはいいが無理矢理なシチュエ
ーションと先生の上げる艶っぽい悲鳴の所為でオレの息子は半勃ち(実を云えば7割、イヤ8割くらい)、かな
りアレな気分になってしまい結局また風呂場で水を被るハメに追い込まれた。昼日中から恋人の前で秘所を
晒せと云われれば、そりゃあ気恥ずかしくなる気持ちも分かるがそれにしたって座薬一つでえらい騒ぎだ。し
かし解熱剤が入れば流石に熱は引くだろう、これ以上先生の苦しみ喘ぐ姿は見るに忍びない。そう思い安堵
の息を吐き、眠る横顔を眺めていたのだが。

・・・・いたのだが!!

体温計を握る手が震えた。40度2分!?何かの間違いじゃないのか!?既にさっきと似た様な騒ぎを繰り
返し、処方された三回分の座薬は全部使った。なのに症状は改善するどころか悪化している。オレは沸き上
がる先生への憐憫とカドマツへの怒りを抑えきれず、速攻で受話器に手を伸ばした。


__かーどーまーつー、てめ、いい加減な見立てしやがって言い訳があるんなら今200字以内で簡潔にこの
状況を説明してみろ!!

『隊長ー、僕昨日説明したじゃないですかー。この症例に解熱剤の使い過ぎは良くないんです。2、3度使っ
て効果がない様だったらもう止めてください、上がり下がりが激しいと患者さんの体力を余計削りますから。逆
に上がりっ放しの方が楽な筈ですよ』

__お前碌な薬出してないだろ!?だからこんななんだよ!!チャッチャと抗生剤でも何でも出しゃいいじゃ
ねぇの、あ?

『それも昨日ご説明した筈ですー、うみのさんから溶連菌は検出されていないし単なるアデノイドウィルスなん
です。喉の疾患で抗生物質が効くのは溶連菌だけなんですよ、後は対処療法で凌ぐしかないんです。とにか
く飲み薬はちゃんと服用して安静にして栄養とって下さいねー。それじゃあ隊長、僕も色々と忙しいので申し
訳ありませんがこの辺で!!』

__オイッッ、カドマツ!!まてコラッッ!!


握り締めた受話器に怒鳴ってもカドマツは既に電話を切った後だった。__あのヤロウ、生意気な口きいてさ
も一人でデカくなった様な顔しやがって。昔は任務の度にガタガタブルブル震えやがって、オレが暫くガタブル
君て(以下略) ・・・・くっそう今にみてろ!!仕方なく熱に喘ぐ先生の枕元に座り電話の内容の伝えると、うっ
すらと笑いながら頷いた。


「確かに、今身体はグラグラしますけど寒気がしているよりは楽です。熱が下がるのも僅かの間だけだし、薬
が切れてからあのゾクゾクする感じが何とも辛いですし。・・・・それよりカカシさん、俺熱いのか寒いのか良く
分からないんですけどクーラー効かせ過ぎてませんか?アナタ冷え性なんですから、俺の為に無理しないで
下さいね。俺は大丈夫ですから」


何いってんの、辛いのは先生なんだからオレになんか気を遣わなくていいんだよ。水差しのスポーツドリンクを
飲ませてやりながら、こんな時にまで暖かいイルカ先生の思いやりに胸が詰まった。此程優しい人が、こんな
辛い目に逢うなんて。いっそオレが身代わりになってやれたら、どれ程楽だろうか。__ねぇせんせ、何か欲
しいモノとか、して欲しい事とかない?言ってくれれば何でも買ってくるし、あ、テレビ見る?あっちから持って
こようか?あーでもこの部屋ジャックが無いのか、どうしようかな。


「いいですよ、頭も痛いですし賑やかな番組はちょっと疲れそうで見たくありませんし・・・・そうですね、なら本
でも読んで貰おうかな。ここのところ忙しくて読書なんてする暇も無かったし・・・・」

__本?せんせがそう言うならそれもいいけど、ねぇねぇワイヤレスのテレビって知ってる?無線LAN敷いて
さ、後は家中どこにでも持ち運び自由ってヤツ。あれずっといいなーって思ってたんだけど、この際だから入れ
ちゃおうか?せんせ。勿論オレが全部持つからさ。

「・・・・あのねぇ、2Kで無線LANもワイヤレスもないでしょう。テレビなんか数日見なくても支障は無いし第一こ
んな風に寝込むなんてこれからだって滅多に無い筈ですよ、舞い上がって無駄使いしちゃダメです」

__ええー、なんでー

「俺と一緒にいたいんだったら俺の金銭感覚にあわせて下さい、大体アナタの思いつくまま物を買ってたら幾
らお金があっても足りませんよ。衝動買いって言葉はアナタの為にあるようなものなんですから・・・あ、そうそ
う、ソレですすみません」


縦横ナナメにぎゅうぎゅうと詰まった本棚の前で、先生に言われた本を探す。手にしたそれは薄めの文庫本、
宮本輝の『錦繍』だった。厚さから見て読み進めるのは大した手間ではなさそうだが、裏表紙のレビューを読
んで笑った。いや笑っては失礼かも知れないが、どうもイルカ先生が好んで読むタイプの話しとは思えない。


__何これ、メロドラマ?せんせ、こんなの好きなの?せんせだったら時代物の方が良いんじゃないの、池波
正太郎とか藤沢周平とか。

「そうですね、仰る通り時代物も好きですけど、その本はもう随分と前に読んだきりで・・・・もう一度読み返し
たいってずっと思ってたんです。そりゃあ一種の恋愛物ですけど、そう馬鹿にしたもんでもないですよ?すごく
感動したのを覚えてますから」


薄い夏掛けの中から先生の指が伸びてオレの髪を梳く。「アナタは声がいいから。」__声だけ?混ぜっ返し
たがそう言われて張り切らない訳にはいかない。オレは胡座をかくと文庫本の表紙を捲り、息を吸って静かに
吐くと声を上げて文字を追い始めた。


『前略 蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に
想像すら出来ないことでした。私は驚きのあまり、ドッコ沼の降り口に辿り着くまでの二十分間、言葉を忘れ
てしまったような状態になったくらいでございます。・・・・・・・・』


物語には二人の主人公がいて、その元夫婦の男と女が偶然再会するシーンから始まる。二人が離別してか
らもう十年以上の月日がたっており、女は既に再婚している。観光地で再会した時、女の子供も一緒だった
がその子供は身体と知能に障害を抱えていた。男と女は言葉少なにその場を離れるが、元夫のあまりの変
わり様に驚きと過去への悔恨を押さえきれず、女は男の住所を調べ上げ長い手紙を投函する・・・・・


女の問い掛けに男が応え手紙の遣り取りが始まり、書簡が往復する形で物語は進行する。過去を振り返る
女の長い独白が続く中、モーツァルトに関する記述がかなりの頻度で登場している。オレは小休止を兼ねて
本を閉じ、横たわるイルカ先生に尋ねた。


__ねぇせんせ、モーツァルトの39番シンフォニーって知ってる?16分音符の奇跡のような名曲、だってさ。
そんなに凄いなら一度は聴いてみたいよね、CD買ってこようか?


先生は静かに眠っていた。集中して読み進んでいたから時間の感覚も分からなかったが、気付けば辺りを薄
い闇が覆い始めている。__思ったより長く、朗読し続けていたらしい。いつもより浅く速いが、幾分規則性が
戻ってきた呼吸に耳を澄ませ、夏掛けの中に先生の手を入れた。少し汗の浮いた額をそっと拭い、静かに口
づける。


せんせ、大好き。だから一日も早く、良くなってね。


オレは気配と音を殺して立ち上がり、敷居をまたぐとゆっくりと襖を閉めた。シンと静まった居間のガラス窓に
は、夜の瞬きを纏った里の灯りが狐火のように浮いていた。


〈 続 〉



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