風邪ひきイルカ先生の一週間



○月×日 日曜日


イルカ先生は朝から一日休出、アカデミーの雑用と受付業務の両方で晩まで戻らない。

オレは午前中里近郊の定例哨戒に駆り出されその後は非番、真っ直ぐにイルカ先生の部屋に向かった。

イルカのキーホルダーが付いた合い鍵で開けた部屋は、当然人気が無く今朝慌ただしく右と左に別れたまま
だ。主のいない狭いアパートの一室は、どうしたって何となくくすんだ色に映る。いつもなら此処で舌打ちの一
つもカマすオレだが__今日は違う。黙って手早く腕まくりをすると台所に立ち、流しの洗い桶に突っ込んだま
まの皿を洗う。洗い終わった皿を拭く。丁寧に食器棚に戻す。

ガキみたいに舞い上がるのもみっともないと、押さえてつけてはいても気付けば鼻歌なんか歌っている。ヘラ
リとだらしなく緩んだ顔も、自覚している。


オレとイルカ先生はこれから一週間の休暇を貰い、明日から温泉旅行の予定なのだ。


腰を屈めて冷蔵庫を覗き、中を見渡す。夕飯をどうするか。何しろ一週間も留守にするから、冷蔵庫は出来る
限り空にしないといけない。冷蔵室には諸々の調味料やビールの他に豆腐一丁と豚のロース肉、野菜室に
ギャベツだの人参だのもやしだの玉葱だの。どう見ても野菜炒め決定だなこりゃ。あ、焼きソバの麺も一玉あ
るからこれも入れちまおう、あとはトーフの味噌汁と炊き立てのご飯で立派な献立の出来上がりだよああオレ
ってもしかして天才!?いやトーフは冷や奴にした方がいいか。ネギやら生姜やら、薬味はあったっけ?

笊に入れた白米を勢い良く水で研ぐ。いつも甘えッ放しのオレだ、こんな時位役に立たないなら男が廃る。あ
の人、帰ってきてあったかいご飯が出来てたら喜ぶだろうなあ。その前にアレだ、荷造りだ、あれやこれやと
コンパクトに詰め込まなきゃならないから、任務とはまた違って気も使うし頭も使う。イルカ先生と一週間、此
程長い休暇を一緒に過ごした経験は今まで一度も無く(年末年始ですら精々三が日程度)、七日間任務から
も上忍師業務からも開放され恋人と水入らず、この先待つこんな僥倖に逆に現実味が湧かない。何つーのコ
レ?所謂過ぎた幸福ってヤツ?



日も暮れてフライパンで山盛りの野菜を炒めていると当の先生が帰ってきた。エプロンを付けて鍋を振るうオ
レの姿に仰け反って目を丸くしている。


「な、何!?一体どうしちゃったんですカカシさん!?」

__いやそんなに驚かれても。午後から非番だったんで、ちょっとお手伝いをと思って。

「ええッ、カカシさんが料理してくれるなんて初めてじゃないですか!?ひゃーいい匂い、美味しそうですねぇ、
お、メシも炊けてる!!」

__ハハハ、そう大したモンじゃないですよ。あんまり期待しないで下さい。


でしょでしょ!?褒めて褒めて!!と縋り付いてじゃれつきたいのをグッと押さえ極力クールに返す。既に二
人分の荷造りも済んだと聞くとイルカ先生はますます驚いた。オレもますます気分がいい。コッソリ忍び笑いを
漏らしつつ、ちゃぶ台に運んだ大盛りの肉野菜炒めを前にイルカ先生とビールで乾杯した。平静を装い、実は
内心ドキドキしながら箸を付ける。

う。

・・・・・麺は入れない方が・・・・良かった・・・・ような・・・・

恐る恐る上目遣いでイルカ先生を伺うと、ニコニコ笑いながら勢い良く平らげている。・・・・・ま、いいか。オレ
の記念すべき初調理だし細かいツッ込みは無用、この人が美味いと言ってくれれば問題は無い。実際明日
からの予定を語らいつつ箸を動かしていたら皿はあっという間に空になった。片付けを請け負った先生の背中
を眺めながら、いつもの如く窓際で食後の一服をしているとさそり座のアンタレスが赤く夜空に瞬いている。良
かったねセンセ、明日も晴れみたいだねぇ。窓の外に煙を吐き出しながら告げるとケホケホと何度か空咳が
聞こえ、思わず振り向いた。珍しい。イルカ先生はオレと違って煙草も吸わないし普段から呼吸器系も丈夫
だ。静かに近寄り洗い場に立つ背中をそっと覗き込むと、彼は微かに眉を顰め咽に手を当てていた。


__どうしたの、どっか具合悪い?

「あ、いやそんな事ないんですよ。ただちょっと咽がイガイガするかな・・・・」

__えぇ!?せんせ、もしかして風邪でもひいた!?

「違いますって、だってあんなに食欲あったでしょ?ゴハンも美味かったですし」

__ここはもういいよ、オレがやっとくから。とにかく風呂入っちゃって今夜は早く寝よ?明日があるんだし。

「うわ、カカシさんこそ具合悪いんじゃないですか!?そんなしおらしい言葉、初めて聞きましたよ」


混ぜっ返すイルカ先生を風呂場に押し込みさっさと寝る準備をする。確かに普段から、休日前のエッチは熱く
激しく奔放にがモットーのオレだが今回は訳が違う。何しろ明日は里の外れも外れ、国境近くの宿場町まで
出向かなきゃならない。今夜無理をさせて祟ったらそれこそコトだ。

甲斐甲斐しく寝台を整えるオレの姿を、風呂上がりの先生がクスクス笑って眺めていた。腰にタオル一枚巻き
付けただけで、雫の滴る濡れた黒髪はペタリと首筋に貼り付いたままだ。__ダメダメダメ!!せんせ。そん
なカワイイ顔したって、何もしないよ!!あっちに着いたら後は好きなだけ(オイ)イチャイチャ出来るんだし、今
夜は絶対我慢する。指通りの良い黒髪を丁寧に乾かすと、寝間着をきせて布団に寝かしつけた。


「今日はどうしちゃったんです?まるで別人ですねカカシ先生」

__何とでも言って下さい、生まれ変わったオレは誘惑に強いんです。悪魔の囁きには耳を貸しません。

「誰が悪魔で誰が誘ってるんです、どうやら妄想癖はそのまんまですね」


こんな時に限って、イルカ先生の口は何時になく軽い。だが口先で強がりを言っても、オレの理性はその上気
した肌の色に早くも崩れそうになる。まさかここで白旗を揚げるわけにもいかず素知らぬ顔で風呂場に直行
し、頭から水を浴びた。どうにかこうにか熱を散じて寝室に戻ると、意外やイルカ先生は既に穏やかな寝息を
立てていた。

ここのところずっと働き詰めだったもんねぇ。そりゃあ疲れるよ。

頬に掛かる黒髪を、ゆっくり指で梳いた。長期休暇を取るために超過勤務をしてたんじゃ話は逆だが、人手不
足の現状は今も昔も変わらない。内勤とは云えアカデミーに受付、おまけに三代目にまで遣われては身体が
幾つあっても足りない筈だ。ここ迄調整するのも大変だったでしょ、せんせ。明日からのんびりしようね。

隣に潜り込むと、暖かな体温につられて程なく眠気が襲ってくる。何のかんのでオレも草臥れていたのだろう
か、横たわる背中を抱き込むと眠りの淵につるんと落ちた。






異常に気付いたのは夜中だ。抱き込んだ身体が、僅かに熱い。

いつもより浅く早い呼吸に気付いて目を覚まし、時計を見ると日付が変わったばかりだった。覗き込んだ顔に
苦悶の表情は無いが、閉じた目蓋が何度も痙攣している。眠りは浅かったのだろう、額に手をあてると黒い瞳
が細く開いた。


__せんせ、どうしたの苦しい?少し熱あるかも知れないね、測ってみようか

「・・・・ン・・・・、カ、カシさん・・・・さ、むい・・・・」

__寒い!?寒気するの?吐き気はしない?

「・・・・吐きたくはないですけど・・・・喉が・・・・いたい・・・・」


枕元の小抽斗にあった体温計で測ると37度6分。今この状態で寒気がしてるってことはまだ熱の上がり始め
だ。おそらく、これからもっと高熱になる可能性が高い。


「カカシさん・・・・兵糧丸、下さい・・・・」

__えぇ!?何言ってるのせんせ、兵糧丸はダメだよ知ってるでしょ?アレは飢餓対策と造血作用が中心だ
から疾病には向かないって。内臓弱ってる時にあんなの飲んだら強すぎて逆にヤられちゃうよ

「でも・・・・」

__せんせ、言いたいことも気にしてることも分かるけど、とにかく明日病院にいこ。大丈夫、丁度医療班に
知り合いがいるから後は任せて。

「・・・・・・・」


不安げに何度も瞬く瞳に、大丈夫、大丈夫と繰り返すとやがてゆっくり頷いた。取り敢えず救急箱の隅にあっ
た風邪薬を飲ませ、胸に抱き込むと縋るように身を寄せて来た。絶え間ない寒気の所為か、横たわる身体に
は震えが走っている。

大丈夫、大丈夫、きっと大丈夫。だから心配しないで。

低く囁きながら幾度も頭を撫でると、安心したのか薬の効果かやがて寝息が聞こえ始めた。様子を伺いなが
らそっと首筋に触れてみたが、__熱い。さっきよりも、確実に熱は上がっている。


うーん。どうやらこれは。


不精者が慣れないことをしたバチだろうか。腕の中の恋人は未だ荒い息で震えたまま。どう見ても暗雲垂れ
込めて来たこれからの道行きに、オレは心の中で天を仰いだのだった。



〈 続 〉



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