かかし日記 その3 / アシンメトリー




○月×日

すっきりカーンと突き抜ける様な空。真っ青。晴れ。

体調は上向き。通院は続いているものの減薬もサクサク進む。とは言え喘鳴が納まっても気管の過敏性が油
断できない。少なくともこれから二週間は要注意と髭熊に言い渡され、相変わらず寝たり起きたりの生活。

いるかは土日の休み。なのに朝から窓を開け放ち、掃除だ洗濯だと動き回って少しもじっとしてへん。せっか
くの休みなんやしもうちょっと落ち着いたらええやんか。独楽鼠かいな、ったく。


「なにいうてるの、お天道様の光と空気だけなんやで、この世でタダなんは。もう嫌っちゅうくらい洗濯物溜ま
ってるんよ今やらんでいつやるの!あ、その枕カバーもひっぺがして洗うから」


寄って来たいるかの腕を掴みすかさず布団に引きずり込む。アホ!なにすんの!!藻掻くいるかを抱き締め
頬ずりをすると、すぐに強張っていた身体からくたりと力が抜ける。真っ黒い瞳にじっと見つめられ、思わず視
線を逸らしたのはオレの方やった。


「どないしたん、なんや具合でも悪いん?やけにしおらしいな」

__いや別に、取り敢えずオレはなんともないけどな・・・それよりいるか、お前なんや少し痩せたんとちがう
か?

「えぇ?そんなことないやろ?せやけどまぁ、ウチはその方がいいんよちょっとはダイエットせんと」

__堪忍な、いるか。なんのかんので、えらい手間かけさせてもうたしなぁ・・・

「なにアホいうてるの、人間調子のええ時は誰かて面白可笑しくやれるやろ?そんなん当たり前や。せやけ
ど肝心なんは辛い時や。しんどかったらなんも我慢せんと甘えて、支え合ったらええんよ、お互い様やもん。
それが・・・連れ、いうもんやろ?」


胸を突く言葉に、一言もなかった。有り難さと愛しさと申し訳なさがごっちゃの塊になって、喉元まで迫り上が
る。__いるかは今、夫婦、と言って茶化したかった筈だ。なのに連れ、と言い換えた。それがオレには、は
っきり分かる。


「なんや大人しなぁ、どないしたん?気味悪いわ。まさかもうお腹空いたんかいな、林檎でも食べる?」

__ハハ、せやな、ならすり下ろしたヤツがええな。


しゃあないな、ちょっと待ってて。いるかはオレのぎこちない空笑いに気付かないふりをして、台所に消えた。
その背中を見送り、寝乱れた布団の上で溜息を吐く。今までも、そしてこれからもいるかはオレのもんやしオ
レもいるかのもの、死ぬまで添い遂げる気持ちに変わりはない。けれどオレはこれまで、その気持ちを決して
法的な手続きで証明しようとはしなかった。__オレまだ一度も、『結婚』の二文字をいるかに囁いたことが無
い。


「どないしたん?ボーっとして、ホンマどっか具合悪いんとちがう?」

__ん?そんなこと無いで。これホンマに、不思議な食いモンやなーと思て。

「これって、林檎のすり下ろし?」

__せや。ピンピンしてる時は食いたくもないのに、身体が弱るとやけに美味く感じるやろ。不思議やなぁ。

「せやねぇ、そんなこと、確か吉行淳之介も書いとったかもしれんねぇ」

__せやろ?流石は吉行先生や、オレと同じ感性しとる。

「アハハ!!かなわんな先生も、アンタと一緒にされたら。」


オレは確かに重篤な喘息患者で、間違いなく他人よりも多くの身体的リスクを抱えている。おまけにそれがこ
の先どう出るか、どっちの方向に曲がりどんな結果をもたらすのか、全く予想すらつかない。だがそこが入籍を
躊躇う理由かと云えばそれは違う。オレはもし明日、いやたとえ今日突然この世を去るハメになったとしても
正直大した感慨は無い。いるかと出会えた事に感謝して、後はお疲れさんと笑うだけだ。だが、いるかは__
いるか本人の生活は、どうなる。

相続放棄をしたとはいえ、オレが未だ大規模なファイナンスグループを統べる家の長子であることに変わりは
無い。そのオレと、オレが背負う家と縁続きになったいるかがもし仮に一人遺された場合、その後のいるかの
人生にどんな悪影響を及ぼすのか__それを想像するのが、オレは何より怖い。オレという手の掛かる荷物
を支えてくれたいるかが、オレが死んだ後々までも面倒事に巻き込まれるなら目も当てられん。残ったいるか
の人生は、いるか一人のものだ。オレという存在がこの世から綺麗サッパリ消え失せてなお、いるかの生き
方を太い鎖で縛る事だけは、それだけは絶対にしたくない。


「かかし、口。ついてんよ。」


いるかが濡れたタオルで口元を拭ってくれる。なぁいるか、こんなオレが、せめてお前の為にしてやれる事て
なんやろか。オレの生き死にに関わらず、お前を幸せにしてやるにはどないしたらええんやろ。

伸びた肘を掴んで引き寄せると、抱き込んで何度も口付けた。いつでも暖かく柔らかい、いるかのぬくもり。背
中に回された腕の熱に、一時だけ膿んだ躊躇いが溶かされ流される。組み敷かれた身体がもぞりと動き、耳
元で囁いた。


「ここ、こんなにして・・・・どないするん?そんな元気も体力もないくせに」

__アホやな、いるか。舌と指さえ動いたら、あとはどうにでも出来るやろ?

「この、エロ親父」


ぺちん、と頭を叩いた指が滑ってするりと頬を撫でる。オレの浅はかな逡巡に気付きながら、それでも知らん
ふりで微笑んでくれる黒い瞳。その深い情愛が尽きぬ奇跡を祈りながら、オレはただ傍にいてやることしか術
がない。


「・・・・あ」


洗面所からけたたましく鳴るブザーが、回っていた洗濯機が止まった事を告げる。つられて振り仰いだ首筋に
歯を立て舌を這わせると、やがて熱く熟れた吐息が秘やかに漏れ始める。潤んだ瞳に見つめられエプロンの
紐を解きながら、いるかの爪先がシーツの皺を掴むのを眺めた。


いるか、堪忍な。

オレは最低の男や。





○月×日

快晴。 朝からカラっと晴れてこの時期には珍しく過ごしやすい一日・・・・と思っていたら午後から俄に空掻き
曇りその後暫く土砂降りの雨。夕立。煙る土の匂い。叩きつける雨音。部屋に打ち込む雨を避けて窓を閉め
ながら、いるかの学校の方角を眺める。アイツ、大丈夫やろなぁ。この大雨に濡れてへんやろなぁ。まぁ、アイ
ツの受け持ちは現国やし授業は屋内やしそう心配することもあらへんか。いやいやもうとっくに放課後か?そ
ういやこの前運動部の顧問になったとか言うてなかったか。まさかしどけなく雨に濡れた姿を、第二次成長期
真っ直中の野郎共に晒してへんやろなぁ。
・・・・・アカン・・・・なんやら、どーにもこーにも心配になって来た・・・・

焦りつつ意味無く部屋をうろついていると来客を知らせるチャイムの音。なんやこんな時にと眉間に皺を寄せド
アを開けると、そにに懐かしい顔が立っていた。


「ご無沙汰致しております、若」

__大和!?なんやお前、どうしたんや!!


団栗眼が屈託無く笑うと、その後ろからいるかがばあと顔を出す。両手一杯の買い物袋が、賑やかに掠れた
摩擦音を立てた。


「驚いた?そこでバッタリ会うたんよ。うちが強引に誘ってん、一緒にゴハン食べよて」


してやったりの笑顔に、これはコイツが呼んだなと即座に悟った。発作を起こして以来、通院以外は滅多に外
出すらしなくなったオレの為に、いるかが気を利かせたに違いない。その証拠に、この雨の中二人の全身もい
るかの下げた買い物袋さえ、殆どといっていいほど濡れていない。大方何処かで時間を決めて待ち合わせを
して、それから車で此処に向かったに違いない。

ま、しゃあないな、今日のとこは黙って目ぇ瞑っとこ。これが他の男やったらタダじゃおかんが相手は大和や、
生真面目を絵に描いた様なこの男が人のモンに手ぇ出す筈がない。何よりいるかの気遣いを、無下になんか
出来んしな。

上がり込んだ大和が胡座をかき、ネクタイを緩める。久しぶりの後輩との話は、流石に弾んだ。話しながら死
んだジイさんの一周忌が近い事を思い出したが、大和は何も言わない。オレも一切そこには触れず他愛無い
話に終始していると、いるかが温かい皿を幾つも運んでくる。メインはいるか特製のちらし寿司。大和はそれを
立て続けに三杯平らげ四杯目は自分で皿に盛っていた。その遠慮がちな仕草に、オレもいるかも腹を抱えて
笑った。

つけっ放しのテレビから、7時のニュースが流れてくる。午後から繰り返し流れているファンド会社の社長の会
見に、いるかは出汁巻き卵を頬張って嘆いた。


「気の毒になぁ、結局捕まったんやろ?この人。うっかり聞いてもうただけなのに、そんなんでインサイダーて
いうん?」

「いやでも、これはこの人の一方的な言い分ですしねぇ」

__アホか。こんな海千山千の男がカメラの前で本音吐く訳ないやろ。汚い手ぇ使ってTVS株を売り抜けたん
はホンマやで、ノリエモンはコイツに上手いこと利用されただけや。

「えぇ?ホンマ?せやけどこの村雨さんてなんや説得力あるやん、ノリエモンと違って見るからに理知的やし。
それにもう株の世界からキッパリ身を引くなんて、潔いやん?カッコええわ」

__こんなアコギな金の稼ぎ方するヤツの、どこがカッコええねん。法の隙間をかいくぐってベロ出して、とに
かくコイツのやり方には品格っちゅうもんがない。

「隙間ていうたかて、境界線ギリギリの部分てどこにもあるやろ?ええんやないの、そこを飛び越えてないん
やったら。村雨さんも言うてたやないの、金儲けしてなにが悪いんですか、て。」

__驚いたな、それが教職に就いてるモンの言い草か?せやったらなんや、法律違反やないんなら地べた
に座って飯食っても電車の中で化粧してもええんかいな。

「そんなこと誰がいうたん、飛躍のしすぎや。株取引と一般の公序良俗を一緒にしてどないすんの」

__アホッッ!!デッカイ金が動くからこそ尚更公序良俗が必要なんやろ!?どの世界にも不文律いうもん
があるんや、ええかいるか、よーく聞きや!!伝説の相場師て云われた是川銀蔵なんかなぁ

「まぁあれ程頭のいい人がこのまんま潰れる筈ないやろ。きっと村雨さんは不死鳥の様に蘇るわ」

__人の話聞ーてんのかオマエはッッ!!

「ま、まぁ若」


オレの怒声も何処吹く風、いるかは涼しい顔でビール入りのグラスを傾けている。その横顔を睨め付けなが
ら、オレは浮かんだ疑念をそのまま口にしていた。


__おかしいな

「は?」

__やけに村雨の肩持つやんか、ノリエモンの時とえらい違いや。なんや、お前・・・・まさか村雨関連の株な
んかに手ぇ出してへんやろな!?

「な、なんのことやらうちにはさっぱり」

__そういやお前、最近デパートの松本屋の袋よう下げてるな・・・・まさか・・・・!?

「うちノリエモンの時学んだんや、人間許容が肝心やで?ええの、優待券貰えるしデバ地下は美味しい
し!!そのうち絶対持ち直すから!!」

__ドアホッッ!!今日松本屋は幾ら下げたと思っとるんや、ストップ安やでッッ!?

「あっ、大和さんビール無いなもっと飲むやろ?吸い物もあったんやちょっと待ってて」

__コラッ、いるかッッ!!一体いくらで買うたんや正直にいうてみい!!


ぴゅうっと風を巻いて逃げるいるかに呆れ果て嘆息すると、大和は肩を震わせ笑いを堪えていた。ホンマにア
イツは、ガッコのせんせかいな。学習能力て言葉を知ってるんやろか。ガクリと項垂れるとはしゃぎすぎたか
少し口を付けた酒が回ったか、急に眠気を覚えて横になる。ゴロリと横たわると、柔らかな笑みを湛えた大和
の瞳とぶつかった。


__はぁぁ、まったくどうしようもないハネっ返りやろ?オレのいうことなんか、聞いた試しがあらへん。

「いえいえ、楽しい方ですよ。一緒にいて飽きませんね」

__まぁ、お前がそういうてくれるんなら何よりや。・・・・あんなぁ、大和。一つ頼みがあるんやけど

「は?何でしょう」

__まぁ、そうたいした事でもないんや。ただオレにもしものことがあった時はアイツを頼むて、それだけなん
やけどな

「・・・・若、一体なにを」

『かかしー?寝たらあかんよー?アンタ薬まだなんやでー』


台所で動き回るいるかの声が、遠く近くに響く。あぁ、やっぱり気持ちええなぁ、酒飲んで横になるのは。こん
なん久しぶりや。若、と呟く大和の声が震えている様にも聞こえたが、くっつきそうな目蓋ではそれを確かめる
術も無い。腕枕をして背中を丸めると、途端に泥のような睡魔に襲われた。


いるか、とりあえず今日のお仕置きはお預けや。まー、楽しみに待っときや。





○月×日

雨。とうとう梅雨入り。とは云え未だ梅雨の走りで晴れれば真夏並みの暑さ、降れば空気が重く感じる程の
湿気。こんな猫の目みたいに変わる気候は発作を誘発し易い。薬の吸入も服用もしっかりやれと診察室で髭
熊に小突かれた後、病院からのんびり帰宅したオレをエライ事が待ち受けていた。


いるかが、帰ってこない。


勿論教職は多忙な職種で、府立の男子校に勤務するいるかもその例に漏れない。授業に関する内容の確認
や見直し、指導案にテスト問題の作成、その採点。教材の研究もするし職員会議があれば提案文書を事前
に作って配布する。当然それだけの事を抱えれば手間も時間も掛かるが、常日頃いるかは家で一人待つオ
レを気遣い、出来るだけ仕事を持ち帰っては帰宅時間を早める努力をしていた。だが。

只今、午後10時40分。

8時過ぎまでは、別段どうと云う事もなく待っていた。忙しい時期には、学校からの帰宅が9時近くになる事も
偶にはある。だが9時半を過ぎて疑念が焦りに変わり、10時前には居ても立ってもいられず外に飛び出し
た。携帯も繋がらない、メールの返事も無い。ギリギリまで待って学校に掛けた電話も、応答が無い。何より
いるかからの連絡が一切無い__それがおかしい。いるかにも、付き合いはある。仲のいい友人もいる。急
に誰かに誘われ飲みにでも出掛けたのかも知れない。けれどこんな遅くまで、連絡も無しに出歩く事実が考
えられない。__有り得ない。いるかは放課後を過ぎればいつだって、明るい調子でオレの体調を尋ねて来
るのが常だった。


何か、アイツの身にあったのか。


事故、誘拐、ナンパ、連れ去り、嫌な単語が頭の中で回転し掌が汗で濡れる。昼間人でごった返す商店街は
とうにシャッターが降り、閑散とした歩道には路地裏の赤提灯の揺らめきが遠慮がちに差し込んでいる。大き
く響く足音と一緒にアーケードを抜ければすぐに駅だ、駅員を捕まえ聞いても人身を含む列車事故もダイヤの
乱れも無い。平穏無事異常無しの返答に逆に焦燥を煽られ、今度は部屋に向かって踵を返す。歩きながら電
話を入れたがやはり誰も出ない。アパートの明かりが見える場所まで戻ってもやはり暗いまま。どうする、学
校まで行ってみるか?電車に乗れば駅三つ、そう遠い訳じゃない。だが万が一、いるかと入れ違いになりたく
ないし職員室に掛けた電話にも誰も出なかった。わざわざ出向いた所で、おそらく無人の校舎を眺めるだけの
徒労に終わる可能性が高い。

__こんなもの。手の中の携帯を眺めた。文明の利器も相手が電源をいれてなけりゃただの鉄屑、渦巻く懸
念を確かめる術もない。

どうしたらいい。いい歳をした大人が日付も変わっていないのに帰らないと、まさか警察に届ける訳にもいか
ない。どうしたらいい。どうしたらいい。

確たる打開策も浮かばず、唯部屋と駅の間を何度も往復する。叫び出したい衝動をかろうじて押さえ頭を掻き
むしる。激しい動悸に眩暈すら覚え道端に座り込んだその時、アーケードの向こうから聞き慣れた足音が反
響しながら近づいて来た。


『・・・・・まで、なんとか停学で、此処まで来たら出来るだけ・・・・・』

『大丈夫、・・・・・には、きつく・・・・・と、これから話を摺り合わせて、きちんと事実を・・・・』


人気の無い商店街に、男と女の話し声が途切れ途切れに木霊する。その女の声に、オレはイヤと云うほど聞
き覚えがあった。


__いるかッッ!!


大きなバックを肩から下げ、俯きがちに歩いていたいるかが顔を上げる。気付けば、オレは全力で走り出して
いた。


「かかし!?」


いるかが驚き、立ち竦んでいる。開閉式のアーケードの上に丸い月。我に返りバタバタと駆け寄ってくる身体
に両腕を広げ、骨が軋むほどに抱き締めた。


「なんやの、どないしたん!?エライ顔色して、真っ青やないの!!」

__どないしたて、それはこっちのセリフやろ!?今何時やと思てるんや、こんな時間まで連絡付かんかった
ら心配するのが当たり前やろ!!


あッと声を上げ、いるかが携帯を探る。立ち上げたディスプレイに表示された時間は、既に午後11時過ぎ。あ
ちゃーと口の中で呟き、いるかは眉尻を下げた。


「堪忍、かかし。実は今日な、うちのクラスの子が一人、問題起こしてもうたんよ。放課後からずっと職員会議
で、その時電源切ったままやったんやわ・・・・」

__いっつもこまめに連絡しとんのに、突然ウンともスンとも言えへんかったら何かあったと思うやろ!?唯で
さえ物騒なんやで、ここんとこ!!

「ホンマ、心配掛けたなぁ・・・・堪忍。今までその子の家にいたんよ、親御さんとも込み入った話をしてたらこ
んな時間になってもうて・・・・」


走ったりしたらアカンよ、胸に負担がかかるやろ?そう言って背中に回された手の暖かさに、涙が滲みそうに
なる。肩に顔を埋め必死にそれを堪えていると、後ろで立ち尽くしていた影がゆっくりと歩み寄りいるかに声を
掛けた。


「それじゃあ、海野先生。俺はこれで」

「あ、モモチ先生。」


いるかがオレを押し退けて振り返る。随分と上背のあるその男は、オレの顔を一瞥するといるかに向き直っ
た。いるかは深く、男に腰を折った。


「先生にはもうえらいこと、お世話になってしまって・・・・何てお礼を言っていいか」

「いや、コレは俺の仕事でもありますし。そう恐縮せんといて下さい」

「せやけどホンマに・・・・。あ、白雪君、こんな時間まで一人で平気ですか?」

「まぁ、あいつも一応男ですし。これくらいで騒ぎやしませんよ、ご心配無く。・・・・じゃ、これで」

「はい、先生、また明日!!」


いるかの呼びかけに男は軽く手を挙げ、振り返りもせず去っていく。いるかは暫くその背を見送ってから、オレ
の手を握り締めニッコリと笑った。


「堪忍、かかし。さぁ帰ろ」




__いるか、堪忍な


風呂上がりの柔らかな身体を抱き締め、瞬きを繰り返す顔に何度も口付けを落とす。いるかはくすぐったいと
身を捩ったが、オレが何を詫びているのか察している様子だった。


オレは以前、図らずも実家に缶詰にされた時、長い間いるかに連絡を取らなかった過去がある。今思えばよく
もあんなマネが出来たもんだと、自分自身に呆れ果てる。だがあの時、死んだジイさんの諸々の後始末に相
続、経営権の問題、更に社長の決裁を待つ事案提案の山に、これは生半可な覚悟では帰れないと腹を括っ
た。いるかの声を聞けば寸分の我慢も利かなくなるのは分かっていた。だから心に蓋をして、とにかく山積み
の問題を片付ける事にだけ腐心して日々は過ぎたのだが。

オレは今夜の騒ぎでつくづく思い知った。オレはあの時、いるかの心に詫びても詫びきれない傷をつけた。た
った数時間の齟齬で此程の思いをしたのだ、半年もの間放っておかれたいるかは、一体どんな気持ちで毎日
を過ごしたのだろうか。


「かかしは優しいな。心配掛けたんはうちやんか」


いるかが萎れたオレの頭を撫でる。オレは胸が詰まって堪らなくなり、思わず押し倒そうと肩に手を掛けたそ
の時、いるかの腹が盛大に鳴った。


「アハハ!!そういやなーんも入れてへんかったわ、お茶とコーヒーはガブカブ飲んだけど」


レンジの中でラップを被っていたオムライスを温め直し、ケチャップででっかいハートを描いているかに差し出
す。オレの手製のオムライスはいるかの好物の一つだ。嬉々として平らげるその表情を蕩ける様な気持ちで
眺めた。


__いるか、仕事で遅なるのはしゃあないけど、夜はホンマに気を付けなあかんで。この間も線路沿いでひっ
たくりがあったて聞いたやろ?いやひったくりならまだええで、裏道なんかに引きずり込まれたらどうするん
や。さっきもあんな人相の悪い男連れてるし・・・・何かあったらどないする気や?

「ああ、モモチ先生のこと?ハハハ、確かに強面やもんな!!せやけど大丈夫やて、あの人受け持ちは体育
やねんけど、うちの学年の生活指導の先生なんよ。うちのクラスの子がどうやら喧嘩に巻き込まれてもうて
な、普段から何かとやらかす子やったから大方の先生達ももう面倒見きれん、退学やて言い出して・・・・・け
どあのモモチ先生だけ、反対してくれたんよ。要領は悪いけど努力はするヤツだ、ここで切ったらアカン、それ
は大人の逃げだ、って言うてくれて・・・・うち、涙が出たわ。」

__それとこれとは別やろ?送りオオカミて言葉もあるんやで、そのご立派なセンセイが夜道で突然その気
になったらどうするんや。連絡さえちゃんと入れてくれたら、オレが何処だって迎えに行くがな。

「気にしやなぁ、かかしは。あの人ああ見えて、えらい苦労人なんやで。施設で育って、今も血の繋がりの無
い子を引き取って面倒見て・・・なかなか出来へんよ、あそこまで。長いことラグビーやってたスポーツマンや
し、穏やかな人なんよ?気ィ遣って送って来てくれただけやし、心配無いて。・・・・けど連絡入れへんかったの
はホンマに悪かったな、もう絶対にこんなことせんから」


潤んだ瞳でそう言われたら、脛に傷を持つオレは口を噤むしかない。ケチャップまみれの唇にもう一度口付け
て、お茶でも飲むかと聞けば嬉しそうに頷いた。

急須に葉を入れ、薬缶を火に掛けて腕を組む。そうは言われても、やはり気になる。何よりオレを見たあの男
の眼は、どう考えても尋常ならざる光を湛えていた。モモチ・・・・・モモチ、どうもどこかで昔、聞いたことがある
ような気がする。・・・・・思い過ごしか、気のせいか?いや、確かにこの変わった名前を聞くのは初めてじゃあ
ない。なら、一体何処で・・・・


吹いた薬缶の音に気付き、コンロの火を消す。布巾を掴んで取っ手を持ち上げようとしたその時、頭の中に閃
光が走った。


モモチ、ももち・・・!!そうや!!・・・・アイツ、元ラグビー日本代表の桃地不沙夫や!!


横縞のユニフォームに身を包み、グラウンドを疾走する男の姿が脳裡に蘇った。大学時代から全日本に選抜
され、その若さでスタンドオフを張った男。颯爽とバックスを率い極めて攻撃的な戦術戦略で、天才的司令塔
と謳われた選手。実家が以前日本選手権のスポンサーをしていた所為で、当時の活躍振りはよく覚えてい
る。年は確か、オレとそう変わらなかった筈だ。数年前に引退したのは知っていたが__よりによって教職を
選んだのか!!


__いるか!!あの桃地て・・・・!!


だが覗き込んだ居間では、いるかがちゃぶ台に突っ伏して眠っていた。平らげた皿の縁に、鼻先をくっつける
ように横向きに屈み込んでいる。・・・・しゃあないな、腹一杯になったんで一気に疲れが出たんやろ。いるか、
こんなとこで寝たら風邪引くで、寝るんならベッドに行きや。軽く揺すっても一向に起きる気配は無い。仕方無
しに寝室から引きずってきたタオルケットを掛けてやると、ふいにあの桃地の視線が浮かんだ。


ラグビー界で不世出の名を欲しいままにした男だ、オレの記憶にアイツの姿があっても不思議じゃない。だが
アイツにとってオレは全くの初対面の筈だ、オレだってアイツの姿をテレビでしか見たことが無い。


__ならあの、敵意に満ちた一瞥は何だ?


言うまでもない。考える迄もない。全く接点のないオレとアイツの間にあるもの__それはいるかだ。いるかに
対するアイツの感情が、オレに向ける憎悪の原因になっている。でなければあの殺気交じりの視線の説明が
つかない。

穏やかな寝息を立てるいるかの後れ毛が、夜風に揺られ微かに震える。立ち上がって窓を閉めながら、手を
繋いで通り抜けた商店街を眺めた。

どうしたらいい。

本能があの桃地は危険だと、盛んに脳内で警告している。ましてやアイツはいるかの同僚だ、学校に出れば
二人は何時だって顔を付き合わせる毎日だ。だがこの漠然とした危機感を言葉にしたところで、決定的な確
証が無ければいるかを納得させることは難しい。いるかは不用意に人を貶め傷つける事を、何より嫌う人間
だ。これ以上の詮索や口出しを続ければ、逆に不信感を持たれるのはオレの方に違いない。


どうしたらいい。どうしたらいい。


青紫色に瞬く誘蛾灯が、パチリと音を立て捕獲した虫を焼き尽くす。オレはベージュ色のカーテンを握り締め、
長い間静寂に包まれた夜道を眺めていた。



〈 了 〉


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