かかし日記 その1 / フライトナイト



○月×日

うわ。
来た。久しぶりに、来た。
こんなエライの、いつ以来やろか。

酸欠の金魚みたいに喘いで身体を横向きにする。いやある意味酸欠は当たってるんだが横になった所で単
なる気休め、別に何がどう変わるってわけでも無い。発作が起きたら横臥すると楽になります、てな図解付き
の喘息患者用パンフレットを目にした記憶があるけどまぁ、此処までの発作にそんな子供騙しが通用する筈
も無く。

あぁ、空気が薄いなぁ。

いや薄いのは空気やのうてオレの気管支及び肺機能なんやけど。


「かかし、救急いこ。タクシー呼んだら直ぐ来るし」


切迫した声が耳元で響く。声が低くなるのはいるかの緊張した時の癖だ。んな慌てんでも、病院は逃げへん
がな。__今、何時や。


「今?今、四時半」

なんや、もう朝やんか。ならもうちょっとで外来開くやろ、そしたらちょっくら顔出してくるから心配せんかてええ
て。いるかももうええで、ずっと背中さすってくれて疲れたやろありがとさん。もう休み、学校かてあるんやし。

「何言うてるの!!ピークフローこんなに落ちてるやないの!!ベネトリンもテオフィリンも効かへんのやったら
もう看てもらうしかないやろ!?さっき連絡したら、今夜は遊馬先生が当番やて。な?丁度ええやん、四の五
の言わんと、今からいこ」

アホか。こんな時にあんな髭熊の顔拝んだら、余計具合悪なるわ。ええて、もう休み。外来かて一人で行ける
し、心配せんでもええて。

「アホはアンタやないの!!こんな大きな喘鳴、今まで聞いたことないわ!!後何時間も待って、保つわけな
いやろ!?な、後生やから今からいこ。ウチの我が儘きくと思って、な?」


パジャマ姿で携帯を握り締めるいるかの瞳は、細波が揺れる湖水の如く熱く潤んでいる。なんや、艶っぽいな
ぁ。病人の前でそんな表情せんとき、身体に毒やて。


「かかしッッ!!人の話、聞いてるんッッ!?」


そんなこんなのやりとりを続けて一時間半、オレはとうとういるかの懇願と胸の苦しさに根負けして、髭熊の
待つ救急病院へと向かった。





ごち、と熊の拳骨がオレの頭に落ちた。


「今度こんな状態で来てみやがれ、そのナマっちろい腕をへし折るぞ」


うるさい熊。いつまで聴診器あてとるんじゃ、オレの白魚の様な胸板がそんなに気に入ったんか。いるか、そ
んな東京モンに頭下げることないでコイツはこれが仕事なんやボランティアとちゃうんやで。
コラコラコラッッ!!気安く人のオンナを呼び捨てにするな熊!! 腕に触るな!!肩を抱くなッッ!!

ごち、とまた拳骨が落ちた。実は昨夜から調子が落ちていたのを、誤魔化し誤魔化しやっとったのがバレた。
いるか、そんないらんこと言わんでもええがな黙っとき。ちゃんと吸入はしとったんやし、こんなエライ目に合う
とは思ってもみんかったし。

結局処置室に突っ込まれて吸入と点滴。今日はずっと付き添うと言い張るいるかを、叱りつけて無理矢理学
校に向かわせる。堪忍な、いるか。そらホンマはオレかて一緒にいたい。いて欲しい。せやけどオレの面倒事
に一々お前を巻き込む訳にはいかんやろ。オレはお前のガッコの子供らとは違う、ええトシした大人の男なん
やし。__耐えられるとこまで一人で耐えてみせる、それが男の矜持ってもんや。

500の輸液二本とネオフィリン一本。薬が入った途端に猛烈な眠気。そのまんまつらつらと眠ってもうたらあ
っという間に夕方やった。身体もナンボかマシになって様子を見に来たいるかと一緒に帰る。入院?アホいう
な熊。オレはいるかといるかの匂いがついた布団以外じゃ寝れへんのやそこんとこ分かっとんのか。イテテテ
テ抓ることないがないるかホンマのことやししゃあないやろ。

外に出ると、バケツをひっくり返したような雨やった。

イヤやなぁ、雨は。



<続>



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