ハロー、張りネズミ 2
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ぼくの情熱はいまや 流したはずの涙より冷たくなってしまった
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どんな人よりもうまく 自分のことを偽れる力を持ってしまった
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大事な言葉を何度も言おうとして すいこむ息はムネの途中でつかえた
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どんな言葉で君に伝えればいい 吐き出す声はいつも途中で途切れた
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大仰な喘ぎ声で腰を振る女に、何度も名前を呼ばれた。
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足音が近づいて来ているのは分かっていた。その頃オレの住んでいた部屋は古い木造アパートの二階で、
軋みが酷く外にある錆びた鉄製の階段も同様だった。一段、一段、また一段、癖のある足音がゆっくりと上っ
てくる。聞き慣れた耳には、それが誰のモノかもうとっくに知れている。だがオレの上にいる女は、それに気付
いていない。ただひたすら快楽を貪るのに夢中で、玄関の扉が開いた音すら聞こえていない。
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三和土で固まっていた気配が靴を脱ぐ。上がる。狭い台所を抜け躊躇いながら寝室に近づいてくる。手にして
いるビニールの袋が、シャワシャワと微かな音を立てる。
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オレは自分が散々に見飽きた夢の中に居ると自覚しながらも、性懲りもなく自分自身に叫んだ。止めろ、もう
いい加減にしろ、止めてくれ。せめてその女を振り払え。振り落とせ。黙らせろ。そして何でもいい、とにかくそ
の辺に散らばっている服を引っ掛けて、今すぐその部屋から出ろ。入鹿がドアを、開ける前に。
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だがその叫びは、二十を出たばかりの自分には届かない。それどころか、細い女の腰を掴み下から力任せに
突き上げ始めた。口づけようと身を寄せた女の喘ぎが、派手な嬌声に変わる。が、それは程なく切れ切れの
悲鳴に塗り替えられた。
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__ドアノブを握ったままの入鹿が、黙ってこちらを眺めている。握り締めていた指先から、ゆっくりと袋が滑り
落ちる音がした。
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頭の芯で疼く痛みに、恐る恐る目を開けた。カーテンの隙間から細く差し込む明るい日差しは、今日も晴れ上
がった天気を伝えている。あの頃住んでいたものと殆ど代わり映えのしない、なんの変哲もない古ぼけた部
屋。昨夜興奮と激情のまま煽った酒は、思いもかけず短かな眠りを呼んだらしい。いつもの夢に魘され到底
快適な睡眠とは言い難かったが、それでも数時間の休息は幾ばくかの鎮静効果をもたらしてくれた。大きく息
を吐いて、寝転がっていたソファーから身を起こす。
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__入鹿の友人だった女の名前も、あの時の入鹿の表情すらも既に記憶はすり切れ、朧気にしか覚えてい
ない。だが奇妙なことに、落ちた袋から覗いていた黄色い果物の数だけは、今でもハッキリと記憶している。
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それは三個の、艶やかに輝くグレープフルーツだった。
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チャイムの音に顔を出した成人は、嬉しさと気まずさが綯い交ぜになった表情をしていた。しかし人が訪ねて
きた喜びが勝ったのだろう、やがて屈託無く笑うと大きく扉を開けた。
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「なんだよ、とにかく入れってばよ!!せんせーがうち来るの、初めてだな!!」
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「うん、そうだな。・・・・ところで、お母さんはどうした?」
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「母ちゃんはまだ寝てるってばよ、今起こす。そこに座って待ってろよ、先生」
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遠慮無く周囲を見渡すオレの前で、成人は急に俯いて声を潜めた。玄関に面した広い台所にその向こうの和
室、洗面所、風呂、手洗い。どうやらそれがこの家のすべてらしい。半分開いた襖の向こうに、敷いてある布
団の端が見える。
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「あの、あのさ・・・・それで・・・・佐助、どうしてた」
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「どうもこうもないな、お前と同じダンマリだ。口元は大分腫れてたけどな」
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付けっぱなしのテレビから、ドッと笑いごえが上がった。成人が勧めた椅子と対の机には、クタクタの黒いラン
ドセルが放り投げられている。その横には、牛乳をかけた食べかけのコーンフレークの皿。これが本日の成人
の、朝食らしい。
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「ごめん、先生。でも佐助は悪くないってばよ。俺が悪いんだってば」
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「だから何がどう悪いんだ。そこが一番肝心だろう。」
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一歩踏み込むと、成人は途端に押し黙った。駄目だな、コレは。子供が一旦頑なになったら厄介だ、いくら大
人が手ぐすね引こうと解れるのに時間が掛かる。オレは肩を竦めると、成人の跳ね放題の髪を撫でた。
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「ま、やっちまった事は仕方がないな、ちゃんと反省して二度とこんな真似はするな。それから今度佐助に会
ったら、キッチリ詫び入れろよ」
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「・・・・うん、分かったってばよ!!かーちゃん、起きろよ!!先生来てんだぞ!!」
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ニッカリと笑って大声を上げる姿に、半ば呆れ半ば感嘆した。子供は元々切り替えの早い生き物だが成人の
それは特技とも云える。先生待ってろよと元気良く言い残し襖の向こうに回った成人は、布団にくるまっている
母親を揺さぶっているようだった。
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彼程手を尽くして探し回り、それでも見つからなかった入鹿がすぐ傍にいる。なのに昨夜あれほど千々に乱れ
尖った神経は、今不思議なほど凪いでいた。コンロに乗った鍋や薬缶、流しに積まれた皿、騒々しいTV、開
いたままの雑誌、散乱したプリント__煩雑な、生活の匂い。生きている人間の、濃密な痕跡。他人の居住
空間に囲まれ、これほどの安堵を覚えるのは随分と久方ぶりだ。それはパジャマにカーディガンを羽織っただ
けの姿で現れた入鹿を前にしても、変わることは無かった。
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もうこんな時間。時計に目を遣り呟く横顔は、昨夜の艶やかな出で立ちとは随分と違っていた。化粧っ気のな
い顔で二、三度眼を瞬き、下ろした髪の間からオレを認めると眉を顰めた。
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「私は仕事だもの。これで食べてるのよ、とやかく言われる筋合いは無いわ。」
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母親と担任のやり取りを、神妙な面持ちで成人が眺めている。通常の会話とは少し種類が違うことを、コイツ
は気付いただろうか。横目で笑い掛けるとヘニャリと笑みを返した。入鹿もそれに思い至ったか、息子の名を
呼ぶと財布から千円札を取り出した。
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「成人、あんたいつものドーナツ屋にいってな。母ちゃん後から行くから。」
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「大丈夫、話はすぐ終わるよ。好きなもの食べてていいから。母ちゃんのも頼んでおいて、いつものヤツ」
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「そう、なんもかかってないヤツ。それからコーヒー、あったかいのね」
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「分かったってばよ!!なぁ、先生も一緒に来いよ、すげーいろんなドーナツあって美味いんだぜ!?」
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上着を着ていけと怒鳴る入鹿の声と、走り出る成人の足音が重なった。ドアが閉まると同時に入鹿がテレビ
を消す。途端にシンとした空気が広がった。
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「そりゃあね。今度の受け持ちが新任の先生だって成人から聞いて・・・・・驚いたわ、『はたけカカシ』なんてブ
ッ飛んだ名前、この世にあなたくらいしかいないじゃない?」
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連絡をくれない、と詰ることは出来なかった。あの頃、オレが入鹿にした仕打ちを思えばそんなことは些細な
咎だ。この12年、相応に苦しみ抜いた事実を免罪符に出来ないとも分かっている。だがあれから突然姿を消
した恋人を、一時も忘れた事は無かったと__それだけは知って欲しかった。
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「わざわざこっちから連絡してどうするの。『ハロー、お久しぶり、良かったらまた仲良くしてくれる?』そんな風
に云えば満足だった?」
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「・・・・・入鹿・・・・・あの時オレがしたことを、許してくれとは云わないけど」
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「止めましょう、はたけ先生。随分と昔の事だもの、今更蒸し返した所でどうにかなるものでも無いでしょう」
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「先生、私は今望月成人の母親で、あなたはその担任。それ以上でもそれ以下でもないでしょう。これからも
どうか、そのおつもりで。・・・・どうぞ」
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空いている椅子を指し示し、自分も腰を下ろす。躊躇い無く机の上の煙草に手を伸ばし、灰皿を引き寄せる。
マルボロの赤。キツイ煙草に火を付け深々と吸い込む姿に、驚きを隠せなかった。学生時代、入鹿はヘビー
スモーカーだったオレに何度禁煙を迫ったか知れない。勿論入鹿自身も非喫煙者だった。
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凝視する視線にオレの気持ちを感じたのだろう、入鹿ももの言いたげに見返したが、フイと顔を逸らしてしまっ
た。
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「成人、ケンカしたんですってね。ご迷惑をお掛けしました。」
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「家庭訪問は夏休み前なのに、昨夜突然あなたが来たでしょう。絶対何かあったと思って、明け方あの子を起
こしてとっちめたの。」
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「・・・・ケンカっていう軽いレベルじゃないんだ、怪我をさせたと言っていい。縫いはしなかったが鬱血と腫れが
酷い。食事をするにも難儀してる筈だよ、アレは」
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「しかも妙な事に、何故こうなったか二人揃って口を噤んでる。成人はともかく佐助まで構ってくれるなの一点
張りで、どうにも対処の仕様がなくて困ってる・・・・アイツから何か、聞いてる?」
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睫を伏せ、煙草のフィルターを弾き灰を落とす。その仕草にほんの僅かな、不自然な間があった。__入鹿
は、本当のことを話していない。直感的にそう思ったが確証はない。何より唯でさえ頑なな態度の入鹿と、言
い争いだけはしたくなかった。
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「入鹿、少し学校で耳にしたんだけど・・・・普段から成人とすれ違いが多いって、本当?」
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「そんな事はないわ!!毎日成人の顔を見てから店に出てるし、朝だってちゃんと送り出してる。確かに夜は
寂しい思いをさせてるかも知れない、だけど土日はちゃんと休んでいつも一緒に居るようにしてるわ。それにも
う、何年もこんな生活をしてきてるのよ?今更それが不満で暴れた訳じゃないわ・・・・絶対に」
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語尾に怒気を滲ませ入鹿が立ち上がる。身を翻そうとしたその腕を、手を伸ばしてきつく握り締めた。
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昨夜一晩中考え続けたその可能性を、とうとう口にした。瞬間入鹿の目が細くなったが、強い力でオレの手を
振り払った。
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「あの子の父親の、名誉の為に言うわ。成人とあなたは、断じて関係ない。」
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「決して下世話な興味で聞きたい訳じゃないんだ。入鹿がどう思おうと、オレはこれからも成人の担任だ、生
徒の家庭環境は出来るだけ詳しく知っておきたい。だから」
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それは嘘だった。この12年、オレの知らない場所で寄り添いながら、入鹿と暮らした男がいる。入鹿を抱い
た、男がいる。その男はどんな顔で、どんな声で、入鹿と向き合いどんな言葉で入鹿を手に入れたのか。そ
れを知れば益々辛くなるのは分かっているのに、その断片を拾わずに居られない自分がいる。突き刺さる痛
みを、享受する自分がいる。
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「・・・・・長距離トラックの運転手だったの。三年前に他界して、それから成人とずっと二人きり。食べていかな
きゃならないから、その頃からお店を始めて・・・・・それだけよ」
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素っ気なく言い捨てると、くるりと背を向け襖の向こうに姿を消した。ザクザクと布団を踏みしめる、衣擦れの
音がする。着替える気だろうか。半分開いた和室に目を遣り、ギョッとして息を飲んだ。
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窓際の開いた三面鏡に、半裸の入鹿が映っている。入鹿はそれに、気付いていない。
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カーディガンとパジャマを脱ぎ捨て、素早くジーンズに足を通す。そこでブラジャーが見あたらないのに気付
き、上半身に何も身につけないまま屈んで布団の中を探り始めた。オレの目を全く意識していないその姿は、
あまりにも無防備で、そして子供の様にあどけない。
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ポタリ、と掌に落ちた水滴で我に返った。拳で目元を拭ったが、意志に反して次々と涙が溢れ出る。ポケットを
探ってハンカチを探したが見つからず、目の前のティッシュの箱にそっと手を伸ばした。
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あの頃滾る様にピンと立っていた乳房は、明らかに張りを無くしていた。鋭角的になった頬だけではない。薄
い胸板も鎖骨も背骨も、その形状が分かるほどに肉が薄い。背中一面に広がるケロイド状の傷跡はそのまま
だったが、全身の肉が削げ一回りも二回りも痩せてしまった。
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__一体どれ程の苦労が、入鹿を苛んだのか知れない。けれどその原因は、全てオレ自身に帰結する。
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若気の至りでは到底済まされない、醜悪な行為の数々が脳裡を過ぎり胸を、喉元を、痛むほどに締め付け
た。瞼をきつく閉じてもう一度涙を拭い、入鹿に気取られないよう小さく鼻を啜った。携帯を取りだし、平静を装
って声を掛けた。
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『この間提出した書類に、ここと店の電話番号は記入してある筈よ。』
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『成人には毎日連絡用のノートを持たせているでしょう。何かあったらそれに書き込んで下さい。第一携帯な
んて取り敢えず持っているだけで、メールも打ったことがないしアドレスなんて知らないし』
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「結構です。今後のことは全てノートに書きますから。先方にも午後にはお詫びに伺いますから心配なさらな
いで下さい、どうぞもうお引き取りを。成人も外で待っていますし」
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襖の影から出てきた入鹿は色の褪せたジーンズに濃紺のシャツを着ていた。尻ポケットに財布を入れ鍵を握
ると、スタスタと玄関に向かう。気圧されたオレも、結局一緒に外に出た。__だがどうしても、離れたくない。
何としてもこのまま、別れたくない。その一心で必死に取りすがり、言葉を掛け続けた。
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「成人が折角誘ってくれたんだ、一緒に行くよ。アイツ、オレが居なかったらがっかりするだろう」
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「先生、さっきあなたが言ったんでしょう、親子の触れ合いが足りないって。お望み通りこれから親睦を深める
んだから、邪魔はしないで欲しいわ。」
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「そんな意味じゃ・・・・入鹿、こうして折角会えたんだ、オレはもっと話をしたい。もう少し一緒にいたい。昨夜
だって殆ど何も喋らず帰されただろう?頼む、入鹿、こっちの話も少しは聞いてくれ」
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「あたりまえでしょう!!酒の席とはいえ、生活の糧を得るための大切な仕事なのよ!?どんな事情があろう
と、プライベートでお客様に不快な思いをさせる訳にはいかないの、あなたには理解出来ないだろうけど。」
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扉に鍵を差し込み、施錠している入鹿の手を握ろうとした時だった。階下から風が吹き抜け、入鹿の括ってい
ない髪を大きく揺らし巻き上げた。同時に、細い項が顕わになる。その病的に白い首筋を目にした途端、タガ
が外れた。腰に手を回し、後頭部を押さえ込み、腕に抱き込んで激しく口づけた。藻掻く入鹿の動きを封じ込
め無理矢理唇をこじ開け、舌を捻じ入れ絡ませる。どうしようもなく久しぶりに味わった入鹿の唾液は、微かに
マルボロの苦味がした。
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思い切り足を踏まれ、蹈鞴を踏んだ隙に突き飛ばされた。そのまま後ろの鉄柵に激突する。ワンワンと大きく
響く衝撃音に、オレも首を竦める程驚いた。
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「何よッッ!!人の気持ちを無視して自分の都合ばかり押しつけて!!今も昔も、あなたちっとも変わっちゃ
いないじゃないッッ!!」
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廊下に響き渡る程の大声で叫ぶと、入鹿は階段を駆け下りていく。待って、そう言いたかったが背中の痛み
に声が上手く出ない。癖のある足音が、あっという間に遠ざかっていく。オレは呆然と座り込みながら、唯それ
だけを聞いていた。
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