ハロー、張りネズミ 1
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放課後の職員室で、学年主任の森乃が気安く肩を叩く。唸っただけで返事をしないのは意趣返しのつもりだ
ったが、相手に堪えた様子はない。泣く子も黙る容貌の持ち主の癖に、森乃はかなりの喋り好きだ。オレの
肩に手を置いたまま、今度は隣の女教師に話しかけた。
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「確か去年は河野先生の受け持ちでしたよね?・・・・望月成人は。」
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中年の女教師は机を平手で叩くと、大仰な溜息を吐いた。あおりで湯飲みの緑茶が揺れる。
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「まったく、あの子にはどれ程苦労させられたことか!!とにかく手の付けられない子でねぇ・・・・。毎日トラブ
ルの連続で、もうあの頃の事は思い出したくもありませんよ!!」
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耐えかねた様に腹をさする。思い出しただけでも胃が痛いと、そう言いたいんだろう。森乃は取りなすような愛
想笑いを浮かべると、今度は女教師の肩に手を掛けた。
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「まぁまぁ、そう興奮なさらないで。・・・・しかし実際ご苦労されましたよねぇ、河野先生は。ベテランの実力を
持ってしても手に余る、ってとこでしたか。」
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「ええ、まったく。でも私の見たところ、問題があるのはあの子自身よりむしろ親の方ですよ。母一人子一人で
大変なのは分かりますけど、とにかく放りっぱなしで全く面倒を見てないそうじゃないですか。・・・・寂しいんで
すよ、あの子は。だからその鬱憤晴らしで騒ぎを起こすんです。親がもうちょっと目を掛けてやれば、随分とま
ともになる筈なんですけどねぇ。」
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「ええ、駅前で小さな呑み屋を経営してます。まぁ、こんな事言いたくありませんけど・・・・やっぱりあの年頃
の子には堪えるんじゃないですかねぇ・・・・親が水商売に就いてるってのは。授業参観にも二者面談にも、そ
の母親が出てきたことありませんし。」
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「あぁ確かに、そういえばPTAの集まりでも一度も見掛けたことありませんねぇ。・・・・それではたけ先生、こん
どの件はどうされます?」
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フイと真顔で聞く森乃の視線に、女教師も倣った。二組の眼に覗き込まれて仰け反りたいのを堪えつつ、平
静を装って答えた。
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「・・・・まず内葉の家に行って様子を見てきます。まぁ、望月の方にはそれからと思ってますが・・・・お話の様
子だと、望月の親を掴まえるのが難しそうですね」
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「そうそう、自宅に行っても電話をしてもまず無理ですよ。夕方前から店の方に出てしまうそうですから、そっち
の方に直接行った方がいいでしょうね。『木影』って名前の小さなスナックですけど、立地の良いところだから
すぐ分かりますよ。・・・・でもほんとうにお気の毒だわ、はたけ先生。赴任されて早々にこんな事になるなん
て・・・・」
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「まぁ河野先生、そうご心配されなくても。はたけ先生は問題児の扱いには定評がありますからね、きっと上
手くまとめて下さいますよ。流石に今回は、親に話を通さない訳にはいかないでしょうが・・・・」
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「あんな怪我をさせちゃあねぇ。しかも相手が内葉佐助でしょう?ちょっと大変かも知れませんね、お父さんは
市議会議員をされてるし。」
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「それでなくても内葉の家は代々続く名家ですからねぇ、少々キツイ事を言われるかもしれませんよ」
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「あらでも内葉議員は随分と人の出来た方だっていいますよ?そう大事にはならないんじゃないかしら。ねぇ
森乃先生?」
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所詮は他人事、対岸の火事の消火は任せたと、二人の教師は勝手に盛り上がり納得している。無駄話なら
余所でやって欲しいもんだが森乃が退く気配もない。オレは話し込む二人に構わず、クラス名簿を引きだし内
葉と望月の住所を調べた。上から順になぞった指が、保護者氏名覧で止まる。
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これしきの事で心拍数が上がる自分も情けないが、教科書にも載ってる程だ、珍しいが二つと無い名前って
わけでもない。馬鹿な考えを振り払うとメモしたそれをポケット突っ込み、車のキーを片手に席を立った。
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教職に就き三度目の転任先となった斐野山小学校で、六年三組を受け持ち十日程が経っていた。
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着任前の最大の懸念は申し送りで散々な評価を喰らっていた望月成人だったが、蓋を開けてみればその行
状さほど荒れたものではなく、その御山の大将的存在に寧ろ懐かしさを抱いた程だ。
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成人は確かにきかん気で手懐けようとすれば厄介だろう。しかし一見したところ陰湿なイタズラや弱い者苛め
はしていない。クラスの同級生たちも一目置いてはいても、嫌悪している様子もない。__何のことはない、
いわゆる昔のガキ大将タイプだ。これは騒ぎ立れば逆効果、余程のことが無い限り自由に泳がせるに限る。
そう思い、付かず離れずぬるく見守るつもりでいたのだが__。
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その教育方針は、どうやら根本から間違っていたらしい。
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望月成人は今日、教室で突然内葉佐助に殴りかかり、怪我を負わせてしまった。
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「まぁそう恐縮なさらずに、先生。所詮は子供のケンカでしょう?昔はこの程度、日常茶飯事でしたよ。」
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だが罵詈雑言を覚悟して下げた頭に、降ったのは鷹揚な言葉だった。重厚な門構えと豪奢な家の造りから描
いていた傲慢な人物像を、佐助の父は見事に裏切った。その割り切った態度に暫し拍子抜けしたまま、声す
ら出ない。
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__傷も縫ったわけではありませんし、腫れだって二、三日で引くそうですよ。こちらとしても騒ぎにするつもり
はありませんのでそのおつもりで。何、相手のお子さんには反省して貰えればそれでいいんです。
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それだけ言い切ると、佐助の父は多忙を理由にさっさと席を立ってしまった。
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呆然と間抜け顔を晒す担任と残された母親の間に、気まずい沈黙が落ちる。
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俯き加減の母親が漏らすことには、佐助には兄が一人いるらしい。
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来春受験を控えたその兄の英才教育に掛かりきりで、父親は余り佐助に関心がない。今日も佐助の顔さえ
碌に見ていない__そこまで聞いて、眉を上げた。お咎め無しなのは有り難いが、それはそれで問題だ。佐
助に会わせて欲しい。そう申し出る前に、当の本人がひょっこり顔を出した。
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「ああ、別にどうってことはない。もう放っておいてくれ」
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佐助の傍若無人な口調に母親が悲鳴を上げた。案の定佐助の口元には青黒い痣が浮き、裂傷の跡もある。
それを視線でなぞると気付いた佐助は横を向いた。
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「どうってことない、ってのは無理があるな、どう見ても。・・・・どうだ、何があったか話す気になったか?」
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「だから放っておいてくれと言ってるだろう。それに話すことも何もない。」
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狼狽える母親と苦笑いの担任に目もくれず、佐助はさっさと部屋を後にしてしまった。そんな態度はさっきの
父親そっくりだ。話すつもりがないのなら仕方がない、その気になるまで待つしかない。時間が経てば気持ち
も変わってくるだろう__気の毒なほど恐縮する母親にそう告げて腰を上げた。見送られた門の外で見上げ
た夜空には、既に赤光の月が浮かんでいる。
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被害者と加害者が一様に口を噤んでいる奇妙な事件とはいえ、望月の親に話さない訳にはいかない。
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まずは自宅に向かうつもりでいたが気が変わり、駅前の駐車場に車を入れ『木影』に向かった。
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首を竦めてポケットに手を突っ込むと、指先がメモに触れた。『入鹿』の名前が気にならないと言えば嘘にな
る。だがそんな筈がない。あれだけ手を尽くしても見つからなかった人間が、こんな場所にいる筈がない。会
える筈がない。柄にもなく、随分と感傷的な自分を嗤う内、目差す店は目の前に迫っていた。
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黒い木製のドアに手を掛けると、低い音楽と煙草と酒の匂いがなだれ込んで来る。
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カウンターの中には髪を切り揃えた若い女がいた。これが望月入鹿だろうか。いや、到底小学六年の母親に
は見えない。おそらく、従業員に違いない。念のため名前を尋ねると女の目に怯えの色が走った。刑事に間
違われたのなら事だ、慌てて名乗ると八割方席を埋めた客の視線が興味津々に向けられている。
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居心地の悪さに踵を返し掛けた時、後ろのドアが開いて女の声が聞こえた。
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「あーあ、とうとうバレちゃったか、早かったな。どうせ成人が何かやらかしたのね」
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全身の血が逆流し、総毛立つ。握った掌に汗が滲み、足は床に吸い付いた様に動かない。
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「雛ちゃん、これハヤテ先生のいつもの咳止め。怖がらなくていいわ、この人昔の知り合いだから。」
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手にしていたビニール袋を渡すと、女はオレの腕を取り店の外に引きずり出した。掴まれた肘が、火を吹く程
に熱い。
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その声、その髪、その瞳。__その顔に走る、薄い傷。
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十二年前、突然姿を消したあの入鹿が、目の前にいた。
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