ギフト 4



何を見ても思い出す 思い出すんだ

                  GRAPEVINE / Wants










『・・・さん、カカシ、さん』


呼ぶ声に覚醒しカカシは視線を上げた。縁側に並んで胡坐をかくイルカが、遠慮がちに顔を覗きこんでいる。


「__どうされました、お疲れですか」

「あ、いや」


気遣わしげなイルカの表情に、慌ててかぶりを振った。眦を下げ、柔らかく笑ってみせる__イルカが一番好
む、カカシの笑顔。案の定イルカは浅く短い息を吐き緊張を解く。カカシは素早く傍らの徳利を持ち上げると、
入っていた冷酒をイルカの猪口に注いでやった。


「ま、新人の教育ってのはいつでも色々とね」

「そうですね、カカシさんは特に七班以来、そんな役回りが多くなってますからね」

「まったく、いいんだか悪いんだかねぇ」

「ハハハ、何仰ってるんです。写輪眼のカカシから直接的指導を受けられるなんて、忍としてこれ以上の幸運
は見つけようったて見つからないでしょう」

「またまたイルカ先生、そんな持ち上げないでよ」

「いや本当におべんちゃらじゃありませんよ、俺は真面目に」

「ハハ、ありがとう」


束の間の沈黙の中、暗い庭で鳴く軽やかな虫の音が響いた。夜空には正円に近い月が昇っていたが、その
褐色に近い赤を眼にした途端、カカシはこめかみ付近に鋭い頭痛を覚えた。


あの夜も、そうだった。

イルカの妻琴乃が敵陣のトラップに掛かり爆死した夜も、血の滴る如きの赤い満月が昇っていた。


それ以来赤い月を眺めると、カカシは例外なく先鋭的な頭痛を覚える。それはあの事件から八年経った今で
も変わらない。


何故あの時琴乃を結界牢に繋がなかったのか。信頼する戦忍を見張りにつけていたとは云え、何故汎用の
天幕に拘束するに留めたのか。あれ程までの強い訴え、琴乃の気性、イルカを含むホダカとの強く長い関係
性を鑑みれば、琴乃が規律違反を犯してでも野草の採取に赴く可能性を、カカシは上忍として上官として当
然考慮すべき立場にあった。


それなのに、何故。

何故、何故、__何故。


答えは簡単だ、己に示すまでもない。それはカカシのイルカへの秘匿した恋情と、逡巡に因る。カカシは何よ
り恐れたのだ__イルカにとって大切な妻を、苦痛を与え体力を奪う牢に繋いだ人間となることを。同胞を捕
虜と同等に扱った、冷酷な上官となることを。

答えは、それだけだ。


結果琴乃は敵方のトラップに掛かり絶命した。爆風に四肢を四散させた。


琴乃の遁走に気付いたカカシは間を置かず小隊と共にその後を追ったが、全ては遅きに失した。あと僅か半
里と云う距離まで迫ったその時、巨大な閃光が夜の森を焦がし忍達の眼を刺した。であるのにホダカ諒一が
命を永らえたのは、千切れ飛んだ形で奇跡的に発見された琴乃の右手首から先が、数本のベニバホロギク
を掴んでいた為だ。

琴乃の犠牲がなければ、ホダカは確実に命を落としていただろう。榎侘鳴戦役から復員したホダカはその後
も忍として一線に立ち続け、主に諜報活動を得意とするその働きがこれまで木の葉にどれ程の益をもたらした
か知れない。__ならば琴乃一人の絶命は宿命だったのか。愛する旧友の命を救うが為の。一個人の暴走
として木の葉と梶香をその責任から回避させる為の。白州邊との再戦の危険性を、摘む為の。

しかし一体、誰がそんな不遜な理由付けを口に出来るだろう。

この世の命すべてに優劣も上下も無い。他者より尊重されて然るべき命、そうでない命など無い。だが現にホ
ダカは木の葉に欠かさざる有能な上忍として活躍し、その情報が里及び同胞の危機を救ったことも度々だ。
翻って琴乃が健在であったなら、カカシがイルカと家族同然の関係となる機会すらなく、遺児アカリの養育に
携わることも無かっただろう。


ならば、何故__何故、何故。


八年間、絶えること無く胸の奥底に巣食い続けた懊悩は時折激しい煩悶と後悔に形を変え、意識の表層に
浮き上がる。赤い月に触発され始まる頭痛は、その単なるスイッチと身体的反応に過ぎない。




「カカシ、さん」


密やかなイルカの呼ぶ声に、今度は間髪を置かず返答することが出来た。何ですか、イルカ先生。穏やかな
声色で返すと、切子の猪口を握っていたイルカの瞳が揺れた。


「・・・ひとつ、伺っても宜しいですか」

「何です」

「カカシさんから見て・・・アカリは、あいつはどう見えます」

「どう、とは」


質問の主旨は理解していたが、敢えて問い直した。イルカは俯き切子の中の透明な酒を暫し見つめた後、一
気に干した。


「任務の報告書を上げて帰宅する前、アカデミーにも顔を出して職員室に寄って来ました。それでまぁ、今日
の体術の試験結果を・・・同僚のアガタから、教えてもらったんですが」

「ははぁ」

「正直・・・どうしてああも身体的能力と学習能力に差があるのか、親としても一教師としても理解に苦しむとい
うか・・・」

「うん」

「それに、単に個性的なだけとは云えないその・・・風変りな性格をしていますし」

「イルカ先生の云いたいことも分かるけど、それにしたってお釣りが来るってもんでしょ、あの物覚えの良さは」

「ええ・・・俺も親バカを承知で云わせて貰えれば、長年アカデミーでもあんな子供は見たことがありません。
あのサスケですら、あそこまで突出していなかった」


イルカが指しているのは、アカリの驚くべき記憶力だった。知識だけであるなら、中堅の医療忍か或いは特上
レベルにまで既に達しているだろう__カカシの忌憚ない言葉に、イルカの愁眉は逆に深まる。アカデミー始
まって以来と評されるアカリの学業成績はパーフェクトと云っても良い程に高かったが、それは優れた理解
力・読解力の賜物ではなく、驚異的な記憶力の所為であるとイルカもカカシも分析していた。容量の大きなメ
モリや高性能のCPUを積んだコンピュータより、図形・写真・文字に亘るあらゆる情報を読み取る、スキャナ
の方がアカリの頭脳を例えるに近しい。コピー能力という点では、カカシの赤い片眼との類似点も浮かぶが実
際にはその範疇を軽々と越えている。何しろこっそりと立ち読みした18禁小説の内容を、セリフを含め一字一
句を暗記して諳んじられる程なのだ。

しかしそれを指摘して見せたところでイルカの憂いに火を注ぐことは知れている。イルカの頭髪にちらほらとで
はあるが見え隠れし始めた白髪を、これ以上増やす訳にもいかない。カカシは微笑み、出来る限りの軽い口
調で反論した。


「忍の子には有りがちな事象だと思いますけどねぇ。血継限界はまた別な話としても、高い能力が片寄って
出るのは良くある事でしょう」


ホラ体術オンリーで伸し上がった、体術バカだっているしね。古い友人を当てこすったカカシの言葉にイルカも
顔を上げたが、例えられたのが高名な上忍である為立場上笑い飛ばす訳にもいかないらしい。肯定か否定
か、複雑な表情で答えあぐねるイルカの先に回り込み、カカシは尚も続けた。


「体術が苦手と云っても民間人レベル以下と云う訳じゃあるまいし、そう心配することもないと思いますよ。ア
カリの場合、筆記分野が際立っている分どうしても対照的に見えるんだろうけど」

「・・・・」

「ま、そう深刻になる必要性は、今オレは感じてませんけどね」

「・・・俺も今まではそう思おうと、努力はして来たんですが・・・実は今日、五代目に呼ばれまして・・・」

「え」

「てっきり任務の話かと思ったんですが、アカリのことを持ち出されて俺も少々慌てまして」

「えぇ!?」

「アカリの記憶力に関してどうも五代目の耳にまで話が届いているらしく、どうやら興味を持たれたらしいんで
すよ。五代目とて、医療忍ですからね」

「何ソレ・・・」

「アカリの成績に関してはとうに目を通されていて、それで・・・その上でアカリの物覚えの良さを、『特殊能
力』ではないのかと仰いました。・・・ならば一度アカリを、火の国に連れて行けと」

「火の国!?何でまた!!」

「大脳生理学の権威がおられるそうで、夏休み中に一度受診してみたらどうかと・・・木の葉の医療術はどうし
ても再生治癒術であるし、五代目としてもアカリの脳の仕組みを是非知りたいと仰って」

「・・・ったく」


イルカの言葉を待たず、舌打ちが漏れた。イルカも再び顔を伏せる。__憂い顔の本当の原因は、これだった
か。アカリに対するカカシのかいがいしさはこれまでも綱手のからかいの対象であったし、その度カカシも軽く
往なして来た。しかしここまでの直接的干渉を加えられたのは、今回が初めてだ。


「駄目駄目イルカ先生、あんないい加減な婆さんの云うこと聞いてちゃ。オレ餓鬼の頃うっかり腹の傷口腐ら
せちゃったことあるんですけどね、こんなの舐めときゃ直るって云った人間ですよ」

「ええ!!」

「それにまさかもう、話がイッちゃってるわけじゃないんでしょう?幾ら何でも」

「それが・・・実はそのようで」

「えええ!!」


すみません、と頭を下げるイルカを立場が逆と押しとどめた。内勤に近い状態で新人の教育を任され、上層部
にも近い位置に在りながら綱手の画策に気付かなかったのは、自分のミスだ。


「婆さん、云いだしたら聞かないからねぇ・・・」

「俺も最初は驚きましたが、しかし考えてみれば滅多に無い機会ではありますし」

「権威、とか?」

「ええ。それにアイツが記憶力以前に、変わり者であることも確かですし」


それは娘として生まれながら自分を『僕』と呼び、9歳にして長編官能小説を読み耽り、自分の父親には敬称
をつけながら生活を共にする上忍は呼び捨てにする、その点かと思ったが思うに留めた。指摘して直る位な
ら、アカリの奇癖はもうとっくに矯正されている。


「まぁ心配することはありませんよ。っていうかここだけの話ね、オレは寧ろアカリで天下取れるんじゃないか
と思ってますよ」

「は・・・?天下!?」

「そう、ぶっちゃけ輿入れ、縁組みの話ですけど」

「アカリの!?ちょっと待って下さい、アイツはまだ9歳ですよ!!」

「だから将来の話ですって。あれだけ優秀な頭脳なら里内外にも名は知れるし、しかも自惚れるだけあって見
栄えも良い。賭けてもいいけどね、アレは相当な美人になるよイルカ先生」

「しかし天下って云うのは・・・例えば日向とか秋道とか、その辺の旧家ですか?」

「ハハハ日向なんてまだまだ。ちいさい小さい」

「え・・・ッ!?じゃあもしや千手の血筋とか・・・?火影様の!?」

「いやいや千手だってまだまだ」

「ええぇ!?しかし千手でも無いとなったら、そ、その上は」

「そうです、大名家ですよ!!アイツならあながち夢物語って訳でもないと思いま・・・何、どうしたのイルカ先
生」

「アハッハッハッハッハッ!!」


腹を抱えてイルカが笑い転げる。憮然と見下ろすカカシの前で、下ろしたままのイルカの黒髪が浴衣の襟元
でざらりと流れた。


「カカシさんでも云うんですねぇ!!そんな冗談」

「ええー、冗談じゃないって、八割方、いや九割方マジですよオレ」

「ハハハハハ、だってあのアカリが大名家にって、幾ら何でもハハハハハ」


何よ笑い過ぎじゃないの、口を尖らせてみたがそれも長く続かなかった。これ程感情を弾けさせているイルカ
を見るのも、久しぶりだ。つられて緩みかかる口元に猪口を運んだその時、後ろで閉まっていた襖が開いた。


「んも〜〜うるさいな〜〜、何騒いでるの〜〜」

「アカリ、悪かったな。起こしちまったか」


寝ぼけ眼の娘にイルカが明るい顔のまま笑いかける。しかし立ったまま目蓋を擦っていたアカリはカカシの姿
を認めると、半眼を突如見開いた。


「あッ、ずるい!!何か内緒で食べてたんでしょ、美味しいもの食べたんでしょ僕にないしょでッッ!!」

「はぁ!?何云ってるんだアカリ、夕飯はとっくに食っただろう」

「お鮨だ、きっとお鮨食べたんだッッ!!だって前もそうだったもん父さまとカカシでこっそり食べちゃったっん
だもんッッ!!」

「鮨・・・!?なんて此処には無いぞ、つまみだけだ」

「あー、アレね、あの時の話ね」

「は!?」

「ホラ、イルカ先生覚えてませんか昔オレが土産で持ってきた生鮨の折詰、夜中に食っちゃった事あったでし
ょう。それは良かったけど、後でコイツにバレて大騒ぎになってさ」

「え・・・ッ、ああ、確かにそう云えば・・・。でも何年前の話なんです、まだアカデミーに入学する前ですよ!!」

「去年のぉ、まえのまえのまえの年のぉ、6月27日の木曜日だよぉッッ、僕イクラ好きなのにぃぃ〜〜」

「アカリ、お前・・・」

「いやー食いものの恨みって恐ろしいね、三代祟るって云うけど。アカリ、お前鮨くらいでいつまでもギャンギャ
ン云うんじゃないよ。九重が来たら好きなだけ御馳走食えるでしょ」


九重とは木の葉の伝統的祝賀行事で、9歳の子供の成長を祝い神社で更なる長寿を祈祷する。春に誕生日
を迎えたアカリも例外なくこの九重を祝う手筈になっており、祈祷の後の会食を何より楽しみにしていた。


「牛肉のフィレステーキとエビチリと天麩羅と〜〜、ホタテのローストと伊勢海老のグリルとマグロのやまかけ
と蟹のちらし寿司と〜〜、スモークサーモンと鯛のしゃぶしゃぶ食べるんだからねッッ!!あとウルトラスペシ
ャルビックサンダーパフェ!!」

「あーはいはい。もう寝るよ」


アカリの手を引き立ち上がった。イルカは再び黙り込み庭のヤマアジサイを見つめている。いいさ、考えたい
のならとことん考えさせた方がいい。そうして思考を突きつめるのは、イルカの昔からの癖であるとも知ってい
る。


「イルカ先生、オレこのまんまアカリの隣で寝ますから今夜は奥の部屋で寝て下さい。疲れてるでしょ」

「・・・えッ、いやでもそれは、カカシさんだって遠出をされたのに」

「あー大丈夫、オレは大したことありませんから。コイツすぐ布団剥ぐしね」

「カカシ聞いてー、松茸の土瓶蒸しと鰈のから揚げと北京ダックと〜〜、それから生ハムメロンとね〜〜」

「はいはい好きにしなさいよ、おやすみイルカ先生」


イルカがものを云う隙を与えず立ち上がった。アカリの五本の指が、カカシの人差し指と中指を握りしめる。カ
カシはいつの間にかこめかみの痛みが引いていることすら気付かず、その細い指を握り返した。

アカリの掌は、ひんやりとした湿り気を帯びていた。










八年、八年だ。

琴乃の訃報を携えたカカシが深夜この家の玄関に立ち、それから三和土に土下座をしたあの日からもう八年
の月日が経った。あの時、カカシがどんな言葉で琴乃の死を告げたのか、記憶は朧に霞んでいる。しかし強
い自責の念を吐きながら額を土間に擦りつけた、カカシの銀髪とつむじをずっと見下ろしていたことだけは覚え
ている。

琴乃の死後、カカシは息をつかせる間もなくこの家に入り込み、そして猛然とアカリの養育に力を注ぎ始め
た。イルカにとってそれまで教え子の担当教官でしか無かったカカシの豹変は、晴天の霹靂であり大きな戸
惑いは勿論、恐怖すら覚えたこともある。


しかし事実カカシの滅私と呼べる協力がなければ、到底一人ではここまでアカリを育てられなかった。


アカリに対する深い愛情、イルカに対する篤い気遣い。それは確かに正真正銘、カカシの真摯且つ誠実な心
情の発露に他ならない。

八年、八年だ。

何も要求せず。見返りを求めることすらなく。

それが琴乃の死に対する罪悪感に根ざしているとしても、カカシの献身は既に償いの域を大きく超えている。


ならば自分はカカシの誠意に、一体何をもって答えるべきなのか。


イルカは徳利に残った冷酒を切子につぎ切ると、揺れる小さな水面を眺めた。蒼いガラスの中に、滴るように
赤い月が映っていた。



< 続 >



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