陽のあたる場所 5



それでも僕は、イルカ先生の遺言を守らなかった。


僕はいつでも彼女に逢える場所が欲しかった。土に還る、自然と一体化するなんて如何にも女性らしい発想
だけれど、実際問題薄暗いジメジメした森の中に彼女の遺骨をばらまいてハイお終い、なんてことは忍びがた
くてとてもじゃないが出来なかった。
そこで僕は陽あたりも見晴らしも良い小高いこの丘に少しの土地を買って、勝手に彼女の墓碑を建てた。もち
ろんちゃんと納骨もしてある。

彼女の言葉通り机の中には小さな袋があった。
大方の予想はついていたがやはり中身は人骨だった。形からみて喉仏だろう。最初ははたけカカシのものだ
ろうと思っていたが、彼女の手紙には誰という記述がない。もしかして自殺したという許婚のものなのだろう
か。そうだ、今度アスマ先生に会ったら聞いてみよう。カカシの遺体を確認したのは彼なのだから、いずれに
せよすぐに分かることだ。
結局イルカ先生とその男の骨を一緒に納めることには変わりはなく、正直言って業腹な気持ちもあったがこれ
くらいは故人の遺志を尊重しないといい加減バチが当たる。僕は渋々小さな骨片を骨壺に納めて、蓋をした。



イルカ先生を看取ったのは僕だ。いや正確に言えば僕とアスマ先生と数人の元教え子達も側についていたの
だが、彼女が最後の昏睡状態に陥って息を引き取るまでの間、僕は彼女の手を握り終始冷静に彼女を見つ
めていた。
不思議と涙は出なかった。
枕元で涙に暮れる教え子達の姿を目の当たりにしていた所為かもしれないが、生前あんなにも彼女を想って
流した涙が、ついに僕の頬を濡らす事はなかった。
むしろこの欺瞞と偏見に満ちた世界から肉体を捨て、暖かく安らかな世界に旅立った彼女の魂を祝福したい
ような気さえしていた。


はたけカカシの死後、僕は堂々と頻繁に彼女の家に出入りした。

自分が周囲に色々と揶揄されていたのは知っていたが、元々「うみのの腰巾着」なんて言われてきた身だ。
今更何を噂されようと全くもってどうでもよかった。そうして僕はカカシの死後、完全に自宅にひきこもってしま
った彼女の世話を、誠心誠意、心ゆくまで遂行した。

だがその間僕は、何度も彼女の「許し」を感じていた。
カカシというたがが外れて彼女への好意を隠せなくなっていた僕は、不必要に彼女に触れることがあったし、
その細い躰を抱えて移動する際、思わずきつく抱きしめてしまうことが幾度となくあった。その度彼女は体内
の隅々まで照らすような澄んだ眼差しを僕に向けて、それから静かにその身を任せるのだ。

僕は生まれてこのかたあれほど性的に濃密な時間を過ごした事はない。
勿論僕たちは体を繋げるようなことはなかったし、口付けすら交わしていない。しかし、暖かい食事を彼女の
口元に運ぶ時、濡れたタオルでその身体を拭清する時、足の爪を切り揃える時、確かに僕たちの間にはセッ
クスと同様の、いや、それ以上に濃厚な感情の交わりがあって、それは痺れる様な酩酊と快楽を僕に味あわ
せた。

僕は幸せだった。

そしてそれは、彼女が最後に入院する迄続いた。











雲ひとつない青空を柔らかな風が吹き抜けて、繁る草を揺らす。
僕は丸みを帯びた墓石に指を滑らすと、溜め息をついて膝に顔を埋めた。後ろから近づいてくる見知った気配
に、無礼とは知りつつそのまま声を掛ける。

「おはようございます、アスマ先生。」

「よぅタカノ、お前まーだメソメソしてるのか」

その腕には抱えきれない程のカサブランカの大きな花束。さすが上忍は買ってくるものが違う。しかし髭の上
忍と清楚な花々との珍妙なコントラストに、こみ上げる笑いを抑えるのに苦労した。気付いた彼は苦い表情で
僕を睨むと、

「いい加減にしねぇとその内イルカにドヤされっぞ」

大きな花束を供えると、ドカリと腰を下ろしてそのままじっと墓碑を見つめた。目は閉じない。それがこの人な
りの黙祷なのだろう。

「べつにメソメソしてません。」

「あーそうかよ」

早速煙草に火を付けて深々と吸い込むその姿が如何にも美味しそうで、僕の頬はまた緩みかけた。

「アスマ先生。」

「なんだ」

「はたけ上忍は自殺したんですか」

大きく煙草に咽て咳き込む上忍の背中を摩ってやろうかと逡巡したが、やっぱり止めた。
なんだか前にもこんなことがあった様な気がする。そうだ、イルカ先生と任務に出た時だ。あの時も僕の唐突
な質問に驚いた彼女が、激しく煙草の煙に咽たのだ。そしてその質問も、同じくはたけカカシのことだった。

「お前どこまで分かっていってんだ」

「僕にも独自の情報網があるんです。」

じょーほーもーねぇ。鼻白んで言うアスマ先生に僕は懐から手紙を取り出して手渡した。

何度も何度も読み返した手紙。それを見つけたのはイルカ先生の遺品を整理していた時だ。静かに彼女を見
送り、ひっそりとした葬儀も終えて精神的にも肉体的にも殆ど落ち着きを取り戻しつつあった時に見つけたそ
の手紙は、僕に大きな衝撃を与えた。
そこで僕に語りかけるイルカ先生の赤裸々な姿はかつて無いほど生々しいものだった。
彼女はカカシが死んでから一切、それについて語ることは無く、始終傍にいた僕でさえ聞いたことはない。
それなのに、あの静謐な表情の下にこんなに深い煩悶を隠していたのかと思うと、切なさと愛しさで涙が零れ
た。それに気付いてやれなかった自分もまた情けなかった。涙は止まる気配を見せずいつまでも諾々と流れ
続け、彼女が逝った時の自分の冷静さが嘘のようだった。
あの時僕は彼女の介護をやり遂げきちんと見送ったある種の達成感から、平穏な精神状態でいられるのだと
思っていたのだがそれは大きな間違いで、目の前の愁嘆場に精神が適応出来ず、単に感情が凍りついてい
ただけなのだと知った。
彼女の手紙はその熱い息遣いで荒々しく僕の感情を揺さぶり、凍てついた心を溶かしたのだ。




読み終えたアスマ先生はその偉丈夫な外見からは想像できない繊細な手つきで手紙をたたむと、黙ってそ
れを返してよこした。

「イルカも言ってるだろ。死に際にソイツが何考えてたかなんて、ソイツにしかわかんねーこった」

確かにそうだ。しかしあのプライドの高い男が、あれ程イルカ先生に執着していた人間が、黙って事の成り行
きを眺めていたとは考えられないし、彼女もそれを匂わすようなことを書いていた。屹度かなりの葛藤があった
筈だ。そこにきてあの死に様だ。
多分カカシは、愛する女の死を見届けることから逃げたのではないか。
その昔イルカ先生の許婚がとった同じ方法で。だが今更残った人間がいくら首を傾げてみても、想像の域を
出ることは叶わない。何をどんなに思ってみても、それは結局仮定でしか有り得ないのだ。



「アスマ先生、写輪眼を持ち帰らなかったんですね」

「・・・あのなぁ、写輪眼は単なるソフトだろ、問題はハード、記憶を司る大脳だ。俺がヤツの側に行ったときは
脳も脊髄も潰れちまってて原型なんぞ留めてなかったよ。そんなんで写輪眼だけ取り出したところでどうにも
ならねぇだろ」

第一再移植なんざどう考えたってムリだって、素人でさえ分かるだろーよ、言いながら彼は二本目の煙草に
火を付けた。そうか、それでカカシの遺体を灰にしたのか。しかしそれは里の意向に反する行為で、写輪眼を
持ち帰らず、機密の多い躰を勝手に燃やした咎でアスマ先生は謹慎処分を受けていた。

「勝手に出歩いていいんですか?バレたら大変でしょう?」

「昨日でお務めは明けたんだよっ。ったくお前性格悪くなったんじゃねーの」


やおら立ち上がると体についた草を払って、何の言葉もなく僕に背を向け歩き出した。彼なりのやり方で友に
別れを告げたのだろうその背中は、暖かな日差しに照らされていつもよりひときわ大きく見えた。


お務めごくろうさまでーす!!


声を張り上げて呼びかけると、遠ざかる上忍が片手を挙げて応えるのが見えた。その後ろ姿が見えなくなると
僕はその場でゴロリと横になって、思い切り草いきれを吸い込んだ。



あ。
あの骨のこと、聞くの忘れちゃったな。
まぁいいや。アスマ先生になら何時でも会える。今度こそ忘れずに聞いてみよう。



ベストの内側から煙草を取り出して銜えると、そのままの姿勢で火を付ける。とたんに苦味が口内に広がっ
て、慣れない僕は顔を顰めてやり過ごした。

どこが美味いんだろ、こんなもの。

それでも我慢しながら口先だけで吹かしてみると、まるで機関車のように立ち上る煙が可笑しくて、声を出さ
ずに僕は笑った。

抜けるような青空に僕の吐いた煙が溶けてゆく。

囀る鳥の声を聴いていると抗いがたい眠気が襲ってきて、どうにも瞼を開けていられない。風に揺れる草が横
たわる僕の頬を優しく撫で、軽やかな音を奏でる。アカデミーとか生徒とか授業とか、面倒なことはとりあえず
横において頭の下で手を組むと、僕はゆっくりと眠りに落ちていった。



 〈 了 〉





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