3年B組うみの先生 2



風に乗ってジングル・ベルが流れてくる。

そういえば通り抜けてきた商店街ではクリスマス商戦の真っ最中だった。


__どうしよう。今日はもう帰ろうか。


ダッフルコートにウールのマフラー、帽子、手袋で完全装備してきたが、こうしてコンクリの床の上に小一時間
も座っていればいい加減寒さが腹に凍みてくる。それにもうそろそろトイレにも行きたい。

少年は柔らかいクリーム色に塗られれた鉄製のドアをちらりと見上げた。この部屋の主が在宅していれば、今
頃自分はこの中で暖かいコーヒーでも手にしながら、彼女と向かい合っている筈だった。しかしこればかりは
しょうがない。不意を付いて訪ねてきたのは自分の方だ。彼女は何も知らない。すれ違ってしまったのは残念
だったが明日になればまた学校で会える。それにこうしてここで待っていた事実だけでも、彼女に話しかける
格好の糸口になる。このへんで退散しようと尻の下に敷いたカバンに手を伸ばしたとき、コンクリの廊下に響く
足音が近づいてきた。だが期待の眼差しで目を向けた少年は落胆で肩を落とした。やってきたのは細身で長
身の男だった。

男をやり過ごそうと俯いたままの少年の前に、光沢のある革靴の爪先が立ち止まった。


「何?アンタ」


少年は驚きに漏らしかけた声をようやっと呑み込んで、慌てて顔を上げた。男が外したサングラスを手にして
腰を屈めながら、自分を覗き込んでいた。


「何?オレんちになにか用?」


えっ、と今度こそ声を上げた。男を見て表札を見てまた男を見た。


「あの、ここは、うみの先生、の部屋だと思うんですが・・・」

「そうだけど?」


混乱する思考能力を立て直そうと少年は黙って男を眺めた。てかりのある黒いコートを羽織り、身体に貼り付
くように細いグレイのスーツの下には濃い紫のシャツを着込んでいる。だらしなくはだけた胸元には金のチェー
ンが光り、耳には見ていて気分が悪くなるほどのピアスがぶら下がっていた。
そしてなによりその髪の色は__どこでどう染めたらそんな色になるのか、不思議な程に眩く光る銀色だっ
た。


「へー懐かしい。そのカバン、アンタ木の葉の生徒?」


卒業生!?少年は男が指さした学校指定のカバンを胸に抱え直すと、信じられない面持ちで男を見た。自分
の高校は世間一般では結構な名門私立校で通っている。目の前のチンピラのような男がとても木の葉を卒業
した人間だとは思えなかった。今時場末のホストですらこんな悪趣味な格好はしない。


「先生なら夜まで帰らないよ。教員研修とやらで新宿にでてるから。」


彼女のスケジュールまで把握しているとはどういう事だ。信じたくないし信じられないが、この明らかにカタギ
でない男と彼女の間に何かつながりがあるのだろうか。


「アンタ名前は?」

「あ、あんたこそ誰だ」


少年は精一杯の威嚇を込めて睨み付けたが、男のフンという鼻息でいとも簡単に打ち落とされた。


「あのねぇ、こーいう時はまず目下のモンから名乗るのがスジでしょうが。それにアンタの名前知らなきゃあの
人に伝えられないでしょうよ。・・・まったく最近の木の葉は礼儀作法も教えてないのかねぇ。」

「う・・・内葉、佐助・・・です。」


見下した物言いには腹が立ったが、言っていることはもっともだった。少年は訳の分からない屈辱感に、男か
ら視線を外して答えた。


「さすけぇ!? 今時ぃ!? はははおもしれー、忍者みたいな名前ー。」

「そ、そういうあんたは誰なんだよ!チャカしてないでちゃんと答えろよ!」

「あーオレ?オレは、はたけカカシ。」


かかしぃ!?俺よりヘンな名前じゃねえか。人のこと散々笑いモノにしやがって、人間に付ける名前かよ。
男は佐助の内なる声が聞こえたかのようにニヤリと口角を上げたが、目だけが笑っていない。よく見れば男の
左目には、眉と瞼を縦に削ぐ様に引きつれた傷跡が這っている。その目がすうっと細められると、佐助の背に
得も言われぬ悪寒が走った。


「・・・あんた、先生と、どういう知り合いなんだ。」

「えーここで説明すんの?オレあの人に怒られっぱなしでさー、余計なこと言いたくないんだよね。悪いけど後
で先生に直接聞いてよ。」


男がスーツのポケットから鍵の束を取り出して一つをドアに差し込んだ。合い鍵。息を詰める視線に見せつけ
る様にゆっくりと廻すと、芝居がかった仕草で大きくドアを開けた。


「どうする?夜までそこで立ちんぼするの?それともオレと一緒に中で待つ?」

「・・・いい、です。帰ります。」


正直に言えばトイレを借りたかった。しかしそんなことは自分のプライドが許さない。佐助はカバンを肩に掛け
ると顔を背けて男の脇を過ぎた。目の端に映った男の薄い唇は嗤ったままだった。

一度も振り返ることなく通りに出ると、脇目も振らず走り出した。







「先生、うみの先生」

「あ、おはよう内葉君。今日もいい天気ね」


燦々と降り注ぐ朝の光にイルカの首筋の微かな産毛が金色に輝いていた。イルカは笑うと涙袋の横に、小さ
な笑い皺が出来る。佐助はそれを眺めるのが何より好きだった。ましてや自分の言葉に笑ってくれたのなら
尚更だ。


「・・・あの、ちょっと今いいですか?」

「何?どうしたの、何かあった?」


生徒達の笑い声や足音が遠くから反響する廊下の隅で、二人は顔を寄せ合った。


「あの・・・聞いてませんか?」

「え?」

「あの実は・・・俺、昨日先生の家に行ったんです」

「え」

「少し部屋の前で待ってたら、背の高い男の人が来て・・・ちょっとヤクザ風の」

「ええっ」

「その人に今日はもう夜まで帰ってこないって聞いたんで、そのまま帰ったんですけど・・・」

「えええっ」

「あの・・・先生、なにか困ったことになってませんか?もしそうだったら俺・・・出来るだけ力になりたいんで
す。だから、あの・・・」


爽やかな朝日のなかでイルカの顔は気の毒な程青ざめていた。抱えたプリントの束を握り締める拳が白くな
っている。


「あ・・・ゴメンね、内葉くん。昨日は学校の用事で、ちょっと出ていたものだから・・・だ、大丈夫よ、その、特に
キミが懸念するような事は・・・何もないの。ありがとう、心配してくれたのね。・・・・でもあの、ひとつお願いで
きるなら、できれば、その人のことは忘れて欲しいんだけど・・・いい?」


重々しく頷く佐助にイルカは泣きたくなった。カカシとどんな関係なのかと聞かないことが、この子の優しさな
のだ。年若い生徒に情けをかけられた事実に、羞恥で顔が上げられなかった。


「でもどうして急に家になんか・・・何か相談事?学校じゃ話せない?この間の模試だってすごく良い結果だっ
たし、成績のことなら問題ないと思うけど?」

「あ、違うんです、学校のことじゃなくて・・・実は兄が、近く仮釈放になるらしいんです。」

「ええっ!」

「出てくるのは一向に構わないんですが、どうやら兄は俺と一緒に生活したがってるようで・・・それだけは俺、
絶対に避けたいんです。でも俺はまだ未成年だし、両親はいないし、兄が親権・・・ていうのかどうか分からな
いですけど、そういうものを言い出してきたら俺は一体どうなるのかと思って・・・そんなようなことを、先生に相
談したかったんです。」


確かにそれは重大な出来事だ。佐助の兄は殺人及び傷害の罪で長期間服役していたが、それはただの殺
人ではない。犯罪史上空前の惨劇と言われた「津山三十人殺し」に準えるほどの大量殺人を犯したのだ。
日本中を震撼させた凶悪犯がなぜ極刑にも処されず、堂々と社会に復帰するのかと言えば、それは犯行当
時佐助の兄が十三才という若さだったからだ。少年法を知り尽くし、その裏をかいた犯罪に現行法が追いつ
かず、結果佐助の兄は長い時間を医療少年院で過ごした後少年院に移り、今回の決定に至ったようだった。


「そうだったの・・・確かにそれは大変だわ。色々な問題があるし・・・ごめんね、内葉君。私が先に気付いてあ
げなきゃいけないことなのに・・・言われて気が付くなんて、教師失格ね。」

「いえ、そんなことは無いです。俺の所にも、内々に連絡があっただけで・・・まだ詳しいことはよく分からない
んです。」


これは校長に相談したくらいのことで収まる問題ではない。あれだけセンセーショナルな騒動を巻き起こした
張本人が再び世に出るとなれば、マスコミも必ず動き出すに違いない。民生委員は及ばず、保護観察官、弁
護士にまで話を聞かなければならないだろう。警察に相談することも出てくるかも知れない。


「とにかく一度、きちんと話し合いましょう。出来るだけ早く日程を調整して、必ず日を作るから、少しだけ待っ
ててくれる?すぐに連絡するから。」

「はい。でも先生のご負担になりませんか。今の時期忙しいでしょう、無理はしないで欲しいんです。」


実は教師にも年末進行というものがある。佐助の洞察通り、唯でさえ猫の手も借りたい忙しさなのに、これ以
上面倒事を抱え込めば業務に支障をきたすどころか___カカシに何度も強請られ、しつこく念を押されてい
た約束を反故にしなければならないかも知れない。その反応を想像するだけで頭が痛かった。
しかし__イルカは佐助が入学してきた当時の荒んだ目つきを思い返していた。最近になってようやっと友人
にも恵まれ、年相応の笑顔を見せるようになってきたのだ。それに佐助は我が校始まって以来と言われる秀
才だ、有り余る才能をずるずると腐らせたままでいる元生徒とは訳が違う。今下手な動揺を与えれば受験だ
けでなく、将来にまで影響を与えかねない。それを考えれば、これから見舞われるだろう諸々の災難から、出
来るだけ守ってやりたかった。何より自分は__この子の担任なのだ。


「子供が大人に遠慮してどうするの。後は私達に任せて、キミはとにかく受験のことだけ考えてなさい。」


ね。と軽く腕を叩くと佐助は安堵の笑みを浮かべた。つられたイルカが笑みを返すと頭上で予鈴がなった。


「大変!もうこんな時間!遅れるわ、内葉君急いで!!」


自分に背を向けて教室に走り出したイルカについて行きながら、佐助はそのゴム紐で髪を括っただけのうなじ
に目を留めた。そこに先日同じクラスの山中いのがしていた様な、綺麗なバレッタを飾ってやりたかった。
__クリスマスに自分が贈ったらイルカは驚くだろうか。いや、イルカが訝るような行動は避けるべきだ。今は
まだ、そこまですべきではないし、その時期でもない。

イルカの背後にはたけのような男がいたことは、意外を通り越して驚愕だった。だがそれはもういい。いつまで
も後ろに拘っていては前に進めない。今までもそうして割り切ることには慣れてきたし、そうしないと生きて来
れなかった。イルカも大人の女だ、過去も幾つかあるだろう。それに処女性を求めるほど自分は子供じゃな
い。要はイルカを手に入れればいいのだ。計画は慎重、且つ迅速に。案の定自分が一歩引いてみせればイ
ルカは慌てて追ってきた。その性格を完全に把握している自分に満足を覚えながら、佐助は唇を歪めて静か
に笑った。


その死を願わない日は無いほどに憎悪してきた、実の兄。自分が物心つくかつかないかの時に起きた事件
のせいで顔など殆ど覚えていないし、知りたくもない。しかし今回佐助は生まれて初めて兄の存在に感謝し
た。イルカとの間合いをどう詰めようかと悩んでいた自分に、格好のきっかけを与えてくれたのは他ならぬ兄
だ。この取っ掛かりを絶対に無駄にはしたくない。何が何でもモノにしてみせる。


まず、とりあえずは__二人きりで逢ってからだ。












家に帰ると、そのヤクザが待っていた。しかしいつもと全く違うのは、やけに紳士的なその態度だ。今まで何
度も帰るなり寝室に引きずり込まれたり、酷いときは玄関先で押し倒すこともあるというのに、今日は機嫌良く
ニコニコと笑いながらイルカの鞄を受け取り、着替えまで手伝っている。


「今日はどうしたの?確か・・・」

「ああ、今日はね、予定を変えて下北の雀荘に行ったの。だからついでに寄ったんだけど。逢いたかったし。」


かつて無い豹変ぶりに薄気味悪さを覚えながら、問いたださなければならない質問をぶつけようとすると、カカ
シが先に口を開いた。


「昨日可愛い子ツバメちゃんがここの軒下で羽根を休めてたよ、ブルブル震えてさ。」

「・・・アナタ名乗ったんですって?思いやりってものがあるなら、知らないフリして欲しかったわ。」

「ええっ、酷いなー、オレ何にも喋ってないよ、ダンナですってよっぽど自己紹介したかったけどさー。これでも
気ィ使ったんだけどなー。」

「だっ・・・誰がっ、一体、誰の・・・っ」

「アハハハ、いいじゃん、いずれそうなるんだから。でもあのツバメちゃん、だいぶ切羽詰まった顔してたけど
何?なんか言ってた?」

「絶対そんなことにならないからっ!!それにあの子は今ちょっと大変なの、真面目な相談事で訪ねて来たん
だから変な言い方するのは止めて。」

「へー、そりゃまあいいけど、まさか二人きりで会ってくれとか言われてないよね」

「えっ」

「・・・・・・」

「・・・・・・」


突き刺さる沈黙と視線に耐えかねて、イルカは焦りと開き直りを綯い交ぜにしたような表情で口を開いた。


「へ・・・変な勘ぐりしないで。アナタに教える訳にはいかないけど、あの子には大変複雑な家庭の事情がある
の。だから出来るだけ手助けしてやりたいし、そうしなきゃいけないの。それが私の仕事なんだから。アナタが
心配するようなことは何もないんだから、口出ししないで。」

「ふーん、まぁいいや、そのことについてはメシでも喰いながらゆっくり話そうよ、先生の好きな寿司栄の折り
詰め買って来たからさ。あっ、その前に風呂に入りなよ、もう沸いてるよ。」

「ええっ!?」


ますますもって変だった。普段から無精な男の気の利かせように、気味が悪いのを通り越して恐怖すら感じ
る。


「先生この寒い中歩いてきて体冷えちゃったでしょ。今日は駅まで迎えに行けなかったから、そのお詫び。」


柔らかく抱き込んで何度か口付けるとようやく体の強張りがとれてきた。再び風呂を遣うよう促して優しく背中
を押すと、今度は素直に頷いて脱衣所に向かう。暫くして響いてきた水の音にカカシは忍び笑いを漏らした。

__チョロイなぁ、イルカ先生。

イルカはいつもそうだった。カカシにとってイルカの好物や風呂を用意するのは、結局イルカを美味しく頂くため
の一つの手段に過ぎない。なのにイルカは、人の好意は純度100%の砂糖で出来ていると、未だに思って
いるフシがある。そんな所は自分よりも子供だったし、そこがまた危うい魅力だった。


うちはさすけくん、ね


カカシは煙草の煙で濁った部屋の空気を入れ替えようと、窓を開けた。途端に冷たい風が吹き込んできて、
鉢植えの観葉植物とカカシの髪を揺らす。

まさかイルカがあの青臭いガキにどうこうされるとは思えないが、家庭の事情とやらを持ち出してイルカの気を
引こうとするあたり、ヤリ口が昔の自分にそっくりで気に入らない。まぁ、暫くは静かに監視を続けて、いざとな
ったら自分が出ていって直接話しをつけるだけだ。ハナタレ小僧のひとりやふたり、ちょいと凄んで見せれば
尻尾を巻いて逃げ出すに決まってる。なんせ昨日オレの姿を見たときだって、アイツはガタガタ震えてたじゃ
ないか。

一層強い風に煽られて窓を閉めると、カカシは寒さに震えて体をさすった。

そうだ、こんな所でバカ面晒してるなら、オレも一緒に風呂に入っちまおう。体もあったまるし、きれいになる
し、きもちよくなれるし一石三鳥。



カカシはその場で服を脱ぎ散らかしあっという間に全裸になると、鼻歌を歌いながら風呂場に向かった。




〈 了 〉





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