3年B組うみの先生



ぴゅうるり、ひゅるりと北風が吹く。

イルカは校舎の屋上で凍えながら吸う煙草が好きだ。
清冽な風に身を任せながら、有害物質を吸い込むパラドックス。吹き抜ける風がイルカの髪を舞い上げては高
く落とす。

「あ、いたいた、せんせー」


派手な足音と共に現れた生徒の姿にイルカは内心溜息をついた。あぁ、また面倒なヤツが。


「あらはたけ君、何か用?」

「相変わらずつれないなー、先生。オレ今日当番だったからこれ。」

「あ、ご苦労様。」


イルカは片手で日誌を受け取ると、傍らに立ったままの生徒には目もくれず煙草を吹かし続けた。


「うまそうだね、先生。オレも一本いい?」

「キミねえ、そんなに私をクビにしたいの。生徒に煙草を勧める教師が何処にいるのよ。」

「あっ、それいいね。先生が無職になったらオレが養ってやるよ、こんなとこソッコーで辞めてさ。ほら、オレっ
てイケメンだから水商売ならいくらでもクチがあるのよ。ホストなんか楽勝よ?」

「碌に勉強もせず女の尻ばかり追いかけ回し毛も生え揃ってないケツの青いガキに誰が」

「何いってんの、先生!オレ先生に惚れてからはキレイなもんよ?女とは全部切れたしエッチすらしてないし、
あっ!なんだ、先生見たかったの!?なら早く言ってよ、毛なんか立派に生えてるよ、ホラホラ」


カチャカチャとベルトを外す音にイルカは慌てて振り向いた。


「ちょっと、何してるの!だれもそんなこと頼んでないし、望んでません!!」

「なーんだ、遠慮しなくてもいいのに先生。」

「だから最初から遠慮なんかしてないって・・・あのねえ、はたけ君。そんなふざけたコトばっかり言ってる暇あ
ったら、真面目に進路の事も考えなさい。まだ志望校定まってないの、キミぐらいなものよ?来週の三者面
談、親御さんはいらっしゃるわね?」

「あー、無理無理。先生、オレはパス。先生と二者面談ってヤツだったらいつでもどこでもオッケーだけどさ。」


イルカはカカシの物言いに眉を顰めた。職員室で耳にした、カカシが殆ど家に寄りつかないという噂は本当な
のだと確信した。大方悪友の猿飛アスマの所にでも入り浸っているのだろう。


「はたけ君、キミのお家が少々複雑な事情を抱えているのは知ってるけど・・・でもね、我が子を愛さない親な
んてこの世にいないわ。もう少しご両親と話し合ってみたらどうなの?」

「へえ?先生でもそんな即物的な言い方するんだ?じゃあさ、この世に親殺し子殺し虐待がはびっこってんの
はどーいう訳?それに自分の欲望のために子供の人生利用しようってのは、愛って言わないんじゃないの?
悪いけどオレはガキの頃からそんなオメデタイ思いなんかしたこと無いね。オレの親にまともな価値観求めな
いで欲しいんだよね。最初から無理なものは無理なんだからさ、先生もいい加減あきらめてよ。」

「あのね、はたけ君・・・」

「ね、先生、愛ってなに?」


カカシがズイと身を乗り出してイルカに迫る。どうやら自分が安直に投げた言葉は、思いも掛けずかなりカカシ
を刺激してしまったらしい。カカシの背はイルカが見上げるほどに高い。もともと体格もいい上に十八といえば
見掛けはもう立派な大人だ。その身体から紛れもない男の匂いを漂わせながらこうして迫られると、イルカは
いつも本能的な恐怖を抱いた。


「ね、せんせい、頭の悪いオレに分かるように教えてよ、愛って何?せんせいは先生なんだからさ、教えるの
得意でしょ?」

「痛いところを突かれてマジギレするのは子供の証拠よ、はたけ君。」

「誤魔化さないでよ、先生。ちゃんとオレの質問に答えてよ。じゃないとここから帰さないよ。」


カカシは退路を断つようにイルカと昇降口の間に立った。イルカは内心の動揺を押し隠しながらきわめて平静
を装って、二本目の煙草に火を着けた。愛、愛ね。普遍的で通俗的で、手垢にまみれているようで、それでい
て一口に表現するのは難しい言葉。当たり前だ、100人の人間がいれば100通りの愛がある。その人間が
生きてきた時間、経験、嗜好、価値観、その他諸々の要因によって、それは様々に色や形を変える。辞書に
はなんて載っているんだろうか?慈しむこころ、とか。いたわり、とか。大事に思うこと、とか。じゃあ自分にとっ
ては?イルカは鉄柵にもたれ掛かると校庭の先に続く街並みと青い空に目を向けた。そこに片時も忘れなか
ったようでいて、久しく思い描くことの無かった面影が過ぎった気がした。


「・・・死んでもいいってことなんじゃないの?その人のためなら。」


不意に吹き付けていた冷たい風が止んで、背中に暖かい温もりが拡がる。カカシに後ろから抱き込まれてい
た。イルカの頭の上に顎を乗せて、廻した腕でイルカの肩を抱いていた。


「こうすれば寒くないでしょ、先生。」


さっきまでの剣呑な雰囲気は跡形もなく掻き消えて、まるで子供の様なあどけなさでイルカに甘えている。


「ありがとう、はたけ君、優しいのね。でも今私の背中に当たってる固いモノは何なのかしら。」

「あっ、バレた!?ほら、オレ先生に操を立ててから全然エッチしてないじゃない?だからもうタマっちゃって、
タマっちゃって、そんなんで先生のかわいい横顔見てたら思わず勃っちゃうってもんでしょ?あーホント、はや
くせんせにツッ込みた・・・・ア゛デッ!」


腹に肘鉄をくらってよろけるカカシを、イルカは眦をあげて睨み付けた。


「あのねっ!そんなことばっかり言って、最後に泣きを見るのは自分なのよ!?キミが思ってるほどセンター
試験は楽でも甘くもないんだからね、いい加減もう少し気を引き締めなさい!!」


足音荒く立ち去ろうとするイルカにカカシは追いすがった。


「あっ、先生待って!オレ先生に絶対言わなきゃいけないことあったんだよっ、だから待って!!」

「・・・えっ?」

「クリスマスだよ、クリスマス!オレ絶対ケーキもってせんせの部屋に行くからさ、だから何か美味しいもの用
意しておいてよ、先生の手料理!そんでもってご馳走を食べた後はさ、オレとせんせの二人だけのプライベー
ト・レッスンをさぁ・・・ってせんせー!聞いてるー!?」


振り向いた私がバカだった。鉄製の重い扉を力一杯叩きつけるとイルカはヒールの音を響かせて階段を降り
た。

やれば出来る子なのに、まったく。

あの年頃の子供は皆ホルモンのバランスも崩れ、体内代謝においては身体が作り替えられるといっても過言
でないほど激しい。だから精神の上がり下がりが激しくなるのも無理からぬことなのだ。カカシにしてもあのヘ
ラヘラ笑いの下に意外な程の繊細で神経質な心が潜んでいるのを、イルカは教師として把握している。思春
期の子供達と生活を共にし、指導していく毎日の中で、実はこうしてあからさまな好意をぶつけられることも珍
しいことではないのだ。自分はそれを上手くあしらう自信があったし、今までもそうしてきたつもりだった。

しかし、流石にさっきは緊張した。イルカに詰め寄ったカカシの表情は獲物を前にしたオオカミのそれだった。

もともと表情豊かな子ではあったが、最近はそれでは済まされない切羽詰まったものを抱えているような気が
する。如何にカカシが嫌がろうとも、担任としていずれは家庭の事情とやらに立ち入らねばならない日が来る
のだろう。

イルカは溜息を吐いた。でもその前に、とりあえずは。


クリスマスに、家に帰るのは絶対に止めよう。


響く足音がイルカを嗤うかのように跳ね返った。



〈 了 〉






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