東海覇王伝


第三巻


第廿五話

魔人・宇実太が太紗(たしゃ)を滅ぼしたこと

 さて、崇が東海帝王となって数日後、宰相・無血牙が謁見を願った。
「無血牙先生、お話とはなんですかな」
 崇雄子が玉座を降りて丁重に尋ねると、老導師は無表情に答えた。
「陛下の未来を占う時が来ました」
 無血牙は、懐より魔具・判原万番盤を取り出した。この希有なる羅盤は、既知世界の森羅万象を捉え、過去世・現世・来世の三世にわたる吉凶を占うという魔具である。崇は西域で無血牙を迎えたときに一度これを見てはいるが、改めて目にするとその雄大な存在感にただ圧倒されるのみであった。
「判原万番盤…火勢臥…風位多良…御簾者…御簾者…」
 無血牙は羅盤を床にしつらえると、歌うように呪文を唱えると、目を閉じて精神集中した。その様は、陶酔し、昏睡し、あるいは死んでいるようにさえ見えた。崇雄子はかたずを呑んで見守る。
 やがて、老人は目を閉じたまま小声でぽつりと云った。
「風が、吹いておる…」
導師の言葉に、崇は注意深く聞き入った。
「見える…。丘…、いや、崖の上に立った五人が…」
「彼らは何を?」
「待たれい、良く見えぬ…むむ…面妖な。片手を腰に当て…もう一方の手を、宙に泳がせるようにしておる」
「何かの儀式か」
「かもしれぬな」
「して、その意味は」
「むむ…むう。これは…」
「如何した?」
「森に…東方に剣気が…大いなる木の下に…やがて東海を覆う…」
「なんと!?」
 無血牙の予言に、崇雄子は大いに驚愕した。
「東方の森林といえば毛郡。そして大いなる木…たしか、毛郡の太紗は大樹の上に造られた都と聞く。そこで剣気が生ずるというのか…」
「かもしれぬな」
 無血牙は目を見開き、額に脂汗を垂らしながら同意した。
「剣気は帝王の覇業に徒なすもの。これは久方ぶりに強い予見であったわ」
「ぬう…毛郡か…」
 毛郡は越司の東にあり、南東道からは北東の位置にあったが、深い密林に覆われた多雨多湿の地域であり、崇雄子は特にこの地に関心はなかった。しかし、無血牙が毛郡の都・太紗がやがて東海統一の妨げになると予言したことから、崇は急に不安になり、一人の男を太紗に送り込んだのであった。

 毛郡の都、太紗。古の魔道によって創り出された巨大な菩提樹の上に広がる都市である。その幹は実に差し渡し八里とも十里とも謂われ、およそ十万の民がこの樹の上に暮らしていた。
 その日、太紗では月の市が開かれていた。月に一度の市場とあって、通りには露店が立ち並び、人々は群れ集って盛況な様子を見せていた。
 太紗の中央にある広場では、井戸から汲み上げた清水を使った冷し飴が好評であった。
 飴の露店の裏では、数名の女が次々に井戸から手桶に水を汲み、作った飴を冷やす作業が行われていた。両手に桶を持って井戸と露店を忙しく往復していた乙果なる女は、井戸に向かう途中で何者かにぶつかった。
 見ると、うす汚れたぼろ布のような外套を被った不気味な男である。
「ちょっと、あんたどこ見てんのよ。こっちは飴作りでとっても忙しいのよ、一言くらい謝ったらどうなの。ほら、黙ってつっ立ってないで、顔を見せなさいよ、あんた」
 女はだみ声でまくしたて、男は黙って被りを取った。
 露わになった男の顔を見て、女は手桶を捨てて悲鳴を上げる。その男の頭部は、あたかも緑色の蛸のようで、口元に当たる部分から生えた無数の触手がうごめいていた。
 そう、この悪魔のような男こそが、崇帝の送り込んだ魔人・于実太(うじつたい)であった。
「無流多層重、蒸々影入本」
 于実太は、おぞましい口から意味不明の言葉を発した。
「ひえええええ」
 乙果の悲鳴に、周囲の者たちも異常に気がつく。
「古田彫点、無羅漢輪于実太」
 于実太は再び意味不明の言葉を発した。もし古代劫語の知識を持つ者がいれば、それがこの忌まわしき魔人が、太紗の民に向け、嘲笑を込めて上げた名乗りであることが分かったであろう。
 それとほぼ同時に、井戸の方からも悲鳴が聞こえた。
「ば、化け物が! 井戸から!」
 井戸からは、人間の胴周りほどもある植物の蔓のような黄褐色のものが無数に伸び、辺りの人々を巻き取っていたのである。
 これは蛇骸門と呼ばれる悪魔の化身であり、于実太が地界より召喚したものであった。
「うわあああああ!」
「ひぎえええええ!」
 人々は次々に蛇骸門の蔓に絡め取られ、ずるずると井戸の中へと引き吊り込まれた。井戸の底では、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられていたことは想像に難くない。
 一方、于実太は、逃げ惑う人々に無差別に酸性の霧を吹きかけ、あるいは筋肉質の腕でなぎ倒しながら、「解流丹、別旋、歩流転」と唱え続けた。
 魔人と呼び出された悪魔により、数百の民があっという間に虐殺され、活気溢れる市場は一瞬にして血みどろの、阿鼻叫喚の生き地獄と化した。かくて、街に混乱が極まったときである。
「僧!影!亞!!!」
 于実太は天に向かい絶叫した。それは叫びというより、地響きを伴う唸りといった方が正しかったかもしれぬ。にわかに空はかき曇り、暗天より無数の雷条が大地を打った。やがて泥のような雨が轟々と降り注ぎ始め、美しかった樹上の街は、見る間に黒く汚されていった。
「影入本!」
 于実太は満足げな声を発し、蛇骸門はのたうち回ってこれに和したのである。
 黒い雨は三日三晩降り注ぎ、太紗の街は完全に泥に埋もれた。魔人らは街中を徘徊し、出会う者総てを皆殺しにした。無論、太紗の住人もただ手をこまねいていたわけではない。凶悪なる魔人を倒さんと、総監である《千里灯》の道龍や検卿の韋邦らが、方術と剣力の限りを尽くしてこれに挑んだ。半日に及ぶ死闘の末、何とか蛇骸門は討ち果たしたものの、今一歩のところで于実太は取り逃がした。
 かくて、太紗はたった一人の魔人により廃墟と化した。民の大半は泥に生き埋めになるか、蛇骸門に貪り食われていた。辛うじて生き残った者も、住処を追われ、着の身着のままで泥の上にただ泣き伏すしかなかったのである。
 崇帝はこの戦果にいたく満足し、帰還した于実太に贄として百と八人の幼子を与えた。また、無血牙の勧めに従い、毛郡を管轄する役所として大都察の下に毛戸県内殿を置き、西南道から武蓮遊天斎を呼び戻しこれに充てた。周辺数州を従える金城総督から見れば、この職は左遷とも思われたが、実は毛戸県内殿には広大な毛郡の産物の管理及び交易権が与えられており、働きによっては四道の王とも比肩すべき地位となりうる。これを聞かされた武蓮は、十万の兵をもって意気揚揚と毛郡に進撃したのであった。

* * * * *

第廿六話

死に損ないの化州、策を巡らすこと

 崇雄子が東海に覇を唱えてから数月が経ち、季節は初夏を迎えた。
 この間、強大な帝国に真向から歯向った勇敢な者たちもけして少くはなかったが、抵抗運動が統一されることはなく、散発的な蜂起と鎮圧が繰り返されるだけであった。
 ただ、このように強権を持って東海を制圧した帝国軍にも、どうしても手を出せない領分があった。
 一つは、強固な組織と巨大な利権を持ち、東海の交通を支配する《貿易公司》。
 もう一つは、力を窮め、俗世を超越する求道者の集団であり、鍛錬を積んだ精鋭を多数擁する武闘宗派《剣教会》。
 この二つのうち、《剣教会》は俗世の騒擾には無縁とばかり傍観を決め込んでいた。無論、その武力を試さんと、教会に属する多くの手錬が、崇軍・反崇軍問わずそれぞれ参加していたのである。
 一方の《貿易公司》の中では、大多数を占めるのは、「《公司》は政治不可侵」の原則を貫く中道派であったが、少数ながら、積極的に帝国に与すべしという和帝派と、崇雄子がいずれ強権をふるうようになる前に芽を摘むが上策と考える倒帝派もあった。
 公司巡航艇《風竜壇》の艇長、化玉州は公司内の派閥争いには無縁であったが、崇雄子の帝国には本能的に危険を嗅ぎ取っていた。この男、公司内では命知らずとして有名であり、よく名前を縮めて《死に損ないの》化州と呼ばれていた。
 化州は、定期巡航先である南東道の交易市、小屯湾に到着すると、すぐに公司支部広報班を訪ねた。
「どう思う」
 化州が声をかけたのは、広報班長の李応という男である。今でこそ巡航艇長と支部の広報班長だが、この二人はかつて公司本部の総務部渉外班、すなわち公司中央の情報機関で共に諜報活動に従事していた主任と班員であった。
「何がです」
「崇雄子の帝国だよ」
 化州は何を分かり切ったことを、という面持ちでかつての部下を眺めた。
「どうでしょう」
 李応はつまらなそうに新聞を広げながらため息をついて返した。
「主任はどう思ってるんです?」
 李応は、いまだに化州のことを主任と呼ぶ。それは、当時の渉外班の結束の堅さを物語っていた。
「どうって…別にどうもないさ」
「じゃ、めでたく意見は一致したということで。私はもう帰りますけど、主任はどうします?」
「おい、窓口を閉めるにゃ、半刻ばかし早いぜ」
 化州の手が、席を立って後ろを向いた李応の襟元を掴んで引き留めた。
「ははぁ、ばれましたか」
「当たり前だ。お前の手口はすべて知りつくしている」
 何を馬鹿なことを言っているんだと自分でも思いながら、化州は続ける。
「単刀直入にいこう。お前の掴んでいる情報が欲しい」
「それなら、本部行って定期報告を読んでくださいよ」
 李応の言葉は正しいようにも思える。公司総務部渉外班の班員は、外勤地に出向しても、本部に定期報告を出すのが半ば義務となっている。ありていにいえば、覇王界の各地に送り込まれた公司の密偵というわけだ。
 だが、李応は他の班員を遥かに上回る情報網を持ちながら、他の班員が送る情報の半分以下しか報告をよこさない。大半の情報は自分の判断で握り潰しているわけだ。本当に重要な情報はどうせ別筋から入ってくるんだから、わざわざ組織内で目立つような真似はしたくない、というのが李応の身上である。
「本部で掴んでない情報があるだろ」
「主任、私が怠慢だとでもいうんですか?」
「当たり前だ」
 受けて当然の指摘を受け、李応は一瞬沈黙する。
「…じゃ、知ってどうするんです?」
「さあな。何をするかは、お前の話を聞いてみないとわからない」
 化州はそこで言葉を切って、意味ありげににやりとした。
 李応はしびれを切らしたように口を開く。
「船に規定外の武器を積んでますね、主任」
「それが?」
 無表情で通す化州だが、内心では舌を巻いている。これだからこいつは扱いに困る。武器の積込みはごく一部の忠実な船員しか知らないことで、船は到着したばかり。どこからこの話を仕入れたのか。
「何をやらかすつもりですか」
「…さあな」
「教えてくださいよ」
「協力するか?」
「……」
 李応には二つの欠点がある。一つは、集めた情報を握り潰し、勝手気ままに好きなようにしか仕事をしないこと。そしてもう一つは、好奇心が過ぎ、何事にも首を突っ込み過ぎること。
「ま、協力するというなら、教えてやらんこともないが」
「……」
 しばらくの沈黙の後、李応は観念したように両手を上げた。
「わかりましたよ。主任にはかないません。その代わり、主任の企んでることを、全部教えてくださいよ」
「ああ。お前が知っていることを全部話したら、な」
 化州がとどめの一押しを加えると、李応は大きなため息をついて、小さくうなずいた。かくて、後に東海帝国を揺るがす陰謀が、ここに始まることになったのである。

 後に李応が言った言葉。
「泣く子と主任には勝てませんねえ」

* * * * *

第廿七話

老馬頭、西南道平定の軍を起こすこと

 さて、圧倒的な武力で東海のほぼ全域を制圧した崇雄子だったが、縫禅陥落以降、西南道には兵を向けていなかった。それというのも、この地は、他の地方と異なって、崇雄子が挙兵する前から群雄割拠の戦乱状態であり、統一勢力が現れて崇の覇業を妨げることはないが、これを平定するには相当の兵力を要することが見込まれたからである。
 だが、東海皇帝となった崇雄子の目は今や東海最後の未征服の領土に向けられていた。
 張魔王・斉東斎らが崇軍に加わり、座州総督・武蓮が電撃戦で金城、縫禅、銀庭の三城を陥としたことから、西南道東部数州は崇雄子の傘下に入ったが、なお西南道の諸勢力は未だ強兵をもって戦に明け暮れている。西南道では、もともとは張魔王を含む十九の諸公が覇権を争っていたのであるが、征服や合従連衡を繰り返し、近年では大きな四つの勢力がそれぞれ西南道王を称して分立する状態となっていた。ここに、老馬頭が五人目の西南道王として送り込まれたのである。
 崇雄子は、老馬頭に全道の速やかなる制圧を命じ、老は麾下の七将軍、兵三十万をもって西南道府・縫禅を出立した。

 まず、老馬頭は兵を南へと向けた。
 縫禅の南には毘沙州があり、ここは《奈落将軍》と称する黎蛇鳴が数万の兵をもって支配していた。この男、西南道四大勢力の一《小覇王》呉武林とは仲が悪く、銀庭と常に小競り合いを続けていたが、崇軍進駐後は様子見に徹して仕掛けて来ることはなかった。そこで、老馬頭は、配下七将軍のうち、上銀と参東に兵三万ずつを与えて帰順交渉を命じた。
 《奈落将軍》黎蛇鳴は、問答無用とばかり武力でこれを打ち破る構えを見せたが、自称口八丁の上銀は自ら黎の本陣を訪ね、これを口説きにかかった。
 敵将が単騎で交渉に現れたと聞き、黎は当初これを即刻捕えて斬首せんとしたが、話を聞いた後でも遅くはないと考え直し、陣内に招き入れたのである。
 上銀は、青い道服を身にまとい、顔立ちも整った書生風の若者であった。柔和な物腰と相まって上品な風格を備えており、いかめしい鉄刺鋼鎧に身を包んだ黎蛇鳴とは対極である。
「武人の誉れ高き将軍閣下にお目通りかなったことは、この上銀、願ってもない光栄にございます」
 上銀は丁重な礼を取ると、開口一番に切り出した。
「将軍閣下はこの毘沙州に覇を唱えておられますが、閣下はそれで満足しておられるでしょうか。否、虞れながらこの上銀の見立てでは、将軍の武威は猫の額の如き小さな領土を争うに非ず、より大きな戦において発揚さるべきもの。今、我が主老馬頭は三十万軍勢をもって西南道を統一せんとしておりますが、閣下もこの戦に旗を掲げて加われば、天下に名を轟かせ、ゆくゆくは西南道王に推挙されること間違いがないとお見受け致すところ。さらに聞けば、閣下は地界の陰気を奉じておられるとのこと。我らも閣下と同じく陰気を奉ずるもの故、ここで我らと将軍閣下が小さな争いを起こすことは、大三界において全くの無益ではないでしょうか。ここは一つ、大局を観て、我らと志を同じゅうせんことを申し奉りまする」
 上銀は時に身ぶり手ぶりを交えつつ、闊達な口調で概ねこのように論じ、黎蛇鳴を熱く口説いた。
 しかし、この饒舌を前にして、黎蛇鳴の心は動くことがなかった。冷酷なる奈落将軍は、即座に上銀を捉えるよう、傍らに控える参謀の宮水寧に命じた。上銀は忽ち土遁を借りて逃走を図ったが、同じく方術の心得がある宮水寧に術を破られ、あっけなく捉えられる。
「我は雄弁を好まぬ」
 黎蛇鳴は、手足を鉄鎖で縛られ跪く上銀を見下ろし、鉄兜の奥からかすれ声を発した。
「論は空虚なり、万事決するはこれ唯だ力のみ」
 黎蛇鳴はそう断じると、片手に握った大段平を無造作に振るい、一太刀で上銀の首を刎ねた。そして、上銀の首を拾い上げると、取り巻きの兵らに向かって放り投げ、槍に掲げて出撃するよう命じたのである。
 上銀が出立して半日、そろそろ日も傾きかけてきたころ、将軍の帰りを待つ上銀隊左翼の見張の目に土煙が映った。やがて、煙の合間から、血の如き赤い軍旗と軍槍を掲げる鉄鎧騎馬隊の影が見えるに至り、交渉の決裂が明らかになったのである。
 上銀の首級を軍槍の穂先に掲げ、地獄の雄叫びを上げて突撃する鉄鎧騎馬隊は、主を失って動揺を隠さない上銀隊に一気に躍りかかると見えたが、絶妙の時を見計らって側面から参東隊が横槍を入れた。勢いを殺された騎馬隊は、いったん退いて立て直しにかかり、上銀隊も背後の丘陵地へと後退して迎え撃つ構えを固めた。
 そのうちに夜闇が迫り、黎軍揮下の騎馬隊は丘陵地の手前で野営の準備を始めた。参東隊は夜討ちの是非も吟味したが、敵軍の様子が分からぬ内は自重した方がよかろうとの結論に達し、上銀隊と合流して野営した。
 さて、月が上天にかかった頃である。
 黎軍本営の不寝番がふと見上げると、陣の入口に立ててある軍槍に掲げたはずの上銀の首級が見当たらない。不寝番は慌てて辺りを捜したが見つからぬ。首を盗み出すには槍を降ろさねばならぬが、見張りをしていて気づかぬはずもない。不寝番は顔色蒼白になって当直士官に報告した。士官も慌てて本陣に忠進する。
 起きていたのか眠っていたのか、昼夜を問わず常に鉄鎧に身を包む黎蛇鳴は、一言も発さず、報告した士官を一瞥しただけで平手打ちした。地面に叩き付けられた士官は、首の骨を折って即死したのである。
「城へ戻り、上銀の死体を掘り起こせ」
 黎蛇鳴の命で早馬が飛ばされ、毘沙州守兵は、闇夜の中、城外の荒野に埋めた上銀の死体を掘り起こしに向かった。だが、そこで兵士らが見たのは、ただ土が掘り返されたような跡のみであった。埋められているはずの首なし死体は影も形もない。報告を受けた黎蛇鳴はひどく怒り、城から戻った伝令を斬り捨てたという。

 その頃、丘の上の本営天幕の中、一睡もせずじっと軍机を見つめている参東の前にひょっこりと姿を表したのは、上銀その人であった。
「いやはや酷い目に遭った」
 上銀は道服についた土を払い落としながら云った。
「まさか、あの御仁、一切聞く耳持たぬとは」
「だから云ったのだ、全軍をもって強攻せよと」  参東はにべもない。
「いやいや、そうも行かぬだろう、老馬頭様が交渉せよと命ぜられたのだし。しかし、全く収穫がなかったわけではないぞ。否、寧ろ、敵状を観るに稀有な機会を得たと云うべきかな。敵軍の内実も知れ、意義深長なるものがあった」
 上銀は自分の首を落とされたことを棚に上げて、饒舌に語り始める。
「兵のことはさておくとして、あの黎蛇鳴とやらは実に曲者だ。奈落将軍と名乗るだけのことはある、その身には地界の陰気を帯び、ただごとならぬ妖気を発していた。あの陰気は到底常人のものとは思えぬ。そうでなければ、この《無死子》の上銀がそう易々と捕えられなどせぬ。あれこそが世に云う魔人の類とやらか…」
「我らが二人で掛かればよかろう」
 参東は言葉少なに応じた。
「いやいや、そうも行かぬ。確かに、対手が黎蛇鳴一騎であれば、貴卿とこの上銀とで掛かれば何とかなるかも知れぬ。否、きっとそうであろう。だが、奴の副官の宮水寧とやら、これがまた曲者で、熟達した方術の使い手だ。片田舎の左道使いに非ず、呪力は我が軍魔道顧問に匹敵する、いや、ことによってはそれ以上ではないかと思われる。それに黎蛇鳴の剣力も相当のもの、大人が二人掛かりでようやく持ち上がるような大太刀を片手で易々と操り、かなり手強い敵になるはずだ。しかして、あの二人が連携して掛かってきたならば、たとい将軍と私であっても、勝利はおぼつかないやに見受けられる」
「では、どう攻める」
 参東は顔を上げ、灰褐色の軍套の被りの下から上銀を見つめた。常人離れした緑灰色の顔に、これまた人外の紅い目玉をしている。この化け物じみた巨漢の将軍は、《覇道蕃虫》という字をもって知られていた。
「そうだ、ここは一つ大霊主殿の手を借りるというのはどうか。大霊主殿の通力ならば、かの魔人と副官を抑えられるはず。敵軍攻略の道筋もきっちりと付くというものだ。我ながら妙案と思うが、貴卿の考えは如何」
 大霊主の名を聞いて、参東はちっと舌打ちをした。
「あれに頼らざるを得んか。やむを得んが、お主がそこまで云うなら、そうだろう」
「確かに、あの御仁に借りを作るのはいささか気が進まぬところだが、このまま敗走するよりは幾分ましだ。そうと決まれば早速伝令を飛ばそう」
 上銀は老馬頭の本隊に従う大霊主に当てて一筆したため、早馬を飛ばした。

 翌朝、黎蛇鳴は鉄鎧騎馬隊に出撃の号令を掛け、自ら先陣を切って突撃した。迎え撃つ上銀・参東軍は、鶴翼の陣を敷く。騎馬隊は、まず敵陣右翼の上銀隊本陣を目指し丘を駆け上った。
 上銀隊は疎らに弓矢を射掛けたが、重装備の鉄鎧騎馬隊に対しては威力不足である。騎馬隊は一糸乱れず整然と、勢いを失わず一気に丘頂に達した。
 黎蛇鳴は、敵軍の将旗を認めると、これを目指して強攻した。急ごしらえの木柵と、それを守備する歩兵隊を蹴散らし、鉄鎧騎馬隊は敵陣へと侵入する。黎蛇鳴は、当たるを構わず大段平を振るい、忽ちに数十の敵兵を斬り倒した。後に続く鉄鎧騎馬兵も口々に怒声を上げ、手にした鉄槍で敵兵を次々に串刺しにしてゆく。
 破竹の勢いで進撃していた黎軍の中で、異変をいち早く察したのは、副官の宮水寧であった。宮水寧は、得手とする風水の技を用いて敵を翻弄し、騎馬隊をよく補佐していたが、ふと、その耳に忌まわしき風を捉えたのである。
「閣下、お気をつけなさいませ。敵方に吹く風が淀んでおります」
 宮水寧は忠告を発したが、黎蛇鳴は聞く耳を持たなかった。
「将が彼の程度なれば、兵、恐るるに足らず」
 それでもなお宮水寧は、態勢を整えるべく一旦退くことを強く勧めたが、黎蛇鳴は久々の戦果に上機嫌であり、警告を無視して敵本陣の制圧を進めた。抵抗らしき抵抗もなく本陣天幕までたどり着いた黎蛇鳴は、騎馬のまま天幕内へ突撃した。
 天幕の中はがらんとしており、中には人の気配がなかった。上銀め、かなわぬとみて逃げ出したか、と舌打ちし、早速部下に捜索を命じようとした黎蛇鳴は、そこで初めて、将机の向こう側に黒づくめの男が立っていることに気付いた。長身を覆う黒衣、のっぺりとした黒象牙らしき仮面を着け、錆付いた青銅冠を頂いている。男が微動だにせず余りに生気がないため、人形かと疑った黎蛇鳴は、大段平を構えたまま男に近づいた。
「名を名乗れ。応えぬなら斬るぞ」
「将軍、そやつに近づいてはなりませぬ」
 天幕の入り口で宮水寧が警告を発したが、黎蛇鳴は黒仮面に詰めより、手にした大段平でいきなり斬り付けた。
 手ごたえがない。まるで、布を斬り付けたようだ。
「貴様、何者だ」
 黎蛇鳴は怒りに任せて黒仮面の胸ぐらを掴んだ。だが、藁で出来た案山子を引っ張っているかのように、やはり手ごたえというものが全くない。
「己れ、正体を現せい」
 黎蛇鳴は暗い怒気を含んだ声で唸る。
「我は、大霊主」
 黒仮面は、幽かな声を発した。それは、耳ではなく全身に染み渡るような、ぞっとしない声であった。流石の黎蛇鳴もたじろいだが、負けじとばかりに大音声を上げ、大段平を振りかざす。
 大霊主は、黙って黒衣を撥ね除けた。が、胴体のあるべき部分には何もない。
 それは、一言で言えば虚無であった。
 斬りつけた筈の黎蛇鳴の大段平は跡形もなく消え失せ、次いで、黎蛇鳴自身が、黒衣の下に広がる底知れぬ闇へと瞬時に引きずり込まれていった。
 宮水寧は黎蛇鳴の最期を見て、これはかなわぬと悟り脱出を図ったが、待ち受けていた上銀らに捕えられ、前日に上銀がされたように、斬首され、首級を掲げられた。黎蛇鳴の兵は、将軍の死を知ると呪縛が解けたように次々に投降し、老馬頭は毘沙州をあっけなく押さえたのである。

* * * * *

第廿八話

老馬頭、大玉氏を討つこと

 さて、銀庭城から毘沙州を経て南に二百里には施南海という湖があり、その湖畔には廃都・紅夢があった。ここはかつて造馬便なる妖術師が築いた都であり、北西道の窟竜府と並ぶ壮大な迷宮都市として知られたが、造馬便の死後、しばらくして放棄されたと伝えられる。
 しかして、十数年ほど前から大玉氏なる賊がここを根城とし、賀要や泥野などの貿易港を襲っては手下を増やし勢力を広げると、公称十万の兵を擁しいつしか西南道王を名乗った。周辺郷勇・豪族はこれに対し討伐の兵を起こしたが、施南海の周囲十里は広大な湿地であり、云わば天然の罠となっていたこともあり、大玉氏を討つことは叶わなかった。その後、大玉氏一派は、施南海を根城とすることから《水の軍》と呼ばれ、南海沿岸にまで出兵して権勢を誇った。
 老馬頭は、西南道王を僭称する大玉氏を討つため、七将軍のうち賀琉と羅禎等にそれぞれ五万の兵を与えて先鋒とし、自身を後詰めとし、十万の兵を率いて当たることとした。対する大玉氏は、自ら天然の罠と頼む施南海の地形に頼り、廃都・紅夢に立て篭った。
 そこで老馬頭は一計を案じ、羅禎等の先鋒第二隊に正面からの突破を命じつつ、賀琉の先鋒第一隊には後背の山を越え紅夢を急襲するよう命じた。足場の悪い施南海への進軍は困難を極めたが、大玉氏側は攻勢に出なかったため、羅禎等の第二隊は三日三晩をかけ紅夢の防壁まで到達した。
 大玉氏は、施南海を抜かれたと知るや、東南西北の四軍団長に命じて守りを固め、今度は紅夢内部の迷宮に頼った。
 ここで第二隊を苦しめたのは、落とし穴や落石といった迷宮に仕掛けられた数々の罠である。例えば、兵が急勾配の通路を下っていくと、突然背後から巨大な岩が転がってくる。慌てて前方に必死で走ると、そこには鋼の線が張られており、ある者はこれに手足を落とされ、ある者は首を刎ねられ、またある者は岩に押し潰された。
 漠熊、王九、甫武、向彫土の四軍団長は、当初、仕掛け罠に頼って積極的に打って出なかった。しかし、羅禎等の第二隊が手こずっている間に、賀琉率いる第一隊が山越えを果たし背後から紅夢に侵攻するに至り、各軍団は個々に応戦せざるを得ない状況に追い込まれたのである。
 まずは北将・向彫土率いる短槍軍団が第一隊との戦端を開いたものの、一刻も経たぬ内に蹴散らされて潰走した。向軍団は頭数こそ数万あったが士気も上がらず武装も貧弱で、そもそもが後詰めとして紅夢の山側に配置されていたのである。賀琉は「きゃんきゃんと良く鳴いて、噛ませ犬、というより単に負け犬」だと嘲った。
 次に、南将・王九率いる歩兵軍団が、紅夢の中心広場で賀琉率いる第一隊と遭遇した。この軍団は頭数も多く、王九自ら陣頭で指揮に当たってそこそこ士気も高かったため、しばしの間よく持ち堪えた。そこで賀琉は、側近らを率いて自らも前線へと躍り出た。
 敵将の姿を認めた王九は、勇んで名乗り上げる。
「我が名は王九!」
 賀琉は、老馬頭の七将軍でも唯一、崇帝から魔道顧問に指名された屈指の方術の使い手であり、老軍内部においては《魔術王》の異名を取る。それだけでなく、賀琉は剣聖・劉南道を開祖とする無限剣の遣い手であり、剣術にかけても老軍で一、二を争う達人と云われていたのであった。
 銀の長髪をなびかせ、灰の外套を翻して軍の先頭に立った賀琉は、すらりと剣を抜き放つや敵将を挑発した。
「来いよ、王九。楽しませてくれ」
 王九は丸々超えた豚のような短躯であったが、見掛けによらず俊敏で器用であった。そして、何より非常に短気であった。
 挑発に応じた王九は、背負っていた剣を抜き猛然と突進した。賀琉は鋭い当たりをひらりとかわす。左手の剣で三、四合ほど打ち合った後、賀琉はこう云い放った。
「戦士の戦い方を見せてやろう」
 王九は意にも介さず、素早い剣裁きで賀琉を攻め立てた。防戦一方と見えた賀琉であったが、無限剣を繰り出す気配はない。もとより、格下の相手に真っ向から遣り合うつもりなどなかったのである。賀琉は、わざと隙を見せて王九を誘いこむと、低い小声で二言三言囁く。そして、剣を振りかぶった王九に向け、右手を突き出して叫んだ。
「真発離塔!」
 刹那、轟音とともに激しい炎の渦が巻き起こって王九の躰を包み込んだ。王九は、断末魔の叫びを上げる間もなく業火に焼き尽くされたのであった。
 将軍の凄惨な死を目の当りにして、王九軍団は雪崩を打って投降した。これこそが賀琉の狙いだったのである。

 その頃、羅禎等の第二隊も、多数の罠が仕掛けられた迷宮正面をようやく突破し紅夢の中心部に攻め込んでいた。こちらの守兵として配置されていたのは、東将・漠熊の重歩兵軍団である。この軍団は兵数一万足らずではあったが、体格が良く修練を積んだ選りすぐりの精兵揃いであり、段差や狭い門など徹底的に地の利を生かして守備したため、第二隊は想定外の苦戦を強いられた。
 そこで、羅禎等は配下の炎虎に命じ、敵将の暗殺を図った。炎虎は、武蓮揮下の座州軍に属していた間者だが、老馬頭が西南道王に封ぜられたことを受け、老軍に加わったものである。
 炎虎は、持ち前の身の軽さを生かして幾つかの防壁を乗り越え、漠熊軍団の守備隊最後尾に回り込み、素知らぬ顔をして兵列に加わった。
「お前、見たことのない顔だな。新入りか?」
 漠熊軍団の兵に問われた炎虎は、肯いて答えた。
「ああ、そうだよ」
「その格好、うちの軍団じゃないな。どこの軍団の所属だ?」
「超虎軍団だよ」
 炎虎はとっさにでまかせを言った。
「超虎? 聞いたことがないな」
「そりゃそうさ、つい最近、大玉様に雇われた新しい将軍だからな」
「そうか、道理で聞いた名前じゃあないと思った」
「だろうな。ところで、ちょっとこっちへ来てくれないか」
 炎虎は、手招きをして兵を物陰に誘い出すと、隠し持っていた短刀を喉元に突き付け、低い声で脅しをかけた。
「お前らの将軍はどこだ、言わないと、このぼうぼうに生えた髭をすべて抜き取るぞ」
「はあ?」
 敵兵は馬鹿にしたような声で答えた。
「何者だか知らんが、俺が大声を上げれば、仲間が集まってきて貴様なんかあっという間に殺されるぞ」
 余裕を見せる敵兵に、炎虎もかっと血が上った。手にした短刀で、一気に片耳をざっくりと切り落とす。これには堪らず、敵兵は呻き声を上げた。
「次はもう一方の耳、その次は鼻だ」
 どすの効いた声で脅しをかける炎虎に、兵は震えあがってぺらぺらと漠熊の居場所から兵の配置までを答える。
 炎虎は、兵から外套を取り上げ、縛り上げて路地の奥に転がすと、奪った外套を羽織って何食わぬ顔で軍団内部に潜入した。
 その間、漠熊軍団は、防壁と罠を巧みに用い、羅禎等の兵を良く凌いでいた。将軍である漠熊は、名の通り熊のような大男であったが、細やかな戦術にも長けていると見えた。
 炎虎は、前線からの伝令の振りをして漠熊に近づくや、突如踊り掛かって敵将の足をしたたかに殴り付けた。
「何をする?!」
 驚きよろめく漠熊に、炎虎はすかさず当て身を食らわし、堪らず転げた漠熊の手足を押さえ込もうとした。
 ところが、そこまでは良かったが、漠熊は錬手林派の捕縛術の達人である。忽ち形勢逆転し、返って炎虎の手足を固めに掛かる。慌てて炎虎は手刀を突くが、あっさり撥ね除けられてしまった。
 やむを得ず、炎虎は奥の手を使うことにした。漠熊の肘を捻って押さえ込みから脱すると、蜻蛉返りで間合いを開け、突然、正座して地面に頭を付ける。
「将軍、わしが悪かった、この通りだ。わしの名は超虎、先日大玉様に雇われた者だ。急ぎ将軍に加勢するよう大玉様から言い遣ったものの、つい将軍の偉容を見て、悪い癖で力比べをしたくなってしまったのだ」
 漠熊は、土下座する炎虎を見ていぶかしんだが、確かに、暗殺者ならば素手で挑むはずはなく、剣や暗器を使うはず。それに、良く見れば、相手は軍標の着いた外套を身に付けている。武人を貴ぶ豪傑肌の漠熊は、戦場の混乱も手伝って、うっかりこのでまかせを信じてしまったのである。
「ばか者め、この一大事に力比べとは何事だ。この戦が終われば相手をしてやらんでもないが、まずは賊を退けてからだ。節をわきまえい」
 漠熊は、呆れた顔をしながらもこう罵るだけで矛を収めた。しかし、いきなり不意討ちを食らって倒された屈辱は抜け切らず、去り際に土下座する炎虎に向かって唾を吐きかけた。炎虎はなおも土下座を続け、漠熊が立ち去るまで身動きしなかった。
 漠熊が立ち去ったのを確認すると、炎虎はにやりとほくそ笑んだ。
「ばかめ、ひっかかったのは貴様だ」
 とは云うものの、暗殺の絶好の機会は逸したし、さりとて手ぶらで戻るわけにも行かない。ならばと、炎虎は漠熊軍団の兵站を狙った。幸い、漠熊を探す途中で、倉庫の目星は付けてある。
 大玉氏からの伝令の振りをした炎虎は、倉庫番の兵士らをせきたてた。
「お前ら早くしろ、大玉氏様は戦勝祝賀の準備で酒をご所望だ。百樽、いや、ありったけ全部酒を出せ」
 倉庫番の兵士らは前線の様子をよく知らされていなかったから、敵軍が撃退されつつあるものと信じ、炎虎の指示に従って酒樽を転がした。
「早く、中央広場へ持っていくんだ」
 倉庫から数百樽の酒を運び出させると、炎虎は突然酒樽に火を放った。酒樽は爆発しながら燃え広がり、あっという間に辺り一面は火の海となる。慌てふためく倉庫番らを蹴り倒し、炎虎は何食わぬ顔で前線に舞い戻った。
「大変ですぞ、背後に火がかけられております」
 退路が絶たれたと知って、さしもの漠熊軍団にも動揺が走った。炎虎は、あちこち駆け回っては噂を囁いて混乱を煽った。
「どうやら、西の方に内応者がいた模様でございます」
「ええい、甫武めか!」
 漠熊は、偽の情報を信じて西将・甫武が裏切ったものと早とちりした。さりとて漠熊軍団は敵軍の侵攻を凌ぐのに手いっぱいである。背後に火の手も迫っており、早めに消火活動に当たらないと、炎と敵の挟み討ちにあうおそれが強い。こうなったら一か八か、敵軍を一気に押し返して、返す刀で内応者を斬るしかない。
「総員攻撃に出よ」
 漠熊はそう命じて、自ら陣頭に立った。そこへ、件の超虎がひょっこり顔を出す。
「やい漠熊、先ほどはよくも俺様に恥をかかせてくれたな」
 罵る超虎こと炎虎に、漠熊はまたもや困惑する。
「何を考えておるのだ、邪魔をするな」
「貴様がいい加減強情だから火なんぞ着けられたんだ。邪魔なのは貴様の方だ、今度は容赦せんぞ」
 むちゃくちゃな言いがかりを付けて、炎虎は漠熊に飛びかかった。漠熊は手にした鉄棍で応戦するが、今度は炎虎も最初から本気である。ぐおおうと一声吠えると、忽ちその身は虎と化した。漠熊は驚いて鉄棍で受け止めようとするが、虎の一撃で弾き飛ばされる。ならばと錬手林の妙技を繰り出し、虎の首根っこを押さえつけようとするが、流石に猛り狂う虎を力づくで押さえるまでには至らない。頬にざっくりと爪傷を負った。
 これはかなわぬと見た漠熊は、虎の顔面に蹴りを入れると見せて後方に跳躍し、間合いを取ろうとするが、虎の方が一歩早く地を蹴っていた。漠熊の背後に音もなく着地すると、再び顔面に鋭い爪を食らわす。さしもの漠熊も、顔を手で押さえ呻きながら倒れた。
 ここで、将軍を助けようと側近の数名が五、六本の矢を射かけたが、虎は後ろ脚で立ち上がり前脚で次々に矢を叩き落とす。そして、最後の一本を掴み取ると、飛んできたのと同じ勢いで投げ返した。これが一人の脳天に命中し、どうと倒れる。兵らがたじろいだ隙に、虎は倒れた獏熊の首をくわえ、ひらりと迷宮の壁に飛び上がった。ちらりと漠熊軍団の方を眺めると、挨拶代わりに尻尾を振ってそのまま行方をくらましたのである。
 頭を失った軍団は混乱に陥り、攻め立てる敵兵と背後の炎とに挟まれ、一刻と立たず総崩れとなったのであった。

* * * * *

 さて、賀琉率いる第一隊は、敵陣に火の手が上がるのを見て、更に攻勢を強めた。西将・甫武は敵勢に恐れをなして迎撃すらせず、大玉氏の陣取る玉宮に参じて脱出の計画を練った。しかし、そうこうしている内に東将・漠熊戦死の報が伝わり、玉宮前も俄然慌ただしさを増す。甫武はやむなく陣頭指揮に戻るが、そのとき既に賀琉隊が玉宮前に攻め入っていた。
「大玉様、いけません。敵が既に御前に」
 甫武は玉宮内に駆け戻って告げたが、背後から何本かの矢を受け、その場に倒れた。続いて、抜き身の剣をひっ下げた賀琉自らが先頭に立って玉宮に踊り込み、玉座に腰かけた大玉氏にひらりと斬りかかる。大玉氏はおっとり刀でこれに応じたが、四方から奪い取った富で贅を尽くし奢悦に浸る生活を送っていた大玉氏はぶくぶくと肥え太り、腕も鈍っていて、賀琉の鋭い剣撃を凌ぐことは至難であった。しかも対手は東洲無限流の名うての遣い手、変幻自在の剣裁きに翻弄され、数合も打ち合わぬうちに胸板を深々と刺し貫かれる。
「己れ、己れいッ。礼竜主さえここに居れば…!」
 大玉氏はそう叫ぶと絶命した。礼竜主は流れの道士で、いっとき大玉氏に仕えていたが、大玉氏が余りに道を軽んずるためこの地を去ったとされる。
 かくて、廃都紅夢と施南海の周辺は、老馬頭の支配下に落ちたのであった。

* * * * *

第廿九話

老馬頭、南海沿岸を攻めること

 大玉氏を下し、西南道の東南諸州をほぼ掌中に収めた老馬頭は、南海を臨む港町である賀要、泥野の二市を攻めた。これらの港町は南海交易の要であり、ここを支配することは南海を押さえることにつながるからである。
 上銀、参東の二将が攻めた賀要では、市舶司の范定柳に従う道士・寂丹臼が火術を用いて抗したが、ここで上銀が口先巧みに交渉を持ち掛け、范に対し引き続き賀要の治権を認める代わりに、兵の駐屯を認めること、兵糧を定期的に崇軍に納めることで合意に至り、老馬頭の軍門に下った。
 一方、羅禎等が攻めた泥野では、太師・泰康則(たい・こうそく)が兵を率いてよく戦い、部将の岳安国(がく・あんこく)の奮闘もあって、戦線は膠着していた。
 羅は、大玉氏で苦戦した失敗を繰り返さぬよう、今度は自らが先頭に立って、得意の呪法によりこれを攻めることとした。
 岳安国は、自ら精鋭を率い、泥野城の正門を固めていた。羅は、正門から七里の距離を取って、数日間じっと時を待ち続けた。
 数日後、空がにわかにかき曇り、雨が振り出したのを合図に、羅は単身で敵陣に向かって歩き始めた。やがて、黒衣をまとった羅の全身からもうもうと濃い霧が湧き出し、霧は泥野の正門付近をすっぽりと覆った。
「ひどい霧になってきたのう」
 岳は、副官の方桐(ほう・とう)に語りかけた。
「はい、何となしに嫌な予感がします」
 方桐は霧を見透かすようにじっと敵陣の方角を見据えた。
「五里霧中とはこのことじゃ。これでは、敵も迂闊に動けまい」
「そうだとよいのですが」
「しかしこれは本当にひどい、一歩離れれば、方桐、お主の顔すら見えんのう」
 岳は、数歩先に歩き、振り返って云ったが、方桐の答えがなかったので、さらに数歩進んだ。
「方桐?」
 岳は、幾ばくかの不安を覚え、もう一度副官の名を呼んだ。だが、やはり答えはない。
 辺りは沈と静まり返り、そこはかとなく陰鬱な気配が立ちこめていた。
 そこへ、一体の人影がぬぅっと姿を現した。方桐かと近づく岳であったが、その顔を見て仰天する。生気のない、青ざめた蝋人形のような顔である。うつろな目は見開かれ、口はだらしなく開いていた。片手には刀を下げている。
「僵尸か!」
 岳はさっと身構え、腰の刀に手をやった。生ける死体、僵尸は、道を外れた左道遣いが生み出す僕である。死体は無論死ぬことがないため、荷物運びなどの重労働に用いられていた。
「ええい、いつの間に。この銘刀《死斬》で切り捨ててくれよう」
 岳が気合とともに袈裟切りに切り掛かると、僵尸はやおら手にした刀で応戦し、これを受け止めた。
「僵尸のくせに、いっぱしに刀を使いおる!」
 岳は舌を巻いた。普通、僵尸は動きも鈍重で、武器を使えるほど器用ではない。しかも、岳は剣の腕に覚えがある。生半可な武芸者では、その太刀筋を受け止めることはかなわぬはずだ。
「方桐、方桐はいずこに?!」
 岳は叫んだが、応える声はない。仕方なく目の前の僵尸相手に数合切り結ぶが、巧みな剣裁きに攻めあぐねる。

* * * * *

「岳将軍!」
 方桐は、深い霧をかき分けて岳安国の姿を探した。つい先ほどまで目の前を歩いていたはずの将軍が見当たらぬのである。
 そのとき、奇怪なことに、霧の向こうから一体の僵尸が現れたではないか。この僵尸は、元は兵士だったのであろう。ぼろぼろになった鎧を着け、錆び付いた刀を手にしている。
 方桐は即座に腰に帯びた刀を抜いた。岳の元で軍師まがいを務めているが、刀を取れば天牙一刀流の遣い手である。
 僵尸は、ごぼごぼという音を立てて、手にした刀で切り掛かってきた。僵尸にしては鋭い太刀筋である。方桐は不意を打たれたが、なんとかこれを受け流した。僵尸はさらに唸り声とも泣き声ともつかぬ不気味な叫びを発しつつ、刀を振り上げる。方桐はこれに応じて数合切り結んだが、なかなかどうして隙のない剣撃に内心驚嘆を禁じ得ぬ。これはただの僵尸ではあるまい。
 さらに数合撃ち合ったところで、方桐はますます疑心を強くした。これほどに剣の扱いに長けた僵尸が居ようはずがない。しかも、この太刀筋はどこかで見た覚えがある。
 さては。
 方桐はいったん退いて目を閉じ、一喝して心眼を見開いた。
 するとやはり、そこに立っていたのは、僵尸ではなく岳将軍その人である。
「おのれ、幻術か!」
 しかし、自らは術を破ったものの、岳将軍はまだ敵の術中に落ちたままである。方桐は、岳の剣撃を巧みに受け裁きながら、なんとか将軍の正気を取り戻そうと苦心するが、岳は猛り狂う一方なのだ。
「僵尸が、我が剣を受け流しよる!」
 やむなく、方桐は秘術を繰り出す。天牙一刀流・大上段からの猛攻と見せて、岳が守りのため刀を掲げた隙を見計らい、突進して当て身を食らわしたのである。
 幻術で感覚も鈍っていた岳は、咄嗟の動きを避け切れず、鳩尾にしたたか食らって気を失い倒れる。
 ふう、と汗を拭う方桐。しかし、すぐに現実に思いを巡らせる。
 将軍や、自分ですら術中に落ちたほどである。兵らはどうなっているだろうか。
 岳将軍を抱えて泥野の城内に急ぐ方桐だが、既に城門付近のそこかしこで兵らが倒れている。立っているものもほとんどは幻術に落ちて正気を失い、目も虚ろに同士討ちを演じている。
「これはいかん。将軍、岳将軍」
 岳将軍を揺さぶり起こそうとする方桐だが、背後からどっと鬨の声が沸き起こる。とうとう本格的な敵襲が始まったのである。
 兵らが完全に統率を失った状態では、この戦、勝てるはずがない。否、既に我方は負けている。
 方桐は瞬時にそれを見て取り、将軍を抱えたまま、泥野城とは反対の方向へと逃げ落ちたのであった。

 かくて、泥野城は戦らしき戦なくして落城した。太師・泰康則だけは、幻術に惑わされずこれに抗したが、羅禎等の呪法に四肢を蝕まれ、最後は攻城兵の松脂弾に全身を焼かれて、敵を罵りながら死んでいったという。

* * * * *

第三十話

象鳩、無民谷にて無民に苦しめられること

 今や西南道の東部を制圧した老馬頭は、旗下の七将軍を数隊に分け、西南道中部の盆地を目指し兵を進めた。泥野城から北西に上ると、のどかな田園地帯から徐々に山がちとなり、やがて道は荒涼とした谷に入る。
「どうも嫌な予感がする」
 白馬に乗った老馬頭は、端正な顔をしかめ、側に控える七将軍の一、《死神児》の瘋悪に尋ねた。白の短髪、白衫を羽織った偉丈夫は、身を低くして主の言葉を聞く。
「この地形、左右の尾根から襲撃を受ければひとたまりもない。山賊でも潜んではいまいか?」
 瘋悪は丁重に一礼して応えた。
「この辺りで、山賊の噂は聞いておりません。地元では、ここは、無民谷、と呼ばれているそうです」
「無民谷、か。怪しからん名前だな」
 老馬頭が思案を巡らせていると、瘋悪は付け加えるように云った。
「ただ、気掛かりがあるとすれば、泥野商人らは、この道を使わなくなって久しいということ。打ち続く戦乱のせいとはいえ、まったく交易を閉ざすからには、何らかの理由があって然るべきかと」
「しかし、我が軍を足留めるほどの脅威はなしと見てよいな」
 老馬頭の問いに、瘋悪は一瞬たじろぎを見せた。咳払い一つして応える。
「もし御意であれば、《視透球》を用い、未来世を垣間見ても構いませぬが」
 《視透球》(ジェ・イムズ)は、未来世を映し出す稀有なる水晶球であり、過去世と現世を見通す《天眼晶》と一対をなす魔具である。これは、宰相・無血牙の有する《判原万番盤》に匹敵する力を具していると云っても過言ではない。
「いや、そこまでする必要はなかろう。将軍の魔具は、もっと重大な岐路に際して初めて頼るべきものだ」
 老馬頭が軽くいなしたので、瘋悪はほっとした表情を見せた。
「思えば、将軍の視透球がなければ、崇帝に着き、この地で戦を率いることもなかったであろうな」
 老馬頭はそう云って笑った。
 瘋悪は一層身を屈め、頭を低く垂れる。
「恐れ入ります」
「ふむ、まあよい。日が暮れるまでにこの山越えは厳しかろう、それに兵の疲れもある。今日は、この谷で野営をすることとしよう」
 老馬頭はそう告げ、配下七将軍は早速野営の支度にかかった。

* * * * *

 その夜のことである。
 老馬頭の元帥営を守備していたのは、七将軍の一、象鳩であった。この八尺を超える巨漢は、その眼力で百戦練磨の猛者を縫い付け、片手で操る九十九斤の大斧で真二つに叩き斬る戦鬼として恐れられており、付いた仇名が《鬼王》。
 この鬼王・象鳩が門番を務めていたため、この夜は親衛兵すら近寄らなかったのである。
 さて、深夜を回った頃、象鳩は元帥営の門の周囲を厳めしく周回していた。
 ふと、人の気配を感じて振り向くと、象鳩の背後にはぼうっとした青白い光があった。そして、光の中に、背の低い人物の姿が見えるのだ。
 象鳩は、瞬時に振り向いて九十九斤の大鉞を構えた。
「何者ぞ!」
 象鳩の凄みの効いた問いにも、その人物は臆する様子なく、するりと鬼王の前に進み出た。白衣を着け、白い烏帽子を被った白面の小男である。
「白太老」
 小男はそう云うと、けけらと笑うのであった。
「貴様!」
 象鳩は烈火の如く赤い顔をして、大斧を振りかざした。しかし、小男は避けもせず、斧の刃はその白面を直撃する。
 だが面妖な、小男は血の一滴も流さず、裂けた頭を両手でぴったりと合わせると、けけらと笑って跳びはねるのだった。
「この、妖怪めが!」
 象鳩は再び大斧を振るい、今度は首を切り落とす。するとやはり血は流れず、飛んだ首は地面に転がってけけらと笑い、首を失った胴体は、跳びはねながら首を拾いに行くのであった。
「かぁっ!」
 象鳩は今度は斧に気魄を込め、短い雄叫びをあげて小男を突いた。
 すると今度は、小男は笑い声を急に止め、くしゃりと潰れて抜け殻のようになってしまった。布のようなその死骸も、やがて風に吹かれて白い塵になっていったのである。
 象鳩はこの異変を伝えようと元帥営の入口に足を向けた。すると、また背後に気配がするではないか。
「そこ、か!」
 象鳩は、巨体からは想像もつかぬ素早さで背後を斬った。
 すると、かちりという音がして、斧は何者かに止められる。驚き振り向く象鳩の目に映ったのは、先程より少し背の高い、剥頭で全身を覆うような長い髭の小男である。髭に隠れた小男の体は、堅い鉄鱗で覆われている。斧が止められたのはこのせいであった。
「仙龍老」
 小男は囁くと、跳びはねてけけらと笑った。
「小賢しや!」
 象鳩は再び気魄を込めて大斧を振るった。やはり今度も、斧が当たるや否や、小男は空気が抜けたように萎み、風に溶けるように塵と化していく。
 今度こそ老馬頭様に報告せんと急ぎ元帥営に向かう象鳩であったが、またも背後に何者かの気配が生ずるではないか。
「ええい、またしても!」
 象鳩は振り向きざまに大斧を振り下ろすが、手応えはない。そこに立っていたのは、先の小男よりやや背の高い、丸々とした弁髪の小男である。小男はふくよかな微笑みを浮かべながら、小声で唄うように云った。
「萬田老」
 象鳩は怒り心頭、三度大斧に気魄を込めてこれを打ち倒さんとするが、いつの間にか先程倒したはずの二人の小男がその横に現れ、三人で並んで跳びはね、けらら、けけらと笑いながら、奇妙な抑揚をつけた歌らしきものを唄うのである。
 さすがの鬼王も、事のあまりの珍妙さに怒りも消え失せ、ただ茫然と歌に聴き入るのであった。
 歌は大意次のようである。

 是れは三老が一老に贈る
 長い長い始まりの終わりの詞
 上りて混沌の渦中に投ず
 下りて山を倒し砂中に臥す
 遠く西の方雪山を望み
 近く狩家に遭いて神を失う
 汝疑う勿れ無民の言
 是れは長く短い終わりの始まり

 三人の小男は、歌い終えると、けらら、けけらと笑い声だけを残して、いずこへともなく消えてしまったのであった。
 象鳩は、斧を収めて、至急、老馬頭に目通りを願った。老馬頭は就寝中ではあったが、快く部下を迎え入れ、話に耳を傾けるとにっこりとして云った。
「なるほど、将軍の話で合点がいった。無民とは、民が無い謂いではなく、無の民、すなわち土地神の類の謂いであったか」
 象鳩が歌の意味を問うと、老馬頭は笑って答えた。
「気にすることはない、ただの世迷い事よ。瘋悪将軍の《視透球》ならいざ知らず、世の先を見通す術はそうはない。ましてや一介の土地神に何が判るものか。おそらく、自らの土地を荒らされた一種の意趣返しであろう」
 夜が更けていくと、老馬頭の言の意味が象鳩にもわかりかけてきた。他の将軍の下にも、太った生白い河馬のような妖怪が集団で現れ、怪しげな歌を歌ったと、伝令が伝えてきたのである。
「低位の地霊如きが、ふざけた真似を」
 象鳩は老馬頭の言葉を他の将軍らに伝え、自らは元帥営の番を遂行したのであったが、どうもあの歌が頭から離れぬのであった。
 砂中だの雪山だの、全く意味はわからぬが、老馬頭様は世の先を見通す云々といった。とすればすなわち、この歌は彼等の予言であるということではないか。だが、老馬頭様が気にかけることはないと断じたのだから、戯れ言には違いあるまい。
 そう思いはしたものの、それからしばらくの間、象鳩の脳裡から珍奇な歌声が離れることはなかったのであった。

* * * * *

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