◇ことば◇
連立政権
基本政策の異なる複数の党が協定を結んでつくる政権を「連合政権」とい
い、そのうち、複数の政党で内閣を構成する政権を「連立政権」とよんでい
る。内閣に入らない党に、政権への協力を求めるのが「閣外協力」である。
それに対して、一つの政党だけで内閣をつくる政権が「単独政権」である。
日本では久しぶりの連立政権だったが、ヨーロッパでは、連立政権が常態であ
る国が多い。 |
1955年、左右社会党の統一に刺激され、保守合同により発足した自民党は、
以来38年間、一時的な新自由クラブとの連立時代はあったものの、
ただ1党だけで過半数の議席を得て政権を握り続け、社会党はこの間、自民党
の約2分の1の勢力に甘んじ、かつ自民党の補完勢力となっていた。
この体制を「55年体制」という。
93年8月、55年体制が崩壊し、非自民政権が誕生した。55年体制を支えた条
件がなくなったことが、崩壊の背景にあった。
背景の第一は、米ソ冷戦構造の崩壊から続く89年のソ連・東欧圏の解
消があった。米ソ冷戦下で、日本の支配層は、アメリカの軍事的保護の下に繁
栄を追求し、自民党は、アメリカを代弁した。
アメリカは、日本に安定した親米政権を望み、自民党政権の腐
敗を大目に見た。日本国民は、社会党には異議申し立て勢力として
わずかながらの存在価値を認めていた。
ソ連・東欧圏の解消は、反共という一点でまとまっていた自民党とその支
持勢力から求心力を失わせた。アメリカ政府にとって、自民党政権の維持は
絶対に必要な事項ではなくなり、敵はむしろ成長した日本となった。一方で
まがりなりにも社会主義を目指していた社会党は、頼るべき目標を失い、
政策の独自性が消えていった。
第二には、多くの批判にもかかわらず、政・官・業界の癒着による腐敗が
次々と露見し、自民党の資金源であった財界からも、反省する声が上がりだ
し、外からの批判も強まったことである。
第三には、国民の意識の変化である。繁栄が続いた結果、伝統的な自民党
の支持基盤である農村部が変化し、地縁血縁関係が薄れた。都市生活者にも
、会社や労働組合のために行動するよりも個人生活を楽しもうとする生き方
が広がってきた。こうした層の投票行動が、選挙結果を左右する時代となっ
たのである。
日本の保守政権は、政界の腐敗が発覚するたびに、泥縄式の政治改革を繰り返してきた。
田中金脈問題の後には、政治家への寄付の総量規制、政治資金収支の公開強化などが施行され、
続いてリクルート事件をきっかけとして、自民党では全議員の資産公開義務、パーティー券の
購入制限を定めた政治改革大綱がつくられた。
◇ことば◇
保守化の進展
93年7月の第40回総選挙は、マスコミや政界は政
治改革論争で熱くなっていたが、有権者の意識は案
外さめていた。 |
また1992年には、共和汚職・佐川急便事件が起こり、本格政権と期待された宮沢内閣
の支持率が急落した。93年3月、同事件に関連し、金丸信・自民党前副総裁がついに所得税法違反
で逮捕された。
この“金丸ショック”をきっかけに、自民党内で政治改革関連法案づくりが活発化し、
単純小選挙区制、政治家個人への寄付の全面禁止、政党助成を骨子とする法案が発表された。
一方、社会党と公明党は、小選挙区比例代表併用制、企業団体献金の全面禁止という
内容の政治改革関連法案を共同で国会に提出し、両法案は同時に審議された。
この間、マスコミ報道は、国民の望んでいた政治資金規制と定数是正については
ほとんど触れず、自民党の動きに引きずられて選挙区制についての議論に終始していた。自民党内では、
選挙区制の賛否が分かれていたが、その理由は、主に各議員の選挙区事情であった。
5月末、宮沢首相はテレビ出演の場で、政治改革を国会で必ずやると断言した。しかし、
改革を先延ばしにしようとする動きがあるとよんだ社会、公明、民社の3党は、会期末になって
内閣不信任案を提出した。
6月18日、賛成255票、反対220票で、内閣不信任案が可決された。自民党内からは、
羽田・小沢派の34人を含む39人が内閣不信任案賛成に回った。宮沢首相は、与野党内の思惑と
世論の勢いを理解できなかっために、自民党単独政権の幕を引くはめとなったのである。
1993年7月の総選挙で自民党は過半数を大きく下回った。
さまざまな組み合わせの連立政権の可能性が考えられたが、新党さきがけと日本新党は、
◇ひとこま◇
羽田連立政権の顛末
94年4月、細川政権退陣後の首相指名選挙で、細
川政権と同じ7党1会派は、新生党党首・羽田孜を
選出したが、その直後、小沢一郎の画策により新生
党、日本新党、民社党による統一会派「改新」が結
成され、公明党も参加の気配を見せた。仲間外れに
された社会党は強く反発し、即座に入閣拒否を表明
した。新党さきがけは、すでに閣外協力を決めてい
たので、羽田政権は、議会内の支持勢力が過半数に
満たない「少数与党政権」として発足した。 |
選挙制度と政治資金制度の改革を核とする「政治改革」を目的とする連立政権樹立を呼びかけ、
社会党、新生党、公明党、民社党を加えた7党と参院内会派の民主改革連合がそれに応じた。
8月、土井たか子社会党元委員長を衆院議長に選出し、社会党内の護憲勢力を封じ込めておい
たうえで、日本新党党首・細川護煕を首相に選んだ。
ここに、38年間続いた自民党単独政権(新自由クラブとの83年〜86年の連立政権時代を除く)
に終止符を打ったのである。
社公民は、共同提出した小選挙区比例代表併用制(比例代表制が基礎)を引っ込め、小選挙
区比例代表並立制(小選挙区制が基礎)で妥協したわけだが、基礎票が確かで選挙制度いかんに
かかわらず、生き残りの余地がある公明党は別にして、社会・民社党は目先の政権参加のために、
自らだけなく議会制度まで死に追いやりかねない、大きな代償を払ったといえる。
細川政権は、93年秋の臨時国会に小選挙区比例代表並立制案と政治改革法案を提出した。政治
資金改革を阻もうとする自民党の抵抗や、小選挙区制に反対する参議院社会党の造反に合い、細
川首相は自民党総裁河野洋平との会談で修正に合意した。ともかくも政治資金規制は強化されたが、
逆に多額の政党公費助成制度が導入された。
細川政権は、官僚政治の打破を狙ったが、行政に未熟な議員が多く、逆に官僚の復権を招く面
があった。それでも政財官の癒着は、解消しつつあった。しかし、細川首相自身、佐川急便から
の1億円借金問題を国会で厳しく追及されて、94年4月、細川首相は政権を投げ出すことになっ
た。
1994年6月、羽田内閣総辞職後の首相指名選挙では、小沢一郎・新生党代表幹事は、
自民党の海部元首相を首相候補として誘い出し、自民党からの脱落者の支持も目論ん
で政権を狙った。一方、自民党と社会党、新党さきがけの3党は、社会党委員長・村
山富市を担いだ。決選投票の結果、村山首相が誕生した。
社会党首相の誕生は、47年ぶりであった。
◇ひとこま◇
路線転換
94年7月、村山富市首相は、所信表明演説と議会での答弁により、社会党のこれま
での自衛隊・日米安保条約についての基本方針を次のように180度転換した。これで
社会党は、共産党を除く他の政党との間に基本的な政策の違いがなくなり、自民党・
さきがけという連立のパートナーに安心感を与えた。 |
自民・社会・さきがけを結びつけたものは、小沢一郎の強権的な政治手法に対する
反発と急激な制度改革に対する慎重姿勢であった。自民党は、政権復帰を第一に考えて、
国民の批判のほとぼりがさめるまで、かつての反対党党首村山の担ぎ出しを図ったのだが、
社会党の「路線転換」という高価な手みやげも手に入れた。
村山内閣は、水と油の短命内閣という予想を尻目に、小選挙区の区割り法、消費税
率を97年から5%に上げる税制改革法、世界貿易機関設立協定の批准、日米自動車交
渉の妥結など、懸案を次々に解決し、戦後50年の不戦決議や水俣病補償の立法では、
与党間の摩擦もみられたが、社会党の不満を抑える玉虫色の決着で乗り切り、比較的
長期な政権となった。
自民党内の「族議員」は、政権復帰により息を吹き返し、自民党の支持者の混乱も
収まった。
95年7月の参議院選挙では、比例区で新進党が最多数を獲得したこととの裏返しで、
与党は3党とも振るわず、村山首相は辞意を表明した。しかし、それ以上の政局の揺
れはなく、続投して8月には小幅な内閣改造を行った。
村山政権の内閣改造後、95年9月の自民党総裁選では、緊急避難として、総裁とし
た河野洋平が用済みとなり、河野は出馬を断念せざるを得なかった。総裁には、小泉
純一郎を破ったエース橋本龍太郎が選出された。96年1月、自民党は筋書き通り、一
時、社会党に預けておいた総理の座を取り戻したのだ。