特別寄稿(荘厳司教ミサ ミサレットから抜粋)

タ イ ト ル

出 典
典礼と教会音楽NEW 第9回荘厳司教ミサミサレットより
フランスにおける典礼の現状 第8回荘厳司教ミサ ミサレットより
小教区共同体における典礼に関する司牧指針 第7回荘厳司教ミサ ミサレットより(東京教区ニュース第139号1・2月号から)
グレゴリオ聖歌とラテン語による荘厳司教ミサ当会関わりの経緯NEW 第4回荘厳司教ミサ ミサレットより
グレゴリオ聖歌・全教会の典礼聖歌 第3回荘厳司教ミサ ミサレットより


典礼と教会音楽

ラッツィンガー枢機卿(教皇庁教理省長官)

ラッツィンガー枢機卿は教会音楽を、第二バチカン公会議が「教会の宝」、すなわち全人類の宝と呼んで、最大の勤勉さで保存するだけではなく、盛んにするように奨励して賞賛を惜しみないものと定義した上で、次のように述べておられます。

「多くの典礼学者たちは、その宝を”わずかの人にしかなじめないから”と言って切り捨て、公会議後の典礼の”どんなときにもみんなにわかりやすい”聖歌の名において教会音楽を敬遠した。だから特別のときに大聖堂などで例外として使用されても、教会音楽はもう存在しない。そのかわり”ありきたりの音楽”、やさしいメロディー、カンツォネッタ、はやり歌が取り入れられることになった。美を追放し、ただ実利だけを追求するところで示される恐るべき貧しさは、ますますはっきりしたものとなってきた。”みんなにわかりやすい”唯一のカテゴリーですまそうとすることが、本当に典礼をより分かりやすく、より開かれたものにしたのか、ただ貧相な典礼にしかならなかったのではないか」(ラッツィンガー枢機卿とジャーナリストV.メッソーリ氏との対話集”信仰について”より抜粋、ドン・ボスコ者出版)

白柳枢機卿(東京大司教区教区長)

白柳枢機卿は1996年12月2日に出された「小教区共同体における典礼に関する司牧指針」の中で、聖歌に関して、次のように述べられています。

「小教区共同体は、実に、考え方・感じ方の異なるさまざまな世代の人々によって構成されております。昔の典礼や聖歌に身も心も慣れ親しんで来た人々もおれば、新しい典礼聖歌しか知らない人々もおります。古いカトリック聖歌を歌いたいと思う人々もおれば、それは典礼には合わないという人々もおります。しかし、そのために、裁かないようにしてください。お互いを受容しあって下さい。」(この司牧指針の全文は1996年12月26日”東京教区ニュース第139号”をご参照下さい)

尻枝正行神父(教皇庁諸宗教対話理事局次長)

尻枝神父は典礼について次のように述べておられます。

「私は公会議後の典礼改革のもたらした多くの利点を否定するつもりは毛頭ありません。それでもなお、次の点について真剣に問うてみる必要があると思います。

?@公会議後の典礼改革は、どの点まで真の意味での刷新であり、改善であったのか。ある点で、それは典礼の低俗化であり、改悪ではなかったのか。

?A典礼文の邦訳や祭儀の単純化は、どの点まで、司牧的にまた霊的に賢明であり、有効であったのか。

?B典礼の合理化や平明化は、逆に典礼行為を通して現れる神の行為の神秘を感じさせなくなっていないか・・中略・・

「典礼憲章」は明らかにラテン典礼におけるラテン語ミサの重要性を延べ、信者たちがミサの共唱部分をラテン語で唱え、または歌えるように教育する必要を説いています。時々はグレゴリアン聖歌のラテン語ミサを挙げてもいいような気がします。」(尻枝正行神父著「バチカンの小窓より、永遠の今を生きる」(海竜出版)より抜粋)

澤田昭夫氏(筑波大学名誉教授、東京純心女子大学教授)

澤田昭夫著「第二バチカン公会議の影と光」の中で「典礼と秘蹟」について次のように述べられています。

「第二バチカン公会議のこの面でのプラスは、言葉の祭儀が以前より大切にされるようになったこと、信徒がより積極的に心だけではなく形にも現れた、いわゆる”行動的参加”で典礼にあずかるようになり、それとの関連で国語による典礼も奨励されるようになったことです。しかしマイナス面も出てきました。外面的な変化が起こったが、奉献部では厳かな沈黙と静粛の雰囲気が少なくなりました。楽しい共同会食という面が強調され、キリストのいけにえとしてもミサが忘れられ始めました。母国語での口語で祈り歌うのも結構ですが、日常的親しさが増えて、ハレの荘厳さが少なくなったのもたしかです。それぞれの民族語の典礼もよいが、世界共通のラテン語グレゴリオ聖歌はすたれがちになりました。これは典礼憲章にも違反しています。」

皆川達夫氏(立教大学名誉教授、音楽史家)

皆川氏は「キリスト教と音楽」と題する小論の中で次のように述べておられます。

「最近の日本のカトリック教会は第二バチカン公会議の精神にのっとって日本語による典礼聖歌を重視し、積極的に使用するように奨励しております。まことに適切なことで、それによってわたくしたち日本人信徒の祈りが、生きた歌として神に捧げられることになるでしょう。ただ気がかりなことは、日本語による典礼聖歌の確立を望むあまり、キリスト教会がほぼ二千年にわたって育成してきたもろもろの音楽の遺産をすべて惜しげもなく捨て去ろうとする行きすぎた傾向です。一部のカトリック教会では、グレゴリオ聖歌をはじめラテン語聖歌を一切禁止し排除しています。その理由として「ラテン語では一般の日本人に神のみ言葉が理解できない」とされていますが、それはあまりにも主知主義すぎるのではないでしょうか。信仰は言葉によって知的に理解される部分もありますが、同時に知を超えて把握される要素もあり、それなればこそ、音楽のはたす役割があるわけなのです。」(サレジオ碑文谷教会報より抜粋。この全文は季刊誌「ヴァチカンの道」第20号参照。「ヴァチカンの道」については下記へお問い合わせ下さい。〒251-0035藤沢市片瀬海岸2-12-22赤羽根恵吉 tel&fax0466-27-9779)

「典礼憲章」より

第36条:1.ラテン語の使用は。特殊権を除き、ラテン語典礼様式において遵守される。

第54条:会衆とともに挙行されるミサ聖祭においては、国語を適切に使用することができる。しかしキリスト教信者が、ミサ通常文の中で信者に属する諸部分を、ラテン語でもいっしょにとなえ、または歌うことが出来るように配慮するものとする。

第112条:全教会の音楽伝統は、他の諸芸術の表現にまさって、はかり知れない価値をもつ宝庫をなしている。それは特に聖歌が、ことばで結ばれて荘厳な典礼に一部をなし、必要なもの、または充実をもたらすものだからである。

第116条:教会は、グレゴリオ聖歌をローマ典礼に固有な歌として認める。したがってこれは、典礼行為において、他の点から差異がないものとすれば、首位を占めるべきものである。

(註:現在日本の教会で行われている典礼もローマ典礼であります。)

「典礼音楽に関する指針(礼部聖省)」より

第19条:主の再臨を待ち望みつつ一つに集まるキリスト信者は、詩篇、賛歌、霊歌をともに歌うように使徒からすすめられている(コロサイ3・16参照)。歌は、心の喜びのしるしだからである。(使徒行録2・46参照)。いみじくも聖アウグスチヌスは、「歌うのは愛している証拠」と言った。また、古くからのことわざにも「よく歌う人は倍祈ることになる」とある。(中略)各国の信者が集まる機会も日増しに多くなっているので、このような信者が少なくとも、ミサ通常文のある部分、とりわけ、信仰宣言と主の祈りを、やさしい旋律を用いて、ラテン語で共に歌うことができるのが望ましい。

第51条:なお司牧者は土地の事情、信者の司牧上の利益、それぞれの国語の性質を念頭においたうえで、ラテン語で書かれた文章のために既往の諸世紀の間に作られた教会音楽の宝庫の一部を、ラテン語で執行される典礼行為以外に、国語で行われる典礼行為にも用いることの適否について判断すべきである。同一の祭儀において、ある部分が他の言語で歌われても少しもさしつかえないからである。

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フランスにおける典礼の現状

フランスが教会の社会的・分解的影響が伝統的に強い国であったが、近年は国民の教会離れが著しい。地方を旅して、その中心都市の司教座聖堂で行われるはずの主日のミサでも参列者がまばらだったり、どんな僻村にもかならず存在しているロマネスクやゴチック様式の教会が閉鎖されて、農機具の置場になったりしていることをしばしば目にする。また骨董品店で、カリスやパテナ、あるいは聖体顕示台などを売っているのを目撃すると、言いようも無く心がいたむのである。

このような状況にあって「カトリック教会の長女」の異名を誇るフランスの教会は、多様性を求めることによって、その生命を維持しているかに見える。パリには数え切れないほどの教会があるが、そこで挙げられるミサの大半はいうまでもなく、第二バチカン公会議で制定された「改訂ローマミサ典書」によるフランス語典礼を基礎としているが、教会によってそれをかなり自由に演出しているという印象を受けるのである。友人に連れられて参列したパリ中央部にある教会の主日のミサでは、参列者が車座になって座り、信者による聖書朗読や即興の歌に耳を傾けており、途中から参加した司祭が奉献文(カノン)を唱え、ご聖体を奉挙する時に一斉に祭壇に移動する。ご聖体は司祭が授けるのではなく、参列者がカリスを順次手渡しして拝領していた。この「集会」をミサ聖祭であると納得することは筆者には不可能であった。

他方いくつかの主要な教会では、パリ大司教リュスティジエ枢機卿の要請によって、主日のミサの一つをバチカン公会議以前の典礼(ピオ五世典礼)にのっとって行っている。司祭は対面祭壇にありながら参列者と同方向でミサを捧げ、典礼文は通常文も固有文もすべてラテン語で唱える。福音書の朗読個所も当然、ほかのミサとは異なる。成果はいうまでもなくグレゴリオ聖歌かパレストリーナやデュモンなどのラテン語による作品である。トレント公会議が定めたピオ五世典礼との唯一の違いは、カノンを念唱(黙唱)ではなく声を出して唱えることであろう。

フランスにおける伝統的な典礼への復活への動きは著しいものがあるようで、第二バチカン公会議後に生まれた若い信者の参列者も多く見かける。日本では消滅してしまったラテン語と国語のよる信者のためのミサ典書も、ローマ教皇庁の認可を受けて出版されつづけているのである。

このような伝統的ミサも、また上に述べたプロテスタントの集会のようなミサも、ともに教会当局の承認のもとに行われていることを指摘したい。

パリの南西約250キロに位置するソレム村にあるベネディクト会の聖ペトロ修道院は、19世紀にグレゴリオ聖歌の復興を図り、いわゆるソレム式唱法を確立したことで有名であるが、公会議後の典礼の国語化の風潮にもかかわらず健在で、主日の荘厳ミサにはフランス国内はもちろん、ヨーロッパやアメリカなどから多くの巡礼者が参列し、広い聖堂内は文字通り立錐の余地もないほどである。そこで行われる典礼は「改訂ミサ典書」に拠っているが、福音書の朗読と修院長の説教以外はすべてラテン語であり、また聖歌はいうまでもなく修道士たちによるグレゴリオ旋律である。参列者の立ち振る舞いにも、誰に強制されるでもなく、フランスの一般の教会では失われて久しい、ある種のメリハリが生きている。入堂すれば聖水で十字を切り、着席と退席時には膝まづいてご聖体に敬意を払い、ご聖体は司祭の手によって口で拝領する。

カトリック教会のアジョルナメント(現代化)を求めた第二バチカン公会議が行った典礼改革を拒否するつもりは毛頭ないが、その副作用としてあまりにも多くの文化的伝統や美習が失われたことを惜しむ気持ちを捨てることができずに、また典礼の簡素化や通俗化に少なからず違和感を持つ日本の信徒は、筆者を含めてけっして少なくないと思われる。

カトリック典礼が伝統に基づく共通の言語、共通の様式によってのみ行われることを期待するのは、もはや非現実のそしりを免れまい。しかし日本においても、フランスのように多様なミサ聖祭がおこなわれ、それを選ぶ裁量を与えられることを熱望する信徒が多数存在していることも否定できまい。その意味で、本日のグレゴリオ聖歌とラテン語による荘厳司教ミサのようなイニシアティブがいっそうの広がりをもち、またそれに対して教会指導者、教区司祭、そして多くの信徒達が理解を示すよう、遠く異郷の地より祈る次第である。

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第6回荘厳司教ミサのミサレットの中で、近年、日本の各地の教会で混乱している典礼と教会音楽に関して、教会として統一した指針を出して頂きたいとの主旨で問題を提起しました。

 これについて、日本の司教団の長であられます白柳枢機卿様が、今年の東京教区ニュース1・2月号で指針を示されました。私どもへの直接的な回答では、ありませんが広く皆様に知っていただきたいと思い、個々に転載いたします。

どうぞ注意深くお読みくださり、それぞれの小教区で荘厳な典礼の実現にご活用下さい。

小教区共同体における典礼に関する司牧指針(東京教区ニュース第139号)

東京大司教区の信徒、司祭、修道者の皆様へ

1.待降節を迎え、全世界の教会は、主のご降誕に神秘に向かう歩みを始めました。皆さま方も、全世界の教会と心を合わせ、人類に愛と希望を与えたキリストの誕生の神秘を迎えるにふさわしい準備をしてくださることを願います。キリストの誕生は、いうまでもなく、私たちにゆるしと和解、平和と一致の恵みを与えるものです。キリストの誕生を迎えるにあたって、いくつかの小教区共同体で、平和ではなくいさかい、一致ではなく分裂の機会ともなってしまった典礼のあり方について、皆さま方の注意を促したいと思い、この手紙をまとめました。

2.私は、この手紙をもって。第二バチカン公会議が道を開き、日本でも第一回福音宣教推進全国会議の提言にみられるような、典礼の土着化、生き生きとした典礼の創造への試みやそのための神学者や現場の司祭・信徒・修道者たちの努力を否定するつもりはありません。むしろ、それは、今後も怠ることなく、責任をもって、続けて行かなければならない、現代の日本の教会の重要な課題であるという確信を持っております。また、それを推進していくことは、専門家だけではなく、日本の教会を構成するすべての信者の責任とも考えております。

3.皆さまご存知のように、第二バチカン公会議は、典礼を大きく刷新いたしました。ラテン語からそれぞれの母国語へ、壁面から対面祭壇への転換などなど、実に大きな変化であったと思います。それに適応していくことは、それまでの典礼に慣れ親しんできた人々には大きな負担であったことも事実であります。しかし、公会議が終わってから二十数年が経ち、新しくされた典礼は、多くの人々の努力によって、日本の教会に定着してまいりました。私は、それで十分であるというつもりはありません。福音宣教全国推進会議が求めた生き生きとした典礼の実現、現代人、特に青少年たちに魅力のある典礼の実現のための努力を続けていかなければならないことを承知しつつ、信徒、司祭、修道者の皆さまには、新たな典礼の試みを小教区の共同体に導入するときには、以下に指摘するような、配慮をお願いいたします。

4.まず、今の感謝の祭儀の典礼でも、司式者の自由な裁量に委ねられている部分があることを、皆さまに喚起したいと思います。集会の時、場所、目的、参列する人々の層などに合わせた、ふさわしい表現を工夫することがゆるされております。ともすると形式的になりがちな典礼を避けるためにも、ゆるされる範囲内での司式司祭の一層の努力をお願いいたします。

5.内容にもよりますが、一般に行われている感謝の祭儀の式次第と大きく異なる試みを行うときには、主日のミサの時間帯で行わないようにしてください。任意に信者が参加できるような主日の午後の時間帯やその他の日・時間等に行うよう配慮を願います。また、事情により、主日のメインの感謝の祭儀の時間帯で行うときには、私の認可を求めてください。

6.また、司式者の自由な裁量の枠を越えた典礼を試みようとするときには、その試みの内容とその理由等を含めて、書面をもって、教区長である私の認可を願ってください。内容によって、司祭評議会に、あるいは典礼委員会に諮った上で、私が最終的な判断をくだし、認可を与える場合には、私の責任において許可したいと思います。またすでにそのような試みが、小教区共同体に導入されているところでは、改めて、私の方に連絡し、認可を求めてくださるようお願いいたします。

7.また典礼のあり方に対するいくつかの小教区共同体のトラブルを見るとき、これからは司祭たちのコミュニケーションと相互理解を図っていく必要があると痛感しております。小教区の司祭の人事異動によって、典礼のあり方に対する司祭の考え方・やり方が異なることによって、これまで、司祭たちの間に誤解が生じてしまったこともありました。また、受動的な立場にある信徒たちが、戸惑い、混乱し、それをどこに訴えてよいかわからずに途方にくれていたケースもありました。また、典礼に対する司祭たちの指導をめぐって、小教区の信徒たちと司祭の間、あるいは信徒たちの間に対立が生じてしまうこともありました。こうした不幸を避けるためにも、典礼に関して、司祭同士の対話と相互理解を深めていくことが必要であると痛感しております。司祭評議会とも諮り、具体的な方法を考えたいと思います。また、教区民のすべての方々が、これまで以上に、典礼についての研修・勉強を深めていくことができるよう、早急に具体的方法も考えて行きたいと思います。

8.典礼の中心にあるものは、キリストの十字架と復活です。それはゆるしと和解を実現した救いの神秘です。これを考えるとき、典礼のあり方をめぐって小教区共同体のメンバー間の誤解、対立、分裂は、愚かなことです。典礼のあり方をめぐって、お互い裁くことのないようにお願いいたします。小教区共同体は、実に、考え方・感じ方の異なる様々な世代の人々によって構成されております。昔の典礼や聖歌に身も心も慣れ親しんできた人々もおれば、新しい典礼聖歌しか知らない人々もおります。古いカトリック聖歌を歌いたいと思う人々もいれば、それは典礼にあわないという人もおります。しかし、そのために、裁かないようにしてください。お互いに受容し合ってください。小教区共同体の中には、パウロがローマの教会への手紙において記しているように、信仰の強い人もおれば、弱い人もおります。「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜ばかり食べているのです。食べる人は食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。(中略)したがって、もう裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや妨げとなるものを兄弟の前に置かないように、決心しなさい。(中略)あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛にしたがって歩んではいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。」(ローマ14章1〜15) 私は典礼のことで小教区共同体の兄弟姉妹の心を傷つけ合うことのないよう、どんなに思い・理想が異なっても互いに受け入れ合うよう、皆様方の愛の目覚めを改めてお願いいたします。

むすび

わたしたちの間にまもなくおいでになる、幼子イエス・キリストの柔和が、小教区共同体を照らし、それを生かす光・力になりますように。

1996年12月2日

東京大司教区教区長

枢機卿 白柳誠一

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グレゴリオ聖歌とラテン語による荘厳司教ミサ
当会関わりの経緯


ごミサの国語化の普及によって、参加者に内容が良く理解できるようになって参
りましたが、さらに心を崇高・永遠へと導くグレゴリオ聖歌とラテン語による荘厳
ミサが外国のみならず、日本でも随所で捧げられつつありますことは、意義深いこ
とと存じます。
これまでの経緯を申し上げれば、
(1〕東京カテドラル大聖堂において1991年以来、W.A.カルー大司教様が毎
年、主祭司となられてグレゴリオ聖歌とラテン語による荘厳司教ミサが捧げられ、
共同司式は毎年同じ方ではなく、白柳大司教様、長江司教様、東京在住の3大宣教会の管区長様、その他多数の神父様方がお務めになられました。
?Aこれらのごミサでなるべく全員が第2ヴァチカン公会議後の新ローマミサ典書
に則って能動的に参加できるように、ラテン語に日本語と英語の対訳と楽譜入りのミサ典音を当会が準備し、全参加者に配布しました。また聖歌隊を平素から小教区等でグレゴリオ聖歌に慣れた方々によって編成し、この指揮は、長年教会音楽を研究され、小教区で聖歌隊の指揮の経験豊かな当会の音楽委員が当たりました。
?B参加者は、日本滞在の諸外国人を含め毎年カテドラルが満席になる程で、若い
年代の方も多く、このごミサは時代の要望にも応えていると感ぜられました。共同
祈願と聖歌の一部は参加者それぞれの国語で唱えられ、その他は総てラテン語が使われましたが、全員平素から母国語ミサで内容を熟知していたのと、長年カトリック教会では世界共通語のラテン語で唱えてきた経験もあったためか、当日は、ほぼ全員が極めて積極的に参加し、ごミサの進行に従って盛り上がりが見られたのであります。
?C後に参加者から当会宛に寄せられた感想文には、福音宣教に新たなカを頂いた・わざわざ青森より来てよかった・カトリックの美しさを感じた・祈る境地に導か
れた・この様なご…サが頻繁に捧げられることを希望する…等々、参加した喜
びと感激を述懐したものが多数見受けられました。
?Dカルー大司教様は、ご存じの通り、駐日教皇庁大使として極めてご多用であら
れますが、日本の司教様、神父様がた多数とともに上記のように第2ヴァチカン公
会議後の典礼憲章とローマミサ典礼言に可能な限り忠実にラテン語によるごミサが捧げられるように当会が準備したことに極めてご満足でおられると、毎年当会宛に親書で表明されております。さらに、今後も日本におられる限り、毎年このようなごミサを捧げた,いとも辛されております。
?Eまた日本司教会議典礼委員の岡田武夫司教様も、当会が日本語のごミサの普及にも努力してきたことに続いて、グレコリオミサの伝統を大切にし、その美しさを多くの人々に伝えようと努力することにご異存なく、邦語ミサとバランス良く各方
面で捧げられることに貴意を表明しておられます。
このよろな経緯から、当会会員以外の多くの方々のご協力によりまして、本日のご
ミサの準備も成しえた次第でございます。この司教ミサが皆様方すべてにとりまして心を鼓舞するものとなり、お恵みが豊かに注がれますよう希望いたします。

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グレゴリオ聖歌・全教会の典礼聖歌

 千数百年にわたってカトリック教会のなかで保存され、磨き上げられてきたグレゴリオ聖歌は、ことばとリズムとメロディー、ハーモニーのすべてを一体にした最高の宗教音楽と称されています。グレゴリオ聖歌の真の価値は、音楽的に美しいこと、人類最大の文化遺産であることではなく、何よりも深い宗教性、霊性に満たされた祈りであることにあります。グレゴリオ聖歌の歌詞の大部分は聖書からとられており、聖書に働く霊感がこの聖歌を活気付けています。聖なる神の賛美のため、美しくも荘厳に信徒の心を高める祈りがグレゴリオ聖歌です。それは音楽会での観賞用音楽ではなく、教会で祈り、歌われるべき典礼聖歌です。

 グレゴリオ聖歌のメロディー、リズムはラテン語の祈りのことばにあわせて作られていますから、それはラテン語でしか歌えません。しかしミサ通常文にでてくる、信徒が共唱する祈り(キリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス、パーテル・ノステルなど)は、国語で誰もが知っている基本的な祈りですし、19世紀の典礼運動はラテン語と国語対訳のミサ典書を作ってきましたから、その意味は容易に分かります。世界共通の国際典礼用語たるラテン語でミサが歌われる限り、どの国の出身であってもカトリック信者は外国に行って「異邦人」と感じることはありません。因みに、ラテン語の基本的祈りは、日本ではキリシタンの先祖たちが、250年の迫害にも拘わらず、命懸けで守り続けてきた「われらのオラショ(祈り)」です。それゆえラテン語は全世界の「教会一致のしるし」「今日の教会が昨日の教会そして未来の教会と結ばれるための理想的絆」(ヨハネ23世教皇)です。

 第二バチカン公会議もその「典礼憲章」のなかでグレゴリオ聖歌の重要性を次のように説明しています。「会衆とともに挙げられるミサにおいて、、、、国語を使用することも許される(possit)。ただし、キリスト信者がミサ通常文の中で信徒に属する部分をラテン語でいっしょに唱え、まら歌えるように配慮されねばならない」(54条)。「教会はグレゴリオ聖歌をローマ典礼固有のものと認める。それはもろもろの典礼行為において、他の条件が同様なら(宗教性、音楽性などの点で同等と見られる聖歌のなかで)、首位を占めねばならない」(116条)。「小さい教会で使用するため、(グレゴリオ聖歌の)簡単な曲を集めた簡約版の刊行が有益だと思われる」(117条)。このようなポケット版グレゴリオ典礼聖歌集『ユビラーテ・デオ』は1974年にローマで刊行され、全世界の司教団に送られました。その序文に次のような説明があります。「教皇パウロ6世は、グレゴリオ聖歌が神の民の祭儀に随伴し、その甘美な音楽によって祭儀を強く支えるように、そして信徒の声がグレゴリオ聖歌でも国語聖歌できこえるようにという望みを表明された。」

 ローマの礼部聖省は1967年の指針「ムジカム・サクラム」で、外国人の多い大都会や外国人観光客の多い場所の教会でグレゴリオ聖歌を維持するように薦めて次のように言っています。「ミサの祭儀に国語が導入された後、地方の司教は、ひとつまたは幾つかのラテン語ミサ、特に歌ミサを幾つかの教会、特に言語を異にする信徒たちがよく集まる大都会の教会で維持しておくことの適宜性を考慮すべきである」。「国語の歌唱とグレゴリオ聖歌との間の健全な均衡を保つ」(全司教宛て礼拝省書簡「ヴィルンターティ・オブセクエンス」(1974年4月14日)必要があります。

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