10. 行動記録

 

今回の旅で体験し観察した記録を随筆的文章にまとめてみた。一人称は安東である。

 

《事の始まりについて》

 

飛行機が着陸に向けて下降を始めた時から、すでにその予感があった。機が雨雲の下に降り窓からその土地が見え始めたとき、もうぼくはたまらなく嬉しくなってきた。久しぶりだ。雲南を訪れるのは安東にとって実に五年ぶりだった。昆明空港に降り立ち飛行機から降りると、その空気ですら懐かしく感じる。かつて雲南大学に一年半ほど留学していた安東にとっては、馴染みの故郷に帰ってきた思いだ。少数民族の世界にぼくは文字通り舞い戻ってきた。なにしろ今までの人生の中で一番バンカラな時期をすごしたところなのだ。そして福田にとっても中国そのものはアムネマチン遠征以来だから八年ぶりであり、南の果て雲南は初めての地である。

 

雲南の省都昆明は春城と呼ばれている。緯度が沖縄よりずっと低く本来なら熱帯に属するのだが、海抜が二千bちかくある高原都市なので、昆明は一年を通じて過ごしやすい春の街なのである。

 

到着した日は昆明登山探検旅遊協会や雲南大学を訪れた。しかしながら昆明そのものは何も面白いものなどない街である。目的地は雲南の遥か北西にあり、先の日程が不確定でもあるのでとにかく先を急ぐことにしよう。翌朝の中甸行きの長距離バスですぐに現地へ向けて出発することとした。

 

《東チベットへのアプローチ》 

 

数多くの山岳少数民族がそれぞれの文化を保っている雲南の中で、中甸の街はチベット文化の世界への入口となる。すでに海抜は三千bを越える世界だ。ここまでは安東自身1995年に2回訪れたことがあるので勝手も知っている。しかしその先の梅里雪山のある徳欽へ向かう道が通過可能かどうかは、天候次第なのでここまで来てみないと確信できない状況だった。通常ならばこの区間にある白茫雪山口峠は、冬の間積雪で閉鎖され通行不能になる。安東が1995年3月にラサ方面から自転車で昆明へ旅行をした時は、この峠が雪のために越えることができなかった。そのため瀾滄江沿いの時間のかかる迂回路をとっている。その年は5月になってようやく峠が通行可能になった。今回いちおう日本出発前に「ヒマラヤの東」著者の中村保さんが現地に問い合わせてくれ、今年は雪が少なく峠はまだ通行可能という情報を得ていたが、いつ大雪で閉鎖されてもおかしくはない。実際翌朝の中甸は吹雪であった。

 

中甸から徳欽へは早朝に公共バスが出ているが、チケットはすでに売切れてしまっていた。タクシーを交渉するが、吹雪の状態であり峠の積雪を恐れて行きたがらない。金額的には交渉次第で小型車で500元くらいが相場のようだ。いくつものタクシーと交渉したが、行きと帰りで二日がかりなのでまあそんなものかもしれない。とはいえやっぱり雪を気にして結局どのタクシーも行ってくれない。中甸にも旅行会社があり、少々の雪など突破できる日本製ランドクルーザーもチャーターできるけれど、一日千元が相場である。ザック一つの気軽な荷物なので無駄金は使いたくない。なにより一般の公共バスの方が地元の人達と一緒で楽しい。ちなみに中国人民元1元は日本円14.5円。

 

切符売りのお姉さんの計らいで、たまたま出たキャンセルのバスチケットを優先して譲ってくれた。途方にくれていたのでその親切がありがたい。しかも一人34元だ。吹雪の中で9時過ぎに中甸を出発する。登るにしたがい積雪量は増えてゆく。バスは車高が高いため積雪にはどのような車よりも強い。小型車だとこの積雪は越えられないだろう。ここの連中は積雪があってもタイヤにチェーンを履かせるということをしない。バスはとあるカーブでスリップを起こし谷底に落ちるところだった。危機一髪だ。乗客全員降ろされて危険地帯をなんとかみんなでバスを押して突破し、再び乗り込んでみんなで笑いながら旅を続けられるのも、雲南ならではの旅といえるかもしれない。

 

海抜3800mほどの雪の峠を一つ越えたあと、標高差二千bちかく一気に下り金沙江の流域に出る。金沙江は長江の本流である。下流の宜賓で岷江と合流して揚子江と名を変える。金沙江はここより上流部の青海省では通天河と呼ばれている。最上流部はさらに沱沱河と名が変わり、格拉丹冬峰(海抜6621m)の氷河の末端から始まっている。全体を称して長江と呼ぶようだ。普通大陸の河川というと泥のような濁った流れのイメージがあるが、乾季の今はここでは水は澄んでいて穏やかに流れている。カヌーで下ると気持ちよさそうだ。

 

金沙江に架かる大きな橋を渡り、ちょっと行ったところに奔子欄の街がある。川縁の海抜は二千b以下にまでなる。気温は暖かく、桃の木がピンクの花を咲かせる春の世界である。しかも天気が晴れている。中甸での吹雪がウソのようだ。この辺りの川沿いにはけっこう人が住んでいる。街には商店も食堂もいくつもある。近くには大きなお寺もあるので、街に出てきた僧侶たちが買い物をしていたりする。

 

金沙江を数キロ上流に進んだかと思うとすぐに登りが始まる。白茫雪山口峠へと向かう天へと至らんが坂である。数時間も登りが続き、再び雲にあたりは包まれ積雪の世界となる。この周辺が今回の調査対象の一つでもある白茫雪山の只中であり、その主峰は公道からも眺められると聞いていたが、降雪こそなくてもあいにくの天気で視界は良くない。帰りに晴れて観察できるのを期待するばかりである。高度が上がるにつれ気温は次第に下がってゆき、隣の漢族の乗客はジャケットもなにも持ってきていなかったので寒さで縮こまっている。長い長い登りの末にタルチョ(チベット仏教の祈りの五色の旗)たなびく雪の峠を越える。海抜は4300m。峠を越えるときには乗客たちから「アーソロー!(神様ありがとう!)」という掛け声が叫ばれた。

 

この峠は金沙江 (長江)と瀾滄江 (メコン河)の分水嶺となるわけだ。ここより西に降る雨は遥かベトナムを経由して南シナ海へ、東に降れば上海で東シナ海に注ぎ込む。このルートは6年前の同じ時期に安東が積雪のために自転車での通過をあきらめたルートだが、こんなに激しい地形があったとは思わなかった。辺りは深い雪の世界だが、車での通過が可能であったのは、今年はそれでも異常に雪が少ないからだった。本来ならもっと積雪があるのだろう。とにかく最大の懸念であった峠を越えることができた。

 

峠から下るにつれて雪はなくなってゆき、35キロで徳欽の街に到着する。すでに夕暮れが迫っていた。海抜は出発地の中甸と同じ約3200m。中甸から徳欽までは直線距離はそんなにないのだが、なにしろ峠を二つ越え、谷底と峠の標高差が二千b以上あり、まさに浸食の国々を代表するような地形であったといえよう。結局移動は一日がかりだった。

 

    

 

エメラルドグリーンの金沙江(奔子欄付近) ©2001 Andow 

飛来寺にてチベット仏教の壁画 ©2001 Andow

深いゴルジュのルート。眼下にメコン河 ©1995 Andow

 

 

《徳欽にてトレッキングのアレンジ》

 

徳欽中心のT字路周辺の雰囲気だけは6年前と変わっていないようだ。だけれどこの街も最近の中国の急速な経済の発展に伴って、外側に大きく広がりつつある。

 

まずはガイドの陳さんにコンタクトするために、その事務所があるという太子峰大酒店ホテルに向かおう。新しく出来たホテルであり中には徳欽県の旅遊局も事務所を構えている。受付にたまたま旅遊局の若手のユーさんがいて、中村保さんの紹介であることを伝えると随分と喜んでおり、早速ホテル代も特別割引価格となった。さらに陳さんを呼んできてくれることになった。当初は徳欽までたどり着いても果たして街以外を旅することができるのだろうか? トレッキングのパーミットはどうすればいいのだろうか? そもそもトレッキングができる環境があるのだろうか? と未知数だらけであったが、日本を発つ直前になって「ヒマラヤの東」の著者中村保さんを訪問し、いろいろアドバイスを受けた。ガイドの陳さんも中村保さんに紹介していただいた。おかげで非常に順調にコトが運んだ。限られた時間を最も有効に使えたのではないかと思う。中村保さんに感謝である。

 

旅遊局のユーさん(正式な名称は聞き忘れた)はぼくと同じ年くらいで雲南民族学院出身だという。陳さんが来るまでの間、梅里雪山のことを聞いてみたが、許可はまず下りないだろうということであった。旅遊局にはトレッキング終了後に再訪し、内容はその時の話と重なるので後の章で述べる。そのうちに陳さんが部屋にやってきた。陳さんこと陳曉紅(チェン・シャオホン)は地元のチベット民族のカンバ族出身。だけれどこの名は中国名。チベット名も聞いたけど忘れてしまった。彼の生業はガイドであるが、今の時期はシーズンオフのため仕事など何もない。よって前もってアポもなく突然訪問したにもかかわらず、即明日からの行動が可能であるという。だいたいの日程と費用を下記のように定めた。打ち合わせには陳さんのほかに若いカンバ族の男で黄(フアン)さんもいた。陳さんの子分のようである。当初は陳さんだけがガイドとして同行するという予定だったが、黄さんも結局全日程で同行してきた。どうせ他に仕事もないしついてきたのだろう。

 

全日程は8日間、明日から中甸に自動車で送ってもらうまで。二人分の料金である。

 

自動車代 全行程一括 3000元 (500元/日、2日分サービス)

ガイド費 100元/日

  食費 全行程一括 1000

  宿代 100/

馬代 実費 (100150//)

 地元ガイド費 実費 (約70〜100元/人/日)

 

上記は中村保さんの友達価格ということである。言い値でも良かったのだが、多少は値を下げてもらった金額である。実際のツアー客達からはもっと取るらしい。現地の物価を考えると安くはないかもしれないが、まあ旅行会社を通すとこの金額では済まないだろうし、ガイドは不定期な商売で彼らにも生活がある。充分妥協できる金額であろう。ネパールのようにトレッキングのインフラが進んでいないこの地では、ガイドなしで村々を訪れるのは難しいと思う。実際のところ現地では一切地図すら手に入らなかった。

 

なお聞くところによると陳さんはガイドとしてそんなに仕事があるわけでもないらしい。ここまでトレッキングにくる外国人もめったにいないようである。中村さん自身もこの辺りに入るときは彼をガイドとして使うので、その本の中にも陳さんはよく登場してくる。実際のところ現地人だけあって各村とのコネクションも多く、人柄もよく、ガイドとして大変有能なのではないかと思う。より多くのトレッカーが訪れることを望んでおり、日本でこの地に興味がある人がいればぜひガイドとして自分を紹介しておいてほしいらしいので、この方面のトレッキングに興味のある方がいたら安東まで連絡されたし。雲南からラサへジープで抜ける旅行もアレンジできるのだそうだ。ただし困ったことに彼は日本語どころか英語も話せない。ぼくは彼に一日十個の日本語を教えるということにしたが、結局何も覚えられなかったようである。

 

  

 

明永村で世話になった家のおばさん ©2001 Andow

チベット仏教の仏舎利塔チョルテン飛来寺 ©2001 Andow

村人に囲まれて、(明永) ©2001 Fukuda

 

 

《朝山礼聖》

 

翌日28日、朝8時に陳さんがホテルに中国製ジープで迎えにきた。陳さん自身の所有だそうだが、一目見ただけで今後の旅先への不安がよぎる。ボロいのである。こんなんで本当に走るのだろうか? 最近の中国奥地の旅行記を読むと車のトラブルがいくらでも出てくる。車の性能に旅のなりゆきが左右されるといっていい。このボロジープでラサまで数千キロ走るとすると問題大有りだ。だけれどまあぼくらの今回の旅はトレッキング主体であり、車の移動は村から村へのせいぜい数十キロにすぎないので、まあよしとするか。

 

朝食を陳さんの親戚の食堂で頂戴した後、今日の目的地の明永村にジープで向かおう。徳欽は谷の奥まった窪みにあるので、街から直接は梅里雪山を見ることはできない。最高の景色が期待できる展望台の峠までは約10キロ。明永への道すがらにある。今日は天気もいい。早くそこまで行きたい気分を抑えて、とりあえずは街で食糧等を調達しておく。

 

梅里雪山はめったに晴れることがないという。その姿を拝むことができるだけでラッキーというか有難いと言われている。聖なるものはいつでも気まぐれなのだ。乾季の今は比較的お目にかかれる可能性が高いが、午前中の方が天気がいい割合が高い。だからこの峠から梅里雪山を拝むことを漢字で「朝山礼聖」とよんでいる。我々が峠にたどり着いたのはだいたい午前10時頃。空はラピスラズリの宝石のように蒼く素晴らしく晴れわたっていた。そしてその聖なる山々は圧倒的迫力で展開していた。氷の芸術が輝いていた。

 

正面から望むと、主峰カカボが辺りの山々を従えるように山塊の中心に座していた。太陽はもう高くまで上がっており、その鋭いほどに強力な光線にその白い頂きは輝きを増し、どこまでも続く蒼い空の下に存在していた。主峰の雪庇は大きく張りだしその頂上を真珠のように覆っており、そこから下へその胸壁は突然に垂直に切れ落ちていた。その壁の麓から流れ出す氷河が、麓の瀾滄江(メコン)に向かって落ちるように流れてゆく。左には雲をベールのようにまとった女神メツモ峰が、ピラミッドのように鋭く天へとそそり立っている。その間には奇怪で険しいギザギザの稜線をもつジャワリンガ峰が、天を削り取らんがばかりに繋がっている。カカボ峰の右側には衛士のようにそれに従うスグトン峰が座していた。完璧だ! 完璧なまでに均整のとれた山脈だ。もはや自然そのものの天才的芸術とまでいえるだろう。間違いなく世界でも屈指の絶景である。太鼓判を押してあげよう。

 

峠には大きなチョルテンと呼ばれる仏舎利塔が建立されていて、無数のタルチョがたなびいている。実際のお寺は峠から歩いて5分ほど徳欽側に下ったところにあり、境内を参拝することもできる。1991年の京都大学日中合同登山隊の遭難碑もここにある。まずは碑を訪れ、カタ(チベット仏教で尊ぶ時に用いる白い祈祷旗)を供え、線香を焼香する。

 

この峠には招待所があるらしい。特に看板など出ていないが峠の茶屋で頼むと泊めてもらえる。ここからの眺めは朝一こそ最高だと思う。6年前にぼくが自転車でここを訪れた時は、この峠にテントを張って朝を迎えた。山々がピンクの朝焼けに染まってゆくありさまは神々しい。くわしくは安東の著書「チベットの白き道」を参照されたい。トレッキングの最終日に徳欽で一泊するので、その時はここの峠の招待所に泊まることにしよう。

 

ぼくにとって少し悲しかったのは、6年前にくらべて峠のチョルテン(仏舎利塔)が新しくなっていたことかなあ。6年前には仏塔は一基しかなかったけれど、いかにも古っぽくて風情があった。少し崩れかけていたけれど、獅子の絵などのペインティングも丁寧に描かれていた。それが今は仏塔は6基まで増えたが、安っぽいコンクリート仕上げにへたくそな絵が描かれている。ちょっと違うのではないかと思ってしまう。

 

梅里雪山とこの峠との間は険しい渓谷になっており、峠からは直接は見えないのだが、足下の深く切れ込んだ谷の底には瀾滄江が流れている。東南アジア最長の大河メコン河の本流であり、梅里雪山と白茫雪山の間を深い渓谷を刻みながら流れてゆく。乾季の今は透通ったようなエメラルドグリーンの美しくやさしい流れとなっているが、モンスーンの時期になるとチベット高原に絶え間なく雨が降り、河はチョコレート色になって濁流してゆく。両岸は切り立った岩肌が続いているが、所々にピンクの花を咲かせた木々が生えており、桃源郷の世界を思わせる。

 

飛来寺の海抜3480mの峠から一気に瀾滄江の川縁の海抜2000mまで下る。両脇が絶壁の様にそそり立つ所で、河に掛かる橋をジープで西岸にわたり、明永村に到着する。この村はカカボ峰の直下から流れてくる明永氷河(ナイノゴル氷河とも呼ぶ)への谷の入口にある。深い渓谷の中で谷の扇状地や斜面を削って、わずかな平地にチベット人たちは村を形成して生活している。京都大学山岳部の小林尚之さんがこの村に通算で一年くらい滞在して、明永氷河で1991年の遭難者達の遺体捜索をしていると同時に、写真を撮りつづけている。小林さんにも日本出発前にいろいろと話を聞かせていただいた。

 

明永村の人口は約300人、海抜は2300mであり、冬でも雪が降ることはほとんどないという。そもそも高原のハイランダーであるチベット人が海抜三千b以下に住んでいることが珍しい。標高が低いためかチベット人の主食である青裸麦(高地に強いライ麦の一種)以外にも小麦やトウモロコシが栽培され、食生活が高原のチベット人達よりも多岐にわたっているようだ。つまりはこの地は他の高海抜チベットよりも豊かなのではないだろうか。まあその代わりに放牧地は限られてくるので、所有する家畜は高所民より少ないかもしれない。

 

村に到着後昼食を頂戴し、午後安東は明永氷河の末端までトレッキングを行なう。福田は村に残り村人の生活を撮影することにする。

 

  

 

活仏とワンジア少年 (明永) ©2001 Andow

明永村の民宿に集まってきたグーニャン達 ©2001 Andow

明永村での宴にて ©2001 Andow

 

 

《明永氷河へのトレッキング》

 

----------------------------------------------------------------------------------------

2月28日 明永村から半日で往復

明永村(海抜2200) → 氷河末端部/(海抜約2700m) → 明永村(海抜2200)

同行者:ガイドの黄氏、地元案内役ワンジア少年

-----------------------------------------------------------------------------------------

 

氷河は日本に存在しないものだけあって、何か大陸的なスケールの大きなイメージをぼくらに感じさせる。ガイドの黄さんと地元案内役として11才のワンジアが同行してくれることになった。

 

村では氷河への観光開発に力を入れているらしく、トレッキングルートの入口には入域料金徴収の為の係員やら乗馬用の馬のレンタル屋がいる。大きな駐車場まで完備されている。観光開発の手がこのような地まで延びているとは、驚きである。ぼくの中ではまだ梅里雪山の麓は秘境だった。近づくことすら容易ではないイメージがあったのだけどなあ。だけど駐車場には車は一台も停まっていない。トレッキング中に他の人に出会ったのは、巡礼者風のチベット族の一家族だけであった。物見遊山的観光者はぼくぐらいのものである。こんな所まで観光客など来るのだろうか? 今はたまたまシーズンオフにあたるのだろうか。

 

トレッキングルートはほどよく整備されている。木々の間をゆく、まるで日本アルプスを登ってゆくような自然の中を、次第に高度を稼いでゆく。所々で桃の花を見かける。気持ちいい道だ。だけれど上部の方で道が険しくなってくると、必要もないのに板の道が作られている。まだ新しいけれど古くなり板が腐ってくると逆に危険になると思うのだけどなあ。また以前の巡礼の路上にはマニ石(仏教経文の彫られた石)の塚などが数多くあったが、新しい道を作ったときにすべて撤去されてしまったらしい。さびしい話である。

 

約2時間ほど登ってゆくと、谷の底に氷河の末端が見え始めた。更に進みルートの最上部にはチベット仏教の寺があった。僧侶はいなかったが、管理人の老人が一人住んでいる。さらに寺の裏の険しい斜面を登っていったところに大きな岩があり、湧き出した水がそこを伝って落ちてくる。なんでもそこの水は神聖なものらしく、水をちょっと頭にかけるような儀式をして、ペットボトルに汲んで持ち帰る。

 

寺から傾斜を少し下って氷河に降り立つこともできる。ここでは氷河らしい氷河を目にすることが出来る。でかい氷の塊がゴロゴロしている。さすがに北アルプスにもある雪渓とはわけが違う。それらの氷に登って氷河を見上げると、その奥の方に迫力ある山塊が横たわっていた。主峰カカボの一部だろう。氷河は海抜2600mまで下ってきている。沖縄くらいの緯度で北アルプスの稜線より低い地に氷河が溶けきれずに達するとは、よっぽど氷の量が多く、つまりは上部での降雪量が多いのだろう。この辺りの森林限界は4500m以上なので、森林の中を氷河が下り降りてゆく。他ではちょっと見られないだろう。それでも氷河末端部は徐々に後退しているとのこと。ここの氷河は世界でも稀な低海抜地帯氷河であり、しかも急傾斜なため比較的流れが速い。よって氷河前線の後退の速度も速いようだ。現在の氷河末端部は海抜2600mくらいだが、文献によると150年前には明永村の辺り、つまりは海抜2200mまで氷河があったそうである。地球温暖化の影響がここにも現れている。

 

登りに約2時間半、下りに1時間半ほど。往復で半日の行程。気軽に本格的氷河に近づくことができるのでお勧めできる。

 

 

 

明永氷河にせまる ©2001 Andow

トレッキングへ向かう ©2001 Fukuda

 

 

《青裸酒と明永村》

 

トレッキングからは明るいうちに帰ってこられたので、夕食までの間に村を散歩してみよう。散歩を始めるとすぐに民家に招き入れられる。村人たちは余所からの来客をほってはおけない性格のようだ。招き入れられるとさっそく酒を勧められる。チベット人の主食でありツアンパの原料となる青裸麦を蒸留して作った焼酎だ。中国語で青裸酒(チンコージウ)と呼ばれている。度数はあんまり強くないけれど、次から次へと注いでくれるのですぐに酔っ払ってしまう。子供の話やら、この村に滞在していた小林さんの話やらしていると、家の前を福田さんが通りかかる。さっそく福田さんも招き入れられる。ぼくが氷河に出かけていた間、福田さんは村で写真を撮っていたが、やはりあちらこちらで家に招かれて酒をご馳走になっていたのだという。晩飯を食っていけと誘ってくれるけれど、宿で食事を用意してくれているのだ。食事は遠慮しておいて、もう一杯お酒を頂いたらお暇することにしよう。見ず知らずの通りすがりの旅人なのに歓待してもらえるなんて旅人冥利に尽きるなあ。日本でも同じだろうけど、田舎に行くほど人々が質素なほど、疑いもなく旅人を受け入れてくれる。

 

宿までの帰りの道は50メートルばかりだった。すでにすっかりほろ酔い気分である。ちょっと村をぐるりと一周し、瀾滄江の川縁まで行ってみようと思って散歩に出かけたのに、結局50メートルしか進めなかったわけだ。宿に戻ると食事の準備がされていた。いったいどこをほっつき歩いてたんだい、なんて笑いながら咎められる。

 

さて、我々が泊めていただいたのは普通の民家である。一応ゲストハウスと小さな看板が出ていたので民宿としてもやっているのだろうけれど、宿泊施設としてとくに他の民家と違うところはなさそうである。チベットの民家は土でできた四角い箱みたいで、二階が広々とした平らな天井になっていて、日向ぼっこでもするのに良いかもしれない。どこの家も木製の窓枠は凝った彫刻にカラフルな装飾を施している。彼らはアーティストでもあり、家のお洒落を窓枠に賭けているようだ。

 

この家の主人、白瑪定主氏は活仏として村人に尊敬されているようだ。話を聞くと流転の人生を送ってきている。彼は青海省のジュクンド出身。カイラスを歩いて巡礼し、ヒマーラヤを越えてインドのブッダガヤまで旅してきた。そして巡礼の長い流浪の旅の果てにこの村にたどり着いたそうだ。自慢ではないがぼくもカイラスもブッダガヤもすべて自転車で旅してきた。だけれど、徒歩で何年もかけて旅してきたであろう彼の精神を追い求める旅にはかないそうにない。チベットではより多くより遠くを流浪してきた旅人は聖者として崇められる。日本では旅人はプータローとみなされる。

 

白瑪さんの奥さんは現村長の妹、ユンメイさんである。左の写真の民族衣装を着た女性がそうである。今日氷河まで案内してくれた少年ワンジアはその息子だ。その他にもいろんな村人達が小さな居間に集まってきた。もうすっかり辺りは暗くなってきた。蝋燭が部屋に燈されると、なんとなく田舎の家っぽい雰囲気だ。村には電気も通っているらしいけれど、よく停電するのだそうだ。でも蝋燭の中での歓談の方が、この地での思い出には相応しい。

 

食事が終わると次は待ってましたとばかりに酒が出る。自慢の自家製の青裸酒だ。食事前にもうすでに多少酔っ払っていたので、ぼくは最初から陽気な気分だった。出された酒は飲むのが礼儀であるし、もっとも嫌いではないので飲まない理由もない。いわゆる中国のように乾杯があるわけではないが、次から次へと注いでくれるのである。高度も二千bを越えていることだし効きは早い。酒はコミュニケーションのいい潤滑剤だ。次から次へと来客がある。雲南大学留学の時の話をしたり、ぼくの本を取り出してその写真でラサやカイラスの旅やこの辺りを自転車で走ったときの話をしたりである。若いグーニャンのチベタン達もやってきた。村の子供達も集まってきた。福田さんのインスタントカメラも大活躍である。写真を撮ってもらうために主人の白瑪さんが僧侶の衣服に着替えてきた。

 

酔っ払って即席のど自慢カラオケ大会が開かれたのを覚えている。黄さんが歌い、ユンメイさんだったか誰かグーニャンが何曲か地元の民謡を歌っていた。それはぼくの耳に懐かしい雲南の少数民族にも共通した響きだった。ぼくも何曲か中国語の歌を歌ったのを覚えている。どうせぼくのことだから、「南泥湾」や「小芳」でも歌ったに違いない。どっちも中国では誰でも知っている庶民的な曲だし、ぼくの十八番だからだ。そのうちたまらなくなって口から酒が逆流してきた。慌てて部屋から抜け出して、家の中だけど土になっているところで思わず吐き出す、がそんなに出てはこない。家の人が介抱してくれるが、まだまだいけるぞ。その後も2〜3回吐き出したような気がするのだけど、どこからどこまでぼくの記憶がつながっているのかどうにも思い出せない。すっかり酔っ払ったぼくはどうやって宴から脱落してしまったのだろう。ただぼくの思い出すことができる記憶の中に残る情景、それはあの暗いけれど活気のある部屋の中、蝋燭に燈されたみんなの温かい表情が、いかにも楽しそうに笑っていた。

 

  

 

村の活仏白瑪さん 明永村 ©2001 Andow

ユンメイ小姐 明永村 ©2001 Andow

 

 

《雨崩村へ向かう》

 

翌朝、明永村を十時くらいにジープで出発する。カカボ峰への登山ベースキャンプの入口にある雨崩村までは自動車道はないが、途中の西当温泉まではジープで行くことができる。西当の村も斜面にへばりつく様に、かなり上の方から瀾滄江沿いまで縦に広がっている。村には売店がありちょっとした物を売っており、電話もおいてある。自動車道は山腹をジグザグに這いあがってゆく。

 

車道の終点となる西当温泉にたどり着く手前で、道は土砂崩れで通行不能になっていた。結構大きな岩がごろごろと道をふさいでいる。ありゃりゃりゃと思うが、田舎の道ではよくあることである。ツッカイ棒でテコの原理を用いて大きな岩を谷底に落とし、何とかジープが通れる広さを確保する。ジープがぎりぎり通れる幅だし、斜面は谷底へと切れ落ちているし、路肩だって今にも崩れそうである。ぼくらは車から降りているけど、ドライバーの陳さんは命がけの通過である。何とか突破、事なきを得た。だけれど折角ピンチを脱したのに200メートルも行かないうちに、またジープは止まってしまう。今度はエンジンがかからなくなってしまった。そもそもこのジープは一目見ただけで納得のポンコツなのである。今までも調子が悪くなったことは再三あったが、今回は一時間もエアクリーナをいじっていたけれど、結局新しいパーツがないと直らないということになった。ここから徒歩で出発することにする。陳さんは車の修理のために残り、黄さんがガイドとなる。温泉まで行けば、荷馬が待っているという。ザックを背負って登ること40分、温泉までたどり着く。温泉からは馬を一頭と、馬追いの少年が我々に加わる。14歳の少年の名はアチスリ。君は学校に行かなくてよいのかい?と聞くと、今日は特別な休みなのだそうだ。

 

天気は上々である。木々の中を行く山道はよく整備されている。登りが続くが空荷なので楽だ。西には瀾滄江の対岸に白茫雪山の山脈が雪をたたえて広がっている。温泉から約3時間で峠に達する。峠の高度は3800m程なので温泉から1200mの高度を稼いだわけだ。ここの峠は木々におおわれており、まだ森林限界を超えてはいない。無数のタルチョが色鮮やかにはためいている。この時点ですでに17時であり、夕暮れの雰囲気が漂い始めていた。今日の目的地の雨崩まではまだ遠い。少年は今日中に西当まで帰らなければならないので急いで峠を下ろう。少年と交代しながら馬を追って下っているうちにだんだん日も暮れてきた。駆けるように峠を下ること1時間、村にやっとたどり着いた。すでに辺りは薄暗く、馬追いの少年は食べ物を村人からもらうと急いで引き返していった。暗がりの中を今から峠を一つ越えて帰ってゆくなんて大丈夫かなあ。

 

雨崩村はこの一帯で最も標高の高い村とされる。人口は170人、小学校があるが売店や電話などはない。雨崩は上村と下村に分かれている。今回滞在したのは上村の方だ。下の村はジャワルンナ峰の麓にあり、そこからジャワルンナ峰への谷を詰めてゆくことで、内転巡礼コースのハイライトの一つ「神瀑」の滝に至ることができるらしい。この滝で沐浴することは信者にとって至上の喜びであると聞く。

 

村では森林管理員アナチュ氏の家に世話になる。家への入口は2階にある。2階に上がるには一本の丸太を綱渡りの様に登っていかなければならない。もちろん1階にも入口はあるのだが、1階はヤク等の動物の入るスペースになっており、普段は固く閉ざされているようだ。この丸太橋梯子は酔っ払っている時には非常に危険だ。実際あとでぼくは一度落っこちて、あやうく怪我するところだった。

 

アナチュ氏は30代後半といったところだろうか。彼は京都大学の遠征時にはキャンプ2まで上がったことがあるそうだ。登山隊が来たときに撮ってもらったであろう写真などいろいろと見せてくれた。アナチュ氏はその頃を懐かしそうに振り返りながら話す。ぼくの持ってきていたメツモ峰の写真を、口には出さないがとてもほしそうだった。何回も何回も繰り返し見ていたからだ。この村からはカカボ峰は直接見えない。直に拝むことができるメツモ峰の方が村人たちにとってより身近な聖 山なのだろう。ぼくはその写真をあげることにした。彼の顔は突然ほころんで、子供のように笑顔になった。

 

  

 

馬追の少年 西当-雨崩 ©2001Andow

バター茶を作る老婆 雨崩にて ©2001 Andow

雨崩での食事 ©2001 Andow

 

 

《地元の人々の生活について》

 

トイレに関して記しておこう。離れのトイレにキジを撃ちに行ったのは暗くなってからのことで、ヘッドランプを点けてのお出かけになる。高床式のトイレの床板が外されたところがあり、つまりはそこの穴にしゃがんで用を足すのだが、下方前方からモゾモゾガサガサと音がしてくるのである。ヘッドライトを向けると音が止み静かになる。床板の陰になっていて正体は見えない。というよりその何者かは巧みにこちらから見えないように隠れているのである。無気味だ。これでは出るものも出なくなってしまう。ヘッドライトをそらすとまたゴソゴソ動き出すのだが、奴が声を発したときその正体は判明した。ブヒブヒブヒー! ぼくは全てを理解し、今か今かと待っている奴のためにもとっとと用を済ますと、静かにその場を立ち去った。

 

翌朝も用を足しにトイレに行くとその“モノ”はなくなっていた。律儀にもトイレットペーパーだけはしっかりと残っている。これは極めて衛生的で臭くもなく、優れているトイレであるといえよう。あとこのような迷惑な“モノ”を残してゆくのはどんな形にしても気が引けるものだが、それがどんな形であろうと何らかの為に役にたっているというのは悪い気分はしないものだ。

 

夕食が用意される。こちらでは主食はツアンパよりも小麦粉をパンケーキのように焼いたものの方が主流のようである。ツアンパもあるのだが、ここいらのツアンパで面白いのはトウモロコシの粉が入っていることだ。結構味もこのほうがいけるかもしれない。ちなみにチベット民族の一般的な主食はツアンパであり、日本でいう麦焦がしだ。青裸麦を煎って粉にしたものである。小麦粉のパンケーキはインドやネパール辺りでは分厚いのはナンとよばれ、薄いとチャパティとよばれ、中国語では焼餅(シャオピン)と呼ぶのだが、チベットでは何と呼ぶのかついぞ聞いたことがない。気になるので知っていたら誰か教えて下さい。

 

今晩はこの小麦を練って伸ばしたり四角くしたりしてドーナツみたいにたっぷりの油で揚げたものを作ってくれた。おかずに赤カブの炒め物や、同じく赤カブの漬物がでる。そしてメインは豚肉の駒切炒め物である。肉は来客用の特別メニューだろう。この辺りではチベットには珍しく豚肉が肉の主力になっている。もちろん先程ぼくのなれの果てを処分してくれたブタもいずれ食卓に上がるのだろう。ここではすべては輪廻し、生命はつながっている。

 

ついでなので家畜について記してみたい。あとで梅里水村の村長に聞いた話になるが、ここいらではもっとも高価なのがヤクであり一匹三千〜四千元、良いのになると一万元くらいになるという。ただここいらのヤクは高海抜地帯の中央チベットのヤクと違い、だいぶ普通の牛の血が混じっているようだ。純血のヤクは低海抜では生きられないから標高の比較的低いここでは必然的にそうなったのだろう。馬が一匹一千〜二千元、ロバで一匹二千から三千元らしい。ロバの方が高いのはおかしいような気もするが。羊は百〜百五十元。そういえば今回は羊を見かけることがまったくなかった。チベットで肉といえばまず羊なのに食事で出てくるのはブタだし、羊なしのチベットなんて正直言って想像できないのだが、たぶん放牧できない今の時期は他に移されているのだろう。

 

話を雨崩での滞在に戻そう。アナチュ氏の家には衛星テレビとビデオCD再生機があり、夜には村人が集まってくる。こんな山奥にぼくですら持ってないような大きなテレビがある。電気は簡単な水力発電機が村内にあり自足している。テレビは最近村に浸透してきたらしく、番組は中国の時代劇から現代の都会を舞台にしたドラマ、お笑い番組からアニメまで多岐に及ぶ。ニュース番組が一番その国を理解するのにおもしろい。中国のニュースは完璧に共産党のコントロールにある。やたらと「法輪光は邪教だ!キャンペーン」のニュースをやっており、共産党のプロパガンダは他に外部の情報ソースを持たない田舎の村人にはよくよく効いているようだ。ここではみんな報道をそのまま信じきっている。経済の爆発的発展中の中国沿海部では、公共の放送以外に外部からの情報源があり、だれもマスコミなど信じてはいないが、田舎の方がマスコミの影響を大きく受けて政府の思う壺なのかもしれない。

 

  

 

雨崩村にて食事時のひととき ©2001 Andow

雨崩村よりジャワルンナ峰 ©2001 Andow

雨崩の小学校で ©2001 Fukuda

 

 

《カカボ峰ベースキャンプへのトレッキング》

------------------------------------------------------------

3月2日 雨崩から一日で往復

 

雨崩(海抜3120m10:00) → 峠(海抜3600m) → 笑農BC(海抜3550m12:40)

(海抜3600m13:15) → 雨崩(海抜3150m14:20) 約4時間半

同行者:ガイドの黄氏、地元案内役としてスーチンパーテン氏

-----------------------------------------------------------

 

雨崩村は辺りを雪の山々に囲まれている風光明媚なところである。西の谷の奥にガオアルンダ峰(6000m)を仰ぎ見ることができる。南にはギザギザの山稜を持つジャワルンナ峰(5470m)、女神メツモ峰(6054m)と続き、東の谷の入口にドゥジチャ峰がある。どの山も聖山だ。

 

出発時の天気は曇り気味になる。雨崩には雪はまったくないが上部は雪が多いため、登山隊のベースキャンプとなっている放牧地まで行けるかどうかはわからないというが、とりあえず出発することにしよう。森林地帯をゆく道はあまりはっきりしていないトレースであり、ガイドがいないと迷ってしまうだろう。

 

この辺りでも松茸が取れるという。徳欽は松茸の産地として有名だが、現地の人たちはもともと松茸はあまり食べない。かつては松茸は二束三文にしかならなかったのに、今はそのことごとくが日本へと出荷される。十数年前の松茸輸出の黎明期には、三菱商事などがヘリを使って空輸したりと、この辺りの経済にとって大切な役割を果たしてきた。雨崩の村人にとっても重要な現金収入の方法だったのに、ここ2〜3年ほどで雲南の松茸の相場は数分の一ほどまでに暴落しているという。スーテン氏の何故かという問に、北朝鮮などから超安値で日本に入ってくるようになり、また松茸釘入り事件が雲南産のイメージを悪くしてるんじゃないかなあ、と述べておいた。あと不景気の影響も大きいだろうなあ。輸入松茸がずいぶん安くなったとはいえ、所詮はまだ椎茸よりも高い松茸にまったく縁のないぼくである。お吸い物に入っている乾燥松茸以外口にした覚えのないぼくには、この地域の経済活性について語る資格はないかもしれない。でも暴落しているならば逆手にとって松茸食い放題ツアーを組織するのもいいかもしれない。5泊6日で30万円でどうだろう。登山隊よりメンバーが集まるかもしれない。しかし日本の食文化事情の変化がこんな山奥にも深刻な打撃を与えつつあるとは、世界も狭くなったものである。

 

スーテン氏はたぶんぼくと同じ位の歳である。アナチュ氏の弟であるが、奥さんは兄貴と共有している。いわゆる一妻多夫である。チベットでは限られた財産を兄弟で分散しない為にもこのような制度は普通に行なわれ、そして社会を上手く維持するのに役立っているようだ。一妻多夫の習慣は文献で読んで知っていたけど、実際にその存在を確認できた。

 

二時間ほどで、タルチョのはためく雪の峠に到達する。標高は3600mなのでまだ木々が生い茂っている。峠の向こう側に雪の岩肌を遠望することができる。京大のBCから第2キャンプまでの登山ルートが観察できる。山稜の上部は雲で覆われている。

 

ガイドの黄さんがこれ以上進むのは危険だといいだした。BCはこの峠を下ったところに広がる平らな地にある。確かに積雪はある。だがぼくらにすれば冬の大山の元谷小屋まで行くのと変わらないくらいたやすいことである。現地ガイドのスーテンさんだって行くことに反対などしていない。そもそもこの黄さんはガイドの経験がなく、何年か前に一度この村に来たことがあるだけである。陳さんに雇われて今回が始めての本格的ガイドなのである。彼の靴はサラリーマンがオフィスで履くようなちゃちな靴で、当然ながら雪の中など歩こうものならすぐに脱げてしまう。そんな靴ではムリであるとトレッキング前からぼくが言っておいたことだ。自分が靴のせいで進めないから、この先は雪崩が心配だなどと言い出しているだけの話なのである。困ったガイドであるし当然わざわざ日本からきたぼくらとしてはガイドのわがままを聞いてはいられないのである。そこで黄さんは峠で我々の帰りを待つことにして、三人で峠を下っていった。

 

峠直下付近は吹き溜まりになっているのか雪は多い。場所によっては腰ほどのラッセルがあるが、とくに雪崩などの心配はない。ラッセルはスーテンさんとぼくとで交替しながら進み、森林地帯をしばらく進んだところで、ふと開けた場所に出た。小屋がいくつも建てられている。雨崩村の夏の放牧場シャオノンであり、また登山隊のベースキャンプが置かれるところでもある。ここでは積雪は多くなく、せいぜい脛までである。開けた視界の奥は、雪が張り付く岩壁群に取り囲まれている。天気がどんよりとしているだけに、よけいに神秘的な雰囲気がこの谷を包んでいる。隠された秘密の谷って感じがある。ぼくらはその禁断の地に足を踏み入れた世迷い人である。

 

こんな所まで本当に来れてしまったのだなあ、と感慨深いものがある。1995年に哈巴雪山に登山した時、登山活動終了後に中国人の若い連中達とここのBCまで偵察に行こう、と予定を立てていたことがあった。結局その時は来られなかったけれど、実際そんなに簡単にたどり着ける所ではないと思っていた。今回も雪の時期にここまで来ることができれば取りあえずの成果だな、と考えていたくらいである。まあ登山隊にとっては、ここはほんの始まりにすぎず、本当の勝負はここから始まるのだろうけれど。

 

BCの標高は約3500m。主峰カカボの頂上6740mはヒマラヤのジャイアントに比べると高くはないかもしれない。だがBCの標高がそれよりずっと低いので、ここから頂上への高度差は3千b以上。頂上へのルートの長さはヒマラヤに引けを取らない。ここのBCは一般的なチベットの登山基地のイメージと異なり森林地帯の中にある。ただこの辺りから上部へは高い木は少なくなってくる。BCからは頂上を望むことはできない。ここから眺めるルートはすでに京大の報告書にあるとおりである。正面を見上げると氷河の末端が見受けられる。その氷河を越えたところがC1となる。氷河の上は雲に覆われているが、時々その雲が薄くなると氷河上部の谷筋を上がった稜線の鞍部に黒い岩塊が望める。その鞍部がC2となる。天気がよくても、C2より上部のルートはどうせここからは見えないので、空が晴れてはいなくても視界があるだけ満足することができた。ここまで来れば何か新しい発見が出来るとは思ってなかったけれど、こうしてやってきて実際にルートを目の当たりにすると、物見遊山的なもの以上に、何か感じるものがある。それを説明することは難しい。だが、それを実行することはさらに難しい。

 

この辺りは五月には花畑になる、とスーテンさんはいう。この谷が高山植物で覆われる景色を想像することは、ユートピアを思い描くようなものだ。そこは純粋な心をもったものだけが訪れることを許される「秘密の花園」であるにちがいない。いつかまた再訪することができるだろうか。

 

     

 

峠で焚き火する ©2001 Andow

雨崩村よりガオアルンダ峰 ©2001 Andow

シャオノンBCにて登山ルートを臨む ©2001 Andow

 

 

《馬上の人となりて風の谷を行く》

 

BCから早々に帰ってきた我々は、午後を気ままに時を過ごす。とくに高山病等の症状はなかったが、日本でひいた風邪がまだ抜けきれてない安東はちょっとしんどい。だけれどせっかくはるばる来たのだから、こんな所で風邪なんてひいている場合ではない。小学校、といっても児童は全部で10人もいない、の先生を訪れたり、村にあるチベット仏教の大きなマニ車に集うお婆さんたちにぼくの自慢の仏陀の目が背中に刺繍されたジャケットをみせて自慢したり、スーテンさんについていってブタのえさにする木の葉の刈り出しを手伝ったりしている内に日が暮れてきた。その晩もアナチュ氏の家にお世話になる。食事をしている頃からぼちぼちと村人達が集まり始め、またまた大人数になってきた。ここの家は結構大きく、広間はいくらでも人が入れそうである。この家にはテレビがあるのでみんな集まってくるようだ。昨晩から一人のグーニャンがぼくに色目を使ってくるようだが、気のせいだろうか。

 

翌朝3月3日の朝方は晴れわたり、景色はまるで絵のように広がっていた。ガオアルンダ峰とジャワルンナ峰が朝焼けのピンク色に染まってゆくのを観察できたが、メツモ峰は雲の中にあった。ゆっくり滞在したい気分だが、限られた日程なので先を急ぐことにしよう。村から峠までは馬に乗ることにする。本来ならぼくはそんなブルジョア的なトレッキングは大嫌いなのだけれど、ここで馬を雇うことは村人にとって収入の糧となり、お世話になった分に報いることにもなり、まあここは楽して馬に乗るのも付き合いかな、と判断した。

 

荷馬一匹と乗馬用二匹、計三匹をお願いしたが、普段放し飼いしている予定していた馬が一匹見つからなくなり、結局馬二頭で福田と安東で騎乗し出発。村人三人が加わる。峠へと登る道は急である。馬にとってもかなりきつそうだ。この辺りの馬はロバの血が入っているいわゆるラバのようだ。何だか気弱そうな馬で、実際すぐにばてる。ぼくの乗る馬の名はフアチャオといった。フアチャオを曳くのはツリヌブ少年である。フアチャオの目は何だか悲しそうだった。生まれてこの方、彼の馬生は苦痛の連続であったかのように。だけれどツリヌブ少年は優しく、言うことを聞かなくても馬を叩いたりはしなかった。ここに来る時の馬追いのアチスリ少年などは、馬が道草でも食おうものならすかさず蹴りを入れていたものだ。

 

見上げると空は晴れわたり、氷のピークに囲まれた雨崩の谷間はまるで箱庭のようである。東には遠く白茫雪山がギザギザとしたピークの連なりを見せていた。確かに梅里雪山群の圧倒的なカッコよさに比べると、向こうの白茫の分水嶺はやはり見劣りしてしまう。本当は梅里雪山さえなければこの辺りで際立った山脈なのだろうけれど。だが未踏であることには違いなかった。

 

もうじき峠に差しかかるころ、雨崩の美しい谷間の景色が見納めとなる曲がり角を進むとき、メツモ峰の頂が雲のモヤの中に現れた。上空が晴れていてもメツモの山頂だけは今まで雲に覆われたままだったのに、最後の最後に女神が微笑んだかな、と思った。

 

---------------------------------------------------------------------------

 

西当温泉にたどり着くと、陳さんのボロジープが停まっており、中では青裸酒の瓶を片手に持ったまま陳さんが昼寝していた。どうやら車は直ったらしい。

 

温泉といえばぼくは温泉探究家である。世界の秘境の温泉はぼくの研究テーマの一つであり、現在雲南の温泉の研究を続けている。特に雲南には温泉が多く、現在確認されているだけでも千以上あり、さながら日本と同様温泉王国であるといえる。昆明近くに湯治の里として知られ「天下第一湯」と称される安寧温泉、大理石でできた浴槽が自慢の下関温泉をはじめ、数多くの温泉が散らばっている。徳欽県では15の温泉が確認されているが、浴槽などの設備が整っているところは大変少ない。観光開発の一環として自治体が温泉を利用しようとするのは日本と同じであるが、ここの西当温泉も1999年に浴槽の設備が整ったばかりである。中国の他の温泉同様にたんなるコンクリート打ちっぱなしの浴槽で、頭上の蛇口から湯がボトボトと落ちてくるだけという代物であり、日本のように情緒ある温泉風情を期待するわけにはいかないのだけれど、温泉は温泉である。トレッキングの汗を流すには最高である。温泉あがりにできれば冷えたビールがあれば最高であるが、こんな山奥ではそれはかなわぬ夢だ。かわりに生ぬるい青裸酒をあびるが、まあこれでも悪くはない。

 

ジープで瀾滄江を北上し、梅里水へ向かう。天気は上々で、谷底を行く路上から見上げると、素晴らしく圧倒的な姿で梅里雪山カカボ峰が聳えていた。

 

  

 

アナチュ氏一家 雨崩にて ©2001 Andow

騎上のカメラマン、福田 ©2001 Andow

ツリヌブ少年と馬のフアチャオ ©2001 Andow

 

 

《梅里雪山群第二峰PK6509へのトレッキング》

 

梅里雪山群で二番目に高いPK6509峰は東側からは見ることができない。よってその存在はあまり知られていない。中村保さんの本でPK6509をキングドン・ウォードが「クリスタルドーム」と呼んだ、というくだりを読んでからぼくにとって気になる存在だった。アメリカ隊がチベット側から2回登頂を試みているが失敗している。

 

ぼくらはPK6509峰への雲南側からのアプローチを今回狙っていた。地図を検討すると東からアプローチするには3つの谷が確認できる。当初は瀾滄江沿いにある村の溜筒江(リウトンジアン)の谷からのアプローチを考えたが、地形図から判断すると4800m近い尾根を越えねばならないし、ガイドの陳さんが溜筒江の村人に聞いたところ、とても今は雪のため行けないとの情報であった。溜筒江はかつてこのあたりで瀾滄江を渡航する唯一の橋がかかっていた所であり、ラサへと続く交易路の重要な経路であった。馬の背には雲南の特産である茶が運ばれていったので、そのルートは茶馬古道と呼ばれていた。この茶馬古道はチベット高原を数千キロ横断し、遥か西のラダックまで続いているという。

 

百年程前、このルートを通って当時鎖国中のチベットへと、禁断の聖都ラサを目指した日本人僧侶がいた。その名を能海寛という。おそらく日本人として梅里雪山を礼拝したのは能海寛が初めてだろう。しかし能海は徳欽から十数キロ北に行ったところにある関所で惨殺されてしまった。おりしも同じ年、能海と同じ目的をもった僧侶河口慧海が日本人として初めて鎖国中のチベットへの潜入に成功した。彼はネパール側から雪のヒマラヤを越え、西チベットの同じく聖山カイラスを初めて訪れた日本人でもあった。河口慧海が帰国後出版したチベット旅行記はベストセラーになり、英語でも出版されたために彼の名は世界的に有名になった。日本人の間でカイラス山が有名なのも慧海の功績があるかもしれない。能海が生きてチベットから帰っていれば、彼も東チベットの貴重な旅行記を残していたにちがいない。そうすれば梅里雪山は京大の悲劇の山としてだけでなく、聖なる山としてもっと日本人の間に知られていたかもしれない。能海については江本嘉伸氏の「チベットに消えた旅人」に詳しい。彼が鳥取の隣、島根の出身というのも興味深い。

 

溜筒江から10キロほど北に、公路が欄蒼江にかかった橋を渡ると次の谷の入口があり村もあった。地形図から見るにこの谷からのアプローチが最もPK6509東面への可能性があるが、日が暮れかけていたので写真を撮るにとどまった。陳さんもこの小さな村には知り合いもいないようである。さらに5キロほど北に行くと梅里水村につく。梅里雪山一周の巡礼路が自動車公路に合流するところである。この日は村の村長宅にお世話になる。

 

ここでの情報では、雪が多い為にPK6509の東面に近づくことは今は無理であるとのこと。6月から11月の間であればここから片道3日かかってPK6509の東面直下にある梅里水村の放牧地にたどり着くという。後で聞いた話だと村人なら1日で行ってしまうらしい。そこには池があるという。去年6月にアメリカと日本からの外国人をその地へ案内したという。日本人は北京地質学院の人と一緒に入山したらしい。鉱物資源の調査のわりにはそんな山奥にも入らないだろうし、植物か何かの研究者と思われる。できれば今回ぼくもそこへ行きたかったが季節が悪い。残念である。

 

陳さんも知らなかったことであるが、PK6509の山頂は雲南ではなくチベット自治区側に在るため、徳欽県の管轄ではなくなるとのこと。雲南側からのルートを調べたかったぼくとしてはこれは大きな誤算だった。このピークは西藏チベット自治区左貢県の領域になり、コンタクトするならチベット登山協会ということになる。そうなると登頂ルートは自治区側からとる必要があるかもしれない。

 

PK6509峰には名がない。梅里水村の人たちにとっても信仰の対象とはなっていない。ただしチベット側の麓の村人には信仰の対象となっており、また山名もあるだろうとのこと。梅里雪山の雲南側に関する資料は中国語の本でも結構あるのだが、チベット側に関しては非常に少ない。PK6509に一番近い雲南側の村人も、このピークの存在は知っていても名も知らないくらいなのだから。

 

雲南側からのアプローチは今は無理であるが、PK6509峰を合間見えることは可能であるという。ルートは梅里雪山巡礼一周路を逆にたどり、峠を越えて一度チベット自治区側に入るという。このルートはすでに中村保さんも小林尚之さんも通過しており、なにも目新しい挑戦ではないのだが、他に選択余地はなさそうだ。ぼくとしては少し残念ではある。

 

馬は凍った川の上を歩くことが出来ないためにつれてゆくことはできない。上部には放牧のための夏季小屋があるのでテントは持っていかない。今回は安東だけで、村長を案内役に、黄さんと共に行くことにする。PK6509へのトレッキングは3日間の予定で出発する。福田は別行動とし、陳さんをガイドとして佛山など付近の他の村を訪れることにする。

 

 

 

渓谷の底よりカカボ峰を見上げる ©2001 Andow

梅里水のオーボ ©2001 Fukuda

 

 

-------------------------------------------------------------------------

PK6509峰偵察トレッキング

 

3月4日

梅里水(海抜2095m、7:50) → 巡礼路起点(海抜2145m、8:10) → ドウトン放牧地(海抜4160m、17:00)

 

3月5日

ドウトン放牧地(海抜4065m、8:00) → シエラ峠(海抜4875m) → PK6509を臨む丘陵 →

シエラ峠(海抜4875m、13:30) → ドウトン放牧地(14:15) → 梅里水村(海抜2175m、18:30)

 

同行者:ガイドの黄氏、地元案内役として梅里水村村長

------------------------------------------------------------------------------------------------------

 

翌朝、暗い内から早めに起きて準備を整え出発する。ルートは巡礼路をたどり、シエラ峠を源流とする小川が刻み込んだ谷に沿って登ってゆく。村から20分ほど北に瀾滄江沿いに歩いたところが谷への入口である。そこには祠があり杖になる棒がいくつも置いてある。巡礼を終えた者がここに杖を置いてゆき、今から山に入るものはそれを使うのだ。谷間には徐々に春が忍び寄りつつあった。桃の花がピンクに花を咲かせている。

 

休憩する時には焚き木を集め、鍋で湯を沸かしバター茶を作る。村長が持ってきたパンケーキと豚肉の生ハムでの食事。食後は青裸酒とたばこでくつろぐ。ぼくは普段はタバコを吸わないのであるが、中国ではコミュニケーションの為にも相手に薦め自分でも吸うことにしている。村長は今までも西洋人をガイドしたことがあるが、彼らは地元民と同じ物を食べようとしないし、休憩もいつも別々であるそうだ。ぼくは食後の時間を利用して植物の種を集めてまわった。ここの高度では花はまだ咲いていない。

 

村長の持参品は毛布と食糧や鍋の入った背負い籠と猟銃一丁である。村長が木上にキジ鳩を発見、早速猟銃を構えながら木に接近。今晩はキジ鍋だ!と楽しみにしながら村長の挙動を見守る。ダーン!と辺りに銃声が響く。やった!と思いきや、木上からはバサバサと鳥が飛び立っていった。村長はテレながら帰ってきた。おかげでその晩の食卓はインスタントラーメン「康師傅」になった。

 

小川に沿って幾つもの橋を渡り次第に高度を上げてゆく。山の木々の緑が空の青さの中で輝いている。松やら杉やらと豊富な植物相である。雪こそほとんど積ってはいないが、上部に行くにつれ小川は凍結してきた。氷の上はすべる。黄さんが転び、安東が転び、そして村長も転んだ。これでは馬は通れないだろう。場所によっては滑る氷を避けるために高撒きする。高度が四千bを越える頃には、瀾滄江をはさんで対岸に、金沙江との分水嶺の雪をたたえた山々が見え始める。ここから見えるその分水嶺は白茫雪山の北に続いている山々であり、村長に山の名を聞くとアドン雪山であるという。

 

海抜4200m、9時間の登りのすえに本日の停泊地についた。ドウトンの夏の放牧地には小屋がいくつも建っており、あたりはシャクナゲの樹木に覆われている。燃料にする木材も豊富であり、さっそく黄さんは今晩の為の槙割りをはじめる。ぼくは辺りを探索することにし森林の中を歩き回った。幾つかの植物の種を集めてきた。日本に帰って庭にでもまいてみよう。このあたりはシーズンになればサクラソウやリンドウなどが咲き乱れるのであろう。そして幻の青いケシの花も。

 

ぼくが青いケシ(メコノプシス/スペシオサ)に初めて実際に出会ったのは1998年のことだ。青海省の西寧を自転車で出発し、黄河の源流を求めて旅に出たときのこと。7月の高原は青々とした豊富な草で覆われていた。放牧のヤクが草をはみ、チベタンの放牧テントが散在していた。1993年の鳥大の遠征舞台となったアムネマチン山脈の付近を通過したときのことだ。傾斜はそれほどでもないけれど、ひどく長い坂を登り詰めてゆくと、ふと道脇の岩陰に青い花を見つけた。白や黄色の小さな花々はいくらでも草原には点在していたけれど、ちょっと大きめの青い花は初めてだった。すぐに直感でわかった。オオッ、ケシの花じゃないかぁ。ふと、目を上げるとあちらこちらにも青いケシが咲いていた。結局自転車で800キロ走った中で、たったの三ヶ所でしかその群生を見かけることはなかった。つまりは200〜300キロ進んで一回見かけることができるかどうか、しかも海抜3千b以上で夏の間限定という貴重さである。だから青いケシの花はどこにでも咲いているというものではないのだ。出会えるだけでもラッキーな、高山植物花の中でも最も可憐で気高い存在なのである。

 

小屋の中での焚き火も悪くない。テントではできない技だ。ここまで高度が上がるとかなり冷え込むので火の暖かさが身体にしみる。食事の後は青裸酒でほろ酔い気分となる。炎のひかりに照らされ、村長と黄さんの顔が赤く揺れている。ぼくの顔もきっと酒と炎で赤く染まっていたにちがいない。外に出ると、星が圧倒的迫力で天を覆っていた。

 

夜半は風が強くなってきて、小屋の外では風が吹き荒れて嵐の夜になった。寝袋にくるまってすっかり深い眠りに落ちていたときに、一度入口のつっかい棒が外れて風が小屋に突然吹き込み、焚き火の炎が小屋の天上まで届かんがばかりに燃え上がった。寝ていたぼくは驚いて飛び上がったが、ぼくの驚きようがあまりに可笑しかったらしく、翌朝から何かあると黄さんから話のネタにされるのである。

 

  

 

佛山の村からメコン川 ©2001 Fukuda

佛山のチョルテン(仏塔) ©2001 Fukuda

 

 

《シェラ峠を越えてチベット自治区に入る》

 

3月5日である。曇っている。これでは上に登っても山は見えないかもしれないなあ、と思いつつ出発する。ドウトン放牧地はまだ森の中にあったが、高度が上がるにつれ高い木は姿を消した。だいたい標高4500mくらいで森林限界を越えたようである。気温は登るにつれてどんどん下がってくる。雪はところどころ溜まってはいるが、あまりない。

 

シュラ峠の海抜4875mが今回の旅の最高海抜となる。またこの峠は梅里雪山巡礼路においても最高海抜地であり一番の難所である。しかも両面が切れ落ちているような険しい峠である。遠くから見るとあんな所に峠があるのだろうかと感じるほどの急峻さである。雪があると雪崩の危険性が十分ありうるだろう。この峠は瀾滄江(メコン)と怒川(サロウィン)の分水嶺であるばかりでなく、雲南省とチベット自治区との国境でもある。またこの峠は茶馬古道の最大の難所の一つでもあり、ちょっと昔までは雪のために年に数ヶ月しか通過できない峠であったらしい。ぼくもそう聞いていたので、まさか今の時期にこの峠が越えられるとは思ってもみなかった。白茫雪山峠もそうだったけれど、今年だけ異様に雪が少ないのだろうか。或いは世界はこのまま温暖化してゆくのだろうか。

 

4800mを越える標高を訪れるのはぼくにとって一年半ぶりだ。その時はガンジス河の源流を求めて遡って行き、ついにガルワールヒマラヤ山系のただなかの氷河の末端から川が流れ出るところまでたどり着いた。しかし最初の一滴が見たいと思い、さらにその氷河を登りその上にそそり立つ斜面をはいあがって行った。なぜならその斜面から小さな水の流れが滝となって氷河に降り注いでいたからだ。その上には広く平らな高原が広がっていた。神秘的なところだった。そしてぼくはそこで不思議な人に出会った。彼はたった一人でこんな人里はなれたインドの山奥で修行を続けるヒンズー教の聖者だった。

 

おっと、話を元に戻そう。せっかくたどり着いた今回の旅での最高海抜地点だったが、あまりの風の強さにすぐに下り始める。風の強さは半端ではなく、立っていることは困難なほど。気温そのものはそんなに低くはなさそうだが、風のために体感温度はずっと低い。斜面は急激に、落ちるように下っている。大山の砂滑りを駆け下るようにダッシュで走り抜ける。海抜四千b以上でも走れるのだから、まだ多少はぼくの体は高度に対して免疫を持っているようだ。やはり一年に一度は五千b近いところまで訪れておいておきたい。

 

急斜面を終え、緩やかな丘陵地帯をさらにしばらく下ったところで、村長が南のほうを指差した。「あれだろう、君が見たがっているのは」 遠く丘の向こうに雲に覆われた巨大な山塊があった。

 

どうやらそれに違いなかったが、TPCの地図、中国登山協会の地図、中村保さんの地図とコンパスで確認する。間違いなかった。雲が上部をすっぽりと覆っているが、あれだけの大きな山塊を間違えるわけはない。だけれど手前の丘のせいで全容をあらわしているとはいえない。その丘まで行ってみたいと思った。そしたらガイドはとんでもないといった顔をした。二人とも寒さで震え上がっていて、すぐにでも下山したそうである。強風が体温をどんどん奪ってゆくのだ。彼らは手袋もしていない。ぼくは少なくともあと二時間はここに留まって雲が晴れるのを待っているつもりだと言い、二人には先に小屋に戻ってもらうこととした。

 

彼らが去ると吹きすさぶ荒野の中にぼくだけが残された。やるべきことは決まっていた。決断するのもぼく一人。行動するのもぼく一人。ぼくの本領発揮の舞台だ。あの丘まで行ってみようではないか。上手くすればそこにたどり着くまでに雲が晴れて頂上が拝めるかもしれない。

 

そこへ向かう道は特にないので、適当にガレバを進んでゆくしかない。所々にある雪の吹き溜まりでは多少のラッセルを強いられる。一度谷へ下ってから登りなおすので、見た目よりは時間がかかる。しかも制限時間があるので必死である。丘陵地帯に雪田がまだらに広がっている。太陽の光が雲から漏れてくるとき、大地の雪田は陽光に輝く。一時間は歩きつづけた。ただただ登りつづけるマシーンと化し、心臓はドクドクと鳴った。あたりは相変わらず凍った烈風が吹きすさんでいたが、ぼくの内なる世界は燃え尽きそうだった。

 

PK6509の山域は東側から見るカカボの鋭い様相とはまったく異なる姿を呈していた。どっしりとそこに存在していた。なるほど、キングドン・ウォードが「クリスタルドーム」と称しただけのことはある。残念ながら上部は雲に覆われたままではあった。たしかにその山塊を観察することが目的ではあったけれど、そこに至ることにぼくは夢中になってここまで達した。手段はもはや目的となっていた。だから肝心の頂上を観察することは出来なくても、ぼくは満足していた。快い気分だった。達成感が獲られたひとときであった。

 

一通り撮影を済ませる。休憩なんてしている場合ではない。14:00までに小屋に帰る約束をしている。もう一時間も残ってない。時間までには帰れないだろうけど、出来るだけ早く帰らねば。振り返ると西にはサルウィン河の向こうへと続く山脈が、ごちゃごちゃとした地球のシワのように続いていた。未知なる世界が広がっていた。

 

放牧小屋には結局14:15に着いた。約束に15分遅れてしまったが、黄さんと村長はぼくを心配するでもなく青裸酒を飲んでいた。なあんだ、急いで降りてきて損したな。予定ではここにもう一泊してから明日下ることになっているが、今日中に下ることにみんな同意する。彼らにとってここはもう一晩過ごすには寒すぎたし、ぼくは時間を節約したかったから。ラーメンの昼食をすませると、とっとと下り始める。

 

放牧地から村への下りは、やたらと休憩時間をとりすぎたし、しかも青裸酒を飲みながら半酔っ払い状態で下ってきたので時間がかかっているが、実質2時間半くらいで下ってこられると思う。

 

再び村長の家に世話になる。家には充分すぎるほどの電力があるらしく、電球も雨崩に比べても明るく、ミキサーなど電化製品も見られる。夕食のおかずの種類も多く贅沢なタマゴ料理などもあって豪華であるといえる。雨崩のような山奥の村とここのような車で来られる村とでは、すでに経済的な格差が広がりつつあるようだ。

 

  

 

今回の最高地点シェラ峠海抜4800 ©2001 Andow

シェラ峠を越えたチベット領 ©2001 Andow

 

 

《徳欽にて旅遊局訪問》

 

3月6日。昨夜から雨が降り始めた。上部では当然雪だろう。昨日の内に下山しておいたのは正解であった。進めるうちに進んでおけ! 辺境の旅での鉄則である。さて、今日はお役人にあうのだ。鬼が出るか蛇が出るか。行ってみなければわからない。ジープで徳欽へ向かう。溜筒江から瀾滄江の川辺を離れて登りが始まる。飛来寺の峠までは標高差で1500m近くある。車で行くと居眠りしている間に着いてしまうが、6年前は同じ道を自転車で登ったものだ。あまりの急坂に息が続かず自転車を降りて押して進み、5時間かけてクタクタの状態で峠にたどり着いたときの気持ちを、いまだに思い出すことができる。

 

陳さんの案内で徳欽県旅遊局を訪問する。旅遊局のぼくと同じ位の年のユーさんとはすでに顔見知りであるが、お偉いさんに会うのは緊張するものだ。局長である張永明(洛桑江楚)氏と話すことができた。

 

局長の話によると本年度、徳欽県が申請していた梅里雪山付近一帯の登山活動を禁止する条例が、中国人民全国大会により承認されたために、事実上梅里雪山の登頂は禁止になった、との情報を得た。その理由は宗教的なものであるらしい。登山禁止の山域は、巡礼路の内側222平方キロ(内1/3はチベット自治区領)にある六千メートル以上の峰すべてである。ぼくらにとっては、やはりそうか、といった感想であった。詳細は後の章で「梅里雪山登山の可能性について」でのべることにしよう。

 

白茫雪山に関しては登山は問題ないとのことで、まだ未踏であるとも言っている。もし白茫雪山を登頂したい場合は、北京や昆明の登山協会でなく、まずは徳欽の旅遊局にコンタクトする必要があると話していた。もし計画を実行する場合は陳さんが連絡の窓口となってくれる。

 

旅遊局を退出すると次は体育局を訪れる予定にしていた。ガイドの陳さんによると、登山活動での実際の窓口は徳欽県体育委員会になるとのことだが、あいにく体育委の高宏(ガオホン)氏は外出中で西当にいたため、彼の携帯電話にコンタクトし少し話しをするに留まった。高宏氏は梅里雪山に関しては登山はできないと取り付く島もないような感じだ。白茫雪山に関しては、子供でも登れる山であり、登りたければ登ってよいがそれに値するような山ではない、といったようなことを言っていた。その時は大変面倒くさそうな話し方をしていたけれど、彼は仲良くさえなれば協力的だが、初対面者にはいつもぶっきらぼうな、つまりはそういう性格なのだそうだ。というわけで、今の時点では梅里雪山には越えられそうにない大きな壁が立ちふさがっていた。それでもやるなら忍耐力と時間が必要になってくるだろう。このことは後の章でくわしく分析する。

 

その晩は翌朝の景色を期待して、飛来寺の峠にある招待所に泊まることにする。陳さんには徳欽の自宅に帰ってもらい、我々だけで峠の宿に滞在。飛来寺の峠はしだいに降り積もる雪に白景色になりつつあった。峠の茶屋の家族一家がこの招待所を管理している。一家には叔父さん伯母さんに娘さんと爺さんがいる。娘さんはしっかり屋さんで、年ごろで、気丈で、可愛くもある。我々は雪のためほかに行くところもなく、茶屋に入りびたり、ずっとお邪魔していた。茶屋といってもテーブル二つくらいの広さで、そこが生活の舞台にもなっている。もう夕方になり、訪れる巡礼者も客もいはしない。車もめったに通りかかることはない。娘さんはタルチョに経文の版画を刷り込む作業を続けている。爺さんはかなりの高齢のようで、この地域では普段はほとんどの人が着なくなってしまったチベット族の衣装に身を包み、マニ車を回し続けながらゴニャゴニャと経文を唱えつづけている。爺さんはあまりにも年をとりすぎ、話をするのも難儀なようだが、ぼくが6年前のここでとった写真を見せると、目を丸くしてその写真を拝みはじめた。イスからイスへ移動するにも家族の手助けが必要だが、家族の誰しもが爺さんを大切にして敬っているのが、その些細な行動からも滲み出てくるように感じられる。爺さんはとても幸せにちがいない。蝋燭のやさしい光の中で家族の暖かさを感じる。去年の正月には京大の小林さんがここにしばらく滞在していったという。彼は息子みたいなものだ、と伯母さんは言った。部屋の中心にあるいろりで娘さんが食事の用意をしてくれた。特性麺条(チベット式うどん)の食事を終えると、どぶろくのような発酵酒もいただいた。青裸酒よりも飲みやすくおいしい。

 

  

 

飛来寺よりメツモ五冠 ©2001 Fukuda

飛来寺本堂にて ©2001 Andow

峠の茶屋のおばさん (飛来寺) ©2001 Andow

 

 

《白茫雪山の調査》

 

3月7日。今日はここを去る日である。雪は夜通し降りつづけた。朝になっても止むことはなく、期待していた梅里雪山群のパノラマの景色を拝むことは出来なかったのは残念だけれど、いつでも拝めるわけではない存在だからこそ、聖なる山といえるのだろう。しかしこのまま雪が降りつづけると、帰りの白茫雪山口峠の雪が心配であるし、なにより白茫雪山を観察することが出来ないじゃないか。峠の茶屋で朝食をすまし、峠を散策しているうちに、陳さんが迎えに来る。自分のオンボロジープで雪の峠を越えることに不安を感じたらしく、他の車をチャーターしてきた。

 

徳欽には雪はない。しかし白茫雪山峠へ登るにつれてしだいに増え始めた。小便のために道脇に踏み込むと、足は膝までもぐるほどに雪は増えてきた。と同時に空からは雲が晴れ始めた。雪山は白く輝いていた。梅里雪山の方はまだ雲に覆われていたが、峠の手前で西側の見晴らしが効かなくなるところで振り返ると、最後にメツモ峰がうっすらと雲の中に神秘的にシルエットを浮かべていた。

 

峠に至ったときには空はほとんど快晴だった。山の上に多少の雲がかかっている程度だ。何てラッキーなのだ。こんどの旅はついているのではないだろうか。峠のタルチョは色も鮮やかに雪原の中でたなびいている。白茫雪山群の山域全体をチベット語でヤパヤというらしい。峠をヤパヤンゴウと呼ぶ。峠周辺は森林限界の上にある。ここの峠はするどくとがっているわけでなく、なだらかな丘陵地帯を形成している。白茫雪山群の只中を横断する自動車道であり、道路の両側には幾つものピークが見受けられる。どれも未踏峰なのである。6年前にはこの峠を雪のために自転車で越えられなかったのだが、こんな素晴らしい景色があったとはついぞ知らなかった。峠では地元の民にならって、アーソロー!と叫ぶ。

 

主峰ジョラジョニ峰は峠よりも金沙江側に数キロ進んだところから見え始める。白茫雪山にはいくつものピークがあるのだが、なるほどあれが主峰かと納得できる迫力で聳えていた。穏やかな丘陵地帯は深い雪に覆われ、一面に巨大な雪原と化していた。快晴の太陽の光に反射される世界全体があまりにもまぶしすぎる。その向こうに主峰があった。大きな岩の塊が氷に覆われてそそり立ち輝いていた。こちらに顔を向ける東壁は幾筋ものバットレスが頂上直下から麓の雪原に向かって伸びている。かっこいいバットレスだ。主峰の隣にもその隣にも氷の山塊があり、その遥か向こうまで果てしなく雪の峰が続いている。とりあえず未踏峰の登頂ルートを目で追ってみるのは楽しいことである。登れそうな尾根の一つを勝手に鳥大尾根と名づけておこう。

 

辺りの雪原は春の訪れと共に草原と化し、高山植物が咲き乱れるのであろう。それも魅力だが、冬の白茫雪山のほうが面白いかも、とも思える。計画ではここで二時間くらいとって路上から少しでも山域が観察できるところまで近づきたいと考えていたが、路上から十分よく見えるのである。見通しをさえぎるものはなく、間には雪原があるだけであり、ラッセルして数十分行ってみたところで変わらない。十分観察できた。最良の登山ルートを見つけるためには山の裏側の西面も観察する必要もあるだろうが、大きな山でもないので登山活動を行なう時にルートを探しても時間的余裕はあるだろう。

 

広い峠は数キロも続き、雪の中で側道にタイヤをとられ横転しかかっているトラックを助けたり、我々の車も車高が低いので雪が多いところでは運転手以外は降りて歩かねばならないところも多く、峠の突破には時間を要した。またタイヤが破裂してしまいタイヤ交換にも時間を取られた。

 

  

 

雪原の向こうに白茫雪山 主峰ジョラジョニ (5429) ©2001 Andow

白茫雪山口峠にたなびくタルチョ ©2001 Fukuda

TPC地図と主峰ジョラジョニを確認する ©2001 Andow

 

 

《シャングリラ伝説 中甸にて》

 

長い長い坂を下り続けると、次第に気温が上がってきていつしか雪は無くなり逆に車内は暑くなってきた。4300mの峠から標高差で2300mは下ってきた。ちなみに中国の道路地図によると、瀾滄江辺の溜筒江から峠までは自動車道で59キロ、峠から金沙江辺の奔子欄までは67キロである。しかし峠をはさんで北緯28度22分ラインで河からの直線距離で見てみると瀾滄江から15キロ、金沙江から18キロのところに峠はある。標高差2300-2500mを越える凄まじい高度差の峠である。

 

雪の峠の突破に時間をとられたため、中甸の街の手前にあるソンツェンリン寺に寄る時間がなくなってしまった。青海省のタール寺ほどではないにしろ、この寺もこの辺り一帯では最も大きい。暗くなってから中甸につくと、翌朝の麗江行きのバスのチケットを買い、陳さんと最後の食事をして別れた。陳さんの協力なくしてはここまで順調に旅は進まなかっただろう。

 

中甸は迪慶チベット族自治区の中心である。シャングリラはここであるということになっているらしい。「失われた地平線」(原作ジェームス・ヒルトン)という古い白黒のアカデミー賞受賞の映画があるが、そこで描かれていた理想郷の世界がシャングリラである。ストーリーは第二次世界大戦中に飛行機がヒマーラヤの只中に不時着してしまったが、心優しき現地人たちに助けられた。彼らの形成する国家は俗世を超越した理想郷であった。そしてそこには巨大な謎が秘められている、といった内容であったように思う。随分昔に見た映画なので詳細は忘れた。

 

今だからこそぼくらのようなたわいもない者でも訪れることができ、チベットにも雲南にももう未知なる秘密や謎といったものが無くなってきた感があるが、この本が書かれた当時のチベット高原は、まだ入国すらおぼつかないミステリーに包まれた世界だったのだろう。戦争にあけくれていた西洋の連中は、どこかに理想郷の存在を信じていたい気分だったのかもしれない。チベットはその舞台にふさわしかったのかもしれない。

 

中国にも似たような思想があり、日本語でも知られた道教の教えにある「桃源郷」というのだが、やはり俗世を離れた理想郷であるという。そこには不老不死の法を修め、神変自在の術を体得した仙人、つまりは道教のスーパーマンが住むという。理性と感情を共に100%満足させることができるパラダイスであり、またユートピアであり、キリスト信者のいうエルドラドであり、まあ都市生活者には無縁のそういったところなのである。たまたまジェームズ・ヒルトンがチベットの理想郷をシャングリラと名付け、映画がヒットし、しかも有名な五つ星チェーンホテルがその名を拝借したために、だれでも聞いたことのある単語になったわけだ。それは徳欽を含む迪慶州の観光開発の思惑にうまくのったので、学者を使っていろいろと話題をこじつけ、ここがシャングリラであると宣言したのである。そしてこのあいだできたばかりの中甸空港をシャングリラ空港と名付けたくらいである。まだその学者さん達の中国語で書かれた本を読みきれてないので、何故にここがシャングリラかを詳しくは今説明できない。もし興味のある方は頃合を見計らって安東に酒でも奢ってくれれば面白い話でも聞けるかもしれない。

 

だけれどもこの周辺をシャングリラと呼ぶのも悪くはない。人々はマジにいい連中ばかりだったし、桃源郷としてもちょうど今の時期、桃の花が淡いピンクの花を満開にさせていた。近所の人さえ何者かわからない都市生活者から見れば、あたりは優しい雰囲気に包まれている。そう、ここは本当にシャングリラかもしれない。

 

盆地状の中甸高原の周りは雪の頂きが囲んでいる。中甸地方には“中甸七大雪山”があり、その最高峰は巴拉更宗雪山(海抜5600数m)であるが、どの山がそうなのかよくわからない。1997年に昆明登山旅遊探検協会が初登頂に挑戦したらしいが、成功したかどうかは不明である。

 

翌朝、バスで麗江に向かう。高原は南に向かうにつれしだいに緩やかに高度を下げてゆく。はるか南に雪の山が遠望できる。山頂の形から哈巴雪山であるとわかる。ぼくが登ったことがある山だ。この角度から遠望する哈巴雪山は初めてだが、もやのかかる高原の向こうにある姿は絵になる。やがて道は急激に下りはじめ、高原地帯から森林地帯へと入っていった。

 

失われた地平線 ジェームズ・ヒルトン著

 

 

《玉龍雪山訪問》

 

麗江はナシ族の都である。菜の花畑の黄色い海の向こうに玉龍雪山が横たわる。徳欽ではまだ春には早いが、高度も低いここでは街路樹の葉は緑にあふれ、優しいそよ風の中で揺れていた。今こそは雲南のもっとも美しい季節である。麗江は観光客で大賑わいだ。世界遺産に認定されてから観光客は一気に増えた。古い街並みはパッケージツアー者たちのワンダーランドと化していた。かつては街中には清流が流れていたが、少し水がにごってきているのではないか、と気になる。これだけ観光客が増えればどうしようもないだろうなあ。古城のカフェで遅い昼食を取り、福田は街に残り麗江の街並みの撮影、安東は玉龍雪山に近づけるところまで行ってみるということになった。すでに午後の三時をすぎていた。ロープウェイが玉龍雪山の中腹まで延びているということは話には聞いていた。もちろんぼくが留学していた頃にはなかったものである。ロープウェイの起点までタクシーで駆けつけ、ちょうど最後のロープウェイに間に合った。起点は海抜3356m、終点は海抜4512m。高度差は1156m、ロープウェイ全長2968m。奴らはとんでもないところにとんでもないものを作ってしまったものである。感心する前に呆れてしまうが、個人的にはこんな物が山の中にあるのは正しくないと思う。

 

山の詳細は、後述の「他の登山候補地について」で述べることにしよう。

 

ロープウエイ観光から麓まで戻ってくると、ヒッチハイクで麗江の街へ戻る。ヒッチした小型バスは中国人観光客達のパッケージツアーバスだった。中ではまるで小学生の遠足バスのようにカラオケ大会が催されており、一期一会の出会いにぼくも一曲歌わされたが、基本的にぼくはカラオケは嫌いである。ツアーバスは真直ぐ麗江には帰らず、途中でお寺によって行く。そのお寺はぼくも6年前に自転車で来たことのあるところだった。だが、最初そこに着いた時、あれれれと思ったのである。6年前は素朴な道教のお寺であった。寺前には木々の林の中に空き地が広がり、子供達がかけずり回っていたものだ。寺の中では爺さんたちが将棋をしていて、まるでタイムスリップしたような空間に時が止まっているのを感じたものだ。それが今や林は伐採され、空き地はアスファルトの駐車場と化し、お土産屋が軒を連ねていた。6年前はそんなものは陰も形もなかった。だから最初着いた時、違うお寺だったかなと思ったくらいである。大型バスがひっきりなしにツアー客を連れてやってくる。寺の入口には駅の改札みたいにゲートが設けられ、隣にはチケットオフィスがある。究極は入口でナシ族のおばさんたちがわざとらしく民族ダンスを踊っているのである。これでは見世物小屋ではないか。6年前は寂れた寺にすぎなかったのだ。その姿がバックの玉龍雪山にマッチして、なんともいえぬ情緒をかもし出していたのだ。ヒッチした同乗の中国人ツアー者たちはチケットを買ってみんなゲートをくぐって寺に入っていった。ぼくはお金を払う気になれず、ひとり外に残った。ぼく以外のみんなが中に入ってしまうと、さっきまで踊っていたおばさんたちは踊るのをやめた。ぼくは悲しくなった。あんまり悲しくなったので、ヒッチしていたバスのツアー客達の帰りを待たず、公共バスに乗って麗江に帰っていった。麗江は終わったかなと思った。翌朝朝一のバスで大理に向かったので、麗江には結局半日しかいなかった。

 

  

 

ナシ族の子供たち (麗江古城) ©2001 Andow

1995年の麗江郊外の道教の寺 ところが今はゲートができて… ©1995 Andow

 

 

《旅の行方》

 

大理は安東が世界で最も好きな街である。留学時代は十数回も訪れているのだ。安東の著書を読まれたことがあるなら、安東が東チベット旅行中にカツ丼にこだわっていたことを思い出さないだろうか。そう、ここ大理にはカツ丼があるのである。よって登山とは関係ないが少しだけコメントさせてもらうと、5年半ぶりに訪れる大理はあまり変わってないようで安心した。麗江の変わりようにしょげていて、大理も変わっていたらそれではあんまりだからだ。なぜなら大理はぼくが世界で一番好きな街なのだから。とりあえずまだぼくには帰るところがあるかな。ここも半日しかいなかったが、ほとんどカフェに入り浸っていた。カツ丼と大理ビールがぼくを待っていた。

 

ぼくにはバスの窓から流れて来ては流れ去ってゆく雲南の全ての景色が懐かしい。確かに道は以前より断然良くなって移動のスピードも速くなった。以前に比べてトラブルも少ないようだ。ハプニングこそ旅の醍醐味なのだが、時代は画一性へと驀進している。雲南とてその例外ではない。

 

かつての雲南では路線バスが路上でパンクするなんて日常茶飯事だった。丸ボーズのタイヤで走っているのだから当然といえば当然だ。パンクすると修理が完了するまで、乗客は外に放り出される。客達は青空の下で思い思いに自分の時をすごしている…。だれも到着が遅れることに対して文句など言うものはいない。時計を見ながら何時までには何処其処に到着しておかなければならない、なんて旅人はまず雲南には来なかった。そんな先を急がないのどかな雲南の旅こそ魅力であったが、逆にもうそんな旅は出来なくなりつつあるのかもしれない。変わりゆく雲南に、少し寂しさを感じないわけではない。だけれど変わらないものだってあるはずだ。それを見つけ出すのが、本当の旅の目的なのかもしれない。

 

吹き抜けていく風を身体に感じながら、やっぱり旅人は旅でしか生きられないのかなあ、旅を中心にした一生があってもいいんじゃないかなあ、なんてことを思いながら、瓶口からラッパ飲みしていた大理ビールの残りを一気に飲み干した。バスは山がちにうねりながら広がる雲貴高原を、どこまでもどこまでも走っていった。

 

  

 

白族の小姐 大理にて ©1995 Andow

チベットの道祖神 ヤクの頭蓋骨 ©1995 Andow

 

 

 

次のページへ