11. 地域考察

 

《聖地としての梅里雪山》

 

東チベットに住む仏教徒であるチベット民族のカンパ族にとって、梅里雪山は最も重要な聖山とされている。秋には毎年多くの巡礼者が雲南、四川、青海、チベット自治区から集まって来る。チベットの聖山としては高原の西にあるカンリンポチェ(カイラス山)が有名であり、鳥大の遠征した青海省のアムネマチン峰も聖山として知られているが、カンバ族にとっては梅里雪山の方が重要であると聞いた。こちらの方ではカンリンポチェを知らない人もいるくらいである。

 

聖山としての梅里雪山は“太子雪山十三峰”として信者に語られており、13峰には梅里雪山群の幾つかのピークのほかに瀾滄江をはさんだ対岸にある白茫雪山の主峰も含まれる。しかし13という数字は具体的に13の峰を示しているわけではなく、13という数字が彼らにとって大変縁起がいいラッキーナンバーであることから来ているらしい。

 

巡礼者たちは梅里雪山をぐるりと一周する巡礼路をめぐるために遠くからやってくる。巡礼のシーズンは10月がもっともよいと聞いた。モンスーン明けの好天の続く時期をいっているのだろう。

 

巡礼路には2種類ある。大きく梅里雪山群を一周する外転(外回り)コースと、梅里雪山東麓サンクチュアリを巡る内転(内回り)コースがある。外転コースは瀾滄江(メコン)と怒川(サロウイン)の分水嶺を越えて巡るため、大きな峠を越えねばならず、一周に13日かかるとされる。冬季には雪で峠がふさがれる為に通行できなくなる。1996年秋に中村保氏が日本人として始めて外転コースを巡り詳細なレポートを作成している。1998年にはNHKの撮影チームが入域し、また小林尚之氏は二周している。一周に13日かかるとされているのも、やはり13という縁起のいい数字によるものらしい。内転コースは5〜6日ほどで、徳欽の飛来寺、明永氷河を遡った所の聖地、雨崩の神の滝などを巡るコースである。

 

 

梅里雪山の勇姿 ©2001 Fukuda

 

《梅里雪山の呼称について》

 

梅里雪山は一般的に中国名でメイリーシュエシャンで通っているが、現地のチベット族にはもちろんチベット語の現地名がある。その主峰は「中国登山指南」では英文でMoirigkawagarbo、通称でKagebo、漢字表記で?格薄峰と紹介されている。?格薄は北京語発音でカグボ、ただし北京語でeはアとオとエを混ぜて3で割ったような複雑な母音発音だし、子音のgは正確には濁音でなく有気音というkを息を吐きながら発音するものなので、カタカナでカカボとする事もできる。チベット語のアルファベット表記法としてKha ba dKa Poとスペリングもするようだ。その意味は「白い雪の山」である。雲南民族出版社「雪山聖地?瓦格博」では?瓦格博(北京語発音でカワグボ)とある。ウォードの本ではカグルプ、中村保氏はカワグボ、小林尚之氏はカワカブとカタカナ表記している。安東が現地人の人々の発音をカタカナ表記するならカカブと聞こえる。実際にはカヮカブと小さなワが入るがアクセントが最初のカに強く入るのでこのワははっきりと発音されない。

 

MoiriKawagarboのMoiriが中国語で梅里(メイリ)になまったという意見もある。チベット語で「薬草多き地」という意味である。実際のところ薬草として名高い雪蓮や冬虫夏草などがこの地域の特産で、現地民達の重要な現金収入源である。

 

その他の地名の発音に関しても、最も適切なのは漢字によらない現地人の発音が良いと思う。ただぼくが北京語しかわからないので、今回は安東式北京語カタカナ発音で地名を下記に一覧にしてみた。

(注:下記の中国語の簡易体漢字の正しい表記には中国語IMEがコンピュータにインストールされている必要があります)

 

云南(雲南、ユンナン) 西藏(シーザン) 昆明(クンミン) 大理(ダーリ) ?江(麗江、リージアン)

中甸(ジョンディェン) コ?(徳欽、ドゥーチン) 迪?(迪慶、ディチン) 奔子?(奔子欄、ベンズラン) 

明永(ミンヨン) 西当(シータン) 雨崩(ユーポン) 温泉(ウェンチュエン) 梅里水(メイリーシュイ) 

?来寺(飛来寺、フェイライス) ?西(維西、ウェイシ) 溜筒江(リウトンジアン) 金沙江(ジンシャージアン) 

??江(瀾滄江、ランツアンジアン) 怒江(ヌージアン) 雪山(シュエシャン) (フォン) 梅里(メイリー)

?格薄(カグボ) 玉?(玉龍、ユエロン) 白茫(バイマン) 哈巴(ハーバー) ?子(轎子ジャオズ)

 

《地元のカンバ族と現地語について》

 

一概にチベット民族といっても地域によって異なる習慣と言語がある。東チベットはおもにカンバ族と呼ばれる人々になる。一般的にカンバといえばチベット人の中でも気性が荒く喧嘩っ早いというイメージが定着しており、しかも徳欽からチベットへ向かうマルカムまでの道すがらは山賊が出ることで有名でもある。しかし今回訪問した村村の人々はとても気の優しそうな人ばかりで、一人として乱暴な人間を見かけることはなかった。たぶんこの辺りのカンバは放牧民でなく農民が多いためだろう。夏は山を登って高地に放牧に出かけることもあるようだが、生活の基本は農業で成り立っているようだ。現金収入の方法として松茸や薬草の採取があるが、松茸の価格暴落で現金収入の道は厳しいようである。中甸のお土産店などですごく貴重な高山植物である雪蓮などが薬草として格安で売られているのを見ると、こんなことでいいのだろうかとも思ってしまう。

 

彼らの話すカンパ語はラサ周辺での標準的チベット語とはかなり異なる。しかし中国内地に近いためか北京語の普及率はかなり高い。チベット自治区では農民や僧侶はほとんど北京語が通じなかったのに比べると、ここでは北京語ができれば言葉に不自由しない。とくに比較的若い人は学校でチベット語を学習できなかった為にチベット文字の読み書きもできない。現在は学校でチベット語の授業もあるが、チベット語の教師がまったく足らない状況であると聞いた。名前も多くの人がチベット名以外に漢族風の名前ももっており、ぼくら外国人に対しては漢の名前を用いる。土地名も本来のカンバの地名があるにもかかわらず、漢語での名称を用いるのが普通になっているし、チベット文化特有の風物の単語なども漢語が目立つ。そしてそれに何の抵抗も感じてないようである。チベット自治区とは大違いである。地元人同士はカンバ語で話していて、ぼくにはわからないのだけれど、北京語の単語が結構会話中に入っているのがわかる。自治区のチベット人に比べると漢族化がかなり進み、民族衣装も老婆くらいしか着ていない。民族のアイデンティティが薄くなってきているのかもしれない。

 

どこの家庭の仏壇にもパンチェンラマが飾られ、毛沢東のポスターが貼られている。ダライラマの写真は禁止されているので当然見かけることはない。ただ、現ダライラマはもともとカンバ族出身である。初期の解放革命時代の毛沢東はぼくも尊敬する。20世紀で最も偉大な人間であったろう。だけれど近代の歴史を見てみると「農村が都市を包囲する」というあの頃の人民のための革命理論はいったいどこへ消え去ってしまったのだろう。どうしてチベットの僧院はことごとく破壊され、人々は戦わなければならなかったのだろう。しかしここで毛沢東論を展開するのは場違いである。ちなみにこの辺りでも人によっては政治の話やパンチェンラマの話は基本的にいっさい触れたがらないようであるので、気をつけたほうがいいかもしれない。

 

結局今回安東は下記の二つの現地語(カンパ語)しか覚えなかった。こんなことでは旅人として失格であるが、この地帯は北京語が自治区のチベットと違って通じるので、ジアノンパーシを知っていればとりあえず事足りる。みんな結構漢字を知っていて、北京語が通じなくても日本人であれば漢字での筆談も可能である。もっともぼくの北京語だってたいしたことはないのだが。

 

ありがとう ジアノンパーシ

  こんにちは チューヤ

 

  

 

ヤクが放牧に向かう 雨崩村にて ©2001 Andow

馬追のおじさん 西当温泉にて ©2001 Andow

哈巴雪山キャラバン ©1995 Andow

 

 

《登山ルートについて》

 

今回の旅行の範囲はすでに知られているトレッキングルートを巡る旅行程度であり、新たに未知の領域に入っての偵察は残念ながらできなかった。時間も装備の準備もなかったため、とくに特筆すべきルート上の調査結果はない。梅里雪山の東面からのルートは京大による度重なる遠征で第二バットレスルートが最も適していることに疑問はない。毎年雪の状態で変わってしまう主峰第二バットレス上部の氷壁の形などは、望遠で観察したかったのだが、持参した500ミリ+テレコンで1000ミリの望遠レンズを双眼鏡の代わりとして持っていったにもかかわらず、昆明で盗難にあったため細かい観察はなしえなかったのは残念である。東から観察する限り、他のルートの可能性も難しそうだ。ルートが見えているからかもしれないが、主峰が最も登頂しやすそうに見える。主峰以外のどのピークも相当難しそうである。

 

雨崩村上部のBCからの観察であるが、BCから見上げる氷河の右端に京大の三次隊が登山断念の理由としたスベリ台と呼ばれる傾斜地が観察された。当時は雪が溶けてしまい落石が頻繁におこり危険な状況になったという。いちおう今回はスベリ台には雪はついていたが、さほど多くなく、好天が続いたり時期によっては確かに雪がなくなるかも。このあたりは大山北壁と同じく雪があって凍結しないと登攀は難しいのかもしれない。ただ氷河の右ではなく左側を登ってみればいいのではという希望的な観測意見も感じられた。本当の未踏峰登山というのはルートの見極めと発見こそが醍醐味であることを考えると、ルートを発見した京大はすでに九割方は登ったも同然である。とくに我々は新しいルートを見つけようと偵察に来たわけでないし、BCよりもっと上まで行ってみるには装備もなかったが、しかしここからのルート以外はとりあえず考えられないようである。

 

《登山時期について》

 

当初は今回の調査隊を過去の京大の登山時期に合わせ12月に出すことを計画していたが、実際には隊員の都合により2月末に延期された。京都大学の登山隊は現地の気象データをもとに12月が最も降雪量が少なく雪も安定すると判断して冬季の登攀に挑んでいる。

 

雲南の山々はヒマラヤと同じくモンスーンの影響を受ける。ポストモンスーンなら9月下旬が雨季明けとなるが、10月まで遅れることも多々ある。日本の梅雨明けと同じく、雨季明け直前に連続して雨が降り、明けると同時に晴天が続くので、雨季明けのポイントは短い期間の遠征では成功へつながる影響が大きい。BCの生活すら雨は気分に影響する。同じ迪慶チベット自治州にある哈巴雪山遠征時には雨季明けを狙って9月末に出かけたのに最初は連日雨でまいった。

 

この辺りは連続する山脈が続き地形が複雑なため、海からの湿気の影響を受けるかどうかによって、同じ山域や山でも南西面と北東面では気候は大いに違うようである。梅里雪山はインド洋からサロウイン河を遡ってくる湿気がもろに山塊に当たるため、降雪量が多い。瀾滄江をはさんでほんの15キロほど東にある白茫雪山はずっと乾燥していて梅里より天候は安定していて、植物相までが変わってくる。今回の調査でもカカボ峰の南東のBCでは海抜が3300mである程度の積雪があったが、北にあるシェラ峠付近は海抜4500mでも積雪はあまりなかった。

 

主峰の北東にある梅里水の村長によると、去年2000年の6月から10月は雨季にもかかわらず一週間に一日くらいしか雨が降らなかったと言っていた。登山、トレッキングに最適なのは9月中旬から10月がよいとのこと。つまり一般的モンスーン明けである。登山活動もこの時期でいいかもしれない。稜線での風も冬ほど強くなさそうであるし、ある程度上部に雪があり凍結しているだろうし、天候も安定するのでは。冬季のほうが雪がしまって安定して雪崩にくいとの意見もあるが、京大遭難時の一月でも雪崩はおきている。アプローチも10月なら自動車道が雪で閉鎖される心配も少ないだろう。しかし遠征するなら秋口に偵察隊を出す必要があると思う。

 

  

 

明永のマダムたち ©2001 Fukuda

タルチョの前で(飛来寺) ©2001 Fukuda

 

 

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12. 梅里雪山登山の可能性について

 

このレポートの核心であるが、非常にデリケートな問題であることを先に断っておこう。先に述べたように地元政府の旅遊局にしても体育委員会においても、登山許可の可能性については完全に否定されている。我々も今回雲南に出かける前にすでに方々の意見を聞いて登山許可の取得は難しいことは理解していた。すでに北京の某筋にこの件をご意見伺いに打診もしていたが、非公式であるが登山許可の可能性は難しいとのコメントももらっていた。体面的にも本音的にも登山不許可の意味を考察してみた。

 

《宗教的理由》

 

最重要原因であると共に、今後の登山のあり方に関する課題であるといえる。梅里雪山は地元民のみならず、東チベットに住むカンバ族たちにとって最大の聖山である。彼らが余所者が聖山に登ろうとしていることに対して、よく思っていないことは今回の旅でも実感できた。地元の村人達はとても親切なのであからさまに反対などしない。しかしそういった話題に入ると、誰しもが一瞬いやな顔をするのである。その本音を隠してぼくらの質問に答えてくれるのだが、ぼくとしてもダイレクトな質問を根掘り葉掘り聞くことは避けざるを得なかった。京大の第三次隊の時には、飛来寺でたまたま仏教徒の催しがあって多くのカカボ峰信者達が集まっており、「どうか奴らを登らせなでください」とか「聖地を汚そうとするもの達に死を!」と祈りつづけたという。

 

さらに今までの梅里雪山への登山隊がことごとく失敗し、多くの遭難者を出していることが、聖山をより伝説がかった真剣なものとして信者に受け取られている。

 

もちろん聖山はここだけというわけではない。山は宗教の理論を越えたアミニズム的な畏怖の思いを人々に抱かせるため、世界中にある名だたる高峰はすべて地元の人たちにとって聖なる山であるといっても過言ではない。実際には現代ではそれらの多くの山が登られてしまっている。5月の朝日新聞で西チベットの聖山カイラスの登山許可がイタリア隊に出たという記事があった。この山はずいぶん前から宗教的理由で登山許可は降りない山とされていた。ぼくもこの報道には驚き、同じチベット仏教の聖山への許可ということでどうなるのだろうと思っていたが、許可は結局地元民の反対が強く取り消されたらしい。ここ梅里雪山もまた、余所者が踏み入るべきところではないのだろうか? その聖域に踏み入ることが許される資質とはいったい何なのだろうか? 我々はもしかして禁断の世界へと踏み込もうとしているのかもしれない。

 

《観光資源としての未踏峰》

 

宗教的理由もあるだろうが、一帯は自然保護区にも指定されており、それも登山ができない理由の一つということになっているらしい。地元では観光客誘致のための開発を推し進めている。徳欽には新しいホテルがいくつも建てられてきているし、明永氷河や飛来寺の峠の変わりようは報告のとおりだ。確かに梅里雪山群の景観は、聖山を訪れる宗教的巡礼者以外でも、一般的旅行者の魅力を誘うには十分である。薬草や松茸以外これといって現金収入の道もなさそうであるこの深い峡谷の地の人々にとって、中国全体が発展へと驀進中の最中、それについて行くには今のところ観光資源開発以外に選ぶ手段はないのかもしれない。そこで圧倒的多数の一般旅行者を惹きつけるには、やはり未踏峰というのはよりその山を魅力的なものにするのだろう。玉龍雪山でも本当は未踏峰ではないのに、その記録は闇に葬り去られ、未踏峰ということになっているようだ。つまりはここ梅里雪山でも未踏峰のまま残しておこう、といった思惑がないでもないかもしれない。

 

《登山料の問題》

 

住民達が本来そこまで信仰心にこだわっていたとも限らない。実際に京大の第二次隊までは地元の村人は登山活動に協力してきていた。もちろん中央政府のいうことに従う以外なかったのかもしれないが。京大の三次隊では一部地元民の妨害を受けたとも聞くが、それはお金のことで徳欽県と昆明の登山協会との間での摩擦が主な原因とも聞いており、宗教心とは別問題かもしれない。

 

梅里雪山の時には京大は第三次隊で総経費7500万円という巨費を投じている。よって地元自治体が登山は金になるという認識があり、金さえ積めば行政の許可は下りるだろうという意見も考えられる。しかも徳欽政府は田舎とはいえ外国の事情を京都大学の数々の遠征を通じてよく理解している。また多くの登山隊が許可を求めていることも知っている。天秤にかけられれば、ふっかけてくるかもしれない。その金額は莫大なものであることが予測される。鳥大の当初の自己資金のみで活動を行なうという指針にも反するし、そこまで金が集められるか難しそうでもある。もっともこれは一部意見である。

 

《中央の登山協会の権力の減少》

 

かつてはお上の決めたことに地方が当然従うものという中央集権的な縦社会が中国の政治ではあたりまえだった。地方が北京にあからさまに反対することなど考えられなかった。中国では「上に政策あり、下に対策あり」などと言われており、ちょっと前まで地元の人たちは中央の指示に反抗するいわれもなかった。しかしその中央の力はすべてのジャンルでなくなりつつある。地元の人達の発言力が増してきている。それは体育委員会でも同じようだ。なにしろ中央お墨付きの北京登山協会の遠征隊ですら追い返されたというのだ。

 

安東は仕事上で中国国家体育委員会のラジコン模型協会(中国ではラジコン模型もスポーツとみなされている)と関わりがあるが、体育委の予算はどんどん削られているという。かつては北京から地方へと予算が回っており、ある意味で金の力で中央の力が維持されていたが、その予算の配分がもらえなくなってきた今、中央の指令を聞かなければならない理由もなくなってきているのだ。かつての体育委員会の運動員も協会を辞めて自活への道を探らなければならないほど、金も権力もなくなってきている。これは登山協会でも同じはずである。ケ小平の「黒猫白猫論」はこんな所にも生きている。成果の上がらない部門はどんどん切り捨てられてゆく。中国の構造改革は日本より進んでいるかもしれない。

 

今まで中国では物事は中央から、ここでは北京→昆明→徳欽へと進んできた。しかし地元の発言力が増すにつれ、逆に中央のいうことに何でも反抗する傾向が感じられる。NHKが梅里雪山巡礼路のドキュメンタリーの取材をした時、中村保さんが現地の徳欽でアレンジし、それが現地から昆明、そして中央の北京に伝わってゆき、結局うまく計画が運んだと聞いている。逆に京大の三次隊の時には中央から地元への指示の流れがあったが、高飛車に出た昆明と徳欽の政府での金の配分に対立があり、結局は不満をもった徳欽政府が登山活動の妨害に転じたと聞いている。より地元の人たちのコンセンサスを得るかが重要な時代に入ってきたようだ。

 

我々鳥取大学は北京の登山協会とアムネマチンの遠征以来いい関係を作り上げてきた。昔は北京とさえ仲良くなっておけば、後の地元との問題はすべて北京が片付けてくれた。しかしそれだけを頼りにはできない時代がやってきた。今では主導権は地方に移項しつつある。しかも改革解放の元に地方の自治は始まったばかりであり、彼らは今それに熱中し、その運動は盛り上がっている。文化大革命批判が平然と行なわれるようになった今、民族へのアイデンティティに地方は目覚めつつあり、その勢いが皆の心を聖山信仰、登山禁止へと導いているのかもしれない。その中心に宗教があり、また地域経済の活性が観光資源にあるなら、どちらも梅里雪山登山許可の取得のための交渉事には時期が悪いといえよう。

 

宗教心から地元の人たちは聖なる場所に人は近づくべきでないと今は考えている。しかしいつか人々が登山をスポーツと理解できる時期が来るかもしれない。あるいは自然そのものに感情があるとすれば、ぼくら人類の来訪を待ち受けているのかもしれない。

 

この山は日本の幾つかの登山隊の他に、西欧諸国の登山隊も機会を狙っているようだ。しかし本当に必要なのは、いかに行政から登山許可を取るかよりも、地元の人たちのコンセンサスをいかにとるかの方が、よっぽど重要な課題であるだろう。我々は所詮余所者であるという謙虚な気持ちをもってして訪れなければ、現地の人たちとの摩擦をおこす。そこまでして山登りに何の意味があるだろうか。登るための登山から、調和のとれた登山へ。これからの登山隊に必要とされる新しい要素かもしれない。

 

上の意見を統括するならば、鳥取大学山岳部としてはこの山の登頂を現時点では目指す時期ではないと思う。しかしその機会が将来あるかもしれないことを念頭に入れておくことくらいは許されてもいいと思う。だが待っているだけではそのチャンスは永遠にやってこないだろう。

 

    

 

屋根の上のタルチョ ©2001 Fukuda

飛来寺のマニ車. ©2001 Fukuda

ヤクの解体中 明永村 ©2001 Andow

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13. 他の登山候補地について

 

今回の調査旅行で実際に我々が目にしてきた山々を、提案候補地として挙げてみた。

 

《候補その1 白茫雪山主峰ジョラジョニ峰》

 

白茫雪山群は梅里雪山と同じく徳欽県に属する。五千b以上のピークは20以上あり、その最高峰はジョラジョニ峰(扎拉雀尼峰)で海抜は5396mであるが、資料によっては5640mという意見もある。ジョラジョニの意味は「十二戦神峰」。伝説上では聖山梅里雪山カカボ峰の十二人の衛士とされている。カカボ方面から見て十二の雪の鋸上のピークが見受けられるところに由来するらしい。梅里雪山を中心として昔からこの辺りの高峰は総じて「太子十三峰」と呼ばれているが、白茫雪山の主峰ジョラジョニ峰もその内の一つに数えられている。

 

白茫雪山一帯は1985年に中国国務院により自然保護区に指定されている。雲南省で最も大きな自然保護区であり、横断山脈の典型的な複雑な地形、いわゆる山脈の両側を瀾滄江(メコン)と金沙江(長江)によって鋭くえぐられた「深い侵食の国」の地形を形作っている。保護区内の最低海抜地点は瀾滄江沿いの二千b以下にあり、山頂までの標高差は3500m以上。その垂直な地形の分布により、気候も熱帯から寒帯までの多種多様な自然環境と植物形態を持つ。多くの国家天然記念物級の植物相を維持した原始林が残され、また薬草の宝庫でもある。国家一級保護動物である金絹猿(確か孫悟空と関係する猿だったと聞いたような気がする)の全生息数の58%が保護区内に生息し、幻の雪豹なども生息しているらしい。山の様子はすでに上記のレポートの通りである。山域は美しい岩峰やピナクルのピークが連なる山々だ。主峰はバットレスを伴い雄祐としている。

 

ウォードが1911年に徳欽に植物調査のために滞在中、白茫雪山をおもなるフィールドにして調査活動をしている。9月下旬に白茫雪山の登頂を試みているが、それが山頂を目指すことを目的にしているのか、植物のフィールドワークのために山域に入ることだけを目的としているのかは不明。しかし結局体の調子が悪くなって登山を中止している。この年は9月に17日間、10月に入ってもほとんど雨の日が続いたとある。

 

天候的には、インド洋からの湿気は梅里雪山でほとんど奪い取られてしまうため、降雨量が少なく天候も安定している。モンスーンの初めと終わりにまとまった雨が降る。早春の5月と晩秋の8〜9月で、普通は9月中に雨季は明ける。山脈の上部はメコン河からの湿気が上がってくるために徳欽が晴れていても山のほうには雲が多い。

 

安東が白茫雪山の登山に関して初めて見解を持ったのは、1995年に哈巴雪山の初登頂を果たした昆明登山探検旅遊協会が、次の登山の目標としていたのがこの白茫雪山であったことによる。当初は1996年秋の遠征が計画されていた。しかしこの計画は実現していない。下記に白茫雪山遠征計画でのメリット、デメリットをまとめてみた。

 

 

白茫雪山 ©2001 Fukuda

 

【メリット】

 

● 未踏峰である。大バットレスを伴ってそそり立ちかっこいい

● 年中雪がある。氷河があるかもしれない

1911年にウォードが主峰の南のバットレスに氷河が大氷爆となって垂れ下がっているのを確認している。今回は東からの観察に留まったので、氷河の様子はよくわからず。どの程度の氷の規模までが氷河の定義かよくわからないが、いずれにしてもこの氷河は急激に後退している。

● ルートはさほど難しくないかもしれない。でも岩場になっているので、もしかしたら難しくて岩壁登攀を楽しめるかもしれない。また、ピークが幾つもあり全部未踏なので主峰以外についでに幾つか登ることができるかもしれない。

● 登山許可を取得できる可能性が高い

すでに地元の徳欽県とはコンタクト済みなので話が早い。また将来梅里雪山の可能性があるとすれば、この山で地元との関係を作っておくことが将来役立つかもしれない。

● その道の人達には知られた山である

この地域での必読書ともいえる「青いケシの国」のウォードがフィールドワークの主なる舞台にした地域で、その著書に頻繁に出てくる。この本は絶版だがどこの図書館でもまず置いてある。一読をお勧めしたい。また最近では中村保さんの発表の中にも多く登場してくる。

● 高山植物に関連した学術登山隊にできる

にわか植物学者の気分を味わえる。運がいいと青いケシに出会えるかも。

● 遠征期間を短くできる

アプローチが近く、日本から最短3日でベースキャンプ入りできる。公道から2時間ほどのキャラバンでBC入りできそうである。これだけアプローチが近いのに未だに未踏峰なのが不思議なくらいである。

● 夏休み等を利用した遠征で行けるかもしれない

ウォードの本を読んでいると、モンスーンの影響が西にある梅里雪山のおかげで6、7、8月には少ない可能性がある。要さらなる調査。

● チベット文化と密接した旅ができる

地元民たちとの交流の様子はレポートのとおりである。また10月であれば巡礼のシーズンであり多くのチベット人がこの地に集まっている。ベースが草原地帯で遊牧民も身近におり、地元との交流を図れる。

● シャングリラ伝説をテーマにできる 行動記録(中甸にて)を参照されたし

● 金がそんなにかからないかもしれない

正直言って不明である。今回の調査旅行のように個人的なアレンジで現場に行けるならば金はかからないが、登山協会などを通す必要があり、複雑な事務手続きに加え、それなりの経費を協会に支払わなければならなくなる。中国での登山では海抜3500m以上の山(チベット自治区では5000m以上)に登るときは、国家体育運動委員会と公安部の許可が必要とされている。また京大は梅里雪山第三次隊で莫大な費用を投じており、もし地元自治体が登山は金になるという認識があれば、マイナーな山とはいえ、ふっかけてくるかも。要調査である。

● もし高山病にかかってもすぐに低地に降りることができる

 

【デメリット】

 

● 一般的には知名度は低い

● 標高が低く5000mクラスである

● ルートも短く簡単すぎてつまらないかもしれない

 

BCからの高度差は千bほどであり、ルートさえ読めればBCからのアタックで一日で終わってしまうことも考えられる。

わざわざ日本から大所帯で行くほどの山ではないかもしれないが、未踏峰なので意外と難しくて登れないかもしれない。やってみなければわからない、といったところだろう。

 

   

 

キングドン・ウォードが1911年に撮影した白茫雪山

ヤク乾燥肉のパッケージ バックに白茫雪山

白茫雪山 東から望む ©2001 Andow

 

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《候補その2 梅里雪山群第二峰PK6509》

 

梅里雪山群において二番目に高度があり、その標高6509mのピークは未踏峰である。植物学者ウォードが山群の巡礼中にこの山を観察し、「クリスタルドーム」と呼んだほどの迫力ある山である。いわゆる世間に知られた梅里雪山の東からのスケープでは、PK6509のピークはまったく見えないためあまり知られていない。山群第二峰とはいえ、衛星峰というより主峰とは別個の山塊として存在している。逆に言うと、東から見えないことによって、より謎の山の雰囲気を持っている。アメリカのクリンチ隊が1992年と1993年にチベット自治区側から北西稜をルートにアタックしたが失敗している。詳しくは中村保氏の「ヒマラヤの東」を参照されたい。

 

今回安東は4800mの峠を越えてチベット自治区側へ入り、この山を観察してきたが、上部が雲に包まれていたためにルートの判断等は出来なかった。ただ岩がちの山容に簡単には登れそうにないという印象を受けた。できれば雲南側からのルートを探れればと思っていたが、それは今回かなわなかったのが残念である。

 

正確にはこの山の山頂はチベット自治区内になる。自治区側のチベット登山協会の管轄にある。徳欽県では巡礼路内にある全ての梅里雪山群のピークの登山の許可は出ないと取り付く島もない状態であるが、自治区なら可能性がないでもない。しかし再調査を必要とする。現地人感情的には雲南側のチベット人たちにとっては聖山ではないので宗教的な反感は強くない。だけれど、自治区側の現地民たちがどのような感情を持っているかは不明であり、これも再調査に出かける必要がある。簡単にメリット、デメリットを下記のように分類してみた。

 

【メリット】

 

6000m以上の未踏峰。とくに雲南側からのルートは未知であり、未踏峰としての価値がある

● アメリカ隊の挑戦を二度にわたって退けており、難しく登りがいがあるかもしれない

● 登山許可が下りる可能性がなきにしもあらず

● その他の白茫雪山で述べたこの地域の様々な背景的メリットがある

 

【デメリット】

 

● 登山許可の可能性が見えないので、許可に関しては振り戻しの状況になる

● もしチベット自治区側のラサからアプローチしなければならないとなると、交通がかなり不便である。

 

 

PK6509峰北面 シェラ峠付近より ©2001 Andow

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《候補その3 玉龍雪山》

 

麗江ナシ族自治県にある秀峰である。すごくかっこいい山である。しかし1987年にアメリカ隊が初登頂している。にもかかわらず地元では未踏峰ということになっている。旅遊局の陰謀だと思われる。2年程前にNHKが雲南特集の番組をしていた時も玉龍雪山は未踏であるとのたまわっていたし、今回タクシーの運転手と話したときも彼は未踏峰であると信じきっていた。それどころか具体的に人類は四千何百何メートルの地点までしか達したことがないのだ、と一介の運転手が自慢していた。登頂の事実は隠蔽されているのである。そもそもこれだけのロープウェイ設備がありながら登山道すら存在しないのである。ロープウエイはなんと往復100元(約1500円)も取る。これは田舎の農民の一ヵ月分の現金収入に相当するだろう。ロープウェイの終点からは短い索道が上へと延びているが、警備員が監視しており索道からはみ出す者は怒鳴られる。普通の登山者は金にならない。金にならない行動はするなというわけだ。ゴンドラから見下ろすと雪に覆われた山腹は魅力的なクライミングが楽しめそうに思えた。しかし登山は認められていない。

 

一応その麓を訪れてきたのでここに候補としてあげておくが、麗江には半日しかおらず、旅遊局を訪れたわけでもなく、今回の訪問は下調べにもなってはいない。かつて安東はこの山の登山を夢見て、自身の著書の中でもそれを記述していた。しかし今回の麗江の街の変わりようと、ロープウェイが海抜4512mまで延びていて、金さえ払えば登山を理解しない人間でもそこまで来られてしまう事実に、すっかり興醒めしてしまった。すばらしい山であることに違いはない。登山したい気持ちに変わりはないが、遠征隊という体裁で行っても、もはや観光ブームのピエロにすぎないように思われる。

 

システマイズドされた観光地。そこには新しい発見がない。それはつまり身が震えるほどの感動もあり得ない。中国では登山というスポーツはこのまま普及することはないのだろうか? 山はロープウェイで登るものなのだろうか? 頂上につくことが目的で、その途上には意味がないのだろうか?

 

昆明では5年半ぶりにぼくの所属していた昆明登山旅遊探検協会を訪れた。この組織は中国では珍しい民間の登山クラブであり、その経営母体は山野旅行社というアドベンチャー系のツアー会社が中心になっている。トレッキングやラフティング、あるいは知られざる雲南のマイナーな僻地への旅のアレンジをやっているような小さな旅行会社なのだが、5年前と事務所はほとんど変わってなかった。商売もそんなに繁盛しているわけではないらしい。中国の旅行業界は爆発的に需要が伸びつつあるはずなのにである。つまりは中国の旅行業界は今回ぼくが麗江でヒッチハイクしたパックツアー的なものだけが延びているようだ。クリエイティブな自分だけの旅を追い求める夢旅人は中国にはそんなにいないのだろうか?

 

そんなわけで一度は登ってみたい山であることに違いないが、未踏峰ではないし、ややこしい交渉ごとを経ての登山許可を取得するほどでもなく、行くならチームとしてより個人レベルでの登山か、地元の観光スポットと抱き合わせてテレビのドキュメンタリー番組にするのが面白いだろう。一般向け番組としては良いが、その場合登山はオマケとなり我々はピエロとなる。

 

【メリット】

 

● 未踏峰でないが二登されてない。日本人は登ってない

● 岩壁登攀の難ルートである

● 有名な山であり、地元の麗江のナシ族文化とセットにして話題性がある

 

【デメリット】

 

● 初登頂の記録が地元旅遊局によって隠蔽されていることが気に入らない

● 登山許可の可能性が見えないので、許可に関しては振り戻しの状況になる

 

 

 

哈巴雪山山頂より玉龍雪山を望む ©1995 Andow

菜の花畑の向こうに玉龍雪山 ©1995 Andow

 

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《候補その4 ダムヨン峰、他念他翁山脈》

 

梅里雪山のすぐ北に続く山塊を他念他翁山脈と呼ぶ。梅里雪山と同じく怒江(サロウイン)と瀾滄江(メコン)の間にある山脈であり六千bを越えるピークが二つある。どちらも未踏峰でその最高峰はダムヨン峰(6324m)である。ただこの山もチベット自治区になるため、ラサにあるチベット登山協会が窓口になる。雲南省での登山にこだわっていたところがあるが、実際にはたまたま省の境が中国政府によって引かれているだけで、地理的に東チベット地方と考えたときは同じ地域である。白茫雪山でのべた多くの地域的メリットがここにも当てはまると思う。

 

今回の旅行では、徳欽と梅里水の間の自動車道から北の方に遠望することもできた。この山域についても中村保氏の本に詳しい。どこの登山隊も試登すらしていないので、最初から登山ルートを自分らで探さなければならないという未踏峰の最大のメリットがある。もっとも本格的偵察隊を前もって送り出す必要があるだろう。ここではこういう山もあるという紹介だけに留めておく。

 

  

 

深い浸食の国/メコン河 ©2001 Fukuda

他念他翁山脈 紅拉山峠より ©1995 Andow

 

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上では今回の調査旅行で実際に目にしてきた山々を提案してみたが、何も雲南や東ヒマラヤ地方にこだわる必要もないかもしれない。自治区のヒマラヤには七千bクラスの山はゴロゴロしているし、西チベットにも東と同じく未知なる領域がたくさん残されている。かつて自転車で西から東までチベットを横断したぼくは、公路上から見える名前さえ付いていない未踏の山々に狂喜したものだ。世界にはまだまだ未知なるフィールドが存在する。全てがマニュアル化された都市生活者から一歩踏み出すべき領域がまだ残されている。これを今のうちにやっておかない手はないと思うのである。

 

現代では登ることのみを価値観とした登山の時代はすでに終了し、プラスアルファの価値観を付加した登山に意味がありそうである。今回の海外遠征が1999年に大坂で一部OBの酒の席で話が始まったときも、どちらかというと先鋭的バリバリ登山よりも山旅的な楽しめる遠征としたい所以であった。1993年のアムネマチン遠征が満足いくものだったので、そのコンセプトと同じである。雲南の山々は登山そのもの以外に地元に多くの文化が存在するのもメリットだ。プラスアルファの価値観は自分たちのモチベーションで形成されるものである。そうすればどんな山の遠征でも楽しくなるにちがいない。

 

 

14. 資料編

 

《今回持参の装備》

 

今回の装備は登山を前提としない為、トレッキングに対応した装備とした。ただし雪の中を歩くことを想定している。ガイドを使って民家に泊めてもらう予定にしたのでテント、炊事具等も省いた。この装備で充分だったが、もっと時間があって上部まで偵察に入るならアイゼンなどの装備が必要になってくる。GPSはあれば便利だったと思う。地図はアメリカ航空局発行の50万分の1のTPCが見晴らしのいい稜線などでは役に立った。

 

中登山靴(ゴアテックス)、スパッツ、ゴアヤッケ上、ゴアカッパ下、フリースジャケット、フリースグローブ、登山用ハイテク化繊の下着上下、冬季用寝袋、ツェルト、コッヘル、サングラス、地図、コンパス、非常食、GPS、その他

 

《写真撮影について》

 

毎年製作される山岳カレンダー「MILIMA」でおなじみの福田は、ご存知のとおり鳥大山岳部きっての写真撮影のプロフェッショナルである。ついでに安東も高校時代は写真部に属していたのであり、少なくとも一眼レフを使うだけの資格はあると自負している。

 

概して地元の人たちは写真を撮られることに抵抗はないばかりか、むしろ喜んで撮られる傾向が感じられるが、当然あとで写真がもらえることを期待している。今回小型のインスタントカメラ、FUJIのチェキを持参した。これは小型であまりかさばらない。インスタント写真は民俗学者のいう村人達に打ち溶ける為の「村入り」によく使われる手段ではあるが、大変に好評であった。

 

残念なのは旅行2日目に昆明で安東のカメラ一式をバッグごと盗まれてしまったことだ。昆明バスステーションで買い物時の一瞬の隙に盗まれた。近くには福田さんがいたにもかかわらず気付かなかったのはプロの仕業だ。観光地昆明は昔から旅人者を狙う泥棒が多い街であることを忘れていた。主力の35ミリ一眼レフカメラにルート偵察のための500ミリのレフレックスやテレコンなど計四本のレンズ、友人に借りてきたGPSを取られてしまった。福田さんが主力のハッセルブラッドをはじめとして四台ものカメラを持ってきていたので、うち一台のコンタックスのコンパクトカメラを貸してもらえて助かった。総額25万円ほどの盗難損害は帰国後保険がおりたが、自分の思う写真が撮れなかったのはやっぱり残念である。

 

スライドフィルムは昆明ではフィルム保存の温度管理されたショップで購入できるし、観光地である麗江でもFUJIのSENSIAが手に入る。しかしながら値段は日本のほうが断然安い。徳欽ではネガフィルムのみ購入できる。

 

チベットは写真になる世界だ。福田さんの来年の「MILIMA」は今回の調査旅行での美しい写真が使われることだろう。今から期待して待っていてもいいかもしれない。

 

      

 

村はずれのオーボ ©2001 Fukuda

明永村の民家 ©2001 Fukuda

活仏ポートレイト撮影中 明永村 ©2001 Andow

 

 

《宿泊事情》

 

雲南の宿泊費は、概して安い。最も物価が高い省都昆明で中級ホテルの茶花賓館で双人房(二人部屋)1500円〜2000円(一人千円以内)ほど、最高級ホテルでも五千円以内だろう。徳欽で最も高級と思われる新築の太子峰ホテルで双人房2200円ほど、麗江で泊まった小さなゲストハウスでは双人房で400円くらいまで幅はある。大理でぼくが留学中に定宿にしていた安宿などはいまだに一泊十元であり、五年経っても料金が変わってないのでうれしくなってしまった。

 

トレッキング中は民家にお願いして泊めてもらえそうである。基本的にガイドを通じてトレッキングに行くならば、ガイドがすべてをアレンジしてくれる。

 

《現地酒事情》

 

登山隊にとって非常に重要な要素であるので記しておく。ビールは商店がある村なら手に入る。冷蔵庫は普及してないようだ。ビールの銘柄は大理ビールである。味はドイツのバイセンビールを思わせるバナナの味がする。大理ビールは安東が世界で最も好きなビールの一つである。商店のないトレッキング中の村ではビールは手に入らないが、青裸酒がどの民家にもある。慨して現地人は酒好きである。青裸酒は癖のある典型的焼酎の味がするが度数はあまり高くない。多分20%以下。慣れればいける。飲めない人は損である。

 

《食糧、装備事情》

 

酒の次に重要と思われるので記しておく。一般的食糧は徳欽でなんでも手に入る。ベースキャンプ用食糧やインスタント面であれば徳欽で事足りる。昆明の登山旅遊探検協会では、アルファ米を使ったインスタント米飯や人民解放軍の761携帯ビスケットを手に入れることができる。この中国製の具入りインスタントアルファ食品の味は素晴らしい! 四種類ほどの中華丼がある。帰国後、北アルプスの冬山登山に持参したが、調理用のコッヘルも必要とせず、お湯(100℃)を入れて8分、(50℃以下だと30分以上)待つだけで出来上がり、味も素晴らしい。へたな日本製のジフィーズより美味い。中国の技術はここまで進歩したのか、輸入して日本で販売しようと思ったくらいである。価格も日本製の3分の1ほどである。ただし元の米がインディカ米なので純和風料理しか口に合わない人には無理かも。そんな人が外国の山に登ろうなんて思わないか。わさびやキッコーマンの醤油も昆明で購入可能である。上部キャンプ食もすべて中国で手配できるのではないかと思う。

 

ちなみに昆明登山旅遊探検協会は登山用品ショップを昆明で経営しており、ヨーロッパ製のアイゼン、バイルやザイルなども購入できるが、日本で買ったほうが安い。EPI等のガスカートリッジはなかったが、日本でも一般的な家庭用ガスボンベなら手に入る。アダプターを使えば家庭用ボンベをEPIヘッドでも使える。ただし寒冷地用ではない。よって高地キャンプ用のガスボンベは日本から陸送する必要がありそうだ。

 

《通信網事情》

 

今回ノートパソコンを持っていったが、ヒマがなくて一度も電源すら入れることはなかった。自動車で行ける村には電話回線が来ているのでインターネットに接続することは可能である。また携帯電話が普及しており、明永、西当では受信可能である。携帯電話は外国人でも購入できる。

 

  

 

雲間の五冠神山 ©2001 Fukuda

 

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《参考文献、地図》

 

日中合同梅里雪山学術登山隊報告書 京都大学学士山岳会 1992年

梅里雪山事故調査報告書 京都大学学士山岳会 1992年

ヒマラヤの東 中村保 山と渓谷社 1996年

深い侵食の国 中村保 山と渓谷社 2000年

横断山脈研究会会報001 YunXiSi 中村保 1998

青いケシの国 キングドン・ウォード 倉知敬訳 白水社 1975年

ツアンポー峡谷の謎 キングドン・ウォード 岩波書店 2000年

植物巡礼 キングドンウォード 塚谷裕一/ 岩波書店 1999

東ヒマラヤ探検史 金子民雄 連合出版 1992年

能海寛チベットに消えた旅人 江本嘉伸 求竜堂 1999年

旅行人ノート「チベット」改訂版 旅行人 1998年

チベットの白き道 安東浩正 山と渓谷社 1999年

China Tourism No.181 香港中国旅遊出版社 1995年

中国登山指南 中国登山協会 成都地図出版社 1993年

雪山?地?瓦格博 仁?多吉 雲南民族出版社 1999年

神山下的?景 云南人民出版社 1999

???瓦格博 云南美?出版社 1997

云南温泉大? 云南人民出版社 2000

?找香格里拉 云南大学出版社 1999

中国汽?司机地?册 ??出版社 2000

地図 TPC H-10B Scale 1:500,000 Defense Mapping Agency Aerospace Center

(報告書の地図は「旅行人ノートチベット」,「雪山?地?瓦格博」,「エンカルタ百科地球儀」を元にして作成した)

 

 

 

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