私の顔
自分が何者であるか説明することは簡単ではないけれども、時間の多くを費やしているのが大学での仕事であるから、そのことを紹介すれば、大方の目的は達成されることになろう。
教師になろうとする学生に教育行政学の授業をすることが与えられた仕事である。しかし、研究室に出入りする一部の学生はともかく、とかく退屈になりがちな講義に閉口する大部分の学生は、きっと教師としてもっと精進すべきだと冷ややかな眼差しで見ているにちがいない。けれども、そのことは余り気にならない。
授業をするだけでなく、研究で成果をあげなくては業界を生き抜くことができない。フンボルト以来、大学では研究と教育が一体的に行われるべきだと考えられてきたけれども、実際にはそうなっていない。ふつうは研究の水準が向上して、学生への教育の水準との間に落差が生じることから両者の乖離がはじまるのだが、このことは自分にあてはまらない。そもそも学生が小学校や中学校のような初等中等教育に携わろうとしているのに、教官の関心が高等教育に偏っているのだから、研究と教育を使い分けなければ円満な関係は成り立たない。
教育内容にあわせて研究課題を設定すれば、そのような問題は生じないはずである。しかし、同じ分野を研究する人が少ないのだから、今やっていることを止めるわけにはいかない。それでは、今やっていることとは何かというと、ドイツにおける大学と国家の関係、とくに大学の法的地位に関する諸問題の解明である。日本では、独立行政法人が話題になってから、主要国の大学はいずれも法人格をもっているという迷信が定着したけれども、実際にはそうなっていない。ドイツでUniversitatと呼称される大学の多くは州立大学である。州立大学は教学面において法人であるが、経営面においては州の直轄機関である。そもそも独立行政法人は経営面を問題とするのだから、むしろ法人格をもたないとみる方が妥当なのである。今、州立大学の設置者として財団を設けることにより大学と国家の間接的な関係を構築することについて議論がはじまっているけれども、大学が法人としての実態をもたないからこそ、そのような構想が成り立つのである。
そんなこともあって、この『大輪言』が発行されるころにはベルリンかハノーファーにいるはずである。ドイツ語にDezemberfieberという言葉がある。会計年度末に多くの支出が行われることを意味する。そうならないように策を講じるための努力が、すでに試みられてきたけれども、そもそも法人になってしまえば単年度主義に拘束されない。
ところで、3月に外国への出張があるのはMarzfieberだからではない。1年以上前の計画を実行するだけである。
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