「道院長はこいつだ」それはあまりにも唐突な話だった。
しかし、コトはさりげなく運んでしまったのである。
「ところで藤野、おまえ、引っ越したそうだが、今どこに住んでいる?」佐名木先生は、町田道院にやって来たとき、助教の藤野祐彰(当時、東京農大3年生、21歳)にこう尋ねた。
「小田急線の南林間です」
何を思ったのか佐名木は、「ちょうどいい、南林間には俺の知っている人がいる。その人に会いに行こう」と、連れられて行った。
その人は、藤野の家の近くに最近開いたとんかつ屋の主人・後藤通夫であった。そして佐々木は、こういってその人に紹介したのである。「今度、こいつ(藤野)が、座間の道院長をやりますから……」
藤野が、ギョッとしたのは当然である。いきなり見ず知らずの他人に引き合わされて、しかも自分を道院長になる男だと言われたのだ。事前に何の話もなかった。しかも、藤野はまだ学生の身であったのだ。「ちょっと待ってください」
当惑する藤野の言葉をさえぎって佐名木は、「いいや、もうわしは決めたんだ」と、きく耳を持たない。そして「おまえならできる」を連発されて、わけもわからず押し切られてしまった。
話によると、その主人は少林寺拳法の熱心な支持者で、佐名木修の高津道院の顧問であった。新しく南林間にとんかつ屋を開いた主人は、佐名木に、この土地にも道院を開けといって、座間市を中心に門弟を集めてしまったのだ。
この日の夕刻、練習場所の小学校体育館内は、7℃の寒さが身をひきしめていた。小学生もみな集中して練習に励んでいる。緊張感が漲っていた。小学生の女子も含めて、みな気を抜く者がいない。
白帯が、ひとりもいない厳しさが、そこにあった。 (文中敬称略)
(本文は、1985年(昭和60年)3月号の「あらはん」に掲載された文章を、座間道院の拳士が記載したものです)
ところが、佐名木の地元、川崎市の高津区とはだいぶ離れたこの土地で道院を開くことは困難であった。しかし、すでに門弟を集めてしまった顧問の努力を無駄にするわけにはいかない。そこで佐名木は、密かに藤野に白羽の矢をたて、強引に、一気にくどいてしまおうとしたのだ。
藤野はこれまで、自分で道院を開くなど夢にも考えたことはなかった。
途方にくれた彼は、町田道院の矢島先生(当時)に相談。
「おまえならできる。やってみろ」といわれ、やっと重い腰を上げざる決意を固めざるをえなかった。これまで学生同士のつき合いしか知らなかった自分が、いきなり大人の世界に、しかも目上の人を指導する立場の道院長として入ってゆかねばならないのだ。
自分のような人間に、そんな重責が果たせるだろうか。辛い不安を、ただ自分は先生から見込まれたのだという“解釈”で慰めながら、フッ切るしかない。
しかし、どう考えても、うまく乗せられてしまったなという印象をぬぐうことはできなかった。
振り返れば、過去にもこんな形でうまく乗せられてしまったことがある。
それは、まだ18歳の、大学1年生の時(三段)であった。「来週の水曜日、鶴川駅に午後5時に行け。人が二人待っている。和光大学へちょっと行ってくれ」
自分が助教をしている町田道院の矢島道院長からこう言われたのだ。
このとき彼は、誰か予定のコーチでも行けなくなったので、その日だけ、自分がピンチヒッターで行かされるんだなという程度に考えて承諾したのだった。
ところが、行ってみると、和光大の二人の学生は、彼らの大学の拳法部の監督になる人物を迎えにきていたのだ。 こうして藤野は、一年生でありながら、24歳までの先輩もいる拳法部の監督として、以後三年間、務めたのであった。
藤野祐彰は、突然道院長という要職を押しつけられて、またあのときの、和光大学監督を引き受けさせられてしまったように、今度もうまく乗せられてしまったものだと思った。
なぜか自分の人生には、いつもこのような形で転機がやってくる。
今度も、逃げずにやってみようと、憂うつな気分を払拭するしかなかった。
藤野は、1955年2月、神奈川県相模原市に生まれた。四人兄弟の末っ子。父は幼いころに他界し、気 丈夫な母の手ひとつで育てられた。
中学時代の三年間は空手を習っている。当時の彼にとっては、ケンカが生きることのすべてであった。売られたケンカはかならず買うことにしていたし、また自分から売ったこともある。
中学3三年の後期から、藤野は町田道院(山崎博通道院長・当時)に入門した。それは、兄たちと母に強くすすめられたからである。藤野の語るところによれば、少林寺拳法を通して、自分の無鉄砲な生活を改めさせたいとの願いからだったようである。
兄たちも剣道など武道を習っていたが、なぜか少林寺拳法を習っている者はいない。ただ、兄の友人に拳士がいたというにすぎない。自分たちは少林寺を直接知らなかったが、弟には少林寺が必要であることを兄たちは確信をもって直感していた。
母もまた兄と同様、空手はやめなさいと強く言う。
当時母は、からだを悪くして整体の先生のところに世話になっていた。その先生が少林寺拳法の心得があった。藤野も、その先生と何度か会って、開祖の話や本部のことをきいていたのだ。
藤野はもともと少林寺拳法については知識もなく、テレビでみたときは、なんだあんな軟弱なものは何も役に立たないと思っていたのだ。
そんな彼が、やっと入門する気になったのは、兄の友人の拳士に、まわし蹴り一発でのされてからのことである。空手で鍛え、無数の実戦で自信をもっていた彼は、その鋭い技とスピードに、すっかり魅入ってしまったのだ。
町田道院では山崎道院長が一年後、開祖に乞われて本部へあがり、矢島先生(現・川越道院・道院長)が道院長を務める。
中学卒業後、農業高校に進学した藤野は、かならずいずれかの動物の世話をしなければならないということで、馬を希望した。当初馬は存在せず、その後も馬が来ることはあるまいと思ったからである。ところが馬もやってきて、結局馬術部まで創設させられるハメになってしまった。
しかし、少林寺拳法の練習は一回も休まなかった。毎日の生活はといえば、朝四時に学校へ行き、馬にえさをやる。午前中は授業には出ないで昼ごろまで眠る。
午後の実習に出て三時には終わり、馬術部の活動。少林寺の練習があるときは五時に自分だけ終わって道院へ行く。また翌日の朝四時には学校へ行く。この生活を高校の三年間つづけたのだ。
少林寺拳法のよさについては、彼は彼なりにケンカの経験に照らして認識していた。顔にまで足があがってくるのは、彼が習った空手にもない。さらに相手につかまれてもいいし、殴りかかられてもよい。極めて実戦に役立つことを彼は肌で感じとれたのだった。
いったい、この人たちは何者なのだろうか。いずれにしても、この紹介者の先生が破門された原因は、人格的な問題に起因することではなくて、純粋に思想的な事柄によるものであると理解できるのだった。
人格的に信頼できないという原因がある場合には,さまざまに禍根を残すものである。こうして藤野は、山﨑先生の法話にも聞き入るようになる。山﨑先生が本山へ入ったあと道院長となった矢島先生も、山﨑先生と同様,本山へ行ったら管長の話を一番前に陣取ってしっかり聞いて来い、と常に言っていた。
開祖は平気で四時間くらいは話をする。かたい話からやわらかい話まで。しかも内容のスケールが大きい。何度も本山へ行って、真剣に聞いているうちに、少しずつ自分の心にしみていった。
ある春、三人で本山へ行くため普通列車に乗り込んだ。カネはなく新幹線には乗れない。約二十時間かけての長い汽車の旅である。列車は満員で立っている人も多く、藤野たちも座れなかった。途中で藤野は気分が悪くなって立っていられなくなってしまった。そのとき藤野の様子を見ていた学生が、「おい、代わってあげるからこっちへ座れよ」と、席をゆずってくれた大学生のグループがあった。バッジをみると東京農大生である。
それは本部に到着してからわかったことだが、彼らは農大の一,二年生で合宿に参加するために同じ列車に乗り合わせた拳士たちだった。
このときから藤野は、大学へ行くなら農大へと思っていたという。その後、思い通り農大へ進んだ藤野は、高校からのつながりで馬術部に入部したが、半年でやめ、拳法部に入った。が、このころの拳法部だけは今と違って肌が合わなかった。毎日殴られて、一ヶ月くらいでやめてしまった。
以後、彼は一貫して町田道院に通いつづけるのである。こうして三年生のとき、1976年、冒頭に紹介したとおり、突然、座間道院の道院長をおおせつかったのだ。
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