情報センター通信
第25号
2004.7発行


「豊かな子ども時代を取り戻せ」

〜三ツ又冒険遊び場たぬき山の取り組み〜(要約)

                            武田 悠

【「現代」という時代】

 この原稿を書く1週間ほど前、長崎県佐世保市のある小学校の校舎内において、小学6年生の女子児童が同級生の女子児童によりカッターナイフで首を切られ、殺害されるという痛ましい事件が起きた。時おりしも昼食を食べようとした矢先だったというから、まさに白昼の出来事であり、教師はともかく、子どもたちに与えた衝撃の大きさは想像するに難くない。現在も連日繰り返されるテレビのニュースやワイドショーに、この話題が出ないことはない。時間が経過するにつれ、次第に加害女児の様子や犯行の動機が明らかになりつつあるが、親友だったという女子児童を殺害するに至った背景など、全容解明にはいまだ程遠い現状となっている。ただ、殺害された女児の父親の憔悴(しょうすい)しきった表情、事件直後に臨んだ記者会見の様子、今は亡き娘について書かれた手記などが、多くの人々の心を打ち、同情の涙を誘っている。

 また、ここ数年、幼児・児童虐待のニュースが急増している。その多くは親によるものであり、家庭という閉ざされた空間の中で深刻な虐待が進行していたというケースがほとんどである。命さえ落とす子どもの存在も、もはや驚くべきことではなくなっている。もちろん、無抵抗な幼児やか弱い児童の命を奪う行為はいうまでもなく卑劣、残虐であり、罪を犯した者は一生涯をかけて、あるいは法の裁きのもとに自らの命を引き換えに、償わなければならない。しかし、子どもを自ら手にかけて殺害するに至った背景の中には、一抹の哀れを感じさせるものがないわけではない。誰からも助けを得られず、孤独な子育てに一人悩み苦しみ、わが子に虐待を重ねつつも、悲鳴にも似た声にならない声をあげて周囲に救いを求め続け、悲しい結末を迎えたというケースもある。

 子どもが子どもの命を学校で奪う時代、本来子どもたちにとって安全であたたかい居場所であるはずの家庭において、親が子どもに虐待を加え、命を奪う時代。そんな時代を私たちは生きている。子ども、親子、家庭という言葉が現在の社会のキーワードの一つになっている。しかし、少なくともメディアにこれらの言葉が取り上げられるとき、その多くは虐待、心の闇、崩壊といった言葉と結ばれて報道されることが多いように思われる。報道価値の高いセンセーショナルな事件や話題を中心に伝えがちなメディアの特徴はあるものの、私たち一般の人間にとっても、冒頭のキーワードは決して手放しで明るいイメージが伴うとはいえないのではないだろうか。どこかがおかしい。でも、どうしたら。そんな漠然とした不安を抱えている人は決して少数ではないはずだ。従来の「教育論議」を超えた、幅広い視野からの問題提起や取り組みが今、必要とされている。本稿では、現在、全国に広がりつつある、「冒険遊び場」という一つのユニークな取り組みをご紹介することで、読者のみなさんがこうした問題を考える上でのヒントになればと考えている。

 

【冒険遊び場という場所】

町田市・成瀬地区の住宅街の一角に竹林の丘がある。目の前にある「三ツ又」バス停にバスが到着するたび、乗客たちは丘の上から聞こえる子どもたちの歓声と白い煙を耳にし、目にする。多くはすでに慣れっこになっているが、中には丘を見上げて何事かといぶかる人もいる。「三ツ又(みつまた)冒険遊び場たぬき山」。それが、この丘の名前だ。規模からいえば、山というのは少し大げさかもしれないが、小さな子どもたちにとってはまさしく「山」であるし、大人の私にとっても、心の中では「山」である。私は、ここで運営団体のスタッフを務めている。「たぬき山」は、今年8月に創立5周年を迎える。たぬき山は、実は私有地だ。市の教育委員も務めたこともある地主さんが、子どもたちのために、と無償で貸してくださっている。そればかりか、たぬき山の中に水道も引いていただき、さらにトイレまでつくっていただいた。これは大変なことだ。たぬき山がまがりなりにも5周年を迎えることができるのも、この地主さんをはじめ、地域のたくさんの方々のあたたかい眼差しと大きなご支援のおかげであることは間違いない。

 バス停を降りて左側に少し歩くと、たぬき山の入口を見つけることができる。開園中であることを示す看板が2〜3本かけられており、手づくりの小さな階段が上に向かって伸びている。階段を上りきると、「門」がある。扉が開いているときは、木枠だけになる簡単なものだ。門をくぐると、すぐ正面に小さな掲示板がある。雨対策のためにビニール袋に入れられた何枚かのチラシが張られている。子どもの遊びに関するさまざまな団体による催しの案内だ。さらにまっすぐ進む。歩きながら右側に目をやると、眼下に先ほどバスを降りたバス停を見ることができる。すぐに左側の視界が広がる。丘の傾斜を利用した6〜7メートルほどのすべり台では、数人の子どもが何かをお尻にひいて繰り返し滑って遊んでいる。太い木の枝からぶら下がるロープでは、ターザンよろしく奇声を上げながら勢いよく、行ったり来たりを楽しんでいる子どもがいる。

奥には、周囲の立ち木を利用してつくられた2階建ての壁のない家のようなものも見える。その手前にある大きな三角形をした遊具は両方の斜面がすべり台になっていて、頂上から垂れ下がる少し短めのロープにしがみつき、何度も助走をつけては何とか上に上ろうと奮闘する小さな子どもたちの姿がある。すぐ傍らにあるテーブルとイスが置かれたところでは、時おり子どもたちのほうに目をやりながら、お母さんたちが楽しそうに何かおしゃべりをしている。

さらに先に進むと、今度はちょっとした広場が広がる。広場の入口の左右には水道の蛇口がある。一方は、流し台に取り付けられて、食器などの洗い物ができるようになっている。流し台の横には工事中のかまど、その先には立派な「ステージ」がある。ステージの正面に立つと、バックパネルいっぱいに描かれた見事な「赤富士」の絵が広がる。今年(2004年)2月におこなわれた祭りのために描かれたものだ。右に目を移すと、広場の上の竹林に通じる細い階段、その横にはのこぎり、くぎ、バールなどの工具類が収められたスペース、通称「工具箱」がある。そして、その隣にはたぬき山名物の一つ、「竹のすべり台」がその堂々とした雄姿をみせている。

もう一度、広場の入口に目を転じてみる。流し台とは逆のほう、つまりバス通りに面したほうには、食器や調理道具が収納された、通称「なべ小屋」がある。中をのぞいてみると、いく種類もの皿や鍋、まな板や包丁、スプーン・フォークやはし、やかんなどが所狭しとぎっしりと整理されている。「工具箱」や「なべ小屋」には鍵が取り付けられており、閉園時にはしっかりと施錠される。なべ小屋の隣には、長机がいくつも縦にならび、左右にいすがおかれている。屋根が取り付けられており、さながら長屋のようだ。まつりのときは、実際にここが模擬店ブースとして使われることが多い。「長屋」の端のほうには、小さな子どもをつれたお母さんスタッフたちがコーヒーを飲みながら、なにやら話をしている。こちらが挨拶をすると、一時、話を中断して挨拶を返してくれた。長屋のイスに腰をかける間もなく、顔見知りの子どもたちが手をひっぱり、遊ぼうと声をかけてくる。いきなり、ペットボトルのふたに穴を開けただけの「水鉄砲」で攻撃してくる常連の子どももいる。しょうがないなあ、とつぶやきながらも、いつしか彼らと一緒になって笑いながら遊んでいる私がいるのだ。

「たぬき山」にはこれ以外にいくつもの施設・遊具があるが、すべてをご紹介することはできないので割愛したい。ここにあるほとんどすべての施設・遊具はスタッフの手づくりだ。ここでの合言葉は、「自分の責任で自由に遊ぶ」。よほどの危険がない限り、子どもたちは他者との調和の中で、自由に遊ぶことができる。ここでの「自由」は、決してイコール「自分勝手」ではない。体が大きい、力が強いことだけが、ここでは尊敬されるわけではない。何でもいい、何かに秀でた子どもが注目と尊敬を集めるのだ。小屋の上にあがって電子ゲームをやったり、竹やぶの中や木の上に秘密基地をつくったり、弓矢づくり、泥合戦、落とし穴づくり、竹や木切れで剣をつくって戦争ごっこもやるし、五寸クギを使ったクギさしやベーゴマなど昔の遊びも、ここではよく見られる風景だ。ヤケドや切り傷など小さなケガも絶えない。子どもどうしのいがみあいもある。大人はすぐに介入せずに見守る。ほとんどの場合、子どもたちは自分たちどうしで話をつける。ここには、幼児から中・高校生までが遊びにくる。中・高校生は数年前から通っている「常連」が多い。学年が違う子どもたちが一緒に遊ぶことは、ここでは日常の風景となっている。時には、幼児が混ざって遊ぶこともある。注意して様子を眺めていると、大きな子どもが幼児を相手にするときには上手に手加減しているし、兄弟姉妹のように優しく接している様子に出くわすこともある。そんな時は、こちらも思わず微笑んでしまうが、あえて声はかけずに静かにその場を離れることにしている。

 

【冒険遊び場の歴史】

 少し、前置きが長くなってしまったが、冒険遊び場の様子を少しはご理解いただけたものと思う。冒険遊び場を支える大人は、大きく「プレーリーダー」と「スタッフ」に分類される。「プレーリーダー」(単にリーダーと呼ぶこともある)は、子どもたちの遊びに関して必要とされる総合的な知識・経験を持つ専門スタッフだ。基本的な子どもとの関わり方はもちろん、応急救護の知識、地域との関係づくりといったことまで担当する。ヨーロッパでは職業として社会的に認知され、相応の給与水準が保証されているところもあるが、日本では、国家資格などのようなものはなく、現場(つまり、冒険遊び場)で一定の経験を積んだ者がプレーリーダーとして雇用されることが多い。ほとんどのところでは、運営資金の乏しさからやむを得ず、有償ボランティアとしての待遇にとどまっているのが現状である。一方、「スタッフ」は、冒険遊び場を運営する団体の構成メンバーである。世話人と呼ぶところも多い。スタッフは主に、運営資金の調達(補助金・助成金の申請、地域のまつりへの出店など)、開園日の運営全般(来園者の受付、遊具の点検・補強、かまどの火の管理など)、プレーリーダーの人事(雇用や報酬の支払いなど)などを担当する。とはいえ、必ずしも役割が明確に区分けされているわけではない。互いに重なり合う領域も存在する。たとえば、私のようにスタッフでありながらも、子どもと遊びを通して継続した関わりを持つ者もいるし、プレーリーダーもトイレの清掃や消火用水の点検など、「場の管理」の一部を担っている。

自分の責任で自由に遊ぶという冒険遊び場(プレーパークと呼ぶこともある)は、1943年、デンマークの首都コペンハーゲン郊外のエンドラップという町から始まった。一人の造園家が、大人が用意した完成された遊具が置かれた児童公園よりも、廃材置き場のような雑然とした場所のほうが子どもが生き生きと遊んでいることに気づき、そのような場所を新しい住宅の造成計画に盛り込んだのである。やがて、この取り組みはイギリスをはじめ、ヨーロッパ各国に草の根運動として広がりを見せることになる。公的機関の支援を受けて、運動を拡充させるところも次第に増えていった。しかし、すべてが順調にすすんだわけではなかった。地域によっては、冒険遊び場の「汚さ」が問題とされることもあった。半世紀以上を経た今でも、このことは冒険遊び場に関わる者にとって「地域との共生」を考える上で、依然として大きな課題となっている。

 日本では、1970年代に都市計画家の大村夫妻が初めて冒険遊び場を紹介し、1975年には東京・世田谷に「子ども天国」と呼ばれる遊び場が誕生した。常設の冒険遊び場としては、国際児童年である1979年に、地域の人々の大きな支援を受けて世田谷区が「羽根木プレーパーク」を開園したのが最初である。以後20数年あまりに、日本全国に冒険遊び場づくりが広がっていく。世田谷のように、行政がしっかりと絡んで安定した運営体制を構築しているところはごく少数であり、多くは地域の人々やプレーリーダーの熱意に支えられており、不安定な財政基盤の中で手探りで、しかし楽しんで冒険遊び場を展開している。

 

【子ども時代の輝き】

 前述したように、たぬき山の入口の門は、扉が開いているときは木枠だけになる簡単なものだ。「ドラえもん」というアニメーションをご存知の方ならお分かりになるかもしれないが、私はあのアニメーションに出てくる主人公のドラえもんの道具の一つ、「どこでもドア」みたいだなあ、とよく感じている。「どこでもドア」というのは、自分が行きたいと思う場所を心に思うだけで、ドアをくぐるとその場所にいくことができるという未来の道具だ。つまり、日本の我が家の自分の部屋にいながら、たとえばアフリカの大草原に行きたいと心に思いながらドアをあけると、目の前にはゾウやキリンが闊歩(かっぽ)する本物の雄大なアフリカの草原が広がっているというわけだ。ドアから一歩踏み出せば、そこはもうアフリカの大地である。戻りたいときは、その逆の手順を踏めばよい。

 「似ている」と私が思うのは、その形だけではない。たぬき山の楽しさを知っている子どもたちにとって、この門をくぐるときの心境はもしかしたら、家庭や学校とは違う「異界」へと足を踏み入れるようなドキドキ感を伴っているのかも知れない。たぬき山に数回、通ったことがある人ならば、その変化の多様さに気がつくはずだ。たぬき山は、毎週水・土曜日、第3日曜日とその翌日の月曜日を定期開園日としている。開園時間は夏季は午前10時から午後6時まで、冬季は同じく10時から午後5時までとなっている。曜日や時間帯によって、遊びにくる子どもたちの顔ぶれや遊びの中身も異なり、場の雰囲気を大きく変える。天候も大きな要素だ。雨でもたぬき山は開園しているが、雨の中をあそびにくる子どもたち(もちろん、ごく少数ではあるが)との一体感、かまどの煙と混ざり合ったあの雨の日特有のにおいなどは、晴れた日には決して体験できないものだ。雨上がりの竹林のあの息を呑むような美しさ、木漏れ日の神々しさは例えようもない。もちろん、季節によっても、たぬき山はその表情を大きく変える。

 たぬき山の楽しさとは何だろうか。もちろん、一人ひとりその答えは違うのだろうが、あえて表現するならば、自分らしさを発見し、それを大事にし、楽しむことができるから、ということになるだろうか。私たちは誰でも、子ども時代の思い出を心の中の原風景として意識的、無意識的に抱えている。なつかしい友だち、先生、遊び、できごと、風景・・。なかには、つらい、せつない想い出もあるかもしれない。子ども時代は長い人生の中で、ほんの一瞬、まばたきをするような速さで光のように駆け抜けていく。しかし、そんな短い季節に過ごした思い出が、私たちの人生全体に及ぼす影響は限りなく大きい。子どもが本当に子どもらしく過ごせる時代。当たり前のようだが、現代社会は次第にそれを許さなくなってきている。

 

【冒険遊び場がむすぶもの】

 「たぬき山」では毎年度ごとに活動報告書をまとめている。平成15年度の活動報告書の冒頭に、次のような代表のあいさつが掲載されているので一部をご紹介したい。

 (前略)この遊び場が子どもから大人までどれだけ多くの人に支えられ、守られ、必要とされて存続し、どれだけ多くのことを、そこに関わる人々に与えてきたかを思うと、ただ「感謝!」の一言です。特に、騒音や煙などのご迷惑、火の使用へのご不安を抱えながら、子どもたちの「今」のかけがえのない一瞬のために、この遊び場にご理解をいただいている地域の皆様には、本当に頭の下がる思いです。(中略)

 ひとたび遊び場の中に目を移せば、そこには基地づくりや群れ遊び、様々な物づくりへの挑戦等、子どもたちのエネルギーに満ちた生き生きとした顔があふれています。また、何かを抱えた子どもたちが、自分の居場所を見つけ安らぐ姿があります。

 この遊び場の中で知り合った赤ちゃんから大人までが共有する時間と楽しさが、地域の中の人のつながりを育てていることも感じられます。(以下、略)

 冒険遊び場に関わっていると、気がつくことがある。それは、遊び場を支える人々に大きく2つのグループがあることだ。一つは、現在、子育て中のお母さんたちの存在である。乳幼児から小学生くらいまでの子どもを持つお母さんたちにとって、遊び場は「共同の子育ての場所」となっている。同世代の子を持つお母さん同士の交流は、孤独な子育ての不安からの救いになっているように思う。また、家庭ではみられない、遊び場でのわが子の生き生きとした様子や成長に触れることは、子育ての大きな励みになっているのかもしれない。

 もう一つは、20代の若者たちが多いことである。彼らの多くはプレーリーダーとして、あるいは冒険遊び場で遊んだかつての子どもたちがOBOGとして、それぞれの場所で活躍している。彼らの世代ならば、もっと楽しいことは山ほどあふれているはずなのに、それでも彼らは貴重な時間を、子どもたちと泥だらけになって遊びながら過ごすことを選ぶ。彼らになぜ、と問いかけると、それが楽しいから、という答えが返ってくる。彼ら自身が子どもであった時代、すでに街の中から子どもの姿を締め出すような風潮がみられていた。公園での木登り、ボール遊び、火の使用の禁止。道路では車が危ないから遊ぶなといわれ、放課後の学校の校庭は団体向けに貸し出され、わずかに残った空き地には有刺鉄線がめぐらされ、「入るな」の文字。彼らは、子どもが子どもらしい時間を過ごすことのかけがえのない大切さ、いとおしさを本能的に感じているのかもしれない。

 冒険遊び場は一つの実験である。財政基盤の脆弱さ、スタッフの不足、子どもとの関わりの難しさ、地域との関係づくり、恒常的な活動場所の確保など、遊び場を取り巻く課題は多い。多くの遊び場がこうした困難な状況の中で、足踏みをしたり、余儀なく活動を断念している。たぬき山は、数少ない恵まれた例だ。それでも、新しく冒険遊び場を立ち上げようとする動きは絶えない。冒険遊び場が子どもたちをめぐる、今日の深刻な課題に対して特効薬になるのだと声高に主張するつもりはない。しかし、今の大人もかつては子どもであったことは思い出してもいいと思う。自分たちが子どもの頃、何に驚き、何におびえ、何に心を揺り動かされたか。何が好きで、何が嫌いだったか。私にとって、冒険遊び場こそが自分の原点をさぐる旅の出発点だ。私自身もかつて自分が得られなかったものを、ここで見つけようとしているのか知れない。ほとんどいつも、週末の午後には私はたぬき山へ向かう。見慣れた入口を抜け、小さな階段を上る。「広場」へ向かう途中で、顔見知りの子どもたちが声をかけてくる。私も応える。近くに走りよってきて、手をひっぱる子がいる。広場が近くなると、仲間の姿が見えてくる。手を振る人がいる。

私の大事な時間は、そうやって始まるのだ。

三つ又冒険遊び場「たぬき山」のホームページ

http://www.ne.jp/asahi/tanuki-yama/story/