展 示 会 が 終 っ て

 

野沢陽子(浪江虔・長女)

 

 昨年秋、町田市立自由民権資料館で開かれた企画展「浪江虔・八重子と私立南多摩農村図書館」は担当の方々の努力とご苦労もあって、膨大な資料の中から的確なものを選び、時代を追ってコンパクトに上手くまとめられていたと思う。私は初め、何をどのようなかたちで展示しどのような内容にするのかイメージできなかったが、10月に入って立派なチラシが出来、ポスターが貼られ、企画書などに目を通すうち、まだどこかに展示に必要な何か大切なものが残されていないだろうかと心配になってきた。前々から「私立南多摩農村図書館」の古い看板と母のお産婆さんのかばんが見つからないだろうか・・・と問われてもいた。

 

■見つからなかった看板

 助産婦の母が使っていた四角い黒いかばんは、小さいころから見慣れていた懐かしいものだったが、私が両親との同居を決め、古い住まいを壊した際に、ずいぶん躊躇はしたのだが、処分してしまっていた。母が仕事をやめてもう何年にもなるし、父母も、新しい家には持ち込まない不要なものとして区分けしていたので、かばんの中のはさみやピンセットなど道具類だけとっておいたのだった。

 父の父、板谷浩造の書になる図書館の古い看板が出てこないのは不思議であった。印刷物は何から何まで、送られてくるミニコミ誌や新聞、雑誌はもちろん、機関紙、広報紙から出版社の目録まですべて保存し図書館の利用に供していた父だから、看板も捨てるはずがない、とずっと探していた。また、書棚の補強や本を見やすくする工夫、本の仕切りに使うため佃煮の入っていた木箱や板切れ、こっぱの類いまで山ほどとってあったので、もしやどこかの棚板に使われているのではないかと期待を込めて展示会が始まってからもなお探したのだが、とうとう見つけることが出来なかった。

 けれども、何人もの方が面白いと言ってくださった母の産婆学校の修了証書や免状、板に貼り付けたあと剥がし切れずに残された父手書きのアピール文などは、開催前ぎりぎりになって見つかったものだった。

 

■図書館の四畳間

 展示された古い写真を見たり、古いはなしを聞いたり、建物見学会に向けて数日間、図書館の中を掃除したときには、いろいろなことを思い出した。増築する前は図書館の玄関を入った右側の部屋は四畳和室だったが、ここには終戦間近父の両親が疎開していたし、そのあと戦後のほんの一時期、広島から上京してきた作家の山代巴さんが暮らしていたこともあった。また、東京の高校に通うため従兄弟が数年に渡って住んでいた。

見知らぬ人を泊めたこともあった。それは終戦前後、和室が空いていたときと思うが、たまたま鶴川駅で終電に乗り遅れ途方にくれていた女の人を見かけて同情し父が連れてきたのだが、翌朝になるともぬけの殻だった。その上、置時計や布団までも無くなっていた。貴重な本も何冊か持っていかれたらしい。これには後日談があって、ちょうど通りかかった村の人が「浪江さんの客人」と思い、親切にその大きな荷物を駅まで持っていってやったということが分かった。このはなしは、母と祖母が繰り返し茶飲み話にしていたのでよく憶えている。困っている人を助けずにいられないのも疑うことを知らないのも父の一面であった。                       


浪江虔(なみえ けん)  

1910       札幌に生まれ、東京で育つ。旧姓板谷

1930〜 農民運動等に参加、33年第1回の検挙、獄中で農村定住を決意、35年執行猶予

1938       浪江八重子と結婚、翌年鶴川村に移住(八重子は194377助産婦として開業)

1939       私立南多摩農村図書館を開く

1940       2度目の検挙で実刑、441月末まで

1944       図書館再開館、異色の運営を展開

1947       鶴川村議となり、自治体問題で開眼

1948〜(社)農山漁村文化協会で農民のための農業書の著作・編集に当たる。並行して

    公立図書館の根本的変革を志す

1963〜 図書館革命推進者の一人として多面的な活動を展開

1968       環境変化のため私立鶴川図書館と改称

1989       50年を機として閉館

1993       妻八重子病没   

1999 128日、鶴川村に移住して満60年に死去

「図書館そして民主主義」(まちだ自治研究センター編 ドメス出版)より

 

 

情報センター通信 第24号 2004.3.22発行